Rei's - faction:046
「さすがだね、父さん……」
「うむ」
 ゲンドウは神妙な面持ちで返した、シンジも滲み出る汗を感じながら硬直していた。
 その汗がどの様な物かとは聞かない方が華だろう、ただ、二人とも恐怖心を微妙に刺激されていた。
「それからだ、本当の受難が始まったのは」
「本当の?」
「うむ」
 ゲンドウは目を閉じて、なるべく克明に当時のことを振り返った。
「……キョウコ君は実に積極的な女性であった、付き合う男性の顔ぶれも良く変わっていた」
「へぇ……」
 あのおばさんが……、と、シンジはぼやけた顔を思い起こそうとした。
「しかし節操が無いわけでは無かったぞ、逆に身持ちが硬過ぎたのだな……、キスすらさせないとあっては男の側にも不満が募るだろう、そのため、よく破局を迎えていた」
「でも……、そんなにモテたの?」
「ああ、モテたな……、玉砕する人間が幾ら出ようとも、持ち前の警戒心の無さが良かったのか悪かったのか、ちょうどレイ達がお前にそうするように、彼女は誰にでも抱きついたりした」
「それは……」
「もちろん、彼女にとってはただのスキンシップだったのだが、男にとってはそうはいかない、彼女は告白され、それが真剣であるからこそ受け入れた、しかし男はそのような部分に惹かれていた、そのズレが、彼女の純真な部分と男の欲望と言う形で現われ、何度も彼女を傷つけた」
 ゲンドウの顔から表情が消えた。
 何か重苦しい物でも思い出したのかもしれない。
「そう、彼女は傷ついた、何度もな」
 シンジへと再び目が戻される、その時には表情も返って来ていた。
「体が目当てなら、そう言う店に行けと、良く愚痴られたものだよ……」
 ゲンドウは懐かしげに目を細めた。
「わたしはその度に相談を受けてな……、実際には愚痴の聞き役だったのだが、わたし自身は恋愛などに縁が無く、ユイとも腕を組む程度の関係……、これもユイからのもので自分からは何も出来ない男だったからな、結局、いつものように黙っていただけだった」
「……それは、わかるよ」
「だがそうやって黙って聞いてくれる存在というのは希少らしい」
 ゲンドウは苦笑気味に体を揺らした。
「甘えて来る彼女に対して、わたしは何度も性欲を抑えた、それを見抜いたユイに殺されかけた事も二度や三度では済まなかった」
「……その頃からもう、尻に敷かれてたんだね」
「いや、そんな甘い物ではない、生か死かだ、キョウコ君が『良く相談に乗ってもらっている、本当は優しい良い人』などと吹聴して回ったがために、わたしは奇妙にモテるようになってしまった」
「相談に乗ってくれって?」
「うむ」
 何とも言えない表情である。
「他人の話など聞いていて楽しい物では無かったが……、それにユイとは何の進展もないと知ると、誘いをかけられる事もあった」
「でも……」
「そうだ」
 二人は真剣な目を交わした。
 それに乗った途端、未来に何が待っているかは言わずもがなだ。
「正直わたしは焦りを感じるようになっていた、このままでは自分が抑えられなくなる、いや、元々だんまりを決め込む以外にやり方を知らない男だったからな、ノーと言えずに抜き差しならない関係にはまり込んでしまう可能性もあった」
「そうだね……、だから母さんとも付き合う事になったんでしょ?」
「初めはな……、だが彼女の真摯さに触れて、わたしも真面目な交際を考えていた、それだけに、その状況からは逃げ出したかったのだ」
「逃げ?」
「そうだ」
 首を傾げたシンジに、ゲンドウは強く言い聞かせた。
「わたしは逃げたのだ、話を聞いただけだというのに、相談に乗る振りをして他人の彼女を寝取ったなどと言う陰口まで叩かれた、大学内の噂だ、すでに社会人だったわたしはともかく、ユイには酷い事をしてしまった」
「母さんに?」
 急に沈んだ表情になったゲンドウに、シンジは遠慮がちに尋ねた。
「わたしに弄ばれているなどとな……、そのため、研究室では肩身の狭い思いをしたらしい、教授からは説教を食らい、ついには学会から追放された」
「そんな!」
「だからわたしは責任を取った」
 ニヤリと笑った父の顔にシンジはゾッとした。
 そこには初めて見るような、父の暗部があったからだ。
 良く考えれば、現在ユイはちゃんとした研究所に勤めている。
 それもかなりの地位だったはずである、高名で、書籍も何冊か発行していた。
 父の話が本当ならば、失った信用をどうやって手に入れたのだろうか?
 そして父は?、一体なにをしたのだろうか……
「正直、結婚は最大の逃げだった……、そのような状況で別れるのはキョウコ君が許してくれなかっただろうし、ユイも泣きながら何をするか分からなかった、いや、間違いなく殺されていただろうな……、わたしは泰然として構えながらも、内心は酷く脅えていた、責任、その一言を現実にする方法を一つしか知らなかった」
 だから彼は、真っ正直に求婚していた。


「結婚……、ですか?」
「ああ……」
 穏やかな秋の紅葉をハイキングで楽しんでいた。
 山の山頂の東屋で、お弁当を広げていた時の会話であった。
「嫌なのか?」
「いえ……、いえ」
 ユイはおにぎりを手にしたまま俯いた。
 震えているのは、どうしてだろうか?
「でも、急に……」
「急では無かろう?」
 ゲンドウは淡々と話した。
「来年には卒業なのだからな、……研究室に入るというのなら、わたしは」
 その物言いに、ユイはハッとして顔を上げた。
「ゲンドウさん……」
 ゲンドウはいつもの通りであった。
 表情を消し、なにも考えていないかの様に景色を眺めて、おにぎりに口を付けている。
 ゲンドウのことで教授とは口論にまで発展していた。
 とてもとても、研究室に入れるような状況では無くなっていた。
 もちろん、それをこの人が知らないはずが無い、そう考えた時にゲンドウの言葉の裏はすぐに分かった。
 ユイはゆっくりとかぶりを振った。
 あまりにも不器用過ぎる優しさだった。
 だからユイは、泣き笑いの表情で尋ねた。
「嫌だと言ったら?」
「死んでやる」
 ゲンドウは鼻を鳴らして、ふんっと笑った。
 ただ、ユイが研究室に入ると言った時、何をするつもりだったかは答えなかった。



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