「あれぇ?、シンちゃん味噌汁変えたぁ?」
「ええ、コンビニに新しいのがあったんで……、って、いつまで居るつもりなんですか?」
ミサトさんは家にも帰らず、僕の部屋に逃げ込んでくる。
「たはぁ、きっついわねぇ……」
実際には仕事の合間に顔を出しにくるんだけど、家に帰るのが嫌みたいだ。
「アスカ、まだ怒ってるんですか?」
「なぁんか機嫌悪いのよねぇ?」
「また怒らせたんでしょ?」
「シンちゃんもでしょ?」
「「はぁ……」」
ミサトさんの方は加持さんのことだろう。
僕の方は、やっぱりあれか……
(あんたなんかに!)
心当たりと言えば、あれだ……
アスカが記憶を無くした時の、でも、あれは別にアスカが好きだって告白したわけじゃないのに……
それより、なんでそんな事で怒るんだろう?
好きだって言ったのにそっけなくしたから?
アスカは僕を好きになってくれてたの?
「でぇ、ほんとのところはどうなの?」
「え?」
「あの子言ってたのよねぇ、なにもしてくれない、側に居てくれない、抱きしめてもくれない、キスもしてくれないって」
「き、キス、ですか?」
「そ」
意味ありげな視線、それもニヤ付いてるよ……
「あたしに言ってるつもりが本音が混ざったみたいなのよねぇ……」
「それって……」
「あたしじゃない、誰かに言いたかったんじゃない?」
「……加持さん、とか?」
(どうせあたしは不潔な大人の付き合いなんてしたこと無いわよ、なにさ保護者ぶったりしてさ、偽善的ぃ!)
「シンジ君にじゃないのぉ?、二人っきりで何してたんだか」
「それはミサトさんのことでしょ?」
「う……」
「加持さんとよりが戻ったからって、幸せを押し付けないで下さいよ……」
「シンちゃんもアスカと同じことを言うのねぇ……」
「そうですか?」
「加持なんかとは何でも無いわよ……、って答えたら電話かかって来てさぁ、間が悪いったらありゃしない、あのバァカ……」
アスカは加持さんのことが好き。
じゃあ僕は?
僕のことは、一体どう思っているんだろう……
どうしても好かれてる何てことだけは、考える事ができなかった。
第拾六話「死に至る病、そして」
『B型ハーモニクステスト、問題無し』
トウジとは最悪、ケンスケは気をつかってくれてるけど、洞木さんもアスカの味方みたいで、僕を責めるんだ。
だからもう、学校には行ってない。
綾波は父さんの側にべったりだ。
だから三人で顔を合わせるのは、こんなテストの時くらいになった。
『深度調整数値を、全てクリア』
『聞こえる?、シンジ君』
「はい」
『数値がばらついてるわよぉ、なにかあった?』
「すみません……」
すぐ近くに二人が居るかと思うと……
謝りたい、謝ってすっきりしたい、でもそれじゃ何も変わらないから。
前の僕と同じだから……
本気で謝ってるって、思ってもらえないだけだから。
……僕は、どうすればいいんだろう?
考えることは難しい。
でも教えてくれる様な人も居ない。
僕って……、ホントに誰も居なかったんだな。
ようやくそれが実感できた。
「参っちゃうわよねぇ?、調子悪くてもこの成績!、凄い、素晴らしい、強い、強過ぎる!、あ〜無敵のシンジさまぁ☆」
……嫌がらせ、か。
「これだからあたし達も、楽できるってもんじゃないの、ねぇ?」
ネルフの通路にはアスカの声だけが反響しているけど、僕の他にも綾波が一緒に歩いている。
「まあねぇ?、あたし達もぉ、せいぜい置いてけぼり食わないように頑張らなきゃあ」
「じゃ、僕……、こっちだから」
「さよなら」
綾波の冷たい声を背に受けて、僕はネルフの宿泊施設に向かう。
ガン!
アスカの壁を蹴る音が響いて来た。
僕には、首をすくめる事しかできなかった。
警報。
『西区の住民避難、あと五分かかります』
『目標は、微速進行中、毎時二.五キロ』
『みんな聞こえる?』
使徒は突然現れた。
街の真上、足元を人が逃げ惑っている、車も暴走していく。
『目標のデータは送った通り、今はそれだけしか分からないわ』
「……遠距離からの様子見をさせて下さい」
『危険だわ、まだ市民の避難が完了していないのよ』
「なら刺激するべきじゃないですね……」
『なぁに臆病になってるのよ!』
なりもするさ。
この使徒の本当の恐さを知っているから……
『先行する一機が、相手の反応を窺い、可能であれば市街地への誘導も行う、よろし?』
『はぁい先生!、先鋒はシンジ君がいいと思いまぁっす!』
元からそのつもりだけど……
『わたしが……』
「零号機の重武装じゃ『逃げ切れない』よ……」
綾波はいい、僕の含んだ言い方を察してくれるし、疑わずに従ってくれるから。
『さっすが成績優秀、勇猛果敢!、シンクロ率ナンバーワンだけのことはあるわねぇ?』
問題はアスカだ。
「なんだよそれ……」
『シンちゃん自信ないのかなぁ?、男の癖にびびっちゃってんのぉ?』
だめだな、もう……
そうだ、前もそうだった、この頃からだ。
僕達の間がぎくしゃくして、もうどうしようもなくなって行ったのは。
……もしかして、上辺が変わってるだけで、中身は何も変わらないのか?
歴史なんてもうどしようもないのかなぁ?
そう思うと、これまでの楽しかった事が全部、嘘になったみたいで苦しかった。
『アスカ、弐号機、バックアップ!』
『……零号機も、バックアップに回ります』
『お手並み拝見!』
一瞬ミサトさんの鋭い視線を感じた。
綾波と同じように、僕の言葉に何かを感じたんだと思う。
……大人って、不便だよな。
人を疑うしか無いから、聞けばいいだけなのに聞こうともしない。
勝手に考えて複雑に悩むんだから……
ここで死ぬのも、まあいいのかもしれない。
それも未来は変えられるんだって証拠には違いないんだから、でも、僕にはまだ死ぬつもりは薄かった。
初号機を使徒に近付ける。
あの時はいきなり足元から来たんだ。
つい慎重に歩を進めてしまう。
『シンジ、早く行きなさいよ』
通信を聞かれているわけでも無いのに、声も小さくなりがちだ。
「わかってる、黙って」
余計な遠回りをした分、ケーブルが引っ掛かった。
僕は適当なビルからケーブルを……
『足止め、かけるわよ!』
「待って!」
だけど僕の声は間に合わなかった。
弐号機のライフルからきっかり三発、バーストモードで撃ち出された。
『消えた!』
くっ!
空中の使徒が消えた。
足元か!
でもそれも違った。
『きゃああああああああ!』
『アスカ!』
なんだって!?
エヴァを振り返らせる、弐号機の足が沼にはまり込んだように沈み始めていた。
『嫌あああ!、なによこれぇ!!』
『アスカ逃げて!』
『くっ……』
「綾波は下がって!、巻き込まれちゃうよ!!」
踏み出そうとする零号機を横目に僕は走る。
『碇君!』
『嫌あああ!、シンジぃ!、加持さぁん!』
バカ、何やってるんだよ!
『ミサトぉ、どうなってんのよ、なにが、助けてよぉ!』
あのアスカが泣き叫んでる!
「プラグ射出して下さい!」
『マヤ!』
焦るようなリツコさんの声、一体なにぼうっとしてたんだよ!
『ダメです、反応ありません!』
『ダメ、シンジくん!』
「うわああああああああああ!」
黒円の縁からジャンプし、弐号機の側に降り立つ。
ずぶりとエヴァの重量で足が沈んだ。
『シンジぃ!』
「アスカ、早く出るんだ!」
藁をつかむようにもがいて抱きついて来る。
弐号機は初号機の腿、背中と足場にして、近くのビルにナイフを突き立て、張り付いた。
『シンジ!』
弐号機が手を伸ばして来る、でも……
『シンジっ、嫌ぁあああああ!』
届かない、くっ!
『アスカ、レイ、初号機の救出を急いで、早く!』
「来ないで!」
『碇君っ』
『シンジ!』
この間の山岸さんの時に決めたんだ。
みんな出来る事はやってるんだ、だからもう、僕はそれ以上無理を言わない、頼らないって。
『下がりなさい……』
『ミサトっ!?、嫌よ!』
『聞きなさい、命令よ……』
声が震えてる……
唇を噛んで、だから僕も腹を決めた。
「アスカ、綾波……」
『なによ!』
『……なに?』
二人の声には焦りが伺える。
「ごめん……」
『こんな時に何よ!』
「謝りたかったんだ……、ずっと」
やれるだけのことはやってみたと思う、もう一度戻って来れるかどうかは分からない、けど。
『嫌ああああああああああ!』
アスカは声を張り上げて、綾波は目を剥くのが分かった。
初号機は……、そのまま黒い沼に沈み切ってしまう、でもすっきりできた。
ようやく……、やっと謝る事が出来たから。
眠ってるだけでも疲れるんだよな……
僕の対処は早かった。
やるべき事は分かっていたけど、もう、戻れるなんて希望は抱いていない。
僕は……、やれることはやったと思う。
楽しかったんだ、もう一度、みんなに会えて……
楽しかったんだと思う、アスカも、好きになってくれたみたいだ、こんな僕を。
アスカ……
不安だから、好きになってくれてたって、信じたいのかな?、いいよね?、どうせもう終わるんだから、何もかもが。
ここに来て、やっと自分でもあやふやだった本音が漏れた気がする、そっか。
僕は……、好きになってもらいたかったんだ、誰かに。
「水が濁って来た……、血の匂い、もう、だめなのかな……」
(お願い、誰か助けて……)
もう一人の僕が見える。
(ミサトさん!、アスカ、綾波ぃ!、リツコさん……、父さん)
泣きながらハッチを叩いてる。
助けてくれそうな人が見つからなくて泣いてる……
でも当たり前だよな、だって助けてもらえるだけのものが僕には無かったから。
こだわる理由があるとすれば……
「母さん」
意識が遠くなる、酸欠を起こしたのかも知れなかった。
誰?
碇シンジ。
(それは僕だ)
でもこの子も僕だ……
僕が居る。
ここはどこ?
ねえ、どうして顔を上げないの?
もう一人の僕は答えてくれない。
でもわかる、これは僕だ……
変わろうとして見切りをつけた僕の心だ。
他人を恐がり、傷つくのを恐がってる僕だ。
(君だって同じじゃないか!)
そうだ、そうだよ……
楽しい事を見付けたんだ、楽しいことばっかりやって、何が悪いんだよ!
(自分を騙し続けて?)
悪いのは僕?
(悪いのは父さんだ!)
父さんは信じられないから?
(良くやったって誉めてくれたんだ!)
でも信じられないから。
(嫌な事から目をつむって、何も変わってないじゃないか!)
自己欺瞞でもいいじゃないか。
(そうやって、喜びだけを反芻して生きていくんだ?)
嫌だっ、聞きたくない!
(楽しい事だけ数珠のように連ねて生きていけるはずが無いんだよ……)
だから目をつむるの?
(そうだよ)
だから耳を塞ぐの?。
(そうすればいい)
やっぱり……、僕は僕が嫌いなんだ。
でも……
僕は。
さらに深みにはまっていく。
あの男は自分の妻を殺した疑いがある!
シンジ、逃げてはいかん……
そうやってないと、弱さが出ちゃって倒れそうだっただけのくせに……
ほんとはそれが恐かったくせに。
「う……」
気を失ってたみたいだ。
舌はもう麻痺した、味が分からない。
保温も酸素の循環も切れた。
もうすぐだ……
頭がぼやけてる。
もう疲れたんだ……、何もかも。
(もう、いいのね?)
声がする。
出来る事はしたと思う……
なにが良くて、何が悪かったんだろう?
人を見なかった僕?
アスカの気持ちを読まなかった僕?
ミサトさん達に苛立ちを募らせてた僕。
結局、悪いのは僕か……
(生きて行こうと思えば、何処だって天国になるのよ、だって生きているんですもの、幸せになるチャンスはどこにでもあるわ?)
でも僕はそれを見付けられなかったんだ。
(どこにでもあるわ……)
見付けられなかったんだよ!
探したかったんだ……、僕だって、探したかった。
けど……
恐かったんだと思う、だってそれでも見つからなかったら!
今度は……、ほんとに絶望するしか無いから。
……もう、生きていく事も、僕が僕で居る事も出来そうに無いから。
(……あなたは、何を願うの?)
お母さん……
違う、君は誰?
これは何?
なにをくれるの?
この赤い玉は……
(もういいの?)
幸せがどこにあるのか、まだわからない……
でも嫌な事ばかりじゃなかったんだ。
……自分勝手な思い込みかもしれないけど。
(ただ、ヒトは自分自身の意思で動かなければ、なにも変わらない)
(幸せになるチャンスは、どこにでもあるわ)
アスカ、綾波……、ミサトさん。
(太陽と月と地球がある限り……)
僕は穏やかな温もりに抱きしめられた。
(もう一度会いたい……)
蘇る想い、そうだ、どうして忘れてたんだろ?、こんなに大切な事なのに。
(そう、よかったわね……)
抱きすくめてくれた人は、そう穏やかに微笑んでくれた。
僕は忘れていたなにかを思い出した。
「ねぇ、起きてよぉ……」
誰?
「目を覚ましてよぉ」
誰?、知ってる……
「一人にしないで……」
泣いてるの?
「また前みたいに構ってよぉ」
なに泣いてるのさ?
「ミサトも、加持さんももう相手してくれないの……」
泣かないで、泣かないでよ……
「ねぇってばぁ!」
激しく体が揺さぶられた。
「うっ……」
けほっ……
僕は胸に覆い被さって来た人の重みに息を吐く。
「……アスカ?」
胸を叩いていたのは……
「シンジ!」
ばっと顔が上がる。
その目が潤み、すぐにまたシーツに押し付け、くぐもった嗚咽を漏らし始めた。
(あの子言ってたのよねぇ、側に来てくれない、抱きしめてもくれない、キスもしてくれないって)
アスカは、何も言ってくれないから……
何も言わない、何も話してくれないくせに……
(あんたなんかに好きだなんて言われたからよ!)
分かってくれなんて、そんなの無理だよ……
でも抱きしめて欲しいって言うのは聞いたから。
加持さんの代わりをしよう……
僕はアスカの頭に手を置いた。
ピクッとアスカは震えたけど、起き上がらずに……
僕の撫で梳く手に、ただじっと髪を預けてくれていた。
これでいいんだ……
僕は僕に出来る簡単な事を一つ見付けた。
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