THE BEAST
「使徒再来か、あまりに唐突だな」
 暗闇の中、怪しい老人達の会合が開かれていた。
「十五年前と同じだよ、災いは何の前触れも無く訪れる」
「幸いとも言える、我々の先行投資が無駄にならなかった点においてはな?」
 しかしそんな事は彼らの胸中において、さほど大きな問題ではなかった。
「しかし碇君、あの初号機は何だね?」
 予想外の戦闘能力。
 圧倒的過ぎる機動性能。
「零号機に比べ、明らかな差が有り過ぎるよ」
「聞けばあのおもちゃは君の息子に与えたそうじゃないか」
「君の仕事はその様な事ではあるまい」
「人類補完計画」
「これこそが君の急務だ」
 牽制である。
 憶測も組み込まれている。
 碇シンジ、その名字に深読みせずにはいられないのだろう。
「いずれにせよ、使徒再来における計画スケジュールの遅延は認められん、予算については一考しよう」
 老人達の姿が消えて行く、ただ一人残されたゲンドウは、心を読み取られぬよう手で橋を作り口元を隠していた。
 苦々しいぐらいに、酷く歪めて。



第弐話「見知らぬ天井」



 綾波レイは病室のベッドの上、唯一自由になる左手を使い、器用に本を読んでいた。
 しかしその目が文字を追っていないのは明らかで、どこかぼうっと焦点を合わせずにかすれている。
(あの人…)
 診察室から運ばれる途中で、彼女は碇シンジを見付けていた。
 何を見つめるでも無く、ただそこにある事象を受け入れるだけの濁った瞳でありながら、黒い瞳の奥には吸い込まれそうなものが存在していた。
(あなた…、誰?)
 端的な表現であれば幾らでも思い付くだろう。
 初号機パイロット、サードチルドレン、碇ゲンドウの一人息子。
(あなた、誰?)
 だが何故か全てが当てはまらないのだ。
 どこかに違和感が残ってしまう。
(あの眼…)
 自分から合わせたというのに視線を外すことができなかった。
(何も無い…)
 虚空を感じる。
 暴走事故の時にはゲンドウから優しい視線を投げかけられた。
 あれが同じ遺伝子を持つ者の眼なのだろうか?
(あの時…)
 初号機のケイジにて。
 うっすらと開いた瞼の向こうに、何かを諦めている顔を見つけた。
 それはとても悲壮な物に見えた、大事な何かを無くしてしまっている様な顔だった。
 自分よりも、もっと何も無い、そんな表情に見えてしまった。
(碇シンジ、あの人の子、なのにどうして?)
 自分が信頼するしかない唯一の人、だがその男との繋がりを彼からは何も感じ取れないことがもどかしい。
 それはシンジと言う人間が、碇ゲンドウと言う名前の男を見限っていたためでもある。
 求めようとする心が繋がりを求め、絆を見つける。
 だがシンジは自らそれを断ち切ってしまっている。
 自分よりも酷い境遇の人間はいない、その考えが自分を自虐的にしてくれていた。
 平穏と言う名の暗黒の中に閉じ込めてくれていた、なのに。
(そうなのね…)
 悟ってしまう。
 自分よりも何もない人間、それは自分の姿か、あるいは辿り着くかもしれない形。
 碇シンジ。
 レイはそこに自分の姿を投影してしまう、だからこそ気にせずにはいられない。
 それは知らずして心の鍵を開くためのきっかけになってしまっていた。
 レイはまだ、気が付くには遥かに遠い場所に立っていたが。


 戦闘はほぼ『無事』に終了していた。
 しかし心中穏やかではいられない内容であったのは間違い無い所だ。
 だからミサトは修復される兵装ビルを見上げながら、あの戦いで自分を振り返っていた。
(あの子に戦えるの?)
 それが送り出さなければならないミサトの本音であった。
 シンジの気弱の裏返しにも見える自棄を懸念したのだ。
 乗せてしまったものの、やはり何処か子供に感じていた。
 あれは気丈さではないのだと。
(お父さんに反発したって!)
 あの碇ゲンドウにたてつく少年、だが考えれば子が親に反抗して見せただけである。
 それがどうだと言うのだろうか?、自分が司令の影に脅えただけのことだったのだから。
(子供なんだわ、やっぱり…)
 親だからこそ、立て付けるのだと思う。
 立てつこうとしたのだと思う。
 肉親であるからこそ言いたい事も言えたのだろう。
 その他に理由は思い当たらなかった。
「シンジ君、今は歩くことだけを考えて」
 ミサトは次の指示を出しながらも、いつでも助け船を出せるように策を練っていた。
 しかし直後に、その懸念は裏切られることとなってしまう。
「初号機プログナイフ装備!」
(なんですって!?)
「うそ!、リツコ!」
 愕然とする、少年は『考えて歩く』以外に、機械的な操作も行なったのだ。
「そんな!、まだ装備については…」
 あり得ない、思考を読んで答えるシステムだからこそあり得ない。
「知らないこと」を考えるはずは無いのだ、ならば碇シンジと言う少年は汎用人型決戦兵器、エヴァンゲリオンの基本構造と装備を把握していたと言う事になる。
「ありえないのよ…」
 カッ!
 使徒の光線にモニターは焼きついた。
「エヴァは!」
 ミサトが吠える。
「初号機、ATフィールドを展開!」
「ダメージはありません、行けます!」
 指示を待たずにエヴァは駆け出す、まるで目の前の驚異に対して脅えたように。
「あ、だめ!、シンジ君待ちなさい!」
 ミサトは焦った、敵の能力を探りもしないで、突貫していく。
 迎撃兵器による援護もなしに、…まるで自殺行為だった、その無謀さに目眩いを感じる。
 だがその心配も無用であった。
「使徒に接触!」
「初号機、位相空間を中和しています!」
 えぐり込むように突き出されたナイフは、違うことなく使徒のコアに突き立っている。
「凄い、シンジ君、彼にこんな戦い方が出来るなんて…」
 ミサトは戦慄した。
 誰も動かした事のない、運用についてもシュミレーションの域を出せなかったエヴァンゲリオン。
 ミサトはそれを人のように考えていた、多数の兵器で使徒を足留めし、人が人を殺すように、銃器あるいは凶器によって敵を倒す。
 しかしその中にあれ程早く動けると言う構想があっただろうか?
 人より大きなものは人よりも鈍重であるというのが自然な発想である。
 なにより『人の描いたイメージ』をトレースする機体である。
 なら訓練もしていない人間が格闘家や運動選手のような動きを肉体に命じることができるだろうか?
 シンジは、エヴァは、初号機は。
 その仮想マニュアルの全てからはみ出すスペックを見せ付けてくれたのだ。
(これじゃあ!)
 ミサトはただ状況を追うだけの自分に苛ついた。
 指示が出せない、対人格闘戦の最中に「そこでパンチだ」などと言われて出した拳が間に合うだろうか?
 この高速戦闘時に必要なのは結局パイロットの判断なのだ。
(これがサードの資質ってわけ!?)
 しかし人として何の迷いも無く分けの分からない生き物にナイフを突き立てることができるだろうか?
 あれは生き物ではない、化け物だとしても、それは確かに血を吹いている。
 目の前の人間を殴れと言われて躊躇しない人間は居ないだろう、その痛み、後味の悪さよりも、なによりまず心がためらってしまうだろうから。
 なのにシンジはためらいもしない。
(必死になっているのとも違う)
 それにしては計算された動きをしていた。
 ミサトは使徒が組んだ腕を振り上げるのを見て叫んだ。
「プラグを狙ってる!」
「シンジ君、離れて!」
 言ってみたもののやはり間に合わなかった。
 エヴァの体が衝撃に沈む。
(指示を出そうと思ったら!)
 後方の指揮所から前線に指令を出すとして、「引き金を引け」「ナイフを振るえ」などと動作の一つ一つにまで口を挟むことは不可能だ。
 訓練不足のサードだからこそ、『以前』は口を挟めたのかもしれない。
 しかしここにいるシンジは違うのだ、それを知らないミサトは不幸であった。
(これじゃああたし、なんのためにここに居るのよ!)
 ミサトはきつく歯ぎしりをした。
 送り出したら後は格闘の様子を眺めているしかないのだろうか?
「笑ってる…」
 誰かの呟きが耳に入った。
(シンジ君?)
 パイロットの映像を確かめる。
 彼は薄ら寒い笑みを浮かべていた。
(いけない!)
 心の何処かが欠けていると感じた。
「シンジ君、気をしっかり持って!」
(あの子、死ぬのが恐くないの!?)
 壊れたのかも知れない、恐怖に。
 そうなれば人の行動など知れている、錯乱に基づく暴走だ。
『僕に…、命をかけなきゃいけないほど大事な人が居ると思うの?』
 追い打ちを掛けるように、シンジの残した言葉を思い出してしまう。
「ニードル射出!」
 右肩の武器庫が開かれた。
 その上部から数本の針が打ち出される。
(あたしも知らない武器を使いこなしてる)
 ついに感覚が麻痺してしまった、ただ呆然と事の成り行きを見守るに落ちつく。
 使徒の仮面と肩の辺りを貫く針。
 ミサトは使徒が丸くなり、初号機を包み込もうとするのに気がついた。
「自爆する気!?」
 使徒が丸まろうとした。
 だがそれは遅過ぎる足掻きだった。
 使徒は半端に手足を縮めた所で固まった。
 自爆よりも早くコアはヒビを広げて割れていた、かけらがずれるように落ちていく。
「勝ったの!?」
 わあああ!
 呑気な歓声が上がった。
 しかしミサトとリツコの表情は冴えないままだった。
(あの操り様は何事なの?、誰が何を吹き込んだの?)
 リツコはここへ来るまでの間に唯一接触のあったミサトを見た。
(勝った、勝ったのよね?、でも…)
 ミサトはリツコの視線に気が付くほどの余裕は無かった。
 エヴァンゲリオン、誰も想像しえなかったその機動性。
 それをどうして、初めて乗った少年が引き出せたのか。
(とにかく…)
 勝ったのだ。
 まずは終わった。
 事は後に問いただせばよい。
 ミサトはオペレーターに、エヴァの回収を命じようとした。
 が。
「しょ、初号機パルス逆流!」
 その瞬間、発令所全体が凍り付いた。
「えっ!?、リツコ!」
 一部には零号機暴走の悪夢が蘇る。
「精神汚染が始まっています!」
「回路遮断、塞き止めて!」
「ダメです、コントロールを受け付けません!」
「リツコ!」
「そんな!、あり得ないわ!?、戦闘は終わってる、シンクロ値も下がり始めてたのに」
 精神的な高ぶりから解放されたシンジのシンクロは、それに合わせて解かれていた、なのに。
「シンジ君!」
 赤く染まるエントリープラグの中、漂う様に力の抜けた少年の姿に、ミサトはただ叫ぶ事しか出来なかった。
 考えてみれば、結局終始喚いていただけだった。
 その事がミサトを憂鬱にさせていた。
「シンジ君、気付いたそうよ?」
 ミサトは声をかけられて振り返った。
「容体はどうなの?」
「外傷はなし、少し記憶に混乱が見えるそうだけど」
「まさか、精神汚染じゃ!?」
「その心配はないそうよ?」
「そう…」
 ほっと胸をなで下ろす、その様を見てリツコも微笑んだ。
 ミサトの心配を知っていたからだ、それは戦闘終了後に『精神汚染』の悲鳴が飛び交ったからである。
「無理も無いわ、脳神経にかなりの負担がかかったもの」
「こころ〜、の間違いじゃないの?」
 何気なく漏らした言葉を訂正されて、リツコは眉を微妙に歪めた。
 リツコの目には、あの初号機の動きが焼きついていた。
 同時にシンジが浮かべていた冷酷な笑みについてもだ。
 シンジが重荷に思ったかどうかよりも、むしろ限界を越える思考データのやり取りに脳のブレーカーが作動したように思えていた。
 落ちる事で、シンジの神経を守ったのだ。
 あるいはそれ以上の心の暴走を防いだのではないかと感じられていた。
 精神汚染については、まるでエヴァが彼の残虐な行為を否定しようとしたかの様に見えていた。
 リツコの中でリフレインされる。
『綾波、レイ…』
 初号機ケイジにて聞こえたシンジの呟きである。
(やはり、彼は知っていたんだわ)
 リツコは聞き間違いでは無かったのだと確信を抱くに至った。
「迎撃都市、かぁ…」
「なぁに?」
 リツコはミサトの呟きを拾い上げた。
「ううん、ここが完全に稼動しても、役に立てられるかなぁってね…」
 ミサトの弱気な発言に頷きを返す。
(無理も無いわ…)
 リツコもまたあれ程の運動性能を見せた初号機に対して、都市機能をどう改良すべきかと、莫大な案を元にまとめ上げる事に余念が無くなっていくのであった。



「ここに居たんですか…」
 ネルフ本部、第二実験場。
 全ての火が落とされた場所でもある。
 あちらこちらに破壊の傷痕が残され、割れたガラスの向こうには、壁を殴りつけたままの恰好で零号機が停止していた。
 下半身を硬化ベークライトに固められたままで。
「午後、行かれたのでしょう?、病院に」
 その零号機を思い深げに眺めている男が居た。
 話しかけたのはリツコである、この場所は現在封鎖されていて、基本的に人の出入りは無い。
 リツコは戻るなり、シンジの事を話すべくゲンドウを探し、ここへ来た。
 胸に膨らむ邪な期待、人気が無いと言うi事実がそれを助長する、だが男から返されたのは事務的な声だけであった。
「後二十日もすれば動ける…、それまでは凍結中の零号機の再起動を取り付ける予定だ」
「辛いでしょうね、あの子達…」
 あの子「達」と強調してみせる、嫌味でしかない。
 この男が心配しているのは一人だからだ。
「エヴァを動かせる人間は他に居ない、生きてる限り、そうしてもらう」
「子供達の意思に関係無く、ですか」
「そうだ」
(意思?)
 嘘ね、と心に苛立ちが募っていった。
 嫉妬に満ちた想いがリツコの体にわずかながらの変調をもたらしていく。
 言葉の語尾が上擦ってしまっていた、意思に関係無く無理矢理に乗せていると言うのなら、なぜ見舞いになど行き、労いの言葉をかけるのだろうか?
 それが綾波レイだから。
 答えは至極簡単であった。
(…それよりもシンジ君ね?)
 リツコは思考を切り換えるために、その名前と顔を持ち出した。
 これ以上男の背中を眺め続けたくなくなったのかもしれない、苦痛に変わってしまうから。
 先刻、ミサトからかかってきた電話で、「まだ乗るつもりみたい」と聞かされた。
 ではケイジでの反発はなんだったのだろう?、父親に対してのパフォーマンスか。
 にしても、あのような状況を経験してまで、まだ乗ろうとする、その気持ちが分からない。
 この男が大切にしている物、自分が大切にしている物、ミサトが、多くの人間が…、では。
 彼はなにを大切にしているのだろうか?
 何故だか綾波レイの赤い瞳が過った、その目がシンジの黒い目に重なる。
 その瞬間、リツコは悪寒を覚えた。
(似ている)
 リツコは相談するためにここへ来たにも関らず、その内容をしばし胸の内に止め置こうと逃げだした。
 あるいはそこに、触れてはならないものの影を見いだして。



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