Rei I
 学校に通う…
 これまではただ気怠い時間を過ごすためだけに通学していた。
 しかしこの所、シンジが登校拒否を起こして以来、彼女にとっては実に居づらい場所になってしまっていた。
 それは澄んだ湖に非常に良く似ていた。
 多くの魚が泳いでいるのを横目にただ漂うだけだった。
 だが今では…、湖底の泥が巻き上げられ、視界は閉ざされてしまっているのだ。
 肌に纏わりつく不快感。
 喉を痛める異物の感触。
 空気が、視線が、雰囲気が。
 その全てがレイを激しく苛立たせていた。
 なによりも。
 その様に掻き回すだけ掻き回していった少年が、責任も取らずに逃げ出したままなのも腹立たしいことこの上ない。
 起動試験。
 つい先程顔を会わせた時、気軽に「父さんがうろついてたから、すぐに会えると思うよ?」と微笑み混じりの嫌味を言い放たれた所であった。
(なぜ?)
 そう言うこと言うの?、と尋ねようと思ったのだが、聞く前に逃げ去られてしまっていた。
(わたし、何かした?)
 レイはこれまでのことを思い返して、やはり思い当たらなかった。
 当然だろう、シンジのつっけんどんな態度は『この』レイとはなんら関係がないのだから。
 だがレイはレイなりに深く悩んだそれでも思い当たることと言えば、せいぜいがいつも読んでいる小説程度の内容であった。
(わたしが、碇司令を独り占めしているから?)
 父親を独占する余所の子供。
 だが当てはめて見た後に、そんなくだらない想像はすぐさま追い払ってしまった。
 そんな低俗なしこりにこだわっているとは思えなかったからだ、彼の様子を窺う限りは。
「レイ」
 レイはその声に鼓動の弾みを感じた。
 碇ゲンドウが居た、思わず跳ねるように近寄ってしまう。
(あ…)
 そしてレイは理解した。
(この人の目…)
 レイの全てを知り、許容する肯定が込められている。
(でも…、彼は違う)
 シンジの目はレイの中には入り込まない。
 ただ表層を撫でているだけだった。
 それはレイが他人であるから。
 触れ合う必要が無いからなのか?
(違う…)
 何かが違うのだ、人は皆、例えそれが奇異の視線であっても、彼女は確かに色々な目を向けられていた。
 嫌悪であろうが好奇であろうが、人はどちらかの反応を必ず示す。
 それは相手の存在を認識しているからだ。
 だがシンジのそれはあまりにおかしい。
 何も知らないはずの彼なのにあまりに気安い。
 まるで自分のことを知っているように。
 そしてだからこそなるべく関わらないようにしていると感じてしまった。
(わたしは…、彼にとって)
 いらない人間だからだろうか?、その様な態度をして見せるのは。
 持ちえている価値の全てを計られてしまっている。
 それはエヴァかもしれないし、それ以外のことかもしれない。
 レイは内心でかぶりを振った、どちらでも同じことだったからだ、本質的に。
 何も知らないくせに、それは言い訳にはなる、自分を守る壁になる。
 だがその壁を崩されたとしても、自分は誰かにとって価値のある人間として見ていてもらえるのだろうか?
 自分の話をしたとしても、それは彼にとって価値あるものに成りえるだろうか?
 自分の存在その物も。
(ああ…)
 シンジは、それを知っているのだ。
 もう自分の価値を知っているのだ。
 それが手にするに値しないから。
 だから、自分を見てくれないのだ。
 レイはそう錯覚した。
 そしてそれは彼女の中において真実となる。
 この時初めて綾波レイは、真に「孤独」に苛まれ、寂しいのだという言葉を理解した。



第伍話「レイ、心の向こう」



『…父さんって、綾波に捨てられたら、どうするのかなって』
 葛城邱からの帰り道、リツコは一人歩きながら紫煙を立ち上らせていた。
「ふぅ…」
 肺に煙を溜めこみ、澱んだ物と共に吐き出す。
「あの子…、何が言いたかったのかしら?」
 翳った月を見上げて呟く。
 使徒の迎撃を前提に考えられたこの街の道路はどこも広い。
 リツコは車も通らない寂しい道を、一人ゆっくりと歩いていた。
「勘繰り過ぎかしらね?」
 邪推は幾らでも立てられた。
 妻に似た女、似せられた娘?
 それにこだわる男。
 愛しているのではない。
 重ねているだけだ。
「嫌ね、わたし…」
 それは嫉妬だった。
 男がどう考えているかは分からないのだから。
 日に日に女として育つ少女、それは彼女のチェックを担当している自分が一番良く知っていた。
 性的な魅力も見え隠れし出している、その内あの男は彼女に傾倒するかもしれない。
 若さで、容姿で、性格で、肢体で。
 あの男の好みの全てにおいて、自分は彼女に及ばない。
 また少女は男には逆らわないだろう、その事がリツコに悲しいほどの焦燥感を覚えさせていた。
 だがレイの心は、このところ件の男からやや離れた所でうわついている。
 リツコも、ゲンドウも、あるいはこの世に居る全ての人達が、今だその事実には気が付いていなかった。


 ザァア…
 膨らみに乏しい体を湯が流れ落ちていく。
 シャワーを玉のように弾く体は、あまりにも出来が良過ぎて彼女の目に冷たいものを宿らせていた。
 腕を持ち上げ、じっと眺める。
 きついほどのシャワーの飛沫が勢いよく肌を叩く。
(これが、わたし…)
 良く見れば白い産毛が生えていた。
 しかしそれを知る者が居るのだろうか?
 もちろん知る必要の無い事だ、綾波レイ、ファーストチルドレン、エヴァのパイロット。
 それ以外になんの称号が必要だというのだろうか?
(なのに、なぜ?)
 それ以上を知ろうとしない少年に苛立つのだろう?
 答えは分かり切っていた、知れば価値があると判断してもらえるかもしれないからだ。
 だが反面、恐ろしくもあった。
 それでも無価値と判じられたら、一体どうすればよいのだろうか?
(わたしには、代わりはいる…)
 しかしあの少年は、代わったとして何かを感じてくれるだろうか?
 代わりとの違いは何も無いのに。
『あ、そう言えば見かけないね?』
 居なくなったとしても、その程度で済まされる。
 熱いシャワーを浴びていると言うのに、レイはその幻聴に身震いをした。
 存在の消失を人に言われて初めて気がつく、それどころかそのまま忘れ去っていってしまう。
 彼にとって、自分はその程度の存在なのかもしれない。
(わたしは…)
 なんなのだろうか?、彼にとって何なのだろうか?、『あの人』にとってなんなのだろうか?
 彼があの人に、あの人がより多くの人に置き変わっていく。
 それは今まで考えまいとしていたことだった、生を考えることは恐怖だから。
 だがシンジとゲンドウが重なり合うのだ。
 碇ゲンドウ、彼も同じなのではないかと恐ろしくなる。
 あえて見ていない振りをして来た、気が付いていたのだ、彼の目が自分ではない誰かのことを見ていると。
 ならば自分は、綾波レイと言う器は、心は、魂は。
 あの男にとって、どの程度の価値を持つのだろう?
 レイはしばし思考の海に沈み込み、壁の一点を睨み付けていた。
「碇君…」
 まだ綾波レイを綾波レイとしてしか知らない彼の方がマシなのかもしれない。
「碇君…」
『綾波』
 瞬間、ドキッと鼓動が跳ねた。
「誰?」
 良く聞こえるようにシャワーを止める、聞かなくても分かる事だった。
 まさか返事が返って来るとは、レイは動悸を落ち着けるのに必死になった。
『碇だけど、リツコさんから届け物』
「そう…」
 この瞬間、先程までの思索が蘇った。
 もしここで裸体を晒したとしてどうなるか?
 クラスメート達の無粋な視線の意味は知っている。
 カメラで覗いている少年が居る事も分かっていた。
 ゲンドウに与えられた『誰か』の持ち物であった本にも、それらの事柄は描かれていた。
 だからレイは、そのまま足を外へと向けた。
 バスルームを出て、真っ直ぐに顔を上げる。
 そこにあったのは驚いた顔だった。
 ぽかんと口を開いて戸惑っている顔だった。
「なに?」
 だがそんな彼を見たかったのではないのだ。
 自分を見てもらいたいのだから。
 シンジの目に映り込んでいるのは自分の裸体。
 だがシンジの目はいつもと余り変わってはいなかった。
 体の何処かを見ているわけではない、もっと全体をぼんやりと捉えているように感じられた。
 だからそっけないまま、タオルを手に彼の横をすり抜けようとした。
 やはり自分の体ですらも、この少年には価値が無いのかと悲しくなってしまったから。
 それは失望だった。
 何も感じてはくれない事が余計に寂しく、だからレイは服を身に纏って隠そうとした。
 …その焦りから、レイは敷居の段差に躓いた。
「あっと…」
 傾いた体が支えられた。
 胸を鷲づかみにされてしまう、これまでにない痺れのようなくすぐったさが駆け抜けた。
(なに?)
 とくん、とくんと返って来る響きは自身の鼓動なのだろう、多分。
 それはやけに早かった。
(嫌…)
 まだ先程の鼓動が落ちついていなかった事を、レイは急速に自覚した。
 それをシンジに知られてしまう事に気恥ずかしさが駆け抜ける。
 だが…
 盗み見たシンジの顔は、いつもと余り違わなかった。
 ドグマの底で彼女を見つめるゲンドウのものよりも関心が薄く感じられた。
 …鳥肌が立ち始めた。
「離してくれる」
 触れ合うことに嫌気を感じた。
 早く離れてしまいたかった。
 レイは彼から逃げ出した。
 なによりも、彼を通して感じられる、自分と言う寒々しい存在から遠ざかりたかったのだ。



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