一人きりのロッカールーム。
前回の起動では大怪我を負ったものの、すぐさまゲンドウが助けに来た。
(心配?)
自分の心に問いかけてみる。
だがすぐに愚問だという微笑みが口元に浮かんだ。
(問題、無いわ…)
つい彼の真似をしてしまう。
次がまた同じ結果になったとしても、ゲンドウは助けに来てくれるだろう。
レイはその信頼を拠り所に心を落ち着けた。
だが。
『父さんに聞いてみてよ、息子のこと信じないのかって』
その瞬間、レイには何か別の意識が沸きだした。
(わたしは…、信じて)
もらっている?
信じてはいるが、信じられているのだろうか?
『信じられないの?、お父さんの仕事が』
世界を救うために働き続けている姿を見て来た。
それは信用するに足るものだと思っている。
彼の、いや、彼の求める世界は、命を賭けるに値するものだろう。
確固たる基盤がレイに安定をもたらしてきた。
そのために自分のような子供は必要なのだし、『予備』も用意されたのだと納得している。
でなければ、地下の『代わり』の存在になど、どうして耐えることができるだろうか?
(わたしは信じている…、今はそれで良い)
レイは自分を言い聞かせる事で、なんとか実験を成功へと導いた。
第六話「決戦、第三新東京市」
ネルフ本部、作戦課、第二分析室。
「エリア侵入と同時に加粒子砲で狙い撃ち、近接戦闘は無理ですねぇ」
「ATフィールドはどう?」
「健在です、相転移空間を肉眼で確認できるほど強力なものが展開されています」
その作戦会議には何故だかパイロット両名も参加していた。
碇シンジは先程から何かを見定めるように、一人、また一人と視線を動かしている。
綾波レイはそんなシンジを奇妙に思い、注目していた。
無意識の内に膝の上に置いていた壊れた眼鏡を弄ってしまう。
それはいつも持ち歩いている「御守り」のようなものだった。
落ちつかない雰囲気だった。
それは作戦に不安があるからではない。
碇シンジと二人きりだからでも無い。
満月の明かりの中で、揃って座り込んでいる。
「みんな…、見送ってくれてたね?」
「みんな?」
「学校のみんなだよ…」
ああ、と、レイは理解した。
そこに碇ゲンドウが居なかったからだ。
彼の見送りも無かったからだ、送り出してはくれなかったから。
これまでゲンドウの居ない場所で、エヴァに乗らされたことは無かったからだ。
「そ…」
レイはつれなくしながらも、シンジに投げかけられた言葉を反芻した。
『これで、死ぬかもしれないね?』
そう死ぬかもしれない、しかし命令は下されている。
(彼を守る事が、使命…)
いま自分に出来る仕事としては、確かに精一杯のものであろう。
それはゲンドウから掛けられた期待としても受け取れる。
しかし実際には、それよりもかなり気がかりな事が存在していた。
シンジの態度の変化である。
「綾波…、気にならないの?」
「どうして?」
「だって…、聞いたよ?、次は自分の番かって、言ったって」
そう、急にコミュニケーションを取り出したのだ。
何故だろう?、なぜ今までの様に無視しないのだろう?
その答えが分からず、わけがわからず落ちつかない。
実際にはシンジにその余裕が無くなってしまっていただけなのだが…
「…いつ死ぬか分からない方がいいの?」
「あなたは死なないわ」
今、自分はそのためにこそここに居るのだから。
それを成しえられなかったとすれば、それこそ価値のない役立たずとなってしまう。
(それでは生きている意味が無いわ…)
シンジに視線を戻す。
レイは言葉を無くした。
シンジの目が、レイを否定するように冷たかったからだ。
何もかもを見透かすような目にレイは激しくうろたえた。
「綾波は…、なぜこれに乗るの?」
とっさに言葉が出なかった。
「絆だから…」
「絆?、父さんとの?」
「みんなとの」
「みんなって、誰?」
ミサト、リツコ、ネルフのみんな、クラスメート達。
次々と顔を思い出す。
なのに、どれもがしっくりと当てはまってはくれなかった。
では一体、誰の事を指しているのだろう?
レイが振り返ったのは、やはりシャワーを浴びていた時のことだった。
価値を感じてくれない事への恐怖心が沸き出して来る、自分が思っているほど他人は繋がりを感じてくれているのだろうかと。
結局は誰でも良いのかもしれない。
独りきりから逃れられるのなら。
(孤独の中では、生きては行けないもの…)
そして今はまだ生きなければならない。
だから。
「パイロットの綾波を必要としてるみんなってこと?」
「そうよ…、わたしには、他に何もないもの」
生きる理由としての絆が必要なのだ。
まだ今は、と結論付ける。
しかしそれも、次のシンジの一言で否定された。
「綾波も逃げてるだけか…」
ムッとした、その言い様に。
「綾波も父さんと同じで、閉塞した世界…、だったかな?、それが好きなんだね」
「好き?」
「誰も望んでないのに、みんなそんなの待ってないのに…、それでも綾波はサードインパクトを起こすの?」
サードインパクト?
わたしが?
よくわからなかった。
「碇君…」
「結局…、みんななんていないじゃないか」
「そう…、そうかもしれない」
みんなとは便利な言葉だった。
(碇君には?)
きっとゲンドウもそうであろう、みんなとは友人や仲間と言った、具体的な誰かを差している。
しかし自分にはその「確定的な対象」が存在していないのだ。
その差は大きい。
「人形なんだね?、綾波って」
魂が震える、恐怖した。
「わたしは…、人形じゃない」
「じゃあ父さんとの絆を切れるの?」
何故に断ち切る必要があるのか?
そもそも、出来ようはずが無い。
(わたしは…)
彼の望みのためにこそ、生み落ちた魂なのだから。
だが。
「みんなが望んでない事を父さんはやろうとしてるんでしょ?、ならみんなとの絆を守りたいなら、父さんを捨てるしか無いんだよ?」
「捨てる…」
「綾波にそれができるの?」
やはり反発心は残される。
糸の付いたマリオネットではないのだ。
操られずとも自分で歩ける。
これは自分自身の意思だと言う自負があった。
それにゲンドウの仕事の何がいけないと言うのだろう?
どこかに疑問符が残される。
「時間だよ、行こう…」
重い声にはっとして顔を上げる。
「綾波」
その響きに、レイは吸い込まれるようにシンジを見上げた。
「今度…、一人目の綾波がいつ死んだのか教えてよ」
心が、跳ねた。
(わたしの価値を知っている…)
彼は全てを知っていると、レイは確信を抱くのだった。
戦闘が始まった。
『ヤシマ作戦、スタート!』
『撃鉄、起こせ!』
『全エネルギー、ポジトロンライフルへ』
『目標に高エネルギー反応!』
『支援攻撃開始!』
『ダミーバルーン展開!』
『ってい!』
閃光が走る、しかしそれは流された。
『どうなってるの!』
『目標周辺で強磁界が発生しています!』
『再装填、急いで!』
『誤差修正開始』
『撃たずにエネルギーを溜めて防御に使ったってわけ?、しゃらくさい…』
『目標エネルギー放出!』
レイは盾を引きずりながら前に出た。
しかし心はまだざわめいていた。
『今度…、一人目の綾波がいつ死んだのか教えてよ』
彼は全てを知っているから、それ以上触れ合おうとしてくれなかったのだろうか?
それが嫌悪すべき所業であるから。
(碇君…)
これまでもっとも近しかった男と同じくらいに、彼は自分を知っていたのだ。
その動揺は激しかった。
『レイ!』
「きゃあああああああああああああああ!」
喉が焼ける、それでも声が止められなかった。
飛ぼうとする意識がエヴァの融解と自身の加熱の両方に引き戻される。
「あ…」
それらが不意に途切れた、LCLはプラグの機能によって適温へと冷却されていくがそれでも遅いと感じられた。
気を失いかける、しかし数度の衝撃に揺さぶられて取り戻した。
(なに?)
かすれた意識で考える。
それはエントリープラグが下ろされた衝撃だった。
バクンと扉が外へ向かって弾け開いた。
「綾波!」
朦朧とするような意識の中で、レイはシンジの叫びを聞いた。
「綾波…」
とても優しげな、思いやりのこもった声だった。
「綾波、生きてる?」
同じ声だと気が付くのが遅れた。
それはこれまでのように、刺々しい物では無かったからだ。
「…碇君?」
確かめるように瞼を開く、そこにあった彼の顔に、レイの胸は締め付けられた。
「なに、泣いてるの?」
彼の瞳からは、涙が溢れ出していた。
キュッと胸が痛くなる。
「…綾波が生きててくれて、嬉しいから」
(何故?)
不思議だった、価値が無いから無視して来たのでは無かったのかと。
彼の言うことはちぐはぐに思えた。
それに自分は、人の言うことに従っただけだ。
(感謝されても…)
もし仮にこれが彼でなかったとしても、自分は同じことをしただろう。
「命令、だもの…」
「それでもだよ」
(碇くっ…)
覆い被さるように抱擁を与えられて、レイは激しく戸惑った。
体に腕が回され、少しばかり浮かされる。
あの時とは違う、バスルームの時とは違い、確かな温もりが感じられた。
「いくら命令でもさ…、綾波が三人目になるとしても、僕は綾波の守ろうとしてくれた姿を受け入れられたよ」
レイの頬に少し強めの赤みが差し始める。
(わたしは、守ろうとした?)
この人を、と、レイはシンジを間近に感じた。
「命令が…、綾波の絆だって言うなら、僕は…、僕はその絆を見届けられる」
肯定、なぜだろう?、また分からなくなってしまった。
(寂しい…)
命令で守ろうとしてしまった事が悔やまれた。
守りたいと思って、守れば良かったのかもしれない。
そうすればこの感謝の温もりを、もっと素直に受け入れられたかもしれないのだから。
胸に頬擦りをされて、レイは恥ずかしさよりも、込み上げて来る愛おしさに戸惑いを感じてしまった。
レイの頭には、「何故」ばかりが浮かび上がっていた。
何もかもが不思議で、頭では理解できないのに、彼の全てを自分は受け入れてしまっているのだから。
「僕を怒って、叩いて、絆を抱えて、とまどって、僕を守ろうとして…、僕は綾波の心を見たよ」
(心…)
滴が落ちて、跳ねたのが見えた。
「…これ、涙?、泣いてるの?、わたし」
そうだった。
思い悩んでいたのは、震えていたのは、脅えていたのさえ心であった。
(泣いてるのは、わたし?)
彼を受け入れているのも心だった。
綾波レイの、心だった。
「良かったね?」
はっとする、その微笑みに。
起動実験の事故から助け出されて来た時に見たあの男の安堵の表情。
それはレイを失わずに済んだから。
無事でいてくれた事を喜んでくれたわけではない。
だが彼の微笑みは…
(ああ…)
バスルームで見せた痴態でも、彼に『自分』を見てもらうことは出来なかった。
それが今、シンジの目は自分だけを映し込んでくれている。
レイはこの時になってようやく気が付いた。
故意に気を引こうとしたからこそ、この少年は何も感じてはくれなかったのだと。
無償であるからこそ、尊いのだ、そしてそう言うものにこそ、彼は心を開いてくれる。
自然と顔がほころんでいく。
この少年の中で、自分の存在は確定的な物になったのだから。
それは喜ばしい事だから。
心の解放。
絶対的な安堵感。
綾波レイは確かにその瞬間、心に翼を宿していた。
足を着けるための地を手に入れて。
[BACK][TOP][NEXT]