A HUMAN WORK
 綾波レイの朝は気怠く始まる。
 それは学校へ行くと言う行為そのものが憂鬱に感じられるからだった。
 しかし学校へ行く事そのものにはなんら疑問を抱いていない、自分は人間なのだ、だからその習慣に沿うことは当たり前なのである。
 なによりも碇ゲンドウ。
 彼が同年代の子供達と同じく過ごせるようにしてくれているのだから、それを無駄にすることはとうてい出来ない。
(でも)
 ここ数日、深い悩みが生まれていた。
 碇ゲンドウ、碇シンジ。
 似ているようで似ていない二人。
 その二人とも違うクラスメート達。
 異端を排除しようとするのが人間なのだろうか?
 しかし捨て去られるのも人間なのだ。
(碇君…)
 登校中、その先では会えない人物のことを思い浮かべる。
 今ならば朝の挨拶ぐらいは交わせるだろう、口にしてみるのもいいかもしれない。
 彼の驚く顔が見られればそれだけで楽しく感じられることだろう。
 そう考えるだけに腹立たしさが込み上げて来る。
 シンジはレイにとって、数少ない「自らの存在」を「感じさせてくれる」人物なのだ。
 彼と言葉をかわせば、いま話しているのは綾波レイと碇シンジと言う、記号でも部品でもない人間なのだと確認できる。
 それだけに、そのシンジが追い出されていることに苛立ちが募っていく。
 どうして自分がその集団に紛れているのか?、と、誰よりも自分に対して。
 だからレイの口調が、ついきついものになってしまうのは、仕方の無い事だったのだろう。
「どいてくれる」
 いくら気付くのが遅かったとしても、その相手が碇シンジであったというのは、彼女にとってはとても大きなミスであった。



第七話「人の造りしもの」



「学校来ないで下さいよ?」
 シンジのそんな言葉にミサトは呆れていた。
「あのねぇ…、一生のことでしょう?」
「綾波だって誰も来ないんでしょ?、大丈夫ですよ、それに、高校って選べるほどあるんですか?」
「…どういう意味?」
「…チルドレン候補って、僕のクラスに集められてるの、知ってました?」
 何気ない会話に混ぜられた刺のようなもの。
(チルドレンの候補が集められている?、それって…)
 しかしマルドゥク機関からの報告は無いのだ。
(適格者は見つかっていないはず、第一、候補ってなによ?、何が基準なの?)
 そもそも探しているとは、なにをしているのだろう?
 見て分かるようなものでも無かろうに、子供達一人一人に対して身体検査でもしているのだろうか?
 血液程度であれば予防接種を装う形で可能であろうが、それにしてもと考える。
 さらにそれをシンジが知っている事への疑惑。
 ネルフまでの短いドライブの最中に、ついにミサトの表情が晴れることは無かった。


「失礼、便乗ついでに、ここ、よろしいですか?」
 大気圏をかすめるように特別機が飛んでいた、その内部での事。
「サンプル回収の修正予算、あっさり通りましたね?」
 碇ゲンドウに話しかける、暇潰しというよりは腹を探りたいだけなのだろう。
「委員会も自分達が生き残る事を最優先に考えている、そのための金は惜しむまい」
 委員会とはセカンドインパクト以降に結成された、南極調査団に端を発する組織である。
 もっともその調査団そのものも、ゼーレと言う組織によって作られた「葛城調査隊」の列に並ぶ存在であったが。
「使徒はもう現われない、と言うのが彼らの論拠でしたからね」
 委員会は常任理事国から選出された議員によって構成されている。
 もちろんそれらにゼーレの息が掛かっていることは疑いようのない事実だ。
「ああ、もう一つ朗報です、米国を除く全ての理事国がエヴァ六号機の予算を承認しました、ま、米国も時間の問題でしょう」
 セカンドインパクトのもたらした混乱は、北大陸ほど大きく、また土地の広大なロシア、アメリカなどは事態の収拾にも時間がかかっていた。
「失業者アレルギーですしね?、あの国」
 保険は意味を成さず、投入された軍隊は横暴を極めた。
 その結果、国民の活力が削がれ、国力の回復に時間がかかってしまったのだ。
 世界の警察としての名誉は崩れた。
 おかげで現在では国連の使い走りに甘んじている。
「君の国は?」
「八号機から建造に参加します、第二次整備計画はまだ生きてますから、ただパイロットが見つかっていないと言う問題はありますが」
「使徒は再び現われた、我々の道は彼らを倒すしかあるまい」
 それは自分に言い聞かせている言葉でもある。
(サードチルドレンか、シンジ…)
 あの絶大な能力は何を意味していると言うのか?
 手のひらにあるはずのものがこぼれ落ちようとしている、いや、両腕でも抱え切れぬ爆弾であったような錯覚を覚えさせるのだ。
「わたしも、セカンドインパクトの二の舞はごめんですからね…」
 ゲンドウはそんなシンジに、なにかしらの焦りと苦みを感じていた。


 赤木リツコの研究室。
 リツコが見せた設計図に、ミサトの驚きが漏れていた。
 それはライフルと槍の設計図だった。
「この間使ったスナイパーライフルの強化版、シンジ君の意見ではレイに持たせたいようだけど?」
 そのような発想の端々に、どこか非凡さを感じさせる。
(そう、エヴァを作ったわたし達よりも…)
 エヴァを動かしているこの少年の方が、その能力を活かし切る武器を想像できるのは当たり前だとしても…
 同じく起動に成功した弐号機パイロットは、秀才と言う意味では彼以上でありながらも、その発想を上回る創造を成しえてはいない。
(天才、とでも言うのかしら?)
 世間では計算高くリメイクする事に長けた人物を天才と言う、だが実際には誰もが思いもしなかった想像を現実に、クリエイトするものこそが天才なのだ。
(そう、そう言う意味では、確かに…)
 エヴァンゲリオンの開発、基礎理論の構築者。
 真の天才、碇ユイ。
(その息子と言えるのかもね…)
 意味ありげな視線を向ける。
 学校帰りに寄ったシンジもこの場に居た。
「訓練もフォワードとバックアップに別れてやってるでしょ?、でもミサトさんの作戦だとATフィールドの中和範囲っていうのが前提だから」
「そう、フォワードが中和、もしくは中和範囲ぎりぎりであってもそれを貫ける大容量兵器をバックアップに持たせる、これがシンジ君の考え」
(何処まで広がるのかしらね?、彼の才能は…)
 ミサトの癖…、銃火器を使う遠距離からの安全性を高めた思考。
 それを考慮しているのは明白だった。
 だがATフィールドを中和しなければ使徒を倒すことは出来ない。
(その抜け道を彼も摸索している…)
 ならば前衛と後衛、二手に分けるのはそう悪い判断でも無いだろう。
 ミサトをないがしろにするわけでは無く、穴を埋めるために基本的なポジション、担当を決め、それに沿った武器を揃えようとしている。
 どうしても彼女らの頭では「良く斬れる武器」あるいは「鈍器」をエヴァの腕力によって振り回す事を考えてしまうのだが、彼はそれを投げ付けると言う発想をして見せた。
 もちろん、それらはカンニングである。
 シンジは最初から「その方が」と言う指針とも言える答えを見て、経験して、知っていたのだから。
 だが彼の立案は彼女達にとって、『自らが盾になり、ATフィールドを中和する』と言う、自己犠牲の表われのようにも見えていた。


 今日、この日レイの試験は予定されてはいなかった。
 それは多分に碇ゲンドウが居ない事と関係している。
(それを喜んでいるわたしがいる…)
 やはり会戦直前にあった起動実験のことが響いているのだろう。
 ゲンドウは必ず立ち会いの元でテストを行なわせている。
 いつでも助けに来てくれると言う安心感をレイは感じていた。
 その男は今、遠い空の上に居る。
 だから今日は一日フリーで、することは特にないはずだった。
(なのになぜ?)
 用が無いはずのこの場所に来てしまっているのだろうか?
 その原因になるような要素を、レイはたった一つしか思い付かなかった。
(碇君…)
 今日の授業はいつも眺めていたはずの空席では無く、望んでいた背中を見つめる事が出来たというのに。
 なぜ、だろうか?
 これまでは、排斥するような雰囲気、空気に苛立ち、その大元になっている人物の座席を眺めていた。
 だが、今日は何から何まで変化していた。
 そこに望んでいたものが落ちついただけで、教室の空気は一変していた。
 彼は登校しただけで周囲のわだかまりを払拭して見せたのだ。
 穏やかな空気と笑いが溢れ、クラスを華やかな雰囲気で満たしてしまっていた。
 彼の背中からは周囲を巻き込んで浮かれさせるようなものが振りまかれていた。
(和んでいるのね…)
 そしてほっとしている自分も居た、何故だろうか?
 それは自分が望んでいた『以前』とはかけ離れたものであると言うのに。
 彼が居るから、彼が気にかけてくれるから、その輪の中に自分も居ると言う事が。
 とても幸せに感じられた。
 自分のことであるというのに、レイには理解できなかった。
 なぜ自分が浮ついてしまうのか、と。
 零号機再起動実験の時、レイはゲンドウの口から戻れと命じられて上がっていた。
 それは離れる事を許さないと言う心の裏返しでもあろう。
(わたしは、帰って来てもらいたかった?)
 レイはシンジに戻って来て欲しかったのだと、いま気が付いた。
 それを口に出来るほど親しくないことは分かっていても。
 何故そんな事を考えてしまったのだろうか?、それと同時に…
『どいてくれる』
 あの一言が悔やまれた。
 彼を怒らせてしまったかもしれない、あの時の一言は彼を追い出した皆と同じ物だったから。
(そう、あの人達と同じ…)
 あれ程嫌悪していた感情のうねりと同質のものを生み出し、投げつけてしまった。
 てっきり嫌悪すべき集団の誰かだと思ったからだ、シンジと同じ苦しみを味わえばいいとさえ思っていたから。
 …彼はまた、彼女の視界から消え去ってしまうかもしれない。
 映り込む時間を減らすよう、避け始めるかもしれない。
「寒い…」
 彼女は逃げ込むようにエレベーターに乗り込んだ。
 適当な階を押し、何気に剥き出しの腕をさすり始める。
「碇君…」
 レイは祈るように目を閉じ、開いた。
 それに合わせたように扉が開く。
 レイの瞳が丸くなった。
「あれ、綾波…」
 鼓動が一つ、大きく跳ねた。


「碇君…」
 偶然顔を合わせてしまった。
 何故こうも彼とは偶然が続くのだろうか?
 恨めしくなるほど、不意を突かれる。
 本部へ追いかけて来てしまっても、顔を合わせないようにケイジを避けていたはずなのに。
 気まずかった。
 だがそれ以上に、すぐに背を向けられたことが悲しかった。
(なぜ?)
 原因は一つしか思い付かない、いや。
 あると言えば、余りにも有り過ぎた。
 彼を否定し、叩き、罵ったのは誰だろうか?
 唇を噛む、彼の背中からは授業中に臨めたような感じは受けとれない。
 発してもらえていない、つまりあの時の感じは…
(わたしにでは…、ないのね)
 おこぼれに預かったようなものだったのだろう。
 心が軋んだ。
 特別では無かったのだ。
 自分は、彼にとって。
(あの人のように?)
 目が涙で潤むのが分かった。
 それは嫌だった。
『あの人』のように、彼も自分を自分としては見てくれず、何よりも…
(わたしは…)
 特別視してくれない事が。
 綾波レイとして感じてくれない事が…
 だから。
「ごめんなさい」
 言わずには居られなかった。
 限界だった。
 子供のように、レイは漏らした。
「なに?、どうしたの綾波…」
 驚いたような声と反応に、やはり無視されていたのだと錯覚する。
(嫌われている…)
 顔は青ざめ、ついスカートを握ってしまう。
 ギュッと力を入れなければ耐えられそうに無かった。
「学校…」
 忙しなく目を動かす。
 彼は意地悪なのだろうか?
 知っていてとぼけているのだろうか?、それとも…
 関わって欲しくないと。
(拒絶?)
 泣きだしそうになる。
 なぜなのだろうか?
(悪いのは、わたし…)
 許してと縋りたくなる、でも。
「綾波…、どいてって言ったこと気にしてたの?」
 核心を突かれて、レイは固まった。
「…別に気にすること無いよ」
 軽い調子に、顔を上げる。
「碇君」
「邪魔してたのは僕の方だからね…」
 ほっとする、シンジの表情が本当に許してくれていたからだ。
 また考え出すように口ごもってしまったシンジ、だがレイはそこから教室で感じたような和やかさを見て取って…
 彼も気付かぬような、極わずかな微笑を口元に浮かべていた。
 まるでゲンドウのことを一人思い返していた時のように。
 レイ自身、まるで気が付いてはいなかったのだが。


 その夜、レイは生まれて初めて、浮かれる心に「眠れない」と言う状態を経験していた。
 月明かりの中で何度も寝返りを打ち、その度に口元に浮かぶ微笑を消せずにいた。
 誰かに見られはしないかと枕に押し付けて覆い隠す。
 頭の中では友人のように挨拶をし、微笑み返される自分を夢描いていた。
 その相手が今頃何を思って、何を考えて、何をしているのか?
 それを想像するだけでも、レイははしゃいでしまわずには居られなかった。



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