Splitting of the Breast
「はぁ?、シンちゃんの様子がどうって…」
 ミサトは朝の一本に口をつけながら、アスカの問いかけに怪訝に返した。
「そんなの、アスカの方が分かってるんじゃないの?」
「う…」
「アスカ…」
 置いた缶の底がコトンと鳴った。
「何かあったわけ?」
「うう…」
 これは、とミサトに思わせるには十分な反応であった。
(赤くなっちゃってまぁ)
 にひっといたずら心が沸いて来る。
「アスカぁ…、この間、二人っきりの時、なにかしたの?」
 ミサトは遠回しに振ったつもりだったのだが、それがいけなかった。
「なにもしてないわよ!」
 必死に護魔化しているようにも見えるが、事実は違う。
(シンジ…)
 アスカにとって、今一番触れられたくない所だったのだ。
 シンジは『あの時』の記憶を持っていないと思っている。
 好きと告げたあの時の。
 それをなんとなく感じていたから、ずっと言うことはためらわれていた。
(きっとあいつ…)
 霧島マナのように、自分も排斥されてしまうのではないかと恐かったのだ。
「…なんにもないわよ」
「そうやってぇ、赤くなってちゃ、『なにかありました』って言ってるような物なんですけどねぇ?」
 それは触れてはいけない話題だった。
「うっさい!」
「アスカ?」
 ミサトは突然怒り出したアスカに戸惑った。
 その怒りがまた本気であったからだ。
「加持さんとよりが戻ったからって、他人に幸せを押し付けないでよ!」
「ちょっとアスカ、そんなんじゃ…」
 その時、タイミング悪く電話が鳴った。
『よぉ、葛城…、酒の美味い店見付けたんだ、今晩どう?、じゃ』
 そして切れる。
 キッチンに漂う気まずい雰囲気、アスカはさらにがなり立てた。
「どうせあたしは不潔な大人の付き合いなんてしたこと無いわよ…」
「あんたなに言って…」
「うるっさい!」
(アスカ?)
 ようやくミサトは、アスカが泣いている事に気が付いた。
「ずるいわよ!、なんで?、どうしてミサトばっかり」
 アスカの嫉妬が炸裂していく。
「そりゃ加持さんは大人よ!、あたしは子供で、シンジは…」
(シンジ君?)
 ミサトは黙って聞くことにした。
「大人はいいわよ…、そうやって、抱いてって言えば慰めてもらえるんだから」
 アスカの思考は飛躍していた、ミサトの何十倍も早く物事を考えているのだろう。
 口を衝いて出る言葉は、その想いの何パーセントに値するのか?
「駄目なのよ!、キスしたいってんならさせてあげる、抱きしめたいってんなら別にいいわよ!、でもどうして?、どうして側にも居てくれないの?、あたし何か悪いことした!?」
「アスカ…」
(まるで子供ね…)
 自分と同じような気がする。
 大学時代、失っていた時を取り戻すためにはしゃいでいた頃。
(今のアスカ、ちょうどそんな感じなのね…)
 ミサトは正面で顔を隠し、泣きじゃくる少女に手を差し伸べる事が出来なかった。
 自分は、同じような道を辿って、そして失敗しているのだから。
(シンジ君…)
 こんな時にまで頼らねばならない。
 そんな自分を不甲斐ないと思ってミサトは逃げた。
 現実的には、何も出来ない情けない自分に気が付かないための方策であった。



第拾六話「死に至る病、そして」



「はぁあああ…」
 アスカの吐息は、深く重くなっていく一方であった。
 その上で女の子としての苦悩も織り混ぜているのだから、少年達にとっては堪らない。
 憂えた顔で物思いにふける美少女の図。
 もしそんな風に自分が強く想われたのなら?
「「「ばっかみたい」」」
 女子からそんな妄想にふける男子連中へ、軽蔑の視線がプレゼントされた。
 もっとも、その枠の中に当てはまっていない少年も居ることは居た。
 鈴原トウジである。
(なんでや…)
 シンジがアスカを相手にしていないことはようく分かった。
 そしてアスカの思いも、勝手に向けているものだと言うことも理解できた。
(そやけど)
 少しは汲み取ってもいいのではないだろうか?
 だけれどもシンジはそれを拒否した。
『僕の気持ちなんか知らないくせに、勝手な事言うなよ!』
 確かにその通りだ。
 しかしそれでは、余りにも情けないのでは無かろうか。
(なんやねん、男の癖に)
 これがケンスケ辺りに言わせればこうなる。
「その気も無いのに、気のある振りをする方が残酷なんじゃないか?」
 正論かもしれない、が、経験の伴わない言葉だけに説得力には欠けている。
 少なくともトウジを押さえるには不十分な理屈であった。
 ガタン…
 トウジは席を立ち、アスカの側へと歩み寄った。
 皆の注目が自然と集まる。
 ギロリ…
 音がするような目つきで、トウジはそれらを蹴散らした。
「ふん」
 間近くでした嘲りの鼻息に、アスカは「あん?」っと顔を上げた。
「鈴原?」
 怪訝そうに尋ねる。
「なんか用?」
 そのまま腕を組み、トウジはアスカの机にドカッと腰掛けた。
「…なによ?」
 戸惑っていたアスカだが…
「なんなのよ?」
 段々と苛立ち始める。
 トウジはアスカが次に口を開いたのを狙って話し出した。
「シンジ、何しとるんや?」
 アスカは目を細めた。
 トウジがシンジを快く思っていない事も、そしてそれが『妬み』に起因している事にも、アスカはちゃんと感付いていた。
「ほんま、情けないやっちゃで」
(ほっといてよ…)
 トウジの尻が邪魔でうつぶせになれない。
 苛立ちが募る。
 アスカがシンジに対して思ったように、今は一人にして欲しい時なのだ、アスカにとって。
 …なのに。
(なんなのよ、こいつは…)
 アスカはきつい目を向けたが、鬱積した感情を吐き出しているトウジは気が付かなかった。
「あんな人の気ぃも分からんような奴やとは想わんかったで」
 この瞬間。
 アスカは弾けた。
 パン!
 派手な音が鳴り響き…
 辺りに呆然とした空気が漂った。
 頬を張った勢いのままに、アスカの長い髪がさっと流れ。
 張られた勢いのままに、不安定なトウジの体はバランスを崩して倒れていった。
 ガタン!
 机を巻き込んで転がる音。
「あんたが!、シンジの何を知ってるってのよ!!」
「アスカ!」
 ヒカリの制止は無駄に終わった、飛び出していくアスカの背中を、トウジは呆然と見送った。
 見送る事しか出来なかった。
『あんたが、シンジの何を!』
『僕の気持ちなんか知らないくせに!』
 同じことを言う二人。
「なんや、ねん…」
 トウジは頬をさすった。
 そこだけやけに熱くなっていた。


 そんなわけでもあり、今日のアスカは苛ついていた。
『聞こえる?、シンジ君』
『はい』
『数値がばらついてるわよぉ、なにかあった?』
『すみません…』
(すみません、じゃないでしょうが!)
 腹立ちを押さえる。
 そんなだからトウジに言いたい事を言わせる事になるのだと…
 怒鳴り散らしたくても抑えてしまう、それは今までのアスカには考えられない事なのだが。
(何とか言いなさいよ、この!)
 アスカは心の何処かで理解していたのかもしれない。
 それを口にした途端、シンジの心がまた塞ぎ込んでしまうのを。
 だからどうしても角のある物言いしか出来なかった。


「参っちゃうわよねぇ?、調子悪くてもこの成績!、凄い、素晴らしい、強い、強過ぎる!、あ〜無敵のシンジさまぁ☆」
 アスカのシンクロ率もそこそこの低下をしていた。
(あんたのせいだからね!)
 素直になり切れないのは、レイが側にいるからかもしれない。
「まあねぇ?、あたし達もぉ、せいぜい置いてけぼり食わないように頑張らなきゃあ」
「じゃ、僕…、こっちだから」
「さよなら」
 シンジが行ってしまう。
 アスカはその背を寂しげに見送った。
「なによ?」
 そして物言いたげなレイの目線とぶつかり合う。
「…碇君を苛めないで」
「苛めてなんか無いわよ!」
 踵を返したレイの背中へ投げ付ける。
 アスカは全身に力を入れて震わせた。
 やり場のない怒りがこみあげる。
「バカッ!」
 誰に対してのものだったのか?
 シンジか?、レイか?、自分へか?
 アスカはその怒りを、手短な壁へとぶつけていた。


「アスカ…」
 学校、アスカはやはり落ち込んでいた。
 ヒカリの声が降って来ても気にもせずに、延々机に突っ伏している。
(あたしって、ほんっとにバカよね…)
 シンジに対してどの様な態度を取ればいいのか分からない、だが分からないからと言って、あのような言い方もないだろう、それはわかる。
 わかるだけに、悩んでいた。
(どうしろってのよ?)
 一晩、レイの言葉が木霊していた、確かに苛めていると取られても仕方の無い言い草だった。
「ねぇ、アスカってば!」
「え?」
 アスカは大きな声を出されてようやく気が付いた。
「ヒカリ?」
「もう!、さっきから呼んでるのに…」
 ちょっとだけ頬を膨らませている。
「ごめぇん…、ちょっと考え事」
「うん…」
 何となく察してはいるのだろう、歯切れが悪い。
「それで、なに?」
 なんとなく居心地の悪い沈黙が訪れそうだったので、アスカは自分から切り出した。
「うん…、えっとね?」
 言い出し辛い事なのか?、言い澱む。
「はっきりしないわねぇ?、なんなの」
 アスカは机の上に頬杖を突いて見上げた。
「怒らないでね?、その…、お姉ちゃんに、頼まれて」
「またぁ?」
 以前のことがある、アスカはうんざりとした顔をした。
「あたしは…」
「ち、違うの、誤解しないで聞いて欲しいの」
「なによ?」
 違うの?、っと目で問いかける。
 ヒカリは気まずいままで話を続けた。
「アスカとデートした人、えっと、名前、なんて言うんだっけ?」
「…え?」
 二人の間に奇妙な沈黙が流れた。
(聞いてないのね?)
(覚えてないんだ…)
 共々、いい加減な友人に呆れ返る。
「そ、その人から、またお願いされたんだけど」
(護魔化したわね?)
 アスカは嘆息した、そんな事も知らないで話を持ち掛けて来たのかと。
「アスカ…、好きな人が居るって」
「え?」
 そう言えば、とアスカは思い出した。
(そんな事も言ったわねぇ?)
「それで、ね?」
 ここからが本題だった。
「どうしても、その好きな人の名前を聞きたいんだって」
「…何で?」
「諦め切れないとか、なんとか…」
「ばっかじゃない?」
 アスカは心底蔑んだ。
 そういう女々しい態度だから、袖にされるのだと言ってやりたくもなって来る。
「それで、その…」
 アスカはヒカリの態度に、『あ、まずい…』と、何かしらの予感を感じた。
「それってやっぱり、…碇君?」
 ついに来たか、と言う感じだった。
 皆聞き耳を立てているのが分かる、それでもアスカは落ちついていた。
「…好きよ?、嫌いじゃないもの」
「それって…」
 ヒカリは戸惑った、アスカの顔がとても気難しいものだったからだ。
「ただ…、ヒカリが期待してるようなのとは違うと思うけど」
「え…」
「あたしが好きなのは加持さん、そう言う事にしておいて」
 アスカは適当に打ち切ろうと、そう言って手をパタパタ振った。
「しておいてって、言われても」
 困る、と顔に張り付かせる。
「相性合わないから振ったのよ、それだけ!、…まあシンジが気になったからってのはあったけど」
「え?」
 アスカは頬杖を突いたままでこぼし始めた。
「そのちょっと前に…、ほら、山岸マユミっての、居たでしょ?」
「あ、うん…」
 ヒカリはわずかに反応した少年に気が付いた。
 トウジである。
 昨日のことが気まずいからか、トウジは仏頂面で頬杖を突いていた。
「あの子がね…、戦闘に巻き込まれて、死にそうになったのよ」
 事実とは違う、が…、アスカはあえて嘘を吐いた。
「シンジそれで落ち込んでたから、気になっちゃってね?」
「そうなの?」
「そうなのよ…」
 両手で橋を作り、額を押し付けて顔を隠す。
 前に流れた髪も一役買って手伝った。
「あのバカ、こっちで気ぃ遣ってやんないと、潰れそうになるから…」
「碇君が?」
 ヒカリには想像できない話であった。
 何しろシンジは『不良』に近い肩書きを持っているのだから。
 平然と学校をサボり、授業もまともに受けようとしない。
 正直そんな少年に、あまり良い印象は持っていなかったのだ。
「エヴァってね…、シンクロって言って、機体が傷つけられるとパイロットにも同じ場所に痛みが走るのよ…」
「へ?、…そ、そんなの危ないじゃない!」
「そ、危ないの」
 アスカは溜め息を吐いた。
「最初の戦いの時なんてねぇ…、使徒にお腹をガブリよ?」
「…大丈夫、だったの?」
「大丈夫じゃないわよ…、見事に大穴が空いて貫通、でもあたしは平気だったわ」
「どうして…」
 アスカの目が手の向こう側から見えて、ヒカリは息を飲んだ。
「シンジよ…」
「碇君?」
 首を傾げる。
「そ、シンジが一緒に乗ってて、痛みだけ引き受けてくれたのよ」
 はぁっと溜め息を吐く。
「それでシンジは見事病院行き、でもね?、それだけじゃないの」
「それだけって…」
 軽々しい事でないのは想像できる、だからヒカリの顔からは血の気が引いていく。
「浅間山の時なんてねぇ…、信じられる?、使徒が居るからって潜る事になったのよ」
「潜る…、ってどこに?」
「火口から、溶岩の中に」
 カチャカチャと忙しなくキーを叩く音が聞こえる、ケンスケだ。
 必死にアスカの話をまとめているらしい。
「っても潜水用の特殊な防護服を着て潜ったんだけど」
「あ、あ、あ、危ないわよ!」
 ヒカリは心底肝を冷やした。
 まさか同級生が、そこまでやっているとは想っていなかったからだ。
「うん、危なかったわ…」
 そしてアスカも否定しなかった。
「使徒に命綱を切られちゃって…、もうちょっとで死ぬとこだったわ?」
 ヒカリは言葉が出せず、口元を手で被った。
「けどね?、シンジが助けてくれたのよ」
「碇君が?」
「そうよ?」
 アスカの口元に嬉しげなものが浮かび上がった。
「さっきも言ったけど、エヴァが傷つけばパイロットにも返って来るのよ…、なのにシンジってば、防護服も何も無しに溶岩の中に飛び込んで来てくれたのよ」
 いつしか教室中は、シンジとアスカの武勇伝に耳を傾ける者だけになっていた。
「それで?」
 恐る恐る尋ねるヒカリ。
 本当はこれ以上聞きたくないのだろう、顔面が蒼白になっている。
「…もちろん、大火傷の一歩手前よ、熱射病にかかって死ぬかも知れない所だったって大目玉」
 アスカは軽く肩をすくめた。
「でもあたしがこっちに来る前には…、マグマの熱でもちょっと溶けるだけだったエヴァの装甲を、加粒子…、ビームって言った方がわかりやすい?、その装甲を一発で溶かしちゃうビームで撃たれたって事もあったって言うから…」
「そんな!?」
「その時やられたのはファ…、レイだったんだけど」
「綾波さん?」
 コクンと頷く。
「シンジの奴…、大分気にしてたらしいわ?、そのせいかもしれないけど、あいつって誰かが傷つくくらいならって平気で命賭けちゃう奴なのよ、掛け値無しにね?」
 少し誇らしげにアスカは言った。
「霧島マナ…、山岸マユミの時だってそうよ、いちゃいちゃしてるって誤解されてたけど、あの子達のために必死になってただけ、自分に出来る範囲でね?」
 アスカは銃を握ってマナを助けに行くシンジの姿を思い返した。
「いつでもそうよ、憎まれ口で、自分はいい加減だって想わせておいて、裏ではあたし達を守るために必死になってくれてる…、そんな奴なのよ」
 この時、アスカの目は輝いていた。
 誰も口が挟めないほどに。
「そのくせ、少しもそれを鼻にかけないし、なにも見返りを求めて来ない…、だから心配なのよ」
「え?」
 その理屈は誰にも分からないものだ。
「あいつは…、どこかであたし達が無事ならそれで良いって想ってる、自分がどうなってもいいって、ううん、自分がどうなったって、誰も何も想わないって、だから傷つくなら自分だって、そう考えてる、だから恐いのよ…」
「アスカ…」
 アスカは口にしながら、シンジに対して抱いていたものを整理していた。
「だから…、そんなシンジだから、何かしてあげたいと思うの、これが本当」
 アスカはわざとおどけて言った。
「だからヒカリが期待してる様な『好き』じゃないのよ…、ごめんね?」
「ううん」
 ヒカリは慌てて首を振った、そしてそっと想い人の様子を窺いもした。
(鈴原…)
 その少年は深く後悔を顔に貼り付けていた。
 うなだれて、強い敗北感に打ちのめされているようだった。


 そんな風に結論を出せたからかもしれないが…
『西区の住民避難、あと五分かかります』
『目標は、微速進行中、毎時二.五キロ』
 現れた使徒に対して、アスカは異常な程過敏になってしまっていた。
『…遠距離からの様子見をさせて下さい』
『危険だわ、まだ市民の避難が完了していないのよ』
『なら刺激するべきじゃないですね…』
「なぁに臆病になってるのよ!」
 この少年は自分の命を守るだけでも必死なのだ、それはわかる。
 しかし最も凛々しいのはその命を賭ける時なのだ。
 …見てみたい、と言う誘惑にも駆られてしまうが、アスカはなんとかそれを抑えていた。
 代わりに沸き出して来るのは、自分に対する不甲斐なさである。
(あたしがもっとしっかりしてれば!)
 せめて足を引っ張らないですむようになればと思う、そうすれば彼に自分から命を捨てる様な真似をさせなくても済むからだ。
『先行する一機が、相手の反応を伺い、可能であれば市街地への誘導も行う、よろし?』
 これを聞いた時、アスカは素直にシンジに任せる事にした。
「先鋒はシンジ君がいいと思いまぁっす!」
 …言葉は素直では無かったが。
(あたしじゃ…)
 また右往左往してしまうかもしれない、少々臆病になっている自分を感じるが、無茶をするつもりはなくなっていた。
 無理かもしれないなら、引くしかないのだ。
 でなければ負担はあの少年にかかる事になる。
 第六、第七使徒でくり返した失態を、再び犯す事だけは避けようとしていた。
(でも…)
「さっすが成績優秀、勇猛果敢!、シンクロ率ナンバーワンだけのことはあるわねぇ?」
『なんだよそれ…』
(今日のあんた、臆病過ぎるって言ってるのよ!)
 アスカはすっかりミサトの指示を信用しなくなっていた。
 浅間山以来考えて来た事でもある。
 何故そこに居るのかと思えるほどに、向いていないのだ、性格的に。
『シンちゃん自信ないのかなぁ?、男の癖にびびっちゃってんのぉ?』
 だからこそ、そんなミサトの指示に従うシンジに納得が行かなかった。
(あたしは、バックアップを…)
 ようやくアスカは、好きと好意を理性的に切り分けることができるようになっていた。
(そうよ、あたしは…)
 好きとは言えないが、好意は確かに持っている、それは以前加持が『まだ子供だ』と表していた部分であるが、ようやくアスカは成長したのだ。
 しかしそれが、今回は大きく裏目に出てしまった。
 足止めと思い放った銃弾。
 直後、足元に黒い影が広がった。
「きゃああああああああ!」
 ずぶずぶとめり込んでいく、慌てて何かにつかまろうとするが何も無い。
 泳ぐ様に手を動かしても、何も抵抗を感じないのだ。
 死の恐怖。
「嫌あああ!、シンジぃ!、加持さぁん!」
 アスカの思考は弾け、慣れ親しんだ名前を口走らせた。
 そしてその声に、少年はちゃんと反応していた。
『うわああああああああああ!』
 絶叫が途絶えたかと思うと、アスカはガクンと言う震動に正気を取り戻した。
「シンジぃ!」
 初号機が弐号機の腕を取って引き上げてくれている、しかし初号機もまた足が沈みかけているのが見えた。
『早く出るんだ!』
 言われたままにもがいて登る。
 初号機の腿を使って這い上がり、頭を踏ませてもらってまでアスカは近くのビルへと飛び移った。
「シンジ!」
 そして初号機に向かって手を伸ばす。
 何度かその手を掴もうとする初号機であったが…
「シンジっ、嫌ぁあああああ!」
 弐号機の重さがかかった分、初号機はもう胸まで沈み込んでしまっていた。
 手は届かない、アスカは諦めるような初号機の『目』に喚き散らした。
「だめぇ!、シンジ、だめぇ!」
 諦めないで、その一言が言葉にならない。
 必死に「だめ」だけをくり返す。
『アスカ、綾波…』
 アスカは場違いな程落ちついたシンジの声に腹を立てた。
「なによ!」
『ごめん…』
 呆気に取られる。
「こんな時に何よ!」
『謝りたかったんだ…、ずっと』
「謝りたかったって、何をよ!」
 しかしそれに対する返答は無かった。
「嫌ああああああああああ!」
 初号機の角までが完全に沈んだ。
 零号機がアンビリカルケーブルを巻き上げていく、しかし、ケーブルの先は切れていた。
『碇君…』
 レイの何とも言えない声が聞こえ…
 アスカは膝頭に目を当てて、静かに、静かに嗚咽をこぼした。


「内蔵電源に残された量はわずかだけど、シンジ君がやみくもにエヴァを動かさず、生命維持モードで耐える事が出来れば、十六時間は生きていられるわ」
「影は?」
「動いてません、直径六百メートルを越えた所で停止したままです」
 地上に配置された特設指揮所には、次々と情報がもたらされていた。
 そんな大人達の耳は、落ち込んだ少女の言葉も聞き入れていた。
「独断専行、作戦無視…、自業自得なのに」
(なんであたしはここに居るのよ?)
 アスカだ、うなだれている。
「なによ?、あたしが死ねば良かったのにって思ってるんでしょ?」
「違うわ」
 受けたのはレイだ、アスカの自棄になった瞳を、冷たく静かに見つめ返している。
「じゃあ何よ?」
「あなたは…、碇君が死んだと思っているの?」
「生きてるわよ!」
 反射的に立ち上がる。
「あいつは、絶対に!」
「そ…」
「ちょっと待って!」
 そんな二人に、ミサトの悲鳴に似た声が降りかかった。
「エヴァの強制サルベージ!?」
 二人は言い合うミサトとリツコに呆気に取られる。
「九百九十二個、現存する全てのN爆雷を中心部に投下、タイミングを合わせて残存するエヴァ二体のATフィールドを使い、使徒の虚数回路に千分の一秒だけ干渉するわ?、その瞬間に爆発エネルギーを集中させて、使徒を形成するディラックの海ごと破壊する」
「でもそれじゃあエヴァの機体が!、シンジ君がどうなるか…」
「作戦は初号機の機体回収を最優先とします、例えボディが大破しても構わないわ?、この際、パイロットの生死は問いません」
 パン!
 感情的になったミサトの手が動いていた。
「碇司令や、あなたがそこまで初号機にこだわる理由は何?、エヴァって何なの!?」
「あなたに渡した資料が全てよ!」
「嘘ね」
 長年の付き合いだからだろうか?
 ミサトは目を見て断定した、その上で…
「ミサト、あたしを信じて…」
「嫌よ」
 拒絶する。
「あなた、シンジ君を疎ましく感じてる、ううん、司令が邪魔に思っているの?、どちらでもいい、シンジ君が恐くなって来た、そうなんでしょ!?」
 まただった。
 向いていないはずの役職であるというのに、ミサトがそこに据え置かれている理由は、なにも故葛城氏の息女だからと言うわけではないのだ。
 女の勘にも近いが、れっきとした洞察力に基づいた指摘。
 これを行えるからこその作戦部の長なのだ。
(司令、シンジのお父さんが!?)
 そしてその会話に、アスカも呆然としてしまっていた。
 はっとしてレイを見る。
(この子…)
 顎を引き、挑むようにリツコを睨むその態度。
(司令にべったりってわけでも無いのね…)
 視線を戻す、リツコが逃げていく所だった。
 ミサトとレイ同様に、アスカもいつしか、その背をきつく睨み付けていた。


「エントリープラグの予備電源、理論値ではそろそろ限界です」
「プラグスーツの生命維持システムも、危険域に入ります」
 リツコは指揮車に戻ると、ミサトに叩かれた頬を軽くさすった。
(疎ましい、邪魔?、いいえ恐いのよ)
 リツコは自虐的に微笑んだ。
(でもね?、ミサト、あなた間違ってるわ)
 リツコは一通りの報告を聞くと、一つ息を吸ってはっきりと告げた。
「十二分予定を早めましょう、シンジ君の生きている可能性が、まだある内に」
 そう、リツコはミサトほど絶望視してはいなかったのだ。
(シンジ君と、初号機、試させてもらうわ…)
 いつかミサトがシンジを試した時のように…
 リツコもまた、ここでシンジを見極めるつもりになっていた。


 作戦がミサトの上を素通りするのは確定的となってしまった。
「あんたはほんとに納得できるの!?」
 アスカはレイに食って掛かっていた、しかし…
「わからない」
「わからないって、なにがよ!」
 シンジを殺そうというのだ。
 大人達は!
 エヴァは今まで自分にとっての全てであった。
 母を亡くし、孤独になったアスカが唯一縋れる存在。
 それが弐号機であったのだ、だがここに来てから、アスカは急激に変わらざるをえなかった。
 それまで頼りにしていた加持は、自分を疎ましく感じるようになっていった。
 仕事があるのは分かる、前のように専属で護衛をしてくれないのも仕方の無い事なのだろう。
 その代役としてのミサトはどこかシンジ、シンジで、やはり仕事にかこつけて、あまりかまってはくれなかった。
 こうなるとエヴァに逃げ込む以外には無い、本来であればそうだったのかもしれない。
 しかし、『ここ』には碇シンジと言う少年がいた。
 文句が多いながらも、不思議と和ませる男の子だった。
 肩肘を張らずに、リラックスしていられたのだ、何故だかは分からなかったが、今では何と無く理解できていた。
 そこにシンジの気遣いがあったからだ。
『使える』と以前アスカが表したように、何から何までまるで生活パターンを『熟知』しているかのように、彼は緊張を解きほぐしてくれていた。
 エヴァに乗らなければ得られなかったものが、実はすぐ側にあったのだ。
 失ってから気が付くと言うことを、アスカは初めて体験してしまっていた。
 だが気が付いた以上は…
(失うわけにはいかないのよ!)
 なにものにも変え難い存在なのだから。
「お願い、シンジを助けて…」
 アスカは静かに頭を下げた。
 綾波レイに。
「あんたなら…、わかるはずよ」
 アスカの想いの込められた一言は複雑だったが…
「ええ…」
 レイにもその想いは理解できるものであったのだろう。
 彼女ははっきりと頷きを返していた。


『エヴァ両機、作戦位置』
『ATフィールド、発生準備良し』
『爆雷投下、六十秒前』
 アスカは…、誰に何を言われようとも、タイミングをずらすつもりでいた。
(そうよ…)
 ATフィールドにより爆発のエネルギーを遮断するつもりでいたのだ。
(シンジにだって、出来たんだから…)
 空から落ちて来た第十使徒、シンジはATフィールドで地上に降りる事すら許さなかった。
(あたしにだって!)
 アスカの脳裏には、先程のミサトとリツコの会話が蘇っていた。
 使徒を倒さなければ人類に未来は無い。
 だが誰がそれを正義だと定めたのだろうか?
 誰も口にしてはいないのだ、勝手にそう思い込んでいただけの事で…
 そして碇シンジはそれを知っていたのかもしれない、だから大人達には絶望していたのかもしれない。
(だからなの?)
 何も期待せず、何も願わず、望まなかったのは。
 人として踏み越えてはならないラインがある、ここに居る大人達は、誰もがそれを踏み越えているようだった。
 体現しているのがリツコで、ゲンドウだ。
 今になってして見れば、シンジは必死にそこに踏みとどまる事を選んでいたように思えてならない。
(そうよね…)
 人であること、人として当然であることを何よりも選んでいた様な気がする。
 それは察しや思いやりなのかもしれない。
 だが大人達は誰もが何処か身勝手で、半端な手を差し伸べてくれるだけであった。
(加持さんでも、そうだった…)
 そのことにもっと早く気が付くべきだったのだと、アスカの中では悔いばかりが山積みになっていた。
 大人達は皆、しがらみや主義主張と言った立場に縛られて行き、子供ほどシンプルではいられない。
 だからこそのシンジだったのだ。
(あいつは…、これ以上ないくらい単純で)
 純粋でもあったのだから。
 複雑化していく…、アスカですらそうだったというのに、シンジはただひたすら絶望の中に独り立ちする事を選んでいた。
 期待などするだけ無駄なのだからと悲壮さを漂わせて、だからと言って人を切り捨てるような事は絶対にしないで。
(そうよ)
 でなければ何故、霧島マナや、山岸マユミを救う必要があったのだろう?
 放っておけば良かったのだ、あの二人とて、実に身勝手だったのだから。
(それができないバカだから)
 救う価値があるのかもしれない。
(時間…)
 アスカは時計を確認した。
 残り三十秒、長く思索にふけっていたようでそれ程時間は経っていなかった、しかし…
「なっ!?」
 突如地面が揺れ出した。
 慌ててエヴァを起動させ、倒れないように踏ん張らせる。
「何が始まったの!?」
 その三十秒は、何かが始まるには十分過ぎる時間であった。


「状況は!?」
「わかりません」
 泣き喚きが交錯する。
 大地は裂け、影であるはずの使徒が割れ砕けて行く。
「全てのメーターは振り切られています!」
「まだなにもしていないのに…」
 リツコの呟きに、ミサトは一つの可能性を思い出した。
「まさか、シンジ君が!?」
「あり得ないわ!、初号機のエネルギーはゼロなのよ!?」
 しかし言いながらもリツコには全く自信が無かった。
 一同の頭には、槍持て使徒を粉砕した、あの初号機の姿が蘇っている。
 触れてはいけないものに触れたのかもしれない。
 そんな予感がひた走った。


 使徒が裂けた。
 空中に浮かんでいた使徒の影が実体化し、中心から左右に抗えない力によって引き裂かれたのだ。
 赤く血に塗れた鬼が顔を覗かせる、そして咆哮。
「シンジ?」
 誰に向けた叫びなのか?
 あるいはこの世の絶望へ向けた嘆きの声。
 アスカにはそんな風に聞こえてしまった。
 しかし、そうは受け取っていない者達もまた存在していた。
「なんてものを、なんてものを与えてしまったの、わたし達は…」
 リツコは声が震えるのを抑えられなかった。
 誰もが確信していた、あれはエヴァだけの力ではないのだと。
 その力を引き出したのは、何者かの意志であるのだ。
 ミサトはそんな旧友を、冷たい目で見下げ果てていた。
(エヴァがただの第一使徒のコピーじゃないのは分かる、でも、ネルフは使徒を全て倒した後、エヴァをどうするつもりなの?)
 そしてもう一つ、ミサトはそこに付け加えた。
(あるいはシンジ君に、その企みが壊される事を恐れているのかもしれない…)
 確かに、この咆哮は魂を揺さぶるものがある。
 ミサトは一つ一つの顔を見ていた。
 ある者は脅え、ある者は慟哭し、ある者は許しを乞うていた。
(シンジ君は、何を訴えようとしているの?)
 どうやらミサトには、その声を聞き分けることは出来ないようだった。
 だから。
「アスカ、ぼさっとしてないでエントリープラグを回収して」
 現実的に、ミサトは指示を出すのであった。


 ザァ!
 回収された初号機にシャワー水が降りかかる。
 洗浄中の初号機を見下ろしているのはリツコ、それにゲンドウの二人であった。
「わたしは今日ほど、このエヴァが恐いと思ったことはありません」
(エヴァ?、いいえ、シンジ君ね…)
 何やら不可解な言動はあったものの、これまではそれでも子供だと思って見逃して来ていた。
 リツコはようやく、それが間違いであったと気が付いたのだ。
「本当にエヴァは味方なのでしょうか?」
(そしてシンジ君は…)
 初号機には魂が込められている、だからこそ初会戦で、シンジであれば起動できると確信していたのだ。
 また、それには逆のことも言えた。
 シンジでなければ動かなくなる時が来るかもしれない。
 そうなった時、この人はどうするのか?
 リツコの思考は横へと飛んだ、初号機がシンジを選ぶとすれば、それはこの男が捨てられるということなのだから。
「わたし達は、憎まれているのかもしれませんね」
 シンジは何かを知っている。
(それはきっと…)
「葛城三佐、なにか感付いているかもしれません」
「そうか…、今はいい」
「レイやシンジ君がエヴァの秘密を知ったら、許してもらえないでしょうね」
 しかしさしものリツコも、シンジが秘密の真髄に到達していることは看破できないでいた。
「お話があります」
 改め直すリツコ。
 彼女はもう、シンジについて護魔化すのはやめた。
 恐くなったから、誰かの庇護の元へと隠れるために。
 ゲンドウにこれまでの懸念を、全て打ち明けていくのであった。



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