サァ…
開け放たれた窓から爽やかな風が吹き込んで来るのは、この部屋がジオフロント内にある医療塔の病室であるからだろう。
ここは地上のうだるような蒸し暑さとは無縁の世界でもあった。
青い双眼と赤い双眸。
二つの視線は、二人の中央に横たわるベッドに注がれていた。
「ん…」
なにを感じているのだろうか?
そこに眠る少年は、うなされるように寝返りを打とうとして…、転がるのをやめた。
わずかに上がる両者の目線がぶつかり合った。
少年の上で火花が散り合う。
「う〜ん、う〜ん、う〜ん…」
ますます寝苦しさが増したようだ。
どうやら先程の寝返りも、『どちらに向くか』で金縛りにあったらしい。
彼、碇シンジの安息は、どうやら幸せに比例して、とても遠ざかって行くようであった。
第拾七話「四人目の適格者」
「ふんふんっとねぇ♪」
学校の教室、楽しげに荷物をまとめるアスカに、ヒカリは恐る恐ると言った呈で声を掛けた。
「アスカ…、嬉しそうね?」
「え?、そ、そう?」
どもった上に垂れ気味になった目尻もだらしなく緩んでいた。
「…碇君、良くなったの?」
最近、ヒカリが尋ね、アスカが答え、皆が聞き耳を立てると言う構図が完全に定着してしまっていた。
それに合わせて潮が引くようにアスカへの交際の申し込みも減少している。
転校当初のアスカであれば、人気の低下と受け取り焦りもしたであろうが、現在ではわずらわしい事に時間を取られないで済むと喜ぶようになっていた。
「まあねぇ、昨日目が覚めたんだけど、退院は今日なのよ」
退院と言う単語に、またかと言う雰囲気が漂った。
先日のアスカの告白以来、学級日誌はある意味とても人気を集めるようになっていた。
考えてみれば最初の騒動以前に、綾波レイは全身に包帯を巻いていた。
日誌にはその日の欠席者名が刻まれている、日直当番には担任教師にその理由を尋ね、明記すると言う役目が与えられているからだ。
自然と、『病欠』の回数を数える級友達が増えていき、またかと思っていた事が、改めて異常な回数である事に気が付いた。
アスカの言う、「あたしがここに居られるのは」、そして「休まないで済んでるのは」と言う言葉の重さが窺い知れた。
同時に、碇シンジへの尊敬と畏敬の念も沸き出していた。
惣流・アスカ・ラングレー、俺だって彼女のためなら命を賭けられる、と豪語している人間は多数存在していた。
しかし、だ、その中で見返りを求めていない者がいるのだろうか?
そっけない態度と無関心は決してポーズでは無く、また『彼女であるから』彼は命をかけるわけでも無いと言う。
誰のためにでもそれができる…、らしいのだから驚きだろう。
『あたしのために?』とバカな妄想にひた走る少女も少なからず生まれつつあった、学校に来たら優しくしてあげようとも想う子達も。
しかしもう一つ深く考える事の出来る子供達には、それらのミーハーな考え方も、彼にとっては忌避すべきものであろうと想像できていた。
彼は自分よりも人を大事にするらしい、だがそんな人間がちやほやされる事を望むのだろうか?
これは非常に、微妙な問題でもあったのだ。
…と言う空気が生まれ始めている事も全く知らず、翌日、引っ張り出された少年は、やはり及び腰で学校に向かっていた。
「ねえ、やっぱり行かなくちゃだめかな…」
バン!
上目遣いに尋ねたシンジの背中を、アスカは鞄でひっ叩いた。
「なに情けないこと言ってんのよ!」
「だってさ…」
気まずそうにする。
「だぁいじょうぶよ!、誰も苛めたりしないわよ」
「そっかなぁ…」
(んっとに、情けないわねぇ?)
これが死を間際にしてそれを厳粛に受け止めたあの少年なのかと思うと頭痛がしてくる。
(言い過ぎたかしら?)
学友達に対しても、カッコ良く伝え過ぎたかもしれないと曇っていた目が晴れ出した。
(なにビクついてんのよ?)
アスカはともかくとして、シンジはトウジの態度がそのままクラス全体のシンジに対する認識なのだと思い込んでいた。
行きたくないのにと思っていたのに、しっかり迎えに来たアスカにつかまってしまったのだ。
遠回り所ではない、ミサトのマンションからジオフロントにあるシンジの個室へは、片道でも三十分から一時間近くかかってしまう。
それからシンジに朝食を取らせて仕度を整わせ、学校へ向かうのだから、都合起きた時間を逆算すれば、ほぼ夜明け前と言う事になってしまうだろう。
まさしく目的を持った時の行動力には瞠目する想いである。
シンジ自身も、『なんだ、ちゃんと起きれるんじゃないか…』と『以前』の生活についてつい愚痴ってしまった程であった。
アスカにとって幸いなのはそれだけではなかった。
公私共に役立たずの烙印を押された自称保護者であるところの不良上司が、崩壊した第三新東京市中央区分の再開発計画について書類見聞のため残業を賜っていたのも幸いしていた。
「ふんふんふ〜ん♪」
鞄の中から包みを取り出しそれを開くと、一人で食べるには少し多いおかずの詰め込まれたタッパが出て来た。
「アスカ、今日は自分で作って来たの?」
「え、ま、まあね」
ヒカリに見られて赤くなる、普段はパン食だったのだ。
「どこ行くの?」
「し、シンジに、ね?」
「「「えーーー!」」」
周囲から『ついにそこまで!』との嬌声が上がった。
今日の早起きはただ迎えに行くだけの早起きではなかったのだ、お弁当を作るための…、失敗も考慮に入れた起床時間を、今日は設定して起き出したのだから。
血圧を吹き飛ばすほどに気合いが違うのも当然である。
ミサトが居れば冷やかされ、この意固地な少女は途中で放棄していたかも知れない。
そう思うと意地っ張りな自分の性格も嫌にはなるが、ここはキューピットにでも感謝しておこうとアスカはご機嫌に鼻歌を鳴らしていた。
…その天使とやらはどうやら魚のような形をしていたらしいのだが。
「アスカって、やっぱり碇君と?」
「違うわよ!、お礼って奴よ、あいつ一人暮らしでろくなもの食べてないから!!」
実際の所としてこの作戦は非常に困難を極めていた、なにしろシンジとの同居中、彼女は一度も『シンジの好み』に合わせた食事にはありついていなかったのだ。
『何がいいのかしら?』
エプロンを着け、髪をアップにまとめた所で本を片手に持ち固まってしまった程である。
そのうえ愕然としてしまっていた、こんな所にも見えない気遣いはあったのかと。
シンジは一度も、自分の好物を押し付けたりはしていなかったのだ。
『シンジ…』
感極まったアスカであるが、結局、少々の『デート』と本部食堂でシンジが注文した物を思い浮かべる事にした。
後はその感動を愛情に変える事で護魔化した、そんな発想にきゃあきゃあとはしゃぐ姿は不気味であったが…
とにもかくにも、こうしてお弁当は完成していた。
無難の二文字で構成せざるを得なかったのは不本意であったが、実の所アスカにとって幸運であったのかどうかは微妙な所であった。
もし凝った物であれば、『危険性』は増していたであろうから。
そんなわけでアスカは、『義理人情』で一杯のお弁当を用意して来た…、つもりである。
しかし当然その頭には、喜ぶシンジのおいしいと掻き込む姿、それに微笑む自分が側に居るわけで…
現実的にもにやけてしまっている以上、端から見ればただの甲斐甲斐しい彼女そのものだ、気付けば当然否定するだろうが、やはり照れは見せるかもしれない。
この日アスカは、一日それなりに幸せに過ごす事が出来たのだった、何一つ心配する必要も無い状態で。
本日の授業が終了する、その時までは、トウジがシンジに話しかけるまでは…
(暑い…)
ジーンジーンジーンと、セミの声が降り注ぐ。
第三新東京市はその性質上、街路樹は申しわけ程度に植林されているだけだった。
また建物も隙間が多く、陽射しを遮るような遮蔽部には成りえていない。
結果、炎天下のうだるような熱波が綾波レイに襲いかかっていた。
(…水)
帽子が欲しいとくらりと来る。
余りのきつさに、前髪で出来た影でレイの顔は隠れていた。
まさに白と黒のコントラスト状態だった。
(なぜわたし、ここに居るの…)
もちろん本部からの帰りだからである。
多少の期待を込めてシンジの部屋に行ってみたのだが、あいにくと留守だったので、嘆息を残して引き上げて来てもいた。
(学校…)
プールと連想して、行きたかったと足を出す。
ゾンビのような足取りだ、手の振りも何処か緩慢である。
(碇君…)
冷やしそうめんを準備してくれているシンジの幻が見え、レイはしばし立ち止まった。
…口元に幸福の笑みが浮かんでいる。
(…いけない)
しばし気を失っていたと気が付いて、レイはまたゆっくりと歩き出した。
そんなレイを不敏に思ったのかどうかは分からないが、アスカ同様に気まぐれな天使はレイの元にも降り立っていた。
ただし御利益はアスカのものより薄かったのだが。
「碇君?」
もうすぐ水が飲める、いや、なぜこんな上の階に自分の部屋はあるのだろうか?
埃っぽいのは解体工事のせいだと思うと、喉がいがらっぽくて堪らなかった。
早くここも取り壊しになればいい、そうすればジオフロントの空き部屋、シンジの側に引っ越せるからと、不埒な事まで考えていた。
そんな妄想と願望が入り交じった白昼夢に曝されていた時に、そこに本物が突っ立っていたのだ、少しは期待するのも仕方の無い事だろう、なのに。
「プリント、置いておいたから」
(はぅ…)
胸を高鳴らせた分だけ、急に動いた心臓にかかった負担は大きかった。
気が抜けた途端、レイはそれを自覚して目眩いを感じた。
「…わかったわ」
(でも)
元々本部にはシンジの代わりに、崩壊した街の整備にとエヴァで狩り出されていたのだ。
お呼びがかからなかったのをいい事に、さんざん羨ましがらせようとしていた同僚に、レイは強い不満を感じていた。
「あの…」
「え?」
だからレイは背を向けたシンジに、ついこぼしてしまっていた。
「上がっていけば?」
(何かあったかしら?)
レイは冷たい物があればいいなと考えていた。
まあ現実問題として、買ってもいない物が冷蔵庫に増えていれば不気味であろう。
(暑い…)
再びレイは目前の熱気にくらくら来ていた。
「えらい部屋やのぉ」
(放っておいて…)
大体、あなたは誘っていないのに、と心の中で口を尖らせる。
風通しが良いとは言え限度があった、日中の部屋は三十六度を越えている。
「あっついのぉ」
(それ、わたしの台詞…)
コトコトと電熱器にかかったポットから熱気が吹き上げて来る。
レイは汗が額をつたい落ちる感触に、もうだめ、と心の中で呟いた。
「綾波!」
「え?、あっ」
シンジに手を掴まれて、レイは少なからず驚いた。
「熱…」
「早く冷やさなきゃ!」
かなり意識が混濁してしまっていたのだろう、自身を喪失してしまっていたらしい、レイは素手で熱くなったポットに触れてしまったのだ。
右手の指先が少し赤くなっている。
ジャーッと流れ落ちる水道水の冷たさに、レイは人心地ついてはっとした。
右手はシンジの手で水道の蛇口に、左肩にもシンジの手のひらの感触を感じたのだ。
(碇君…)
「ありがとう…」
擬似的に抱かれている状態にレイはわずかに頬を染めて、力を抜いて背中を彼に預けたのだった。
「今回の事件の唯一の当事者である初号機パイロットの直接尋問を拒否したそうだな?、葛城三佐」
緊張感が支配する。
やはりと言うべきか、事態の進行に合わせてネルフはゼーレに吸収されつつあった。
その顕れとしてミサトには幾つかの情報が与えられている。
エヴァがアダムのコピーである、などと言うのは最たるものだ。
その上こうして、委員会にも直接引き会わされもする。
(やり方が汚いわよ!)
第四使徒の時、死骸の分析結果に驚いたのは自分であった。
コピーした物であるなら構成物質が似ていて当然だったのだ。
(人を使うだけ使って!)
だからだろう、シンジを差し出す事をためらったのだ。
(シンジ君は切り札になる…)
それもまた直感だろう。
「では聞こう、代理人葛城三佐」
「先の一件、使徒が我々人類にコンタクトを試みたのではないのかね?」
ミサトはノーと答えたが、それは全くの嘘だった。
シンジからは「誰かに会ったような気がする」との報告を受けていたのだから。
「被験者の報告からはそれを感じ取れません」
ミサトは彼らに真実を告げるのは危険と感じた、だからそう答えるのを妥当と判じた。
「彼の記憶が正しいとすればな」
しかしゼーレ側も譲らなかった。
「エヴァのACレコーダーは作動していなかった、確認は取れまい」
「使徒は人間の精神、心に興味を持ったのかね?」
(何故?)
ミサトはまたも気が付くのだった。
(何故そこにこだわるの?、まるで使徒が人の心を理解するのを待ってるみたいに…)
背筋に寒気が走り抜けた。
(まさか!?)
「その返答は出来かねます、果たして使徒に心の概念があるのか、人間の思考が理解できるのか、まったく不明ですから」
「今回の事件には、使徒がエヴァを取り込もうとしたと言う新たな要素がある」
「これが、予測されうる第十三使徒以降とリンクする可能性は?」
「これまでのパターンから、使徒同士の組織的な繋がりは否定されます」
「さよう、単独行動であることは明らかだ、これまではな」
後にミサトは、この時の言葉を深く心に刻んでおかなかった事を後悔する事になる。
人に興味を持った使徒が、その人間の使うエヴァに興味を持たぬはずが無かったのだから…
「大分しぼられたようね?」
「まぁねぇ」
気楽に答えるミサト。
リツコの研究室だ、勝手知ったる顔でコーヒーをメーカからカップに注いでいる。
「そっちはどう?」
「恐らくS2機関の搭載実験中の事故ね」
アメリカ第二支部が消滅したのだ。
「で、残った参号機はどうすることになったの?」
「ここで引き取る事になったわ?、米国政府も、第一支部までは失いたくないみたいね…」
「参号機と四号機は、あっちが建造権を主張して強引に作っていたんじゃない!、危ない所だけうちに押し付けるなんて、ムシの良過ぎる話しね…」
「あの惨劇の後じゃ、誰だって弱気になるわよ」
「で、起動試験はどうするの?、例のダミーを使うのかしら?」
「いいえ、四人目を使うわ」
「四人目!?、マルドゥク機関からの報告は受けてないわよ?」
「正式な書類は明日届くわ?」
「赤木博士…、またあたしに隠し事してない?」
「別に…」
「まあいいわ、で、その選ばれた子って誰?」
無言でキーを押すリツコ。
「え!?」
ミサトはその少年を、もちろん良く知っていた。
「よりによって、この子なの?」
「仕方無いわよ、候補者は集めて保護してあるのだから」
(そう言う問題じゃないわよ!)
ミサトは隠しもせずに睨み付けた。
「汚いわね、やり方が」
「そう?」
「シンジ君に対する牽制のつもり?」
「…かもしれないわね」
その少年とシンジとの関係は良好とは言えず、間には一人の少女が挟まっていた。
少年はシンジに対して対抗意識を燃やすだろう、あるいはアスカやレイとは違って、シンジに対する戦力となりうるかもしれない。
(そうまでしてシンジ君を切り離そうとして、だったら最初から連れて来なきゃよかったのよ!)
ミサトは本気で怒鳴りたくなるのを堪えて、リツコの研究室を後にした。
シンジは乗り気では無かったのだし、無理矢理乗せておいてからこのような扱いをするなどと、と…
彼女は自分のことは棚に上げて、本気で『上』を憤慨していた。
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