INTROJECTION
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ!」
 病院内だというのにヒカリは息を切らせて走っていた。
 ここまでもずっと駆けて来たのだろう、激しい動悸に透けるほど汗を吸ったシャツが上下している。
 それでもいいのだ、ヒカリの胸は今、別のもので張り裂けそうになっていたから。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…」
 前方にある病室の前、置いてあるベンチにうなだれて座っている少女が見えた。
 顔は長い髪に隠れて見えないが、その赤さには見覚えが有り過ぎた。
(ドクン!)
 自分が来た事には気が付いているはずなのに、彼女は顔を上げようとしない。
 その事に言い知れぬ不安が過った。
(ドクン、ドクン、ドクン…)
 ドアを見る、横にかけられた鈴原トウジのネームプレート。
 ヒカリは震える手を、緊張しながらゆっくりとドアノブに伸ばし、そして触れた瞬間、恐怖を振り払う様に一気に回した。
「お、委員長」
 ぽかんとしてしまう。
 そこには何てことも無く誰かの手作りらしい弁当をがっついている鈴原トウジが居たからだ。
 腹が立った、むかついた。
 いつかトウジに食べてもらおうと思ってヒカリはお弁当を余分に用意していた、しかし手渡す勇気が無くて随分とためらっていた。
 先日、トウジに食べてもらう約束をしたというのに、翌日学校には来なかった。
 そしてようやく所在が知れたかと思えばそこは病院で、電話で知らせてくれた友人は暗い声をしていた。
 不安で震える膝を、だからこそ崩れてしまわぬよう思い詰めて走って来たと言うのにである。
 その、少年はっ、悠長にっっ、誰かの手弁当で鼻の下を伸ばしているのだ!
「バカぁ!」
 …ちなみその弁当を作ってやった少女は。
「シンジぃ…」
 心労と見舞い代わりの弁当作成に疲れはて、廊下のベンチで寝こけてしまっていた。



第拾九話「男の戦い」



 独房にいるシンジに衝動的に手を振り上げてしまった事で、アスカは精神的に疲弊していた。
 時間ばかりを持て余し、暇を潰すために料理に没頭した、それがトウジへの差し入れの真相である。
 同じようにシンジの深遠の一端を垣間見せられた少女がもう一人居た。
 綾波レイである。
「碇君…」
 レイは先程シンジが連れこまれた司令執務室の前に立っていた。
 この中でシンジがどの様に責められているかを思うと胸が痛くなって来る。
 しかしそれ以上に、恐怖していた懸念が現実となってしまったこと、自分が中心になっていた計画によってシンジを傷つけたこと、そしてシンジに知られていたことがショックとなってレイを襲っていた。
 ギュッとスカートの端を握る、だとすればシンジはレイの業を知った上で、あのように付き合ってくれていたのだから。
(わたしは…)
 そのシンジの期待を裏切ってしまったのかもしれない、その想像は恐怖そのものだった。
 シンジは自分を信じてくれていたのかもしれない、しかし自分は自分の都合を優先して来た、その結果がこれなのだ。
 失うことは構わない、自業自得であるから、しかし傷ついたシンジはどう思うだろう?
『やはり』とまた失望するかもしれない、人に対して、期待してはいけなかったのだと、信じてはいけなかったのだと。
(ああ…)
 絶望を与えてしまったのだ、彼の父親と同様に。
『息子のこと信じないのかって』
 レイは天地が回るのを感じた、立ち眩みがする、貧血を起こしたのだろう。
 ゲンドウと同じに扱われるかもしれない、自分は。
 襲いかかってくる喪失感は大き過ぎる物だった。
 逃げ出したくなり、その場を離れる。
 気がつくとシンジの部屋の前だった、気が付けば食堂、気が付けばプールと、レイは何故と自分に問いかけてしまうほど、『思い出のある場所』に足を向けてしまっていた、そして。
「綾波」
「碇君…」
 はっとする、ミサトといるシンジはいつもと同じシンジに見えて、やはりどこかが違っていた。
 胸にちくりと痛みが走る、昔の無感動だったころの無表情とは違い、心を隠すための能面を被った。
 被らなければ目を見れなかった。
 シンジは…、そんなレイに気付いているのか、苦笑を見せた。
「もう僕はいらないんだってさ」
 肩をすくめたシンジに焦る。
「…わけのわからない、理解のできないものはいらないらしいや」
「碇く…」
 突然抱きつかれて焦る、が、同時に嬉しくもあった。
 決定的に嫌われてしまったと思っていただけに嬉しかったのだ、だがこれが最後であると思うと寂しさが込み上げて来る。
 これからはまた元の『綾波レイ』に戻らなければならないだろう、唯一心を溶かしてくれる存在であった彼とは、もう二度と会えないのだから。
 それは絶望だ、絶望を感じるぐらいなら死を望む。
 彼は碇ゲンドウ以上に『愛して』くれた、しかし碇ゲンドウがそれを自分に向けることはないと知っている。
 だからレイは悲しさに肩を震わせ、シンジの最後の言葉に耳を傾けた。
「今日中には戻って来ることになるよ、多分ね?」
 バッと顔を上げる。
(碇君?)
 これまでと変わらない微笑みがそこにはあった。
「さよなら」
 そして微笑みのまま残されるお別れの言葉。
 レイには彼が何を言いたかったのかがわからなかった。
 ただ呆然と立ちつくす以外には出来なかった。


「アスカ、ちょっといい?」
 ミサトはケイジにてアスカを捕まえると、かなり強引に腕を引っ張った。
「ちょっと、いいの?、使徒が来てるってのにこんなとこで油売ってて」
 そう言うアスカの目はやけに冷たい、シンジが追放された事を知ったからだろう。
 アスカはもうネルフ、しいては大人達を全く信用していなかった。
(当たり前ね)
 ミサト自身、自分が信用されるに値するとは考えなくなっていた。
 それに…
「良く聞いて、アスカ」
 ミサトはアスカの耳に口を寄せて小声で話した。
「シンジ君が戻って来るまで何とか粘って」
「シンジが!、帰って来るの!?」
 大きく出かけた声を何とか落とす。
「ええ…、シンジ君は言っていたわ、今日使徒が来るって、その時間も」
「嘘!?」
「本当よ?、細かい話はシンジ君から聞きなさい、わたしは信じる事にしたわ」
 アスカは迷うように視線を漂わせたが、しばらくするとミサトに向かって頷きを返した。
「わかったわ」
「そ、頑張ってね?」
(誰のためでもなく、自分と、彼のためにがんばりなさい)
 ミサトはそう言う思いを込めて、アスカの肩を軽く叩いた。


 ジオフロント内に弐号機を置いたアスカは、使徒が来るまでのしばしの間に、気持ちの整理を試みていた。
(シンジは、予定って言ってた…)
 考え起こしてみると、確かにシンジの挙動は何処かおかしい。
 ユニゾン、あの時シンジは使徒が分裂することを知っていたから、不用意に近付かなかったのではなかろうか?
 記憶を吸い取る使徒の時にも妙に注意を払っていたし、火口ではまるで使徒が孵化する事を知っているかのようだった。
 天から降って来た使徒、シンジは落ちる場所を知っていたように思えるし、霧島マナがスパイである事も知っていた。
 本部が使徒により自爆に追い込まれた時、何とかなるのを知っていたのかもしれない。
 だが、あの影の使徒はどうなのだろうか?
 アスカは小さな拳を胸に当てた。
 口元に優しい笑みが宿り始める。
 あの時もだ、シンジは知っていたからこそ慎重だったのだろう、そしてそれをぶち壊したのは自分なのだ。
 なのにシンジは代わりに死のうとしてくれた、命を投げ出してくれたのだ。
 どの様な予定にしろ、何を望んでいるにしろ、命を落としては終わりではないか。
『さよなら』
 そう言ったシンジは満足そうだった、それは望みを果たせた達成感がそうさせたのだろう、ならなにを成したというのか?
 答えは決まっている。
(だからあたしは、信じられる…)
 碇シンジと言う少年を。
(早く帰って来なさいよ、バカシンジ…、ちゃんと話を聞いてあげるから)
 爆発音。
「来たわね!」
 アスカは舌なめずりをして出迎えた。


 両腕を切り落とされる弐号機、零号機は既に顔を割られている。
 間一髪シンクロカットが間に合ったらしく、レイは無事エントリープラグから這い出す事に成功していた。
 見上げる、弐号機の両腕の付け根からは、勢いよく血が吹き出していた。
『レイ、戻れ、初号機を使う』
「…はい」
『待って下さい!、弐号機はもう限界です!!』
『構わん、囮にはなる、時間を稼がせろ』
 スーツの無線機から聞こえる会話内容に、レイは腹立ちを感じずにはいられなかった。
(あの人は、人を人とは思っていない…)
 ただ一人だけを見ていて、その女性と自分以外は誰も居ないと考えているのだろう、そう見える。
(わたしと同じ…)
 やはり自分はあの男に似ているのかもしれないと思う、自分もやはり自分とシンジしかいないからだ。
(だから、まだ…)
 シンジは戻って来ると言った。
 レイはその言葉を信じていたが、反面戻って来て欲しくも無かった。
 このような陰惨な戦場には。
 きっとまた、彼は傷つくだけなのだから。


 駆け戻る途中で保安部の車に拾われ、レイは急ぎ初号機のケイジへと運ばれた。
 アンビリカルブリッジから見る初号機の顔に、レイは何故か身震いを感じた。
(なに?)
 恐いのだ、底知れぬ怒りのような波動を感じる。
『どうした、レイ』
「はい」
 急かされてプラグの側に回り込む。
 エントリープラグの中を覗きこみ、レイは更に違和感を募らせた。
 以前と同じレイアウト、同じシート、当たり前だ、同じプラグなのだから。
 なのに雰囲気が違う、いや、気配が違うのだ。
 レイは唐突に教室の席を思い出した。
(そうなのね…)
 自分の席には自分の匂いがあるように、他人の席には座ってはならないと言う雰囲気がある。
 他人のものだからだ、そしてここにも同じ気配が残されていた。
(駄目なのね、もう…)
 そしてそれは現実となった。


(吐きそう…)
 他人であること、いや、レイは碇シンジと言う気配に酔っていた。
 口元を押さえ、逃げるようにエントリープラグから外に出る。
 トウジを死に追いやらぬために、シンジはその意識、魂の全てを賭けてエヴァに干渉した。
 エヴァに正気を取り戻させるほどにだ。
 ぬいぐるみを我が子と信じて守る犬が居る、しかし曲がりなりにも心を持つ者が騙されたと知った時、そのものは一体どうするだろうか?
 滲透した怒りは絶対の拒絶を表していた、なにより、シンジだ。
 我が子を取り違えた親に嘆いて、子は傷ついた。
 守るべき親であるはずの自分が悲しませてしまった、その想いは強烈であった。
 初号機はもう、シンジ以外の何者をも受け付けない様になっていた。



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