Rei III
(…だってシンジから好きって言ったのよ?、仕方ないじゃない)
 一度意識し始めた感情は歯止めが効かず、加速度的に心を侵食して脳をバラ色に犯していく。
(好き…、って、認めたのよ、って言うか告白!?)
 きゃーーーーーっと右に向かってローリングしていく。
(だ、駄目よシンジ、あんたなんかに上げられない、もったいない…)
 どうして?、最初に誘ったのはアスカじゃないか…
(だ、だってあの時は…、あんたがチェロなんて弾いたから、かっこいいかなって)
 アスカは僕のこと嫌いなの?
(誰もそんな事言ってないじゃない!)
 だからアスカ、僕のベッドで待っててくれてたんじゃないの?
(違う、違うのよ!、あれはそう言う意味じゃなくて!)
 アスカ…
(あ、ダメ、シンジ!)
 ガン!
(あーうー…)
 本棚の角に額をぶつけて昏倒している。
「…やっぱりエヴァのパイロットって、変わり者ばかり選ばれるのかしら?」
「お姉ちゃんの同級生ってあんな人ばっかりなんじゃ…、ほら、ジャージの人とか、眼鏡の人とかもそうだし」
「もう!、お姉ちゃんもノゾミもっ、覗いてないでどっか行ってよ!」
「「はぁ〜い」」
 渋々引き下がっていく姉妹達に溜め息を吐く。
「アスカもさっさとお風呂に入って!」
 しかしそのアスカはと言えば…
(シ〜ンジぃ〜)
 四肢をピクピクと痙攣させたまま、なにやら奇妙な笑いを浮かべていた。



第弐拾参話「涙」



「ごめんね?、わたし、邪魔かな…」
「ええ」
 アスカの額の腫れ具合を見ながらも、ヒカリはきっぱりと言い放った。
 多少なりとも引きつったアスカであるが、深呼吸と共に気を取り直して告白をした。
「…あたし、勝てなかったんだ、エヴァで」
 それも徹底的な敗北であった。
「もうあたしの価値なんて無くなったの、どこにも」
 それも本来であればとても悲しい事であるはずなのに。
「でもね?、シンジは好きって言ってくれたの、頑張ってって…」
 ヒカリは一つ溜め息を吐いた。
「あたしは…、アスカがどうしたって良いと思うし、アスカは碇君の心配ばかりしてたもの」
「うん…」
 さ、と促すようにアスカを立たせる。
「シャワー浴びて来れば?」
「ありがと…、ヒカリ」
 アスカは単純に感動して部屋を出ていった、恥ずかしさの余り俯いたままで、だからだろう。
 ヒカリの目がのろけ話なんて付き合ってらんないとばかりに笑っておらず、また、その後ろ手に電話の子機を隠し持っていたのに、全く気が付いていなかった。


「凍結中の初号機、何故使用した」
 毎度の様に開かれる会議、だが今日のゼーレ一同はどこかに焦りを窺わせていた。
 それは先の戦闘において、初号機が自在にS機関を起動せしめるという予定外の行動を見せたためだろう。
「エヴァシリーズ、まだ予定には揃っていないのだぞ?」
 しばしばそうであったように、初号機はよく機械的な外的コントロールを拒絶し、独自行動を敢行する。
 S機関を搭載したエヴァはまさしく神に等しいのだ。
 その上、人のコントロールを受け付けないというのであれば…
 現在、初号機から得られたデータを元に、再度S機関搭載型エヴァの開発が再開されている。
 もちろん初号機に対抗するための処置である。
「最近の君の息子の行動には目に余るものがあるな」
「子供一人、満足には操れないのかね?」
 ゲンドウはゲンドウで、この意味の無い無価値な突き上げに、時間の無駄だと苛立ちを募らせていた。
 しかし、先の台詞には微妙な違和感を抱いていた。
(ゼーレではないのか?)
 ゲンドウはシンジがゼーレから情報をリークされているのではないかと疑っていた。
 シンジと加持が懇意であった事からの邪推である。
 戦自など、他の機関である可能性は外されていた、自分と、ゼーレを含む極一部の人間だけが知りうる事実…、特にレイについてはゼーレにすら気付かれてはいないのだ。
 老人であった者達に焦りを感じさせている、それは取りも直さず切り札として利用できるかもしれないと、ゲンドウはシンジの価値を再確認していた。


 ゲンドウへの質疑は使徒襲来の報によって中断されることとなった。
 これはミサトにとって甚だ大きな不都合を生じさせていた。
 ミサトはシンジの告白から、この戦いでレイが致命的な状況へ追いやられてしまう事を知ってしまっていた。
 未来を知ってしまった事によって、ミサトは行動の幅を自ら狭めてしまっていた。
 これもまたアスカが懸念していた事である、先を知ってしまう事で、より上手く立ち回ろうとしてしまう、その結果人に疑問を抱かせる事になってしまうのだ。
 ここでレイの代わりにアスカを出したとして、何故不調の弐号機なのかと誰もが訝しがるだろう。
 ミサトとアスカの違いは得られる情報は全て手にしなければ満足しない性格にある。
 そのために生じるリスクやデメリットは考えないのだ、慎重さと臆病さは当分にあってこそアスカのように振る舞える。
(シンちゃんを見習えって事か…)
 ミサトは結局、司令による直接指示に便乗する形で自分を押さえた。
 シンジのように自分の責務だけを追えるのならそれでも良いのだろうが、ミサトは性格的に何かを成すために何かを犠牲にする事が出来なかった。
 目に見える範囲のもの全てを『なんとかしたい』と考えるタチをしているのだ、そして手を出せるだけ出していく、シンジやアスカとの同居についても同じような理由であろう。
 しかしその責任を果たす能力が伴っていないため、途中半ばで放り出す事になり、無責任と罵られる事になる。
 自分自身も卑下をする、ただし責任は結局取らない。
 ミサトはつい先日、リツコに『家族ごっこ』とそしられた事を思い出した。
 家族であり続けるためには上司である自分を捨てるしかない、そしてそれを徹底的に追及したのがシンジであったのだ。
 平凡な中学生としての楽しみを追及していた姿が思い浮かぶ、そのようにして諦めをつけていたのだろうとも。
 アスカの引っ越しを契機に彼が変わったのは認めざるをえない、度重なるアスカの危機、その回避の為に自分を犠牲にしたのだろうとも。
 自己犠牲、ミサトにはできないことであった、また起こると分かっている事をみすみす待つような真似もできない。
 目の前の事態にのみ対処する事でシンジは秘密を隠して来たように思えてしまう、彼の意図がどうであれ。
 ミサトの考えはその事象そのものを避けることにあった。
(だからあたしを選んだの?)
 ミサトはシンジから与えられた仕事について想いを馳せた。
 本部の制圧と占拠をもくろむ組織への対抗。
 現行のシステムでは不可能と言う結論に達している、ならどうするべきか?
 最良の選択としてミサトは戦自との癒着を考えていた、戦略自衛隊の中にネルフとのパイプを完成させるのだ。
 このために現在、ミサトは意図的にネルフの上位機関である委員会とゼーレの情報を漏らしていた、背任行為と処罰されても仕方の無い行為である。
「零号機発進、迎撃位置へ」
「弐号機は、現在位置で待機を」
「いや、発進だ、おとりぐらいには役に立つ」
 瞬時カッとなったミサトではあるが、零号機が単独で矢面に立たされるよりは良いと、またシンジの独断専行に期待することにした。
 …シンジ的に、それは自分に振られた役割ではないと諦めて。


「のこのことまたこれに乗ってる…、未練たらしいったらありゃしない…」
『アスカ…』
「わかってるわよ…、ふん、わたしが出たって、足手まといなだけだっていうんでしょ」
(ほんと、なんであたしが…)
 ヒカリの家から半ば誘拐されるように連行されたアスカである、自棄にもなろうと言うものだ。
 既に自分のシンクロ率は実戦に耐えうるものではないと諦めていた。
 なにより無理をすればシンジにかける負担が増大するだけなのである。
 一方アスカは、決して小さくは無い喪失感に悩まされていた。
 エヴァとは人生の半分を分かち合ってきている、それを簡単に忘れることは当然出来ない
 結果としてこのように戦闘には出ている。
 大人達、子供達もだが、誰一人としてアスカのシンクロ率の低下が恒久的なものであるとは気が付いていなかった。
 シンジを得た事で精神的に親を疎ましく思う歳になったアスカが、A10神経、想い合う心で繋がれるはずが無いのだから。
 そして捨てられた親は一抹の寂しさと共に心を閉ざし出している。
 エヴァ弐号機の死は近いのかもしれなかった。


「目標接近、強羅絶対防衛線を通過」
『綾波』
『なに』
『…気をつけて』
『心配しないで』
「レイ、暫く様子を見るわよ」
『いえ、来るわ』
 ミサトとしてはシンジの気遣い通りに戦闘を長引かせたかった。
 レイが危機に陥ればゲンドウが初号機を出すと知らされていたからだ。
(そこまでして守りたがる、レイってなんなの!?)
 新たな疑問が沸き起こったが、これはシンジ、加持共に口を閉ざしたためにまだ明かされていなかった。
 本来、初号機とセットになるべきはレイであってシンジでは無かったのだ。
 シンジはゲンドウの言葉通り、元々は予備であったのだから。
 レイが傷ついてしまったがための。
「レイ、応戦して!」
「ダメです!、間に合いません!」
「目標、零号機と物理的接触!」
「生体部品が犯されていきます!」
(くっ、まだなの!?)
 ミサトは焦った、このままではレイはシンジの言葉通りに自爆を謀ってしまうだろう。
「危険です!、物理的融合を果たしています!」
「使徒が積極的に一時的接触を試みていると言うの?、零号機と!?」
 その通りであった。


 使徒はこれまでがそうであったように、やはりATフィールドを持つ者に対して反応を示した。
 すなわち先行させられたエヴァ零号機である。
 強襲する使徒に腹部を貫かれ、零号機は使徒による侵食を受けた。
 フィードバックから呻きを発する綾波レイもまた同様に。
 レイは苦痛にのたうちながらも、軽い失調感を覚えていた。
 その十数秒の意識の混濁を狙って、何者かがレイの心を覗き見ていた。
「誰?」
 レイは己の中に問いかけた。
「わたし、エヴァの中のわたし、いえ、わたし以外の誰かを感じる、…あなた誰?」
 それは非常に良く似た模造体であった、使徒は前回のアスカとの接触から人の心は非常に脆いものである事を知ったのだ。
 と同時に、何かとても強固なものに守られている事もだ。
 守っているのは同じ弱い存在であるらしい人物の『ココロ』であった、その『ココロ』を支えに『自分』に抗えるだけの力を持ちえているのだと知るのが、あの使徒にとっては精一杯のことであった。
 だから彼の使徒は次の自分へと託したのだ、その正体を探る事を。
「わたしと一つにならない?」
 使徒は興味と共に一つの羨望を覚えていた。
 単一の個体が寄り添い合う事でこれほどまでに補強されるのかと。
 それを確かめるために、使徒は己が支えとなるべき対象を探していた。
 赤い女にはすでに『護る者』存在していた、シンジの事である。
 それにレイの本質が自分に近い事を感じ取ってもいた、だからだろう。
 アスカの持つ願望、一つになると言う事への欲望を満たすために、使徒はレイを選び出した。
「わたしの心をあなたにも分けてあげる、この気持ち、あなたにも分けてあげる」
 また同時に、使徒は自分には支え合える相手が居ない事に一抹の寂しさを感じていた。
 嫉妬かもしれない、そこで使徒はアスカの持っていた苦悩を見せた、わかりやすく理解させるためである。
 共感する心が同化を容易くさせてしまう。
「…痛いでしょう?、ほら、心が痛いでしょう?」
 使徒は自分の嘆きを訴えた、しかし、レイは跳ね付けた。
「痛い、いえ違うわ、寂しい、そう寂しいのね?」
「寂しい?、わからないわ」
『過去』のレイであればその苦悩に引きずり込まれていたかもしれない、しかし現在は『シンジ』を得ていた、もうレイはひとり孤独に堪えていたレイではないのだ。
「一人が嫌なんでしょ?、わたし達は沢山いるのに、一人でいるのが嫌なんでしょう?、それを寂しい、と言うの」
 シンジを感じること、それは取りも直さず寒さに震える事でもあった。
 彼は常に側に居てくれるわけではないのだから、だからレイは寂しさを感じずには居られなかったのだ。
「わたしには、碇君がいるもの」
 人の心は直接触れると脆く壊れていく、よってこのように汚染では無く侵食と言う同化形態を取っていたのだが、それが使徒にとっての不幸となった。
 使徒はようやく気が付いた、このレイにも『少年』の気配がする事に。
「寂しいんでしょう?、それはあなたの心よ、悲しみに満ち満ちている、あなた自身の心よ」
 レイはそう切り替えした。
 やり込めるために、身勝手な訴えを跳ね付たのだ。


「弐号機発進、レイの救出と援護をさせて」
「目標、さらに侵食!」
「危険ね、既に五パーセント以上が犯されているわ」
(まだなの!?)
 ミサトの焦りは頂点に達していた、不謹慎な話だが、この時になってようやくミサトはシンジの真の苦悩を見知り悟った。
(このままじゃレイが!)
 ヤシマ作戦、かつて自分が立てた作戦である、それを知った時のシンジはどう思っただろうか?
 レイが傷つくのを分かっていてミサトはその作戦を推奨し、押し進めた。
 シンジの苦悩が深かっただろうことは想像に堅くない、彼はあの時点でレイが重傷を負う事を知っていたのだから。
 知っていて、それを回避するために努めるのがこれほど焦燥感を募らせるとは。
(知っていたのかしら?)
 海上での戦闘で弐号機が噛み千切られる寸前になる事を。
 だから乗り込み、そしてハーモニクスの値を奪い去ったのだろうか?
(知っていたから)
 浅間山で溶岩の中に飛び込んだのだろう、最悪の結果を避けるために。
(シンジ君!)
 ミサトは縋る目で初号機に乗り込んでいるシンジの顔を見た。
『僕も行きます!』
 目が合う前に、シンジからの宣言が来た。
「待て、シンジ!」
『聞かないって言ってるだろう!?』
「初号機を射出口へ移動させて早く!」
 ずっと堪えていただけにミサトの判断は早かった。
「越権行為よ、葛城三佐!」
「使徒の殲滅が最優先です、弐号機が戦力として役に立たない以上、零号機は失うわけにはいきません!」
 シンジの話から、こう言えばゲンドウの反論は無いと読んでいた。
 そしてそれは正解でもあったのだった。


 ポタポタと雫が跳ねた。
 腿に落ちたのはきらめく水晶。
「これが、涙…、泣いてるのは、わたし」
 そう言わしめたのはレイではない、使徒だ。
 同化した使徒がレイの体を通して感情を浮き彫りにしていた。
 アスカの苦悩を自分に置き換えてレイへぶつけた使徒であったが、今は逆にレイから寂しさの意味を伝えられていた。
『綾波!、今行くから、待ってて!』
「ダメ!」
 これは使徒ではなくレイである。
(駄目、わたしの中には使徒がいる、だから…)
 鈴原トウジのように殲滅されるべきである、だが、それはシンジにやらせてはいけない事だった。
『零号機のプラグを強制射出して!』
『ダメです、背部の盛り上がった筋組織が邪魔をして…』
『そんな…』
『この!』
「碇君!」
 レイは零号機に接触している使徒を通じてシンジを感じた。
 使徒を掴んでいる初号機。
 使徒は痛みを訴える、そのためにレイの姿を模造し、声を借りる。
『うわあああああああ!』
 レイは体中が痺れるのを感じた。
(恐いの?、そう、恐いのね…)
 それは使徒の持った恐怖だ、恐怖に体がすくんだのだ。
 雄叫びに込められた生半可ではない意志の力、レイにはまたシンジが泣いていると感じられた。
 シンジの喚きは感情の発露だ、そして自分が失われる事を怖れてくれている。
(ああ…)
 レイはこれ以上はない幸福感に満たされた、同時に使徒は敗北を悟っていた。
 この少女は誰かに支えられて強くなったのではなく、誰かの力を得て強くなったのだと分かったからだ。
 そして自分には、その与えるためのものが無い。
 使徒はそれを手に入れようとして身をくねらせた。
 レイの願望、そのままに。


「わたしが死んでも…、代わりはいるもの」
 レイは誰にでもなく、いや、使徒に向かって訴えた。
 自分が死んでも、あの少年には誰かがいるからと。
 あるいは自分自身を納得させるために。
 自爆のためのシーケンスを進めだす。
『ATフィールド反転!』
「碇君、離れて…」
『自爆する気!?』
『レイ!』
 レイの耳は、もう誰の声も捉えてはいなかった。
 ぼんやりとシンジの優しい声音を探っているだけである。
 いつかの日に、自殺しようとしていた少女が居た事を思い出した。
 シンジはその少女に、本気で嘆き、怒っていた。
(わたしも…)
 同じように見られるのかもしれない、それでもシンジが自分達を命がけで守ってくれたように、自分も命がけでシンジを守りたいのだと思う。
(それが、わたしの願いだから…)
『綾波、脱出して!』
「ダメ、わたしがいなくなったら、ATフィールドが消えてしまう、だから…」
 レイはシンジに負けない気持ちを手に入れた。
 シンジが見付けてくれた心が、ここでようやく極まった瞬間であった、だが、だからこそ失われてはならないものでもあったのだ。
 プラグを襲う激震と腹に来た痛撃にレイは呻いた。
「くうっ!」
『代わりとか三人目とか、そんなの関係無いって言ってるだろう!』
 さらなる怒りにレイは気を失った。
 レイはこの後のことを覚えていない、しかし気を失う直前に、自分の中に入り込んでいたものが消えていく感触と、もう一つ、自分の中にあった自分ではないと思い込んでいたものの正体を見付けていた。


「ついに第十六までの使徒を倒した」
「これでゼーレの死海文書に記述されている使徒はあと一つ」
「約束の時は近い、その道のりは長く、犠牲も大きかったが」
「さよう、初号機に続き、エヴァ零号機の物理的損失」
「碇の解任には十分過ぎる理由だな」
「ここは人柱が必要ですな、碇に対する」
「そして事実を知る者が必要だ」
 天井界ではその様な会話がなされ、その通達はそれとなく『綾波レイ』をと示唆する形で行われた。
 にも関わらず、ゲンドウは赤木リツコを差し出した。


 この決定が良かったのか悪かったのか、綾波レイにとってはかなり微妙な問題であった。
 気が付いた時はベッドの上だった。
「…まだ、生きてる」
 その認識は、同時にレイに寒気をもよおさせるに至った。
 何しろシンジの想いを踏みにじる形で、自己満足のために死を選んだのだ。
 彼への裏切りにも等しいその行為の結果が、どのように跳ね返されて来るのかを考えると、どうして死ねなかったのかとレイの心を追い込みだした。
 シンジが恐い、シンジに会う事が恐い、シンジの態度が変わってしまう事が恐い。
 レイは自分が思っていた以上に、彼の存在が大きくなってしまっていた事に気が付いた。


「レイが目を覚ましたそうだ、後遺症は見られん」
「そうか…」
 冬月はゲンドウの応えに嘆息した。
 同じ侵食でもサードやフォースの時とは態度が違い過ぎるではないかと。
「レイか…、彼女は俺の絶望の産物だが、今だお前には希望の依代のままなのか?」
 ゲンドウは答えずにインターフォンを押した。
「レイに出頭するよう命じろ」
(やはり、忘れる方が無理と言うものか)
 この男も底が浅いなと、見限る時を探し始める冬月であった。


 普通に歩けば医療塔から司令執務室まで三十分の道のりである、にもかかわらず綾波レイが姿を見せるまでに、実に一時間三十分を要していた。
「なにをしていた…」
 レイは無言である、顔色は悪い。
「…まあいい、来い」
「はい」
 ゲンドウはまだ体調が芳しくないのだろうと勝手な心配をしたが、レイは今だ思い悩んでいた。
 どの様な顔をしてシンジに会えばいいのか分からなかったのだ、ただし、彼女の中には『会わない』という選択肢は存在していなかった。
 それゆえにレイは胃に穴が空くような感覚を、生まれて始めて体験していた。


『あなたのガード、解いたわ』
「…僕はあなたや父さんが綾波で何をしているかなんて興味はありませんよ」
 至極あっさりと電話を切るシンジに、アスカは怪訝そうな声をかけた。
「誰ぇ?」
「リツコさん、綾波を帰したから、様子を見てやってくれって」
「そ…」
 食堂、アスカは正面の席に座っていた。
 先程まではミサトも居た、無事乗り切れた事にささやかな祝勝会を開いていたのだ。
 そっけない態度を取りつつも、アスカは内心焦りを感じていた。
(またあの女に先を越されたなんて!)
 愛する男性を自爆してまで守って見せる、それはある種のロマンだろう。
 不謹慎だが自分の命をシンジのために賭けたレイに、アスカは一歩出遅れたような焦りを感じていた。
「行くの?」
「ちょっと様子、見て来るよ」
「あたしは…、今日は帰るから」
「ミサトさんの家に?」
「まあね…」
 無論、着替えを確保するためである。
 本部に住みついているようなシンジと、何かと呼び出しを受けているレイ。
 乙女の恥じらい以前の問題として、シンジとレイの逢い引きと言う現実的な生々しい想像に、アスカは許してなるものかとたぎりを感じていた。


「レイ」
「はい」
 二人でエレベータを待つ息苦しい空気の中で、突然ゲンドウは切り出した。
「もうシンジを見るのはやめろ」
 唐突である、これまでの様に避けろ、ではなく、縁を切れと言うのだから。
「人はみな自分一人の力で生き、自分一人の力で成長していくものだ、お前はもう、子供ではなかろう」
 随分な言い草である、それにその子供の頃でさえ見てやらなかったのは誰なのか?
「シンジもそうして生きている」
「…違います」
 だからレイは、とっさに反抗した。
「なに?」
「碇君は、一人では生きられないから、わたし達を助け、死のうとしている…」
 ゲンドウは振り返り、真正面からレイを見下ろした。
 威圧的に。
「レイ…」
 敵愾心剥き出しで見上げてくるレイに、ゲンドウは激しい動揺を見せた。
「わたしを通して、誰を見ているの?」
 レイは厳かに告げた。
「その人に縋るあなたが、なにを言うのよ」
 ふと、レイは視界の端に人影を捉えて目を動かした。
「碇君…」
 その目の動きにはゲンドウも気が付いたのだろう、ちらりと横目を向けてすぐに戻した。
 そしてさらに驚愕した、レイが嬉しげに口元を緩め、頬を上気させていたからだ。
 許せなかったのだろう、妻と同じ顔をして、自分以外のものに媚を売るその態度が。
 ゲンドウはシンジに当てつけるように、レイの顎を持ち上げた。


「頬、腫れているぞ」
「ああ…」
 と言う会話が何処かで行われている間も、レイはひたすら泣き続けていた。
(汚された)
 その感情でいっぱいだった、人としては尊敬できずとも、育ててくれた事には感謝していた。
 だがその心があのような形で裏切られようとは。
「っく、ひっく、ぐす…」
 レイには泣く事しか出来なかった、言葉も嗚咽に潰れてしまうほどショックだったのだ。
 反射的にゲンドウを叩いてしまった所までは覚えていた、拒絶されるかもしれないと怖れていた少年に抱きとめられた事もかろうじて。
 少年はやはり優しかった、壊れかけた心を抱きしめてくれたのだから。
(碇君、碇君、碇君!)
 抱かれている事で、割れ欠けていく心がなんとか形を崩さずに済んでいた。
「あの人は…、わたしを見なかった」
 脆く崩れた外壁の中身は、アスカ同様に幼く頼りないものだった。
 記憶を失った時のアスカと同じく、レイもその欠けた殻の隙間から、深く沈めていた想いをこぼれさせていた。
「あの人は、わたしではない誰かを見て、その人に似たわたしのした事に怒った…」
 そう、ゲンドウは許さなかったのだ。
 強烈な嫉妬を抱いて。
「あの人が唇を重ねたのは…」
 シンジの目を見る、優しいものを探して。
「わたしが、似ている唇で、碇君の名を、呼んだから…」
 レイはその目に嘆きが吸い込まれていく様な錯覚を覚えた。
 そして代わりに膨れ上がって来る感情は…
「ありがとう…」
 レイはその一言にドキリとした。
(碇君…)
 自分でも目が潤んでいくのが分かってしまった、レイにはシンジが自分の全てを許して、いや、自分の想いを全て受け取ってくれていると確信できた。
 次の瞬間、唇が塞がれた感触にレイは先程のキスを思い出して嫌悪感を募らせた。
(碇くん…)
 だがそれは先程のものとはまるで違う、別物だった。
 堅く乾いた唇ではなく、下品な整髪剤の匂いもしない、添えられた手に強制を感じる事も全く無かった。
 レイはそっと目を閉じた。
 唇を合わせているだけだというのに、たったそれだけで、シンジの全てが流れ込んで来るようだった。
 落ちついた息遣いも、鼓動も、温もりも。
 沢山のことが感じられ、レイは興奮を隠せなかった。
「あ…」
 一度離れた後の再びのキス。
 先程とは違う濃厚なキスに、レイはシンジが自分を求めているのだと感じた。
 だから答えるためにシンジの真似をして求め返した。
 だんだんと酸欠に落ち込んでいき、頭の回転が鈍くなる。
 それでもレイは必死に応えた、息が続かなければシンジの口から唾液ごと吸い込んでまで。
 …そうして、長いようで短かった情事は一応の終焉を見た。
(碇君…)
 レイはこれから先の展開に期待した、シンジから何かとても『確定的』なものを手に入れられると思って、だが…
「綾波…、君の秘密を、教えて…」
 レイはこの言葉を告げられて、通過儀礼と言う言葉を思い出すのだった。


 ドグマの地下、レイのもう一つの『家』である。
 しかしここには既に先客が居た、リツコとミサトだ。
 ミサトはリツコの様子がおかしい事から尾行し、そしてここに辿り着いていた。
「これがダミープラグの元だというの!?」
 レイはどうしようかと迷い立ち止まった。
「いかりく…」
 しかしシンジが臆する事もなく前に出たのでかなり焦った。
「シンジ君!」
「レイ…、いいわ、シンジ君にも真実を見せてあげるわ」
 リツコはリモコンを取り出した。
 そして『あの光景』が展開される。
「綾波、レイ!?」
 水槽に浮かぶ無数のレイ。
「まさかっ、エヴァのダミープラグは!」
「そう、ダミーシステムのコアとなる物…、シンジ君は知っていたようだけど」
(碇君?)
 レイは蒼白になってシンジを見た。
 シンジは何も語らず、悲しげな目をして見守っている。
(誰を?)
 リツコをだ。
(何故?)
 この光景に驚かないのか。
(知っていたから?)
 レイは驚く。
「ここに並ぶレイと同じ物には魂が無い、ただの入れ物なの」
「だから壊すんですか、綾波に嫉妬して」
「そうよ!」
 自分の形をしたものが壊れていく光景に、レイは知らず握っていたシンジの手に力を込めた。
 ギュッと痛いほどに握り返されて、我を取り戻す。
(碇君?)
 横顔を見つめる、そこに嫌悪の感情は見られなかった、ただひたすらに悲しんでいた、憐れんでいた。
 そこにいる女性を。
「リツコさんが死んだって…、父さんはなにも感じないのに」
 行こう?、とシンジに促されてレイは歩き出した。
 このまま何処かに連れられて処分されてしまうのかもしれない。
 そんな恐い考えが過っていく、だから最後にキスしてくれたのかもしれないと、でも。
「綾波…、帰ろう?」
「ええ…」
 レイは「帰ろう」と言う言葉の中に、かつてゲンドウが「戻れ」と発したのと似たようなものを見てほっとした。
 そこにはシンジの、側に居ればいいと言う、慈しむものがあったから。



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