「変わってないって言ったけど、そんなのは嘘よ」
独りきりの部屋。
アスカはベッドの上で膝を抱えながら呟いた。
「あんた、恐がらないじゃない……」
真っ暗なのは月が隠れているからだ。
アスカの目には、床の闇に沈んでいくエヴァの幻影が見えていた。
あの時……
「あんた、死のうとしたじゃない」
(あたしの代わりに)
それも笑って。
「いつでもそうよ……」
こちらのアスカは知っている。
笑って、諦めるのだ。
未練など感じもしないで。
「どうして?」
満足してるから。
「なにを?」
あの最低な頃に比べれば……
「違う、そんな事じゃないわね」
アスカは溜め息を吐く。
「いつでも自分を投げ出せるのは、自分に価値を感じていないから?」
それはその通りだろう。
だがもっと根本で、何か理解し切れないでいる。
「ああもう!」
立ち上がる。
マットレスが軋んで沈んだ。
とんと飛び降りる。
「ややこしいのよね」
シンジを好きなだけなら、こんな事は考えなくても良かった。
盲目的でいられたから。
「でもあたしは違う、違うのよ……」
機嫌を伺う、あの情けないシンジを知っている。
そのギャップが埋められないでいる。
だからアスカは、部屋を出た。
ネルフ本部はそう遠くない。
不夜城と言っても過言ではない、ネルフは昼も夜も関係無く動いているのだ。
当然直通のバスや電車も運行している。
だから物理的な距離がどうであっても、そう時間を掛けずに辿り着けた。
シンジの部屋の前に立つ、アスカは電子ロックに目をやって驚いた。
ランプが青になっている……、つまり、開いているのだ。
開閉ボタンを押す、案の定、なんの抵抗も無く気圧式のドアは簡単に開いた。
真っ直ぐ、前を向いて室内に入る。
背後でドアが閉じ、闇が訪れた。
薄暗い、完全に闇でないのは、電灯の照度が最低に合わされているためだった。
ややあって、アスカは意を決して横向いた。
シンジを見下ろし……、息を呑む。
「起きてたの?」
シンジは横になったまま、アスカを見ていた。
「眠れないんだ……」
「なんでよ?」
シンジは口元に皮肉を張り付けた。
「アスカの言う通りだよ……」
「なに?」
「僕は変わってない……」
ごろんと横向けになる。
「誰もかまってくれないから」
「シンジ……」
その背中に胸が締め付けられる。
(どうして?)
理由は簡単だ。
自分を投影しているから。
(あたしと同じね……)
目を閉じ、思い出す。
”あの頃”、同じように、かまって欲しいと訴えてはいなかっただろうか?
ジェリコの壁と閉じた扉の向こうで、自分は何を感じていただろうか?
人と暮らす事は難しい、軋轢もある、それでもだ。
人の気配がする。
寝息が聞こえる。
それだけでも安心できる。
一人ではないのだと。
アスカはシンジの空けた場所に腰掛けた。
ベッドが軋む。
「あんたもあたしも……、言ってることは同じなのよね?」
「え?」
ドサッと倒れ込む音が聞こえてシンジは驚いた。
アスカは、シンジの背中に張り付いた。
「あたしを見て、僕をかまって……、でもその気持ちを素直に受けられない、この間までのわたしには分からなかったけど、今のわたしなら理解できるわ」
「アスカ?」
「恐いのよ……」
シンジのシャツを掴んで、小刻みに震える。
「みんな……、みんな優しくしてくれるの、でも、どうしていいかわからないのよ」
シンジは溜め息を吐いた。
「恐いの?」
「ええ」
「嫌われるのが?」
「ええ」
「僕と同じだね……」
「ええ……」
喉が渇いたと言えば水を与えてくれる人が居る。
ありがとうと受け取れば喜ばれるが、当たり前のように手にすれば何様だと罵られる。
逆にいつまでも他人行儀であれば、それもまた壁となって、隔たりを作ってしまう。
その距離の取り方を二人は知らない。
「……そんなことを話したくて、ここに来たの?」
「……ええ」
アスカは手を、脇の下から回して胸へと這わせた。
「アスカ?」
「わかんないのよ……」
「なにがさ?」
はぁっと、熱い息が首筋に吹きかかった。
「なんで、あたしを、避けるのよ……」
そんなの、とシンジは言った。
「そんなの?」
「わかんないよ」
「そう……」
落胆。
「好きって言ってもらいたかったんだ、優しくされたかった、でもタダで、なんて厚かましいって分かったんだ」
「あいつのことね?」
マナのことだった。
「だからエヴァに乗るの?」
「うん……」
「敵も居ないのに?」
「いるさ」
「え……」
「僕が何をしてるか、知ってる?」
アスカはわずかに身を起こして、向こう側に有るシンジの顔を覗き見ようとした。
「シンジ?」
「ダミープラグの開発だよ」
「ダミープラグ?」
「アスカを殺した、エヴァを動かしていた奴だよ」
アスカは息を飲んだ。
「シンジ、あんた!」
アスカが驚いたのは、シンジを諌めるためではない。
その顔が奇妙な笑みを浮かべていたからだ。
アスカは身震いをした。
蘇る映像。
八つ裂きにされる体、えぐられる目、切り裂かれた腕。
エヴァに食われる恐怖。
それよりもなによりも恐かった。
シンジの顔が。
「シンジ!」
「それでも僕には……、他に出来る事は無いから」
シンジは反論を許さなかった。
「エヴァを無くすんだ、そのためにエヴァを戦わせるんだ、全部壊すんだ、壊すしか無いんだ……」
「あんた!」
「父さんが教えてくれた、それが一番良いって」
「あんた今更!」
「どうでも良かったんだと思う、ずっとそうだったんだ、死んでも良かった、死ぬまで楽しかったらそれで……、でも辛いんだ、いつまでも死ねない毎日なんて辛いんだ、ねぇ」
シンジは縋るように訊ねた。
「僕達、高校生になるのかな?」
それは唐突な問いかけだった。
「想像できないんだ、僕って大人になるのかな?、何をしているのかな?、したいこともないのに、なんで大きくならなくちゃいけないんだろ?」
アスカに答えられるはずも無い。
「何をするために生きてくの?、僕って、エヴァに乗せるために育てられたんでしょ?、今だって、エヴァに乗せるためにこうして……、なら、エヴァのない僕って、なに?」
「シンジ……」
泣きたくなる気持ちを抑える。
それはシンジのために流す涙ではないからだ。
明らかな同情。
言えなかった気持ちをシンジが代弁している。
その涙だった。
「もう、嫌なんだ、だから全部壊すんだ、今の僕も、今までの僕も、これからの僕も」
「これから?」
怪訝そうに訊ねる。
「これからってなによ」
シンジは答えない。
だがそこに答えを見てしまった。
「死ぬ気!?」
「アスカみたいに……、生きる事なんて出来ないよ」
「あんた生きてるじゃない、必死に生きてたじゃない!」
「でもわかってたんだ、こだわれば……、それだけ傷つくのは自分だって、だからアスカを信じなかったんだ、好きだなんて……」
「好きなのに」
自然とこぼれた声に、アスカは驚くほど冷静だった。
「好きだって言ってるのに」
「僕はそれだけで十分なんだ」
それがアスカの見付けられなかった答えだった。
何故、笑って死んでいけるのか。
何故、それ以上を求めようとしないのか。
今に満足しているからだ。
与えられない限り、それだけで満足しようと勤めているからだ。
求めようとしないからだ。
でも。
「あんた変な事したって言ったじゃない!」
今だってしたいはずなのに。
「でもアスカにはなにもできない」
「恐いから?」
「いらないから」
「あたしが?」
「僕が欲しかったのは……、居心地の良さだけなのかもしれない」
ぐいっと体を引っ張り、アスカは跨ぐように上に乗った。
「ねぇシンジ……」
髪を掻き上げながら顔を近づける。
「キスしようか?」
「キス?」
「少しは上手く、なったんでしょ?」
恐る恐る、少し近付けては止める。
その度に瞼を閉じていく。
唇を重ねた時には、青い瞳は完全に隠されてしまっていた。
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