淡い光に照らされて、老獪な男たちが、暗闇の中から浮かび上がっていた。
「碇君」
一人の老人が、苛立たしげに言葉を吐く。
「ネルフとエヴァ……、もう少し、上手く扱えんのかね?」
揶揄する言葉に追従するように、さらなる毒が吐き散らされた。
「零号機に続き、本部の半壊、第三新東京市の崩壊、国を幾つ傾けても追いつかんよ」
それぞれに、不満は尽きない様子である。
──その十八時間前、第三新東京市は地獄より這い上がった悪魔によって吹き飛ばされていた。
「発進!」
ネルフ、作戦部所属葛城一尉。
巨大な災厄の引き金を引いたのは彼女であった、激震というに相応しい爆震が施設を揺るがす。
「きゃあああああ!」
悲鳴を上げて手短な椅子の背に掴まり堪える、だが多くの人間は座席から放り出され、酷く無様に転がされた。
「なに……、なにが」
起こったの、そう続けようとしたのだろうが、言葉は多くの呻き声によってかき消されてしまった。
倒れた時に体を打ったのか、皆どうにも動きが鈍い、中には頭を押えている者も居る。
「う、あ……」
周囲の確認、磁気嵐に見舞われていた主モニターが突然晴れた。
赤い照りに目を奪われて、絶句する。
「……」
誰もが言葉をなくして、画面に魅入った。
「碇……」
「……」
司令、副司令も呆然とした。
旧箱根地下に存在するジオフロント、ネルフ本部。
そのピラミッドの突端から噴き上がった炎は、火山の噴火を思わせた。
死者の数は?、被害の規模は?、そんな思考すらも吹き飛ばされる。
ゆっくりと……、何かが舞い上がって来る。
誘爆する炎の中に見える影は人型だった、その背中から縦に光が発せられる。
──歪むように二つに避けて、翼となった。
余りにも禍々しい影。
「エヴァンゲリオン……、初号機!?」
悪鬼のごとき光を放つ二つの眼、口からは地獄の業火を吹いていた。
「何て熱量……、吐く息が燃えている?」
「リツコ!」
白衣の女性に振り返る。
「なんなのよ!」
知るわけないでしょう、とリツコは返した。
「わたしにわかるわけないじゃない」
「あんたが作ったんでしょうが!」
「ドイツ支部の弐号機は正常に動いているのよ!?」
半狂乱だ、目も血走っている。
「大体、アンビリカルケーブルは繋がっていないのよ!?、内部電源だけであんな……、あり得ないわ!」
同僚の錯乱に、一部平常心が戻ったようで、ミサトは声の調子を落とした。
「やっぱり……、無理だったんだわ、一度も動いたことがないものをいきなり実戦で使用するなんて」
はっとする。
「シンジ君は!」
初号機はゆっくりと浮かび上がっていく、そこにあるのは氷柱のごときビルである。
歪む、圧し潰されていく、見えない障壁によって。
やがて圧壊した建造物が、真下の本部に向けて落下を始めた。
「いかん!、対ショック!」
副司令の声が悲鳴のように響き渡る、直後、激震。
瓦礫が内部に降って来る、空洞を止まることなく、発令所のすぐ近くにある格納庫を埋め立てる。
「きゃあああああ!」
土砂の降り積もる音と震動が、恐怖心を掻き立てる。
エヴァは……、天井である都市を支える装甲版までもひしゃげるように壊し、押しのけ。
──昇っていく。
そしてついには、夜の闇の広がる地上にまで、その魔神は浮かび上がった。
「いかん、いかんよこれは」
鷲鼻の老人は、神経質に喚き立てた。
「エヴァンゲリオン初号機の、いきなりの覚醒」
「さよう、これは我々の計画を破綻させかねない事態ではないのかね?」
「人類補完計画、我々にとってこの計画こそが、この絶望的状況下における唯一の希望なのだよ」
「大体、あの玩具は自分の息子に与えたそうだが?」
「その息子も、どういう人間なのか、調べてみたのかね?」
西暦二千十五年某月某日、使徒襲来。
──その半月前。
彼は、ドイツの古城に居た。
ドイツ、ハンブルグ地方にあるとある廃城の中。
窓から差し込む光は、埃によってけぶるようにかすれている、そんな光でも暖かさ、温もりがあるのか?、少年は気持ち好さそうに目を閉じ、じっと立ち尽くしていた。
「碇シンジだな?」
謁見の間、今は寒々しく塵が積もり、蜘蛛が巣を張り、そして埃が舞っている、そんな空間。
息をすれば喉が痛いほどだ、少年はなるべく空気を掻き乱さぬように振り返った。
「誰ですか?」
優面に細身の体。
黒ズボンと白シャツは学生服だろうか?、しかし、ドイツにはそぐわない着衣であることには変わりない。
黒服に、この暗さだというのに律義にサングラスを掛けている男達が、三人ばかり立っていた。
「碇ゲンドウ氏の命により迎えに来た」
「ああ」
ほっと胸を撫で下ろす。
「なんだ、マフィアの方かと思いましたよ」
地獄の蓋も、その鬼の前にはないも同然のものだった。
奈落へと通じる穴は開かれた、地上に姿を見せるエヴァンゲリオン、初号機。
「あ、ああ……、ああ」
使徒上空を旋回していた国連軍の戦闘機パイロットは、その姿に呻きを発した。
「悪魔だ……」
「シンジぃ」
彼は甘えた声に顔を横向けた。
「なにさ?」
「やっぱり椅子の後ろに隠し階段があったわ、ここって吸血鬼が住んでたって伝説が在るの、奥まで降りてみる?」
その椅子の後ろからひょっこりと顔を覗かせたのは、十四、五歳の少女であった。
赤い髪に、秀麗な眉目、だが男たちの存在に、彼女の顔つきは険しく歪んだものになった。
「誰よ、アンタたち」
「セカンドチルドレン」
一人の男が、高圧的な声で威圧した。
「収監命令が出ている、我々と来てもらおう」
「嫌よ」
つれなく答えた。
「実験も訓練も、週明けまでないはずでしょう?、休暇くらい勝手にさせてもらうわ」
黒服から聞こえた舌打ちに少年は笑った。
「面識がないはずの人間、それも本部司令の息子が約束もなしに会いに来た……、なのにセカンドチルドレンは、さも当前のように観光案内を引き受けて……、これじゃあ何かあると思われて当たり前だよ」
「馬鹿みたい」
少女は玉座の背もたれに両腕を敷いて、顎を乗せてからかい返した。
「でもあの司令じゃあ、しょうがないわね、そうじゃない?」
まるで会ったことがあるような物言いに、笑いを堪えて少年は訊ねた。
「しょうがない、っか、帰る?」
「帰るって……、あんたはどうするの?」
「まだドイツビール飲んでないから」
肩をすくめる。
「ねぇ?、こっちじゃ子供も飲んで良いってホントなの?」
「生水飲んでみたら?、飲めたもんじゃないから」
「だからビールなの?」
「昔はペットボトルなんてなかったもの」
なるほどねと感心してから、少年は律義に待っていたネルフの人間に向かい直った。
「そういうわけだから、帰ってもらえないかな?、僕はまだ行きたいところがあるし、アスカも案内してくれるつもりみたいだから」
男たちはそれぞれに姿勢を整えた。
「拘束する」
失笑をこぼす。
「どうやって?」
無視して銃を抜く三人、だが、少年に怯むところは現れなかった。
「その手じゃ、捕まえるなんて無理なんじゃないかな?」
がしゃんと音、その音にようやく気が付く。
「!?」
腕がなくなっていた、手首から、すっぱりと斬れ落ちていた。
腕は、複数の足跡が入り乱れている、床の上に落ちていた。
「なによあれ!、リツコ!」
「わからないわ!、何もモニターできないのよ!」
状況に対し、喚くことでしか苛立ちを表現することができない。
「内部電源もとっくに切れてるのに」
「どうやって動いてるのよ!?」
「わからないのよぉ……、こんなのあり得ないのに」
キラリと陽光に光が流れる。
「鈍いね」
「うっ、あ!」
血がぼたぼたとこぼれて跳ねた、手首を押さえて悶える三人、しかし当然止まるはずがない。
「結構光るから、気が付くかと思ったんだけどな」
「何、それ?」
「ん?、ああ、釣り糸、先週までベネチアに居たんだ」
と言って、釣り竿を持ち上げるゼスチャーをする。
「それでついでに寄ったってわけ?」
「そ」
呆れた物言いをする。
「あんた馬鹿ぁ?、暇してなかったらどうするつもりだったのよ?」
「その時はその時だよ、一人で観光して帰るつもりだった、……うるさいよ」
再び妖刃、煌めきながら糸は漂うように流れて三人の首に巻きついた。
ゴトンと三つ、だくだくと流れ出す血を吸って埃が黒く固まっていく。
「あんたも変ったわねぇ」
その様子に彼女は感嘆していた。
「そう?、慣れじゃないかな」
糸を手放し、自嘲気味の笑みを向ける。
流れ、ふわりと落ちる糸。
「アスカの首を締めた時ほど、恐くはないよ」
「そう?」
少女はその一部始終を眺めながら、首を軽く撫でさすった、痣のようなものが浮かんで見える、手のひらの形に。
「ねぇ……」
「なに?」
「どうして、あたしの首を締めたの?」
「ああ……」
彼は遠くを見た、遠くを見る目をして、暗くこぼした。
「だって……、僕を見てくれないなんて……、かまってくれないなんて」
──だったらいらないって。
「憎くってさ」
「そ」
使徒はただ立ち尽くしていただけだった。
魔神は睨んだだけだった。
炎が立ち上った、それは使徒が発する物と同じ色をした炎であった。
「あんな力まで!」
「あの炎はなに!?、あれもATフィールドなの?」
「知らないわよ!、物理的接触面で空中原子がプラズマ化して熱放出を起こしてる!?、なんなのっ、この力は!」
「聞いてもいい?」
少年は気怠く訊ねた。
「何故、エヴァに乗るの?」
「あんたと違うからよ」
「へ?」
「深い意味なんてない、どうやったって監視の枠から逃げられないなら、そう思っただけ」
「ふうん」
話題から逃がれようとして少女は訊ねた。
「あんこそ、いま、なにやってんのよ?」
少年は乗ってやった。
「色々やったけど、今はこれかな?」
と、死体に目をやる。
「最初は喧嘩、負けてばっかりだったけどね……、調子に乗ってたら、暴力団とかに狙われ始めてさ、気が付いたらその道の人っていうのに会って、色々教わることになってた」
ふうんと少女。
「さっきの糸も、その一つってわけ?」
「うん」
「いいなぁ!」
少女は心底羨ましそうに唸り、腕の間に顔を隠した。
「あたしなんて、学校行ってエヴァに乗って、なぁんにも代わり映えしない毎日だもん」
悶えて、腰をくねらせる。
「暇な時は家で寝てるだけ、つまんない」
少年は気遣い訊ねた。
「友達とか、いないの?」
「作れなかったのよ!、遊びに行こうとすると邪魔されるし、実験漬けのせいで付き合い悪いって見放されるし……、『やっぱり』いいことなんてなかったわ、なにも」
顔を背ける。
「それでも乗るの?、エヴァに」
少女は顔を上げた。
「なによ?、そんなに嫌なわけ?」
「だって……、理由がないじゃないか」
少し興奮した姿を見せる。
「だって……、人は死ねば生まれ変わることができるんだ、魂は永遠だから、例えセカンドインパクトが再び起こったとしても、人はただ死ぬだけだ」
目を細めて問い返す。
「だから、戦う必要なんてないっていうの?」
「使徒……、完全に沈黙」
生唾を呑み込みながらの報告になった。
「天井都市、第四十五、四十八、五十一から五十七、六十区画、消失」
「周辺部での火災、広がっています」
「ビルが、落ちて来ます」
ゴゴンと震動が二三度続いた。
どうやら本部ビルの隣りに落ちたらしい、すくめた首を、元に戻す。
「凄まじいわね……」
呻くミサト、ザザッとスピーカーからノイズ音が聞こえた。
『聞こえますか』
「シンジ君!?」
反射的に問いかける。
「大丈夫なの!?」
『ええ、でも……』
酷く、戸惑っているようだった。
『もうちょっと……、なんとかならないんですか?、これ』
──手加減、したんだけどなぁ。
その台詞に、発令所の面々は惚けてしまった。
「セカンドインパクトねぇ……」
少女は首を傾げ、肩をすくめた。
「生まれ変わりなんて、信じられない」
そう?、と訴える。
「でも僕とアスカはここに居る、良い証拠じゃないか」
「馬鹿……」
何故だか赤くなる少女に、少年は意地も悪く付け足した。
「レイと、カヲル君もだけどね」
「もう!」
殴る振りをする、おちゃらけた態度に付き合って、少年も逃げる振りをした。
「はは……、でもホントのことだろう?、どんなに地獄みたいな世界でも、僕たちはなんとでも生きて行けるさ」
拗ねて口を尖らせる。
「そんなの知んない!、あの女はともかく、あたし、カヲルってどんな奴か知らないもん」
そうだっけ?、と少年。
「そうよ」
拗ねた横顔の可愛さに、吸い寄せられるように引き寄せられる。
そっと近付き、少年は少女の肩に手を置いた。
「アスカ……」
「シンジ?」
少年は背からのしかかるように抱きつき、腕を回した。
頬で彼女の髪を掻き分ける。
「ね、キスしようか?」
耳を見付けて息を吹きかける。
「ちょっと!」
少女は真っ赤になって押しのけた。
耳を押えて罵声を上げる。
「あんた!、何処でそんなこと覚えて来たのよ!」
「そっちの方でも師匠が居たもんで」
「へぇ?」
「偉い人って、必ず愛人囲ってるからさ、情報を引き出したければ女を責めろってね」
「ほぉ?」
「子供の振りをして近付けば、簡単だろうって……、なんだよ?」
「べっつにぃ」
だがジト目だ。
酷く白い目になっていた。
「なんだよもぉ……、だったらそんな目で見るなよなぁ」
ぶつくさと。
「どうせフケツですよぉだ」
「わかってんじゃない」
今度は少年に拗ねる番が回って来た。
「何だよもう、つまんない男とか言ってたくせにさ」
そして時は現在に到る。
「いずれにせよ、使徒再来によるスケジュールの遅延は認められない、予算については追加する」
「碇、この修正、容易ではないぞ」
告げるだけ一方的に言い放ち、この怪しげな会合を打ち切りとする。
しかし、老人たちが消えてもなお、男はその場に留まり続けていた、深く、何かを思うように。
●
西暦二千年、南極に光速の数パーセントで落下した隕石がもたらした災害は、有史以来、未曾有の危機をもたらした。
水位の上昇、気象の変化、経済の崩壊、紛争と内戦、世界人口は、約半数を失った。
それから十五年の後の今、復興の兆しが見え始めたばかりの人類に、新たなる試練の時が訪れていた。
──使徒。
神の名を関する正体不明の存在。
だがしかし、予想されうる事態であったとして、国連は秘密裏に特務機関ネルフを設立、使徒襲来に対し、万全の態勢を整えようとしていた。
そう。
『整えようとしていた』、それはまだ、準備の域を出ていなかった。
従事していた職員たちは、みな不確定な仮想敵に対して気を緩め、いつ来るかもわからぬと危機感も使命感も抱けぬままに、無為に時を過ごしていた。
そして、間に合わなかったのだ。
調整不十分な決戦兵器、パイロットの任命は決戦当日、当然のごとく訓練どころか、満足の行く事情説明すらも省かなければならなかった。
──全ては、切迫していたのである。
結果、決戦兵器は暴走、揚げ句制御不可能の状態へと陥り、狂った力を周囲へ振るった。
守るべき街すらも焦土と化して。
ただ一つの幸運は、その被害者の中に、偶然にも使徒が紛れ込んでくれたことであろう、国連軍が持てる弾薬の全てを消費しても倒せなかった化け物を、この決戦兵器は一撃、たったの一撃で屠り去ってくれたのだ。
零号機に続く二度目の失態として、公式記録に残され、国連軍へは提出された、これがネルフ本部の発表した公式見解である、もっとも。
それを信用する組織は、まさしく零に等しかったが。
天井に空いた大穴から光が差し込み、彼を温もりの中に包み込む。
灰色の髪は陽光を受けて、白銀の輝きを散らしていた。
色素が薄いのか肌も白く、そして目は赤い。
「ジオフロント」
血色の悪い唇から言葉が漏れる。
「ここに眠るのは母なる実、触れなければ決して呼び起こされることのなかった『原初の卵』……、だけど卵は刺激を受けて、自ら受胎期に入ってしまった、人類は、自らの手で自らの敵となる新たな種の発現を促してしまった」
──そう、と皮肉る。
「同情には、値しないね」
さてとと、少年は森の中を歩き出した。
ジオフロントの地下には、テントやプレハブ、仮設小屋があちこちに建てられ、一種の集落を形成しつつあった。
避難民である、現状で地上に戻すことは危険であるとの判断で、緊急避難が適用されていた、シェルターに逃げ込んでいた民間人の一部を受け入れているのだ。
「職員に家族が居ると不幸だねぇ、遠くへ逃げたくても留まるしかない、ところで」
困ったような顔をする。
「シンジ君は、一体どこにいるのやら」
地上、焼け野原となった街の中央道を、大きな軍用トラックが地響きと排気ガスを残して走行していく、その運転席に座っているのはミサトとリツコ女史であった。
「ほんっとに無茶苦茶ね、この街、元に戻るの?」
流れる景色に溜め息を吐く。
「無理ね、迎撃システムを回復させるだけでも何ヶ月かかることか」
「うわちゃ〜、十五年も掛けて準備してこれか」
目も当てられないとはこのことだった、たった一夜で、稼働することなく、灰になってしまったのだから。
「じゃあ、避難民は?」
「疎開してもらうしかないわね」
「納得すると思う?」
「しなくても逃げ出すでしょう?、広報部が泣いてたわ、これじゃあ仕事のし甲斐がないってね」
隠しようがないという話である。
「じゃあ、シナリオの発表は?」
「D55、かろうじて撃退ってとこね」
「こちらも甚大な被害を被った、と」
リツコは険のある視線を向けた。
「それは、皮肉なの?」
ミサトは慌てた。
「だって、そうじゃない?、皮肉も言いたくもなるわよ……、その被害の九割がたが、自分たちの決戦兵器が出したものだなんてね」
分が悪いと感じたのか、話を逸らす。
「で、シンジ君への風当たりは?」
「同情的ね、だってあれは暴走だもの、そうでしょう?」
何故だか眉を顰めるリツコである。
「恐かったでしょうにということ?、でも真実は……」
「全てコントロールしての結果……、でも問題は、次にどうするかよ、何か良い案、あるんでしょ?」
だが、そんなミサトの甘い考えは打ち砕かれた。
「ないわ」
「へ?」
「ないわよ、そんなの」
あっさりと期待を切って捨てる。
「現時点では、お手上げよ」
そんなとミサト。
「じゃあどうするのよ……、零号機は未だ放置したままなんでしょう?」
「司令がね……」
気怠く言う。
「弐号機の空輸を打診したそうよ」
「弐号機、アスカを?」
ミサトは考え込むような素振りを見せた。
「ねぇ?、諜報部から報告書を貰ったんだけど、あれ、ほんとなの?」
「どれのこと?」
「決まってるじゃない!、シンジ君がアスカと知り合いだって話よ」
またも吐息が洩らされた。
「接触はもちろん、通話も通信でのやり取りも見つかっていないわ、まったく面識はないはず、それが結論よ」
「だけど、不意にドイツ支部のゲートの前に現われて、アスカにデートを申し込んだ」
「そしてセカンドも、申し出を受けて、そのまま古城へ、普通じゃないわね」
沈黙の帳が下りる。
「シンジ君、どういう子なの?」
ミサトは知っていることを敢えて訊ねた。
「碇司令の息子で……、十歳の時に親戚に預けられる、その後非行に走って家出、以後音信不通の音沙汰無し、碇司令の命令によって去年捜索を開始して、結果は知ってのとおりよ」
「自分から現われた、か……、でもおかしくない?、どうやってドイツに渡ったの?」
その疑問はもっともだった、政情が不安定な現在、出入国に関しては、非常に厳しい制限が設けられているのだから、子供が国を出たなら、それがわからないはずがないのである。
だが、リツコの答えは、やはり不明というものであった。
「彼が姿を見せた場所だけでも、ドイツ、ハルビン、ヨルダン、ニューオリンズと、世界中に広がっているわ、エアーズロックの観光客の中に紛れ込んでいたって話もあるくらいだしね」
ミサトは眉を顰めた。
「なによそれ?、ネルフ支部があるところばかりじゃない」
「これで司令と無関係なんて誰も信じない、けど、司令は司令で、本当に知らなかったみたいよ」
「本人……、が教えてくれるわけ、ないか」
「ええ、諜報部が全力で洗ってるわ、何か出てくるのを期待しましょう?」
爽やかな風が頬を撫でる。
ジオフロントの森林、湖岸域。
高めの木の、太い枝の上で、少年は幹にもたれるように、穏やかな眠りに包まれていた。
「まいったなぁ」
頭を掻く。
「こんなところで足止め食ってどうするんだよ」
──旧箱根鉄道、某駅。
人の姿が消えた駅に、緊急警報を伝えるアナウンスが響き渡っていた。
『本日十二時三十分、東海地方を中心とした関東中部全域に、特別非常事態宣言が発令されました』
そんな中、少年は逃げもせずに、ただただ途方にくれていた。
「電話も駄目だし、モノレールも動かないし、シェルターに行くか?」
短い黒髪、ありふれた制服を着ている中学生、それは碇シンジであった。
呑気に駅を出て、正面公園の階段に腰掛け、封筒から何やら中身を取り出している。
差出人の名義は葛城ミサト、中からこぼれ出たのは一枚の写真と簡単な手紙であった。
「シンジ君へ、わたしが代わりに迎えに行くから、待っててねん、か」
苦笑して戻し、今度は手紙を開く。
「来い、ね、簡潔、……何か書こうとして色々考えてる内に面倒臭くなったのかな?、ってそれは僕か」
両方を封筒に戻してから立ち上がる。
「やっぱりシェルターに行こう」
手短なごみ箱へぽい、だ、その直後、周囲に爆音が木霊した。
「ミサイル攻撃でも歯がたたんのか!」
──第三新東京市ネルフ本部、第一発令所指令塔最上段。
「何て奴だ!」
喚いているのは国連からの出向者三名である。
主モニターには、使徒と呼称される生物と、蝿のようにたかる戦闘攻撃機が映し出されていた。
「やはりATフィールドか」
「ああ、ATフィールドが有る限り、通常兵器は役に立たんよ」
「ATフィールドを抜きにしても、勝てるようには見えんがね」
ネルフ司令、碇ゲンドウと、副司令、冬月コウゾウの会話である。
「避難確認くらいしてから攻撃しろよなぁ!」
シンジはホームから線路に飛び下りると、転落者が逃げ込むための穴蔵に体を丸めて爆風をやり過ごした。
「線路伝いに逃げるしかないか」
「碇君」
上からの声に振り仰ぐゲンドウである。
「先程、旧箱根鉄道の線路上を避難中の学生を発見、保護したそうだ、君のご子息だと名乗っているそうだが?」
ゲンドウはピクリと反応を示した。
「本部への移送を願います」
「わかった」
「……碇」
苦々しく吐き捨てる。
「わかっている、葛城一尉を呼び戻せ!」
──第三新東京市、ネルフ本部、ゲート前。
ジェットヘリの風に顔をしかめながら、金髪の女性が出迎えた。
「あなたが、碇シンジ君!?」
「あなたは!」
「赤木リツコ、行きましょう!」
二人が叫んでいたのは、ヘリのローターの起こす風が、非常にうるさかったからである。
「はぁ、やっと落ち着きましたよ」
「そう?」
本部内に入ると、突然静かになった、それは背後で閉じたシャッターが厚くて、雑音を遮ってくれたからである。
「結構恐かったですよ」
「そう、そうね、ところでシンジ君?」
「はい」
「IDカード、貰ってない?」
シンジは肩をすくめて、白々しく答えた。
「どっかに行っちゃいました」
「そう……、まあ良いわ、読む?、ここのことが書いてあるけど」
シンジは差し出されたパンフを断った。
「良いです、知りたくもないから」
「冷めてるのね」
「そうじゃなくて……、どうして呼び出されたかもわからないのに」
「気になる?」
「当たり前じゃないですか、父さんはもう、僕のことなんてすっかり忘れてると思ってましたから」
シンジはエレベーターに乗り込んでから、会話の続きに入った。
「これから、父さんの所に行くんですよね?」
不安なのかとリツコは思った。
「お父さんが、苦手?」
シンジは答えなかった。
「苦手なのね……」
そっと盗み見てギョッとする。
口元に浮かべている笑み、それは寒気を走らせる、冷ややかなものを感じさせた。
「使徒、それはATフィールドと呼ばれる一種のバリアを持つ知的生命体だと思われるわ、NN爆弾を知ってる?、国連軍は最後の手段としてそれを使用したようだけど……」
不安に思い、表情を曇らせる。
「でも……、街は?」
「大丈夫よ、住民はシェルターに逃げてるはずだから」
「僕は迷ってましたけど」
返事がない。
「いい加減ですね、結構」
「時間も余裕もないのよ、着いたわ」
それで許されると思っているのだろうかと考えたが、シンジは無駄かなと諦めた。
ゴムボートに乗って案内されたのは、黄色いプールの奥にある作業場だった。
灯が燈る、目の前にあったのは……
「汎用人型決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオン」
「人、人間なんですか?」
「良く来たな」
声に上方を振り仰ぐ。
「父さん?」
ふっと久しぶりに見る父は笑みを浮かべていた。
「出撃」
「出撃?」
「シンジ君、あなたが乗るのよ?」
言い諭す言葉に溜め息を吐く。
「父さん」
「なんだ」
「頼むから、話す時は単語で済ませるのやめてくれない?、よくわかんないよ」
妙に呆れた物言いをする。
「これに乗って、さっきのと戦えっていうんだね?」
「そうだ」
「無理だとは思わないの?」
「お前にしかできないことだからな」
仕方なく翻訳を頼もうとしたのだが、邪魔された。
「待って下さい!」
慌てたように、第三者が駆け込んで来た、赤いスタッフジャンパーを着た女性、どこかでうろついていたらしい葛城ミサトである。
「本気ですか!?、綾波レイでさえシンクロには七ヶ月かかったんですよ、今来たばかりの彼には無理です!」
「座っていればいい、それ以上は望まん」
「しかし!」
「葛城一尉!、今は使徒撃退が最優先事項よ」
リツコが割って入ったのは、ミサトの言葉から指揮に影響が出ると判断してのことだった、このような状況下での、上司の正気を疑うような発言は、してはならないことである。
だがミサトには、そんなところにまで考えを至らせることはできなかった。
酷く常識的な言葉を返す。
「とても作戦課としては了承できません、訓練も受けてない素人には無理だわ!」
感情論に走るミサトにリツコは憤った。
「いま使徒に勝てる可能性が有るのはエヴァだけよ、それとも他に方法があるの!?、さ、シンジ君」
シンジは二人を無視してゲンドウを見上げたままだった。
「お前がやらなければ、人類全てが死滅することになる」
「大袈裟な……」
「乗るなら早く乗れ、乗らぬならここでは不要な人間だ、帰れ!」
シンジは薄く笑った。
低くくぐもった笑いを洩らした。
「ま、拗ねられても困る……、乗ってあげるよ」
少年は不敵な笑みを、巨大な仮面へと向けた。
「どうなっても、知らないけどね」
初号機が脅えたように見えたのは目の錯覚だろうか?
その十分後。
確かに誰もが想像もできなかったような事態が発生し、到底後悔の一言では片付けられないような状況へと陥ってしまったのであった。
──そして、今。
人工の森の中、温かな日の光を浴びながら、少年は、木の枝の上。
疲れた体を癒すかのように、穏やかな眠りの中に落ちていた。
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。