──満点の星空の元、大の字になって転がっている少年と青年の姿があった。
「なぁ……シンジぃ」
人里離れた山の中。丘の上。熊のような男がいった。
「人間ってのは……弱い生き物なんだなぁ」
ぶちっと聞こえた。
「だから嫌だっていったんだ……素手で猪なんて捕まえられるわけないじゃないか」
朽ちかけていたボロ雑巾の吐いた愚痴に、男は苛ついた声でいい返した。
「魚に飽きたっていったのはお前だろうが」
「先生が釣り竿折ったんじゃないか」
「お前が滝壷にはまって折ったんだろうが」
「先生が熊が出たっていって突き落としたんじゃないか」
「……#」
「……#」
だぁっと取っ組み合いを始める。しかしかなりもたくさとしていた。腹が減っているのだろう。
その内に突っ伏して動かなくなった。どうやら最後のエネルギーまでも使い果たしてしまったもようである。
「……なぁ、シンジぃ」
「なにさ」
「人間ってのは、ひ弱な生き物なんだなぁ」
「……今更」
その時にはそう思ったものだったのだが。
──2015年、第三新東京市、ジオフロントネルフ本部第一ケージ。
そこでは苦難の運命に翻弄される予定であった少年が、まともに会話できる奴を連れて来いと憤っていた。
こうして少年は強くなった
──最悪の状況に騒動が広がりを見せる。
「救護班っ、急げぇ!」
「そっちにもいるぞ!」
「流される前につかまえろ!」
「早く排水溝を塞げぇ!」
はっきりといって、使徒が来るというのにいつまでもそんな場所にいた彼らが悪い。
それでも皆は一丸となって、冷却水に拐われた彼らを救い上げた。
幸いにも冷却水はエヴァに使用されている擬似体液と組成成分が似通っていたので、溺れた彼らが脳などに致命的な損傷を被ることはなかった。
医師三名。ファーストチルドレンと呼ばれるエヴァンゲリオンのパイロットが一人。及び技術部主任の女性が一人。彼らはなんとか、重傷の段階で回収された。
オレンジ色のエヴァンゲリオン、零号機と使徒は、壮絶な相打ちを交わしたままで停止していた。誰もがそれが目に入らないようにふるまっている。むせ返るほどの血の匂いは冷却水を数倍濃くした、シンジに惨殺(?)されたエヴァンゲリオン初号機のものであった。
「予定外の使徒侵入だな」
「ああ、こちらも胆を冷やしたよ」
暗闇という不健康な空間で会議を開いている男たちがいた。
総勢六名。一番下座にネルフの総司令がいる。上位者はすべてが老人だった。
「君のおもちゃ、もう少し上手く扱えんのかね?」
使徒の迎撃という一応の目的は遂行されているからか、語調はどこか弱かった。
対外的には初の実戦ということから来る緊張のために不手際が生じ、エヴァンゲリオンの発進が間に合わなかったことになっていた。そう。
──彼、碇ゲンドウの手によって。
余りにも強いショックに襲われて、どうにも虚脱してしまっていたらしい。それでも気が付けばいつも通りに隠蔽工作の指示を出し終えてしまっていたのだから、習慣というものは恐ろしかった。
もちろんその中には、彼がもっとも心配しているエヴァンゲリオン初号機に関することも含まれていた。
初号機の出撃は間に合わず、急遽零号機を使用し、撃退した。初号機はこの戦闘に巻き込まれて大破した。
そういうことにしてしまっていた。
自失してしまっていたというのに……初号機修復までの間、零号機を使用するしかないということで、補正ならびに追加予算の申請までもを済ませてしまっていた。ぶんどる算段を立て、実行に移して、零号機改修のためのドイツ支部への部品徴収交渉までこなしてしまっていたのだから、本当に呆れたものだった。
そして彼は、本当にそのすべての作業について、まったく覚えてはいなかった。
──使徒の破壊活動によって、格納庫や第一ケージの通信が途絶えてしまっていたのは幸運だったかもしれない。
おかげでシンジは特異な能力について、まったく詮索されずにすんでいた。その能力を目のあたりにし、その上で無事といえる人間が総司令ただ一人であるのもまた幸いしていた。
彼の指揮の下にすべてが納められた今、副司令……白髪の老人、冬月コウゾウが、真実を耳にする機会は失われてしまっていた。
彼はゲンドウの言葉を鵜呑みにして、初号機は使徒によって破壊されたのだと思いこんでいた。
「そういうことなんだよ」
彼は破壊されてしまった初号機の代わりに零号機を駆って出撃したという少年へと目を向けた。今はゲンドウのことは忘れている。どうせ使い物にならないからだ。
「そっか、エヴァンゲリオンって、母さんが死んだ時の……」
「ああ、覚えていたかね」
「……なんとなく」
「わたしもあの場にいたんだがね」
コウゾウは苦笑し、続けた。
「緊張して、なぜこの場に子供がいるのかと苛ついてね。当たり散らしたりもしたんだが……」
「実際、母さんは死んじゃったわけですから……仕方ないですよ。それだけ難しい実験だったんだから……緊張してて当然ですよ」
「悪いね。わたしはなにもできなかった」
「いえ……」
少しだけしんみりとする。
広い部屋なのだが、沢山の資料が整理されて並べられている。ここは副司令の執務室だった。
「あの……」
シンジはようやくといった思いで切り出した。
「ぼくを呼び出したのって、結局なんの用だったんですか?」
「訊いていないのかね?」
「はい。訊いたんですけど、さっぱり要領を得なくて」
コウゾウは頭痛を堪えるために額に指を押し当てた。
「やはりわたしが説明するべきだったか……久しぶりの対面だと思って行かせたのだが」
「父さんって、やっぱり?」
「あの通りの男だよ」
いってしまってから、その息子だったなと思い直し、コウゾウは口調を改めてごまかした。
「あの機体……壊されてしまった機体なんだがね、あれはエヴァンゲリオン初号機といって、君のお母さんが死んでしまった機体なんだよ」
「あれが、あの時の……」
「ああ。死んだというのも適切ではないんだがね……正確には取り込まれてしまったんだよ」
シンジは眉間に皺を寄せた。
「覚えてます」
「全部かね?」
「実験の最中のことはあんまり……でもその後のことははっきりと覚えてます」
「たとえば?」
「実験が失敗しちゃったこととか、遺体のない葬式になってしまったこととかを、親戚の人たちが陰口叩いてくれましたから。それで覚えてるんですよねぇ……」
他には夫である碇ゲンドウが、実験を利用して殺害したのではないのかなどの中傷までも流してくれた。
事故を装って殺害し、その証拠を消し去るために、遺体を処分したのではないのかと……。
「……ユイ君が取り込まれた後のことだよ。初号機を調査したところ、若干の変化が確認された。構成素材の変化とでもいえば良いんだろうか? その体組織を構成している情報が、人間のものにかなり近くなってしまっていた。我々はこれをどう捉えるべきか悩んだよ」
「は?」
「難しかったかな? 君はDNAが二種の螺旋で構成されていることを知っているかね? 対を成すどちらか一方が使用され、もう片方は眠っている。ジャンクDNAと呼ばれるものだな。ところがエヴァはそれを持たない単相と呼ばれる生命体だった。それがユイ君の『優性遺伝子』を巻き込んで二重になり、エヴァは完全な人となった」
「人……あれが人間なんですか?」
「人造人間と呼ばれる由縁だよ。まあはっきりとしたことは初号機の失敗を笑い、先に実験を成功させてやろうと色気を出したドイツ支部が、同じミスを犯したことから調べがついたことなんだけどね」
もう少し言葉を砕かなければならないか? とコウゾウは反応を窺った。
「これはドイツ支部のセカンドチルドレン……エヴァのパイロットは知らない話だから、秘密にしてくれるかね?」
「良いですけど……誰にも喋らなければ良いんですよね?」
「そうだね。君は覚えているようだから話してもかまわないなと感じたんだが、ネルフでもこのことを知っているのはごく一部の者だけなんだよ」
「わかりました」
「お願いするよ──それでだね、エヴァなんだが。エヴァは人間を吸収したことで人となり安定したんだ。さらには構造……遺伝子的に近い者、近親者だね。その者であればエヴァとシンクロできることも確認されてね」
「シンクロって?」
「操縦できるということだよ。エヴァはパイロットを選ぶんだ」
「それでぼくを?」
「呼んだわけだが」
ううむと唸る。
「初号機がああなってしまった今となっては……運良く君は零号機を起動できたようだが」
何やら心中複雑な様子なので、シンジは思案の邪魔をすまいと用意されていたコップのジュースをストローですすった。
──甘めのオレンジジュースだった。
「君たちが壊した玩具に街、その修復だけで十分世界経済は破綻するよ」
「我々の計画にも影響しかねん」
「理解っているのかね? 碇君。『人類補完計画』、これこそが我らの急務であり、もっとも重要な案件なのだよ」
「此度のことは、本末転倒といえる事態を引き起こしかねん被害だよ」
「さよう──補完計画のためにこそ、使徒の撃退は必要なのだよ。使徒の撃退にかまける余り、計画が倒れたのでは話にならん」
「碇……」
重く静かな声が響く。
「弐号機及びパイロットの補充を認める。予算についても一考しよう……後戻りはできんということを忘れるな」
フォログラフィだったのだろう。ボゥ、ボゥっと消えて行く。すべてが消え去った後に、光を遮っていた窓の遮蔽板が収納された。
真っ黒で、やけにだだっ広い部屋である。そこは総司令執務室だった。
ぽつんと奥まった場所にある机に、ゲンドウは一人、肘を突いて作った手の橋に額を押しつけていた。
愚痴をこぼす。
「ユイ……わたしはどうすれば良い?」
彼は妻の死んだ機体を、そのものであると盲信していたようである。
だからそれが失われた今は、すがるものなく憐れな姿を晒していた。
「知らない天井……でもないわね、ここは」
波に飲まれて消えた白衣の女性、技術部主任、赤木リツコ。
髪は金色に染めている。検査用の紙製の服ごしにでも、わりと豊かなプロポーションが見て取れた。
彼女はベッドから抜け出すと、そのままの恰好で部屋を出た。
多少のめまいいに壁に手を突く、暫くしてからしっかりと背筋を伸ばして虚勢を張った。
そうしなければ退院が許可されないと思ったからだ。しかし彼女は顔を上げた先に移動用の寝台を見つけてしまって息を呑んだ。
「ミサト?」
そこには彼女の知っている女性が麻酔によって眠っていた。
「ちょっと待って」
慌てて看護婦を呼び止める。
そして改めて、同僚の無惨な姿に絶句した。
葛城ミサト──彼女は拘束服で体を縛られ、口にも卑猥な道具を噛まされていた。
だめですと静止する看護婦の手を払いのけて、リツコはベッド脇のスリットから、ミサトのカルテを取り出した。
「こ、困りますぅ!」
無視して読みふける。信じたくなかった。投薬の指示から読み取れる結果は……。
──麻薬中毒と、妊娠。
麻薬に関しては中和を、妊娠に関しては堕胎の処置が行われていた。両方薬によって可能な範囲だったからだろう。だが消えない傷痕もある。リツコは震える手を伸ばし、緊張しながらかけられていたシーツを一息にめくった。
──チリン。
鈴の音がした。
反射的にシーツを戻して見なかったことにする。拘束服の胸の部分は切り取られて、たわわな乳房を丸裸の状態でさらしていた。その両方の突起部分に、異質なものが取りつけられていた。
それは小さめの『鈴』だった。
カルテからは彼女が『救出』されたのが、たった三時間ほど前であることが読み取れた。麻薬によるショック症状の処置が先に来て、これからこの除去作業に入るらしい。
看護婦は固まっているリツコに憐れみの目を向けると、そっとその手からカルテを取り戻してベッドを押した。
何日経っているのかとリツコは考えた。先のカルテを一瞥した時の今日の日付を思い出す。一日だ……たった一日しか経っていない。しかしその一日で一体彼女はどのような目に合わされたのだろうか? どんな目にでも合わせることができるだろう。丸一日もあれば十分だった。
「一体、なにが……」
リツコは愕然としたままで、いつまでもその場に立ち竦んでいた。
フェイズ2
「はぁ……つまりだからそういうわけで、エヴァンゲリオンってのを動かせるぼくを緊急に頼ろうとしたと」
「迎えにうちの者が出向いたはずなんだがね」
あの女の人無事かなぁとは思ったが、シンジは口にはしなかった。昨日のヤクザは良いヤクザだったからだ。それほど酷い目には合っていないだろうと予測していた。
ちなみに悪いヤクザがどういうものかというと、借金のカタといって自分を少年愛好家に売り渡そうとするような連中のことである。
命までは取るまい、そう思ったので意識の外に放り出した。取ったとしても社会的な名誉くらいまでであろうと想像する。
……裏ビデオとしてあられもない姿を広められてしまっては、地位も名誉も消し飛んでしまうことになってしまうだろうから……いやあの人の場合は昔そういうことしてたんだっけ? シンジは考えていると恐い結論になりそうだと思ってやめることにした。
「でもその程度の話なら、最初っからしてくれれば良かったのに」
「まあ仕方なかろう……場合が場合で焦っていたからな」
それでとコウゾウは訊ねた。
「どうかね? 良ければこれからはうちで働いてもらいたいのだが」
シンジはなにやら迷った様子を窺わせてから、上目遣いに、訊きづらそうに口にした。
「……それって、給料とか出ます?」
「は?」
コウゾウは目を瞬かせた。
「あ、ああ……所属してくれるのなら、特別公務員扱いにして、支払うが」
「それってもしかして、住居手当てとか各種保険とかもついて来るんですか?」
「まあ……ないこともないが」
ぱぁっと明るくなって、両手を組んで、シンジは瞳を輝かせた。
「そ、それがどうかしたのかね?」
コウゾウの口元をヒクつかせてシンジはいった。
「やる! やります! やらせて下さい!」
「そ、そうかね……すまないね」
「いえ! こちらこそ! あっ、でも!」
「なんだね?」
「契約書はちゃんと作って予備はこっちに下さいね」
なんて子だろう。たらりと汗をかくコウゾウであった。
「聞きましたか? 会長。六分儀んとこで預かってた餓鬼の話」
ああんと聞き返したのは、関東大手の某暴力団関係のお頭であった。
「あの餓鬼の親、実はゲンドウだったらしいですぜ?」
「ゲンドウ? ……あいつか!?」
なぜだか驚愕に目を剥く親分。
「外道のゲンドウか!? 確か今は国連かどっかで働いてるとかいってたな。似合わねぇと笑ってやった記憶があるぞ」
「あいつ結構な偉いさんになってるって話ですぜ?」
「しまった! あの餓鬼、無茶苦茶金ズルだったんじゃねぇか!」
「それがですねぇ」
小耳に挟んだんですがと声を潜める。
「なんでも大月んトコの事務所が潰れたって話、噂じゃあの餓鬼が原因だったらしいんですわ。を手なずけようとして失敗したとか」
「ゲンドウにやられたってのか?」
「へぇ。──警察の方も手が出せない状態だそうで。ライフル持った奴が何十人と押しかけて来て、銃撃戦やらかした上に組員の三分の二をやっちまっておとがめなし! とんでもねぇ話ですわ」
「流石外道だな」
「まったくです」
多少事実とは異なるのだが、碇ゲンドウとは『その筋』ではかなり知られた男であった。しかしそんな人間がなぜに国連直属の秘密組織で総司令などをしているのか?
そこには波乱万丈の人生があるのだろう。
「ユイ……」
彼は第一ケージへと出向いていた。その目は冷却水の底に見える初号機の残骸へと注がれていた。水を抜くことはできなかった。使徒と零号機のこともあるし、これだけ巨大な物体が浮力を失えば、大惨事では済まない事態になるからだ。
「ここにいらっしゃったんですか」
波乱に満ちた人生の一部である名残に心奪われていた彼は、そんな気遣う声に反応するのが遅れてしまった。
「君か……良いのか? 病院は」
「はい。──いつまでも寝てはいられませんから」
リツコはゲンドウの隣へと並ぶと、同じようにして初号機を見下ろした。
オレンジの液体の底に沈んでいるそれは、黒い影となって揺らいでいた。
「良かったのですか? あの処置は……シンジ君について」
ゲンドウはしぼり出すようにして声を発した。
「君はなにを見た?」
「なにを……ですか?」
「そうだ。──なにが起こったのか、わたしは理解できんでいる」
リツコは驚いた顔をしてゲンドウを見た。彼から弱気な発言を聞けるとは思ってもいなかった証拠だった。
「なにもわからんし、正直今はなにかを考える気力がない。だが使徒は来る。使えるものは利用するまでだ」
「そうですか……」
「後を任せる」
背を向け、歩き出す。ふとゲンドウは立ち止まると、一言だけ彼女に残した。
「無理はするな……」
残されたリツコは呆然としながらも、頬を赤らめてしまっていた。──それは彼女の趣味の悪さを表しているような反応であった。
──翌早朝。
「…………」
碇シンジはわざわざ用意してくれたという部屋の中でうんざりとしていた。
目の前には山と盗聴器が積まれている。家具が入っていなかったために探し易かったのだが、それでも大変な作業になってしまった。
壁紙を剥がし、天井や床に大穴を開け、照明やエアコンなどの備え付けの機械までもばらして調べた。なぜそんなことをしたかといえば、癖だった。
『いいかシンジ? こういう安ホテルってのはバックに怪しい連中がついてるもんだ。連中はこういうホテルでやらしいことをするやつらを待ってるのさ』
それでどうするのかといえば、『やらしいこと』をビデオに撮って、『盗撮』とラベルを貼って売るのだそうである。
──それはともかく。
探せば探すほど出て来るそれに、シンジは途中から嫌気を覚えて、今は完全に脱力していた。まだゴキブリの方がマシだった。ゴキブリならば巣を潰せば終わるからだ。
最初は貧乏性ゆえにこのだだっ広い……二十畳はあるような部屋があったり、カラオケルームがあったり、風呂が二つも三つもあったりするようなこの作りに圧倒されて、隅っこにしゃがみ込んでいたのだが……。
──おいしい話には裏がある。
先のようなことを思い出し、はっとして探し出せばあるわあるわ。気がつけば徹夜をしてしまっていた。しかしここで気を抜くわけにはいかなかった。この調子ではまだあると考えた方が自然だからだ。
その上、下手に出かければ、仕かけ直されのは目に見えている。
はたと気がつく。
(ここって高いんじゃ)
青ざめる。
住居手当てがいくら出るかは知らないが、家賃の大半は給料から引かれることになるのだろう。
その上ここまで荒らしてしまっては、修理代も馬鹿にならないに違いない。敷金はどうなっているのだろうか?
貧乏性というのは贅沢をできない性分であることをいうのであって、決してケチな人間を指し示す呼称ではない。そして彼の性格は……。
実に『ケチ臭い貧乏性』であった。
夢のような給料を与えられ、贅沢しても良いんじゃないかと誘惑に悶える傍ら、感性が酷く喚くのである。
──それじゃあおじさんたちと同じじゃないか。
シンジはふと二年ほど前のことを思い出した。それはまだ野宿に慣れていなかった頃のことだった。
(もう嫌だっ、こんな生活!)
そう思い、先生の元から逃げ出したことがあったのだ。逃げて逃げて森を抜け、川を越え……そして気が付けば、霧の中をさ迷っていた。
不安げに周囲を見渡して、やがて風に乗って漂って来るむせ返るような甘い香りに気がついた。それは知っている匂いだった。
「これって……桃?」
暫く歩いて見つけた場所は、桃の木が立ち並んでいる林であった。
桃の木の園。先の匂いは熟れた桃が地に落ちて発酵して放っていたものであった。農園かと思ったのだが、どうやら自然の桃の園であるらしい。
「あら珍しい……」
聞こえた声にふりかえり、シンジは現れた人がしている恰好にギョッとした。
そこには二十代半ばの女性が、艶のある微笑みを浮かべて立っていた。髪は短く、体つきは……そこそこだろう。
──問題は。
「ごっ、ごめんなさい!」
真っ赤になって背を向ける。彼女は薄絹の衣を無造作に羽織り、腰帯で押さえているだけのとてもみだらな格好をしていた。着崩れて胸元などは丸見えに近い状態になっている。赤い顔から酔っているのが見て取れた。肌が薄桃色に染まって妖しげな色香を漂わせていた。
彼女は苦笑して肩の部分を引き上げると、シンジに向かって優しい声音で問いかけた。
「坊やは一人? お父さんかお母さんは?」
「は? あ、いや……逃げ出して来ちゃって」
シンジは顔をのぞき込まれてどきどきとし、しどろもどろになって説明することとなってしまった。
「実は……借金取りに追われてるんです」
「まぁ!」
彼女は目を丸くして驚いた。
「それでこんな山の中にまで?」
「はい……もう嫌だって思って」
「……その借金って、どれくらいあるの?」
ごにょごにょと口にされた金額は、少年が四十回ほど人生をやり直してもとても返済できる額ではなかった。もちろんやり直している間にも借金は利子で膨らんでいくのだから、切りがない。
「まぁ! まぁ! まぁ!」
彼女は大仰にして驚くと、やおらガシッと少年の両肩をつかんで揺さぶった。
「だめよ! あなた! そんな歳の内からそんな借金を作ってるなんて!」
「……はぁ?」
シンジは目前でこぼれて揺れているものに意識を奪われのぼせてしまった。
「どんな事情があったのか知らないけど! そんな大金を踏み倒そうだなんて人間のすることじゃないわ!」
ようやく気がつく。
「い、いや、ぼくがしたんじゃなくて!」
「こっちへ来なさい! もう借金なんて恐くないように鍛えてあげるわ! 大丈夫よ! ここでは時間の流れは外とは違うから!」
「だからぼくが! って……外?」
「そうよ?」
にこりと微笑んで彼女はいった。
「桃源郷って、知ってる?」
その喩えがなにを意味するのか?
シンジには理解することなどできなかった。
続く
新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。