──時間の流れは一定ではないらしい。
その意味を理解するまでに、シンジは小難しい話に頭を痛めなければならなかった。
「単純な話、レコードとかCDね。同じ一周でも内と外とでは動いてる距離が違うでしょう? 『絶対時間』においては同じ一周なんだけど、『体感時間』においては何百って差が出ているのよね」
たとえばと彼女は桃を取った。
「この桃なんだけど、この辺りは『外』に近いからあなたの時間軸に近い速さで熟れていってるけど、さらに外側の世界では、どんな風に見えると思う?」
想像してみてと彼女はいった。
「桃は微生物に犯されていくわ。分解されて土に還っていく……そういう『過程』を並べ立ててみたときに、レコードの外周と内周、一周分と仮定した時、どちらにより多くの順序を並べ立てることができると思う? 同じ『情報』でも内側では何周もかかったことが、外周ではたった一周分の『時間』ですむ」
つまりと彼女は体を倒して、シンジの顔をのぞき込んだ。
「ここでは……あっというまに物事は過ぎ去ってしまうことになるのよ」
胸、見えてます……シンジはいえずに見ないようにした。
「ひとつって数えてる間に、ここじゃあ口に運ぶ前に、腐っちゃうってことですか?」
「そうなるわね。……理解力はあるようね」
満足げに体を起こす。
「けどね? わたしたち自身はあくまでも一周=一秒の制約に縛られている生き物だから、外側でも内側でも、一秒の間には無理にでも一周歩かされてしまうのよ。だから外の世界にいるよりも、ここではずっと多くの事象に対面させられることになるの」
「はぁ……」
「だけどね? 歩幅そのものが変わっているわけではないから、世界ってものの回転数についていくことは大変じゃない? 下手をすれば体を壊してしまうことにもなりかねない」
「じゃあ、おねえさんはどうしてるんですか?」
「それはもちろん、『気力』とか『根性』とか『フォース』とかで乗り切ってるのよ」
「フォースって」
にぃっと笑った彼女に対して、シンジは「はぁ?」っと呆れてしまった。
「それって……内側では何日も掛かって起こることが、ここでは一周する間に全部起こっちゃうから、必死になって追いついてるってことなんですか?」
「そうよ」
「なんか……無茶くちゃですね」
「でも理論的にはそんなものなのよね」
なんだか騙されてるなとシンジは感じた。
「そうですか」
「そうよ」
だけど思っただけだけにした。なんだか逆らうのが怖かったからだ。
アブナイ人かもしれなかったから。
「そういうわけだから。あなたには当分の間はここで暮らしてもらいます。大丈夫よ、体感的には何ヶ月経ったって、外では一日と経ってないはずだからね?」
「外じゃあ一日しか経ってなくても、ここでは倍以上のことができるから?」
「それを相対時間とかいうんだけどねぇ」
けらけらと笑う。
「だぁいじょうぶよ。やることなんて簡単だから。ほら、忍者の修行で成長の早い木を苗木の時から毎日飛び越えるってものがあるでしょう? 毎日やることで徐々に木の成長に合わせてちょっとずつ飛ぶ力がついていく……ってのと同じで、少しずつ遠い場所に移っていって慣れていくだけ! それだけよ」
「それで……慣れたら?」
「外でもその速さで動けたら?」
そういうことかとシンジはようやく納得した。
「わかりました」
うんと頷く満面の笑顔に、シンジはふと今更のような大きな疑問を抱いてしまった。
この人は一体何者なのだろうかという疑問をだ。
「あの……」
「ん?」
「あなたは……どうしてここに?」
彼女は肩越しに口を開いた。
「ここならいっぱい研究できるじゃない?」
無邪気にそう微笑んだ彼女の正体は、実はただの研究オタクであった。やっぱりアブナイ人だったんだとシンジが思ったのも無理からぬ話であった。
彼女の性癖を知るにつけて、シンジはそりゃあ一人でも幸せだろうなぁと思いはしたが、それを口にすることは一度もなかった。なによりもその時はまだ十二歳。にたにたとしながら本を読んだり、うふふと一人で悦に浸ったり、頭がおかしいんじゃないかと疑いたくなるような奇声を毎夜発するような人間の心理などわからなかったのだ。
──今でもわかるとはいわないが。
怖かったのだ……実は山姥であったのだというオチがついて来そうな気がして。決して覗いてはいけませんよと釘を差された実験室の中では、一体どのような実験が繰り返し行われていたのだろうか?
……そんな具合に、精神的に追いつめられていく毎日を送って一年余。シンジはなんとか『便利な力』を体得したのであった。
それが初号機を破壊した力である……いや、その一端があの力であった。
『真面目に働いて返そうっていうのに、借金取りに邪魔されたんじゃね?』
押しかけて来る借金取りは実に居丈高なものである。威圧的といい換えても良いのだが、立場を笠に着るだけにタチが悪い。こちらの話を聞きもしない。
真面目に働いてますといっているのに、人の職場に押しかけて来て場を荒らす。あげくには人がクビになるように追い込んでおいて、これはもう体を売るしかなかろうなぁと強制する。
もちろんそれらは罠である。彼らは毎月毎月ちまちまと返されることなど望んではないのだ。少額の返済を繰り返されるよりも、思い切って内蔵の一つでも売ってもらった方が早いのだから、追い詰めるのも当然だろう。
──仲介手数料も手に入ることであるし。
彼女はそういう暴力に屈しないための、あくまで真面目に生きるためのものだと念を押して力を授けてくれた。だが元々が勘違いなので、シンジはおじさんに引きずり回されそうになったら使おうと決めていた。
そして現在に至るわけである。
「ユイさん……」
シンジは後ろポケットからお守り袋を取り出した。それは雑な手作りのものだった。
余程のことがない限り、これを開けるなといい含められていた。どうしても解決できない問題に直面してしまった場合には、これを開けと口にされていた。
優しい人だったなと思い返す。外においてはわずか一日にも満たない時間に過ぎなかったのだが、自分は一年間あの人と二人きりで暮らしたのだ。
──それは正に、死に物狂いの一年であったと少年は邂逅する。
食べ物に困らないから良いか、おじさんなんて知るもんか! 勢いだけでそんなことを考えてしまった自分がいかに浅はかな人間であったかを、何度も悔いて泣いて見つめ直すことになってしまった一年でもあった。
ふふっと微笑を浮かべて考えてしまう。今だろうか? 今こそこれを開けるべきだろうか?
「そうだよね……ユイさん」
しつこく名前を口にしてしまったのは、まだ迷いがあったからだろう。もったいない。ここでも貧乏性が悩ませる。
「えいっ!」
それでもっ! っと、シンジは『今こそ』と気合いを入れて口を開こうとしたのだが……。
ふと嫌な予感がよぎってとどまった。
「……浦島太郎」
なぜだかそんな物語の結末が思い浮かんでしまったのである。
シンジはきょろきょろとした。あった! 使える道具で仕掛けを作る。
袋のお尻を窓に挟んで、紐には電話線を使った『延長コード』を取りつけた。
それから部屋の外に出て、廊下との仕切りの戸を盾にした。もちろんダッシュで逃げられるように、玄関口の戸を開いて退路を確保しておくことも忘れなかった。
全隔壁を解放の後に、シンジはせぇのと紐を引いた。
開かれる口、もくもくと煙が吹き出した。やっぱりか! シンジは即座に退避行動を開始した。
その直後……。
「シンジくーん! って、あら?」
腕がスカッと空振って、ユイという名前らしい女性はどてんと転んだ。
やけに広くて静かな部屋にきょとんし、彼女はシンジくぅんとさめざめと泣いた。
二十代半ばにしては、やけに精神年齢の低そうな感じを持った女性であった。
そして少年は日常を手に入れた
「ごめんなさい!」
シンジはカーペットに額をこすりつけて謝った。
ちらりと顔を上げて様子を窺う。
その動きに気づいたらしい『ユイさん』は、ぶぅっとむくれた顔をさらにシンジから遠ざけようと、つーんと遠くに首を伸ばした。
膝に揃えられた拳には、力が入りすぎているのか青筋が立っていた。ピーンと伸ばされた背筋もまた気が張っていた。
彼女は全身を使って、「わたし、怒ってるんだから!」っと、気合いを入れて表現していた。
──まさに徹底抗戦の構えである。
そしてシンジはといえば……へへーっとさらなる恩赦を願うのが精一杯だった。
「ごめんなさい! まさかユイさんが出て来るなんて思ってなかったから」
「シンジ君のイジワル!」
あうあうあうと数十分、彼女の勘気が解けるまでには、実に長い紆余曲折が、蛇行しながら描かれていった。
「で、なにがあったの?」
妙ににこにこ……いや、ほくほくと機嫌が良い。一体数十分の間になにを約束させられたのか? 疲弊しきったシンジの様子からは、ろくでもないことだとうかがい知れた。
「うん、それが……」
シンジは盗聴器の山を見せて説明した。
「……というわけなんだ」
なるほどなるほどと、彼女は首を上下に振った。
「つまり……その人たちは踏み倒しを恐れてるってことなのね」
「踏み倒し?」
「だって……とんずらされたらかなわないないでしょ?」
そっかとシンジは理解した。
「そういうことですか……」
「そういうことよ」
「でもやだなぁ……信用してくれないなんて。ちゃんと契約書にサインしたのに」
「そうね。──でも心配しないで? 大丈夫よ。この階ってちょうどマンションの最上階みたいだから、後で結界を組んで上げるわ。それで誰も近寄れなくなるから」
「助かります」
「ふふ、良いのよ。これくらい。お姉さんもちょうど困ってたところだから」
「そのことなんですけど……」
シンジはおそるおそるといった様子で彼女に尋ねた。
「ホントにここで暮らす気ですか?」
どうやらそれが彼女にさせられたという約束らしい。
「嫌なの? 嫌なのね!?」
「あああああ、嫌じゃないですけどぉ!」
「よかった♪」
「…………」
どっと疲れる。
「でも……ユイさんずっといってたじゃないですか。外は無駄に歳を食うから嫌だって」
「そうなんだけどねぇ……そうもいってられなくなってね」
「どういうことなんですか?」
「それがねぇ……」
彼女は困ったものと弱ったものを混ぜ合わせた表情をしてため息をこぼした。
「なにがあったんだか……桃源郷に亀裂が生じて、壊れ始めたのよね。焦ってなんとかしようと思ったんだけど、原因がまったくわからなくて」
「桃源郷が?」
「ええ……でもまあ、崩壊は一部の範囲だけに収まっているから、じきに安定するでしょうけど。それまではね。落ち着かないから」
「あの……」
シンジはこの際だとばかりに訊いてみることにした。
「前から思っていたんですけどね、ユイさんっていまいくつなんですか?」
ガァン! っとユイ。
「シンジ君のイケズぅ……」
おろろと泣いてカーペットにのの字を描きはじめる。
「人のことおばあさんだと思って……」
「誰もそんなこといってないじゃないですか!」
「いいもんいいもん、どうせ千歳越えてるもん!」
「それは桃源郷に入ってからの歳でしょう?」
「うん」
だからぁといいわけをする。
「ユイさんって、桃源郷に入ってから全然歳をとってないんでしょう? じゃあいつからあそこにいたんですか?」
そうねとユイは考え込む素振りを見せた。
「……ねぇ。今年って何年?」
「十五年ですよ。二千年の」
「二千十五年!?」
あらやだっとユイは口に手を当てて驚いた。まさか西暦初期の人なんじゃないだろうなぁと思ってしまったシンジであったが、その心配は杞憂に終わった。
「なんだぁ! それじゃあまだわたしって三十八歳じゃない」
「三十八?」
「うん、十一年しか経ってないのね……」
感慨深そうなユイの姿に、シンジは望郷の念を募らせているのだろうなと顔をほころばせた。
「じゃあその辺りに、ユイさんの知り合いとかもいるんでしょうね」
「ええ……今度会いに行ってみようかな……」
「好いんですか?」
「いわなきゃ親戚だとでも思うでしょ……よほどの知り合いなら別だけど」
「よほどの?」
「ええ……」
ユイは寂しげに微笑んだ。
「これでもね……わたし、結婚してたの」
「結婚……」
「ええ……でももうだめでしょうね。きっと籍を抜かれてるわ」
「そんな……」
「日本の法律ではね、十一年もあれば、相手の了承成しに籍を抜くことは可能なのよ」
シンジはその切なさに胸を痛めてユイに訊ねた。
「あの……その人って、どこに?」
「箱根よ……」
「箱根!?」
シンジは仰天し、目を丸くした。
「それって……すぐそこじゃないですか!?」
「ええ!?」
「だってここ、第三新東京市っていって、箱根のすぐ傍の……」
「第三新東京市ぃ!?」
「ええ……」
ユイはシンジの両肩をつかんでがくがくと揺さぶると、窓から見える景色へと視線を投じて、凝視した。
「そんな……それじゃあここって、ゲヒルンのすぐ傍なの!?」
「ゲヒルン?」
「ええ……巨大ロボットを作ったりしている研究所なのよ」
「へぇ……まるでネルフみたいだ」
「わたしの夫だった人はそこの所長でね」
「だったって……」
「ゲンドウさん、元気かなぁ」
「ゲンドウ!?」
今度はシンジがビックリする番だった。
「ゲンドウって! まさか碇ゲンドウですか!?」
「え? ええ……」
「そんな!? 碇ゲンドウって……ぼくの父さんのことですよ!?」
「ええ!? じゃあシンジって……あなた、碇シンジなの!?」
「はっ、はい! そうですけど……なにか?」
シンジはにじり寄ろうとするユイの熱っぽく潤んだ目に後ずさりした。
「シンジ!」
「うわ!?」
「どうして避けるの!?」
「いやなんとなく……」
「いいから大人しく抱きつかれなさい!」
「ええ!? なんでですか!?」
「だって……シンジって、シンジはわたしが生んだのよ!?」
「ええ!?」
驚愕の事態に一瞬思考が停止した。
「シンジぃ!」
「うわぁ!?」
すかさずその隙をついて押し倒す。
「ちょ、ちょっとユイさん!?」
「いや! お母さんって呼んで!」
「呼ぶのは好いですけどなんで体まさぐるんですか!? ああ! ズボンの中はだめぇ!」
いやぁっと女の子のような悲鳴を上げながら床をはいずりズボンを引き上げつつ逃げようと悶える。
しかしユイは床上手(?)なのか、巧妙にシンジの貞操を狙うのであった。
第三話 そして少年は日常を手に入れた
──三時間後。
「う……」
シンジはぷるると寒さに震えて正気に返った。
「…………!?」
ばっとかけ布を剥がして飛び起きる。
「うう、酷いや。母さん……」
隣で素っ裸で猫のように丸くなっている母を見ないようにするシンジである。
──母さんには父さんがいるだろう!?
そう叫んだ瞬間の、母の表情が、すっかり脳裏に焼きついていた。
「父さんのことはどうするんだよ!?」
整った眉が奇妙に歪んだ。眉間にしわを寄せ、ユイはいった。
「シンジ……」
「なにさ?」
「ごめんなさい……」
「え?」
「わたし、あの人きらいなの」
「き……らいって」
絶句する。
それは子供にとってはあまりにも衝撃的な告白だった。
「どうして!?」
ふっと儚く微笑むユイ。
「シンジ……時間っていうものはね、残酷なものなのよ。時は人を変えるわ……心も姿もね」
「はあ?」
「でも変わらないものもあるの。たとえば『趣味』。人の嗜好というものは、そうそう変化しないものなのよ。なのにあの人は変わってしまったの。そのままでいてはくれなかったの」
シンジはひげ面な父親のことを思い浮かべた。
(じゃあ今の父さんなんて論外なんだろうな)
「でも幸いなことにわたしのストライクゾーンは広かったの」
「はぁ?」
シンジはねめつけるような視線に身の危険を感じた。
「それって……さ」
「あの人はギリギリだったけど」
じゅるりとなにかをすすり上げ。
「シンジの歳からなら、十分……」
──この人、駄目ダメだ。
なにかを悟ったシンジである。
「じゃ、そういうことで」
「ってわけにはいかないのよ!」
「ああ! やめて許して、だめぇ!」
その姿、まさに野獣。
ユイは異常なくらいに目を血走らせて襲い狂った。
──以上で、回想は終わりである。
上半身を起こして天井を見つめながら、ひゅうるり〜と涙していたシンジであったのだが、「う……ん」という寝言に我に返った。
「母さん?」
まだ寝ている。もぞもぞと動いてシンジの足に身を寄せると……安心したのか落ち着いた。
──ゴクリ。
右を見て……左をみる。
誰もいない。当たり前である。ここはベッドルームだ。窓の外には第三新東京市の街並みが広がっている……はずであるが、今は遮光カーテンによってふさがれている。
下をみる。脇をしめるようにしている腕の隙間に胸が見えた。シンジは無意識のうちに右手をわきわきと動かした。なにかを反芻するように……そして。
──トゥルル! トゥルル! トゥルル!
シンジはビクゥッとすくみ上がって驚いた。電話を探して、枕元にあるのを見つける。
「は、はい!」
相手はその声の大きさに驚いた様子であった。
『し、シンジ君?』
「はい! ……えっと」
誰ですか? と問いかけて、シンジはぎりぎりで声の主に思い当たった。
「リツコさん?」
『ええ……ごめんなさいね、こんな時間に。ちょっといい忘れていたことがあって』
「なんでしょうか?」
シンジは下半身に刺激を感じてうっと呻いた。
(母さん!?)
ユイはぱくりとナニかをくわえて、にやっと笑った。
──ナニを?
『学校なんだけどね……明日からってことでどう? それとも間を空ける?』
「あっ、明日からでいいですぅううう!?」
『…………? じゃあ地図なんかは後でFAXしておくから』
「わかりましたう!」
『細かいことも一緒に送るわね……どうしたの?』
「ななな、なんでもないですっ、それじゃあ!」
シンジは慌てて電話を切った。
「母さん!」
本気で怒る。
ユイはナニかを咥えたままで小首を傾げた。
「ほごもごふごふが」
「あああああ! 咥えたままで喋らないでよ!」
「ふごふひひ?」
「やめてってば!」
腰砕けになりつつも後ずさる。
「うん! もう……」
ユイは口からちゅぽんっと抜け落ちてしまったものをちょっとだけ惜しそうに目で追った。
手ではしっかりと離さずにいるが。
「それでなんの用だったの?」
「あ、うん……明日から学校に行けるかってさ」
「行くの? 学校」
「行っちゃダメなの?」
「行く必要なんてないのに」
ナニかをくにゅくにゅともてあそぶ。
もったいなさそうに。
「いいじゃなぁ〜い。学校なんて行かなくても、勉強ならわたしが」
シンジはその先の生活内容が明確に見えてしまって絶望した。
「だ、ためだよ! やっぱり子供は学校に行かなくちゃ!」
「え〜〜〜?」
「それにほら! ぼく学校にはあんまり行ってないしさ」
これが利いた。
ユイははっとした様子を見せて、そうねと大人しく引き下がった。思い出したのかもしれない。シンジが借金のために学校には通えない状態であったのを。
「それじゃあ……仕方ないわね」
「うん!」
「今の内にやれる『分』はやっときましょう」
「はうぅ────!」
やはり母親失格なユイであった。
フェイズ2
──ネルフ医療棟、特別治療室。
ベッドの上に上半身を起こして、ぼんやりとしているのは葛城ミサトであった。
開いたドアに顔を向ける。
「リツコ……」
かなり覚悟を決めて来たのだろう。リツコの表情は硬かった。
「……ミサト」
互いに上手く言葉が出ない。
リツコの腕にはたくさんの資料が抱えられていた。その中には先ほどシンジと交わした通学についての書類もある。話題に困らぬように、逃げを打てるようにと持ち込んだものであったのだが、この場の雰囲気を打開するには、あまりにも貧弱すぎる武器であった。
「あはははは……ちょっち、ミスっちゃってさ」
リツコは「そう……」とミサトのごまかしに救われた気分になり……落ち込んだ。
逆に気遣われてどうするのかと。
それでも口からは、大丈夫なのかとありきたりな科白が半ば無意識のうちにこぼされていた。
「うん……まあね。捕まってすぐに薬キメられちゃったからさ……ぶっ飛んじゃって、あんまり覚えてないのよね」
「そう……」
「…………」
「…………」
「…………」
「本当に……大丈夫なのね?」
「ええ……今更汚されちゃったとかいって泣くような体でもないしね」
余りにも自虐的に過ぎる言葉に、リツコは唇を噛み締めて親友から目を逸らした。
大学卒業間際、ミサトは付き合っていた男性に別れを告げていた。その本当の理由に気がついたのは、自分だけであったろうとリツコは思っていた。
他人に明かせるような理由ではなかったからだろう。誰にも口にできないストレスから逃れるように、何人もの男に身を任せるミサトの行いに、ふがいなさを感じたこともしばしばだった。
かける言葉を見つけられずに、酷く悔やんだことが思い出される。
リツコはあの時に似ているなと気持ちを掘り起こし、浸ってしまった。ろくな言葉が出て来ない。舌が上手く動いてくれない。しびれてしまっているようだった。
見つかっていないとはいえ、その頃彼女が薬に手を出していたことも知っている……ミサトも隠してはいなかったから、先ほどのように口にしたのだ。
──だが経験があるからといって、耐えられる問題でもないだろう。
今の彼女は肉体的には問題がないように感じられるが、果たして内面はどうなのであろうか?
それを考えた時、リツコはミサトの顔の白さに気がついてしまった。青白く……そしてシーツの上に揃えられている手は震えていた。
「それより……使徒はどうなったの?」
リツコは軋む心を押さえつけてミサトに答えた。
「本部内で殲滅に成功したわ」
「そう……肝心な時に、あたし」
「大丈夫よ……次の機会があるわ。あればだけどね」
「どういうこと? まさかあたし、クビに?」
いいえとリツコは、思い詰めた様子を見せるミサトに対してかぶりを振った。
「そうじゃないわ……初号機が大破したのよ」
「大破!?」
「そう……だから次の使徒が来たとしても、ネルフそのものが機能できないかもしれないのよ」
「そんな……」
「まあ……今はそれをなんとかするために、零号機を改修中よ。初号機を後回しにしてね。それと急遽、弐号機を召喚することになったわ。セカンドチルドレンごとね」
ミサトはその呼称に強く反応した。
「アスカを?」
「ええ」
ミサトは考え込んだ後に訊ねた。
「サードはどうなったの?」
「大人しくしてるわよ。今のところはね」
「大人しく?」
妙な物いいだなと首を捻るミサトと違い、リツコは平静としてはいられなかった。
(あの力……)
普通の子ではない。それはもうわかっていた。
彼の経歴を調べれば、いくらでも疑惑をつけられる余地が見つかってくる。全国を逃げ回っていたようで、彼の足跡のすべてをたどることは困難だった。
唯一の確実なことは、あれが本物のシンジであるということだけだった。
──ミサトは黙してしまったリツコに不審なものを感じて小首を傾げた。
「どうしたの?」
「なんでもないわ……」
「そう?」
「ええ」
リツコは失言だったかとごまかした。
「少しね……搭乗前にもめたのよ。こちらの事情説明が不十分で、失敗だったかなと思ってね」
「そっか……無理もないわね。いきなりじゃ」
リツコは慌てた。ミサトがベッドから降りようとしたからである。
「どうするつもりなの?」
「……薬は抜けたわ。いつまでも寝てるわけにはいかないでしょ?」
「だからって体が戻ったわけじゃ……」
「点滴は受けたわ」
「……ほんと無茶苦茶ね」
リツコは一つ溜め息を吐くと、待ってとミサトを制し、ナースコールをかけた。
「車椅子を用意するわ」
「ごめん……」
「長い付き合いでしょ。もう諦めてるわ」
本当に呆れた目をしてミサトをみる。
「根を詰めないようにね」
「わかってる」
ミサトは級友に微笑みを返した。
「大丈夫、立ち直る方法は知っているから」
「あれぇ?」
エレベーターを降りたところで、シンジはなにやら首を傾げた。
腕には大きな袋を抱えている。『洞木婦人服店』とプリントされていた。
着るものがないからと裸でうろつき回るユイに根負けして、『初任給』でプレゼントをすることに決めたらしい。
シンジは変な感じがするなと廊下を見渡し、それからなにに気がついたのか、ああと納得した様子をみせた。
「そっか、ユイさん……結界張ってくれたんだ」
脇にある非常階段を一旦下りて、再び上の階に上がり直す。
そのような手順を負って、シンジは左右の通路に目を向けて、良しと大きく頷いた。
「お帰りなさい」
「何やってるんですか? ユイさん」
ユイはシンジの呼び方が元に戻ってしまっていることに気がついたが、あえて触れずに話題を進めた。
「ちょうどシンジ君の荷物が届いたのよ。それで着られるシャツがあったから……」
「ならパンツもはいて下さいよ」
Yシャツを羽織っているだけである。それも中学生の制服であるカッターシャツだ。丈が足りないどころか薄くて透けていて大変だった。
「まさか裸で受け取ったんですか?」
ちらちらと見てしまうシンジである。
「ううん。結界を張った後だったから……」
彼女は外においていかれた段ボール箱を、中に運び込んだのだと説明した。
「ついでに盗聴器も仕かけ直していったけど。ほんと、病的だったわ。あのしつこさは」
そういって、ユイは少しだけ辛そうにした。
──結界はこの階の入り口に設定されていた。
階段とエレベーターの入り口にである。ここを通ると人は異相のずれた世界へと入り込むことになっている。
そこは蜃気楼のような世界であり、現実と違う点はただ一つ。
生物が存在していないということだけだった。
無機物だけである理由は簡単である。食物連鎖の都合である。ユイは現実の写し絵を造り出し、そちらへと迷い込むように道を繋いで、こちらへの通りを禁じるようにしてしまったのだ。
だから写し絵の範囲はこの階のものを作るだけで良しとしてしまったのである。そこ以外の場所には何も存在していない空間が広がっていた。異世界だ。
「でも……ゲンドウさん、セコ過ぎるわ」
「セコイって?」
「まさか!? シンジの借金癖は遺伝なの!?」
「だからそれは違うって……」
「シンジ! お母さんにカードを預けなさい! わたしが家計簿をつけて上げるから」
「……こんな時だけ母さんに戻らないでよ」
でもまあ良いかと思いカードを預けた。
(これ以上買い物に行かされたらたまんないしな)
しかしその表情には、逆らうだけ無駄だろうという、諦めのものも見えていた。
──そして翌日の朝になる。
「ああもうっ、こんな時間じゃないか!」
シンジははいっと手渡された鞄をひったくって文句をいった。
「だから早く起きなさいっていったでしょう?」
それに応じるユイの顔はにこにことしている。
……ついでにパックでもしたのかつやつやとしていた。
「なんだよもぉ……ユイさんがやめてくれなかったんじゃないか」
「シンちゃんだって途中から乗って来たくせにぃ」
「行ってきます!」
怒って出て行く息子の背中に、ユイはじゃあねと手を振った。非常に余裕のある態度である。伊達に倍近い年齢の上にその何百倍もの実年齢を重ねてはいなかった。
さぁて、帰って来たら今度はどんな風にからかおうかな? そんなことを考えている顔で、ユイは昼まで寝るつもりで部屋に戻った。
──のびをして。
シンジはマンションを飛び出すと、ふうっと歩みを止めて息を吐いた。FAXで送られて来た地図を手に、少しばかり思案する。
「術を使えば間に合うんだけど……」
ユイが住んでいた世界を『桃源郷』と称していたように、シンジは授けてもらった力のことを『術』と呼んでいた。
実体は違うものなのだが、その呼称が一番適当であったからだ。
術を使えば数秒とかからずに登校できる……が、シンジはその考えを捨てることにした。
「そこまでこだわる必要なんて……ないんだけどさ」
……脳裏には金に振り回されて死ぬことになった、馬鹿なおじ夫婦のことが思い浮かんでいた。
──『術』も『金』も、本質ではなにも変わらない。
使いようによっては如何ようにも楽をできるものである。
そして優越感を得られるものでもあった。
優越感に浸りきってしまった人間の末路は哀れである。見下されることに我慢ができなくなるからだ。
恐怖心に似た強迫観念に踊らされ、他人をけ落とし、一番であろうと常に努めるようになる。
そうしてどこまでも走り続けて……やがてどこかで息切れを迎えて挫折するのだ。
どこかで折り合いをつけて満足をしなければならないと……シンジはおじ夫婦を反面教師として学習していた。
シンジのおじ夫婦の場合、シンジの養育費の範疇だけで遊びに手を出していれば良かったのだろう……だが彼らは限度を超えて、自己の財産までも注ぎ込んで、破滅した。
(楽ばっかりしてちゃいけないんだよな)
それがシンジの学んだことだった。
養父母のことを参照した場合、自分のそれは養育費にあたるのだろうとシンジは当てはめていた。養育費を使い切った時、あの二人は日常に戻るべきだったのだ。そうすれば使い込んだお金を補填する苦労はあっても、死ななければならないところまで追い詰められることはなかったのだから。
楽しむだけ楽しんだのだから、それで満足していれば好かったのだとシンジは思う。楽しむだけで済ませることができなかったのは、単に欲深だったからだろうと想像してみることも忘れない。
自分もまたこの力をなくしたとしても、日常に戻れるようにしておかなければならない……それはシンジがシンジなりに漠然と出そうとしている結論だった。
──もちろん、だからといって、なくても困らないとも思っていない。
正直なところ、この力がなくては何度死んでいたかもしれないのだ。人里にも下りられず、一週間以上木の皮を齧って、川の水をすすって……。
獣に追われ、風雨にさらされ……もし先生がいなかったらどうなっていただろうかとシンジは思った。あの豪快な生き方に付き合っていなければ、そのまま力に頼り切る方向に流されてしまっていたかもしれないのだ。
仕方がないと口にして。
便利以上には考えない……なくたってなんとかなるや。なんとかなるならなんとかしよう。いつしかシンジはそう考えるようになっていた。
術に頼らずともできることは、力など使わずに済ませて行く。力がなくては生きられない世界に立つのではなく、今いる世界を力によって広げよう。
そうすれば日常をもっと自由に生きられるから。それは世界が広がるということだ。
しかし術がなくては生きられない世界に住んでしまうと、今と状況は変わらなくなる……いや、もっと状況は悪くなる。
その世界は狭いからだ。
術がなければ生きられない以上、術をなくすと死ぬしかない。
狭い世界に引きこもるのではなく、広い世界に泳ぎ出す……そのために使うべき力なのだと、シンジは力を位置づけていた。
続く
新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。