朝、通学にしては遅い時間帯に、一人の少女が億劫な足取りで、坂の上にある学校へと向かっていた。
「はぁ……」
 とても気の重い吐息を漏らす。彼女、洞木ヒカリは、先生たちはどうかしているなと考えていた。
 ……あんなことがあった直後だというのに、もう平常授業を行うと電話連絡があったからだ。
 受けた時、彼女はよほど休みますといって休んでやろうかと思ってしまったほどだった。それを口にしなかったのは、どうせ遊びに行く約束でもあるのだろうと、勝手に決めつけられるだけだろうなと、相手の口調から感じ取れたからだった。
 しかし彼女が本当に気にしていたのは、実は姉のことだった。翌日に店を開き、あげくには結構なお客さんが来たと、浮かれて帰って来たからだ。
 確かにあのような事件の後である。なにかと物入りで困っている人は多いだろう。掻き入れ時といってもいいし、第一、便乗した物取りが出ないとも限らない。防犯のためにも、いっそ店を開いてしまうのは、実は悪くないといえる考えだった。
 しかしだ……いくら母の残してくれた店だとはいえ、高校にも行かずに店を切り盛りして生活を見てくれている姉の姿を見ているのは忍びなかった。頑張り過ぎに見えるのだ。しかも楽しそうなだけに口が出せない。
 こうなってしまうとせめて手伝いくらいはと思うのだが、それもさせてはもらえなかった。
 中学生は学校に行って遊んでいればいい……さして年の変わらぬ姉のいう言葉である。
 ヒカリとしては悲しい……寂しい? 心苦しいとまでいえるものが、胸に内に芽生えていた。
 ……そんな調子だったから、足どりが重くなってしまうのも、それは仕方のない話であった。このまま家に帰ろうかと、何度も何度もふりかえる。どうせ事件後の処理で、まともな出席率には達しないだろう。教師陣も、家にいられると落ち着かないから引き受けてくれと、親に泣きつかれる形で再校したのが見え見えだった……だが、それでもなおヒカリは前に進んでしまっていた。それは姉に心配をかけたくないという想いが働いている結果であった。
 そんな風に……ぼけぼけっとしていたものだから。
「わっ!」
「きゃ!」
 彼女はどすんとぶつかって、そのまま尻餅をついてしまった。
「あいたぁ……」
「ご、ごめん! だいじょう……ぶ」
 彼女は赤くなって鼻を押さえた少年に、どうしたのだろうかと首を傾げ、それから理由に気がついた。
「きゃ!」
 慌てて開いてしまっていた股を閉じてスカートを押さえる。
「ご、ごめん!」
 人の良さそうな少年だなぁと、ヒカリは逆に悪い気になって立ち上がった。
「こっちこそごめんなさい。考えごとしてたから」
「あっ!?」
「え!? な、なに!?」
「……地図が」
「地図?」
「うん……学校までの地図。今日から通うことになったんだけど……」
 彼女はきょろきょろとする少年に、くすりと笑って話しかけた。
「あの……」
「え?」
「同じ学校よね?」
 あ、そうかと、シンジは胸を撫で下ろした。
「ごめん。着いて行っていいかな?」
「いいけど」
 じゃあとヒカリはシンジを誘った。
「急ぎましょう? もうすぐ予鈴が鳴っちゃうから」
「うん!」
 弟がいたらこんな感じなのかもしれない。
 ヒカリはそんな風になごんでしまって、ちょっとだけほほえみを浮かべてしまった。


第四話 だから少年は憂鬱であった


 ── 一週間後。
「ぶぅうううううううううううんんんん……ぎゅいいいいいいいん」
 飛行艇が黒板を背景に飛び回る。
 飛行艇を支えているのは人の手だった。少年の手だ。
 天然パーマにそばかす顔。眼鏡もかけている少年は、反対側に持ったカメラでその様を収めていて、黒いジャージ着たお仲間が登校してきたことに気がついた。
「よう、トウジ」
 おぅとジャージの少年は威勢良く手を挙げて応じた。机に鞄を放るようにおいて、クラスメートの顔ぶれを確かめる。
「えらい減ったな」
 少年は仕方がないさと肩をすくめた。
「街の中心があれじゃあな」
 少年は相田ケンスケといい、ジャージの子は鈴原トウジといった。
「鷹巣山にできた爆心地のこと、知ってるか? 入間や小松だけじゃなくて三沢や九州の部隊まで出動したらしいよ。まんま戦争だよ。戦争! そりゃあみんな疎開だってするさ」
 トウジはイルマやコマツが地名ではなく基地のことを指しているのだろうと察して呆れた。
「……喜んどるのはお前くらいのもんやろうな」
 ちらりと批難の目をプラモデルに向ける。しかしケンスケは気付かないふりを装った。
「それよりお前の方はどうしてたんだよ? こんなに休んじゃってさ、この間の騒ぎに巻き込まれたのか?」
「……家の方がな」
 トウジはブスッくれて椅子に座った。
「巻き添え食ってしもうて無茶苦茶や。うち、おとんもおじんも研究所勤めやろ? 妹と必死で使えるもん掘り出して、新しいマンションに引っ越しや、大変やったで」
 ケンスケはふうんと鼻を鳴らして、トウジの恰好に目を細めた。
「それでジャージなのか」
「制服ぼろぼろや。そやのに教科書は無傷やで……なんでや」
 知らないよと苦笑いをするケンスケに、トウジは嘆息して話題を変えた。
「しっかしネルフっちゅうのもアテにならんのぉ」
「それなんだけどさ」
 いかにも危ない情報だとばかりに声を潜める。
「なんでも戦自の方が意地はってさ……指揮権渡さなかったらしいんだよ。そのせいで動くのが遅れてこんなことになったんだってさ。戦自の方じゃかなりごたついてるってパパがいってた」
 なんでやとトウジは疑問を抱いた。
「お前んとこのおとん、ネルフで働いとるんやろ? なんであっちのことまで知っとるんや?」
「そりゃもちろん、パパが交渉役をやってるからだよ。まともな回答が返ってこないって愚痴ってた。戦自の動員は自衛隊に対するのと同じで首相に責任があるからね。そこまで話がふくらまないように、どこもたらい回しの状態なんだってさ」
 ネルフ対戦自の構図の陰には、国連対日本の図式があるのだとケンスケは語ったが、トウジはさよかの一言で済ましてしまった。
「そやけど……ほんましっかりして欲しいで」
 トウジはふと見慣れない光景を目にして首を傾げた。
「なんだよ?」
「あれ、誰や?」
「え? ああ、碇シンジ、転校生だよ」
 疎開によって空席が増えたからか、みな勝手に席替えをしているようだった。
 当然の結果として、教卓の前などの不人気な席は空いているのだが、なぜだかシンジは前から二番目というわりと優等生ぶった席に位置していた。窓際からは二列目である。
 トウジは主にシンジではなく、シンジと話している少女に対して気を引かれていた。普段怒鳴っているところしか見たことのない委員長が、なんだか(ほが)らかな表情を見せて、ころころと笑っていたからだ。
 ヒカリであった。
「……なんやえらい仲がええみたいやな」
「妬いてんのか?」
「あほか!? なんでわしが……」
「なに赤くなってんだよ?」
 にやにやとするケンスケである。
「そうじゃなくて、いっつも怒鳴られてるからって、拗ねるなよなってことだよ」
「うるさいわ」
「ま、委員長も気をつかってんだろ? こんな時だし」
「そやな……」
 目を細くして二人を眺める。
「ほんま、なんでこんな時に転校して来たんや?」
「タイミングが重なっただけだろ? 運が悪いっていえば悪いよな」
 教科書を開いているシンジに、ヒカリが何やら説明している。もう珍しくもない光景なのか、誰も気にしていなかった。
「そやけど……なんや、おどおどしたやっちゃなぁ」
 暗いと印象を決めつけるトウジである。
「赤面性らしいよ……委員長以外のやつだともう上がっちゃってさ、まともに話もできないんだぜ?」
「なんで委員長なんや? 委員長より優しい奴なんて他におるやろ?」
 あのなぁとケンスケは自覚の無さに呆れてしまった。
 ……屈託のない明るい笑い声が聞こえて来た。シンジが見上げるようにして笑い、ヒカリもまた小さな拳で口元を隠して笑っていた。
「ま、暗なるよりええか」
 よほど暗澹あんたんたる心境だったのだろう。
 彼はそういって背もたれに体を預けると、「なんやええ話ないか?」とケンスケに訊ねたのだった。


「え!? 碇君って学校行ってなかったの?」
「うん」
 最初はもの珍しがられていたシンジであったが、それも三日目ともなれば下火を過ぎていた。
 おどおどとした態度が扱いにくいのか、多くに見放されてしまったのである。
 昼休み……いつものごとく、お弁当も持たずに教室から逃げ出して行ったシンジを心配して、ヒカリは追って来たのだが……。
 ──校舎裏。
「五年生の時かな? 面倒見てもらってたおじさんたちが死んじゃって」
「え……」
「それでね、借金が残っててさ。追い回されることになっちゃったんだ」
 ふふ……と遠い目をして笑うシンジに、ヒカリは胸を締めつけられるような思いを感じた。
「碇君……」
 キューッとなる胸の苦しみを初めて覚える。そんなヒカリの感性は、実に半世紀ほど古いものによって(つちか)われていた。
 しかしシンジが思い出していることはといえば……。
(いっそのこと捕まってた方が楽だったのかな? だいたい追っかけられてたのは先生だったのに、なんでぼくまで)
 学校に通わせてくれるといった金融屋のことを思い出す。しかし過ぎ去ってしまった日々はもう取り戻せはしないのだ。
「だからみんなと仲良くできるかなって心配だったんだ」
「大変だったのね」
「一応行こうとしたこともあったんだよ? でも借金取りっておじさん……ぼくを預かってくれてた人たちの子供のことなんだけど、その人がつかまらないからってぼくのところに押しかけて来るんだ。授業中とか関係なくさ。先生とか守ろうとしてくれたんだけど、みんなには苛められることになっちゃったし」
 しゅんとした様子を見せるシンジである。
「だから……ちょっと期待し過ぎだったかなって思って!」
 無理に笑っているとヒカリは感じた。
「だからもういいんだ! やっぱりそのうち、友達ってできるかなって、思ってるだけにすることにしたから」
「駄目よ! そんなのっ」
「ほ、洞木さん?」
 シンジは切ないことをいうなというヒカリの剣幕に目を丸くした。
「どうしたの?」
「友達になんてなろうとしてなれるものじゃないのよ!」
 ヒカリは怒鳴りつけるようにしかりつけた。
「面白くない子だって思われたら、誰にも話しかけてもらえなくなっちゃうわ!」
「そうなの?」
 そうよとうなずき、ヒカリはよしっと胸を叩いた。ドンと頼もしい音がした。
「それじゃあ、あたしが最初の友達になってあげる!」
「え!?」
「女の子じゃ嫌だろうけど……」
「そんなことないよ! でも……」
「いいのよ! よく考えたら、あんな時間に、あんな場所でぶつかったのも縁だしね? だから、ね?」
「ありがとう……」
 シンジは本当に泣きそうな顔をして……感謝した。
「ありがとう、洞木さん」
「ヒカリでいいって碇君」
「うん、じゃあ! ぼくもシンジでいいよ。ヒカリさん」
 照れ隠しなのか、ヒカリはいそいそと弁当箱を取り出した。
「さ、さあ! お昼にしましょ! シンジ君。お弁当は?」
「あ、ぼく、お昼は食べないんだ……」
「だめよ。お腹空いちゃうじゃない。わたしの半分食べていいから」
「でも……」
「でもって口癖?」
 シンジは迫力に負けて押し切られてしまった。
「……うん。いただきます」
「よろしい! 時々お箸忘れて来る子がいるの。あたし委員長だから、予備に割り箸とか持って来てるのよね」
 嬉々として割り箸を渡し、ヒカリは弁当箱の蓋におかずを半分選り分けた。どれがいい? これも? もう一ついる?
 一緒に一つの弁当を覗き込む。
 シンジは思った。
 ──これって青春かも。
 じぃ〜んと来る。そんな風に感動している自分はあまりにもお手軽な性格をしているのかもしれない。しかし笑わば笑えとシンジは簡単に開き直った。笑われたって構うもんか! 絶対学園祭とか体育祭とか修学旅行とかには参加するんだ! その時には彼女とかできてたらいいなぁ……。
 しかしその相手として隣にいる人を考慮できない性格が、所詮は想像止まりで終わってしまうことを物語っていた。
 そして物事は順調であればあるほど、落とし穴もまた深さを増して待ち構えているものである。


「行ってきます……」
 どんよりとした空気を背負って家を出る。
 そんな背中を見送って、ユイは首を傾げて口にした。
「なぁんかノリ、悪いのよねぇ……」
 いつも通り迫ってみたものの反応が悪い。というよりも気怠く面倒臭がっているように感じられて、ユイは不満を覚えていた。
 からかいがいがないからだ。
 そしてユイの観察はある程度シンジの心境を読み当てていた。
「あんまり行きたくないな、学校……」
 シンジはちえっと地面を蹴った。


 ──ネルフ本部。
「リツコ、いるぅ?」
 赤木博士ははぁッと嘆息して椅子を回転させた。
「そういうことは、入る前に聞いてくれない?」
「だってぇ」
 口を尖らせてミサトは愚痴った。
「あんたって没頭してると聞こえないタイプじゃない」
 まあそうねとリツコは認めた。
「で、なに?」
「うん、使徒の解析結果が出たって聞いたから」
 リツコはその仕事熱心さにあきれ果てた。
「焦る気持ちはわかるけど、手当たり次第に情報を集めたって……」
「わかってる。けどそうやって頭ん中に突っ込んどけば、ふとした拍子に『繋がる』ってこともあるからさぁ」
 リツコはそうねと肯定した。直感、インスピレーション……どう口にしてもいいが、そういったものは普段蓄えれられている情報がふとした拍子に『噛み合う』ことを指していうのだ。研究者にも実に必要な能力である。
「まぁわかったことはこれだけよ」
 リツコは手元のパソコンにその情報とやらを表示した。
「601……なにこれ?」
「解析不能を示すコードナンバー」
「つまりわけわかんないってこと?」
「かろうじて粒子と波、両方の性質を兼ね備えている光のようなもので構成されているということだけはわかったわ」
 ピッと表示を切り替える。
「遺伝子設計図?」
「違うわ……使徒を構成している物質の解析パターンよ」
「え!? でもこれって……」
 ミサトは見覚えのある配列構造図に驚いた。
「人間……」
「そう、構成素材の違いはあっても、信号の配置と座標は人間のDNAに非常に酷似していることがわかったわ。一致率は99.89%」
「エヴァと同じ……」
「とかくこの世は謎だらけよ」
 で……とリツコ。
「エヴァ零号機の修復は終わったわ。これから改修のための計画作成に入るんだけど、そっちはどうなの?」
「こっち? ……ああ、シンジ君?」
 そうよとリツコは頷いた。
「彼はあなたの管轄でしょう?」
「まあ、そうなんだけどさ……」
 ぽりぽりと……。
「庶務課の方から携帯電話とか支給させたんだけどさ、使った形跡がないのよね」
「友達を作るのが下手なタイプなんじゃないの? 協調性のなさは問題行動に繋がるわよ?」
 わかってるんだけどさぁと……ミサトは難しい顔をした。
「ほら……あの子、小学校出てないらしいじゃない? どうも授業に着いていけないみたいなのよね」
「そう……」
「そのせいで壁作ってるんじゃないかってね。ここじゃあ学歴なんて関係ないから、気を楽にしていられたんだろうけど」
「周りにとけ込むことができない……学校じゃ役割なんて与えられないものね。果たすべき義務を消化するだけのネルフの方が気は楽か……」
「たぶんあたしもそういうことだとは思うのよね」


 洞木ヒカリは日誌を抱えたままで、碇シンジの席をじっと見ていた。
 その顔はどこか切なく憂いている。そんな彼女に近づく者があった。トウジである。
「なんや委員長、あいつ今日もか」
「うん……鈴原」
 ヒカリは相づちを打ってから相手に気づいた。
 揃ってシンジの席へと目を向ける。二人は同じ記憶を掘り起こしたのだった。それは数日前にあった理科の実験中のできことであった。
 ──ああ、碇。
 それは担当教師の不用意な一言から始まった。
「わからなかったら説明してもらえよ? いいなお前たちも面倒見てやるんだぞ」
 男子の一人が手を上げた。
「せんせ〜い。説明ってなにをですかぁ?」
「ん? ああ、碇は事情があってな。小学校の途中からこの間まで、学校に通ってなかったんだよ」
 幸いにも虐めに走るような程度の低い人間はいなかったのだが、代わりに善意が過ぎることもまた問題なのだということが証明されてしまった。
 ──ああ、碇君。わたしがやるから。
 ──俺がやるから、見てればいいよ。
 段々シンジが顎を引いて、口を尖らせていくのをヒカリは見ていた。いや、もう一人見ている人物がいた。トウジである。
 二人とも別の班になってしまったために、手も口も出せなかったのだ。
「わしなぁ、妹がおるんや」
 唐突な言葉。──しかしヒカリは驚いたようにトウジを見た。
「鈴原も?」
「おう。あいつなぁ……手伝いとかすぐしたがるんや。そやけど邪魔やろ? 見とればええっちゅうんやけど、ものすごぉ不満そうな顔して拗ねるんやな。邪魔者扱いされとるようで、つまらんとか感じるんやろなぁ」
「うん……」
 ヒカリは素直に同意した。
「うちの妹もそう……昨日の碇君もそんな顔してた」
「勉強せなあかんいわれとるわしらとちごうて、あいつ……」
「鈴原……」
 柄にもないと、トウジは自分の言葉に照れ恥じらった。
「ホンマ! ガキみたいなやっちゃでっ。……今日休みやったら迎えに行ったらなあかんやろなぁ」
 そっぽを向いて後頭部を掻いた。がりがりと。
 ヒカリはそんなトウジを微笑ましい目で見てうんと頷いた。
「そうするね」


 ヒカリのはにかんだ笑顔にドキリとして、鈴原トウジが「なんや、この感じ」と戸惑っていた頃、シンジはネルフ本部へと顔を出していた。
「いや、だって……してもらうことがないなんていわれたって、お給料もらっちゃってるのに」
「落ち着かないか……まあそうだろうね」
「はい」
 シンジの案内役を務めているのはコウゾウだった。ネルフ本部内見学ツアーを実施中である。
「まあ本来であれば戦闘訓練などを受けてもらうところなんだがね」
 やたらと長いだけの廊下であった。
「地上があの有り様だと、放棄……あるいは廃棄しなければならない施設もあって、覚えてもらうだけ無駄になる部分があるんだよ。きちんと整理がつくまでは、テキストを作成することもできないしね。かといって訓練については、肝心のエヴァがなければどうにもならない」
 シンジははてとと小首を傾げてコウゾウを見上げた。
「訓練って……体を鍛えたりするとかじゃないんですか?」
「今から鍛えてもらったって、身につくものはたかが知れているよ。まあ君が望むならトレーニングルームとコーチくらいは用意するが……」
 二人はそこで会話を切った。正面から知った男がやって来たからである。
「碇」
 コウゾウは呆れた声で呼び止めた。
「無視することはあるまい……シンジ君が仕事が欲しいらしいぞ」
「仕事だと?」
「まったく誰かにも見習って欲しいものだな! この歳で殊勝な……おいこら聞いているのか!?」
 ゲンドウは知ったことかと耳を貸さずに、やたらと威圧的に息子を萎縮させるよう見下ろした。
「今は得に用はない」
「……でもさ! お金使っちゃったんだ」
「使った?」
「部屋の準備とかで……それにね! 契約書にも勤務時間とか訓練時間とかがきちんと書いてあったのに、もう三週間もなにもしてないんだよ? 嫌だからね、後で監査とかが入って裁判沙汰になってマスコミに囲まれるようなことになっても、ぼくしらないよ?」
 コウゾウは吹き出しかけて慌てて手のひらで口を覆ったが、それでもふごふごと鼻息を吹いてしまった。
「まあ……確かにそうだな。シンジ君のいうことにも一理あるぞ」
 本当のことをいってしまえば、監査が入ることなどはあり得ない。非公開組織である以上、その内部資料は永久に漏らされることのないようになっている。
 そんな彼らにとって最重要の問題は、エヴァに対し謎の適性があるという少年を、いかにして確保しておくかということだけであった。
 保護といってもいい。他の組織は既にマークしているだろう。これをむざむざと渡すわけにはいかないのだ。
 シンジの給料の大半は、そんな具合に人権を無視していることに対する慰謝料という形を取って支払われていた。
 公人となることへの強要を行っている……ということに対する謝罪費として処理されているのだ。こうしてシンジは未成年ながらに正式に国連に所属する軍人として位置づけられていた。
 シンジの周辺警護には多数の有能な人員がガードとして配置されている。このことからもその重要度は知れていた。もし誰かが給与額について文句をつけたとしても問題にはならないのである。なぜならシンジの今の状態は待機任務中にあたるのだから。
 もし仮にエヴァ起動能力が確認された時には、危険手当を上乗せしなければならないかもしれない。それが本当のところだった。
 ……だがしかし、そのようなことを説明するのも億劫である。
「どうだ碇? 赤木君にシミュレーターを準備してもらおうと思うのだが」
「エヴァは動かん」
「トレースマシンがあっただろう。あれは十分に使えるはずだ」
 総司令は気乗りのしない様子ではあったが許可を下ろした。
「……わかった。だが葛城君にやらせろ。暇を持て余しているはずだ」
「わかった。そうだな……作戦部からも傷が治るまでは休ませてくれと嘆願書が来ていたからな。ちょうど好い口実になるだろう」
 そうでもしなければ彼女は休もうとしないからなと、コウゾウは具体的な指示を出す先を考えた。

フェイズ2

 はじめまして。ぺこりと御辞儀をした少年に、ミサトは苦笑いしながら返礼をした。
 はじめまして……確かにそうだ。面識はあるようでない。この三週間ずっとジオフロントに篭りきりだった自分と、外で暇をもてあましていた彼との間には接点がない。そう……。
 ──どれほど監視映像で顔をあわせていたとしても。
 ミサトの苦笑にはそういう意味合いが含まれていたのだが……。
「あ」
 シンジはなにを思い出したのか口走った。
「そっか、あの時の」
「あの時?」
「はい、無事だったんですね」
 なにが……といいかけて、ミサトも間抜けにも思い出した。
 ……一度だけ会っている。
「なんだか凄いことになっちゃってたから、もうこっち側には帰って来ないだろうなぁって……」
「わぁあああああ!」
「ネットのカタログにも出ちゃってるし、もう駄目だろうなって思ってたのに」
「あああああ、ってカタログってなによ!?」
 詰め寄られたシンジはのけぞりながらもなんとか答えた。
「うらものって売買ルートに乗せる前にネットで公開オークションにかけられるんですよ! 版権をどこが取るのかって……って知らないんですか?」
 知るわけがない。
 ミサトは顔を青くして問いつめた。
「それ……シンジ君も見たの?」
 シンジは気まずげに頷いた。
「はい」
「あああああ!」
 ミサトはがっくりと崩れ落ちた。
「悪夢よ。悪夢だわ……」
「ええと、こんな時、なんていえばいいのかわからないんですけど」
 リツコがそんなシンジに教えてやった。
「無様ね」
 ──そんなこんなで十五分後。
「くっ、まあ! 非合法ルートだから一般人にまでバレたわけじゃないし! それにマスターディスクは回収してあるんだから市場に出回ることもないんだし!」
「でもサンプルとコピーデータは結構ばらまかれてるんじゃないかなぁとか……人寄せに」
「ぐっ!」
「ついでにマスターがないってことは希少価値が付いちゃったりして余計な人気が」
 こほんとリツコ。
「シンジ君」
「はい」
「イジケられると鬱陶しいだけだから、その話には触れないであげて」
「え? でも……」
「い・い・か・ら」
「はぁ……」
 シンジは迫力に負けて押し切られてしまった。
「で、これがシミュレーターですか」
 それは丸い球体だった。
 部屋の半分を埋めている。高さはシンジの三倍近い。
「中に入ってみて」
 リツコはガシュッと扉を開いた。
「へぇ……」
 コントロール用の人型フレームは、真ん中に宙に浮く形で固定されていた。パイロットはこれに背中を預けて立つらしい。
「ヴァーチャルフィールドのエヴァはこれの動きをトレースして可動します。これは思考をトレースして動くエヴァを想定したものよ。シンクロ率といってね、エヴァの動作は思考の伝達率によってスムースさが変わるのよ。シミュレーターではこのフレームの駆動部分に抵抗をかけてそれを表現するわ。マヤ!」
 部屋の一面はガラスの窓があって、その向こうにオペレーターを努める予定の伊吹マヤが手を振っていた。
 リツコの指示によってマシンを起動する。
「見てて」
 リツコは片足だけをシミュレーターの中に入れて、フレームの腕に当たる部分を軽く動かした。
 全周囲に表示されているグラフィックスがスクロールして視点を変え、自機を客観的な視点から見ている位置に移動させる。
 さらに力を入れて左手にあたるフレームを押してみせる。するとエヴァらしきCGキャラの腕が動いた……重く。
「これが四十パーセントのシンクロ率を想定したエヴァの動きよ」
「半分以下ですか」
「余り重くしても苦労するだけでしょうから、希望的観測ということで、80%くらいの設定数値で訓練しましょう。シミュレートの敵はこの間の使徒よ」
「はい」
 リツコは入れかわりに中に入ろうとするシンジを呼び止めた。
「あ、ちょっと待って」
「はい?」
「パイロットスーツに着替えましょう、制服じゃ汗をかいたら大変でしょうから」
 シンジはそうですねと、どんなスーツなのかと期待した。


 ──そのころのことである。
 シンジの住むマンションの最上階渡り廊下を、少年と少女が連れだって歩いていた。
「なんやあいつ、えらいとこ住んどるなぁ」
 渡り廊下から下を覗いてぼやくトウジに、ヒカリはどう答えたものだかと苦笑した。
 マンションは……はっきりといって気後れしてしまうほどの高級マンションだった。セキュリティも酷く凝っていて堅牢である。
 マンション入り口のカウンターでまず呼び止められた。管理人に来訪の旨を告げると、記帳させられたあげくに身分証明書……IDカードにもなっている生徒手帳の提示を求められた。
 それではとエレベーターに乗り込む間もジッと見られたし、これみよがしな監視カメラにも盗み撮られた。
 あげくにシンジは留守らしいのだ。
 ヒカリは出直したい気になっていたのだが、シンジの同居人とやらにぜひともと声をかけられてしまい、逃げ道を塞がれたような状態になってしまっていた。
 救いがあるとすれば、それは隣の少年が泰然としてくれていることなのだが、そのトウジの心境もまた。えらいことになってしもうたなぁと後悔しているものとなっていた。
「ここ、やな……」
 そんなことを考えている間に着いてしまった。
「そやけど……えらいとこやな」
「え?」
「見てみいや。ほとんど掃除されとらんで」
「ほんと……」
「ほんまにこんなところに住んどるんか?」
 そう思ってしまうのも無理のない話であった。普通は人の行き交いがあるだけでも、埃は自然と去るものなのだ。なのにここの廊下は汚過ぎた。
「管理人さん、掃除とかしないみたいね……」
「わしが新しぃ移ったマンションやと、自分の家の前は自分らでするっちゅうことになっとるんや」
「……そうね。ここって他には誰も住んでないみたいだから」
 それはそれで薄ら寒い話であるとヒカリは思った。
「いくで」
「うん……」
 肝試しじゃないんだからと思いつつ、二人はインターホンを押し、反応を待った。
 ……鬼が出るか、蛇が出るか。
 二人揃って、ごくんと生唾を飲み下す。
 そして扉から飛び出してきたのは……。
「はぁい! お待たせぇ!」
「あ、あの!」
「わしらっ」
「まぁまぁまぁ! あなたたちがシンちゃんの『お友達』ね!? さぁ上がって! ごめんなさいねぇシンちゃんまだ帰ってないんだけど、すぐに帰って来ると思うから。ホントに嬉しいわぁ……シンちゃんの『お友達』が来てくれるなんて!」
 妙に『お友達』を強調するユイにヒカリはひきつり、トウジは……。
「…………」
「ん?」
 ……トウジはだらしなく鼻の下の伸びたサル顔をさらしていた。ぽやんとノースリーブのサマーセーターが描く曲線に見とれ、さらにユイのなんだろうという無邪気な笑みに骨抜き状態にされていた。
 ……これにより、ヒカリの中で高まっていたトウジの地位が、途端にだらしなくエッチな奴に引き下がってしまったことはいうまでもない。
(それにしても……)
 ヒカリは生徒名簿からシンジに姉弟がいないことを知っていた。だからこの人は誰なのだろうかと訝しんだ。
 母親のはずがないから親戚なのかもしれない。その辺りに『友達』を強調している理由があるのだろうかと、なぜだか気合いを入れ直してしまったヒカリであった。


「それじゃあシミュレーションをスタートするわよ?」
 リツコの言葉にマヤは一瞬動けなかった。
「でも先輩、この設定って」
「いいから」
 とても不気味な笑みを見せられ、マヤは壮絶に引きつった。ミサト、マヤには理解できなかった。なぜにフレームの抵抗設定を、通常の三倍近くにまで引き上げなければならないのか?
(試させてもらうわ)
 彼女はこの間のことを忘れてはいなかった。なんとか平静を保っていただけだったのだ。
 殺されかけたのだから、忘れることなどできるはずがなかった。だがそれ以上に科学者としての業が勝り、この時を逃すまいと舞い込んで来たチャンスに浮かれてしまっていた。
 初号機を素手で壊したシンジの能力。これを計る絶好の機会が向こうから転がり込んで来てくれたのだから、顔がほころびそうで恐かった。
『あれ? 動きませんよ?』
 モニターの中のシンジがむーんと唸った。
 顔をふくらませて力を込めている。
 リツコはその様子に満足してか、ちらりと筋肉の発熱具合などをモニターしている計器類へと視線を流した。そしてもっと頑張れと(げき)を飛ばす。
「もっとしっかりと力を入れて!」
『はい! ……あ、動いた。けど重いや』
 全周囲モニター……球体の内壁すべてに映像が映し出されている。その中央でシンジは歩行しようと懸命の努力を試みていた。しかし足を持ち上げようにもフレームの駆動部分が軋みを上げて抗ってくれて、うまくいかない。
(さぁ! 隠しているあなたの力を見せなさい!)
 ひひひひひっと笑いがこぼれる。
「リツコ……」
「ひぃいいいい……」
 ミサトは後ずさり、マヤは器用にも椅子の上で腰を抜かし、そして。
『えいや! あ!?』
 ごがきんと特殊鋼でできたフレームを粉砕し、シンジはああっと悲鳴を上げた。
『……折れちゃった』
 ──どうしよう?
 三人はあんぐりと顎を落とした。


 テーブルの上のコップへと手が伸びる。良く冷えているのか非常に汗をかいていた。
「いやぁ、そやけどシンジにこんな美人の親戚がいたやなんて」
 呆れた視線が注がれていることにも気付かずに、トウジは調子の良い笑い声を披露した。
 まともに話したこともないくせに、馴れ馴れしくシンジなどと呼び捨てにして……ヒカリはそんな調子の良さに、トウジへの評価をさらに下げた。
「あの子って、とても臆病なところがあるでしょう? だから少し心配で」
 密かに溜め息を吐いたヒカリは、どういうつもりだろうかとユイを見た。
 媚びた視線。しかし時折冷たく鋭いものが混ざり込む。それはどこか剣呑で、警戒心を呼び起こすには十分すぎるものだった。
「あの……お聞きしてもいいですか?」
 ヒカリは思い切って訊ねてみることにした。
「碇君……色々とあったって聞きました。学校に通えなかったって」
 あらっとユイは目を丸くした。
「あの子、あなたには話したの?」
「はい」
「そう……」
 ユイはちらりと、目でトウジのことを指し示した。色ぼけしているトウジは気付かなかったが、ヒカリはそっとかぶりを振った。
 もちろん、トウジは深くは知らないという意味でである。
(この子……)
 ユイは少しばかり感心した。
 ──絶対的な信頼を得る方法は、まずは優しくすることである。
 特に相手が弱っている時はねらい目である。孤独を感じている時ほど優しさというものは身にしみるものだからだ。
 そうして次には決して裏切らないことである。秘密を秘密として共有することもポイントである。ユイの洞察は鋭かった。この子はシンジにとって精神的な逃げ場になろうとしてくれているのね。この男の子とは違うわ。だからユイは視線を和らげることにした。
 もしヒカリが視線の意味に気付かないような人間であったのなら、ユイはきっと彼女を切り捨てる方向で動いていた。なぜなら察しの悪い人間は、人の秘密を不用意に他人に明かしてしまうことがあるからである。
(この子はその辺りのことを本能的に上手くやってる。いい詐欺師になれるわね)
 それはユイ的な最上級の褒め言葉であった。もしも気持ちの根底に独占欲があるのなら、きっと自分を牽制しようという姿勢を見せたはずだからだ。
 自分だけではなかったのかと、勝手な夢想に暴走し、自分以外の誰かに可愛がられているシンジの笑顔を想像して、胸をかきむしっていただろう。
 裏切り行為に憎悪して。
 極端にいってしまえば、目を輝かせて尻尾を振り、じゃれついて来る姿が可愛いのだ。それが見ず知らずの他人にも走り行くとなればどうであろうか? それではただの『馬鹿犬』に過ぎない。
 ──ヒカリは馬鹿犬を望む人種ではない。
 だからシンジを独占しようと思ったり、縛り付けたりはしないだろう。ユイはそのように判別した。トウジを同伴して来たように、息苦しさを感じさせない程度には開放感を与えている。
 これではますますシンジはヒカリを信じて行くだろう。それこそ『プロ』のテクニックであった。自覚していないヒカリのそれは、まだ好意以上のものではないが……。
 ユイはヒカリにだけわかるように微笑みを浮かべた。それはヒカリのことを認めた証拠であった。
 最初ユイは固そうな子だなと評価していた。訊ねて来たのもきっと責任感からのことであって、シンジを心配したわけではないのだろうなと勘違いしていた。
 だからこその警戒であった。
 そんな人間がもしシンジの『借金癖』を知ったのならば、一体どのように反発する様を見せるだろうか? 現在シンジは更生中なのである。シンジが自棄を起こすような騒動はごめんこうむりたい。それがユイの本心だったのだが……。
 しかし彼女はもう知っているという……ならば警戒することはないだろう。それがユイの結論であった。
 ──同じ秘密を抱えたもの同士の親近感がここに生まれた。
(会ってみて好かったわ)
 わざわざ結界を解いてまで。
 ……しかし互いに認知している事情の部分が、妙な角度でずれていることまでは気づかなかった。
 ヒカリはユイの誤解……シンジの借金ぐせのことなどは知らなかったし、ユイもまたヒカリの……シンジはまるで絵本に出てくるような可愛そうな子であるという認識を知らなかった。


 ──シンジは青くなっていた。
「あのぉ……やっぱりあれって弁償しなくちゃいけないんですか?」
 おろおろと慌てて泣きそうにまでなっていた。
 目に涙がうかんでいる。
「幾らぐらいするんですか? 高いんですよね。やっぱり」
 今度はしゅんとうなだれた。そんな脅えている様が余りにも可愛くて可愛くて、もうちょっとだけ見ていたいなと感じてしまったマヤであったが、さすがに良心の呵責に堪えかねたのか、落ちつけといってシンジをなだめた。
「大丈夫よ。心配しなくても。実験中の事故についてはこちらに責任があるんだから」
「本当ですか?」
 ぐっとくる泣き顔にマヤの顔が赤くなる。
「え、ええ……むしろ謝らなくちゃならないのはこっちの方よ。シンジ君に怪我がなくて良かったわ」
 さ、鼻をかんでとシンジを抱き寄せ、顔にハンカチを当ててやる。
 シンジは赤くなりながらも、されるがままに鼻をかんだ。ちーんとだ。
 なんとなくウズウズとして、マヤは小鼻をひくつかせた。眼を血走らせて、猫口になる。
 ──この子、いい。
 なにがだろうか? じゅるっと、それはともかく……と行く前に、マヤはその胸にシンジの顔を抱きしめてしまっていた。
 マヤは機械の破損を、ただの故障……事故であると思い込み、シンジを『窒息』させて振り回した。
 通常、駆動部分のギアやカムがずれる、外れる、空回りするといった現象ならあり得るのだが、どう応力が掛かろうと、人の力で折れるような代物ではないのである。
 構造と材質の両面から見ても、それは間違いのないことだった。
 もちろんミサトもそう考えて、どこかへと行ってしまっていた。実験を中断せざるをえなくなり、他の訓練を用意する必要性が出たからだ。だがそんな空気の中で、リツコだけが得体の知れない隠し切れない喜びに、妖しく目を光らせていた。
(やっぱりね)
 科学者の必須アイテム、丸眼鏡を……ややデザインに凝った小さなものだが。をかけ、モニターの光を反射させていた。
 余りにも怪しい。案外ミサトはこれが恐くて逃げたのかもしれない。
 リツコはマヤに別室で休ませるよういいつけると、すぐさまノートパソコンを開いて観測されたデータの検証にあたっていた。その目に留まったのは、ギアにかかったあり得ることのない負荷値であった。
 シンジが無理を生じさせた瞬間、そこには人体では発しえない力が加わっていた。
「興味深いわぁあああ……」
 はぁあああああっと非常に熱の篭った息を吐く。彼女も十分に危ない人間らしい。頬を桜色に染めて腿を擦り合わせてもじもじとした。
 その上、頬に手を当てて、とろんとした表情を作る。
 ──若干張った胸がぴくんぴくんと疼いていた。まさにフェロモン全開である。
 そしてその頃その対象は……。
「い、伊吹さん落ち着いてくださぁい!」
 ハァハァとシンジの股間を手に入れんとする彼女から、必死になって逃げ回っていた。
 ──三十分経過。
 すっかり脅えてしまったシンジ。でっかいたんこぶを作ったマヤ。無関係とばかりに並んでリツコが立たされていた。その前で腰に手を当てて怒っているのはミサトである。
「痛いですぅ……」
「ふっ、無様ね」
「それはあんたもでしょうが!」
 ミサトは血管が切れそうだとこめかみを押さえた。
 ──体を鍛える意味では、継続的なトレーニングこそが重要で、基礎体力も計っていないのではなにをやるにしても無駄になる。
 どこをどう鍛えるかは、生理的に、合理的に行わなければならないものだ。だからミサトは第一の訓練として、今すぐにでもできるガンシューティングを選択した。
 ──射撃場。
「わぁ! 本物のグレッグだぁ」
「……良く知ってるのね」
「ぼくトカレフしか撃ったことないんです」
 さらっと告げられた事実に思わずひきつる。
「あ、ああ……そう。それは貴重な経験してるわね」
「本物の銃ってゲームみたいには撃てないんですよね。確実に当てるために三発ずつ撃とうとしても、反動で変なとこに向いちゃって。映画じゃ撃ちまくってるけど、ぼくも鍛えればあんな風に撃てるのかなぁ?」
 ふふふふふっと笑った彼の姿に、仔猫を与えられたマヤ、玩具を与えられたリツコに重なるものを見出(みいだ)してしまい、ミサトはぶるりと戦慄した。
 ──柔剣道場。
「や、やっぱり子供に銃はダメダメよね!」
「……撃ちたかったのに」
 しゅんとしたシンジをすかさず抱きしめるマヤである。
「葛城さん。ちょっとぐらい撃たせて上げたっていいじゃないですか」
「だめよ!」
「子供のちょっとした好奇心なのに」
「その子の場合どう見たってマジ入ってんのよ!」
 ミサトもある意味必死である。
 ……精神異常者に銃を渡したとして責任を問われるのはまっぴらゴメンらしい。
「マヤちゃんはシンジ君に防具の着け方を教えてあげて。彼がシンジ君の相手をしてくれるわ」
「よろしく」
 なぜか眼鏡の青年はさめざめと泣いていた。
 リツコが訊ねる。
「日向君……あなた」
「聞かないで下さい。なにも」
「そう、わかったわ……」
「うう、書類が、山が……今日も残業」
 何やら複雑な様である。
 実は彼はミサト付きの専属オペレーターである、日向マコトという名の青年であった。つまりはミサトに回るはずの雑事を処理する立場にある。
 その『雑事』の範囲はともかくとして、仕事量は相当なものだった。実はその辺りにミサトがシンジの訓練をやめようとしない理由があった。上から直接命令を受けたこの『仕事』をこなしている限り、飽きるだけの書類整理などしなくてすむからだ。
 そして部署の人間も、彼女の復帰などは望んではいなかった。彼女の処理能力は決して高いものではなく、むしろはっきりいってお荷物だった。
 その辺りに、平時に置いては仕事をさせずに休ませておいてくれと嘆願書が出される理由があったりもする。
 しかし……。彼、日向マコトは違っていた。彼は極めて有能な『事務員』なのである。よって彼がいなければ処理されない懸案は山のように存在していた。
 そしてシンジの訓練については、命令を受けているのはミサトであり、彼ではないのだ。彼の仕事はあくまで『雑事』の処理にあって、このようなことにはない。となればサボるような形でこんなことをしている以上、後に待っているのは辻褄合わせそのものだった。
 ──つまりは、無料残業である。
 そんな彼の背中に、ミサトの手が当てられた。
「悪いわね」
「うう……いいですよ。葛城さんの頼みですから」
 涙しつつもじゃれつくように押し当てられた胸の感触に喜んでしまう。悲しい男の性だった。
「じゃ、シンジ君。礼。日向君も、礼」
 ミサトはそんな葛藤をさくっと無視した。本人がいいといっているのだからまあいいんじゃない? と思ったのである。
 プロテクターを着けたシンジの右手にあるのはゴム製の棒だった。一メートル大で、小刀といってもいいサイズである。
 シンジはぶんぶんと振ってみた。大丈夫かな? これで殴って。シンジはそんな顔をして首を傾げた。
 ──かちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃ!
 マヤは異常な音に隣を見てギョッとした。リツコが再び眼鏡をかけて、薄型ノートパソコンを片手に持ち、右手だけでデータを打ち込んでいたからだ。
 パソコンはこの施設を統括管理しているスーパーコンピューター『MAGI』と、どこかに設置されているセンサーによって無線で繋がれていた。
 そのMAGIが観測したシンジのデータが、回線速度一杯を使って展開されている。
「凄い……凄いわシンジ君。今の一振りなんて肩から肘、手首のスナップに至るまで完璧じゃない!」
「せ、先輩……」
「イメージ通りに自分の体を動かすことは難しいわ。それを無意識のレベルでやっているとなると相当の訓練を積んでいるはず! もしこの動きがすべてエヴァにフィードバックされたなら?」
 駄目だ……少なくともマヤはそう思った。こうなるとこの人はデータ以外のものは目に入らなくなる人なのだ。
 普段からそのような傾向に陥りやすい人だった。実験対象を保管室に戻した後も延々と拾ったデータを相手に悦に浸る人なのである。
 そして解析すべきデータをすべて消費してから、ようやくみんなが帰ってしまったことに気がついて、あらもうこんな時間? とトントンと肩を叩くのだ。
 マヤは毎回それに付き合わされていた。当然だとでも思っているのだろう。リツコは突然に、「マヤ! 次の……」と指示を出す。よって「お先に帰りますぅ」なんてことはいえないのがマヤの立場だった。
「今日も残業ですかぁ〜」
 マヤはマコトばりにさめざめと泣き出した。
「始め!」
 ミサトの号令……次の瞬間。
 ──バァン!
 シンジの振るった棒がマコトのものを粉砕した。『粉砕』だ。千切れ弾けた残骸が散った。
 しぃんとなる。
「あ、なに?」
 ミサトの間抜けな声に、ふっふっふっふっふっとリツコが暗く、鬱に笑った。
「解説してあげるわ!」
 ここぞ見せ場、といった感じだったのだが。
 ──ウィーン、ウィーン、ウィーン!
「非常警報!?」
 ミサトは叫ぶと共に、マコトにも声をかけて駆け出した。あ、待って下さいよぉとシンジが続き、マヤも追った。
 そしてリツコは……ぽつんと独り淋しく置き去りにされて、ちょっと世の無常をはかなんだのであった。


続く


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