──綾波レイ、十四歳。
マルドゥク機関の報告書によって選ばれた最初の被験者、ファーストチルドレン。
エヴァンゲリオン試作零号機専属操縦士。
過去の経歴は白紙、すべて抹消済み。
「なんですかそれは?」
ミサトから聞かされた綾波レイという少女の履歴に、シンジは唖然とするほか反応を示すことができなかった。
第六話 だから少年は不機嫌になった
──ガコーン、ガコーン、ガコーン……。
第三新東京市でも郊外に近い地区にある古い団地。
シンジは途切れることのない解体工事の騒音に耳をやられてしまっているのか、小声の声量を間違えて、はっきりとした声で呟いてしまった。
「ほんとにここなの?」
ゴーストタウンという懐かしい言葉が脳裏をよぎる。
人の気配というものが感じられない。すぐそこで解体工事が行われているためだろう。閑散とした路上には、埃がうっすらと積もっていた。
広い道路がまっすぐに伸びて、その先には青空、いや、あまりにも日差しが強過ぎて、空は白っぽい色に感じられた。
まぶしさに目がくらみ、すべてが白と黒とに塗り分けられてしまいそうな、そんな夏日だ。
焼けたアスファルトからの輻射熱が喉を渇かす。陽炎が立って、それがまた人気の無さを強調してくれていた。
シンジは手にあるメモを広げた。担任に頼んで書いてもらったものである。綾波レイの住所がそこには記されていた。
「行けばわかるって……こういうことか」
悩むような場所でも、迷うような場所でもないと告げられていた。さっそく案内板を見つけて、彼女の住む棟の位置を確認する。すぐそばだった。
シンジは目的の棟を見上げると、ごくりと一度喉を鳴らした。本当に住んでいるのかと疑いつつ棟に入ると、階段には靴の跡がついていた。
なんとなくその跡をふまないように階段を上る。四階、シンジはあまりの荒れようにただ呆然とした。
騙されているのではと疑念を抱くが、比較的新しい靴跡が、その考えを否定してくれた。
扉が開けっ放しになっている部屋があったので覗いてみると、壁紙などが破がされ、コンクリートが打ちっぱなしになっている部屋が目に入った。
まさに取り壊し寸前といった風だった。
「どうして綾波さんって、こんなところに」
住んでいるのだろうかと考えて、シンジはまさかと口にした。
「大きな借金でも抱えてるのかな?」
自分で想像して鬱になる。どんなに普通の子供に見えても、その背に過酷な運命を負っていたりするものだからだ。その証拠に自分もまたそのような人間の一人であった。
自爆気味に落ち込んでしまうシンジである。どんな人間にどんな過去が……いやどんな人間がどんな過酷な環境の中でもがいているかは、表層からでは決して知れるものではない。
……というわけで、彼は直球勝負で確かめることにした。
「ここだ」
シンジは綾波との表札を見つけると、まずはインターホンを押してみた。
……反応なし。
カスッとボタンのスレる音がしただけだった。
「綾波さぁん」
呼んでみる……反応なし。続いてシンジは戸を叩いてみた。これまた反応なし。いないのかなとノブに手をかけてみると、回すまでもなく勝手に開いた。
どうやらノブまで壊れてしまっていたらしい。
「綾波さぁん?」
おそるおそる中を覗く……そしてシンジはぽかんとした。
「なんだ」
ほっとする。
そこがどう見ても空き家だったからだ。先程戸の開いていた部屋とさほど変わらない状態になっていた。
「引っ越し届け出さないで余所に移ったのかな? そりゃそうだよね。まさか借金取りから隠れるために嘘の住所を登録してたとか、んなわけ……」
ないよねといいかけて、シンジはそのまま固まってしまった。
靴を見つけてしまったからである。
小さな学校指定の靴だった。
「綾波さん……いないの?」
シンジは念のためにと靴を脱いで上がることにした。
ねちゃねちゃと気持ちの悪い感触が靴下につく。
ワンルーム……奥にはベッドがあった。味も素っ気もないパイプベッドだ。
そしてその上に、ヒカリが着ているものと同じ制服が脱ぎ散らされていた。つまりは第一中学校の女生徒に着用を義務づけられている制服である。
呆然としながら室内の光景を視界に納める。小さな冷蔵庫の横に段ボール箱があった。その中には血塗れの包帯が山と捨てられていた。
「……ほんとにここに住んでるんだ」
愕然としてしまう。ふと目に留まったものがあった。部屋の荒れ方に不釣り合いな小さな箪笥、その上に黒い無骨な眼鏡が乗っていた。
──手にとってみると、そこにはIKARIの文字がフレームに。
「父さんの?」
ジャッと背後で音。振り向き、シンジの思考は真っ白になった。
「わぁ!」
なんとそこには、少女が裸で立っていた。シャワールームから出て来たらしい。髪をタオルで拭きながら、少々驚いているのか目を丸くしている。
「誰?」
「あっ、あの! ごめん! あの、ぼくっ」
少女は聞かず、手で顔を隠しているシンジの持っている物に二度驚いた。
むっとして歩み出し、手を伸ばして眼鏡を奪おうと試みる。
「わぁ!」
シンジは迫って来た彼女に慌ててしまい、のけぞってしまった。少女はそれでも眼鏡を取り返そうと身を乗り出した。その結果──
ドスン!
ベッドの上にシンジは押し倒されることとなった。押し倒した少女は、それでも眼鏡を求めてシンジの上に乗りかかり、覆い被さった。
正に目と鼻の先に胸が揺れて、シンジはひぃっと悲鳴を上げた。とてもか細く。
──それ程までに恥ずかしかったのだ。
「は、離れてっ、離れてよ!」
ぐにゅっと胸をつかんでしまう。
「ひゃあ!」
泣き叫んだのはもちろんシンジだ。
「これ、返すから早く服着て!」
青い髪に赤い瞳をした少女は、さらにさらにむっとした。それはそうだろう。勝手に上がり込んできたくせに、人の大事なものを盗ろうとしたくせに、その上、人の胸を揉んでおいて、勝手な事ばかりいうのだから。
体の上から重みが消えて行く。離れていく。
シンジはぎゅっとつむっていた目をそろそろと開いた。少女は実に大切そうに、眼鏡をケースに戻していた。
「ごっ、ごめん……」
シンジは脅えるように起き上がりながら謝った。
冷めた目に首をすくめる。
「ごめんなさい……」
「あなた、誰?」
「ぼく、その……シンジ、碇シンジ、リツコさんに頼まれてカードを持って来たんだ」
「そう……」
何度目かの深呼吸の後に、シンジはようやく動揺を抑えた。そうすると彼女の態度におかしなものがあることに気がついた。
「あ、あの……早く服を着て欲しいんだけど」
ふいとそっぽを向くようにして、脱ぎ散らかしていた下着を付け始めた。新しいものではなく。
「あの……君、綾波さんだよね?」
「……ええ」
「そう……ごめんね? ぼくもエヴァのパイロットになったんだけど、それで頼まれて……その、ほんとにこんなところに住んでるのかなって思ったから」
少女はなぜだか動きを止めた。パイロットになったのところでだ。一瞬だが、ブラに腕を通したところで。
シンジは後ろ姿越しに脇から見える少女の乳房のふくらみから顔を背けつつも、怪訝に思って訊ねてみた。
「綾波さん……恥ずかしくないの?」
「恥ずかしい?」
少女、綾波レイは背中のホックを留めながらふりかえった。
「なにが?」
「なにがって、その……」
余りにも色気がないからか、あるいは羞恥を見せないからか、シンジは同年代の女子の裸への照れも忘れて、呆れ返った。
──翌日、学校。
「おっ、なんやセンセ、どこ見とるんや」
三時間目の体育の授業中。シンジはずっとプールを見ていた。男子はサッカーだ。四班に別れての対抗戦。シンジの班は休憩中である。
女子は水泳とは名ばかりの水浴び中であった。はしゃぎ、飛び込む女の子たち。シンジの視線は、そんな輪の中に入らず、ずっとフェンス際に膝を抱えて座っている少女へと向けられていた。
ケンスケが訊ねる。
「綾波か?」
「うん……」
「碇も渋い趣味してるなぁ……」
「そうかぁ? ええやないか、綾波ぃ」
けけけとトウジ。
「委員長よりはよっぽど」
げいんとその顔面に遠くより飛来したデッキブラシが突き刺さった。
「どこ見てんの! バカ鈴原!」
ケンスケとシンジは多少脅えた。五十メートルはあるというのに、よく投げたものだ。どういう肩をしているのだろうか?
「どうして聞こえるんだろ?」
「雰囲気でわかるんじゃないか?」
「馬鹿にされたって?」
二人はご愁傷さまと、轟沈しているトウジに手を合わせて冥福を祈った。
「でもマジな話、綾波がどうかしたのか?」
「あ、うん……綾波さんって、なにか変だなって感じがして」
「ああ、なんとなくわかるよ。あいつって誰とも話さないしな」
「そうなの?」
「友達もいないよ」
「ホンマは性格、悪いんとちゃうかぁ?」
いててとトウジ。
「一年の時に転校してからずっとああやで」
シンジはまたレイを眺めた。その視線に気がついたのか、レイも顔を向ける。
絡み合う視線……というよりも、お互いにそこにいることは認識しているのだが、それ以上、距離を詰めるのを拒否するような感じが漂った。先にレイが目を逸らす。シンジがぽつりと呟いた。
「……綾波さんって、ぼくに似てるのかもしれない」
はぁ? っとトウジとケンスケは首を傾げた。
──ネルフ。
エヴァンゲリオン起動実験施設、今は零号機が搬入されている。
昨日の内に擬似プラグからの接続実験を済ませていたレイである。今日は零号機との直接シンクロを試みることになっていた。
シンジは休憩のためのスペースにもなっている自動販売機コーナーで、少し考え込んでいた。
綾波レイ、彼女は似ているのかもしれない。それは直感だった。
人として憧れていながらも手を出せないものがある。誰もが当たり前に手にしているのに、自分たちのような人種には、それは永遠といえるほどに遠いのだ。
言葉にはできない。そんな語句をシンジは知らない。けれど嗅ぎ取ってしまっていた。彼女は目を丸くしていた。そして怒った。
……学校に通える事、それは自分にとって引けない一線だ。絶対に手放したくない日常だ。
彼女にとっては『家族』、または『保護者』なのかもしれない。この場合は法的なものなどではなく、心の支えという意味でだ。
「父さんがねぇ……」
そう思う。意外ではあるが、それ以上には感じない。
……借金などで日常が破壊された人間が最後に求めるものは『温もり』だ。それを『年上の男性』に求めたからといって間違いではあるまい、シンジはそう思った。自分には求める余裕すらもなかったが。
学校で一人なのは、そこには満足できるものがないからだろう。だからつまらなく感じている。だから他人と触れ合おうとはしないのだ。意味などないから。
彼女にとって、父──ゲンドウの傍こそが唯一安らげる場所なのだろう。それは自分と同じだった。
洞木ヒカリ以外の人間とは積極的に付き合えない。苦手なのだ。どうしても嫌われてしまったらとすくんでしまって、積極的には出られない。冗談を口にして、なにをいってるの? そんな風に冷めた目で見られたらもうどうしようもない。いたたまれなくなってしまう。自分にはその後をフォローできるような話術がないから。
──終わりになる。
そんなのはもう嫌だった。最初がそうだった。勉強ができないために邪険にされて……今でも尾を引いて、班別の行動では恐くてなにもできない自分がいる。
「きっと父さんが好きなんだな、綾波さんは」
シンジはそう口にすると、そうだと顔を明るくして、レイがいるはずの更衣室へと足を向けた。
──更衣室。
「綾波さぁん、入って良い?」
かまわないわと聞こえたので入って、シンジはまたも慌てさせられることになってしまった。
「あ、綾波さんっ、服着てないじゃないか!」
レイはプラグスーツと呼ばれるパイロットスーツに足を通し、腰にまで引き上げたところできょとんとした。都合上、下着すらもつけていない。
「……着替えている途中だもの」
「だからだろ!?」
ますます困惑した。
「なにがいけないの?」
「恥ずかしいんだよ!」
「……見られているのはわたしだわ」
「……どうして綾波さんは恥ずかしくならないんだよ!」
「だって、一度見られているもの」
「それは……そうだけどさぁ」
違う、なにかが違っている。噛み合ってないと感じて、シンジは困った。
こんないい方では、駄目なのかなと。
理解してもらえない。それはそれで自分的にはおいしい状態が続くのだが、度々このようなことがあったりすると、お互いの関係を誤解されることになりかねない。
(それじゃあ綾波さん、父さんに嫌われちゃうよぉ)
真剣に案じるシンジである。
(そうだ!)
シンジは母にからかわれた時のことを思い出した。
『きゃ〜、シンちゃんてば、かっわいい!』
脱衣所での一幕である。腰に巻いていたタオルを奪われ、非常に恥ずかしい目に合わされた。あれ以来、絶対に気を許すもんかと身構えている自分がいる。大抵はそうだ。恥ずかしい目に遭わされると、萎縮して隠そうとするものである。
「あの……さ」
だからシンジは、小首を傾げているレイに話した。
「ぼくは……嫌だな、そういうのって」
「…………?」
「じゃあ……ぼくはいつ見てもいいの? 綾波さんの裸、見ても良いの?」
「…………」
「見ちゃうよ? またお風呂に入ってても、勝手に覗いちゃうよ? トイレに入ってても気にしないよ? それでも良いの?」
レイは顔をしかめた。洋式の便座に腰かけている自分が思い浮かぶ。その前にしゃがんでじ〜っと鑑賞しているシンジが見えた。
……さすがに嫌なものを感じたらしい。身震いをした。
暫しの想像の後で、レイは顔を上げた。シンジの目に自分の姿が映り込んでいた。
着かけたままのプラグスーツから胸がこぼれている。レイは脇をしめかけた。腕で隠したくなったのだ。
レイは戸惑った。先程まで何ともなかったのに、なぜいま腕に力を入れかけたのか? 『隠そう』としてしまったのか?
シンジはその変化を敏感に察知して、ばっくばっくと刻まれる鼓動に堪えながら、気合いを入れ直して踏み出した。もう一息だと。
嫌だから、隠そうとしたのだ。理解しかけている。もう一押しだ。
完全に嫌なことなのだと思わせれば良い。羞恥心を煽って、巧く嫌だと感じさせることで治させるのだ。
──妙案ではあるかもしれない。
シンジはレイが身をすくめるよりも早く抱きつき、彼女の背中を手で撫で上げた。
びくんと反応を示し、レイは身をよじった。くすぐったさに抗った。
「嫌……」
押しのけるようと、彼の胸を押す。シンジはレイの想像よりもあっさりと離れた。
身を固くしたままで、レイは戸惑いの表情を浮かべた。
それはシンジがにこにこと笑っていたからだった。
「嫌だったでしょ?」
「…………」
「そうだよね。じゃあ出てくから……これからは裸の時はまだ駄目だっていってよね」
出て行くシンジ、気圧式の扉が閉じる。レイは暫くその扉を見つめていた。
──戸惑い顔で。
そうしてしばし佇んでから、彼女はもそもそとスーツの着用を再開した。
そしてふと考える。
「なにをしに来たの?」
いつまでも待ってみたのだが、結局シンジが戻って来るようなことはなかった。
「父さん!」
──起動実験施設。
パイロット待ちのコントロールボックスに飛び込んで来たシンジに、一同の視線が集中した。その中でもゲンドウの動揺は端から見てもかなり間抜けたものだった。
……無理もないだろう。その目と形相は、初号機を破壊した時のそれに比うるものであったのだから。
「なんだ」
反射的に応えてしまった自分を後悔したのでは? と後にリツコが訊ねた瞬間だった。
シンジは詰め寄ると、じっとゲンドウを見上げて訊ねた。
「父さん……綾波さんのこと、好きなの?」
は? と全員の目が点になった。全員とは──ゲンドウ、コウゾウ、リツコ、ミサト、マヤ、それに技術部の職員が三名。その全員がシンジの真意を図りかねた顔をした。いや、それ以前になにをいったのか今ひとつ理解しきれなかったようだった。
「どうなのさ!」
「……なにをいっている?」
ゲンドウの物言いは至極当然であるのだが、シンジは苛立った。
「いいから! 父さんは綾波さんが好きなの? 嫌いなの!?」
ゲンドウは思わず祈った。
(ユイ、わたしはどうすれば良いのだ)
天啓が下った。
『あなた』
(ユイ!)
遠き日の想い出が蘇る。その中ではユイがシンジを慰めていた。
「どうしたの? シンジ、ケンカなんて……」
「だってみんながぼくのこと悪くいうんだ。マナちゃん、ムサシくんのこと好きだっていうからぼく、ムサシ君にマナちゃんが好きかって聞いたのに。ムサシ君、マナちゃんなんて好きじゃないっていったんだ!」
「だからケンカしたの?」
あらあらとユイ。
「でもシンジ……あなたマナちゃんが好きなんじゃなかったの?」
「……だって」
仕方がないじゃないかと悔しそうに歯噛みしてうなだれたシンジを、ゲンドウは自分によく似ていると思ったものだった。
「でももう良いんだ……マナちゃんにも嫌いっていわれちゃったから」
シンジ……。ぐっと拳を握って涙を堪えたものだった。容姿がどこかうさんくさいゲンドウは、それだけで酷く損をすることが多かった。
一つのものを二人で、あるいは多人数で取り合うことになった時、必ず陰口を叩かれたものだった。手にするかどうかなど関係なく、ただ欲しいと名乗り出るだけでそうだった。
ユイのこともそうだった。ネルフの前身であるゲヒルン。その創設に関った『ゼーレ』という組織に太いパイプを持つ彼女と繋がりを欲している人物は多数いた。
自分は……その争い、競争の中から身を引いた。またなにかいわれる。その気持ちだけで鬱が入ってしまったからだった。平穏無事に無難に暮らす……それでいいと考えていた。
そんな自分を、ユイは可愛い人なんですねと慰めてくれた。
──結果、彼女が持つパイプを欲して近寄ったのだと、いつもの通りに陰口を叩かれることになったのだが。
今のシンジは、あの時のシンジによく似ていると感じた。ついでにレイはユイによく似ている。シンジ、ゲンドウは万感の思いを込めて邂逅に浸った。
「レイは……」
ゲンドウは答えた。
「大事な、『パイロット』だ」
「…………!?」
「それ以上のものではない」
──これで良いのだろう? ユイ。
ゲンドウの心に広がる満足感。あなた──遠くでユイが微笑んだ気がした。光り輝く空の彼方で。
ゲンドウの胸の内には青空があって、そこには笑顔のユイが浮かんでいた。碇ゲンドウ、息子の一途さに応えるために、妻の死を認めた瞬間だった。
──だが。
「父さんのバカぁ!」
「ぬおっ!?」
ガコン! っと顎に一撃食らって錐揉み状に天井に激突、突き刺さったゲンドウにリツコが「司令!」と悲鳴を上げる。そして誰かが口にした。
「しょ、昇竜拳……」
どたんと落ちたゲンドウは、異常な状態でピクついていた。断末魔の痙攣だと誰もが思った。
「し、司令!」
慌てるリツコに場が動き出す。その時にはもう、シンジの姿はそこにはなかった。
フェイズ2
「そう、ゲンドウさんがねぇ」
ぷんぷんと怒っているシンジから話を聞いて、ユイはこめかみをひくつかせていた。
……思いっきり血管が浮いている。
「綾波さん、本気で父さんのことが好きなのに! パイロットとしては大事だなんて酷いよっ、最低だよ!」
「…………」
ユイはなにもいわなかった。ただ黙って『正座』したまま、膝の上の拳をぎゅっと握り込んだだけだった。ここにも血管が浮いているのだが、表情は笑顔のままである。
「父さん酷いよ! 父さんちょっとだけ悩んだんだよ? あれってほんとは綾波さんのことが好きなんだよ! でもなんていわれるかわかんないからってごまかしたんだよ!」
ユイはゆっくりと訊ねた。奇妙に、遅く、スローモーに。
「それ……ほんとなのね?」
「うん! って、え?」
「そう……」
ユイはもうなにもいわなかった。にこにことしたまま彫像と化した。
「か、母さん?」
シンジもようやく『母』の異常な雰囲気に気がついた。今のユイはユイさんではなく母さんだと思った。
……自分が見限る分には問題ないが、自分のものが他に心移りするのは許せない。
ユイはそんなタイプの人間なのかも知れなかったが、シンジにはそこまでの機微などわからなかった。
ただ──今は危険だと、本能で感じただけだった。
「そ、そうなんだ……綾波さんが」
ヒカリはシンジから聞かされた話に、少なからずショックを受けてぐらついた。
学校の行き道だ。周囲には同じように登校する少年少女が流れている。しかしシンジ達のように男女で近く並んで、歩みの速度まで合わせているものは珍しかった。
知らず周囲より遅くなっているのが『妙』である。
「でも良いの? 綾波さんを応援しちゃって」
「え?」
シンジはきょとんとしてしまった。
「なんでさ?」
「なんでって、それは……」
ヒカリはいいよどんでしまった。頭の中では常識とか倫理とか道徳とかいった言葉が渦巻いてしまっているのだが。
(うっ……)
シンジの純朴で澄んだ瞳に正視されると、どうしてもいえなくなってしまうのだ。彼は純粋であるが、悪くいうと単純でもある。好きなら好き、嫌いなら嫌い。どうしてそれがいけないのかという部分があって、自分とは『観念』がどこかしら大きく違ってしまっている。ヒカリは度々そう思うことがあった。今も正にそうだった。
シンジと自分との間に隔たる壁は、好きの意味だろう。ヒカリはそう考えた。男と女としてのゲンドウとレイのカップリングを想像してしまっている自分と、仲睦まじい姿を思い描いているだけのシンジ。そこにそびえ立つ壁のこちら側には、キスとかそれ以上の『生々しい落書き』が描かれている。フケツよー! っと自分をなじるが解決にはならない。いったいシンジの側にはなにが描かれているのであろうか?
……まあ、それはあくまでヒカリの主観であって、すべてはシンジを誤解していることに根づいてしまっている錯覚なのだが、彼女はちゃんと問うべきであった。
レイは本当に、『そういう意味』でゲンドウが好きだといったのか、と。
「ねぇ。なんで?」
ヒカリは結局、答えに窮して、適当にお茶を濁してしまった。
「ほ、ほら……もしお父さんと綾波さんが付き合うことになったら、綾波さんって碇君のお母さんになるかもしれないってことでしょう?」
「あ……」
「同級生のお母さんって、それでも良いのかなって」
「う〜ん」
シンジが悩み出したのでヒカリはほっとした。というか、どうしてそこで悩んでそれ以外で悩まないのかと首をひねった。
──ネルフ本部。
放課後に直行したシンジは、格納庫隅のタラップから零号機を見下ろしていた。ぼんやりと。
そこではレイが零号機の首の後ろにある機械を何やらいじっていた。エントリープラグという名のコクピットが挿入される部位である。
シンジはあれ? と歩いて来る人物に気がついた。頭全部を包帯でぐるぐると隠し、黒いサングラスをかけている。ゲンドウだった。レイも気がついたのか、はしゃぐように跳び下りて、ゲンドウの元へと駆け寄っていく。しかし敬愛している男性の首がギプスで固められ、頭が見るも無惨な様子であるのに気が付いて、とたんに驚いたようだった。
どうしたんですかと泣きそうに見えた。それを必死にゲンドウがなだめる。なんでもないとでも落ち着かせているのだろう。
その様はなにやらとても仲むつまじく感じられるものに見えた。
「なぁんだ……」
シンジはそんな二人の様子に、ちょっとだけほっと胸を撫でてしまった。
「二人とも……本当はやっぱり仲が良いんじゃないか」
ちょっとだけふてくされて鉄柵に頬杖を突く、だからこそ許せないのかもしれない。
「なのにあんな『照れ隠し』って、酷いじゃないか、父さん……」
人前だからといって、やはりあれは傷つくだろうと思えるのだ。もしそんな風に答えたと彼女の耳に入りでもしたら大変なことになる。きっと、泣く。
シンジが思い出しているのはまだユイが……『母』を母として認識していたころのことだった。名前も忘れてしまった女の子。あの子が好きだった子。その子がいった言葉。それが耳に入ったために大変なことになってしまった。
あの子が好きだった。でも彼女から好きな子の名前を聞かされてしまった。だから半ば自棄気味にその相手へと聞きに行ってしまった。好きか、嫌いかと……好きだから、なんとかして上げたかった。それだけだった。
なのに答えは好きじゃない。だった。あの子の耳に入って、あの子は泣いた。ぼくのせいだ。そうは思ったが認められなかった。だから仲間外れにされてしまった。あの子が好きだった男の子からも、お前のせいだと殴られた。
……思い出してしまったからか、シンジは酷い顔をしてブスっくれた。未だにわからない。泣かしたなと怒ったあいつが一番悪いんじゃないかと思う。泣かせるなと怒るくらい好きなくせに、嫌いだなんていうからじゃないか。
悶々とそんなことを考えてしまう。どうして好きなくせに嘘をいうのかなぁと。そこにリツコがやって来た。
「あらシンジ君。何してるの?」
「リツコさん……」
シンジは顔だけ向けてから、またブスっくれて柵に顎を引っかけた。
「……あそこ」
「え? ああ、レイと司令?」
「はい……」
シンジは不満気に告げた。
「どうして父さん、あんな風にいったんだろうって」
リツコは引きつりながらもちゃんと答えた。
「ぶ、不器用なのよ。その辺はね」
司令のギプスが痛々しかった。
その辺がどの辺のことを指しているのか? リツコはぐったりと疲れた様子を晒していた。部屋に戻って机に突っ伏し、うにうにとマヤがキャッチャーで取って来た猫のマスコットをもてあそんでいる。
人と付き合うのが不器用だという前に、ああいう場合どうして良いものだかわからなくなって、あのような答え方をしてしまったのだろうと感じた。わかってしまった。
そして何よりも……。
──かわいい、そう感じてしまった自分に戸惑いを覚える。
「ってミサト、勝手に人の気持ちを代弁しないで」
「なんだ。違うの?」
「違うわよ」
リツコは起き上がると、ミサトに対してため息をついた。
「作戦部も暇ねぇ。あなたを野放しにしてるなんて」
「逆よ。逆」
ミサトはぱたぱたと手を振った。
「いても邪魔なだけだから、余所に行っててくださいってさ」
「そ」
はぁ、っと呆れるリツコである。
「役に立たない子ね」
「うにゅ〜」
「まあ隊長なんていうのは下の意見を取りまとめてこれだってのを決めるだけの決断力さえあれば問題ないわけだから、あなたなんかでもやっていられるんでしょうけどね」
「わたしなんかって、どういう意味よー」
「そのままよ。ブレインになる集団を下に抱えてそこから上がって来る報告と複数の対処法に対して、これだっていう直感的なもので指示を下す。あなたに求められているのはそういった問題点を見抜き、的確に本質を嗅ぎ分ける嗅覚のようなものでしょう? 幸い役にも立たない政治家と違って優秀なブレインがいるんだから、休める時には休んでおけば? ……問題が起こった時には詰め腹を切らされるわけなんだしね」
ミサトはしゃがみ込んでのの字を書いた。
「うう、慰められてるのか貶なされてるのかわかんない」
「わからないようにいってるのよ」
「リツコが苛めるぅ」
「誰に助けを求めてるのよ」
「で、なにを『アンニュイ』に浸ってたわけ?」
リツコはどっと疲れて肩を落とした。その疲れに『死語』が一役買っているのはいうまでもない。
「はぁ……シンジ君がまたなにか勘違いしてるなって思ってただけよ」
「ああ、シンジ君ねぇ」
ミサトはそれだけで納得した。
「どうもレイが司令に惚れてるって、本気で思ってるみたいね」
「ええ、懐いてるのは確かだけど……」
「レイって、マジそうなの?」
「馬鹿、そんなわけないでしょう?」
「だよねぇ」
ミサトはちょっとほっとしたようだった。
「いっくらなんでも、ろりこんが総司令になれるようじゃあねぇ。組織として……」
うだうだと口にする。
「その上、サードがシンジ君でしょ? アスカもアスカのお母さんが司令と知り合いだったっていうじゃない? 組織を私物化してるっていわれても仕方ないだろうし、趣味でやってるんじゃないかって」
「いってる人、いるの?」
「いるいる。諜報部の方から報告書が回って来てさぁ、内調なんて本気でそう考えてるみたいよ? 作戦課の方で対処を考えろってさ」
リツコはそれでミサトを放り出したのかと理解した。作戦部には日向マコトという非常に優秀な情報処理係がついているのだ。普通はトップの下にお抱えのブレイン集団があるものだが、作戦課においてはこれはあてはまらず、マコトという緩衝材を間に置いていた。
ミサトには裏の汚い暗躍と暗闘を繰り広げるような指示を出す能力はない。できないのではなく、素質がないのだ。
いみじくもリツコが語ったように、ミサトにあるのは本質を見抜く直感力だけである。これってこういう事なんじゃないの? こうなっちゃうんじゃないの? こうしたら良いだけなんじゃないの?
悪くいえば深く考えない。それだけに最も単純で、明快で、効率の良い道を導き出す。ミサトに求められているのはそんな指摘と決断力と、そして責任であって、具体的な立案能力ではないのである。
ミサトの考えや指摘、指示は漠然とし過ぎている。だからこそマコトが間に入れられていた。ミサトの考えを理解しうるのは彼だけだからだ。普通の人間では、なにを馬鹿なと一蹴してしまって、彼女の能力を生かし切れない。
ミサトの持っている力、『魅力』を余すところなく生かし、現実的な形に構築し、ブレイン集団に引き渡す。これができるからこそマコトのような若い者が重宝されている。下の者もマコトが上にいることに納得している。
──その彼が仕事の多さに半泣きで笑うしかない状態に陥っているのは仕方がないのか?
それはともかくとミサトは続けた。
「シンジ君の過去の洗い出しとかやってるみたいなのよね。でもどうしても暴力団とかと接触しなくちゃならないみたいで、諜報部が喜んでたわ。向こうさんの『お仕事』の現場を押さえられるって、内調が暴力団とつるんでる証拠を取り放題よ」
「……まさかあなたの過去まで掘り出されないでしょうね」
へ? とミサトはなにをいわれたのか理解しえなかった。
「なにが?」
「むかし出回ったってあなたのビデオが出て来るんじゃないかって事よ」
ミサトは相当に青くなった。
「まずい、まずいわ。そういえばそうじゃない!」
どんなに酷い『ビデオ』なのか?
今更語るべくもなく、それはそれは実にただれた内容であった。別段『のーかっとムシュウセイ』でバックからお尻を広げられて『陰部』を撮影されてしまっている『恥ずかしさ』などは問題ではないのだ。
保安部に救出された時はどんな状態であったのか? 膝に抱えられて鈴を鳴らして喜んでいた? 薬をキメられて……涎をだらだらと垂れ流しながら腰を振って喜んでいた? そんなものは救出部隊に見られてしまっている。噂もある程度は広がっている。だが陰口と同情は等分に広がっているようだった。だから、良い。
それは無理やりの結果であるから。
救出部隊がついでとばかりに押収したディスクはどこかの部署が保管しているだろう。もしかすると鑑賞されていたりするかもしれないが、それもまだ許せる範囲のことである。
──しかしだ。
「あれだけはまずいのよぉ……」
頭を抱える。
『過去』のものは違うのだ。無理やりではなかった。自分から喜んでさらけ出していた。没頭していた。人格を疑われても仕方がないほど破綻した内容だった。誰が大股を開いて『バター犬』のテクニックに喘いで腰を振っているような女を『ネルフ作戦部の長』として認めてくれるだろうか?
ことによるとそんな人物を長に据えている上層部にも被害が及びかねない。ミサトは青くなった。ネルフがいわゆる甘い組織でないことは、自分が一番よーく知っている。
証拠を隠滅するために殺される……だけであればまだ救いがあるが、それではごまかそうとしたと内外に疑わせるだけだ。ならばトップはどのような方策を採るであろうか?
「いやぁ! 改造は嫌ぁ!」
ミサトは廊下で体を抱きしめて嬉しそうに悶えた。そう、証拠が無ければ良いのだ。
──葛城ミサト? ああ、あの色情狂ですか。薬のやり過ぎで頭を壊したようでしてねぇ。
「うう、そんなことになったらどうしよう、きっとあたし、胸は直径一メートル以上に膨らまされて、スリップ一枚で高官に紹介されたりするんだわ。スケスケの下着なんて付けさせられたりして、娼婦みたいに脂ぎった小太りのおじさんにもてあそばれちゃうのね。それでもって「ええのんか? ええのんか? サイコーデスかぁ!」ってお尻を叩かれたりするんだわ!」
ぐふ、ぐふふとなんだか嬉しそうである。
「あ、あのぉ……」
そんなミサトに話しかけるチャレンジャーがいた。
シンジである。
「なにかいいことでもあったんですか?」
「違う! って、シンジ君。いつからいたの?」
「はあ、スリップ一枚で、辺りからでしょうか?」
シンジは腕組みすると、うんうんと頷いた。
「大変なんですねぇ。それってあれでしょう? 接待業務。汗でぬちゃぬちゃしてる指とか入れられちゃって鳥肌が立ってもにこにこと我慢してなくちゃならないんですよね。昔知り合いのお姉さんがいってました」
「違うっつーの! あたしはそんな接待に参加しません!」
「そうなんですか?」
じゃあさっきのは一体、と首を傾げるシンジである。
「そういえばシンジ君。何してるの?」
「綾波さん、どこにいるのかなぁって思って……。どっかに行っちゃって」
「へ? レイなら司令のところでしょ?」
「父さんの?」
「ええ、司令の執務室なんじゃない?」
ええ!? っとシンジ。
「そ、それってやっぱり、ふたりっきりなんでしょうか!?」
「え? ええ……そうでしょうね、副司令は発令所のはずだし……」
はぁ、っとシンジはかぶりを振った。
「さすがネルフですねぇ……ネルフって国際機関だから日本の法律とか条例って治外法権で無視できるんでしょう?」
「できるはずないでしょ! 少し逸脱できるくらいよっ」
「で、でも綾波さん……。父さんとふたりっきりになってるんですよね?」
「え、ええ……」
「ふたりっきり、なんですよね?」
「…………」
「ふたりっきりかぁ……」
ミサトは段々不安になって来た。あの司令が? レイを? いやそういえば司令に女っ気は見当たらない。それは常にレイという少女がいつでも手の届く場所にいるからだとしたら?
──いや〜なことを考えてしまった。
自分やリツコが報告している時、司令は口元を隠してじっとしている。微動だにしない。
返事をするのも副司令だ、それもいつも呆れた顔をしているのは何故だろう?
(ま、まさか……)
司令がひじを突いているテーブルの下には、レイが? そんなプレイを? ──愕然とする。
一度想像してしまうと止まらないものである。そう考えるとただ懐いていただけの姿が『それ以上』に見えてしまうから、記憶というものはあてにならないものだった。
「し、司令……」
「う〜ん。綾波さんに『お母さん』と『ママ』とどっちの呼び方が良いか聞こうと思ったんですけどねぇ。今は邪魔しない方が良いのかなぁ?」
あ、そうだとなんの脈絡もなくシンジはいった。
「そういえばミサトさん。前にも色んなビデオに出てたんですね。ぼく知らなかった……」
最後までいえなかった。
「どっ、どうしてシンジ君がそれを知ってるのよ!」
「え!? だ、だってほら。この間いったじゃないですか、裏物販売の流通ルートの話……。あそこのカタログにミサトさんの古いのが『再販』されてて」
ミサトはがっくりと膝をついた。
「悪夢よ。悪夢だわ……」
「いやぁ、ぼく、ミサトさんがあんな『特殊な趣味』を持ってる人だったなんて知りませんでした。あ、そういえばペンギン飼ってるって聞いたんですけど、それって……」
「ちがうー! 誤解よっ、誤解だわ! っていうか、誰なのよ! そんな噂流してんのは!」
「ひゅ、日向さんが……」
「マジ!?」
「いや泣いてたんですよぉ……せめてぼくにいってくれればって。そこまで堕ちなくてもとか、なにもペンギン相手になんて」
「あう、あうう……」
「え? あ! けどでもっ、世の中色んな趣味ってあるしっ、そういうので偏見持つっていけませんよね!」
「そういうことじゃないのよぉ!」
ミサトは切々と訴えた。
「うにゅう……大人って大変なんですねぇ」
場所、移ってジオフロント森林公園である。
「なんかまだ誤解されてる気がするんだけど」
「そうですか? ぼくには良くわかりません」
「…………」
なにかいうべきだと感じたのだが、なぜにそう思ってしまったのかがわからないので、結局なにもいえないミサトであった。
「ええと、でもですねぇ。それなら大丈夫なんじゃないですか?」
「なにが?」
「だってほら、上が上だし」
「……シンジ君。それあたしに同意しろっての?」
「あはははは」
「笑いごとじゃなーい!」
その様子を見ていた日向マコトは後に語っている。
「葛城さん、ペンギンだけじゃ足りなくて子供まで」
それはともかく。
「良いわねぇ。シンジ君は、悩みなさそうで」
「まあ、ミサトさんほど深刻じゃないですね」
「悩みはあるんだ?」
「そりゃありますよ」
「たとえばどんな?」
「そうですねぇ……」
ある。といったものの、そうそう簡単に思い浮かんで来るものではない。ので時間がかかった。
「学校の勉強とか」
「はい?」
「ほら、ぼく小学校ちゃんと出てないから、全然わかんないんですよね」
「そんなに難しかったっけ? 中学校の勉強って」
「友達が教えてくれるんで、最近は着いていけるようになりましたけど」
「おお! 人間の環境適応能力は侮れないわねぇ」
シンジは首を傾げた。
「かんきょーてきおう能力、ですか?」
「人間慣れちゃえばどんなところでもそれなりに生きて行けるって話よん」
「なるほど、納得……」
うんうんと頷くシンジである。
「つまりミサトさんの『あれ』もカンキョーにテキオーし過ぎちゃったんですね」
「あんたねぇ」
笑顔で引きつる。
「犯すわよ?」
「良いですよ? ミサトさんなら」
「…………」
「…………」
「やめましょう、妙に疲れるから」
「そうですね。ごめんなさい」
「それよりお腹空いたから、食堂行かない? 奢ってあげるわ」
「本当ですか!?」
「えっ、ええ」
「やったぁ! ミサトさんってすっごく好い人だったんですね! ぼく見直しました」
「……そんなことで見直さないで、頼むから」
ちょっとトホホが入ったミサトであった。
そんなこんなでお手軽にシンジが餌付けされている頃……。
──フオンフオンフオン。
太平洋より関東地方沿岸部へと、正八角形をした青い巨大なクリスタル使徒が、第三新東京市を目指して浮遊していた。
続く
新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。