(ムカツク)
 なぜだろうと首を傾げて考える。
 原因はわかりすぎるほどわかっていた。
 ──お母さんっ、て呼んでもいいかな?
 それはないだろうと思った。なぜだかそう思った。思ってしまった。
 考えれば考えるほど胸がむかついて堪らなくなる。しかし『原因』はわかっているのに『理由』がどうしてもつかめないのだ。
 なぜにムカついてしまったのか?
 ムカついているのか?
 自分がムカつくようなことはなにもないはず。なのにムカついて眠れない。
「ふぅ……」
 だから綾波レイは、不機嫌であった。


第八話 こうして少年は出逢いを迎えた


 ネルフ本部、医療棟のロビーにて。
 包帯で右手親指をぐるぐる巻きにされてしまっているシンジが、うなだれるようにして落ち込んでいた。
「シンジ君?」
 怪訝そうな声に顔を上げる。
「ミサトさん……」
「どうしたの? こんなところで」
「ミサトさんこそ」
 あたしはね、と、頭に巻いている包帯を押さえてみせた。
 長い髪が絞めつけられていて痛々しい。
「今日は検診にね、派手にぶつけたから」
「大丈夫なんですか?」
「シンジ君ほどじゃないわ」
 二日前の使徒との戦闘によって被った怪我であった。
 かろうじてシンジの機転によって勝利を収めていたものの、一撃目の使徒の攻撃は、彼女たちに甚大な被害をもたらしていた。
 ショートした変電器の爆発に巻き込まれて、彼女たちは指揮車両の中で、派手に転ばされていたのである。
 それでも脳震頭程度のことですんだのだから、運は好いほうであったのだろう。
 人間というものは脆いもので、下手に倒れれば首など簡単に折れてしまうし、良くても意識に障害が残る。
 実際ミサトも、丸一日は頭がぼやけてはっきりとしない状態で過ごしてしまっていた。今日、ようやく退院の許可が下りたのである。
「そうだったんですか……」
 シンジは良かったですねといって、再び溜め息を吐いてうなだれた。
 しょうがないわねぇとミサト。
「で、なに悩んでるの?」
 シンジは体を強ばらせた。
 その様子に気色ばむ。
「なにかあったの?」
「……はい」
 隣に腰かけたミサトに涙目を向ける。
「ミサトさん!」
「はっ、はい!?」
 ぐっとくるような表情でシンジはいった。
「ぼく……綾波さんに嫌われたんです!」
「は?」
 ミサトは極度に混乱した。
「ちょ、ちょっと待って!?」
「綾波さんにどうしてそういうこというのって、嫌われちゃって……」
 むぅんっと唸った。
 シンジが時折り妙なことを口走るのは良くあることだからだ。
「……なにをいったの?」
 落ち着きなく、自爆した一言を告白する。
お母さんって、呼んでもいいですかって」
「はぁ?」
 目が点になる。
「だから、お母さんって呼んでもいいですかって」
「ちょ、ちょっと待ってよ。なんでまた!?」
「だって……父さんが好きなら、もしかすると綾波さんって、ぼくのお母さんになるかもしれない人じゃないですか。だから」
 はぁ〜〜〜、っと納得。
「なるほどねぇ……」
「はい、でも、ぼくみたいな大きい子供はいらないみたいなんです」
 そしてまたうなだれる。
「ぼくは……要らない子供なんだ」
(違うと思うけど……)
 それ以前の問題だろうと思ったが、ミサトはそういいきれない自分にもまた気がついてしまっていた。
 ──優しく微笑みかけているゲンドウと、笑い返しているレイの構図。
 それは非常に良く見かけるものであったからだ。
(あながちそんなことはないっていいきれないのがねぇ……)
 慰め方を考慮する。
「……シンジ君」
「はい」
 顔を上げたシンジに唾を飲む。
 その余りの悲しみようにだ。
「実は今度……ちょっと遠出するんだけど」
「遠出ですか?」
「ええ、海まで出張でね」
 シンジはなにがいいたいのかと首を傾げた。


 ──バババババババババ!
 Mi55D、騒音が内部に響き渡り、あまりにうるさく、搭乗者全員が通信機を身に付けなければ会話もできないことで有名なヘリ。
 ネルフの改修を受けたとはいえ、それでも騒音は『軽減』以上には抑えられてはいなかった。
「海、か……」
 ぽつりとシンジ。憂いた表情で眼下に見える海原を眺めている。
「え? なに?」
 訊ねたのは隣に腰かけているヒカリであった。
 日曜日、どうしようかと思っていたところに電話がかかって来た。
 それは最近元気がなかったシンジからのものだった。
『あ、うん……ぼく、あのね』
 友達も誘っちゃいなさいよといわれたという。
『でも……他に誰も思い付かなくて。あ、ごめんね? 迷惑……だよね?』
 そういわれては断れない。ピクニックと聞いておめかしして来たのでヒカリは居心地が悪かった。
 ──場違いなのだ。
 水色と白のストライプのシャツ、半袖だ。下は砂色のキュロットスカート、素足を放り出して、大人しめの靴下へと続いている。
 靴は頑丈さだけが取り柄のトレッキングシューズである。
 無骨なだけのヘリの中は、どこかオイル臭くて気になった。汚れるんじゃないかと思うと素肌も服も、シートにすら触れさせたくない。
 そんな風に気を張っていたからだろう。シンジの独り言を聞き逃さずにすんだのは。
 罰の悪そうなシンジの顔が向けられる。
「海ってあんまり好きじゃないんだ」
「そうなの?」
「うん……」
 窓枠に頬杖を突く。
「あんまり良い想い出ってなくて」
 鬱に入った。
『セカンドインパクトのおかげで今や世界の八割が海だ! どうだシンジ! 飢えなくてすむってのは最高だなぁ!』
 がははははっと、そんな風に叫んだ人のことを思い出す。
 あの頃はまだひ弱で、泣きそうになりながら網を引かされたものだったが……。
 ヒカリはそんなシンジの様子に、キュンキュンと胸を傷めていた。特に理由はない。寂しそう、というのがツボに入っただけである。
 もっとも彼女はシンジが誘った動機からして誤解していた。シンジが気乗りしない声でヒカリを誘ったのは、『女の子を誘う』ことに対して気後れしていただけだったのだから。
 真相はこうだ。
「海!?」
「うん……ミサトさんがね」
 わくわくしているユイにシンジはいやぁな予感を覚えて訊ねた。
「なに嬉しそうにしてるのさ?」
「え? 海でしょ? 海!」
「……連れてかないからね」
「ええー!? なんでっ、どうして!? 友達誘っても良いっていわれたんでしょ!?」
「け、けど……」
 ふぅふ〜と血走った目で鼻息荒く詰め寄る彼女に引きつりまくったが……次の一言にムッとしてしまったのだ。
「どうせシンちゃんに誘うような友達なんていないじゃない」
 本当にムカッと来た。だから。
「い、いるよ。それぐらい……」
「へ〜? ほぉ〜?」
「あ、信じてないな?」
「じゃ、どこの誰だかいってみなさいよ?」
 ウッと詰まって、とっさに出て来た名前が。
「ほ、洞木さん……とか」
 はぁああああ、っと溜め息を吐く。
『ああそう、遊びの女より本命の彼女ってわけね、ちっ』
 ──本命ってなんだよ。
 とは思ったのだが、どうせいい負かされるだけなので放逐して来ていた。お土産を持って返らなければ大変なことになるだろう。
 そんなシンジの様子に不機嫌になっている人物がもう一人いた。
 誘いをかけたミサトである。
「なぁによぉ、いっつも山の中だから、たまにはって思って誘ってあげたのに」
「だったら遊園地が良いです。ぼく」
「遊園地?」
「行ったことないから」
 ヒカリが割り込む。
「あたしも……」
「そうなの?」
「うん」
 二人の会話に苦笑する。
「ま、第三は迎撃都市だからねぇ……壊れるのが前提になってるし、遊園地経営なんてリスク大き過ぎるからね」
「葛城さんは行ったことあるんですか?」
「ドイツの方でね……付き合わされて」
「デートですか?」
「だったら良かったんだけどねぇ」
 トホホぉと暗くなる様子に、首を傾げるヒカリであった。


「来たわね」
 船の上は当然のことながら波のうねりを受けて安定しない。そんな場所だから高所に立つのは危険なことなのだが、少女は無理やり腰に手を当てて立っていた。
 青空と太陽のためにシルエットのみである。スカートが風になびいて少女の下半身を引きずり飛ばそうとする。しかし性格的に我が強いのか、太股とふくらはぎが痙攣を起こすほどに力を入れて踏ん張っていた。


 ヘリからの降車にはちょっとした度胸がいる。
 足場が高いために跳び下りるような形になるからだ。普段ならなんともない高さでも、ローターの起こす風や波による揺れの中では、いまひとつここといったタイミングが計れない。
「洞木さん」
 ヒカリは先に下りたシンジが手を差し伸べてくれたので迷わず借りた。情けなくて恥ずかしかったが、引いてもらわなければとても思い切れなかったからだ。
 そんな様子をがたいの大きな海兵隊の人たちがほほえましく見ている。そんな彼らの間を割って、一人の少女が現れた。
 ──赤い髪をした女の子であった。
「ハロー、ミサト、元気してた?」
 腰に手を当て、高飛車にいった。
「まあねぇ。そっちこそ背、伸びたんじゃない?」
「ちゃ〜んと出るとこも出たわよ。で、噂のサードチルドレンは?」
「ああ、シンジ君なら」
 ヒカリは風に飛ばされぬよう、身を屈めたままヘリから離れた。もちろん手は引いてもらったままである。
「ふうん? 躾はきちんとできてるってわけね」
 耳に入ったのか、シンジはムッとしてミサトに訊ねた。
「ミサトさん。この馬鹿っぽいの誰ですか?」
「だっ、誰がバカよ!」
「だってことんなとこでスカートはいてるし」
 ふがぁっとなにかいいかける彼女を羽交い締めにして……。
「紹介するわね? セカンドチルドレンの惣流・アスカ・ラングレーよ」
 その時、ぶわっと風が吹いた。
「あ、透けてる」
 ──パン!


「おやおや、ボーイスカウトの引率のお姉さんかと思っていたが……」
 嫌味をいわれて、ミサトは派手にこめかみを引きつらせた。
「ご理解頂けて恐縮です。ではこちらにサインを」
「まだだ!」
 大人の折衝というやつである。
 その背後でシンジは頬をさすっていた。涙目で。
「痛い……」
「大丈夫?」
 甲斐甲斐しく濡れたハンカチで面倒をみるヒカリ。そんな二人をアスカという少女は、さげすみを含んだ視線を向けてうなり声を上げていた。
「このヘンタイが!」
「なんだよもぉ……スカートなんてはいてるからだろう?」
「っさい! ああいう時は見なかったふりをするのがマナーってもんでしょうが!」
「むっ、そういう君こそなんだよ。透けるほど『変な汗』かいちゃってさ」
「…………!?」
「なぁにやってたんだか、普通透ける? 透けないよねぇ〜?」
 あははははとヒカリは巻き込まないでと思ったがもう遅い。
「あ〜ん〜た〜ら〜」
「ひぃっ!」
「ふんだ! まくれて当然のとこでスカートでうろつくくらいだから見せて喜んでる変態さんってことだよね。あ、それで濡れてたんだ。やっぱ『先生』がいってた通りだ。赤毛の外人さんには気をつけなさいって、いんらんだから」
 ブチン!
 ヒカリは後に、血管が切れる音を初めて聴いたとのたまった。


 ──ラウンジ。
「あ〜、なんといっていいんだか」
 加持リョウジ。彼は無精髭の目立つ、だらしなく伸ばした髪を首の後ろで括っている、目尻の垂れた男であった。
「なんであんたがここにいるのよ」
「アスカの随伴でね、本部に転属になったんだ」
「げぇ……」
 ミサトはテーブルに突っ伏した。
 あまりに勢いが良かったためか、腕に引っかかった紙コップからコーヒーが跳ねる。
「迂闊だったわぁ、十分考えられることだったのに」
 そういや、と。
「アスカは?」
「あの子なら着替えに行ったけど……」
「で、こっちが噂のシンジ君か」
 シンジはう〜んと、うわごとで返した。
 左頬が平手によって腫れ、右頬は鈍器で殴られたように紫色になっている。拳でいかれたのだ。
 椅子を並べた簡易ベッドに横になり、最後にヒカリの膝に頭を乗せている。ヒカリは濡れタオルを口をまたぐように両頬にあてがってやっていた。
「こりゃまたどうにもならないかもな」
「……そう思う?」
「でも最悪の出会い方をした二人は、後が長続きするっていうぞ?」
「……そんなこと誰がいったのよ」
「偉人さん」
「ふうん?」
「ま、だから長続きしなかったんだな、俺たちは」
「なななななっ、なにいってんのよ!」
 おや? と加持は『大人』の顔つきになってミサトに迫った。
「忘れたとはいわせないぜ? リッちゃんが呆れるほど俺たちは幸せだったじゃないか」
 加持は内心でこう続けた。
(そのお前が、あそこまで堕ちるなんてな……)
 くうっと心で涙する。その片隅で『どうせなら俺がっ、俺が!』と他人に『染め』られてしまった彼女に嫉妬しているのだからタチが悪い。
「うう〜ん、ミサトさん。お尻……お尻は嫌だっていったのに」
 加持とミサトは動揺しまくって硬直し、ヒカリも驚いて取り落とした。
 ──シンジを。
 ゴツン! っと床で良い音が鳴る。
「あいったぁ〜、なんだよもぉ……って、あれ? どうしたんですか?」
 いやぁんと固まっている一同である。
「し、シンジ君! あああああ、あなたなにいってるのよ!」
「え?」
「誰がお尻なんて!」
「お尻?」
 カッとミサトは赤くなった。
「なんでもないわよ!」
「お尻……ああ!」
 ぽんっと手を打つ。
「あれのことですか? ビデ……」
「わぁあああああ!」
「ミサトさん。嫌がってたのに最後は」
「いうなっての!」
「凄かったですねぇ」
 くいくいっと強めに袖を引く少女が一人。
「え? 洞木さん?」
「あの……お尻がどうしたの?」
 真っ赤になっている。うすうす感づいているらしい。
「えっと……ネルフの諜報部ってとこの人が、良いもの見せてやるぞぉって見せてくれたんだ。それが」
「だからバラすんじゃないっての!」
「か、葛城……」
 加持はがっくりと膝をついた。
「ちょ、諜報部の連中と、しかもそれをシンジ君に」
「違うー!」
「フケツフケツフケツフケツフケツ」
 いやんいやんと顔を手で被ってお下げ髪をばたばたと振る。
 そこにやって来たのがアスカであった。
「なによこれ?」

フェイズ2

「へぇ……赤いんだ。弐号機って」
 最初に降りた空母から移動すること後方の輸送船。
 そのほろの下、特設プールに横たわらせられていたのが弐号機であった。
 うつぶせになっているのはエントリープラグを上に持って来るためだ。零号機、初号機との違いは色だけでなく目の数にもある。
 四つ目であった。
「どう!? これが実戦用に作られた世界初の本物のエヴァンゲリオンなのよ! 所詮本部にあるのはプロトタイプとテストタイプ。訓練もしていないあんたなんかにいきなりシンクロしたのがその良い証拠よ!」
 ちなみにヒカリはここにはいない。
 どうにも『帰って』来てくれないので放置して来たのだ。案外薄情なシンジである。
(訓練もなしに、か……本当はそういうことじゃないんだよね。けど)
 シンジは感嘆しながらも、心中で複雑なことを考えていた。
(じゃあこの弐号機にも、この子のお父さんかお母さんか……誰かが入ってるってことなのかな?)
「な、なによその目は……」
「別に……」
 シンジは憐れみの目を背けた。なにも知らないのなら知らないままの方が良い。
 そう思ったのだ。
(そう……たとえ借金のカタとか人質としてであったとしても、ろくでもない逃避行をやらされるよりはなにも知らされないままの方が幸せだってこともあるんだ。知りさえしなければ幸せでいられる。そうだよね。ユイさん)
 先生、と持ち出さない辺り思い出したくもないのかもしれない。
「なんなのよ?」
 微笑ましそうにみる目にアスカは戸惑った。なんでそんな目でみるのよ? そんなシンジにアスカは困惑するしかない。そこに。
 ──ドォン!
 船が揺れた。
「なんだろう?」
「水中衝撃波!」
 爆発が近いと一人ごちて駆け出す。向かう先は甲板だ。
 ──海原は大変な騒ぎになっていた。
 海面に白波が立っている。なにかが海面近い水中を泳いでいるのだ。その内巡洋艦の横っ腹にぶち立った。
「船が!」
 驚くシンジだ。海中の化け物は意にも介さず木っ端微塵にしてのけた。
 様々な艦から砲撃が始まる。シンジは相手がなんであるか、感覚でいった。
「使徒だ」
「使徒? あれが? 本物の!?」
 アスカは多分というシンジの返答も聞かずに呟いた。
「ちゃ〜んす」
「え?」
「アンタも来るのよ!」
「どこに?」
「決まってるじゃない!」
 アスカはシンジの腕を引っ張り、走った。
「使徒を倒すためにアタシたちはいるのよ!」
 そうだったっけ、とシンジはぼけた。


 ──考えてみたら。
「冬月……」
 ゲンドウは唐突に腹心に話しかけた。
 いつものポーズで、だが包帯だらけだ。先日の怪我はまだ癒えていないらしい。
「なんだ?」
 気にせず、将棋の駒をぱちんと鳴らす冬月である。
「……シンジはドイツ語を使えたか?」
 ん? とさすがに首を傾げた。
「シンジ君は足し算すらろくにできなかったはずだが……なにがいいたいんだ?」
「いや……」
「…………?」
「海の上でも、最悪弐号機にかくまうように指示したんだが……弐号機はドイツ製だったと思い出してな」
 はぁ……と冬月は呆れ返った。
「連絡を入れろ」
「むっ、そうする」
 しかしゲンドウには荷が重かった。
 首のギプスのために、受話器の位置がよくわからなかったのである。


「ちわ〜、ネルフですがぁ、正体不明の敵に対する情報と、的確な対処はいかがッスかぁ?」
「うるさい! 呼んどらん! 戦闘中だ! 一般人の立ち入りは許可できん!」
「あの……葛城さん。碇君は」
「あちゃ〜。アスカのやつ、もう弐号機を出したか」
「なんですって!」
「なんだと!?」
 とぼけ気味の加持の言葉に、ミサトと艦長は激しく反応した。
「あ〜、アスカ。聞こえるか」
「勝手に無線を使うな!」
「シンジ君はどうした?」
『ここにいます』
 非常に居心地の悪そうな声だったが、ヒカリは一応安堵した。
「行けるのか?」
『大丈夫みたいです……不思議ですけど』
 シンジは本当に理由がわからないでいた。
(零号機でも大丈夫だったけど、どうして弐号機でもシンクロできるんだろう?)
 シンジはシートの後ろの隙間に追いやられていた。アスカにシンジがレイに取ったような気遣いを期待するのは、考えるだけ無駄らしい。
(綾波さんと初号機に乗せられたけど、あれは起動してたとはいわないし……)
 アスカがメインのシンクロを行っているにしても、こうも問題なく起動できるのはおかしい。シンジはその点について首を傾げていた。
 ふいに不機嫌そうなレイの顔を思い出したのだが、シンジは無理やり振り払った。
(この中に取り込まれた人ってどんな人だったんだろう? いや、待てよ?)
 シンジはかつて迷い込んだ桃源郷のことを思い出した。あの甘ったるい世界のことを。エヴァの中の仮想世界を。
(じゃあ……じゃあ! この中、向こう? そこで暮らしてるのか? ユイさんみたいに)
 ぶるぶると震え上がったのは、あんな無茶くちゃな人がもう一人いるのかと想像してしまったからだった。
 加持からの言葉がシンジを救う。
『こっちはヒカリちゃんを連れて逃げさせてもらうよ』
『ちょっと加持!』
『民間人の安全が第一、だろ?』
 くっと唸るミサトの声。
『じゃ、後はよろしくぅ。葛城一尉〜』
 あんぐりとしているミサトの様子が見えるようだった。
 恐る恐るシンジ。
「……加持さん。逃げちゃったみたいだけど」
「ま、加持さんは作戦部とは関係ないしね」
 あれ? とシンジは首を傾げた。
 その様子にアスカはつっかかる。
「なによ?」
「え? うん……加持さんって、惣流さんの彼氏じゃないの?」
 ぱっとアスカの顔に華が咲く。
「ホント!? ホントにそう見える!?」
「見えるっていうか……なんとなくそうなのかなあって思ってただけで」
 漠然とって感じなんだけど……あの……という言葉はやはり聞いてはもらえなかった。
「そうなのよねぇ! どいつもこいつも人を子供扱いしてさ。アンタわかってるじゃん!」
「はぁ……どうも」
「日本に着いたらぁ、アタシの一の子分にしてあげるわ!」
「……それって、タマ避けってこと?」
「はぁ?」
「いや、なんでもないです」
「ま、いいわ」
 ふふんと上機嫌でレバーを握る。
「さ、行くわよ」
 好きにして下さいとシンジは投げた。


 ヒカリは眼下に見える巨大な生物に息を呑んだ。
(あれが使徒……あれが)
 白い魚にも見えるものが船を木っ端微塵に吹き飛ばす。
 先程まで乗っていた空母とほぼ同じ大きさがあった。乗って初めて知った広い甲板。その経験が使徒の大きさを実感させた。
「あ」
 空母よりも巨大な輸送船から、赤い巨人が起き上がった。使徒が向かっていく。
「危ない!」
 きゃっと目を被う。しかしその心配は杞憂に終わった。
 恐る恐る見てみると、巨人は宙を舞って船から船へと飛んでいた。足場を船に求めたのだ。
(あれがエヴァンゲリオンなんだ……)
 どれもこれも初めてみるものばかりで、しかし現実感は凄まじかった。


「うひゃ────!」
 しかし外から見た華麗さに反して、コクピットの中は荒れていた。
「エヴァ弐号機着艦しまーっす!」
 嬉々として、いや、逝った目をして着地点である『獲物』を見定めるアスカと、その背後で転がり回るシンジ。目がぐるぐるだ。
 ずしんと着艦。船体には二つに折れるかと思うほどの衝撃が加わったのだが、空母は堪えた。空洞が多いことが幸いしたのだろう。衝撃を吸収してくれたのかもしれない。踏み散らかされた戦闘機が海へと落ちる。
『アスカ! 電源用意できてるわよ!』
「テンキュー!」
 ドイツ人もさんきゅうっていうんだ。とシンジはくらくらしたままシートの背もたれにのっぺりとした。
「うう……吐きそう」
「吐くならそこの循環用吸引口でやってよね!」
 冷たい、とは思わなかった。
 余裕がなかったからである。
「使徒は?」
「来てる来てる来てる!」
(キテる?)
 じゃなくて、と自分で突っ込む。
「結構大きい」
「予想通りよ」
「武器は?」
「プログナイフで十分!」
「すっごい自信だね」
「アタシに不可能の文字はない!」
 思わずそんなものかな? と納得してしまう勢いであったが、やはりそんなことはなく。
「きゃあああああ!」
「うわぁああああ!」
 跳ね飛んだ使徒の体当たりを受けてあえなく水の中へと弾かれた。
 ──水面下。
「ちょっとぉ、どうすんのよぉ!」
 めまいが来ていたために、シンジはキレた。
「そんなこといったって、やられたのは惣流さんだろ!?」
「なにいってんのよ! アンタがごちゃごちゃいうから!」
「惣流さんが」
「生意気なのよ! 下僕げぼくのくせにぃ!」
 ごぉんと衝撃。
「きゃあああああ!」
「くっ!」
 シンジはアスカの体を腕で押さえてレバーに手を伸ばした。右腕でアスカの胸を持ち上げるようにし、左手はグリップを握る。
(いける?)
 インターフェイスもなしに反応できる。シンジは感触を得た。
「ちょっとぉ」
 剣呑な声にシンジは横目をくれる。ぴくぴくとこめかみを引きつらせたアスカがいた。
「あ、ごめん」
「ごめんじゃないっての! 早く腕どけなさいよ!」
「うん……でも」
 余計な一言。
「思ったより小さい」
 ──ゴン!
「いったぁ! 何すんだ……ごめんなさい」
「っっっっっ!」
 ぽかぽかと殴る。
 こんな屈辱は初めて味わったのかもしれない。
「痛い、痛いって」
「っっっ!?」
「ちえ、なんで弐号機のシートって固定してくれるものがないんだよ……」
 初号機にはあったのに、と不満に思う。
「でもほら、また使徒が来るよ?」
「わかってるわよ!」
 はぁはぁと荒く吐かれたアスカの息に対流が起きて、無色であるはずのLCLが曇りを帯びて流れを見せた。
 がちゃりと軽くレバーを引く。
「反応が鈍い……」
「なんで?」
「馬鹿! B型装備じゃ水中戦は無理なのよ!」
「わかってるなら落とされなきゃ良いのに」
「なんですってぇ!? ってアンタのペースに乗せるんじゃない!」
「乗ってるのは惣流さんなんだけど」
 ぽかりと殴られた。
「うう、痛い……」
「次いったら本気で殴るからね!」
(本気じゃなかったのか)
 口にしないだけの学習能力はあったらしい。
「こっちに来ない……様子を見てる?」
 視界限界ぎりぎりのところを回遊している使徒に対し、アスカは苛立ちを吐いた。
 シンジは彼女の膝脇に納まったまま、その表情を仰ぎ見た。
(どうして惣流さんはエヴァに乗ってるんだろう?)
 わからないことは訊ねてみる。
「ねぇ?」
「なによ……」
「どうしてエヴァに乗ってるの?」
「はぁ!?」
「いや……なんでエヴァに乗ることにしたのかなって」
 アスカはこんな時にと苛立ったが、使徒を睨んだままで軽く答えた。
「あたしの価値を知らしめるためよ」
「褒めてもらいたいってこと?」
「自分を褒めて上げたいのよ!」
「そのためにエヴァに乗ってるのか……」
 その声音は非常に気になるものだった。
「なによ?」
「ううん……別に」
「ちょっとぉ、やめてよね。そういうの、気になるじゃない」
「じゃあいうけどさ」
 シンジは表情を改めた。
「惣流さんの噂って、一度も聞いたことなかったよなぁって」
 ──ブッツン!
「アンタはどうしてそう一言多いのよー!」
「あ、使徒来たよ。ほら」
「絶対泣かす! 後で泣かすー!」
 意味もなく弐号機の拳を繰り出す。
 交錯する一瞬、これだけじゃ足りないな、と、シンジはそっとサポートをくれた。
『加速』をかけられた水流は、ATフィールドなどお構いなしにすり抜けて、使徒の体をズタズタにする。それも一瞬で。
 ──ズバン!
 弾けて散った。
「へ?」
 アスカが惚けた声を漏らしたのも無理はない。まるでパンチ一発でけりがついてしまったかに見えたからだ。
 赤い血と肉片が、漂うようにして沈み、広がって、薄れていく。
「なんで?」
 首を捻って、思わず自分の拳を見やる。その横でシンジは隠れてほっと安堵していた。


「お疲れさま」
「水中戦闘を考慮すべきだったわぁ」
 会話を交わしているのはミサトとリツコである。なんとか沈まずに新横浜港まで辿り着いたミサトたちを出迎えるために、彼女はわざわざやって来たのだ。
「で、データの隠蔽、やっといてくれた?」
「ようやく信じる気になった? シンジ君の実力」
「まあね」
 ミサトは渋い顔をした。
 前回の『指弾』以上に、今回シンジが起こした現象は不可解なものであったからだ。
 しかしそれ以上に。
「アスカにこのことがバレると、後々厄介だしね」
「彼女のプライドが傷つく?」
「それもあるけどさぁ……」
「なに?」
 ミサトは人差し指を眉間に当てて、頭痛を堪える様子を見せた。
「あれよ」
「へ?」
 ミサトはちょっと離れた場所を指し示した。
「ちょっとぉ! アンタでしょ!? なにやったの!」
「ほんとに知らないってば! ぼくなんにもやってないよ!」
「ウソね! あたしがなんにもやってないんだからっ、アンタ以外になにが考えられるってのよ!」
 いいから教えなさいよー! っと、襟首つかんで引っ張り戻している。
「なに? あれ」
 はぁ、っと溜め息。
「『必殺技』じゃないかってね……疑ってんのよ」
「必殺技ねぇ……」
「アンタにできてあたしにできないはずがないでしょ。ってね? まあできるものなら教えて上げてもいいんでしょうけど」
 おや? とリツコは首を傾げた。
「アスカには無理だと思ってるの?」
「できない……多分、直感だけどね」
 けれどそうであることが証明されてしまうと、プライドの高さ故にどのように不和をもたらすかわからないのがアスカだという。
「ま、こっちに来たらたぶんあたしがお守りしなきゃなんないんだろうなぁって思ってたからさぁ……良かったわ。良い友達になってくれそうで」
 はぁ? っとリツコは、そんなミサトの発言に対し、理解できずにこぼしたのだった。


続く


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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。