凄いわねぇ、アスカちゃん。あなたは凄いわ、天才よ?
 偉いわねぇ、アスカちゃん。頑張ったわね? 次はもっとね?
 頑張るのよ、アスカちゃん。もっと頑張りなさい? あなたやればできる子なんだから。
 負けちゃ駄目よ、アスカちゃん。それくらいのことで負けてちゃだめよ?
 がんばって。誰にも負けないで、一番になって……一番になるの。そしてパイロットになるのよ? エヴァのパイロットに。
 
 ──そしてアスカは母に応える。

「うん、ママ、あたし頑張る。がんばる……だから」
 ──だから。
「だからあたしを見て!」
 病院。
「あたしを見てママ! あたしはここにいる! だからこっちを見て!」
 ベッドの上に、人形を抱いた母親がいる。
 ──アスカの幼少は、あまりにも悲惨窮まる体験によって彩られていた。
 母に褒められることを喜びとして彼女は育った。いや、母の寵愛を望むように育てられた。
 しかしその母は死んだ。エヴァとの接触実験の果てに気が狂い、人形を自分の子供と思い込んだあげくに死んだ。
 ──自殺であった。それも人形との無理心中であった。
 気狂いの母。そんな風評を払拭するためには頑張るしかなかった。母の願い通りにパイロットになって、さすがあの人の子だと、あの人が育てた子だと良くいってもらえるように頑張って来た。
 ──それが。
「うっ、うっ、う……」
 アスカは階段を駆け下りる途中で、崩れ落ちるようにしゃがみこんでしまっていた。泣いてしまっていた。
 ──母は最初から自分など見てはいなかった。
 それどころか人形だった。母が連れだって逝ってしまったあの人形と自分は同じであった。
 母は狂ったから人形を娘と思い込んだわけではなかったのだ。母にとっては人形も自分も同じだった。区別などなかった。どちらでも良かったのだ。自分は母にとっては人形だった。
 ──逆恨みと嫉妬から来る感情を晴らし、見返してやるためだけの道具に過ぎなかったのだ。
「うう、うああ、あああああ!」
 我慢がきかずに泣きじゃくる。
 そんなアスカの背中を温かく撫でる手があった。
(業が深いわね、キョウコ)
 ──ユイである。
 アスカの隣に腰かけて、彼女の頭を抱き包む。
(逆襲の道具に仕立て上げるなら、もっとしっかり教育すれば良かったのに)
 彼女はまだキョウコが死んでいることを知らなかった。


第十話 そして少年は纏わり付かれた


「そう……」
 長い、長い時間が過ぎた。
 部屋の中にはユイとアスカ。テーブルで頬杖を突くユイの前で、アスカはすっかり萎縮してしまっていた。
 恐れているのか、上目遣いに様子を窺っている有り様だ。
 シンジは少し離れた場所、窓際に腰かけて二人の様子を窺っていた。
 面倒を嫌っただけともいうが……。
「馬鹿な子」
 アスカはビクッと反応した。
「勝手に張り合って勝手に死ぬなんてね」
 アスカが萎縮してしまっている理由の一つに、シンジが知っている程度のエヴァの真実を聞かされたことが上げられる。
 エヴァは人柱を必要とする。そしてユイの話、そこから導き出される答えは一つだった。
 ──母はこの人に勝つために、自分をエヴァにインストールした。
 その狂気、自分はどこまでもこの人に勝つための道具、部品に過ぎなかった。
 その滑稽さを否定し、見て見ぬ振りをするには、アスカは余りに聡明過ぎた。
「ママは……」
「ん?」
「ママは、ユイさんみたいに生きてるんですか? エヴァの中で」
「それはないわね」
 しつもぉんっと口を挟んだのはシンジだった。
「どうして死んだって断言できるのさ?」
「だって『向こう』で会わなかったもの」
「へ?」
「いったでしょ? いわなかったっけ? 一次元二次元三次元と、次元の層は重なっているの。シンジは三次元界の人間だから、一次元と二次元の世界を無意識のうちに見収めているわ。そしてわたしがエヴァの中で到達した位置は、人が人のままで到達できる、ほぼ限界領域の次元だったの。なのにわたしはキョウコに会わなかった。姿も見てない。気配も感じてない。それはキョウコが死んだか、わたしより上の次元に行ってしまって、わたしには認識できなくなってしまっているかのどちらかだってことになるわ」
「もし上に行ってたら?」
「キョウコには本望なことでしょうけどね」
 舌を出す。
「人が人として自我を保てる限界点がわたしのいた世界なの。だから生きていたとしてもキョウコは自分がキョウコであるという認識を失ってしまっているでしょうね。自己を保てなければそれは死と同じだわ」
 そんなのはごめんよと口にする。
「キョウコはわたしを越えようとしたんでしょうね。わたしが失敗したエヴァの起動試験、そしてわたしが死んだことで判明した起動の方法、これほどの皮肉はないわ。それで勝ち誇ろうとした」
「死んでまで?」
「そういう子だったのよ。いるでしょ? なぜだかわからないけど突っかかって来る子って。勝手に勝負を挑んで来て、勝手に勝ち負けを口にして、勝ち誇ったり卑屈になったり……わたしにはどうしても突っかかられなきゃならない理由ってものが理解できなかったわ。だから相手にしなかった。でもキョウコにはキョウコなりに譲れないものがあったんでしょうね。けどそんなことをいわれたって、わたしには関係ないもの。迷惑なだけ、そうでしょう?」
「そんないい方」
 歯を食いしばるアスカだ。
「だって、ママは!」
「わたしに嫉妬してた?」
「…………!?」
「だからぁ、わたしは別に勝とうと思ってやってたわけじゃないし、勝負を受けた覚えもないし。第一、なにに勝ち負けをつけたかったのかもわからないままなのよ? キョウコのは自爆よ、自爆。少なくともわたしに責任はないからね」
 確かにその通りだ。
「ええと……整理するとキョウコさんって人は、みんながあんまりユイさんばっかりを褒めるもんだから、嫉妬して、勝とうとしてでも勝てなくて、父さん誘惑したり色々やったけどそれも無駄で。だからぼくより凄い子を作ってユイさんを見下してやろうとして惣流さんを作って、ユイさんが死んだのをいい気味だと思ってその時のデータとか利用してエヴァを動かして見返してやろうとして、教育してエヴァの生贄になってまで惣流さんをパイロットにした?」
「そんなところね」
 ふうんとシンジ。
「大変なんだ」
 それよとユイ。
「へ?」
「そういうね、大変ねって態度。それがムカツクって突っかかって来たのよ」
「え? そんなこといわれたってさ」
「ほら、わたしと同じこといってる」
「…………」
「困るでしょ? 別に興味なんてないのに勝手に負けたなんて恨まれてもね? そういうのが積もって行ったんでしょうけど、どこでどんな風に恨みを買ってたかなんてわからないもの」
 両手で顎を落とす杖を作る。
「で、アスカちゃんはどうする?」
 アスカはビクリと震え上がった。
「……アスカちゃんにその気があるなら、わたしの持っている知識のすべてを上げるわ。アスカちゃんならわたし以上に上手く使えるでしょうし」
 ──ただし。
「虚しいだけでしょうけど……」
 アスカはさらに落ち込んだ。確かにそうだ。母の見当違いの呪いの産物である自分は、勝てるように生産されている。ユイと同じだけの知識を得られたならば、負けることなどありえないのだ。
 当然すぎて、やる意義がない。
「……アタシは」
 それでもアスカはこだわった。
「アタシは……それでもアタシは、それがアタシの『作られた』理由なら」
 ユイはしょうがないなぁと後頭部を掻いた。
 深く溜め息を吐く。それは故人へと向けたものだった。


「おっかしいわねぇ」
 そう呟いたのはミサトである。
 アスカに事情を説明しようとして訊ねて来たのだが、アスカがどこにもいないのだ。
 それどころか部屋の中は荒れ果てていた。壁や床や天井が穴だらけなのは、報告にあった盗聴器を排除した跡だろう。
 ミサトは再度の設置を保安部と諜報部に対して禁止していた。安全に関しては周囲を固めることで確保することにして、シンジのプライベートを優先したのだ。
 ──だから今まで気づけなかった。
 こんなにも生活臭がないだなんて尋常じゃない……いったいシンジはどこで生活していたのだろうか? 確かにここに帰宅していたはずなのに?
 ミサトは持ち込まれたアスカの荷物が放り出されたままになっているのに気が付いた。そういえば彼女もどこへ行ったのだろうか?
「どうなってんのよ」
 首を捻るミサトの後ろでは、レイが静かに佇んでいた。と、声に気が付いたのか、彼女は後ろへと首を捻った。
「だからぁ、アスカのやり方は雑なんだってば、もっとこう……」
「っさいわねぇ。馬鹿シンジのくせにぃ」
 妙に仲良くなった二人がやって来た。レイが気がついたものは二人の気配であったらしい。
「碇君……」
「え? シンちゃん?」
「あれ? 綾波さん、ミサトさん。どうしたんですか?」
 ミサトはきょとんとしてしまった。へこんでいたはずのアスカが妙に上向きになっている。それどころか人を従えようとする傾向のあるアスカが、平然と『男の子』と連れ立ってやってくるなんてどういうことか?
「どうしたってのはこっちの科白よ」
 ミサトはやや唖然としたまま二人に訊ねた。
「どうしたの? なぁんか妙に仲良くなっちゃってさ」
「へ?」
「ちょ、ちょっとミサト! なに勘違いしてんのよ!」
 しかし赤くなりながらちらちら見ているようでは説得力がない。
 その態度にレイがなぜだかムッとする。ミサトはミサトで、「ははぁん」とシンジにいやらしい目を向けた。
「まさかシンちゃん……」
「な、なんですか?」
「まったくもう、シンちゃんったら大人しそうな顔して手が早いんだからぁ」
「ちょ、ちょっとなんですかそれ!」
「で、アスカはどうだったの? シンちゃんってばキス、激しいんだからぁん」
 ほほぉとアスカは目を細めた。
「で? あんたがなんでそれを知ってんのよ」
「ぎくぅ」
「こんのっ、馬鹿シンジぃ!」
 パァンと派手に。
「ったぁ、なにすんだよぉ」
 平手を張られた頬をさする。
「ふんだ!」
「なんだよもぉ……なに? 綾波さん」
「別に……」
 しかし別にというには殺気が篭りまくっている。
 シンジはびくびくとして、レイから僅かに距離を取った。


「コンピューターシミュレーションの結果、分離した使徒はお互いをお互いに補っていることがわかったわ。つまり二身で一体ということね。第七使徒を倒すには二つの核に対して同時に攻撃を加えるしかないの。エヴァ二体による完璧にタイミングを合わせた攻撃よ。そこで!」
「協調を養って、ユニゾンしろってのね?」
「そういうこと」
「そのための同居ですか」
「…………」
 最後の人物が無言だったのは、ストローをくわえていたからだ。ずずぅとジュースがなくなった瞬間の独特の音が静かに鳴った。
「そんなことしなくたって、アタシ一人で十分なのに」
「あなたねぇ。そんなこといってやられたばっかりでしょうが」
「……そうだっけ」
 そうだったそうだったと……とぼけたことをいうアスカに、ミサトは本気で不安を感じた。
「大丈夫なの? アスカ」
「なにがよ?」
「頭とか」
「どういう意味よ!」
「そのままよ。検査ではなにもなかったみたいだけど、後遺症がないとはいいきれないし」
 大丈夫よ。っとぶすっくれていう。
「ま、アタシ一人でも楽勝だけど、シンジが手伝ってくれるんなら楽できるしね」
「へぇ? 結構信頼してるのね」
「信頼ってぇか、まぁ……」
 また赤くなる。
 その度にレイのこめかみの辺りで血管がぴくぴくとするのだがなぜなのだろうか?
 シンジはその度に脅えた眼をして萎縮していた。

フェイズ2

「ふんふんっとね、シンジぃ、お待たせ、あがったけど……ってなにやってんのよ?」
 バスタオル一枚で風呂場から出て来たアスカは、色々と壁などを調べているシンジに首を傾げた。
「いや……ミサトさんのことだから、盗聴器とか仕かけて帰ったんじゃないかと思って」
「はぁ」
 そうですかっと横切ってキッチンへ、牛乳かジュースを物色するつもりらしい。
 その姿に対してシンジは呆れた顔をして口にした。
「なんだかなぁ」
「なによ?」
「ちょっと『前』まで覗くなとかいってたくせに」
「あんだけ見られりゃ慣れるわよ」
「見た……って」
「なぁに赤くなってんのよ」
 ぴんっと鼻先を指で弾いてやる。
「ただ一緒に『温泉』入っただけでしょうが」
「そうだけどさ」
 ぶちぶちと。
「ユイさんもユイさんだよ。『再構築』したからってなにもぼくたちだけにすることないじゃないか」
「まあ、でもちょっと新鮮で良かったけどねぇ」
 浮かれて口にする。
「アタシ、ああいうの初めてだったから……ちょっとした合宿って感じでさ」
「……そうだね」
 ついしんみりとしてしまう。旅行や合宿、そういったイベントに憧れがあったのはシンジも同じであったからだ。
「ぼくだけだった時はもっと地獄だったからなぁ……」
「そうなの?」
「うん、宿題とか出されてさ。できなかったら食事抜きとか……アスカと違ってできが悪かったからね」
 アスカはその一言を軽く聞き流した。そこには明確な変化が生まれ出ていた。
 ──アスカもまた、シンジと同じように『桃源郷』と呼ばれる高次元世界での修行を体験して来たのである。させられた……ともいえるのだが。スパルタだった。
 そこはなにもかもが足早に過ぎ去って行く世界であった。
 赤ん坊が転がるボールを追いかけるように、よちよち歩きからはじめて必死に時を追いかけた。
 ユイが学んできたことを同じように学んで、シンジが与えられたような修行もこなした。
 そして過負荷から解放された今、アスカは正に無敵であった。そんな余裕が自信となって現れているのだろう。自分がどのような目的を持って生み出された存在であるのかなど、もはや些細な問題だとして、まったく気にもしなくなっていた。
「でも最後までアンタには勝てなかったなぁ……ざぁんねん!」
「そりゃあね……これでも一応は男だもん」
「もう一年あったらなぁ」
「別に十年でも百年でも好きなだけいられるだろうけどさ」
 はぁっと溜め息を吐くシンジである。
 実際、さっさと出て来てしまったのは、アスカの『飽きた』の一言でそうしただけなのだから。
「で、どうするの?」
 訊ねたのはシンジであった。
「どうって、なにが?」
「だからさ」
 この同居スペースに腕を広げる。
「ほんとにここで暮らすの?」
「駄目なの?」
「駄目ってわけじゃないけどさ」
 シンジはもう一つのスペースにいるユイのことを気にしていた。放っておくと拗ねて手がつけられなくなるからだ。
「大丈夫よぉ、ユイさんなら暫く出かけるっていってたじゃない」
「ああっ、ちょっとやめてよ!」
「だから、ね?」
「あああ! 胸! 耳噛まないで!」
 背中に張り付き、その上シンジの体をまさぐりはじめる。
(やっぱりやるんじゃなかった)
 ちょっと気持ち良さそうにするシンジである。
『良いか、シンジ。女の子が噛みついて来たらとにかく抱きしめろ。そういうときは反発してるんだ。じゃあなんで反発するんだ? 自分の中に認められない気持ちがあるからだ』
『あの時』には本当にそれで良いのかわからなかった。
『本心では気づいてるのに絶対に認めたくない気持ちってのが人間にはあるんだよ。じゃあなんで認めたくないのか? 恥ずかしいからさ』
 恥ずかしい? と首を傾げたことがあったのだ。
『恥ずかしいにも色々あるが、どうでも良い相手なら反発するよりも無視するさ。無視できないのは気にしてもらえないのが嫌だからだよ。離れたくない。離されたくないって気持ちがどっかにあるんだ。だから抱きしめてやれ』
 かかかと笑い。
『ただし! 一度抱きしめたら引っかかれようが何されようが絶対に離すなよ? 離すとこじれるだけだからな。もし逃げられそうになったらキスしてでも押さえ込め。後は成り行きでどうとでもなる』
(その成り行きがこれですか? 先生……)
 ううんと色っぽい声がつむじの上でしたのだが、シンジの状態は決して気持ちの好いものではなかった。
 ──はっきりいって、す巻きに近い。
 修行中、ついに泣きの入ったアスカを抱きしめた。そこまでは良かった。
 しかし赤くなりながらも『ごめん、泣いちゃった』などと照れ恥じる……こともなく、アスカは持ち前のへそ曲がりを発揮して、『シンジの癖にぃ』と意地悪く笑ったのだ。
 ──シンジの癖に生意気なのよ! 罰として責任取んなさいよね!
 アスカは元々寂しがり屋だった。寂しがり屋というより人肌が恋しいタイプだった。
 母親にかまってもらい、じゃれつくようなことをして、甘えてばかりいたような女の子であったのだ。
 それが母を失ってからは、ひたすら我慢をしていたわけである。途中加持という男に出会ったが、それでも満足できるほどにはじゃれつけなかった。
 アスカの記憶の奥底に根づいていたのは、母親と一緒に眠っていたころの記憶であった。ぬいぐるみを抱いて寝るような、そういう年齢であったのだ。
 ──そして、精神的に彼女は成長していなかった。
 無理を重ねて自分を作り上げていくことと、精神的に成熟していくこととは違うのだ。アスカは潜在的な不満のはけ口をシンジに求めた。そう、『抱き枕』である。
 これはあっちの世界に、抱き枕、あるいはぬいぐるみ相当の代物がなかったことが、シンジの不幸へと繋がってしまっていた。
「拷問だよぉ……」
 小さく呟く。こんなにくっついて寝た記憶は母としかないが、母との場合は眠るというよりも気絶に近い状態である。
 あげく、起きる時もアレなナニだ。
 しかしアスカにこのような幼児的欲求があるのと同様に、実はシンジにも似たような願望というものが存在していた。幼い頃に母を亡くし、他人の家に預けられ、あげくには平和で平凡な日常からは、無理やり逸脱を余儀なくされたという経験が、彼に眼前にある胸の谷前への、抗いがたい欲求というものを突きつけて、誘惑の落とし穴へと誘いをかけて呼び込んでいた。
 顔を埋めて眠りたい。抱きしめられて鼓動を感じたい。
 ──ぬくもりに包まれたい。
 だがしかし──シンジはそれを求めてしまい……失敗したのだ。
 抱きつき返して眠ったところ、朝になって「きゃーーー!」っと悲鳴を上げられてしまった。以来、寝る時にはロープでぐるぐる巻きにされている。
 途中でユイのみのむしとモスラの二種の着ぐるみ寝間着の差し入れがあり、それからは楽に寝られるようにはなったのだが……。
「なんだかなぁ……」
 とはいえ、この状態もアスカの腕枕に近い、もっとちゃんと埋めて寝たいという不埒な考えさえ起こさなければ問題は……問題は、問題は?
「ちょっとぐらい良いよね?」
 シンジはもそもそと体をくねらせて、半分はだけてしまっているアスカのシャツの下、その胸の谷間に顔を突っ込もうとした。しかし……。
 ──ギュウ……。
「ママぁ……」
 きつくきつく抱きしめられてしまった。どきっとする寝言と、見上げればアスカの涙。
「……ちえ」
 シンジは舌打ちすると、我慢してもそもそとみのむし寝間着の中に潜り込み、大人しく抱き枕と化すことにしたのであった。


 ──数日後。
「それじゃあシンジ君。アスカ、頼むわね」
「任せろっての、ねぇ〜?」
 シンジはあははと引きつった。それはレイが恐かったからだ。
 ミサトが肘で突いて訊ねる。
「ねぇ……最近ますますキレて来てない? レイ」
「やっぱりそう思います?」
「あのさぁ……ずっと考えてたんだけど」
「はい?」
「レイってさ……シンジ君と好い雰囲気だったんでしょ?」
「最初は……」
「で、お母さんって呼んでいいかって訊ねて断られた」
「はい」
「そんでもって、アスカが来て、アスカといちゃついてるのを見て機嫌悪くなっていって……」
「いちゃついてるだなんて、そんな……」
「んでもって、あたしとキスしたっての聞いて怒って」
「はぁ……」
「アスカとさらに急接近状態ってのに、苛ついて……」
「…………」
「それってさぁ」
 ごくりと喉。
「もしかして、レイってシンちゃんのことが好きなんじゃない?」
 へ? っとシンジ。
「まさかぁ……どうしてそうなるんですか?」
「でも整理していくとそうとしか考えられないじゃない」
「あり得ませんよ。だってぼく色々と嫌われるようなことやってるし……着替え覗いちゃったりとか」
「それも聞いたけどねぇ」
 ミサトはそれでもと確信を込めていった。
「でもね? 『あの』レイよ? それこそ着替え見られたくらいで怒る?」
 ホントはそれ以外にもあるのだが、さすがに口にはしていない。
「大体、アスカといちゃついてるからって怒る理由がレイにはないわ。それこそ、それ以外にはね」
「ででで、でも」
 シンジはどもった。
「綾波さんに好きになってもらえるようなことなんて、なにもしてないし」
「嫌いっていうのはどうでも良いとは違うのよ」
 シンジははっとした。
(先生と同じこといってる)
 ──どうでも良い相手なら反発するよりも無視するさ。
「気になる子が気に入らないことをしてる。だから睨んでしまう。レイにとってアスカと仲良くするシンちゃんは気に入らないのよ」
「ぼぼぼ、ぼくはどうしたら」
「あ、でも」
 ミサトはどもるシンジがおかしくて、いわなくても良い冗談をいってしまった。
「単に未来の息子に相応しいお嫁さんじゃないなって、思ってるだけかもしんないけどね」


(そうだよな、ミサトさんも人が悪いよ。この間自慢の息子だって思ってもらえるように頑張れっていったくせに、変なこというんだもんなぁ)
 浮かれ気分で初号機のスタンバイに入るシンジである。
 だが自分でも逃げだと気がついているのだろう。額に冷や汗をかいていた。
 時に、この初号機を完全回復させるまでには、実に涙ぐましいまでの技術部作業班の徹夜の就労努力があったのだった。ケージの隅々では男たちが、『今度は壊してくれるなよ』と祈りを捧げ、横断幕をかかげている。『形・影・相・憐』とはどういう意味だろうか? 血の涙を流している者までいた。
 ──しかし。
 神の使いの名前をつけて、そいつをぶちのめしに行こうというのだ。祈りを捧げた相手次第では、天罰が下ることだろう。
 ──さて。
 シンジとアスカは第三新東京市郊外に配置された。エヴァが二体。それもまともに稼働できる機体が揃っての初の合同戦である。
「でもまあ……ちょっと不安だったんだけど、エヴァとシンクロできて良かった」
 アスカの呟きにシンジが応じた。
「できなくなることってあるの?」
「シンクロってのが『親和性』だってんなら、あたしの変化次第でそういうこともあんのよ」
「ふうん」
 これは良くわかってないなとアスカは感じたが、通信機越しでは皆に聞かれてしまうので、それ以上の説明は控えておいた。
(こいつなにも考えてないんだから)
 頭が痛くなって来る。
 どうやらシンジは皆の前で『力』を使ったことがあるらしい。それはミサトから聞いた。普通なら恐がられてしまいそうで隠すものだが、そういう頓着はないらしいのだ。
 今の話もそうだった。エヴァが人間の遺伝子情報を取り込んでいて、それがパイロットとの接続端子になっているのなら、パイロット側が成長と共に『変調』すれば端子が歪んで合わなくなることもありえるはずだ。
 しかしシンクロシステムは一部の人間のみが知る機密である。シンジとユイから説明されて知った時には青ざめたものだった。
 自らを生贄とすることで、そこまでして娘をパイロットにしようとした母の狂気に。
 アスカはちらりと画面の隅に写しているシンジを見てふうむと唸った。
(ま、アタシが見張ってる分には大丈夫か)
 ついでとばかりに思い出す。
(そういえば……洞木ヒカリだっけ? あの子シンジとどういう関係なんだろう?)
 もう一度みる。今度は剣呑に。
 ぞくりと震え上がったシンジが慌てて周囲を見回している。向こうはアスカの顔を映してはいないのだろう。
(やっぱり見張っとかなきゃね)
 なにを見張るつもりなのか?
 微妙に意味合いが違って来ていた。


「来た」
 緊張するミサトの声に、シンジとアスカは正面を見据えた。
 山の影から使徒が風に押されるように漂って来る。
「それじゃあシンジ君。アスカ、作戦スタート」
「はい」
「シンジ」
「わかってる」
 今回、シンジは出し惜しみをしなかった。腕を上げ、振り下ろす初号機。
 疾風が使徒を襲う。真っ二つとなった使徒はそのまま分離。へぇっと感心したのはミサトであった。
「あのアスカがシンジ君にやらせるなんて……」
「なにかあったのかもね」
 リツコの言葉に思い当たるふしがあって微妙に引きつる。
 その間にもシンジとアスカは動いていた。ただし、それはミサトや加持、そういった作戦の立案者たちの想像を越えた動作であった。
「シンジ!」
「アスカ!」
 ほぼ同時に二人は叫んでタイミングを合わせた。初歩で最大戦闘速度を得る。ドンッと空気の壁を突き破る音を立てて音速を超えた。
 歩幅、腕の振り、二体は鏡のように合わせて走った。使徒の仮面の目が光る。走りながらエヴァ両機は右腕を大きくスウィングした。
 爆発、煙、それを纏わり付かせながら、エヴァは失速した速度を取り戻す。
「ATフィールドで防いだ!?」
「凄いわ。ATフィールドの出力まで一致してる。ここまでユニゾンできるものなの?」
 音速を再び突破、その速さだ。僅か数キロの距離など一瞬のこと、スウィングした腕を引き戻すついでに腰を捻り、そのまま左拳を突き出した。
 直撃。体をくの字に折る使徒二体。コアは粉々にくだけて壊れる。
 戦闘開始から僅か十秒未満。それはあまりにもあっけない勝利であった。


 ──総司令執務室。
「ではあり得ないというのかね?」
「はい」
 赤木リツコは深刻な顔をして報告に訪れていた。
「初号機と弐号機のシステムには明確な差が存在しています。その両機がまったく同一の出力で活動することはあり得ません」
「テストタイプとプロダクションモデルの差か……」
 ふうむと冬月はゲンドウに目をやった。しかしゲンドウがそれに応じることはなかった。


 ──帰り道。
「なぁんかねぇ。思ったより楽勝だったって感じぃ? 余裕じゃん♪」
 頭の後ろで腕を組み、鼻歌交じりに歩くアスカに苦笑する。
「なんだよもぉ……『あっち』じゃ本当に時間は経ってないのかとか、こうしてる間にサードインパクトが起こってたらどうするんだとか心配してたくせに」
「そ、それは……」
 っさいんだからっと怒ってごまかす。
「それよりどっかで食べて帰んない? お腹空いちゃってさぁ」
「賛成、レトルトばっかりだったしね」
「あんなのばっかりじゃ、食物繊維とかカルシウムとか、ベータカロチンとかさぁ、ちっとも取れないし、太りそうだし」
「ほんと、ユイさんどこ行ったんだろ?」
 自分たちでなにか作っても良いはずなのだが、かなりアバウトな料理になるので避けているらしい。
「あんたさぁ」
 アスカは首を傾げるシンジに訊ねた。
「なんでユイさんって呼んでんの?」
「え?」
「自分のお母さんでしょ? あの人」
「ああ……うん、でもさ」
 困ったようにシンジは答えた。
「母さんって呼ばれると、歳食ったみたいで嫌なんだってさ」
 そのユイであるが、彼女はその頃遠い地にいた。
 ──ドイツ。
「だからぁ、おじさまに繋いでくれれば良いんだってば」
「申しわけ在りませんが……」
 とある邸宅の門前で、押し問答をしているユイがいた。その格好はキャミソール、ミニスカート、ブーツ、そして羽織ったコートと、このような貴族の館に訪れるにしてはあまりに場違いなものだった。
 もちろん門番も、だからこそ彼女を追い返そうとしているのだろうが……。
「待て! お待ちを!」
 先の待ては門番に対し、そして後の待てはユイに対してのものだった。
「ユイ様、ユイ様では!」
「あらおじさま」
 はぁいっと手を振る。館の窓からでも彼女を見つけたのだろう。慌てて出て来た執事らしい男は、額に汗を滲ませていた。


続く


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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。