ドイツの郊外にある巨大な邸宅から車に揺られること数十分。
 さらに人里離れた場所にある古城の地下室。
 ユイはその部屋にてくつろいでいた。
「驚いたな、まさか本当に生きていたとは……」
「それがわからないのに、わたしにあの情報を下さったんですか? 『キール』おじさま」
 くすりと笑う。キールという名の、老人の域に達している男は、その笑い方にくすぐったさを覚えたのか目を細めた。
 男の下半身は椅子と一体化していた。城の建築様式には似合わない機械だらけの部屋だった。体の大半を機械化することにより、どうにか生き長らえているらしい。
 機械の椅子は、そのまま彼の生命維持装置となっていた。
「そうまでして……生きていらっしゃったとは」
 なになという。
「わたしの力不足で阿呆共を抑え切れんかった……南極の贖罪はせねばならん」
「それが人類補完計画ですか?」
 ユイは声を酷く押さえた。
「そんなものを」
「だがこの絶望的な状況下にあって、確かに縋れるべき唯一の方法ではあったのだ」
「あの人に乗せられていることがわからないおじさまではないでしょうに」
 ユイが手に取ったのは一つの写真立てだった。
 初老の男と赤い髪の少女が並んでいた。どこかの丘なのだろうか? 大きな木の下で笑っている。
「あの子は……キョウコはわたしにとって唯一の希望だった」
 独白する。
「妻を亡くしたわたしにとって、あの子だけが光だった。光を失った時わたしはこの目を潰したよ」
 ──キョウコぉおおお!
「己の顔に手を当て、爪を立てた。眼球に食い込んでも苦痛すら感じなかった。それほど心が痛んでいた」
「アスカちゃんがいたでしょうに……」
「あの子はキョウコの希望に過ぎん。碇ゲンドウが綾波レイをそうとしたようにな。奴が君だけを求めているように、わたしにとってはキョウコだけがすべてなのだよ」
 せめて、と。
「わたしより後に死んでくれれば良かったのだ。キョウコは……」
 老人の妄執、世界を巻き込んでの暴走。
 ──人類補完計画。
「人類の魂を肉体という殻から解放することで一つとし、永遠のまどろみの中で生き続ける生物へと人工進化させる計画……欠けた心を他人に補わせる身勝手な計画。老人の我が侭にしてはやり過ぎでしょうに……」
「それは君が慈しむ側の人間だからこそいえることなのだよ。わたしのように渇望する立場の者にはいえんことだ……この心は常に飢え、苦しみ、嘆き、脅えている」
「だからこそあなたは死ぬべきでしたね、キョウコが死んだ時に後を追って」
 はぁっとユイは溜め息を吐いた。
「死んだ後にはなにもありません。苦しみも悲しみも、消滅してしまえば開放されるのと同じことです」
「だからこそわたしは生きることにこだわるのだよ。死した後も世界はあると夢想する。愚鈍であるからこそ死は恐いのだ。失うことが……」
 機械の手を持ち上げる。
「わたしは再びキョウコに会う。そのためならばなんの迷いがあろうか」
「キョウコはそこにはいないのに」
「だからこそ死のない世界を作り上げる」
「ではもう一度わたしをエヴァに取り込ませますか? でなければおじさまの計画は成り立ちませんよ?」
「まさかな……そこまでわたしは愚かではないよ」
「では?」
「計画は中止するしかあるまい。元々まいっていたがために碇に乗せられてしまったというのが本当のところだ。それほど固執しているわけではない……が」
「なんです?」
「……アダムはすでに碇の手にある」
「ああ……」
「それに他の連中のこともあるからな」
「それについては子供たちがなんとかしてくれるでしょう」
「……セカンドとサードが?」
「さあ? ……世界は『生きて』います。そして恐怖を感じる心もある。人類補完計画、その狂気に脅えを感じているのなら、世界は次の世を担う者たちに手を貸すでしょう」
「……計画はどのみち失敗することになっていたということか」
 彼は深く椅子にもたれる仕草をした。実際には機械に体を組み入れているので、身じろぎにもなっていなかったのだが。
 それは肉の体を持っていた頃の癖だった。
「それで? 君はどうする?」
 ユイは微笑し身を屈め、キールの頬にキスをした。
「暫くはお傍に……」
「そうか」
「キョウコの代わりにはなりませんが」
「かまうものか。……君があの男にたぶらかされた時、最も悔しがったのはわたしなのだからな」
 今更ながらにユイに問う。
「なぜあの男に騙された? あの男の真の目的が我々への接触だったことは君にもわかっていたであろうに」
「……それでも信じてしまうのが恋ではありませんか?」
「恋は盲目、か……使い古された科白だな」
 だが使い古されているということは、それだけ真理でもあるということだ。
 第一、ユイは敢えて反論しなかったが、彼女はゲンドウにそのような意図はなかったのだと断言できるだけのものを持っていた。
 あくまでゲンドウを求めたのは自分であったからだ。ゲンドウは逆に、いつも避けようとして逃げていた。
「なあ、ユイ……」
 しかしそれは、当人たちにしかわからないことである。そして彼はやはり部外者だった。
「なんですか?」
「君の息子はわたしを許してくれるだろうか?」
「許すもなにも……」
「あの男の道具にされていく君の子を不憫に思い、初号機によってあの子を君の元へと送り届ける計画も考えていた。それは許されることなのだろうか?」
「考えるだけなら罪にはなりませんよ。思い直されたのでしたらなおさら」
 そしてとユイはキールに微笑んだ。
「シンジはわたしの『直弟子』です。そんなに弱い子ではありませんよ」


第十一話 しかして少年は大慌てする


「こらぁ馬鹿シンジぃ! 待てっつってんでしょうがぁ!」
「やぁだよぉだ! ケンスケっ、トウジ!」
「お、おう」
「じゃ、惣流! そういうことで、悪い!」
「逃げるなこらぁ!」
 三人が飛び出していった扉にバンッとホウキが叩きつけられる。
「まったくもう! 逃げ足だけは速いんだから……」
「まぁまぁ、良いじゃない」
「そうそう、相田と鈴原はともかく、シンジくんは可愛いし」
 はぁ!? っと同じく掃除当番の子たちにふりかえる。
「あれは可愛いっつーんじゃなくて! 単なる馬鹿ガキなのよ!」
「またまたぁ」
「そんなこといってぇ」
 囲まれ、肘でつつかれまくるアスカである。
「な、なによ……」
「碇君の胸」
「碇君の太股」
「碇君のふ・く・ら・は・ぎぃ〜!」
 きゃーっと喚く。
『写真に撮って来てぇ!』
 やなこったい、っとげっそりとする。
「なんであんな馬鹿ガキが良いのよ……単なる小ザルじゃない」
「そういうところが可愛いの」
 ねぇ〜? っと同意。
「ま、顔だっていわない分だけ納得しておきますけどね……」
 実際、アスカには日本人の美的感覚はわからなかった。
 アイドル雑誌を見れば整っているわけでもなくアクの強いエラの張った顔がアップでトップを飾っている。
(性格とか声とかおもしろさとか、総合的なもんなんでしょうけどね)
 それがアスカの『分析』の結果である。
「で、あの馬鹿共、今日はどこに行ったのよ……」
「いつものゲームセンターじゃない?」
「あ、でも相田が明日転校生が来るっていってたし、覗きに行ったのかも」
「覗きにって……どこによ?」
「転校生の家じゃないの?」
「はぁ!? なんでそんなのわかんのよ」
「なんでって……そりゃねぇ」
 ねぇっとここでも意見が一致。
「相田だし」
 そういう奴なのかと、アスカは思わず納得した。


 第三新東京市外苑。
 この辺りになると、まだごくごく当たり前に、一軒家が建ち並んでいた。その一角に酷く古めかしい屋敷がある。
「これはまた……」
「凄いね」
「こっちやこっちや」
 トウジが率先して垣根沿いに導く。
「こっちから中が見えるんや」
「なんでそんなこと知ってるのさ?」
「裏手に柿の木があってなぁ、昔はよぉ盗みに来たんや」
 柿の木ねぇっと、ケンスケは舐めるように屋敷をレンズに収めた。古い平屋で、最近修繕されたのだろう。瓦などは真新しい。
「柿かぁ……」
 シンジは感慨深い表情で……というよりも、酷く懐かしげに呟いた。
「なんだよ。どうかしたのか?」
「うん……ちょっとね」
 照れるように告白する。
「前にちょっとさ……良く柿をもらってた家があってね、そこに可愛い女の子がいたんだ」
「へぇ? 惣流よりも可愛いのか?」
「アスカみたいに奇麗ってわけじゃないけどさ……」
 悩むようにいう。
「大人しい子だったよ?」
「ふうん」
 まあシンジがいうんだから可愛かったんだろうなと結論づける。それはもちろんアスカを見慣れてもそういえるのだからという比較検証があってのことだ。
 しかしケンスケにしてみれば、それ以上突っ込まなかったのは幸せだったかも知れなかった。
『柿なんてのは落ちるまで腐らせるのが普通なんだから、もらってったって良いんだよ!』
 先生、それは泥棒です。とはいえなかった。
 そうですね。といって一緒に柿泥棒に走ったのだから。
(肩車してもらって盗んでるとこ見つかっちゃって、捕まった後が大変だったんだよな)
 どんな償いを求められたのだろうか? シンジはちょっと鬱に入った。
「おっ、誰かおるで」
 こっちやと手招きするトウジに誘われ、シンジも軽く背伸びをした。
 垣根の向こうに親らしい着物の男性と、同じく着物を着付けた黒髪の長い少女が正座していた。
 何やら正面に向かい合って、深刻そうに話し込んでいる。
 シンジはその双方……特に少女の顔を見て驚いた。
「げっ!」
「シッ、黙ってろって」
 無理やりケンスケに押さえ込まれる。
 二人の会話が聞こえて来た。
「良いか、マユミ……今まではわたしの仕事の都合で転校をくり返させてしまったが、今度はしばらく落ち着くことになる」
「はい」
「その次はあったとしても、お前は高校生になっているだろう。一人でこちらに残るのも良い……兄のことではお前に迷惑をかけたな」
「そんな……お父さんとお母さんがあんなことになったのに、お義父様はわたしなんかを……」
「あの子には可哀想なことをした……まさか兄が思い詰めた余り、あのような振る舞いをしようとは」
 なにがあったのか想像できる顔をしていた。よほどの真似をしたのだろう。
「つまらぬいさかいの果てに母は死に、父はその罪で終身刑」
「その話はやめてください……暗い話は」
「そうだな」
 すまんと謝る。
「しかしな、長く留まることになるからこそ、以前の街のようなことには……」
「良いんです……わたしはもう、諦めましたから」
「マユミ……」
「嫌なんです。避けられるのも、嫌がられるのも、逃げられるのも……だったら独りの方が、気楽で良いから」
「……そうか」
 だがな、と付け加える。
「あの子だけは別なんだろう?」
「お、お義父様」
 真っ赤になる娘に高笑いをする。しかし馬鹿笑いの途中で片膝を立てるなり、小脇においていた日本刀を手にとって大きく叫んだ。
「誰だ!」
「うわぁ!」
「逃げろ!」
 素早く撤収するトウジとケンスケ。
 ──そして残されたシンジはといえば。
「シンジ君!?」
 あ、はは、はは……っと、腰を抜かして挨拶をしていた。


「もう! トウジもケンスケも先に逃げちゃうしさ、酷い目に会ったよ」
 ──自宅。
 シンジはぽかりと殴られた。
「アンタがエッチなこと考えて覗きになんか行くからでしょうが」
「なんだよ。エッチって」
「どうせ可愛い子だったらいいなぁとかいって行ってきたんじゃないのぉ?」
 ギクッとした様子に目を細める。剣呑に。
「スケベ」
「な、なんだよぉ」
「ヘンタイ」
「……良いよ! だったらもうアスカと寝ないもん!」
「あ、嘘うそ、嘘だって、ごめん」
「ふんだ!」
 ぷいっと背中を向けたシンジの背中にアスカはいつものように張りついた。
「だからごめんってば、ね?」
「なんだよもぉ……別にアスカが妬くことないじゃないか」
「だっ、誰が妬いてんのよ!」
「アスカ」
「妬いてないっての!」
「じゃあなんで怒るんだよぉ」
「うっ……」
「なんで?」
「ううっ……」
「ねぇ。なんでさ?」
 っさい! っとアスカは逆ギレしてごまかした。
 ぽかりと頭を殴って首根っこをつかみ、引っ張る。
「ほら! さっさと寝るわよ!」
「アスカと寝ると体痛くなるから嫌なんだけどなぁ……」
「アンタが変なことしなかったら着ぐるみなしで寝てやるわよ!」
 一人で寝るって選択肢はないのかとシンジは思った。

フェイズ2

 ──彼女の名前は山岸マユミといった。
「ごめんなさい……泥棒は泥棒だって」
 シンジはその屋敷の地下にある座敷牢へと閉じ込められてしまっていた。
 だが不満はない。ふりかえることなくトンズラこいた先生を恨みつつも、シンジは酷く満足していた。
 食事が運ばれて来るからだ。
「ううん、ぼくの方こそ……ごめんね? 柿、盗もうとしちゃって」
 などとのうのうと謝ってみせたりもしている。
 マユミは素直に謝ってくれるシンジに対して、俯き、口にした。
「優しいんですね」
「え? そ、そっかな、良くわかんないや」
 シンジはぽりぽりと頬を掻いた。
 会話が途切れてしまったので、いただきます。と運んでもらったお茶碗を手に取る。
 お盆の上にはご飯とたくあんと味噌汁。後はなにかの漬け物と卵焼きと焼き海苔があった。シンジはそれらを感涙を流す一歩手前で頬張った。
「おいしいよっ、これ!」
「ごめんなさい……そんなものしかなくて」
「そんなものって……これだけあったら十分じゃないか!」
 ばりっ、ぼりっとたくあんを噛み砕く。
「いやほんと、白いご飯なんて久しぶりだよぉ」
「え?」
「半年くらいは食べてないかなぁ」
「……あの、碇君は、どこに住んでるんですか?」
「家? 差し押さえられちゃって、今は宿無し」
 へ? っとマユミは目を丸くした。
「差し押さえって……」
「うん、なんだか父さんが……あ、父さんって科学者なんだけどね。母さんを実験台にして殺しちゃって、そのせいでぼくを育ててる場合じゃなくなったらしくて、ぼく、おじさん家に預けられたんだけどさ。そのおじさんとおばさんがバクチにはまっちゃってね、家とか借金のカタに取られちゃったんだ。それで住むとこなくなったんだけど、まだ足りないらしくてね。関係ないのにぼくまで追い回される羽目になっちゃってるんだよ」
「そ、そうなんですか?」
「ぼくは関係ないっていってるんだけどねぇ。でも大人しくしてると売り飛ばされちゃうの確実だからさ、必死で逃げ回ってる途中なんだ」
 マユミは絶句の手前でなんとか返したようだった。
「そうですか……大変ですね」
「慣れちゃったけどね」
 明るくいうシンジに対して、マユミは明らかに戸惑っているようだった。
「わたしも……」
「え?」
「わたしも、お父さんがお母さんを殺しちゃったんです……」
「そっか」
 同じだね、とシンジはいう。
 それに対してマユミもまた……同じですね。と返事をした。


「山岸マユミです」
 翌日、学校。
 やって来た転校生に、皆はごく普通の反応を示した。
「どこから来たの?」
 そんな当たり障りのない質問を行っているのは女子集団だ。
 シンジはその輪から離れた場所に避難していた。
「なんや昨日と雰囲気違わんか?」
「馬鹿! そういうことはいうなよ」
「なんでや?」
「誰が聞いてるかわかんないだろう? デリカシーのない奴だなぁ」
「…………」
「良いか? 明るくふるまってるだけかもしれないだろう? 気をつかってやれってんだよ」
「わかったて」
 面倒になったのか、トウジは彼女についての話題に触れるのを避けようとした。
「んで、お前はなにを脅えとるんや?」
 シンジである。妙にびくびくと様子を窺っている。
「いや……だってさ、まさか同じクラスになるなんて」
 ええー!? っと悲鳴が叫ばれた。
「なんや?」
 当惑の視線が、一斉にシンジへと向けられる。
「シンジ!」
 その中から特に苛烈な声を上げたのは、いうまでもなくアスカであった。


 ──ネルフ本部。
「へぇ? シンジ君の昔の彼女?」
「そんなんじゃないですよぉ……」
 食堂でぐったりとしているシンジを見つけ、話しかけたのはリツコであった。
 サンドイッチを齧り、コーヒーを口に含む。
「んっ、それでアスカに苛められたのね?」
「はい」
 リツコが話しかけたのには理由があった。いつもならミサトに任せるところだが、シンクロ率が下がったとなれば話は別だ。
「でもアスカがねぇ……」
 感心したのはアスカの変貌についてであった。そうも露骨に感情を顕にするようになるとはと、環境が与える影響というものについての印象を、多少改めさせられてしまっていた。
「むかしね、ドイツで一度だけ会ったことがあるんだけど、あの頃のあの子からは想像もできないのよね」
「そうなんですか?」
「馬鹿にしてたもの、男の子なんてって」
 首を傾げてシンジは問い返した。
「でもアスカ……加持さんが好きみたいですけど?」
「……打算で割り切れる感情を恋とは呼ばないわ」
「そ、そうですか……」
 ほうっと熱く溜め息を吐かれるとちょっと退いてしまう。しかも頬に手を当てて顔を赤らめ、目を潤ませているのだから尚更だった。
 ──なにかあったのだろうか?
「まあ、もう少しアスカのことを考えて上げなさい。大変でしょうけど、なだめるのね」
「なだめろっていわれても……」
 リツコは教えておいた方が良いだろうと声を潜めた。
「あの子のお母さんが死んでいるの、知ってる?」
「はい。エヴァの実験で死んじゃったって……」
「そうね。その点じゃあなたと同じだけど……あの子の場合はそこで感情を凍らせてしまったのよ」
「え……」
 ──もういらないの。
 幼いアスカがお猿の人形を踏み付けにする。
 一人で生きるの、誰にも頼らない。そう決めて。
「……そうだったんですか」
「ええ」
 今のアスカからだと想像もできないとシンジは思う。だがユイに暴露された時の憔悴した様子を思い出せば納得はできた。
「……明るくなって、良かったんですよね?」
「もちろんよ。でも大変なのはこれからよ?」
「え?」
「今まで凍らせていた心を溶かしたのよ? 耐性がないの……硬い殻で守って来た心は剥き出しにされるととても柔だわ。でも自分では十四歳の子供だと思ってるから、簡単に無謀な行為をしてしまうのよ。耐えられると思ってね」
「はぁ……」
「十四歳の感情でまだ幼い心に無理を強いれば歪んで来るわ」
「精神年齢が低いってことですか?」
 そうね、っとリツコ。
「独占欲剥き出しの幼稚園児の恋。気恥ずかしさで傷つけ合う小学生の恋。憧れで先走ってしまう中学生の恋。あの子はようやく幼稚園児の恋を始めたというところでしょうね。だけど自分は中学生なんだって思い込んでるから、その感情は好意の……いえ、あの子の場合は親しい人間として受け入れることにしただけなんだって処理してる」
 シンジは感心した。
「良くそこまでわかりますね……」
「誰でもそんなものだからよ。よほどのことがない限りはね」
 へぇっとシンジ。
「なんだか自分のことをいってるみたいですね」
 ぎくりとしたリツコであった。


「まったくあの馬鹿、どこに逃げたのよ!」
 ずんずんと歩くアスカの後ろには、興味なさげに、だが酷く冷えた目をしているレイが付き従っていた。
 心の底では無関心ではないようだ。
「ねぇ! アンタずっとシンジと一緒だったんでしょ? どうなのよ!」
「どうって……なにが?」
「なにって、決まってるじゃない」
 吐き捨てるように叫ぼうとして失敗してしまった。
 ──抱きしめられた。
 そんなことがいえるはずがないからだ。
『シンジ君には……昔助けてもらったんです。子供の頃の話ですけど、王子様なんです』
 冗談交じりに口にされた告白。しかし彼女がどれだけその想い出を記憶にとどめて『支え』としてきたのかは……アスカにだけは読み取れてしまっていた。
(アイツ……あたしと同じだ)
 親指の爪を噛む。それが悔しいのだ。自分が『一番』ではなく『最初』でもなかった。
(まさかアイツ……アタシにしたみたいに、アイツにも?)
 気になると止まらなくなる。自分だけ、それが嬉しさに繋がるというのに、考えてみればあの『お子様』がどうして自分を抱き締めるなんて選択肢を選んだのか?
 前に同じことを経験していたから? だとすれば……許せない。
「絶対聞き出してやる!」
 なにが、という冷めた目をするレイがいた。


「ふぅ」
 部屋に帰り、鞄を投げ出し、どさっとベッドに体を投げる。
 アスカと暮らしている部屋ではなく、こちらはユイと暮らしている部屋である。無意識の内にアスカが恐くて、こちらの玄関をくぐってしまっていた。
 目を閉じる。シンジが思い出しているのは、マユミと別れる寸前にあったできごとだった。


「それで、その子が逃がしてくれたのか?」
 うんと頷くシンジに先生は大笑いをした。
「しっかしまぁ、座敷牢か? 下手すりゃ幼児虐待だぞ? 無茶するなぁ」
「……先生が迎えに来たら帰してやるっていってましたけど」
「……俺が行くと思うか?」
 暫く睨み合う。
 ──ぽかぽかぽかぽかぽか!
「なんだなんだ」
 はっはっはっと受け流す。
「それよりお前、ちゃんと礼くらいいって来たんだろうな」
「いって来ましたけど……」
「けど逃がしたとなると大変なことになってるかもしれないな」
「え?」
「折檻とか」
「うっ」
「様子、見て来た方が良いんじゃないか?」
「……うん」
 行ってきますと駆け出したシンジに、彼は『さよならのちゅ〜くらいしてこいよぉ!』っと大声で叫んだ。
 ──そんな声に赤くさせられてしまったシンジは、真っ赤な顔をしたままで彼女の家に向かい、その途中で同級生らしい男の子数人にからまれているマユミを発見したのだった。
 大きな犬をけしかけられて、マユミは葱が頭を覗かせている買い物袋を抱えて泣きべそをかいていた。
「なにやってるんだよ!」
 叫んだシンジにマユミが絶望的な顔をした。シンジまで、そう思ってのことだろう。
 少年たちは小柄なシンジを馬鹿にして標的を変更した。
 ──そんな彼らに激怒して、シンジは遠慮なく叩きのめした。
『うっ、うう! うあああああ!』
 追い払い、声をかけると我慢が切れたのか彼女は泣いた。泣きじゃくるマユミをどうにもできなくて困り果てることしかできなかった。そこにマユミの養父がやって来たのは偶然だったが、シンジから事情を聞いてマユミを寝かしつけてくれたのだ。
『良いか、シンジ。女の子が噛みついて来たらとにかく抱きしめろ』
 戻った時、先生はそう教えてくれた。うろたえることしかできなかった自分に教えてくれた。本当にそれで良かったのかはわからなかったが、ただ確実に残ったのは、自分は優しくなんてないという後味の悪さだけだった。
 優しくするというのがどういうことなのか、なにも思いつくことができないような人間なのだという、嫌な自覚だけだった。
 どうにもできなくて、おろおろとして、そのまま逃げるように戻ってしまった。
 あの子はもう落ち着いただろうか? 自分はなんて情けないんだろう? その時の想いは、今になっても残されていた。


「あのシンジ君と……こんなところで再会することになるとはな」
 そう笑ったのはマユミの養父ちちである男だった。
「お義父さん……」
 赤くなる娘に微笑する。
「良いじゃないか、もう友達なんていらないといっていたお前が」
「……はい」
 蚊の鳴くような声で返事をする。そんなマユミに彼は一抹の不安を覚えてしまった。
 彼、山岸は国連に職を持っていた。第三新東京市へはネルフへの出向の形を取っている。
 ──碇シンジは総司令の一人息子であり、エヴァンゲリオン初号機のパイロットを務めている。
 それは彼にとって不安な話であった。そのことが娘にどう関って来るのかわからなかったからだ。
「ああ、そういえば……」
「はい?」
「お前のクラスに、惣流・アスカ・ラングレーという子はいるか?」
「はい、それが?」
 あ、うん……といい濁す。
「シンジ君と付き合っているという噂を聞いたものだからな」
「え……」
「いや、確かめたわけではないんだが」
 おーいと呼びかけるがもう遅い。
 マユミには聞こえていなかった。


 ──そしてその頃、碇宅では。
「だからなんでもないんだってばぁ!」
「だったら全部話せってのよ!」
 シンジとアスカの鬼ごっこが再開されていた。


続く


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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。