皆が修学旅行に出発し、呑気に浮かれ騒いでいた頃……。
 シンジは山の上に立ち、もやのかかる景色に向かって吼えていた。
 綾波さんなんてだいっきらいだぁー!
 ……まさか聞こえたわけでもあるまいが、その時レイは、いつものYシャツにパンツ姿で、実に寝苦しげに寝返りを打ったのであった。
 ──さて。
「なぁにいってんだか」
 呆れたとばかりに口にしたのはアスカであった。
「で、すっきりした?」
「ちょっとはね」
「だいたいなんでファーストなのよ? ママならユイさんがいるじゃない」
「あんなの母さんじゃないよ」
 ぷうっと膨れた。
「お母さんっていうのはもっと優しいんだ」
 なにを誇大妄想気味の理想像を描いているんだかと思うアスカだ。
「ま、いいけどね」
 アスカはこきこきと肩を鳴らした。
「じゃ、次はあたしに付き合ってよね」
「なにするのさ? こんなところに連れて来て……」
「ん? せっかくだからさぁ、アンタのストレス発散がてらに、思いっきり暴れてみようかと思ってね」
「え?」
「チ・カ・ラ・! ほら、せっかく鍛えてもらったってのにろくに使ってないじゃない? だからさ、一度思いっきり試してみたかったのよね」
 手にしているおもちゃを使ってみたいとうかれているのか、小鼻をひくひくとさせるアスカであった。


第十三話 未だ少年は鈍かった


 ザッ! そんな感じで茂みを飛び越え跳び越し逃げる。
 コケー! コココココッと腕にはニワトリが抱えられていた。持ち逃げしているのはシンジである。
「これのどこが自給自足なのよぉ!」
「サバイバルっぽいのが良いっていったのはアスカじゃないかぁ!」
 背後でズキュウンと銃声が聞こえて二人は首をすくめた。
「アスカ!」
「うん!」
 目を合わせて結託する。共犯と化して二人は逃げた。
「このニワトリ泥棒〜!」
 老人がライフルを振り回していた。
「……ってことがあったらしいんだけど」
 ネルフ本部。
 ミサトの話にどう答えたもんだかと加持は迷った。
「で? 俺になにをいわせたいんだ?」
「あんた向こうの教育係と仲良かったんでしょう?」
 ジト目で。
「アスカにどんな教育してたのか、知ってんじゃないの?」
「おいおい」
 加持はわざとその後を続けなかった。
 教育係との関係と、教育プログラムの内容に対しての知識。一体どちらに対してとぼけてみせたのか、実に曖昧な態度であった。
「いっとくけどね」
 ミサトは高々度から捉えた写真を突きつけた。監視衛星からのもので、MAGIによるフィルタリングがかけられている。実に鮮明なものだった。
 一階建の家屋があって、その庭に鶏小屋がある。そこから林へと逃げ込もうとする少年と少女の頭が映されていた。その内の少女の頭には、特徴のある髪留めが目立っていた。
「少なくともあたしの知る範囲じゃ、アスカは泥棒なんてする子じゃなかったわ」
「じゃあシンジ君に感化されたんじゃないか?」
「ごまかさないでよ!」
(俺も知らないんだけどなぁ……)
 問題はそれをミサトが信じないだろうということだった。
 加持は無関係を装っているリツコへと救いを求めた。
「なんとかいってくれよ。リッちゃん」
「わたしに?」
「だってリッちゃんならMAGIで記録を呼び出せるんだろう? パイロットの育成記録を引き出せば一発じゃないか」
「そうね」
「ドイツ支部のデータベースにあるはずだぜ?」
「だけどそれが真実を表しているとは限らないわ」
「赤木ぃ〜〜〜」
「情けない声出さないでよ。気持ち悪いわ」
 しっしっと追い払う。
「でも加持クンのいう通りよ。アスカの教育に関しておかしな点は見当たらないわ」
「じゃあ自然にあんな性格になったっていうの?」
「そうとしか考えられないわね」
「それこそあり得ないわ」
「どうして?」
「だってアスカは……」
 沈着冷静。思慮は深く学もあり……とおおよそ思いつく褒め言葉を体現しようと躍起になっていた女の子。
 そんなイメージを思い起こそうとする。
「ミサトのいいたいこともわかるわ。でもね」
 目を細める。
「あれはあたしの知っているアスカじゃないなんていうのはやめなさい」
「リツコ……」
「人なんて変わるものよ。それこそちょっとしたきっかけでね」
「でも……」
「ドイツでは息をつく暇がなかった。だって使徒がどれほどのものかわからない以上、見えないゴールに向かって走り続けなければならなかったんだから。でもね、使徒を倒したことによって一応の落ち着きが得られたのよ。一段落つけたってことね。なら歳相応の遊びにはまっていくのも自然じゃない?」
「……あれのどこが歳相応なのよ」
「俺には懐かしいけどな」
「加持?」
 リョウジは目を細めて笑っていた。
「食糧難でよく盗んだもんさ、スイカとかな」
「スイカねぇ……」
「あれでスイカってのは育てるのが難しい植物なんだぜ? なにしろ土の栄養を根こそぎもってくからな。密集して育てると養分の奪い合いになって全部枯れるんだ」
「……あんたのスイカ談義はもう良いっての」
「なにおぅ? スイカを馬鹿にする奴はスイカに泣かされるんだぞぉ?」
「はいはい、スイカ大王の襲来には気をつけますよ」
 軽くあしらう。
「はぁ……とにかくあの二人には注意しないとね」
「そう?」
「どういう遊びかはともかく、盗みは立派な犯罪よ。ってわけで加持」
「あん?」
「謝罪の方はよろしく」
「俺がかぁ!? 管理監督は葛城の仕事だろう!?」
「保護者は叱るためにいるのよん」
 手をひらひらと振って逃げる。
「酷いぞ葛城ぃ……」
「惚れた弱みっていうのは、大変ね」
 リツコは小さく笑って、先の農家の住所メモを手渡した。


 さて、シンジとアスカが戦時下における欠食児童のようなたくましい行動に従事している頃、一人の少女が空港から市内へと舞い戻っていた。
 ──マユミである。
「もう、シンジ君。病気でお休みするなら一言おっしゃってくれればよろしかったのに」
 うふふと笑う。
「そうすれば惣流さんなどに付き添いを頼まなくても、わたしが」
 やや頬を上気させて廊下を歩む。正面にあるのはシンジの部屋だ。
 彼女はどのようにしたものか、結界を超えて本来の通路を歩いていた。
 ぴんぽーん。彼女はドアの前に立ってベルを鳴らした。反応がない。
 首を傾げてもう一度。ぴんぽーん。やはり反応がない。
 マユミはさらにもう一度……もう一度……もう一度……。
 怖くなって来たので場面は変わる。
 ──ネルフ本部。
 その会議室。
 暗い中、映された映像に副司令は唸っていた。
「これではわからんな」
 赤い世界に濃い黒がある。影だろうか? そんな画像だった。
「ですが無視できません」
「当たり前だ」
 シゲルの忠言に憤慨する。
「葛城一尉はどうした」
「葛城一尉は現在、箱根山中にてセカンド、サードを追跡中です」
「追跡?」
「はい……待機命令を無視とのことで」
「なにも自ら出向かんでもよかろうに……現地には?」
「日向二尉が」
 ──浅間山の火口観測所に彼はいる。
「MAGIの解答は?」
 マヤが答える。
「保留です」
「ふむ……仕方ない。保安部と諜報部を動員してでもセカンドとサードを連れ戻せ」
「葛城一尉は?」
「現地へと向かわせろ。日向二尉にはくれぐれも確認を優先するようにとの指示を出せ」
 まったくと毒づく。
「どうにも振り回されているな」


 箱根山。
「あ、アスカアスカぁ!」
「なによ」
「エロ本はっけぇん! 一杯捨ててあるよぉ?」
 はぁ!? っとアスカ、逃げ回って疲れたのか、ここは峠道にある休憩所である。
 ジュースを手にアスカは顔をしかめた。
「ばっちぃわねぇ。そんなの触んじゃないっての」
「え〜? だってこれだけあったら立派な財産なのにィ」
「だからめくるんじゃないって! 大体なんの財産よ。なんの!」
「え? そんなの決まってるじゃないかぁ」
 実に無邪気に。
「そこらの小学生とか中学生に売りつけるんだよ。結構な稼ぎになるよ?」
「あんたって……」
 まさか本当に財産化しようとしていたとは思わずアスカは呆れた。
「それも先生とかに教わったの?」
「うん」
「……ロクなこと教えない奴ね」
「そうだね」
「……理解ってんなら注意しなさいよ」
「でも時々役に立つこと教えてくれるんだ」
 うきうきとして服の下に比較的奇麗な本を隠そうとする。
「だからぁ」
 止めさせようとするアスカだ。そこに遠くから鉄砲の音が聞こえてきた。
「……あのおじいさんかな?」
「かもね」
 しつこいじじぃだと舌打ちするアスカと、ちょっとうろたえるシンジである。実は謝罪に出向いた加持があのガキ共の親かぁと誤解されて撃たれているのだが、余録である。
「あ」
「え?」
「ミサトさんの車だ」
「ほんと」
 青い車は二人の前でスピンターンを決め……ようとしてシンジが漁って放り出していたエロ本でタイヤを滑らした。
「あ」
「あ」
 二人のみる前でガードレールの隙間に奇麗に入り、崖の下へと消えていった。
 ──ガシャガシャガシャ! ドン!
「……大丈夫かな?」
「大丈夫なんじゃない? 下、道路でしょ?」
「道路は道路だけどね」
 間の雑木林の樹木と崖の下り具合が問題だろう。
「ま、爆発してないし心配することないか」
「そうね」
 二人はいい天気だねぇと、ずずっと並んでジュースをすすった。
 缶の底に手を添えるようにして、両手でだ。
 のほほんとした空気が穏やかで。
 ──ボカン!
「あ、爆発した」
「ミサト……短い命だったわね」
「だぁれぇがぁよぉ〜!」
「うわ! 生きてた!?」
 髪に小枝をつけて崖から這い上がって来た。着ているジャケットはどこもかしこも切れていてずたぼろだ。
「生きてるわよぉ。生きてるに決まってるじゃないっ」
 そうよとミサト。
「こんなところで死んでる場合じゃないのよ。あたしは!」
 おーっとシンジが拍手する。その横でアスカがいった。
「別にミサトが死んじゃおうが死んでしまおうがアタシには関係ないんだけどさぁ……なにしに来たわけ?」
 はっとする。
「そうよ! アンタたちねぇ!」
 ガシッと拘束された。
 ──ミサトがだ。
「へ?」
「葛城一尉。副司令より出頭命令が出ています」
「出頭って……ちょっと待ってよ。まじぃ!?」
 はいと答えたのは黒服の男だった。ネルフの人間だ。いつの間に来たのだろうか?
 一人はミサトの前に立ち、二人がミサトの脇を固めた。
「あたしはなんにもやってないってぇ!」
「お連れしろ」
 古典的にパチンと指を弾く。リーダーの合図に部下二名はミサトを引きずり歩き出した。
「ちょっとぉ!? なんでこんな扱いぃ!?」
 ずるずると引きずられ、金網付きのワゴン車へと放り込まれてしまうミサトであった。
「それからお二人には、本部での待機命令が発令されております」
「本部で? なにかあったの?」
「わたしはそれを知る立場にはありません」
 アスカはシンジと顔を見合わせて、それからわかったわと頷いた。

フェイズ2

「決して覗かないで下さいね。──毎夜毎夜、そう願いしてからはたを織るつうに、男はずっと疑問を抱いていたのですが、ある晩のこと。彼はついに堪え切れなくなって、障子の向こうを覗き見してしまったのでした」
「ふんふん」
「そこで機を織っていたのは、あの日に助けた鶴でした。覗かないでくださいねといったのに──そう悲しく口にしてつうであった鶴は家から飛び出していってしまいました。男は嘆き悲しみました。『俺は毎晩鶴とあんなことやあんなことをやってたのか!?』」
「…………」
「は! まさか毎朝食ってた卵! あれは鶏じゃなくて……俺の子だったのかぁああああ!」
「……酷いわね」
「うん、この話からわかることは、知らなければ幸せなままでいられたのにってことだよね。つうって鶴だってなんとか恩を返すために、自分を犠牲にしてそんなことをして上げてたんだから」
「鶴を恨むわけにもいかずかぁ、憐れな男ぉ」
 なんの話をしてるんだろうと思ってしまうレイである。
 ──エヴァンゲリオンケージ。
 子供たちはプラグスーツ姿で立たされていた。
「お待たせ」
 やって来たのはリツコである。
「悪いわね、急に呼び出したりして」
「ほんとにそうよ!」
「まあまあ、使徒でも出たんですか?」
 まるでお化けでも出たんですかと問いかけるような口調に、リツコは引きつりながらも首肯した。
「ええ。出た……というよりも見つけたが正しいけどね」
「見つけた?」
「はい、これを見て」
 三人に資料を手渡す。急造したものなのか、コピーをクリップで止めただけのものだった。
「浅間山の中?」
「アサマヤマって、この近くよね?」
「ええ。──今回の作戦は殲滅ではなく捕獲よ」
「捕獲ぅ!? そんなめんどっちぃことやんのぉ?」
「面倒って……あのね」
「山の中に入るなんて危ないですよぉ。ほんとにやるんですかぁ?」
「あなたたち……」
 レイに助けてと目ですがる。珍しい光景だったろう。レイは応えた。
「……生きた使徒のサンプル。その重要性は高いと司令がいっていたわ」
「へぇ?」
 にやにやとアスカ。
「好きじゃないとかいってたくせに、やっぱり仲は良いのね」
「どうして、そういうこというの?」
「べっつにぃ? ふぅん? 司令がねぇ。ねぇシンジ? ……シンジ?」
 むぅっとして拗ねている。
「どうしたのよ?」
「だってさ、前に捕まえようとした時には勝手なことするなって怒ったくせに、こんな危ないやり方でやらせようなんて……」
「そんなことあったの?」
「第四使徒……碇君は零号機で捕獲を試みたわ」
「ま、山の中なら誰にも迷惑はかからないってことなんじゃないの?」
「そうなのかなぁ?」
 やはり納得できないらしい。
「あの、ミサトさんは?」
「ミサト? あの子なら今頃は監察部にしぼられてるんじゃない?」
「え?」
「あいつ、『今度』はなにやったの?」
「……特に大したことじゃないわ。仕事中に職場を放棄して遊んでただけよ」
「ああ」
 ぽんと手を打つ。
「それでミサトさん。山の中にいたんだ。峠を攻めてたんだな、きっと」
 ──報われない……。


「減給一ヶ月半ん〜〜〜」
 しくしくと泣くミサトである。
「あたしがなにしたってのよぉ〜」
「あなた、時々車の請求書を敵対組織に襲撃されたとかいって回してたでしょ」
「ぎく」
「バレてるんじゃないの?」
「うう……ちくしょう。ビデオは勝手に売られるし……ああもう! 版権寄越せってのよ! 肖像権!」
「……そんなこといってると、上から出向させられるわよ? お金に関してはどんな小銭でも欲しいんだから」
 どこに出向させられるのか?
 考えてミサトはうなだれた。
「一応ここって世界平和かけて戦ってんでしょお〜?」
「問題は誰にとっての平和なのかね」
 場所は既に浅間山の麓である。
 リツコは通信機越しに、待機している二機に対して話しかけた。
「良い? 使徒が孵化した場合は殲滅に移行してちょうだい。一応使徒が爆発したとしても、噴火するようなことはないはずだけど」
『わかってる。絶対はあり得ない。そういいたいんでしょ?』
「ええ……『だから』この役はアスカに振ったの。注意してね」
『……了解』
 通信を切り、アスカは少し考える素振りをみせた。
(この間の、やり過ぎたかな?)
 ユニゾンによる攻撃。あれによって疑われてしまったのかもしれない。
 アスカはリツコの言葉からそう思い至った。
(確かにエヴァでやったことは全部データ取られてるんだもんね。隠そうとしたって隠し切れるもんじゃないか)
 外をみる。
 隣にいる『零号機』をだ。
(なにかあったら、シンジだと飛び込んで来そうだしね。秘密はできるだけ守りたいし)
 それは知られることによって利用される危険性を考えたものではなく……ただ騒がれるのが嫌だという我が侭から来た考えだった。


 ──シンジのマンション。
 ぴんぽーんぴんぽーんぴんぽーん。
 階段の途中で聞こえたチャイムの音に、シンジははてなと首を傾げた。
『この階』に入り込める人間は限られているはずだからだ。
「や、山岸さん!?」
 だからこそ、シンジはマユミを見つけて引きつってしまった。
「シンジ君」
 マユミはごくごく自然にふりかえると、どうして後ろからと怪訝そうにした。
「出かけてらっしゃったんですか?」
「どうしてここに……」
 シンジは相当に慌ててしまった。表の部屋ならともかくとして、こちら側に入る方法は単純に階段を登ればよいというものではないのだ。
 階段はただのゲートに過ぎない。そこで誰なのかがチェックされるような仕組みになっている。なんの予備知識も持たないマユミに通れるはずがない……のだが、マユミはそんなシンジの葛藤も知らずに、ただただ不思議そうに確かめただけであった。
「あの……ご病気は?」
「びょ、病気!?」
 はいとマユミ。
「だって、修学旅行お休みになられるって……」
「そ、それでここに?」
「はい」
「山岸さんはどうして? だって、修学旅行は!?」
 そんなとマユミは両頬に手を当てて悲しそうにした。
「シンジ君が苦しんでおられるのかとおもうと、とても……」
「山岸さん……」
 どきんとシンジは胸を高鳴らせた。急激に沸き上がって来る罪悪感。それは一体なんなのだろうか?
(そうだよなぁ……いくら苦手だからって)
「どうかなさいましたか?」
「あ、ううん、なんでもないんだ」
 ちょっと慌てる。
「でも病気じゃないんだよ。ぼくさ、今ちょっと働いててね」
「お仕事を?」
「誰にも聞いてない?」
「はい」
「みんな知ってるんだけどなぁ」
 だが教えない。
「そっちの都合がね……ちょっと入っちゃったんだよ。それで行けなくなっちゃったんだ」
「そうなんですか?」
「うん」
「残念ですね」
「ほんとだよぉ……ぼく、楽しみにしてたんだ。修学旅行」
「シンジ君……」
 マユミはおろおろと慌ててしまった。
 シンジがとても悲しげにしたからだ。
 ふぅとため息まで漏らして目を伏せて……。
(ああ、その悲しみをわたしのこの胸で癒してさしあげたいというのに)
 ごめんなさい。ふがいないわたしをお許しください。わたしにはなぜにあなたがそれほどまでに嘆き苦しんでおられるのかがわからないのです。ですからどうか、どうかその苦悩のわけをわたしに打ち明けてはくださいませんでしょうか?
 ──あなたの苦しみを、わたしの愛で癒してあげたい。
 うっとりと……あとちょっとで某歌劇団のごとく歌い出しそうなマユミであったのだが、その半歩手前でシンジが「仕方ないんだけどね」と顔を上げた。
「あうっ」
「どうしたの?」
「い、いいえ! なんでもありません」
 ちっと見えないように舌打ちする。そんなマユミになんだろうかと思いながらも、シンジは後ろポケットをまさぐって、カードキーを取り出した。
「山岸さん、上がってく?」
 マユミの頬が赤く染まった。
「よろしいんですか?」
 そんなマユミに顔をほころばせる。
「だってさ……心配して来てくれたんでしょ?」
「はい」
 マユミはうつむくようにして恥じらった。
「とても心配で……」
「ありがとね」
 シンジもつられて赤くなった。
「なんだか照れるや」
「そうですね」
 良い雰囲気である。
 ──ちなみにマユミがインターホンを押し始めてから、実に七時間が経過していた。
 これぞ知らなければ幸せでいられるという、実に良い見本であった。


「…………」
 溶岩の中、アスカは暑苦しさから首元を緩める仕草をしてしまった。
 すぐにダルマのような耐熱仕様のプラグスーツであったことを思い出す。ふくらんでいるのは寒ければ保温効果を、暑ければ冷却効果をもたらすように効果を狙ってのセッティングであるのだが、溶岩の熱の前には無意味に近い。
 発汗によって水分が失われると、血液の粘度が増すことによって心臓にかかる負担が増える。耐熱プラグスーツはこれを防ぐために背後のシートから冷却材を全身へと広めてくれていた。が、それがまた辛いのだ。
 体は冷えるが頭は熱にぼうっとしてくる。
(体に悪いって感じぃ)
 首が特に蒸れるのだ。そこだけ汗にぬめるから。
「あ〜あ。シンジは今頃クーラーの効いた部屋の中でお勉強かぁ」
『あらアスカ、羨ましいの?』
「そりゃあねぇ」
『勉強なんて今更じゃないの?』
「わかってていってんでしょ?」
『まぁねぇん』
 後でぶっ飛ばしてやろうかと思ってしまう。
 冗談は時として苛つくネタになるだけなのだ。
『にしてもアスカぁ』
「なによ」
『加持より気になっちゃうわけぇ? シンジ君が』
「嫌ないい方ね」
 緊張しているから軽口を叩きたいのだろうが……アスカは鬱陶しいと不機嫌になった。
「ミサトのゴシップ好きに付き合うつもりはないわ」
『なによ。面白くない子ねぇ……』
「保護観察官なんてのがなに観察してたのか知らないとでも思ってんの? チルドレンの『観察』でしょうが。監視でも護衛でもなくてね」
『…………』
「『元』観察官だからってねぇ。アタシのこと、なんでもわかってるなんて思わないでよね」
 作戦部へと移る前、ミサトは一時的にアスカの保護観察官を勤めていた。
 それも後々のことを見据えてのことであったのだとすれば? 直接指揮をすることになる上司と部下。それを前提としてのことであったのだとすれば?
 気分が悪くなって仕方がない。
 通信を一旦切って、ミサトは酷く顔をしかめた。
「あの子ったら……」
「いつの間にか手を離れていた?」
「…………」
「そういうこともあるわ。落ち着きなさい」
 リツコの言葉に反発する。
「あの子はそういう子じゃないわ」
「じゃあどういう子なの?」
「……人付き合いに慣れてない子よ。だからからかわれると冗談を冗談として受け流せなくて、すぐ反発するの」
「……されたじゃない」
「違うのよ。あんな風に皮肉で返す子じゃなかったわ。馬鹿とかうるさいとか、もっと子供っぽく打ち切ろうとする。そんな子だったのに……」
「じゃあ大人になったってことなんじゃないの?」
「え?」
「シンジ君と一緒に暮らしてるんだから、そういうこともあるでしょ」
「あ……」
 今更ながらに思い出したようである。
 無意識の内に手を口に持って行き、隠すように触れる。その感触がシンジの唇を思い出させる。シンジは言動や行動に反した部分では子供っぽくない面を持つ。
 それを横目に見ながら、リツコは別の可能性を考えていた。それはシンジの能力との関連性だ。
 あのようなことを成すシンジである。それに影響されたか、シンジのような『あり得ない』能力を得たのだとすれば?
 人間、自信を付けたなら、恐れることなく毒を吐くようになるものだ。他人を簡単に見下して。
『目標、正面』
 アスカからの報告を耳にして、リツコはあっさりと思考を切り替えた。
 余計なことを考えていられるような、簡単なオペレーションではないからである。


「目標、正面。キャッチャー、誘導します。クリア、クリア、クリア。問題なし。接触します」
 ガコンと揺れる。二つのコ型のフレームをバーで繋いだものが、電磁の檻を形成した。
 それは画面にCGとして表示された。見事中央に使徒である黒い卵を捉えていた。
 エヴァよりも大きい。
 ダルマ型の潜行服に身を包んだ弐号機が、それを釣り下げたままで引き上げられる。
「……ふぅ」
 アスカは思わず息を吐いた。
「案ずるより産むが易しってね」
 リツコが口を挟む。
『難しい言葉を知ってるわね』
「教えてもらったのよ」
『あら? 誰にかしら?』
「ナイショ」
 ちょっとした独り言からでも情報を探り出そうとする。これだから油断できないとほぞを噛む。
 ──案ずるより産むが易しね。
 それはユイの言葉だった。あちらでの修行中、こんなのできるわけないと喚き叫ぶだけだった自分が、やっとのことで歩き始めた時のことだった。
「案ずるより産むが易しね」
「え?」
「心配してたのよ……シンジよりもできは良いんだから、すぐに覚えられるとは思っていたけど、だからって心がどうなるかはわからなかったから」
「…………」
「力はとても安易なものだから……自分をしらしめすのに暴力ほど単純で効果的なものはないわ。でも足元に平伏させることはできても、決して尊敬させることはできない。むしろ嫌われていくだけでしょうね。そんなやり方では」
「はい……」
「だからね、あなたが変わる前に力だけを渡しても良いものかって、ちょっと悩んだのよね、正直なところ。反対に力をある程度得られれば、安心して落ち着くかもしれなかったし。シンジが上手くやってくれる方に懸けたんだけど」
 微笑する。温かい目をして。
「好かったわね」
「は……はい」
 あの時は思わず赤くなってしまったが、勘違いされたかなぁとも思ってしまった。
 アスカは思い出しながらも、現在の状況に感謝した。この動悸も発熱も、すべて環境のせいになってくれるだろうから。
(アン時はユイさんにドキドキしちゃってさぁ、つい『はい』って言っちゃったけど)
 まずかったかなぁとぼうっとする。
(シンジのお嫁さんにとか思われてたらどうしようかなぁ……でもまあ、シンジも嫌いじゃないし、ユイさんは好きだし、良いんだけどさ)
 主にその想いがシンジよりもユイに傾いていることが良くわかる発想である。
『アスカ、アスカ!』
 アスカは呼びかけられて我に返った。
「え?」
『なにやってるの! キャッチャーを破棄!』
「あ」
 ぼうっとしていた間に、使徒が羽化を始めていた。


「アスカ……」
 食いしばるような声に、リツコは注意を促した。
「アスカらしくないミスだと思う?」
「…………」
「あまり過度には期待しないことね。期待するってことは道具としての質を求めているのと同じことよ? それではますます嫌われるだけだわ」
「わかってる」
 ミサトはアスカから伝わる言葉から、状況を整理しようと試みた。
 一方で、リツコは自戒の念に囚われていた。道具か、と。
(わたしにそれをいう資格はないのにね)
 子供は苦手だ。なにを考えているかわからないから。だがその考えはずっと昔から持っていたものだった。
 小学校、中学校、高校、大学……。常に周りに溶け込むことができなかった。染まることができなかった。おかげで周囲の発想を理解することがついにできないままとなってしまった。
 それが尾を引いて、今でも苦手意識に繋がっている。他人との触れ合いを自然に行うことができない。精神的な病気だとカウンセラーは診察してくれるだろうが、それがなにになるとも考えていた。
 子供に対して、同じ人間として接することができない。だから道具として扱うことで、今までは逃げて来ていた。
 道具にはなにを思われたとしても平気だから。
 だがそれではいけないと思うこともあるのだ。
 シンジが来てからというもの、ゲンドウの思わぬ一面が見え始めた。可愛い人なのかもしれない。そう想い始めたのはいつからだろうか?
『無理はするな……』
 あの一言があってからだと確信する。それから見ていた。ずっと見ていた。するとどうだろうか?
 シンジの前では父親らしく振る舞おうとし、失敗ばかりを積み重ね、落ち込んでいる。
(わたしらしくないわね)
 慰めようとしてしまって、『あんなこと』になるなんて。
 戦闘中にとんでもない邂逅に入ってしまうリツコである。
 ──さて。
「こんちくしょぉおおお!」
 情にほだされたリツコが、体ではけ口となって上げたことを思い出し、身をよじっている頃、アスカは窮地に立たされていた。
「あっ、こらどこ行くのよ! もどってこぉい!」
 ちぃっと舌打ち。
「こっちにナイフしかないってことわかってるみたい。そのナイフが利かないってのも今のでバレたし、次は本格的に来るわね」
 やるっきゃないかと身構える。
(どうせいつかはバレるんだから)
 溶岩の中を回遊していた使徒が、体をくねらせて襲いかかって来る。アスカは正面からの体当たりに感謝した。
(これで狙える!)
 激震の中で舌なめずりをする。アスカは左手でプラグスーツの右袖をつかむと、腕を引き抜くように破り裂いた。エヴァがその動作をまねて行い、潜行服の袖を破く。
 抜き出された腕が焼け始める。素体を被う素材が溶けて皮膚に癒着していく。そのフィードバックにアスカの腕にも火ぶくれが現れた。
「負けてらんないのよぉ!」
 気合いで痛みをねじ伏せる。
「このアタシわぁ!」
 指に力を込めて、使徒の眼球らしき『物体』に突き入れる。えぐり出すように甲羅との境目らしき筋を狙ってえぐり込む。
 火口内深度数百メートルの位置の高温、高圧に堪えている『生物』である。その器官が目のような柔なものであるはずがない。擬態の類だろうが、それは問題にはならなかった。
 要はえぐり出しやすい部位であるかどうかなのだ。そして、それは正解だった。
 装甲のような体であっても、一体成型にはなっていなかった。その部位の周囲に爪が、指が食い込む、隙間が生まれる。
 ──使徒がもがき苦しんだ。
「くぁああああああ!」
 シンジほどの力は生み出せずとも、肉体の一部に集中すればこの程度のことは可能だった。ついにはつかみ、えぐり出す。
 ぶちぶちと神経束の引き千切れる感触が伝わってきた。マグマが使徒の体内へと流れ込んでいくのがわかる。マグマの高熱に堪えられる口腔と食道は持っていても、やはり体内は生の肉であったらしい。
 内部から燃やされると同時に、『弁』を失い、圧壊を始めた。
 弐号機にからめていた腕をずるりと滑らせ、そのまま底へ底へと沈んでいった。途中でばらけてしまうのが見て取れた。
「ふぅ」
 アスカは一つ息を吐いた。
「耐熱処置」
 ボイスコマンドに従って、右腕の神経接続が切断された。それから物理的な切り離しが行われる。エヴァの右肘から先が使徒への弔いに捧げられた。
 耐熱スーツの素材が膨張して穴を閉じる。
「……温泉くらい、入りたかったな」
 腕をみる。これは病院直行だろうなと、アスカは微苦笑を浮かべてしまった。
 シンジに面倒を見させよう……なんてことを考えながら。


続く


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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。