「あ〜……」
 んっとついばむように口を閉じる。
 餌を与えているのはシンジであり、頂いているのはアスカであった。
 右腕を半ばから包帯で固めているため非常に不自由な思いを味わっている。授業は端末を操作するだけなので利き腕でなくともカーソルキーさえ操れれば問題ないが、食事に至ってはそうはいかない。
「なんやなぁ」
 パンを頬張りながらトウジ。
「お前らハズカシないんかい」
「あんたバ……カぁ?」
 途中で途切れたのは、機械的なペースで繰り出されたスプーンを、あむっと口にいれたからであった。ちなみに乗っていたのは焼き飯である。
「こっちはねぇ! 世界平和かけて戦ってんのよ! これは名誉の負……傷なの!」
「だからなんやねん」
「んぐ。腕が使えないからってねぇ、左手でも食べられるようなものばっかり作られたんじゃあ、美味しくないし、栄養だっ、って偏るじゃない!」
「薬があるやろが」
「だからアンタは馬鹿なのよ!」
「なんやとう!?」
「自然食からでないとそういうのはちゃんと取れな……ちょっとシンジ! 次はどうしたの!」
「はいはい」
 アスカに食わせつつ自分も食しているシンジである。それも同じ弁当箱から、同じスプーンで。
 ふんっとトウジ。
「スプーンやったら左手でも使えるやろが」
「……惣流さんは、左手だとぼろぼろとこぼすそうですから」
 俯き、もそもそと箸で食していたマユミが口を挟んだ。
 暗い、というよりも、コワイ。
「シンジぃ、次はぁ?」
 それを横目に見ながら、からかうように口にする。
「ちゃんと食べないとぉ、髪とか艶がなくなっちゃうのよねぇ」
「ふうん……でも大変ね」
 ヒカリである。
「その手じゃお風呂に入るのも」
「うん……まあ一人じゃ上手く洗えないけど」
「一人じゃ?」
「うん。──しょうがないからシンジにやらせてる」
 バキッと鳴った。箸の折れる音が。それも教室中の至るところからである。
「い、いやぁんなかんじぃ」
「で、で、どうだったんだよっ、シンジ!?」
「なにが?」
「なにがって決まってるだろう!?」
 鼻息荒く、アスカの前であることも忘れてしまうケンスケだった。
「アスカの胸、アスカの腰! アスカのふくらはぎぃいいい! うらやましすぎるぅううう!」
「そっかな?」
 アスカはぱしんっと後頭部をはたいてやった。
「このお子様がそんなことで喜ぶはずないでしょうが」
「う〜ん……」
 ひきつった笑みを浮かべて、ヒカリはコメントに困った。
「まあ、碇君っていやらしそうな感じしないけど」
「そうそう、こいつエロ本見つけたら喜ぶより売りつけて小遣い稼ごうとか考えるようなやつなのよ? 信じらんない!」
「でも……」
 ぼそりとマユミ。
「シンジ君とアスカさんって、一緒に寝てるんですよね?」
『え!?』
「だって……シンジ君のお家、ベッドが一つしかありませんでしたし」
『ええ!?』
「お食事も一緒、お風呂も一緒、寝るのも一緒ですか」
 教室中がいやぁんと退く。
「シンジ……お前って」
「え? なに?」
「なにじゃないだろ! なにじゃ!」
「そやそや! 惣流となにしとんねん! お前は!」
「なんにもしてないよぉ」
 不満気にいう。
「大体、なに勘違いしてんだよ」
「勘違い?」
「そうだよ。別にぼくたち二人だけで住んでるわけじゃないのにさ」
「おお、そういえばお姉さんがおったなぁ……親戚の」
「うん」
 そやったそやったと頷くトウジである。なんでお前が知ってるんだよという視線が集中したが気づかなかった。
「ま、シンジがいてくれて助かったわ。ありがとね?」
 ちゅっと頬に……。
『あっあー!』
 絶叫と共にがたがたと立ち上がるクラスメートたち。ただ褒められたシンジ自身は、なにするんだよぉと頬を手で拭いていた。
 ミートボールの甘ダレがべたついて、とても気持ち悪かったからである。


第十四話 そして少年は初恋に出逢った


 密室の中、ここに一心不乱にキーを叩く男がいた。
 加持リョウジ。
 特殊監察部に所属している男である。
 特殊監察部──それは文字どおり特殊な監察を行う部署のことである。彼はカコンとキーを叩くと、ふぅっと疲れたのか息を入れた。
「ようやく二十三歳代クリアか」
 画面には縦に女の子のバストアップ写真が並んでいた。横には名前が表示されている。簡単な配置もだ。
 もちろん部署ごとにも呼び出せるようになっている。表示している画像が多いためか、反応がやや重い。MAGIが使えたらなぁと彼は不満を口にした。
「今日はっと」
 別のウィンドウでスケジュール表を呼び出す。今日の日付をクリック、名前は……。
「アキコちゃんっと」
 先のデータベースから一人の子を選択する。と、住所年齢職場での評価はもちろん、メールアドレスや電話番号、それに好きな食べ物、歌、映画等々と、詳細なデータが羅列された。それと……謎の日付表もだ。
 先週に○。先々週にはハートマークが書き込まれていた。
 一体どんな監察を行っているのだろうか?
「さあってと、お仕事お仕事……今日も指導にはげみましょうかね」
 データをクローズして鞄にノートパソコンを放り込む。ジャケットを肩にひっかけて……というところで扉が開いた。
「か、葛城?」
「加持ぃ? 見つけたわよぉ?」
 にやぁりと笑う。牙が見えた。目が据わっていた。
「ど、どうしたんだ?」
 思わず退く。
「どうしたじゃないわよ!」
 ばんっと背後の壁を平手で叩いた。
「アスカよ、アスカ!」
「アスカぁ?」
「あの子になにがあったの!」
「なにって……あん?」
 しらばっくれないでよとミサトは喚いた。
「あんたねぇ! アスカの渡日が決定してからあんたに身柄が引き渡されるまでの報告書には、あたしが保護官やってた頃との違いなんてなに一つ見つからなかったわ!」
「っていわれてもなぁ……」
 その話はこの間もしたじゃないかとうんざりとする。
「向こうでの保護官にも連絡を取ったけどね! あたしからの話に確かにそれはおかしいって返事を送って寄越して来たわ! だったら日本に来るまでの短い間になにかがあったとしか考えられないじゃない!」
 加持は困りながらも、たった一つだけ心当たりがあった。それは船上の夜のことだった。
 二人で甲板に転がり、星空を眺めていた。
『アタシはもう大人よ!』
 そういって迫られたのだ。アスカに。
(つっぱねたが……もったいなかったかなぁ?)
 シンジ君に乗り換えたかなとそう考える。あり得ないことではなかった。
 小動物とのふれあいは、時に情緒を育てることがある。弱者に対して横暴な振る舞いを行った時、どのような反応が戻されるのか?
 怯える姿に、罪悪感を芽生えさせることがある。これが心苦しさや後味の悪さといったものへと繋がり、時として優しさへと転化するのだ。
 まさに情操教育そのものである。
 ──アスカの精神上の発育具合は、明らかに偏っていた。
 それが弟のような存在を得て、均衡を取り戻したのかもしれない。この相手が同年代であったらば、自らに架している厳しさと同じものを要求し、押しつけていたかもしれないが、相手はただの子供である。
 そのような高い要求に応えてくれる友達には恵まれてこなかった。だから既に大人である男に求めて来た。しかし圧倒的に幼すぎる存在が相手では、そのような気持ちを抱くことは困難なものだ。
 加持自身は、求められながらも依存したがっているだけであろうと感じていた。だが加持の好みは依存したがる少女ではなく、無理をしてでも独り立ちしようとするような女性にこそあったのだ。
 だから加持は、アスカの気持ちを受け流して来ていた。
「ちょっと加持! 聞いてんの!?」
「あ? ああ……」
 加持は顎鬚を撫でると、からかうように口にした。
「だがなぁ、葛城ぃ……お前の悪い癖なんじゃないのかぁ? なんでも知りたがるってのは」
「なによ! 悪いっての!?」
「ヤボだっていってるのさ。そっとしておいてやれよ。アスカだってそうしておいて欲しいんだろうさ。──だからお前は突っぱねられるんだよ」
「……なによ」
 拗ねる。
「やっぱりなにかあったんじゃない!」
「おいおい」
「俺はわかってるけどなって面して、馬鹿にして!」
「そうとんがるなよ。葛城」
「ちょ、ちょっと!」
 加持はミサトの手を握り、抱き寄せた。
「そんな怖い顔すんなよ。せっかく二人っきりなんだしさ」
「や……」
 ──パン!
 唇を奪われかけて、ミサトは加持の頬を張った。
「いってーなぁ」
「冗談でもこんなことしないで! あたしは、もう……」
 くっと歯噛みをして、背を向け、出て行く。
 閉まる戸を眺めて、加持はやれやれと溜め息を吐いた。
「さぁて、デートだデート」
 わざとらしく口にする。
 それは気分を作り直すための芝居であった。


 ──帰宅途中。
「あっははははは! あいつら慌てちゃってさ、バッカみたい!」
 頭の後ろに鞄を持つ。
「自分たちにもシテ欲しい〜、なぁんてさ! なんでアタシがあんな奴らに……ねぇ? シンジぃ」
 シンジはうなだれるようにしたままで、さらにさらに肩を落とした。
「はぁ……」
「なによぉ、その嫌そうな顔はぁ」
「嫌なんだよ」
 ブスッくれている。
「遊ぶのは勝手だけど、ぼくを使わないでよ」
「良いじゃない」
「大変なんだからね、逃げ回らなきゃならないし」
「それも青春の内よ!」
「嘘くさい科白だね……」
「アンタは冷めすぎなのよ! 少しははしゃぐってことを覚えなさいよ」
「はいはい、誰かさんのおかげで、ぼくも大人になったんですよ」
 今度はアスカがぷぅっとむくれた。せっかく一緒に寝てるってことをごまかしてやったのにっと、不満気だ。
「面白くない奴ぅ。だからアンタはガキなのよ! ポーズ付けちゃってさ、似合わないっての」
「良いんだよ! それよりそれ! いつまで治さないんだよ」
 シンジが指したのはアスカの腕だった。
「そんなのいつでも治せるくせに」
「アンタ馬鹿ぁ? 定期検診とかあるのよ? いきなり治ってたら怪しいでしょうが」
「怪しいって……」
「リツコにバレてみなさいよ! サンプル採取だの解剖だのって、ホルマリン漬け確定よ!」
 うっと唸る。
「そ、そういえばリツコさんって、そんな人だったっけ」
「そうよ!」
 アスカの肯定に、シンジは以前実験台にされた時のことを思い出した。あの時のリツコの実に面白そうな表情をだ。
 ──イッていた。
 ……そして今もイッていた。
「ここにいたんですか」
 ぎくりとゲンドウ。
 暗い、暗い場所である。その暗い中でなにをしているかといえば、ゲンドウは中央にある円筒のガラス管を後ろに手を組んで眺めていた。
 中には綾波レイが浮かんでいる。裸でだ。
 こぽりと口から泡が漏れる。彼女は新たな気配に薄目を開いて誰かと見た。
 ──ゲンドウがががたがたと震えていた。
「な、なぜここにいる」
「……レイの健康管理は、わたしの仕事ですから」
「君には弐号機の修復を最優先で命じてあるはずだ」
「もう終わりました」
 ううっと唸る。リツコが腕に手を絡めて来たからだ。
 胸を押し付け……いや、腰もすり付け、囁くようにしてリツコはねだった。
「それより、今日はもうよろしいのですか?」
「い、いや、これからわたしはレイと食事を……」
「そうなの? レイ」
 レイはふるりと首を振った。
「レ、レイ!?」
 がぁんっとゲンドウ。
「なぜだ! なぜなのだっ、レイ!」
 唇が小さくかすかに動いた。じ、ぃ……ようず……。よくわからない。
 液体の中だからなのか、円筒管のガラスが音を通さないからなのか。
「では参りましょうか、お食事もわたしが用意いたしますから」
「待て、待ってくれ! 赤木君!」
 ずるずると引きずられていく……暗闇の向こうへと。レイはゲンドウを取らないでねといった時のリツコのことを思い出した。
『だって……カワイイのよ? あの人……』
『カワイイ?』
『人は一人では生きてはいけないわ。時には心細くなる時もある。弱さに負けてしまうのね』
 ほうっと吐息。
『そんな時……人は可愛くなるのよ』
 甘えるらしいのだ。
 あので。
 ゲンドウにいわせれば、あれは気の迷いだったということになる。よっぽど参っていたということだろうが、もはや手遅れだ。
 レイは思った。どうして碇君も赤木博士も、わたしがあの人のことを好きで好きでたまらないと思っていると考えているのだろうかと。
 さて、命運尽きかけているゲンドウであったのだが……。
 ──バツン。
 救いの天使が、『電源』を落とした。

フェイズ2

「駄目です! 予備回線繋がりません!」
 非常時のためのライトなどを持ち出して、暗闇の中を動き回る。
 オペレーターなどは操作台の上に置き、あるいは股に挟んだ状態で、なんとか手元が見えるようにがんばっていた。
 画面の光量だけでは心許ない様子である。目の悪いものは細くしていた。
「生き残っている回線は!」
「全部で1.2%! 2567番からの旧回線だけです!」
 コウゾウは慌て気味に指示を飛ばした。
「生き残っている電源はすべてMAGIとセントラルドクマの維持に回せ!」
「全館の生命維持に支障が生じますが……」
「構わん! 最優先だ!」
 叫び終えて一息吐く。久しぶりに声を張り上げてめまいに襲われてしまったらしい。息切れと動悸も激しかった。
「普段は気付かぬものだが、歳を取ったな」
 しかしと思う。
「あいつはなにをやってるんだ?」


「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「司令」
 びびくぅっとなるゲンドウである。
「ななななな、なにかね!? 赤木君!」
「……いえ」
 びくびくして……心細いものね。司令ったら。
 くすりと笑う。
(脅えてないで、怖いならそういってくれれば、勇気づけてさし上げられるのに)
 何やら勘違いして、物欲しそうに見たりしている。
 どうやら普段毅然としている姿とのギャップがツボにはまっているらしい。この場合、外観は問題にはならないのだろう。なにしろ日々怪しげな生物を眺めて暮らしている『博士』である。
 美的感覚のポイントが七十度くらい傾いていてもしかたがない。
「真っ暗だ……」
 ──その頃、別の場所。
 別の通路では、シンジとアスカが立ち往生していた。
「なによぉ、リツコが実験でもミスったんじゃないのぉ?」
「今日実験なんてあったっけ?」
「アンタ馬鹿ぁ? 『カガクシャ』なんてのはね、『こんなこともあろうかと!』って叫ぶために、日々くらぁい地の底で、一人悦に浸って爆発するような液体をフラスコで振ってたりなんかするもんなのよ!」
 なるほどなるほどと頷かされるシンジである。
 こうして間違った刷り込みは行われていくのだが、あまりにもアスカが自信満々なので疑う余地を見出みいだせない。
 ついでに突っ込む人間もいない。よってアスカが本気でいっているのかどうかも判然としないままになる。
「まったくもう! こっちは怪我人なんだからね! なにすんのよって感じよ!」
「…………」
「なによぉ」
「元気な怪我人だよね」
「病人じゃないんだから元気に決まってるじゃない」
「…………」
「なによぉ」
 以降ループするかのような会話が暫く続く。
「あ、ちょっと待って」
「どうしたの?」
「あの声……歌?」
「歌ぁ? こんなところでぇ?」
 二人は耳をすました。
 ──金のないやつぁ俺んとこへ来い! 俺もないけど♪
 何ともいい難い顔になる二人である。
「誰よ。こんな歌うたってんのは」
「アスカ良く知ってるね、この歌」
「知るわけないじゃん」
「え?」
「なんとなくそんな感じでコメントしてみただけよ」
「…………」
 懐中電灯のものらしい灯が寄って来る。
「お、アスカにシンジ君じゃないか」
「加持さん……」
 アスカはがっくりとうなだれた。
「おいおい。なんだよいきなり……その態度はないだろうが」
「幻滅ぅ! 加持さんってこういう時、そういう歌うたうんだ」
 顎を触ってニヒルに決める。
「こういう時は無意味に明るい歌の方が良いんだよ。下手に雰囲気があるとお化けだなんだって怖いだろう?」
「そうだけど……」
「じゃ、 みんなで行くぞぉ! さん、はい! 一月は正月で酒が飲めるぞぉ! 酒が飲める飲める……」
「嫌ぁ! やめてぇ! アタシの加持さんが壊れてくぅ!」
「ははははは。アスカの俺ってのがどんな俺なのかは知らないけどな、俺は昔っからこんなもんだぞ?」
「ははは、加持さんって、おかしい人だったんですね」
「……いや、シンジ君。その評価はちょっと」
「え? だって面白い人だなぁって……」
「いや、いいたいことはわかってるんだけどな?」
「ああもうイイわよ! 加持さんはおかしいってことで!」
「アスカぁ〜〜〜。それはちょっと酷いぞぉ?」
「それより! この停電はなんなの? 加持さん」
「ああ……どうもリッちゃんがミスった……」
 ──やっぱりという顔になる二人に慌てる。
「わけじゃなくて」
「なんだ」
「違うんだ」
「そうなんだ。どうも電源は誰かに落とされたみたいなんだな、これが」
「落とされた……って誰にですか?」
「まさか、スパイとか、工作員に?」
「ああ、アスカのいう通りだよ」
「へぇ……」
 感心するシンジである。
「凄いや」
「映画みたいだろ?」
「……いえ、そうじゃなくて、ネルフってそんなのに狙われるくらい立派なとこだったんだなぁって」
「おいおい」
 肩を落とした加持に代わって、アスカがフォローを敢行した。
「アンタねぇ。ここはサードインパクトを防ぐために、物凄いお金と物凄い科学技術力が注ぎ込まれてんのよ? わかる? それをちょっとだけでも盗んで帰っただけで、とんでもない成果になるのよ!」
「ふうん」
「ふうんってねぇ……」
「んなこといったって良くわかんないよぉ」
「はぁ……じゃあこれならわかるでしょ? 使徒を倒さないとセカンドインパクトみたいなのが起きるの。その使徒は普通の兵器じゃ倒せない。その使徒を倒せる兵器であるエヴァンゲリオンはもっと凄い。だからみんな欲しい」
「へぇ」
「だぁ! いい加減わかれ!」
「だだだっ、だってさ! 凄いっていったって、使徒なんて簡単に倒せるじゃないか」
「簡単って、馬鹿! それだってエヴァが無きゃ……」
「そんなことないよ」
 シンジは胸を張って口にした。
「だってぼく、一匹素手でやっつけたことあるもん」
「へ?」
 これにはアスカだけでなく、加持まで驚き、危うく電灯を落としかけた。


「遅くなった」
 ようやく発令所に辿り着いたゲンドウである。
「やっと来たか……どうした。大丈夫か?」
「なにがだ」
「気づいてないのか?」
 コウゾウは耳打ちしてやった。
「物凄い隈ができてるぞ」
 一緒に来たらしいリツコがはきはき……いや、ウキウキとした声を発しているのを見て、苦言を呈する。
「シンジ君が来て以来いろいろとあるだろうが、時と状況を考えろ。まったく、なにをしていた」
「なにがだ?」
 席に着きつつ、ゲンドウ。
「なにをいっている。冬月」
「俺の口からいわせたいのか?」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「すまん」
「わかればいい」
 むぅっとゲンドウは唸った。なにがいいたいのかわからなかったからだ。
 だがコウゾウは憤慨していた。間違いなく。
(まったく、幾つになっても)
 先のめまいのことを思い出して嫉妬する。
(盛んな奴だ)
「状況は極めて悪い。保安要員と技術部の連中を破壊された施設に向かわせたのだが、どうやら敵に出くわしたらしい」
「敵?」
「ああ。──ネルフ職員の制服を着ているそうだ。内部の人間の犯行かもしれん。だとすればMAGIのチェックが停止している以上、他の職員の中に紛れ込まれたが最後になる。再発見は不可能だろう」
「逃がすわけにはいかんか」
「そのために膠着状態に陥ってしまっている。立てこもられて施設の復旧に取り掛かれん」
「葛城一尉はどうした」
「さてな」
「使えん」
「そういうな、状況が状況だ」
 フゥウウウウンと低く唸るような音が聞こえてきた。
 徐々に発令所へと近づいて来る。大きくなる。車だった。
「なんだ?」
 ──スピンターン……するには場所が狭くてテールが接触、そのまま反動でヒットしまくり。
 横転三回の果てにノーズをぶつけて倒立、逆立ち状態から背中向けに奈落の底へと……。
「くあああああ!」
 運転手がそうはさせじと派手に暴れた。絶妙なバランスを保っていたが、やがて均衡を崩して腹側へと……タイヤを床に落とした。バンッ、バンッ! っとサスで跳ねる。
 皆が唖然とする中、半死半生の体で葛城ミサトが這い出してきた。
「……なにを遊んでいる」
 ゲンドウの冷たい言葉に、ミサトはなんとか取り繕った。
「は! 地上にて使徒を目視で確認! 状況を(かんが)みるに緊急に報告の要有りと認め、強行して参りました!」
「……葛城一尉」
「は!」
「減給だ」
「はいい!?」
「勤務時間中に自家用車に乗り、ネルフ本部より外出。なにをしていた」
「あああ、あいや、それはその」
「以後君の行動には監督をつける。以上だ」
 ふええとミサトはへたり込んだ。
 ──さて。
「冬月、後を頼む」
「どこへ行く気だ?」
「緊急時用のディーゼルがある」
「素手で準備を進めるつもりか? だがパイロットがいないぞ」
「問題……」
 ない。といいかけて、ゲンドウはレイのことを思い出した。
(まずい……)
 現在、電源が落ちている状態では、LCLの浄化ユニットは停止しているだろう。筒の中のレイの状態は……。
 ──水死体のように背を上にぷかりと浮かんでいた。
 蒼白になるゲンドウである。
「冬月」
「なんだ」
「エヴァを頼む」
「なんだと!? ちょっと待て碇!」
「わたしは用事を思い出した」
「待てと言っとるだろうが! こら!」
 そこにちょうどシンジたちがやって来た。
「あれ? 父さんどこに行くんだろう?」
「副司令、なんかあったンスか?」
「知らんよ」
 憤慨している。
「こりゃまたご機嫌斜めで」
「現在使徒が接近中だ! 手動にてエヴァの発進準備を進める! 手すきのものは格納庫に集合! いや、待て……」
 コウゾウはふむと思い直した。
「シンジ君。ちょっと良いかね?」
「え? はぁ……」
 なんだろうと見送られて、シンジはコウゾウの元へと上がって行った。


「カッコわるぅ〜い……」
 坑道に近い縦穴と横穴を行くこと数分。この時点で増設された非常用バッテリーの大半を浪費していた。
「大体、シンジはどこに行ったのよ? アタシ一人にやらせてさぁ」
 肩部武器庫背部に取りつけられていたバッテリーを捨て、脇に抱えて来ていたものと交換する。これは冬月からの指示だった。
 敵の状態がわからない以上、いつ電池切れを起こすかわからない機体を二機用意するよりも、一体を完調に近い状態で送り出すべきだとしたのである。
 アスカが選ばれたのは、シンジでは地上へのルートを間違える可能性があったからだ。少なくともミサト辺りはそう解釈していた。しかし、実情は違っていた。
「なんだろう。ここ……」
 シンジは副司令に教えられた通りの道を進み、やけに深い場所へと下りていた。
「こんなところになにがあるっていうんだろう?」
 お父さんがそこにいるから、呼んで来てはもらえないか?
 それが一体どういう嫌がらせなのかはともかくとして、シンジは素直に従った。
 ちょっとだけ弐号機の発進準備を手伝おうかな、なんてことも思ったのだが、冬月に止められたのだ。
 冬月コウゾウは、未だシンジの異能力を認めてはいない。知っている一部の者は不満に思ったが……。
「なんであたしがやらされてぇ! シンジ君は……」
 意外と力のある作戦部長である。
「あ、ここだ」
 やがてシンジは、ひとつの扉の前に立った。人一人が通れる程度に隙間が開いている。その中には……。
「父さん!?」
「シンジ!?」
 二人は硬直し、固まった。
 父の腕の下には綾波レイが、それも裸で。
 彼女の顔に自らの顔を被せていた父。なにをしていたかなど、一目瞭然の構図。
 シンジはかーっと真っ赤になった。
「あああああ、あの、父さん!? 冬月さんが、あの、そのさ!」
 臨界点突破。
「ごめんなさぁい!」
「待て! シンジ! お前はなにか誤解をっ、シンジィ!」
 行ってしまった。
 がっくりと肩を落としてうなだれるゲンドウの背後で、ようやく水を吐き、息を吹き返した綾波レイが、不機嫌さをこめかみに表した。
(助けてもらったというのに、嬉しくないのね)
 人工呼吸であったそうな。
 そんなお約束をクリアして、シンジは自分を見失い、どこともしれない区画へと走り込んでしまっていた。
 ぎゅっと目を閉じて、勘で壁を避けて、駆け抜ける。
(なんだよっ、父さん! みんなが働いてる時になにやってんだよ。父さん!)
 頭の中に様々な『カタログ』のタイトルが思い浮かぶ。
(だって、綾波さんってまだ中学生なのに! ってぼくもまだ中学生だけどいろんなことしってるけどさ! でも女の子はちゃんと子供を産める体になるまではだめなんだって先生が!)
『いいか、シンジ』
 先生に付き合わされて、銭湯を覗いて追いかけ回されて、逃げ切った後での会話であった。
『男ってのはなぁ、ナニの大きさが変わってくだけだが、女の子ってのはそうもいかないんだよ』
『いきなりなんなんですか……』
『女の子より背が低いからって、拗ねるなって話だよ』
 がははと笑った。
『男はち○ち○が大きくなってくだけだけどな? 女の子ってのは子供をちゃんと産めるように、外側だけじゃなくて中身まで熟成させてかなきゃならないんだよ。その分時間がかかるんだ。わかるか? わからんか……。身長が伸びなきゃお腹の中を作れんだろう? だからさっさと大きくなっちまうんだよ。でも男はち○ち○大きくするだけだからな、置いてかれちまう』
 だからなと彼はいった。
『女の子ってのは柔いんだ。どんなに背が高くって大人っぽくても、体の中まで大人だってことはないんだよ。だからシンジ。女の子と二人っきりになれたからって、襲っちゃ駄目だぞ?』
 シンジははぁっとため息を漏らした。
『先生じゃあるまいし』
 その後、殴り合いになったのはいうまでもない。
(綾波さんってまだ胸小っちゃいしお尻も小さいし、そんなことしちゃいけないのに!)
 でもでもと立ち止まる。
「綾波さんと父さん……やっぱり付き合ってたんだ」
 ……蘇生直後であったなどとは知る由もないことである。
「あれ?」
 シンジはようやく周りの景色に気がついた。
「どこだろ、ここ?」
 銃声が聞こえた。


「くそ! 応援はまだか!?」
「弾が切れる。予備をくれ!」
「向こうは素手なんだぞ!」
「来るぞ!」
 一斉に銃を構える。狭い通路だ。だが駆ける少女はまるで意に介さず避けてみせた。
 手を後方へと翼のように曲げて、銃弾の嵐の中を突撃する。弾丸の隙間を縫ってネルフ職員の懐へと飛び込み、足を一閃、回し蹴った。
 三人が一度に吹っ飛んだ。華麗に舞って足を地につける。肘打ちから裏拳、引いた拳を今度は突き出す。
 あっという間に四人を倒した。それを認識される前に残りの獲物に飛びかかる。
「マナ!」
 遅れて浅黒い肌をした青年が駆けて来た。
 少女はチッと舌打ちをする。
(馬鹿! 本名バラしてどうするのよ!)
 そんな意味でだ。
 青年はやけに小柄な男を担いでいた。少年にも見える。三人ともネルフ職員の制服だ。彼らが破壊工作を行った侵入者だった。
「くっ!」
 混乱した状況では銃は使えない。守備側の男性はグリップでマナという少女のこめかみを打とうとした。
 それをマナは掌底で突き上げて躱した。そして先の黒の少年だ。
 彼はどこか素人だった。
 マナ! 叫んで銃を構えた。揉み合っている状況では余りに危険な行為だった。あげく人を一人担いでいるのだ。
 ガン! 銃声に少女たちは首をすくめた。弾丸は天井を穿っていた。
「なっ……」
「危ないじゃないか」
 マナと同じく、掌底でグリップを叩き上げたのはシンジだった。いつの間に? 誰もが思った。
「くっ!」
 誰よりも先に再起動を果たしたのはマナであった。
「ムサシ行って!」
 シンジへと飛びかかる。
「けど!」
「ケイタが邪魔!」
 歯噛みをしてわかったと了解する。
「行かせるか!」
「行かせてもらう!」
 男と青年はお互いに銃を突きつけ合った。絶対に外さない距離で睨み合う。
 一時でも瞬きをすれば終わりだと、目の疲れによって焦点がぶれようとするのを必死に堪えた。
 視界が……ぼやけて行く。
 ──カン、カラカラカラ。
 足元に転がったものから白煙が吹き出した。ガス!? その瞬間隙が生まれた。青年は躊躇なく発砲した。ぐわぁと悲鳴、保安部の職員であろう男は、肩を押さえて転がった。
 青年は必死になって走った。ふりかえりもせずに。
(マナ!)
 きっとすぐに来ると、絶望的に祈った。
「…………」
「…………」
 その少女はシンジと睨み合っていた。隙だらけに見えるが、何度突きや蹴りを繰り出してもすべて受け流されてしまうのだ。
 気持ちが悪かった。反射神経だけで躱されている。そんな感覚に囚われる。
 シンジは少女の顔に動揺していた。どこかで見たことがある。そんな気がして晴れないのだ。
 ムサシ。確か仲間のことをそう呼んでいた。若い男だったが、本当に若かったのかもしれない。
 名前には覚えがある。肌の色にも。でも、本当に?
 本当に、この子はあの子の好きだった……。
「マナちゃん?」
 少女の体に動揺が走った。込められた響きに懐かしさを感じたからだ。
「誰?」
 次の瞬間、マナは強烈な感覚に苦痛を感じて瞼を閉じた。そして開いた時には……。
「え!?」
 そこは山の中だった。第三新東京市が見下ろせる。
 赤い巨人が蜘蛛型の化け物の上に腰を下ろして、足を組んでいるのが眺められた。
 瞬間移動。──そんな単語が脳裏をちらつく。
 ──ぼくが誰かなんて、君は知らない方が良いと思うよ……。
「ねぇ! ちょっと待って、君ぃ!」
 叫ぶ、だが返って来たのは梢の擦れる音だけで……。
 少女、霧島マナは暫しの間、呆然としたままたたずんでしまったのであった。


続く


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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。