狭い個室の内側は、重苦しい空気が充満していた。
 場を作り出しているのはベッドに腰かけている二人の少年である。一人は浅黒い肌を持っている少々剣呑な少年で、一人はどこかに卑屈な情けなさを漂わせている男の子だった。
 あの時、ネルフ本部で騒いでいた者たちであった。彼らは本当は少年であったのだ。
「マナ……大丈夫かな」
 おどおどと訊ねる丸がりの男の子の言葉を無視して、黒肌の少年はぎゅっと唇を噛み締めた。
 組んでいる二の腕に爪を立てる。
『今日は二人のために、この服を着て来ました! どう? 似合うかなぁ……』
 ぺろっと舌を出しておどけてみせた。あの笑顔が忘れられない。
『今度の作戦が終わったら、あたしたち、本当に自由になれるんだよね?』
 幾度もそんな風にくり返し呟いていたのは、約束が破られるのではないかと、守ってはもらえないのではないかと、不安になっていたからだろう。
 ──どこか信じきれなくて。
「遅いね、隊長」
 丸がりの子がひとりごちた。
「駄目なのかな」
「そんなこと……」
 猛獣が唸るような声だった。
「そんなこと、あるもんか」
「ムサシ……」
「待ってろよ。マナ、きっと助けに」
 扉が開いた。そこに立つ男に二人は慌てて立ち上がった。
「隊長!」
「マナの救出は!」
 男は酷く冷めた目をもって二人を睨み下ろし、黙らせた。
 そして続き、信じられない言葉を吐いた。
「なんの話だ?」
「隊長!?」
「どういうことですか!」
 ふんと彼は鼻息を吹いた。
「霧島マナは、死亡した」
 驚愕から、二人は硬直した。
「ま……まって下さいよ」
 蒼白になって、震える唇から言葉を紡ぐ。
「ちょっと待って下さいよ。なんでそんなことわかるんですか! わかったんですか!」
「そうだ! マナが死ぬもんか、きっとネルフの連中に捕まってるんだ。調べもしないで、なんで!」
 二人はつかみかからんばかりの勢いで詰め寄ったが、男の回答は変わらなかった。
「お前達については、追って処分を下す。それだけだ」
「隊長!」
 すがった手は振り払われてしまった。
 扉の向こうに、男は消える。
「ムサシぃ……」
 ムサシは歯ぎしりをして、震える拳を、閉じられた扉に叩きつけた。


第十五話 そして少年は初恋に見つかった


 ゴンッという音が背後に聞こえて、男は密かにほくそ笑んだ。
 ──上手くいけば、これが最後の作戦になる。
 そういって、男は頑張るんだぞと、少女の頭を撫でてやった。
 送り出した時の男の顔は、確かに酷く優しいものであっただろう。
 ──ネルフが擁する決戦兵器エヴァンゲリオン。
 それはどうやら、子供でないと乗れないらしい。そのために彼ら三人の少年少女を選んで送り出したのだが、運悪く、使徒の侵攻が重なってしまった。
 ネルフ本部を混乱に陥れ、その隙にあわよくばエヴァを……と考えていたのだが、甘かった。
 時はネルフに味方したのだ。──偶然に。
 エヴァの周囲には人が溢れた。子供たちはやむをえずと判断して退却してきた様子であるが……。
 ──町内会主催の、旅先での事故だった。
 バスの転落事故に合い、一度に親を失くした三人は、そのまま施設に放り込まれることになってしまった。そこで待っていたのが虐待である。
 三人は言葉にするのもためらわれるような、酷く陰惨な目に遭わされた。そしてそんな境遇からマナたちを救い出したのが、彼であったのだ。
 セカンドインパクトによって軍隊に対する人々の認識には変化が現れていた。混乱した世界においては武力を持たない国がどれほど悲惨な目に合うことになるのか?
 軍隊というものは、きっちりとした教育と育成が必要である。ぽっと出の成人を起用したとしても、役に立つといえるほどの力には成りえないのだ。
 数合わせとしては間に合うとしても、それだけである。
 人殺しのためにはあくまで幼い頃からの精神的な養育が重要になる。社会はこれを許容する方向へと傾いていた。
 ──最近では、再び甘い世論が、はびこり出しているのだが。
 マナたちは、そうした制度によって勧誘された少年兵の一人であった。
 ──だが。
 男は無表情を保って歩いていた。しかし抑え切れないのか、込み上げるものが口元をいやらしく歪ませていた。
(甘いな、やはり子供か)
 それはひとつの冷笑だった。
 それがたとえ命じられて実行しただけの作戦であったとしても、少年たちが行ったことは立派な犯罪なのである。
 それが表沙汰になった場合、戦略自衛隊の立場は非常にまずいものとなる。これに対するために、作戦前に、既に三人の身元は『不明』となるよう処理されていた。
 戦自に所属していたことも、保護施設にいたことも、出生証明ですらも消去済みである。もし仮にマナがネルフに捕縛されていたとしても、彼女が戦自の名を出したとしても、それが証明されることはない。
 逆に、ネルフの謀略であるということになる筋書きである。
 もし万が一、子供たちがエヴァの奪取に成功していたなら?
 その時は再登録してやっていただけのことだ。
 ──エヴァのパイロットとして。
 戦自の隠れた部隊として、独立して働いてもらうことになっていた。それだけのことである。
 国連に、世界に背いた重犯罪人として、もはや世間には出られないのだと、脅しをかけて。
 男はついに、にぃっと笑った。彼らから過去を奪ったことなど、教えてやる必要のないことだ。庇護してもらっているのだと、せいぜい騙されていてもらおう。従順に。物わかり良く。感謝していてもらおう。
 問題は……。
 立ち止まり、窓から外の景色を眺める。
 ここは建物の三階である。窓の外にはコンクリートで固められた、やけに広い景色が広がっていた。
 そこには戦闘機と、飛行艇が待機し、そして……。
 そして丘の上であるというのに、胴体の半分を沈める形で、二隻の船が横たわっていた。


「…………」
「…………」
 残された室内で、少年二人は体をふるわせていた。
 一人は激しい憤りから。
 一人はこれからのことに脅えてだ。
「ムサシぃ」
「うるさい! 黙ってろケイタ!」
 ムサシはケイタに当たり散らした。
 苛だたしかった。
 甘えた口調が。
 自分で考えない態度が。
 人にやらせて、責任を負わせようとする姿勢が。
 あげく、それを当然と思っている性癖が。
 そして、そして……そして。
「…………」
 マナ、と口中で呟く。ぶちりと唇を噛み切った。
 二人の上に暗雲が漂う……その頃。
 第三新東京市。
 その郊外にある古びたマンションの部屋の一つに、あの子が一人で佇んでいた。
 ──霧島マナだ。
 部屋は壁紙が日に焼けて剥がれ落ちていた。床は開けっ放しの窓から入り込む埃と雨に汚れ切っている。
 ここは第三新東京市と名が変わる以前からあるマンションだった。今は再開発の名の下に、放棄されている区画である。
 そんなところにマナは一人で、膝を抱えてうずくまっていた。
 ──ここはあらかじめ知らされていた、戦自が確保している指定避難所(セーフハウス)の一つであった。
 問題が起きた場合には、まずここに避難して、救出を待てと指示されていた。なのに……。
 隠されていたはずの通信機や、衣服、変装のためのかつら、道具。
 それにキャッシュ。
 そのすべてが見つからなかった。何度も確かめた。記憶も確認した。それでも見つけられなかった。
(場所を間違えてるってことはないもん……じゃあ?)
 騙された?
 見放された?
 マナは優しい隊長のことを思い出して、絶対に違うとかぶりを振った。
 あの人に助け出されていなければ、施設の上級生になにをされていたかわからない。
 施設にいた頃はまだ幼かったから助かっていたが、大きな子は大変な目に合っていた。いや、女の子だったから助かっていたというのも追加されるかもしれない。
 男の子であるケイタなどは、いじめ殺される寸前のところに立たされていたのだから。
 そんな場所から手を引いて連れ出してくれたのがあの人だったのだ。それを疑うなど、恩義に反する。
 ──それ以上に、捨てられる恐怖には堪え切れない。
 マナは後ろポケットに手を入れて探ると、本当なら持っていてはいけないはずのものを取り出した。それは支給されたパスケースだった。財布にもなる。
 今回の作戦で、街に入り込むために変装をした。その時の小道具の一つである。
 問題は、その中に収めていた写真にあった。隊長の首に後ろから抱きついて、はしゃいでいた時の一枚だ。彼の方も笑っていた。そう、心から笑っていた。
 これが嘘のはずがないと、抱きしめて、体を折り曲げる。
 ──それが幻想であると、薄々感付きながらも、嗚咽を堪えた。


 セーフハウスとは潜伏のために用意された監視、待機のための部屋のことである。
 非常時には避難場所としても用いられる拠点でもある。故に展開される作戦に応じて、様々なものが用意されているものである。
 武器であったり、道具であったり、もちろんそこから『足』がつくようなことがないように、十分に注意されて……。
 ──そのすべてが、なにもなかった。
 幾ら探しても、なにも出てこなかった。だからこそマナにはうずくまる以外の選択肢が見つけられなかったのだ。
 これから行動するための、あてのようなものが見つからなくて……。
 いや。
 彼女には、一つだけ気になることがあった。
 あの時……。
 自分を外へ運んでくれた、不思議な現象を起こした存在。
 それが記憶のどこかで、引っかかったままになっていた。
 ──そのために。
 マナは今、第一中学校の制服に袖を通そうとしていた。都合のいいことに、ちょうど水泳の授業で、衣類が一通り残されていたのだ。
 更衣室である。
 制服を盗むのはわけないが、それに合う靴や靴下となるとそうはいかない。些細なことだが、その違和感はすぐに気付かれてしまうものだ。
 それだけではない。
 作戦のために、アンダーシャツは胸を締めつけるものを着けていた。ブラではないのだ。
 これは白シャツでは透けてしまうために、問題があった。
 適当に漁って、サイズの合うものを探しだす。三つほどずぅんっと沈み込むことになってしまったが、なんとかその後勝ち誇れたのでにんまりとなった。
 おおっと、そんなことをしている場合ではないと、改めて探し直す。
 そんな様子を、あれっと見つけて、首を傾げたのは、盗撮のための準備をしていた、相田ケンスケ、彼だった。


「…………」
 教室、窓際にて、ぼんやりとしているシンジがいた。
 頬杖をついて、流れる雲を眺めている。教師の話など耳に入っていないだろう。が……。
「その頃、わたしは根府川に住んでいましてねぇ……」
 聞く必要はないかもしれない。
 そしてそんなシンジを目に入れて、同じようにぼんやりとしているものがいた。アスカである。
(なんだか、ねぇ?)
 先日の戦闘の後のことだった。
 電池切れで動けなくなっていたエヴァをようやく本部に戻した時、どこからかシンジが現れたのだ。
 どこかぼんやりとした様子でだ。
 なにをやっていたのかと噛みついてみたのだが効果がなかった。きっとなにかあったのだろうが、なにがあったのかがわからない。
 ふとアスカは、同じように視線を向けている女の子がいるのに気が付いた。レイだった。
「…………」
 ジッとシンジを見つめているのだ。
 それも、なにかを話したそうに。そういえば、あの時こいつもいなかったなと思い出す。
「むぅ」
 面白くない。
 一方、レイもレイで悩んでいた。
(不愉快なのね。わたし……)
 シンジが落ち込んでいる理由には心当たりがあった。ジオフロント最下層にあるプラントで目撃されてしまったあの『事件』だ。
 別にシンジに嫌われてしまおうと、そのこと自体についてはどうでも良い。しかし理由については誤解を解いておきたかった。
 ──あんな暗がりであの人とイタシテいただなんて冗談ではない。
 それだけは撤回して欲しかった。
 冗談ではなく。
 誤解だけは解いておきたかったのだが……これがまた難しかった。
 誤解を解くためには、まずなぜ溺れたのかを説明しなければならないからだ。しかしできない。
 してはならないことだからだ。
 あそこでなにをしていたのかなど。
 詳しいことはよくわからない。物心ついた時にはもう、あそこであのようなことをしてきていた。だから疑問に思ったことは一度もなかった。どうして秘密にしなくてはいけないのか、など。
 理由を……知らない。知ろうとしたこともなかった。
 ほんのちょっとした我慢の後に、必ず食事だなんだと、気にかけてくれる。かまってくれる。
 それが楽しみで、たまらなかったから。
 ──だが。
(わたしはもう、子供じゃないもの)
 ちょっとした豪勢な食事や、プレゼントでごまかされる年齢ではないのだ。
 そろそろ独り立ちしたくてたまらないのである。
 ──さて。
 二人がそれぞれに勘繰っている中、シンジの意識はただ一人のことに終始していた。
(霧島さん……)
 マナちゃんから霧島さんに退行しているのは、思春期ゆえの動機だろうか?
 マナちゃん。シンジの中にいるマナとは、とても幼い子供だった。
 マナちゃん。赤いランドセルを背負って駆けていく。元気過ぎて白いパンツが丸見えだった。
 マナちゃん。公園の噴水で水浴びをしていた。マッパで。
 マナちゃん。お庭に出したビニールプールで遊んでいたマッパで。
 マナちゃん。たまたま遊びに行ったらお風呂から上がったところだった。パンツははいていた。マッパじゃなかった。
 マナちゃん。マナちゃん。マナちゃん。
 マナちゃんの家でご飯を食べた。マナちゃんと一緒にお風呂に入った。マナちゃんと一緒に……。
 おいおいと自分で突っ込みを入れるところまで妄想が暴走したところで、シンジはようやく我に返った。
(危ない危ない)
 まーなちゃーんっと、叫びかけていた自分に冷や汗を掻く、と、妙な視線に気がついた。
(うっ、ジト目!?)
 じぃっとレイとアスカが睨んでいるのだ。しまった。顔に出てたかと頬を手で挟んでむにむにと動かす。が……。
(怪しい……)
(怪し過ぎる……)
 妙な妄想の題材にでもされてしまったのではないかとレイは全身を毛羽立たせ……。
 アスカはアスカで、やはりなにかあったに違いないと、変な確信を深めるに至った。


 そんなわけで。
「これは可及的すみやかに調査する必要性があるわね」
 ねっと念押しをする。されたヒカリには、迷惑なだけの話であった。
「い、碇君も男の子だったってことなんじゃないの? ほら、アスカと一緒に住むようになって、意識するようになったとか」
「う……それはそれでキモチ悪いのよね」
 やはり性的な嫌悪感というものを感じさせられずにいたからこそ、同居もできていたわけで、それが四六時中嫌らしい目つきを向けられているのではないかと警戒しなくてはならなくなるとちょっと嫌だ。
 疲れるから。
 そしてそんな気持ちはヒカリにもわかった。わかったのだがしかし……だからといって巻き込まないで欲しいというのが正直すぎるところではあった。
(ちょっとね……)
 ヒカリにとっては、シンジは良いお友達である。アスカが変になったという数日前からのことを思い返してみても、朝の挨拶からして変なところは見つからなかった。
 アスカのいう、ボケボケッとしているところは見られるのだが、けれどいやらしいというのは見えはしない。となると、別段、気になるところはなにもないのだ。
 いつも通りのお付き合いである。それを乱したいとは思わない。
 どうにもこうにもわからない。と、アスカが首を捻るのを眺めていると、シンジが誰かに呼び出されて出て行くのが見えた。どうやらケンスケがトウジとシンジを呼び出しているようであった。


「なになに? どうしたのさ」
 怪しく一階の階段の裏にあるスペースにたむろする。
 ケンスケがさらに怪しく取り出したのは、ポケコンと呼ばれている代物だった。ただしセカンドインパクト前のものとはものが違う。
 上部からフィルムシートのようなものを引っぱり出すと、それは下敷きのように『ばいん』と揺れた。
 揺れが収まると、そこに絵が結像した。シートは一種の電動体であるらしい。液晶を越えるものとして、現在普及し始めている代物である。
「え?」
 シンジはまず驚いた。それは……。
「これって、更衣室じゃないか」
 机の上に服がおいてある。どうやら着替えた女子が、そのまま放置して行ってしまった状態らしい。
 更衣室といっても、空き教室を勝手に使っているだけなので、無防備な感は否めない。つまり。
「盗撮するつもりだったの?」
「うっ、いや、それは良いんだよ」
「良くないって」
「それよりこれからだよ。これから」
 まるでゲームのコントローラーのようにポケコンを持って親指でカーソルを操作する。
 映像が動き出した。どうやら内蔵されているシリコンメモリに、ムービーデータが収められていたらしい。
 動画は一人の女の子が入って来て、服を漁り、着替えるところを捉えていた。
「これって……」
「なんなんや?」
「馬鹿! 痴女だよ。痴女!」
「ちじょー!?」
「変態だって!」
「ち、違うんじゃないかな?」
「じゃあなんだっていうんだよ!?」
 ……さすがはケンスケである。といっておこう。
 映像は露光もなにもかもが完璧で、あまりにもくっきりはっきりと彼女の顔を映し出していて、もはや疑う余地などどこにもなかった。
 ……このクオリティで女子の着替えが写されるとなると、かなりな問題になるのだが、それはともかく。誰なのか? シンジにはきっちりはっきりとわかってしまった。見覚えがあり過ぎた。忘れるにも思い返した回数が多過ぎた。
(なんだってまたこんなところに)
「で、それがどないしたんや?」
「どうもこうもないだろうが」
 はぁんとトウジ。
「泥棒やったら、先生にいうたらええやないか」
「これ見せてか?」
「……まずいな」
「まずいんだよ」
「でも放っておけんしなぁ」
「そうだろう?」
 なにか嫌な予感がして、シンジはこそこそとお尻から下がろうとした。その尻が、どんっと誰かにぶつかった。
「きゃ!」
「あ、ご、ごめん!」
 慌ててふりかえり、どうしてこうなるんだろうと硬直する。
「マナちゃん……」
 向こうも驚いているようだった。
 ──人は、時に幾ら考えても思い出せなかったことが、ひょんな拍子に形となって、思い出せることがある。
 マナにとっては、今がまさにそうだった。マナちゃん。……懐かしい響き、呑気そうで、どこか意識して警戒している。懐かしい顔。
 二つの情報が、きちんと一つに組み合わさった。だが、邂逅はまさに一瞬だった。
「警報!?」
 ウウウウウーっと、街中にけたたましい音が鳴り響いた。

フェイズ2

 ネルフ本部は、酷い騒動になっていた。
「三十二分前に突然現れました」
 続けてとミサトは促した。
 メインモニターに、異質な使徒の姿が大写しになる。
 中央から、左右に広がるアメーバ状の怪物。目のような模様にはどのような意味があるのだろうか? その体組織の色には?
 無意味に派手で、気持ちが悪い。
「……こりゃ凄い」
「常識を疑うわね」
『目標に接触します』
 二機の衛星が、漂う使徒を挟み込む。
『解析に入ります』
『データ送信』
『受信確認』
 衛星軌道上に待機させている衛星は三つあった。使徒へのアプローチに二つを使い、残りの一つですべての様子を観察している。
 ──ベシッ。
 異音が聞こえた気がした。観察に用いている衛星からの映像である。カメラの向こうの衛星が二機とも歪みはじめた。壊れていく、と、カメラ衛星もなにかしらの力を受けて、破損した。
 ガッと、ノイズだらけの画面になる。
「……なに?」
「ATフィールド、新しい使い方ね」
「ま、ああいうのもありか」
 コーヒーを嗜みつつ、呑気に語るリツコに付き合い、ミサトもまた気楽な調子で応じてみせた。
 シンジと初号機という、異質な存在を抱えていれば、いいかげん達観したくもなるだろう。
「次の映像を出します」
 シゲルが操作して、地上から撮影した映像を出した。青空になにかが走った。落ちたのだ。
「なにが落ちたの?」
「使徒の一部です」
 望遠映像、両翼とおぼしき部位が分裂して別れ、身を軌道上から海上へ落とした。
 別の衛星からの映像……海だ。円形に波が広がっていく。潮の立ち方から、凄まじい高さの津波だと知れた。
「大した破壊力ね」
「落下のエネルギーだけじゃなくて、ATフィールドも使用していると思われるわ」
「使徒そのものが爆弾か」
 マコトが情報を補足する。
「初弾、次弾ともに洋上に落下。ですが確実に誤差修正を重ねています」
「なんでも、これで起きた津波のせいで、また艦隊が一つ沈んだそうよ」
 唸り声を上げるミサトである。
「NN高空爆雷はどうだったの?」
「効果は認められずよ。使徒は軌道上に静止したまま、小揺るぎもしていないわ」
「以後は消息不明です。ATフィールドによるジャミングだと見られていますが」
「あんなに大きなものを見失うだなんて」
 リツコに振った。
「ありえるの?」
「体の色がポイントね」
「え?」
「派手な色で印象つけておいて、保護色に変化する。あるいは透明になる……」
「そういうこともできる使徒か」
「そうね、だからこそ今までの使徒に比べて、ああも構造が単純なのかも」
 色には二種類のものがある。一つは光の反射の仕方によって決まるもの。一つは物体そのものが持つ色素から決まるものである。
 リツコは使徒の迷彩能力を、後者に分類されるものだとして読んでいた。
「全身に流している微弱な電気信号を変化させることによって色合いを変化させるのよ」
「じゃあ、今は黒に?」
「いいえ、無色透明ね」
「そんなのありぃ?」
「生物界では珍しいことじゃないわ。それに、気配を断つって言葉もあるくらいだしね、仮死状態に近い状態にまで代謝機能を落とせば、当然、色を作っていたエネルギーもカットされてしまうわけだから」
「見つけるためには、軌道上に色付きの煙でもまくしかない……か」
 でもとリツコ。
「見つけるより先に、直接来るでしょうね、ここに」
 ミサトはううむと唸りをあげた。
「その時は、第三芦の湖の誕生か」
「富士五湖が一つになって、太平洋と繋がるわ。本部ごとね」
「そしてこんな重大な時に、司令は洋上で行方知れずか」
「そろそろ、南極に到着する予定だけど」


「原罪の地、南極か」
 ここはかつて、そう呼ばれていた大陸のあった場所である。
 現在の南の極は、ここから数千キロばかり離れた位置に移動している。呼称が改められるまでには、まだ数十年が必要だろう。
「まるで血の海だな」
 塩の柱が屹立し、赤い潮が広がっている。
 生物の影は見られない。そのような場所を、数隻の艦が身を寄せ合って進んでいた。
 ──国連所属の艦隊である。
「二度と来たくはなかったよ」
 コウゾウは軽く落ち込んでいた。
 二人が立っているのは、旗艦の艦橋、それも最上階にある展望室だった。
 すべてを見渡せるこの贅沢な空間を、たった二人で占有している。
 ……あるいは、隔離されているのか。
 国連の人間にとって、ネルフの総司令と副司令の二人は、決して招き入れたい客分などではないだろう。
「すべてはここから始まったのだな」
「ああ……」
 さすがに感慨深いものがあるのか、ゲンドウは応じた。
 ──使徒。
 かつてこの地に、異質な大規模地下空間が発見された。そしてそこに異形の怪物が眠っていた。
 その怪物には意識があった。思考波のようなものが検出されたのだ。そして人は無謀な試みを行った。
 怪物に対して、交感実験を行ったのである。その結果……。
 ──セカンドインパクトが引き起こされた。
「酷い話だな」
 ゲンドウは彼の感傷を鼻で笑って切り捨てた。
「人は己の満足感を満たすためだけに生きるような着物だ。やつらは己の心地好さを優先したにすぎん」
「その結果がこれか」
 十五年を経てもなお、命の欠けらすら根付かぬ海。
「わたしにはここまで身勝手になることはできんよ」
「それは結果しだいだ。連中とて、ここまでの惨状は予想していなかっただろう。それは我々とて同じだがな」
「惨状か……」
 最初の使徒、アダム。不完全な形で目覚めた彼は暴走し、ついには自己崩壊を引き起こして死んだ。
「このアダムの崩壊現象に引きずられる形で、周辺にあった命は分解を受けた」
「還元現象だよ。ただのな」
 生命、生き物としての殻を紐解かれてしまったのだ。この巨大な現象は辺り一辺の生命に無理やり共振を強制した。
 そして共鳴してしまった命たちは、アダムと共に純粋なエネルギーへと転換されて無形のものに還ってしまったのである。
 南極に生息していた動植物、あるいは永久凍土の下の古生物、そして研究施設にいた人間たちが。
「使徒の固有波形パターンが遺伝子に酷似しているのも当たり前だ。純転換を引き起こしたアダムという名の無形のエネルギー体に、人や、動物、植物の遺伝子情報が、不純物として混ざり込んでいるのだからな」
「使徒共はそれらの影響を受けているというわけか」
「そうだ」
 その一致率が人間に最も近いのは、染色体の数が最も多いのが人間だから、それだけの理由であった。
 ゼロコンマイチイチの差違はやむを得ないことだろう。そこにはアダムの本質があるのだから。そして残りの99.89%は、人の配列を基礎として、様々な生物の構造が無分別に混ざり合い、詰まっているのだ。
 使徒とは、アダムの奇形型の蔑称であった。
「それが真実の一端か……」
「すべてはユイの書いた形而上学理論の、あの論文から始まっている」
「嘘を吐け」
「…………」
「あれはセカンドインパクトの後になって持ち出すことになった論文だろう。エヴァを作らせるための方便として持ち出したものだ」
 にぃっと笑ったゲンドウに、コウゾウは言葉にできない歯がゆさを感じて、にがにがしく口元を歪めてみせた。
 神はいかにして形を得たのか、あるいは神はいかにして形を与えられたのか。
 形のないものを確定するためには、どのような方法が考えられるのか?
 アダム。それは形のない純粋なエネルギーが、形となって固化していたものだった。本来の形はないのだろう。
 形を与えたものが神であるといえた。神話が指し示すとおりである。
 そして神の御技とは、実にすさまじいものであったわけである。還元され、消えてしまうはずであったアダムを成していたものたちに、再びアダムとなるよう強制しているのだ。死すらも許さぬのが神なる者の造形術である。永遠なのだ。しかし復活は完璧な形では行われなかった。なぜなら共に還元されてしまった生き物たちの情報が、不純物となってそこに混ざり込んでしまったからである。
 この『色合い』によっておかしくなってしまったアダムこそが使徒であった。使徒とは不完全な形での顕現を余儀なくされているアダムであるのだ。
 中には生き物としての体裁を整い切れず、そのまま死してしまっている使徒もいるかもしれない……それらはこの海の底に沈んでいるかもしれない。
 そう……使徒とは、気狂いの神である。狂神なのだ。
 その有り様を、正しい姿に戻すためには、狂った形からの解放を与えてやらねばならないのだ。その度にアダムは情報を整理し、整頓し、新たな形へと洗練されて復活して──やがては人となるだろう。
 この儀式を通過儀礼として執り行うためにこそ、人はエヴァを作ったのである。
 神が『降臨』するために用いているのと同じ理屈で……そう、エヴァもまた神の奇形態なのである。
(だが……)
 多くの目的はそこにあるのだろう。しかし、碇ユイ、彼女は違っていたと邂逅する。
 ──人が神に似せてエヴァを作る。それが目的か。
 アダムとは人の根源たる存在だった。最初の人間。最初の神の子。『ファーストチルドレン』、彼こそが人という種が確かに生まれ落ちたのだという証しであった。
 それは決して、失ってはならないものだった。だから。
 ──エヴァを作ったんです。神の代わりのものとして。
 ふっと笑ったのを訝しく思ってか、ゲンドウが訊ねた。
「なにを笑っている?」
「いや」
 なになと。
「この間の停電の時のことを思い出してな」
「…………」
「シンジ君な……やけにうろたえていたぞ? お前、レイとなにをしていた?」
 ゲンドウはぶすっくれて、しらばっくれた。あれ以来、ますますレイに邪険にされてしまっている気がして。
 本当に苛立っていたのである。


 南極。
 その地の底には、何人たりとも触れることのかなわないものが沈んでいる。
 槍である。
 その槍は、許されざる罪を負っていた。その証拠に、穂先から、血をこんこんと流し続けていた。
 引き抜かれた時にまとわりついていたものが、乾くことなく海水ににじみ出しているのだ。それもつきることなく。薄れることなく。
 それは空母の上に引き上げられた時、皆に不吉な予感を植え付けた。
 赤く血塗れていく甲板に。
 ──そんな南極の方角を、高々度から見下ろしている目玉があった。
 目玉は模様なのかもしれないが、その方角は間違いなく南極へと向けられていた。そんな使徒が再確認されたことを受けて、とうとう第三新東京市を、正しくはネルフ本部を中心とした半径五十キロ圏内に、避難警報が発令された。
 ──そのこと自体については、なんら問題のないことだっただろう。五十キロ圏内といわれても、どちらへ向かえば確実に遠ざかれるのか、少々悩んで、迷走したあげくに逆に近づくことになってしまったという混乱も一部では見られたが、それでもおおむね避難は順調に行われた。
 問題は……その避難警告が発令された圏内に、戦略自衛隊の基地が一つ二つ含まれていたことにあった。
 ……たとえばその中のひとつには、ムサシたちのいる基地もまた含まれていた。


続く


[BACK] [TOP] [NEXT]


新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。