扉の開く音に振り向いたミサトは、そこに期待した子供が二人ばかり足りなかったがために、慌てたように喚いてしまった。
「ちょっとレイ! シンジ君とアスカは!?」
レイは知りませんと愛想もなくかぶりを振った。
「碇君の所在については不明です。友人二名に誘われて、教室より姿を消し、以降の消息はつかめていません。セカンドは非常招集を告げるコールの後、そのことに気がつき、意味不明な奇声を発しつつどこかへと姿を消しました。おそらくは碇君を捜しに行ったものと思われますが、後のことはわかりません」
あいつらはっと拳を固めつつ、ミサトは思った。
「……なんでそんなに細かく見てたの?」
これに対するレイの答えはノーコメントであった。
第十六話 やむなく少年は逃亡した
こもった音が途切れることなく聞こえてくる。
それは街中で流されている警報音だった。避難勧告のアナウンスも報じられているのだが、これはさすがに風に流され、かすれてしまって聞き取れなかった。
山の上にある第一中学校は、それだけ街からは遠かった。
今日の避難誘導は、いつもとは感じからして違っていた。クラス単位でまとまっての行動ではない。それは街の外への退避が命じられたからである。よって全校生徒の下校を待って、校内放送を使っての避難勧告は終了されてしまっていた。
「…………」
しかしそこに、二人ばかり人が隠れて残っていた。
一人はシンジで、一人は霧島マナだった。
『ぱぁ!』
二人は転がるようにして、掃除用具入れから飛び出した。
ここは空き教室の一つであった。残っている生徒がいないか、先生が見回りに来たのだが、二人は掃除用具のロッカーにうまく隠れてやり過ごしたのだ。
体を密着させていたためか、酷く不快な汗をかいてしまっていた。二人はそろって、まずはふぅっと息を吐いた。
シンジは襟元を引っ張って、ふぅふぅとお腹に息を吹き入れた。
マナはぺたんと、半ば腰砕けになった状態で、胸元を掴んでばたばたと空気を送り込んだ。スカートをばたばたやりたいな? そんなことを考えて、ふとシンジと目を合わせてしまった。
──どちらともなく、笑いがこぼれる。
あははははっと、昔を思い出して笑ってしまった。
小学校時代、知らないマンションの知らない人の家のインターホンを押し、逃げ隠れしたような記憶が思い出された。
あの時は……そう。階段の中段に身を伏せるようにして、あれぇ? っと首を傾げる家人の様子を窺い、くすくすと笑ったのだ。
たわいない悪戯だった。子供だから許されたような……。
(やっぱりシンジ君なんだ)
マナはじんわりとこみ上げてくるものに、あれっと目尻をぬぐってしまった。
こんなにおかしなことはないのに、なぜだか涙が溢れてくるのだ。
「あれ? あれ?」
左右、それぞれに指で、手の首の近くでぬぐうのだが、止まらない。
「ま、マナちゃん!?」
ぎょっとしたシンジの声がまた懐かしかった。
マナちゃん──。焦る顔が、幼い頃の、おろおろとするばかりだったシンジ君と重なって見える。
「よかった……」
「え?」
「ほんと……よかった。心配してたんだから」
マナは鼻をすすりながら口にしていった。
「シンジ君、急に学校に来なくなっちゃうし。みんなでいじめすぎたのかなぁって謝りにいったら、家、誰もいなくなってるし。それで心配してたらお母さんたちが……」
──碇さん、夜逃げかしらね?
──いえ? 引き払っただけみたいよ。お子さんは施設だか親戚だかに預けて。
──そうなの?
──しかたないんじゃない? 実験に見せかけてユイさんを殺したなんて噂されちゃあ。
「……そんなの、絶対嘘なのに」
「マナちゃん……」
「おじさんとおばさんが仲良かったの、知ってるもん」
「マナちゃん」
「なのに……なのに」
──その実験の時にだけ、シンジ君を立ち会わせていたとか?
──疫病神みたいに思えて、虐待しそうになるからって。
──だから手放すことにしたとかって。
「そうだったんだ……」
シンジは自分が預けられた経緯を知った。
「疫病神か……そうかも」
「シンジ君……」
「僕が預かってくれたおじさんとおばさんも……死んじゃったんだ。自殺したんだ」
ひゅっとマナは息をのんだ。
「シンジ君」
「疫病神か……僕は」
「違う!」
「マナちゃん?」
「そんなことない!」
「そうかな?」
「そうよ! そんなこと言っちゃだめだよ……辛いからって」
「え? ええと……」
「そりゃ……お母さんが死んじゃったのは自分のせいだって思えるかもしれないけど、そんなの……そんなこと絶対にないよ!」
「あ────……」
「そんなの偶然に決まってる!」
……ちょっと生きているとはいえない雰囲気である。
(っていうか……)
さすがのシンジもおかしさに気が付いた。
「なんか変だよ? マナちゃん」
「…………」
「どうしたの?」
マナはスン……スンッと鼻をすすっていた。
「あたしのお父さんとお母さん……死んだの」
「────!?」
「町内会の旅行の事故だったの。みんな……あたしのせいだって!」
なにがどうなってマナのせいになったのかはわからない。けれど……。
「そっか……」
「あたしのせいじゃない! あたしのせいじゃないのに……」
「うん……うん」
胸にすがりつくマナの頭を優しくなでる。
しばらくは嗚咽が止まらなかったマナだったが、やがては固まりかけていた手から、シンジのシャツを解放した。
「……優しいね、シンジ君」
「そっかな……」
「あたしと……同じなのに」
「…………」
感激している様子があれで、よけいに居心地が悪くなる。
「と……とにかくさ」
逃げるように目を逸らしつつ、言い逃れるための言葉を探す。
──実際のところは、どうだっただろうか?
自分の妻を実験材料にし、殺したのではないかと疑われていたのが父だった。そんな噂が存在していたことは知っていたのだが、だがだからといってそれでひねくれていられるほど生活がすさんでいたわけでもなかったのだ。
『なぁんだシンジ? なに拗ねてるんだ? ははははは。アルゼンチンバックブリーカー』
『わぁああああ!』
小学生にこれは怖かった。高いよ怖いよと泣くしかなかった。
万事その調子だったので、拗ねてる暇がなかったのだ。そうして借金に首が回らなくなったおじ夫婦が死んでからは、保護者について詮索されるほど、どこかに長い間落ち着いたことなど一度もなかった。
──ありていにいって、思い返していられるような余裕もなかった。
(悲惨だったんだな)
そう思う。
るるるるーるる、るるるるる〜♪ とさめざめと涙が溢れ出す。
しかしそれもあくまで精神的な話であって、現実の問題としてはさほど重く感じたことはまったくなかった。
空腹という名の現実の過酷さを前にしては、そんなものは些細な問題に過ぎなかったからである。
(食うか飢えるかが先だったし)
人生そんなモンだろうと達観する。
「シンジ君?」
「え!? ああ、えっと」
適当にいいつくろった。
「マナちゃんは……どうしてたの?」
ぎくりとしてこわばった。
「どうして、スパイになんて……」
目を剥くように丸くして、マナはシンジをじっと見つめた。
「シンジ君……」
「はい?」
マナはごくりと喉を鳴らした。
これは訊かねばならないことだった。それを調べるために来たのだから。
「ねぇ……この間、もしかしてあたしをネルフ本部から連れ出してくれたのって」
「僕だけど?」
「そっか……」
そうなんだ……。マナは顔を伏せた。それはそうであって欲しくないという、予感に対する怯えからのことだった。
「ねぇ……」
「ん?」
「もしかして……シンジ君」
顔を上げる。
せっぱ詰まった表情をして。
「シンジ君は……エヴァのパイロット……なの?」
うんという頷きに、マナは衝撃に目を見張って、うなだれた。
「ま、マナちゃん?」
あたふたとするだけのシンジである。そんなシンジに、マナの心境など読みとれるはずもなかった。
彼女はこれまでの自分の境遇を重ね合わせて、彼の上に落ちた不幸の星の大きさを想像してしまったのだ。
(そうなんだ……)
考えは泥沼の中へと落ち込んでいく。
自分は悲惨だと思っていた。家族が死んで、こんな風に望んでもいない反射神経……反射速度を得られるように、薬物投与と訓練を課せられ、改造されて。
もう二度と普通には生きられない──、そんな風に泣いて過ごした夜は幾度もあった。
それでも強く生きるためには、負けない力が必要なのだと慰めた。自分で、自分を。
──シンジもまた、そうなのだろう。
先日の不可思議な体験はなんだったのだろうか? シンジもまたネルフによって改造されてしまったのかもしれない。
──それは怖い考えだった。
──そのちょっと前。
自宅へと急ぐ子供たちの中に、彼らの姿も紛れ込んでいた。
「なぁ……」
「なんや?」
ケンスケとトウジの二人組である。
「あの子……シンジのなんだったのかなぁ?」
知るかいとトウジはふてくされた様子で唇を尖らせた。
「どうせネルフがらみのなんかやろ」
「いや、俺が思うに……あれはファンだな」
「ふぁん!?」
「そうさ! だってあれでもシンジはエヴァのパイロットなんだぜ? 世界的英雄なんだよ! だったらファンの一人や二人いたっておかしくはないじゃないか」
「そうかぁ?」
「か────! なんってうらやましいやつ! きっといまごろあ────んなことやこ────んなことなんかを」
「へぇ……」
「絶対そうだぜ!? 最初わかってなかったのは聞いてたイメージとシンジとが重ならなかったからだよ!」
「でもどうしてシンジ君の顔を知っているのでしょうか?」
「そりゃもちろん俺が……って山岸!?」
「はい?」
にこにこと背後に立っていた。
気づかなかったのは校門の陰に隠れていたからだった。シンジが出てくるのを待っていたのだ。張っていたともいうのだが。
そんな彼女はじつにしとやかな笑みを浮かべていた。しかしケンスケとトウジは見てしまった。
メガネの反射光の奥にある細められた瞼の奥の瞳が、まったく笑っていないのを……そして鞄を提げ持つ両手拳に、かなりの力が込められているのを。震えていた。
「さあ、続きをどうぞ」
「いや、あの」
「ところであ────んなこととかこ────んなこととかいうのは、具体的にはどのようなことを指し示すのでしょうか? 『わたくし』そのようなことがらに関しましてはとんと疎いものでしてよくわからないのですが」
ごまかさなければ──本能的にケンスケはそう思った。
妄想をそのまま伝えると、きっとすごいことになる……その凄いことというのがどのようなことなのかはわからなかったが、なぜだかケンスケはそんな気がした。
──合掌。
「シンジ君……」
マナはすがるような目をして口にした。
「お願いだから……エヴァを降りて!」
「え!?」
「エヴァにはもう乗らないで! ネルフから離れて……そうすれば」
「な、なんだよいきなり、なにいうんだよ……」
「だって……」
困惑するシンジにさらにせがむ。
「そうしてくれれば……あたし、シンジ君に」
憎まれなくてすむ。
嫌われなくてすむ。
そういいたかったのだろう。だがシンジはそっとかぶりを振って拒否をした。
「どうして……」
絶望的な彼女の問いかけに静かに答える。
「だって……生活費が」
「生活費?」
「あ、いや、じゃなくて」
これはちょっと情けないかとごまかしてしまう。
「父さんがさ!」
「お父さん?」
「うん。父さんに乗れっていわれてさ」
マナははっとした。
──ネルフ総司令。
碇ゲンドウ。それが誰の父親なのか? そのことを考えれば、逃げだそうにもどこにも行き場などはないのだ。
──マナは蒼白になってしまった。
シンジの父が妻を死なせたという実験のことは知っている。その男がネルフの総帥だというのなら、死亡させた実験とは、すなわちエヴァがらみのことでしかありえない。
シンジはそのことを知っているのだろうか? ──知っている。マナはシンジの瞳からそれを読みとってしまった。
とても説得できないと顔を伏せる。そんな彼女に、シンジは訊ねた。
「マナちゃんは?」
「…………」
「どうして……スパイなんて」
「それは……」
「やっぱり……エヴァとか盗みに? それとも」
──僕を?
「違う!」
マナは弾けたように立ち上がって否定した。
「違うの! シンジ君っ、あたしは……」
もういいよ……シンジはそういってマナを制した。
「シンジ君……」
マナは泣きそうな顔をしてシンジを見つめた。
仲の好かった幼なじみを陥れようとしていた……その罪悪感が、マナの胸を締めつける。
お母さんっ子だったシンジ君。お父さんが大好きだったシンジ君。
そのお母さんの遺物を盗もうとしていた自分。お父さんの敵。
(それが……あたし)
マナは崩れ落ちそうになってしまった。しかし。
(やっぱり……口にしちゃいけないって脅迫されてるんだ!)
──やっぱりシンジはシンジであった。
シンジの脳内では、急速に一人の可愛そうな女の子の物語ができあがりつつあった。それは次のようなものであった。
女の子に対する洗脳の仕方は、基本的に性に準じたものである。シンジは知っていた。中学生付近の少女は、精神的にはもろくとも、神経はとても図太くできあがっている生き物なのだということを。
どれだけなぶられ苦しめられても、体は状況に順応し、適応して生き抜こうとしてしまう作りを持っているのだ。
(ミサトさんだって、適応しちゃったくらいだし!)
ここで知っている人を引き合いに出して青くなる。もちろん彼女が地下室に連れ込まれた時の声までもリフレインしてしまっていた。
──その声が、マナの声となって内耳に響いた。
痛い怖い助けて許して。最初は救いを求めるのが常である。しかし助けが来るはずもない。
それがわかってくると、今度は自己防衛本能が働いて、神経を自己の分析へと向け始めるのだ。
悪いのは誰だ? いけないのはどうしてだ? 今の自分はどういう状況にある?
そしてそのような『作り』を利用して、人は人を洗脳するのだ。
──例えばなぶりものにして恐怖を与える。
しかしながら暴力は最低限にとどめる。反抗した時のみに押さえるのだ。それに気づいた時、被害者は暴力をふるわれないように保身に走る。
奴隷としての従順さを示して、なんとか逃れようと考えるようになるのである。
一方で心に対しては、これは仕方のないことなのだといいわけをしている。だがしかし、加害者はそのような心理すらも利用する。
これは……とはどこまでのことなのか? 徐々に、徐々に、行為をエスカレートさせていく。
快楽も、暴力も、その双方を過剰なくらいに高めていくのだ。
こうして深層心理に恐怖と理解とを刷り込むのである。体験として被害者は、大人しく従っている限り決して傷つけられることはないのだと、これほどまでに優しく可愛がってもらえるのだと錯覚し、そうして生きることを許諾する。
こうなると、被害者は自身の心に一種の暗示を掛けてしまう。二度とあのような状況には戻りたくないという意識をきつく働かせ、もはや自分を取り巻いている環境への疑問などは浮かべもせずに、ただ唯々諾々と従うことを当然とする。
なぜならその疑問を抱いた時、自分はきっと逃げることを選ぶだろうと思うからだ。それは無意識の世界での判断である。
そうなればまたあの痛くて怖い世界に連れ戻されてしまう。意識下でそんな分析が働いてしまって、行動にも思考にも、一定の制約が掛かってしまう。
こうして刷り込み──洗脳は完成を見るのだが……、だがこのままでは役には立たない。これでは恐怖に怯えて隷属するだけの存在を作り上げることにしかならないからだ。
加害者の目的は別にある──洗脳の次は、また別の段階へと進んでいく。
もはや抵抗することを忘れた被害者に、今度は喜びを見いださせるのである。
恐怖心につけ込むのではなく、褒めてやることで能力を伸ばすよう仕向けるのである。
教育と叱責。飴と鞭。この使い分けによって仕込みを行う。しかし思考に重大な欠落を抱えてしまっている被害者には、頭の働きを『奉仕活動』のどこに褒められたものがあるのか? そのことに振り分けるだけの分析力は残されていない。
単純に、褒められて、ご褒美をもらえてほっとする……うれしいと感じている自分を見いだして、これでいいのだと納得し、堕ちていることにも気づかない。
生き物として、そのようになっていく。
これは心が屈服していながらも、死に逃避するほど神経が細くはないために順応を選んでしまう。そのような生き物としての悲しさにつけこむような所行であった。
これでいいのだと気持ちよさの中にまどろんで、そこに安住の地を見つけると、もう終わりである。
『主人』の股間のブツを前にしてしまうと、これからもたらされる快楽と快感を思い出して陶然とし、興奮からか疼きを抑えきれなくなって身もだえをしてしまうようになる。
気持ちよさを求めて、甘えることを当然とし、実行に移してしまうのだ。人としての羞恥や理性はもはやない。
匂いをかいでうっとりとし、それを求めて『飼い主』の膝に半身を乗せて、ナニにほおずりをして腰を振り、おねだりをするようなそんな『生き物』に堕ちてしまう。
それはもはや犬である。人間ではない。
そしてその『至福の時』を手放さぬために、どんないうことでも聞き、こなすようになっていく。
逆らうこと、逃げ出すことなど論外だとして考えない生き物は、もはやタガというものを失っている。
喜びの時を永遠のものとするために、どこまでも歯止めなく壊れていく。それをつくすということだと錯覚して。
……そしてそれこそが、麻薬では決して生成しえない奴隷を作り上げるための外法であった。
(ままま、マナちゃんが、そんな目に!?)
だぁああああっと盛大に汗が噴き出す。それはとても嫌な汗だった。
訊ねてもいいものかどうか迷ってしまう。これはシンジにしては酷く珍しいことだった。
ミサトにすらカタログなどと口にこぼしていたというのに躊躇しているのだから、マナという人間がいかにシンジにとって特別な人間であるのかを物語っていて……そして、マナはマナで、そんなシンジの様子に、自己嫌悪に浸ってしまっていた。
(シンジ君……か)
マナの中ではシンジはいまでも特別な場所に位置づけられている存在だった。
『シンジ君なんて大っ嫌い!』
──マナなんて嫌いに決まってるだろう!?
そんな叫び声が上げられたのは、二時間目と三時間目の間にある中休みのことだった。
『ムサシ赤くなってんじゃん』
『ムサシって霧島が好きなんだ?』
『やーらしー』
マナ……誰かが肩を抱くようにして慰めてくれた。恥ずかしくてうつむいていることしかできなかった。
『シンジ君なんて嫌いっ、大っ嫌い!』
大泣きしてしまった……ムサシに嫌いと口にされたから? それともみんなの笑いものにされたから?
この気持ちを笑いの種にされたから?
その後はもう大変だった。シンジがムサシに大げんかをふっかけたからだ。照れ隠しにでも嫌いと口にしたムサシを許せず、シンジはつかみかかっていった。
……そしてのされた。
泣き出した自分に対して、みんなは優しくしてくれた。ムサシも謝ってくれた。だが事の発端はシンジにあると、みんなそろってシンジが『でりかしぃ』のない真似をしたからだと冷たく当たって……。
──ほんとはお前、マナのこと好きなんだろう?
誰が発したのかわからない指摘によって、今度はシンジが笑いものになってしまって……。
それからしばらくの間、みんなでシンジを無視する遊びが大流行した。
なにかあるたびにクスクスと笑ってシンジをあざけり笑って避けた。遠ざけた。
……涙をこらえて、唇をかんでいたのを覚えている。
そのうちシンジはいなくなってしまった。きっと自分たちのせいだと思った。最初にシンジが……と口にした子もいたのだが、やはり自分たちが悪かったのだと反省した。
──でも、シンジにはもう逢えない。
自分たちはどんな風に思われてしまったのだろう? それを考えると嫌な気分になって眠れなかった。
──そのシンジが目の前にいる。
なのに自分は敵なのだ。
シンジが形見としているエヴァを盗み、そのパイロットの拉致すらも指示されている人間なのだ。
(できるわけないじゃない!)
マナは使命と心情との間で、板挟みとなって苦しみにあえいだ。
フェイズ2
「ああ……ちくしょう、シンジのやつぅ」
ぶちぶちと口にしながらアスカは発令所へと現れた。
「アスカ! なにやってたの!」
「ああ!? なんでもない! ミサトには関係ないでしょ!」
「関係ないって……使徒が来てんのよ!? 関係ないわけないでしょうが!」
「使徒なんかちゃっちゃとやっつけてやるわよ! それよりシンジはまだ見つかんないの!?」
「使徒なんかって……あんたねぇ」
きりきりとこめかみが痛んでくる。思わず偏頭痛を覚えたミサトである。
「あんた一度のミスが人類の滅亡に繋がるんだってことわかってるの?」
「わかってるわよ! で? 使徒はどこなの!?」
はぁああああ……ミサトは深いため息を漏らした。
「あんたの相手は使徒じゃないわ」
「は?」
「戦自よ」
「へ?」
「正確には戦自から奪取された巨大兵器があなたの相手よ」
アスカの脳にその意味が浸透するまでに、実に三秒の時間が必要とされた。
「えええええ──────!?」
──警報音が鳴り響く。
「ムサシ!」
非常時のマニュアルに従って、兵員、装備が移送される。戦車、飛行機、ヘリは自力で、あるいは輸送車によって陸路を、あるいは輸送機によって空路を行く。
慌ただしく戦車やジープが走り回る中を縫うように走って、ケイタはムサシを呼び止めた。
「どこに行くのさ!」
「決まってるだろう!?」
彼は精悍な顔に、決意を滲ませて口にした。
「マナを助けに行くんだよ!」
「つまり……こういうこと?」
今度はアスカが頭痛をこらえる番だった。
「衛星軌道上に使徒を発見。その使徒は高々度からの攻撃を行ってくるために第三新東京市を中心とした数十キロ圏内に非難警報を発令した。その中には戦自の基地が含まれていたんだけど……」
「向こうの事情はまだわからないわ」
「とにかく極秘開発されていた兵器が何者かによって強奪され、そんでもってこの街を目指してやって来ていると」
「そういうことね」
「その連中との通信は?」
「戦自が妨害してるのよ……亡命を阻止するつもりか、あるいはよほど正体を知られたくないのか」
「うさんくさい話ねぇ……」
「機動兵器の大きさはエヴァに匹敵するものよ? まあATフィールドを貫通できるほどの兵器は搭載されてないみたいだから問題ないでしょうけど……」
「その情報って、どこから?」
「戦自」
はっとアスカは笑い飛ばした。
「そんなのアテになるわけないじゃない!」
「なのよねぇ……」
はぁっとミサトはため息をこぼした。
もしそんな兵器の開発に成功していたとしたら? 果たしてその情報をネルフに漏らさず伝えるだろうか? 当然詳細は伏せようとするだろう。
「そういうわけでね……、やたらと扱いの難しい問題になっちゃってるのよ。相手になる機動兵器との交渉も必要になるし、戦自との駆け引きも頼まなければならないしね? こんなこと、シンジ君やレイにはちょっとね」
「だからってあたしがそっちを押さえてる間に使徒が来たら」
「その時はアウト」
「使徒を優先したら?」
「その時は機動兵器の跳梁を許すことになるわね」
「シンジが見つからないんじゃ……」
「使徒はアスカにやってもらうしかないわ。だとするとロボットの扱いをどうするかなんだけど」
ミサトはくやしげに歯がみした。
「司令がいない今、一応責任者はあたしってことになってる。それでも戦自とかけ合うことはできないのよ。あたしにはどうにもできない。それでも策を取るとすればただひとつ」
「破壊……」
「そうよ」
重々しく頷く。
「機動兵器を殲滅するわ」
「だけど!」
「使徒が来てる今、第三新東京市の外にまでこちらの裁量権は広がっているわ。作戦行動中に不穏な動きを見せる機体が現れたのなら、それの処分もこちらに決定権がある」
「けど……相手は人間なのに」
「でも目的は不明よ。そうでしょう?」
「…………」
「エヴァが負けることはないわ……必ずしも倒す必要はないけど、でも強奪犯の行動いかんによっては躊躇することすら許されなくなるのよ。やってくれるわね?」
脅迫じゃないかとアスカは唸った。
「了解! でも現場の判断でやらせてもらうからね!」
「……わかったわ」
ミサトがアスカのわがままを許したのは、それが互いに譲歩しあえる限界点であると感じたからだった。
「シンジ君……」
シンジは街の様子を気にし始めていた。
「いかなくていいの? ネルフに」
「……アスカがいるから」
「アスカ? セカンドチルドレンの?」
「うん」
「仲がいいんだ……」
「うん。友達だからね」
「そうなんだ」
シンジははてなとふりかえった。
「どうしたの?」
「なんでも」
「…………?」
マナちゃん──ほっとしているよな? それでいてむくれているのだが、シンジにはなぜそうなるのか理由について思い至ることができなかった。
また新しく警報のような音が鳴る。
それは青い巨人の現れる合図であった。
山の方だ。窓から覗いて右手である。山の斜面が内側に引きこもるように消えて、代わりにその中からエヴァンゲリオン零号機がせり上がってきた。偽装された出撃口だったのだ。零号機は歩き出し、指定されたポイントへと向かおうとした。
あれっとシンジは窓から身を乗り出して他を探った。
「アスカは?」
出てくる様子が全くない。
どうしたんだろうかといぶかしがる。
やはり弐号機の姿は見つからなかった。
その時だった。
──コクピットの中。
レイは気を惹かれたような感じがして、なんとなく学校のある方角に目を走らせてしまっていた。
──人影が見えた。
誰かいる。レイの意識が知覚した瞬間、エヴァンゲリオンのサブコンピューターが反応していた。
レイの希望通りに人影らしい者を拡大し、ご丁寧にも注釈を表示してくれた。
『シンジ君!?』
そんなミサトの声が聞こえるはずもあるまいに……。
シンジはなぜだか身を翻して逃げ出すような素振りを見せた。
──これに激怒したのはアスカであった。
ぶちんとこめかみの血管を切って、あんの馬鹿! っと大声で叫んだ。
……エヴァからの発声は、ケージの構造物を震動させた。
「待てやコラァ!」
シンジは必死に逃げていた。
「なんで追いかけてくるんだよ!?」
「お前が逃げるからにきまっとるやろ!」
右手はマナを引っ張っている。
「そっちが追いかけてくるから悪いんじゃないか!」
「だったら話くらい聞けよ!」
「やだよ!」
──不用意に窓から外を覗いたのがいけなかった。
シンジを見つけたのはレイたちだけではなかったのだ。校舎のどこかにまだいるはずだと、なぜだかかたくななまでに主張するマユミに負けて、彼らはしぶしぶ捜索していたのである。
『あっ!』
声を発したマユミにつられて顔を上げ、二人はシンジと目線をあわせた。
『シ……』
唐突なことだったので、突っかかるようにトウジは声を発しようとした。そんな様子になにかの不審を抱いたのか? シンジは咄嗟にまずいと判断して逃げ出したのだ。
『ふふふふふ……』
ぞくりとした二人であった。
マユミは見たのだ。
シンジの背に乗っかるようにして、女の子が顔を覗かせていたのを。トウジとケンスケが見るよりも早く引っ込んだが、マユミははっきりと見てしまっていた。
(こらぁあかん)
そう思ってしまった二人である。
彼らにしても、シンジを捕らえるような真似はしたくなかった。もちろん面倒だからである。しかし二人は知ってしまっていた。転校生──マユミがやってくると知って、のぞき見をしに行って、不用意に彼女の暗部に触れてしまっていた。
マユミは複雑な事情を抱えているようだった。それを知ってしまっているから、あまり邪険にもできなかったのだ。
放置すると、どこまでも思い詰めて……刃物でも持ち出してきて、大変なことをしそうな感じで。
──なんでわしらが? 知らんわ。そういって見なかったことにするのは簡単だったが、それでは後味が悪くて、どうにも見放すことができなくなってしまっていた。
そんな心理があるからか? 根気で勝てるはずもなく、結局、わかった、わしらも捜したるからと、そう口にすることしかできなかったのだ。
どうして世間に対して弱点的な弱みを持っている彼女に対して、こうも下手に出なければならなくなってしまっているのか?
二人はもう、面倒だからと考えないことにしてしまっていた。なぜなら彼女にシンジをわたしてしまえば、すべて万事まるく収まってしまうからである。
──実に薄情な二人であった。
──障害物のない廊下を駆け抜ける。
と……シンジは先の廊下を上がってきた少女とぶつかった。
「きゃ!」
「わ!」
咄嗟に『加速』を使うシンジである。
マナを左腕に抱えるようにしてくるりと反転し、さらにマユミを右腕で庇うようにしてしりもちをついた。
「大丈夫か!?」
「シンジ!」
二人がおろおろと声をかける。
「あいったぁ……」
「シンジ君!」
マナははっとして飛び離れ、上半身を起こそうとするシンジを手伝った。
(ん?)
黒髪の女の子が、シンジのお腹から体を起こす。さらりとながれた髪の間に見えた口元が、かなり緩んで見えたのは気のせいだったのだろうか?
「シンジ君……」
マナは彼女が出した声に錯覚だったのだろうと思ってしまった。それくらいマユミは気遣わしげにシンジの胸に手を当てて、彼の顔をうるんだ瞳をしてのぞき込んでいた。
「ごめんなさい……わたしのために」
「あ……ううん。いいんだけど」
でもどうしてここにとぼけたことを聞く。
(こいつは)
(わしらと一緒におったやろうが)
そんな二人の気持ちをよそに、マユミはシンジの胸に体を預けたまま、隣のマナに小首を傾げた。
「あの……この方は?」
「あ……ええと」
言いよどんだことにびくりとマユミは身を固くした。
うなだれるようにして口にする。声が震えていた。
「内緒の方……ですか?」
「ええ!?」
わたわたと言い訳をするシンジである。
「違うよ! 幼なじみなんだっ、幼なじみの霧島さん!」
「なぁんだ」
マユミはパンッと手を打った。
先ほどまでの落ち込みようはどこに去ってしまったのかと思えるような、あまりにもあからさますぎる変化であった。
「でもどうして二人きりで?」
そのままあれぇっと首を傾げる。天然に見えるがそんなわけがない。
(将棋か囲碁か)
ケンスケは思った。
(シンジ……このままじゃ詰まれるだけだぞ)
言い訳をすればするほど、マナとはなんでもないというしかなくなっていく。ケンスケから見てもシンジのいうことは本当のことなのだろうと思えたが、それにしても言い方がある。
むぅっとマナがふくれていく……そういう関係ではなくても、こうまであからさまに否定されたのでは面白くなかろう。
そういうものだ。
「シンジ君……」
ぴとっとはりつくマナである。
「ききき、霧島さん!?」
「マナって呼んでよ!」
「えええええ!?」
「さっきまで、マナちゃん☆ って呼んでくれてたじゃなぁい」
ややや、やめてよ霧島さんとシンジは焦った。どうしてそういうこというの? っと素朴に慌てる。
バチリと二人の少女の視線が火花を散らした。その向こう側にシンジの顔の鼻から上があったりするのだが、こめかみに汗を伝わらせてまったく状況がわからないでいた。
(シンジ……)
ケンスケは思った。
そしてトウジも考えた。
(成仏せいや)
しかし死に神の鎌を握って首を刈りに来たのは巨人だった。
進退窮まってだらだらと脂汗を流しているところに、ズシンズシンと派手な震動音が近づいてきた。まるで下から噴き上げるかのような激震に、四人は一度に転ばされてしまった。
「いってぇ……なんだよもぉ」
狙ったようにシンジの上には少女二人が体を落としていた。どっちが下になるかで足のあたりで懸命に主導権争いが勃発していたのだが、スカートが盛大にまくれ上がっていく様を幸運にも視認できたのはケンスケだけだった。
「おおおおお! カメラ! カメラは!」
げしっとその顔に二人の足の裏が突き刺さった。
『スケベ! ヘンタイ!』
どなる二人。しかしそれを上回る音量で、外から罵声が吐きつけられた。
『こんの……バカシンジぃ!』
窓がビリビリと震えてぱりんと割れた。
「アスカぁ!?」
シンジは両耳を塞いで顔をしかめつつ窓の外を見て仰天した。
窓の外には弐号機の巨大な顔が存在していた。四つの目で校舎の中をのぞき込んでいる。レイと同じ発進口から外に出て、苛立ちのままに飛び跳ね駆けつけたらしい。途中の道には足形が残されている。
アスファルトは割れてくぼみ、ガードレールや電柱は見るも無惨な姿をさらしている。
アスカは弐号機を四つんばいにさせて、首を伸ばすような恰好をとらせていた。校舎にぎちぎちと嫌な音が鳴る。それは弐号機の額が壁を押しているからだった。
「アスカ、アブナイって!」
『なにがアブナイのよ! このエロガキがぁ!』
「エロガキって……」
『使徒が来てるってのにネルフにも来ないでこんなとこでなにやってんのよ!』
「ええっと……それは」
『女の子と抱き合っちゃってさ! それも二人も! こっちは使徒と戦自のロボットなんて色気もなんもないのが相手で……』
「戦自のロボット!?」
アスカはわずかに驚いたようだった。その意志に沿ってエヴァが首を引っ込めるような仕草をした。マナが恐れもせずに窓を開けて身を乗り出したからだ。
大写しになった見覚えのない少女に、アスカは露骨に顔をしかめた。
「あんた誰よ?」
『霧島さん、まずいって!』
「霧島ってだれよー!?」
『シンちゃんってばやるぅ!?』
『フケツ……』
「じゃなくって!」
どうやら混線している模様である。
『いま、戦自のロボットって……それってトライデントのことなんじゃ!?』
『アスカ中継して! ちょっとあなた! どうしてトライデントのことを知ってるの!?』
わかったと叫んだのはアスカであった。
「あんた戦自のスパイね!? そうなんでしょ!」
そしてシンジはいい子であった。
『ええ!? どうしてわかったの!?』
「ってマジなの!?」
『あっ……』
一同、ちょっとシーンとなった。
「シンジぃ……」
「え? え?」
「お前……もうちょい考えた方がええんとちゃうか?」
「なんだよ!? なんでケンスケとトウジにそんなこといわれなくちゃならないんだよ!?」
『だからあんたはバカなのよ! このドアホウ!』
「ど、どあほう?」
『ちょっとアンタ!』
「は、はい!」
『アンタほんとにスパイなの!? なんでシンジと』
「マナ!」
シンジはマナちゃんが捕まっちゃうっと思ったのか、彼女の手を取って駆け出す仕草をした。
「きゃあ!」
マユミが突風に腕で顔を覆う。ケンスケとトウジも「うわぁ」と引き込まれるような感じに転ばされた。
『逃げるなこらぁ!』
立ち上がろうとする弐号機のギチギチという音が怖かった。筋肉なのか特殊素材の音なのか? とても固いゴム質のものがねじれ上がろうとしているような音だった。
ズシンと震動。歩を踏み出したのだろう。トウジとケンスケは起きあがると同時にマユミに駆け寄って大丈夫かと助け起こした。
「山岸!」
「……シンジ君は」
「逃げた……みたいやな」
「そうですか……」
がっくりとうなだれる。気落ちしているようにも思えた。しかし二人は聞いてしまった。
ちっ……っと舌を打つ音を。
続く
新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。