「だからシンジはどこだっつってんのよ!」
 何があったのかと思うような破壊の跡を、さらに何があったのかと困惑してしまうような形相をしてやってきたアスカに対して、ミサトたちはまともな答えを返せないでいた。
「だからぁ……、シンジ君、消えちゃったのよ」
「なんで!? どこに!? どうやって!」
「わからないわ」
 リツコが引き継ぐ。
「本部に侵入した使徒を倒すために、わたしたちはシンジ君を頼ったの。確かにシンジ君は使徒を倒してくれたんだけど……」
「その時に発生した爆発に巻き込まれたか……逃げたのか」
「とにかく、その後、消息がつかめていないのよ」
「レイごとね」
 ──ぴくりと反応。
「レイって言った? 今」
「ええ」
「レイって、なんで?」
「……あの子、シンジ君の後を追っていたはずなのよ」
「最後に確認されたのは、爆発の瞬間になるわ。……ここ」
 メインモニターに表示する。
「シンジ君の真後ろよ」
 アスカはひくりと引きつった。
 それはなにか……心当たりがあると言わんばかりの反応であった。


第二十一話 でも浮かれすぎてたなと少年は落ち込んだ


「使徒の侵入を許すとはな」
 人類補完委員会は、本部の被害に緊急会議を招集していた。
「セントラルドグマへの侵入を防いだことは評価するが」
「これはいかんよ、君ぃ」
 責められているのはゲンドウである。
「使徒侵入……それは良い。しかし撃退の方法に問題がある」
「碇君、君は息子になにをしたのかね?」
 ──答えられるはずがない。
 ゲンドウとても知らないことなのだ、シンジのことは。
「まあ、良い」
「議長?」
 訝しげな視線を向けられても、キール・ローレンツは取り合わなかった。
「いやらしきは使徒の戦略だろう」
 一同にどよめきが起こった。
「使徒が知恵を身に付け始めたと?」
「そう見るのが妥当だ。しかしそれすらも葛城レポートの範疇にある」
「葛城レポート……」
 皆一様に嫌そうな顔つきになった。それはあまりにも人を小馬鹿にした怪文書であり、みな一笑に伏した覚えがあったからである。
 葛城レポートとは、葛城ミサトが作戦部所属を目指して受けた昇進試験に置いて提出したものであった。
 葛城ミサト……彼女が本部作戦部長の職に抜擢されることになった最たる理由がこのレポートにはある。およそ思いつく限りの怪獣・怪生物・化け物・妖怪についての形容と能力、そして対策をとりまとめたものである。
「幸いにも、レポートに唯一欠けていたATフィールドについての考察も、今では盛り込むことができるようになった」
「しかしあれは三流文献のようなもの……信じるわけには」
「むろん当人とても昇格試験の際に困って書いたと口にしている。だがいやらしさの面においては此度の使徒と同程度であろう? 事実似たものについてもまとめられていた」
「ならば作戦部長には、最初からこの展開についての事前発想があったと?」
「……それを読み、息子を強化兵士に改造してまで対抗処置を施しておいたのには関心せんがな」
 このキールの言葉は、非常に大きな効果をもたらすことになった。
 先を見通す作戦部長と、それを信じ、最も信用のおける息子を最強の兵士にしてしまう男の狂気。
 彼らはそのように読みとったのだ。
「と、とにかく!」
 焦りからか舌がもつれた。
「これからも頼むよ? 碇君」
「うむ……。本部修復予算については、こちらでなんとかしよう」
「わかりました」
 皆が消える。ゲンドウは訝しげに顔を上げた。いつもなら続いて消えるはずの議長がまだ残っていたからだ。
「碇」
「はい」
「お前に会わせたい人物が居る」
「…………」
「彼女だ」
 キールの背後に居たのだろう。足下から徐々にその姿が光の中に入ってくる。
 もちろんそれは合成された映像であろうが……ゲンドウはまさかと目を見開いた。
 瞳を丸くし、立ち上がり叫ぶ。
「ユイ!?」
 ユイはにこりともせずに、挨拶を返した。
「おひさしぶりですね……ゲンドウさん」


 ──発令所。
 ゲンドウが予想だにしなかった人物との邂逅を果たしていた頃、発令所ではアスカが事情を説明していた。
「じゃあ……シンジ君は無事なのね?」
「ええ……」
 ぎりぎりと歯を噛み鳴らしている。
「あの馬鹿から電話があったのよ! ついさっきね!」
 マヤ……とリツコは確認を指示した。
「はい! ありましたっ、通話記録です!」
「作戦部第一課部長権限で許可しますっ、再生して!」
 シンとなり、皆スピーカーからの声に耳を傾ける。
『はっあ〜〜〜い♥ シンジ? 話は終わったの?』
『…………』
『ちょっとシンジ?』
『アスカ……』
『シンジ? なによその声……あ、うまく話せなかったのね? しっかたないわねぇ……それじゃああたしが』
『ごめん。僕のことは忘れて欲しいんだ』
『へ?』
『お願いだから約束して』
『ちょっとシンジ……あんたなに言ってんのよ?』
『いいから! お願いだから約束してよ!』
『シンジ!』
『お願いだから! 誰に何を聞かれても、僕のことなんて知るわけないって言うんだよ!? 関係ないって、じゃあ!』
『ちょっとシ──』
 ──通話はここで終了している。
「記録は十一秒です」
「時間は?」
「爆発の後です」
「はっあ〜〜〜。生きててくれたのね」
「だとすると妙ね? なにこの台詞は」
「まさかまさかまさかまさかまさか」
 アスカは蒼白になって立ちつくした。
 一体なにを想像しているのだろう? 発令所の一同は首を傾げた。
「……あの女、がんばりすぎてへたばってるシンジに介護だ何だって言ってあれやこれやしちゃったに違いないわ! シンジの奴、それが罠だってことにも気づかないで暴走しちゃって、それで責任云々って、あああああ! 嫌っ、想像なんてしたくない! アンナ女にシンジがパンツを下ろされたなんてトコ!」
「してるじゃない」「というか言ってるわね」「フケツ……」
「あ、通信だ」
 一人マイペースにシゲルは塔の上を振り仰いだ。
「副司令」
「かまわんよ、繋いでくれ」
 投げやりに指示する。こんな時に碇はなにをやっているんだ? 会議だとは知っていても愚痴りそうになってしまった。
 ──だがそんな気鬱さも、一瞬にして吹き飛んだ。
 モニタに映った女性の顔に、まさかと思い後ずさる。
 誰だろうとぼんやりと見るミサト、その隣でリツコがぽかんと口を開ける。
 あれは写真だろうか? それともムービー?
 なぜメインモニターに映されているの?
 とにもかくにも、状況が飲み込めずに発令所は硬直した。そんな中でまったく動揺せずにいたのは彼女だけだった。
「ユイさん!」
 大写しになっているその女の人は、アスカに向かって微笑んだ。


「生きていたのか、ユイ」
 ゲンドウは浮かせてしまった腰を落とし、いつものポーズを造り上げた。
 動揺を押し隠すためであるが……長年慣れた姿勢を取ることで、気持ちの切り替えを行ったのだ。
「そうね……そうなるのね」
 そんな妻だった者の言葉に憤慨する。
「だがなぜだ、なぜそこに居る」
 ぎろりと睨む。
「初号機に取り込まれたはずのお前が」


「君は、誰だ?」
 発令所では、コウゾウが疑いの目を向けていた。
 この点においては彼女を偽物とは疑わなかったゲンドウと対照的で、ユイに苦笑めいたものを口元に浮かべさせることとなった。
「碇、ユイです……お忘れですか?」
 老人はますます彼女に疑念を抱いた。
「ユイ君は初号機に取り込まれてしまったよ。死んだんだ」
「ではわたしは誰なんです?」
「……声も顔も、作ることはできるよ」
「ではシンジとアスカちゃんに保証してもらいましょう」


 ゲンドウは驚きに目を見開いた。
「シンジにアスカだと?」
「ええ。あの二人を鍛えたのはわたしですから」
 そうだったのかと彼は身体から力を抜いた。
「なのに……俺は無視か?」
「死んだと思っていましたから」
「なに?」
 困ったようにはにかんだ。
「とっくに死んでいると思ってたんです……あなたたちは」

 コウゾウは聞かされた話に仰天し、完全に自分を見失ってしまっていた。
「初号機の中の世界だと?」
 はいと頷く。
「概念としては向こう側の世界です。ATフィールド、絶対境界。その内側には世界があります。そう……内向きにどこまでも縮小し続ける世界がね?」
 なるほどと返す。
「……裏返して見ればそれは無限に広がる世界であり、そちらから見ればこちら側こそが無限に縮小するモデルである……か」
「あくまでも概念的なお話ですけど」
 にっこりと笑む。
「実際にはどちらも表であり、裏でもあります」
「君はその世界に落ちていたというのか?」


「そうです」


 ユイは頷き、肯定した。
「死んだのはお前だ。俺ではない」
「それはあなたの視点での話よ。わたしは初号機の持つ世界の中で何千年と過ごしたわ」
「なんだと?」
「何千年……」
 とても遠い目をしてユイは語る。
「酷く長いだけの、とても孤独な時間だったわ。でも外との時間差がわからなかった。時の流れの差がわからなかったの……。でも少なくともわたしの知る人がみな年老いて死んでしまった……そう思うくらいの時間は過ぎ去ってしまったのよ」


「それが何千年なのか」


「だから戻らなかったというのかね?」
 コウゾウの言葉にユイは寂しげに口元を緩めた。
「朽ちることすらなくなった身ですから……」
「どういうことだね?」
「老化現象とは、時間に関わる力が作用して起こる現象です。ところがわたしの体は、これの影響を全く受けないものとなってしまいました」
「そんなことが!?」
「エヴァからのフィードバックでしょうか? 強化されたATフィールドが、物理的な……そう、重力、電磁力、核力、弱い力と言った、自然界に置いてもっとも基本的であるはずの四つの力ですらも、はねつけるようになってしまったんです」
「そんな……」
「わたしはこれを解明することに生涯をかけると決めたんです。再び歳を取り、死ねる体となるためにね? その過程で発見した幾つかの理論や法則に基づいた魔術的技能法を、わたしは『術』と称してシンジとアスカちゃんに授けたんです」


「だが初号機は一度壊されているぞ」


 ユイは弱り顔で困ったものだと口にした。
「ええ……。それがきっかけでわたしはこちらの世界に『避難』する決意を固めました……。そして知ったんです、まだ十年と経っていなかったのだと」
「なら……その時に、なぜ、いや」
 首を振る。
「もっと前に、戻ってみようと思わなかった?」
 悲しげにする。
「知りたくなかったんです……本当に、ひとりぼっちになってしまっただなんて、そんな」
「だがシンジに……それがシンジだと気づくことができなかったとしても、お前は言葉の通じる人に出会えたのだろう?」
「はい。ですからまだ人は人であるのだと知りました……けれどもその時にはもう興味を失ってしまっていましたから」
「人……世界にか」
「はい」
「ならばシンジがシンジであると知った後は?」
 表情が硬くなる。
「ゼーレとネルフ……わたしはその所業を知りました」


 ──息を飲む。


「では君は……責めるために」
「いいえ」
「ならなぜ今頃になって」
「シンジとアスカちゃんのことについて、決まったことがあるからですわ」
「あたし!?」
 急に話を振られて、アスカは酷い戸惑いを覚えた。
「えっ、ええと……おばさま?」
 にっこりとユイ。
「よくやったわね」
「しっ、知って……」
 ぷしゅうっと湯気を噴いて赤くなる。
 そんな娘に、ユイはころころと朗らかに笑った。
「だってあの家はわたしの界……つまりわたしの世界そのものなのよ? その中で何かがあったら、わからないはずないでしょう?」
 熱暴走を起こして焼け壊れてしまったアスカに対して、ミサトは怪訝そうに問いかけた。
「ねぇ? アスカ……なにがあったの?」
 答えたのはユイだった。
「アスカちゃんは女になったのよ」
「……え」
「もうちょっと具体的に言うとね? シンジとヤッちゃったのよ」
 あからさま過ぎた。
「どっ、えええええ────!? マジッスか!?」
「マジよ」
「あああ、アスカ! あんたね!」
「仕方ないでしょ!? 好きになっちゃったもんは!」
「まあこういうことは勢いのある時にするのが一番だから」
「あなたそれでも母親ですか!」
「ん〜〜〜、まあ一応そっかな?」
「なんて軽い……」
「まあ何千年も顔合わせてなかったんだからそんな意識薄いしぃ?」
 ぽそりとリツコ。
「……ますます軽い。これがあの碇司令の奥さんだなんて」
「リツコ?」
「なんでもないわ」
「…………?」
「では続きはわたしが話そう」
 ユイに変わって現れた男に、コウゾウ、リツコ、ミサト辺りは表情を強ばらせた。
 ──ゼーレ。
「……キール・ローレンツ」
 主モニターに姿を現した人物のことを、ミサトはよく知っていた。斜に構えた角度から映り、顔には無骨なバイザーを付けてはいるが、『写真』に出ていた彼に間違いはない。
 ミサトは過去に、ネルフのルーツをたぐるべく、昔の新聞を読みあさったことがあったのだ。そこには若き日の総司令と共に、彼に先導される一人の人物が写っていた。彼だった。キールである。
 ──政治結社ゼーレ。
 その名が表舞台に出てきたのは、西暦2002年のことであった。南極への調査団の派遣に際して、資金提供を申し出たのがこの団体だったのである。
 活動そのものは1900年代には確認されていた。実は碇ユイもこのメンバーだった。
 ゼーレはセカンドインパクトを契機にさらなる発展と実行力を手にし、今では国連にまで干渉できるほどの政治力、経済力を有するに至っている。
 (きた)るべき使徒襲来を予見して、国連にエヴァの開発を決断させたのもまた彼らであった。もちろん専門機関としてのネルフを自由にするために、同士として六分儀ゲンドウ──後の碇ゲンドウを据えておくことは忘れてはいなかった。
 元々、使徒研究の母胎となった『ゲヒルン』に出資していたのが彼らなのだから、その影響力が今に生きていても不思議はない。
 それでも今なぜという想いはあった。
「どうして……」
 ミサトのものは、そういった類の驚きであったのだが、その横からの声に、さらなる驚きを与えられてしまうこととなったのであった。
「おじいさま!」
 アスカであった。
 ──おじいさまぁ!?
 ミサトとリツコが目を丸くした。
「アスカか」
「はい!」
「大きくなったな」
 キールはアスカのまなざしになにを見たのか、ふっと笑った。
「お前には……ゼーレ委員議長としての命を下す」
 アスカは身をこわばらせた。
 政治結社ゼーレ。ネルフの創設者……、いや、創始者からの意向である。
 これに緊張しないわけにはいかなかった、なのに。
「アスカ……」
「はい」
 ごくりと喉を鳴らしてしまったのは、なにも彼女だけではなかった。
「お前には……碇シンジとの婚約を命じる」
「…………」
 結構な時間が必要になった。
「はい?」
「これは命令だ。拒否はゆるさん」
「ってちょっと待ってください! おじいさま!?」
「不服か?」
 声が一段階恐いものへと変貌した。
「もちろん相手に嫌がられているというのであれば、この命令は撤回せざるをえないだろうがな」
 にやりというとてもいやらしい笑い方に、アスカは言外のものを読みとってしまった。
(イヤならシンジに嫌われろって? こっちのキモチ見透かしてぇ!)
 今や大事な存在である。嫌われるなどとはとんでもないことだった。
 だがシンジに嫌だと言わせない限りは、これは命令として固まってしまうのだ。自分に拒否権はない。シンジを将来の夫として仕える義務が発生してしまった。
 その義務を放棄したければ、シンジに愛想を尽かされるように振る舞うしかないというのだから、これほど陰湿な嫌がらせはないだろう。
「くっ……う」
 シンジのことは好きだが、服従するような趣味はないのだ。
「それで? サードチルドレンはどこに居る」
 場を異様な緊張感が支配した。

−フェイズ2−

「決して見ようとしないでくださいね……?」
 そう言って奥座敷に妻が消えて数分もすると、ああ、ううん、あはぁんと、妙に扇情的なあえぎ声が聞こえ始めた。
 夫はこれはそういうプレイに違いないとあっさりと我慢を忘れて、「ふ〜じこちゃわぁん♥」と素っ裸になって奥座敷へと飛び込んだ。
 ──しかし、そこで、彼は見てはいけない、真実というものを知ってしまった。
「あはぁん♥ 見ちゃだめぇん!」
 じゅっぽんと、なんと肛門から湯気吹く卵を出産しているではないか。
 男はざぁっと青ざめた、毎夜毎夜、精を付けてくださいね? と、食べさせられていた半熟卵、あれは!?
 ──くらっ。
「ああっ、あなた!?」
 どさりと倒れた旦那様は、そのまま病院に担ぎ込まれ、胃潰瘍と食中毒に苦しんだそうな。


「それでも毎夜毎夜、卵はいかがですかぁって、キィイイイって扉が開くのを、その人は布団を被ってがくがくぶるぶる震えながら耐えてたそうだよ」
 邦題・亀の恩返し──大人のためのアブノーマルな小咄・第七説より。
「あれ? 恐くなかった?」
 シンジはじーっと見つめられて少々焦った。
「おっかしいなぁ……僕、この話を聞いたとき、すっごく恐かったんだけどなぁ?」
 恐いというよりも退()く話である。身の毛もよだつという点では同じであるが……。
 ──奥多摩温泉地。
 セカンドインパクト以前にはそれなりに人の居たこの山地も、今や秘湯に分類されているところばかりである。
 山道はのきなみ土砂崩れにあって潰れてしまっているし、セカンドインパクト移行、市街地の復旧に労力が割かれたことから、このような土地は放置され、一層地盤や山肌に強烈な問題を抱えることとなっていた。
 道を造ろうにも山の表層は倒木混じりの土砂が固めてしまっている。よってとても滑りやすい。落ちやすい。崩れやすい。同様の理由からトンネルも掘れない。
 そのような感じで、地元の者でも知ることのない場所が幾多にもできあがっていた。
 ──洞窟。
 とても奥深い山の中、そこにその鍾乳洞は口を開けていた。
 奥に百メートルほど、天井は三メートルほど、広さは五十メートルほどだろうか?
 一番奥深いところから、お湯が染み出すように沸いている。
 洞窟の入り口から立ち上る湯気を避けるようにして、側には一件の小屋が建てられていた。やけに隙間の多いボロ小屋だった。
「ごめんね……。これ、先生と一緒に造った小屋なんだけどさ」
 ははっと疲れた感じで笑う。
 正面にはレイ。彼女は膝を抱えるようにして座っていた。睨んでいた。シンジは怯えていた。
「ごめん……」
「どうしてこういうことするの?」
「だって知られちゃったから……アスカとのことを」
 シンジはその時のことを邂逅した。


(だめだ、こんなのもう、借金どころじゃないよぉ……)
 シンジはザァッと青ざめた。
「こうなったらもう逃げるしかないか」
 しかしシンジは、ふとアスカのことを思い出してしまった。
「アスカ……」
 ぽつりとつぶやく。
 悲しみがわき起こる。わずか一時間ほど前までの喜びが嘆きへと転換されて、彼の胸を締め付ける。
 しかし、シンジはそれに耐えた。
 耐えなければいけなかった。
 ──携帯電話を取り出し握った。
 もしアスカが……不用意に自分と関係を持ったことを語ったとすれば?
 おじ夫婦の借金が親戚でしかない自分の身に降りかかってきたように……アスカにも、彼女にも行ってしまうかもしれないのだ。
(それだけは……避けないとな)
 ははっと……本当に疲れた調子で彼はアスカに電話を入れた。
「アスカ……」
「シンジ?」
 彼女の声は、まったくなにも疑っていないものだった。
 だからシンジは、言葉を絞り出すのにも非常に大きな労力を要した。
「ごめん。僕のことは忘れて欲しいんだ」
 アスカの間抜けた返事が聞こえた。
 反射的に、彼は勢い込んでしゃべってしまっていた。
「お願いだから約束して」
「ちょっとシンジ……あんたなに言ってんのよ?」
「いいから! お願いだから約束してよ!」
「シンジ!」
「お願いだから! 誰に何を聞かれても、僕のことなんて知るわけないって言うんだよ!? 関係ないって、じゃあ!」
「ちょっとシ──」
 ピッと切って、うつろに笑うしかなかった。
 笑うこと以外に、自分を保つことができなかった。
「はは……好い夢見せてもらったよ」
 格好つけて、あばよと背を向け去ろうとして……。
「あ……」
「…………」
 シンジはそこにたたずむレイを見つけて、そういえば助けてしまっていたなぁと、今になって思い出してしまったのであった。


 ──邂逅を終了する。
「だってしょうがないじゃないか!」
 シンジはだだっこのようにわめき、言い逃れようとした。
「聞かれちゃった以上は仕方ないじゃないか! アスカを守るためには仕方ないじゃないかぁ!」
 シンジは思った。
(みんなこうやって犯罪を重ねていくんだなぁ)
 そしてどん底まで落ちるのだな、と。
「うう……」
 がっくりと跪く。
「ねぇ……綾波さん? お願いだから約束してよ」
「……なにを?」
「僕はアスカに電話なんかしなかったって、アスカに口止めするようなことをしていないって、あのこと、黙っててくれるって」
「…………」
「それさえ約束してくれたら」
「できないわ」
「なんでだよ!?」
「わたしには詳細を報告する義務があるもの」
「義務……」
「そう……それに、どうしてわたしはあなたに誘拐されることになったの? その説明はどうすれば良いの?」
「うう……だから、そこは適当に」
「嘘を吐けと言うの?」
「そうだけど……」
「逃げたのはあなたの勝手でしたことでしょう? なのにわたしに、片棒を担げと言うの?」
「だ、だけど!」
「それでわたしに、なんの得があると言うの?」
「と、得ぅ!?」
 そうよと頷く。
「連れ去られ、勝手なことを言って脅され、あげくに嘘まで吐かされて……。なんの権利があって、あなたはわたしの運命を狂わせるの?」
「運命だなんて……そんな大げさな」
「でも……あなたはただ、嫌なことから目を背けて逃げているだけよ」
「そうだけど……」
「なにも解決しないのに。逃げていても、してしまったことは消えないのに」
「それは……」
「それがわかっているのに、まだ逃げるの? わたしを巻き込んで……他に誰を巻き込むの?」
「…………」
「一人で逃げ続けることなんてできないわ。必ずあなたはどこかで誰かと出会っていくわ。わたしのように……セカンドのように」
「……綾波さん」
「セカンドは、今、どうなっているかわからない……。わたしを黙らせれば問題はない? 違うわ。あなたはただ、納得したいだけよ」
「納得ってなにさ」
「セカンドは口を閉じていてくれるだろう。わたしは約束通りに口をつぐんでいてくれるだろう……そうして憂いを断ってしまいたいだけよ。でも現実は違うわ。あなたの目に見えていないところでは、やっぱりセカンドは問いつめられているかもしれないし、わたしだって」
 碇君……と説得モードを続ける。
「逃げちゃ駄目よ」
 シンジははっとした。
 ──逃げてはいかんぞ。
「嫌なことから目を背けて逃亡しても、あなた自身が忘れたとしても、周りは忘れずに追ってくるわ」
「綾波さん……父さんと同じこと言うんだ」
「……なにを言うのよ?」
「やっぱり綾波さんと父さんって」
「なに?」
「ねぇ、どうして綾波さんは父さんのお嫁さんにはなりたくないの?」
「わたしは、碇司令のことを尊敬しているし、あの人から与えてもらった役割にも満足しているわ……でも結婚は嫌」
「それっておじさんだから?」
「そう……そうかもしれない」
「それとも父さんがMだから?」
「M……なに?」
「マゾ。父さんって絶対マゾのはずなんだ。母さんSだし」
「なんのことなの?」
「……先生が言ってた。恋愛って言うのは、S人(エスじん)M人(エムじん)がくっつくことを言うんだぞぉって」

 遠いどこかの空の下で、『先生』がへーっちょとくしゃみをした。

『良いか? シンジ、良く聞けよ?』
 それもまた逃亡中のことであった。
 かくまってもらっていたホステスに本気で惚れられてしまい、困った末に逃げ出した晩に……、べったりとした赤い口紅によるキスマークだらけの顔を拭きながら彼が語ったのである。
「恋愛っていうのはな、征服欲と服従心が、うまく絡み合うことによって成り立つものを言うんだよ」
 シンジは「なんですかそれは?」と非常にうさんくさげにした。
「つまりだな! 前に言っただろう? 身勝手を押しつけ合うものだって」
「はい」
「でもな? 身勝手を押し付けたって、相手が好意を持ってくれてなかったらどうだ? 知るかって話になるだけだろう? だからSとMなんだよ」
「サドマゾですか……」
「そうさ。俺の言うことを聞け、俺の言うとおりにしろコンチクショーってのと、あなたのために尽くせるのが嬉しいの、あなたの奴隷にしてチョーダイ! ってのがうまくかみ合ってカップルが成立していくワケなんだよ。ちなみに俺をわたしに変えて、あなたを君に変更してもオーケーだ」
 シンジは疑わしげに聞き返した。
「……本当ですかぁ?」
 うむっと彼は胸を張った。
「経験則だ!」
「…………」
「ホントにそうなんだよ! で、だ、それに照らし合わせると、彼女はどう考えてもMだったよな?」
「はい」
「実は俺もMなんだ」
「…………」
「なんだよその目は!」
「ぜったい嘘だぁあああああああああ!?」
 人気のない山の中のがけの上から、投げ捨てジャーマンで放り落とされたシンジであった。

 ──よく生きていたなぁと感心したレイである。

 ……この話から感じ入る部分はそこのところではなかったのだが、生憎と指摘する人間はどこにもいない。
「でもさ……SはSでも、本当にM男(エムオ)なんて気持ち悪くて触るのも嫌だって人もいるからね? ……綾波さんはそっちのタイプなの?」
 レイはぷっと頬をふくらませた。
「知らない……わたしSじゃないから」
「ええ!? Mなの!?」
「Mでもない。その分類の根拠はなに?」
「勘。単なる勘」
「…………」
「でも綾波さんって結構キツイじゃないか……冷たいとこあるし」
「そう……よくわからないわ」
「アスカはMなんだよなぁ……自己中だけど、あれって寂しがり屋の裏返しだし」
「それはあなたも同じことよ」
「え?」
 なに言ってるの? そんな顔をするシンジに対し、レイは辛辣に言い放った。
「身勝手で、わがままで、自分の都合を押し付ける……S。でもあなたはわたしに母親になって欲しいと求めてる。本当のあなたはどちらなの?」


「つかまえました」
 ──本部発令所。
 シゲルが疲れた様子で報告を上げた。
「ファーストチルドレンのビーコンです。マーク完了」
「よくつかまえられたものね……」
「もちろん捨てられてなければの話ですが」
 なんのことかと言えば、レイが携帯しているはずの通信機の内蔵発信器の話である。
「現地には加持一尉が向かうとのことです」
「か〜じぃ? なんであいつが……部署が違うじゃない」
「でも街の外ですからね、保安部や諜報部では……」
「仕方ない……か」
「はい」
 なにしろ治外法権に居住している自分達は、下手をすると外国人も同然なのである。簡単に街の外には出られない。
「ただ車でも無理な場所のようで、時間がかかると」
「どれくらい?」
「四時間以上は」
「そんなに待ってらんない!」
 騒いだのはアスカだった。
「ヘリ出してよ、ヘリ!」
「むちゃ言わないでよ……」
「そうだよアスカちゃん」
 マコトが諭すようにしてアスカをなだめた。
「場所は第三新東京市の外なんだ。理由も無しにヘリを飛ばすことなんてできないんだよ」
「理由ならあるじゃない!」
「それを知られるわけにはいかないだろう?」
「う〜〜〜」
「でも……」
 ミサトはビーコンの発信源と、周辺地図を描く等高線に目を細めた。
「あの子……あんなところでなにしてるのよ?」


「M……僕が?」
 仰天するシンジに、レイはさらにたたみかけた。
「そうよ、あなたはM。Sじゃないの」
「そんな! 僕はMなんかじゃないよ! 誤解だよ!」
 レイはすっと目を細めた。
「あなたはなにを根拠に否定してるの?」
「だって………」
「碇君? これはあなたが言ったことよ。恋愛は二つのタイプが組み合わさることによって成り立つものだと。だとすれば人は二つのタイプに分類できることになる。あなたはわたしに、お母さんになって欲しいと希望を押し付けようとしたわ。そしてそれを拒んだわたしを失望の目をして見るようになった。これは一見Sに見えるわ、身勝手だから」
「そんな……」
「でもあなたが望んだのはSのわたし。だって母は強く、子を甘えさせてくれるものだから……でもだとするとなぜわたしを、母親を望んだの? 甘えたいと思うあなたは本当にSなの?」
「そんなぁ……」
「あなたは本当は甘えたがっている、弱虫なのね」
「じゃあ……じゃあ」
 顔を上げたシンジに対して、レイはわかってくれたかとちょっとだけほっとした。
「僕は……僕は」
 絶叫する。
「やっぱりアスカを好きになっちゃいけなかったのか!」
 ──そっちかい。
 ピキリとレイのこめかみに『』がヒクつく。
「どうしてあなたは、わたしがSだと思ったの?」
「え……」
「お父さんがMだから? そのお父さんに惹かれているように見えるわたしは、サディスティックな性癖を持っている女の子だとでも思ったの?」
「うう……」
「思いこみが激しいのね」
「そうなのかな……」
「わたしを見ようともしないで、わたしのことを知りもしないで、そうであったら良いなというだけで決めつけていたのね」
「そうかもしれない」
「思い違いと……勘違い。あなたのこれまではどうだったの?」
「どうだった……って」
「同じように、勝手に決めてきたことはなかったの?」
「そんなの……そんなのわかんないよ!」
「あなたはアスカがMだと言った。あなた自身もMだとわかった」
「やめてよ! 聞きたくないよ!」
「あなたは」
「うわぁあああああ!」
 シンジは耳を塞いで大声を上げた。
「嫌だ! やめてよ! どうしてそういうこと言うんだよ!?」
「…………」
「良いじゃないか! アスカを好きでも良いじゃないか! 必要だって言ってくれたんだ! 僕に好きだって言ってくれたんだよ! それなのになにがいけなかったんだよ!」
「…………」
「やだ……やだよぉ……なんでそんなこというんだよぉ……」
 ヒックと嗚咽がまじり始める。
「嫌だぁ……綾波さんなんて、綾波さんなんて嫌いだぁあああ……」
 うぁあああん……ついにシンジは泣き始めてしまった。
 上を向いて、必死に両腕で涙をぬぐいながら、ヒック、ヒャックとしゃくりあげた。
「うあ、うぁあ、うぁああああぁああん!」
 号泣する。
「碇君……」
 レイはおろおろとうろたえて右手を伸ばした。
 まさか泣き出すとは思っていなかったからだ。
 対処に困って弱り果てる。……罪悪感が胸にわき出す。
 ここまで責めることはなかったかと。
「碇君……」
 伸ばした手を払われてしまった……。レイはますます動揺し、泣きたいのはこちらだと思いながら問いかけた。
「なぜ、泣くの?」
「だって……だって」
 あんあんと泣きながら言う。
「綾波さんがっ、意地悪だからぁあああ!」
 レイは瞳を丸くした。
「意地悪? わたしが……」
 そうだよぉとシンジ。
「どうして? どうしてそんなこというの? 僕はただ、おはようって、おかえりなさいって、いただきますって、お休みなさいって言える人が欲しかっただけなのにぃいい……」
 うあぁああああん……そんなシンジに愕然とする。
(子供……)
 そう、そこに居るのはまさに子供だった。
 大人びた言動、世慣れた態度に隠されていた、碇シンジの本質であった。
 レイは知らない。しかしシンジの内奥には、預けられた日のことが傷となって残っていた。
 人気のない駅に置き去りにされた、あの日の酷く嫌な光景が。
「ああん! ああん! ああん!」
 ただ、ただ、泣く。
 ついには膝を折り、へたり込んで泣きじゃくった。
(そう……そうなのね)
 レイはようやく真実を悟った。
「わたしを欲しがっていたのは、『あなた』なのね」
 ヒックヒックと泣きじゃくる弱虫。
「あなたがわたしを、欲していたのね」
 レイは膝を曲げ、彼の前にしゃがみ込むと、シンジの頭に胸を乗せるようにして、彼のことを抱きしめた。
「碇君……」
 シンジはもがいて逃げようとする。
 しかしレイは離さなかった。
「なのに、どうして、お母さんだったの?」
 シンジの耳元でささやいた。
「お母さん、に、なって欲しいじゃなく……寂しいのなら、友達になって欲しい、でも、よかったはずなのに」
「だって……だって」
 シンジはもぞもぞと動いてレイを見上げた。
「だって……友達はいなくなるけど」
 おどおどとする。
「お母さんはいなくならないから……」
「碇君」
 胸の奥できゅん♥っと鳴った。
「でも……でも! それでもみんな居なくなっちゃうんだ、みんな、みんな」
「みんな?」
「母さんも、父さんも居なくなった……。先生だって居なくなった、みんな居なくなるんだ、僕の前からは」
 だからと告げる。
「でも綾波さんが父さんと結婚してくれたら……綾波さんの居る場所が父さんの側だったら」
「だったら?」
「……ほんのちょっとでも、おこぼれに預かれたかもしれないから」
 ぎゅっと唇をかみしめる。
「僕は見てきた! お父さんの再婚相手の人に、お母さんって言えなくて、グレちゃってた人とかいっぱい見て来た! でもお母さんって言えるようになった人はみんな優しくしてもらえてた! 嬉しいって……だから」
「でも、ちょっとだけでなくても」
「新しい子供ができたら、用済みじゃないか……嘘の子供なんて、義理の子なんて!」
 それもまたやはりそのような子供たちを見て来たのだろう。
「でも、その間だけでも、僕は」
 ──お母さん、って。
 ゾクリ……レイは潤んだ瞳で見つめてくるシンジに何かを感じた。
 背筋をゾクゾクとしたものがはい上がり、うなじの毛を総毛立たせる。
 初めて味わう感覚……これは一体?
 愛おしい? 違う。
 同情? これも違う……。ではなんだというのだろう? この……。
 性感にも似た嗜虐心は?
「碇君……」
「ごめん……」
 シンジははにかんで離れようとした。
「ずっと我慢してたんだと思う……取り乱しちゃったよ」
(だめ……)
 なにが駄目なのだろう?
「もう大丈夫……だから」
「碇君!」
 レイはシンジを抱きしめたあげくに唇を奪った。
 そして悟った。
(ああ……わたしは)
 この『弱虫』を──。
 思い切り()でたいのだと心中で悟った。
 ──この『子犬』を。
 ふぐっと舌まで侵入させて、レイはシンジを犯しながら思考した。
(そう……可愛いの。このすがるような目、わたしにすがり、泣き、そして庇護を求めるこの姿が……)
 たまらない。
(だから、あのふてぶてしい碇君には戻って欲しくないのね、わたしは)
 十分なほどに時間が経って、舌を動かさずとも必要以上にお互いの唾液が互いの口中からあふれようとした頃、レイはゆっくりと口を離した。
 唇がふやけるほどに熱いキスだった。シンジはまだ唇を薄く開いてトロンとしている。
 レイはそんなシンジに、さらにいやらしく劣情を抱いた。
「碇君……」
「綾波さん……」
 シンジは素直に口にした。
「お母さん……って感じがした」
「────
 深い意味はない、ユイさんみたいなキスだった──と言いたかっただけだったのだが……。
「お母さんは、こんなことはしてくれないでしょう?」
「あん♥」
 女の子のように啼かされてしまったシンジであった。


続く


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