まだ子供だった『自分』は邪険にされている事にも気付かずにわくわくしていた。
これから何が起こるかも知らずに、ただ『秘密基地』のような雰囲気にはしゃいでいた。
大人達が一生懸命『ロボット』を動かそうと頑張っている。
その『操縦席』に座っているのはお母さんだ。
そしていつか『ハカセ』のお父さんに言われて、自分は悪の秘密組織と戦うのだ。
下らない、が、実に子供らしい想像をして心を弾ませる。
期待に満ちた目を輝かせ、その心の昂ぶりを頂点に持ち上げる。
しかし、瞬転。
『心理グラフ反転!』
『暴走しているぞ!』
『シンクロ強制カット早く!』
『ダメだ自我境界線が』
『シンクロ率の上昇、止まりません!』
がくがくと膝が震え、父の叫びに止めを刺された。
『ユイ!』
「わぁああああああああああ!」
悪夢。
それは現実の再考。
追体験。
だが思い出すには余りに壮絶で。
凶悪で。
残酷な。
「シン!」
現実からの呼び掛けにハッとする。
大きく見開いたままの目、その視界に写る景色はぼやけていて……
「あ、うっ、く、あ……」
何も言えない、分からない、だが感じる温もりは確かな物で、だから。
「シン!?」
今はこの温もりに包まれたかった。
NeonGenesisEvangelion act.9
『生と性と正と聖』
翌朝。
「う、ん……」
ホリィは人の気配に身じろぎして薄目を開いた。
そしてドキリとする。
にへ〜っと笑って、レイが顔を覗き込んでいたからだ。
「い〜からい〜からぁ」
満足げに言うレイに動きを止められてしまう、しかしそれ以前の問題だった。
体が重くて持ち上がらない、それは何故か?
シンジが抱き付いているからだ。
それもしっかりと。
「あ、あの、これ」
レイは昨日、シンジがそうしていたように、椅子の背を前にして跨ぎ座った。
はっきり言って言い訳のしようが無い状態だった。
抱きつくだけならいい。
ぬいぐるみや枕の代わりだ。
しかしホリィのシャツはしっかりとまくり上げられてしまっている。
身長体重プロポーションに容姿と全てが十四歳の基準からは並外れて育っているホリィの胸は剥き出しでこぼれ……
なんとその左胸には、シンジがしっかりと吸い付いていた。
「ぁあああああああ!」
シンジが絶叫を上げたのが深夜の三時頃だった。
ベッドが一つしか無い故に、背中を向け合って眠ったのが一時頃。
男女、と言うことでの不安は無いホリィだった、雑魚寝は良くあるし、少々昼間のことで意識し、緊張してはいても、眠れなくなるほどではなかった。
どうしてだろうか?
ともかくも安心し切って眠りに着いていただけに、シンジの絶叫はパニックに陥るに十分過ぎる物だった。
「シン、シン!」
呼び掛けるのに必死でどうしていいのかが分からない。
混乱と困惑に頭が働かず動けない。
どうにかしなければいけないと思うのだが、落ち着く事すら思い浮かばない、絶叫し、喘ぐ姿を前に冷静に対処しろと言う方が無理なのだ。
「シン!」
腹立ち紛れの言葉、呼び掛けだった、だがそれが運良く作用したようで。
「あ……」
叫びが止まる。
「シン?」
しかしまだ目には正気が戻っていなかった。
うつろにこちらを見ただけだ。
「母さん……」
(なに?)
日本語……、だったので分からなかったが、体……、いや、抱きついて、胸でしゃくり始めるシンジに、なんとなくだがレイの言ったシンジの理想像の意味が掴めた気がした。
(だから、体の大きな子なの?)
胸の大きな子だったのだろうか?
泣くために。
(シン……)
「んっ、あ!」
こら!、っと叱ろうとして無駄だと悟った。
シンジが……、人の胸を咥えたままで、もう幸せそうに眠ってしまっていたからだ。
もう、と言う想いと、ふう、と言う安堵、それに何故だかほころんでしまう顔。
何故許してしまえるのだろうか?
分からないなりに、とりあえず片側だけがめくられているのでは苦しいと、ホリィはシャツを全体的にめくって力を抜いた。
シンジを抱き締めるようにして。
恐いはずなのに、第一、自分はそこまでの母性を持っていただろうか?
答えはレイが、持っていた。
んふんふとにやけながらレイは一通りの話を聞いた。
我関せずと朝食のトーストを齧るシンジ、その隣で縮こまっているホリィの姿は、まるでボーイフレンドの部屋に内緒で泊まって、翌朝見つかってしまった気まずさを抱えている様な雰囲気であった。
「にしても、こら、か」
レイが一番気に入ったのはそのくだりであったらしい。
食堂である、人の目はあるのだが、聞き耳を立てられるほど近くに人は居ないので助かっていた。
「シンちゃんに怒れるようになったんだ」
両手で牛乳の入ったコップを持って、足を揺らして喜んでいる。
「ま、順調に育ってるってことね、愛が」
「レイ?」
「はいはい、ホリィの感性がってね」
二人の言葉に、ホリィは怪訝そうにした。
「感性?、わたしの?」
「そう……、動物ってのは本能で危険な相手かそうでないかを見分けるでしょう?、でも人間は鈍いから別の機能で代行するわけよ、それが感性、言ってみれば気を感じる能力もその一種って事、神気とか邪気とかあるでしょう?、ホリィちゃんはそれが感じられるようになって来たってわけ」
「わたしが!?」
「うん、シンちゃんやわたし、それに老師、エヴァ、他にもかな?、これだけ強い存在感に曝されてれば、お仲間さんなんて『刺激』が感じられないっしょ?」
戸惑った、口にされてみればそうだったからだ。
無意識の内に……、彼らを意識する必要が無いと切り離してしまっている自分が居る。
「どうして……」
「答えは簡単、あたし達に比べれば大したことないってのが分かるから危険視してないのよね、自覚出来るレベルじゃないみたいだけど、それでも甘えたいとか泣きたいとか怒ってるぞとか、その程度のことは感じられるようになったから、危険じゃないならまあいっかって、シンちゃんにも気を許しちゃったんじゃないの?」
「じゃあ、夕べのわたしって」
「そ」
にっと笑う。
「シンちゃんがママを求めてるなって分かったから、自然とそう対応しただけ、でも気ぃつけてねぇ、それって結構ヤバいから」
「え?」
キョトンとするホリィに声を潜め、身を乗り出して言う。
「相手が何を求めてるか分かるって事は」
ちょいちょいとホリィの背後を指差す。
「え……」
怪我が治ったのだろう、グリスが他に二人ほど連れて朝食を始めていた。
その目に剣呑な物が見て取れる。
(怒ってる……、シンを?、違う、嫉妬してる?、どうして?)
ぞくりと体を走る感覚、嫌悪感、鳥肌が立つ。
(狙ってる、わたしを!?)
「分かった?」
レイの言葉に我に返る。
「見てる……、わたしの、体」
「そう言う事」
レイは腰かけ直すと、まるで茶でも飲むようにミルクをすすった。
「結構肌が粟立ったでしょ?」
こくりと頷く。
「人間ってのは便利なもんでね、必要ないくらい余計な事まで深刻に考えちゃう生き物だから、鈍感なように作られてるのよ」
「感覚が……、鋭くなってるってこと?」
「そ、これからはもっと鋭くなるよ?、その内流れを読める様になる、もっと進めば操れるようになる、ま、今の状態は一時的なもんだけどねぇ」
「そう……」
「でも男の子なんてみんなそんなもんよ?、あの子だって普通程度に女の子に興味があるだけ、さかってるともっと酷い嫌悪感を感じる、それが人嫌いに発展するのは容易な事、『鍛える』ために師匠が必要なのはそういう事に対するバランスを調整してもらうためなの、どうしてあの『じさま』がここの子達をさっさと育てないんだと思う?、それはね、そう言うバランス感覚が欠如してるからなのよ」
「欠如?」
「そう、多分こんな生活やってるせいでしょうけどね、情緒とか道徳心とかが酷く偏っちゃっててね、感性って言うのは振り子と同じで、両方に揺れる事でバランス取るわけ、でもホリィ達のは天秤なのよ、左右に同じぐらいのものが乗ってるんだけど、後チョット足されたら一気にがちゃんと傾いちゃう、だから誰か、調整してくれる人が必要なのよ」
ホリィは口篭りながら訊ねた。
「それが、シンなの?」
「それは逆」
「え……」
「シンジってほんとは甘えっ子で甘えっ子でママが欲しくて仕方ないんだけど、もう一方で期待するだけ無駄だって知ってるから諦めてんの、夢や幻想なんて追いかけるだけ無駄だって暗示掛けてる、でも本当の気持ちは抑えようが無いから時々噴き出すわけ」
ホリィはごくりと生唾を呑み込んで、我関せずと食事を続けているシンジを見やった。
「ホリィ?」
レイの呼び掛けに驚いてしまう。
「気になるだろうけど……、それは人のトラウマだし、傷でもあるから、不用意に触れると相手を泣かせるだけになる……、ジュンちゃんにしてもそうだよ?、それだけは忘れないで」
どうして、その一言は好奇心でしかない。
『好奇心だけならもっと側に寄って来る、嫌な所まで踏み込んで来る』
ホリィは昨日のシンジの言葉を思い出し、それを戒めとして刻み込んだ。
−ネルフ本部、総司令執務室−
「零号機、改修は順調のようですね」
碇ゲンドウ、冬月コウゾウを前に、渚カヲルは自前で椅子を持ち込み、さらにこれまた自前の保温ポッドから紅茶を注いでリラックスしていた。
「それで、僕に何かご用でも?」
「ああ」
「君にシンクロテストを受けてもらいたい」
カヲルは苦笑を浮かべ、香りを楽しんだ。
「零号機?、それとも初号機と?」
「……零号機だ」
ズズッとすする。
「辞退します」
「何故だ」
「無理ですから」
「テストもせずに、言い切れるのかね?」
「ええ、弐号機であればともかく、零号機と初号機は僕には『合いません』から」
「しかしだね」
「待て」
言い募ろうとした冬月をゲンドウが諌めた。
「渚……、渚カヲル、渚か」
カヲルはにぃと笑った。
「気が付きましたか?」
「そう言う事か」
「そう言う事です」
「碇、何の話しだ?」
置いて行かれたと感じた焦りが窺える。
「ああ……、渚と言う名は資料には記載される事が無かったからな」
「何?」
「南極、白き月での話しだよ」
ゲンドウは力を抜いて語り始めた。
「ゼーレについては今更語るまでもあるまい」
「碇……」
「構わん、彼は全てを掌握している」
渚と言う姓一つが、ゲンドウの態度をかなり改めさせていた。
それだけの影響力があるのだろう。
「ゼーレ、わたしはその一部派閥に対して補完計画を提唱した」
そしてそれは現在、委員会と呼ばれる実行組織を形成している。
「話しはその遥か以前に遡る、ゼーレ、その基部を支えていたのは裏死海文書と呼ばれる謎の怪文書だった、その記述内容を紐解くためにユイが選ばれた」
何を思い出しているのか、暫し黙祷した。
「南極での発掘事業は、南極大陸の凍土の下に何か埋もれているのか、それを確かめるためのものだった、だがそこで発見された巨大空洞に浮かれた学者達は、自分の発見した物が何であるのか気付きもせずに公開した……、当時の情報化社会と呼ばれていた世界はザルだったからな、情報は検閲を受けることなく、全世界の人間に向かって配信された」
「そして、アダムか」
「……本来はゼーレに管理され、表に出る事の無かった物が表に出てしまったのだよ、冬月、お前はゼーレが画策したと口にしていたがな、真実は学者達の暴走に過ぎん、誰が裏死海文書などと言うものの存在を信じる?、その記述から知れる予測を一体誰が受け入れる?、知的好奇心を満たしたいがために、奴等は都合の良い結果だけを思い描き、果てに世界を巻き添えにした」
ゲンドウの目に普段の冷徹な物が戻り始めた。
「激しい思い込み故に忠告も聞き入れられる事が無かった……、これはユイの愚痴だがな」
「ユイ君の?」
「ああ、そして学者連中に夢を見させた男が居た、その名前が」
「渚か」
「そうだ、死海のほとりに住む男でありゼーレを構成する人間の一人であり、そして裏死海文書の持ち主であり、ロンギヌスの槍を提供した男だ、それだけではない」
カヲルを睨むように見る。
そこに男の影を見いだすように。
「アダムへの接触を試み、そしてセカンドインパクトを引き起こした、冬月、南極への調査船団が、アダム回収のためであった事は知っているな」
「後で聞いた話しだがな」
「このアダムにはダイブした男が取り込まれていた」
「それは……」
「初号機と同じだよ」
「碇……」
「サルベージしたとすれば」
「待て碇」
「その姿形は」
「碇!」
ゲンドウはようやく口を噤んだ。
「それ以上は言うな、それより」
カヲルに振る。
「君は弐号機であればと口にしなかったかね」
「ええ」
「何故だね?」
「分かりませんか?」
ニヤリと笑う。
「眠りし者、第一の使徒アダム、彼の住まう楽園を守護し、生命の実と呼ばれる物を守っていたのは四枚の羽根を持つ天使ですよ」
冬月はハッとした。
「南極に眠っていた巨人か!?」
「そして弐号機の基礎母体となった存在でもある」
「だから、なのか」
「ええ」
カヲルはからかうような調子で口にした。
「綾波レイ、彼女と同じと言う事ですよ」
綾波レイ。
とは言っても日本に居るレイでは無く、綾波=イエル=レイ=グラジュエル=二十八世と名乗った方のレイである。
彼女の言を取るならば、碇シンジは極度のマザコンで精神的障害を持っていて時々幼児退行を起こすと言う、正に救い難い病人と言う事になってしまう。
しかし現実は、だ、非常に達観しているように見える。
(何故?)
今、ホリィの頭に浮かぶ言葉はそれだけだ、本質が見えるということはこう言うことなのかも知れない、シンジの態度が子供の強がりにしか見えないのだ。
演技臭い、どこかにぎこちなさを感じてしまう。
「エヴァンゲリオン、参号機……」
あたし達の参号機。
以前はそう思っていた。
(どうして?、余り近寄りたくない……)
分かるのだ。
(多分、シンの言う通り……、知らないから言えたんだ、そんな事)
心がある。
そう言われて見れば、オーラが立ち上っている様な気がする、いや。
見える。
(こんな物に流されないで……、逆に操るなんてこと、出来るわけない)
無知と盲目とは恐ろしい事だ。
以前、シンジはフィードバックによる精神障害を示唆していた。
今の、感覚的に過敏になっている状態でエヴァに触れれば、恐らくそうなるだろうことは確実であった。
取り込まれるか、見失うか、どちらにせよ支配下に置くのは不可能だ。
(シンが暴走させたのも)
その辺りに原因があるのだろうと予測する。
起動後の発露を止め置き、一瞬でもそれに対して方向性を定めた精神力は評価すべきだ。
(不安になるのも当然、か)
脅えたシンジの絶叫が思い出される。
本能的に縋ってしまうのも分かる、助けを求めてしまうのも分かる。
ふっと視線を感じて目を向ける。
「ジュン?」
睨むようにしていたが、そのまま通路へと引き返して行った。
「ジュン……」
見える、と言うのはこれ程までに辛い物なのだろうか?
噴き上がる邪気は嫉妬だと分かる、それに嫌悪だ。
脳裏に冗談を言っていたジュンの姿が思い過った。
『ホリィは奇麗だから』
それもあるいは冗談では無かったのかもしれない、本気で羨んでいたのかもしれない。
それでも友達でいられたのなら、それは参号機があったからだ。
最も近いのは自分だと言う自負、パイロットとして選ばれるのであれば自分以外にはありえない。
その思い込みが優越感となってホリィを見下す材料となり、対等として関係を成り立たせていたのかもしれない。
あくまでも想像に過ぎないのだが……
それでもだ、レイの話した通り天秤であったのかもしれない、自分を嫌悪するだけの理由がジュンの側の皿に乗ってしまったのだとすれば。
(このバランスを直すためには)
パイロットを辞退するしかないだろう。
(別に……、それは構わないんだけど)
見える物が、見え方が違えば価値観も変わらざるを得ないのだろう、いや変えなければならない、それもまたバランスを保つ方法だからだ。
本質を知ってなお、それを無視して以前の形に囚われるのならば、永遠に虚構と欺瞞の中に沈むしかないのだから。
だがホリィには若さがあった、そのギャップを吸収するだけの柔軟性があったし、シンジにレイと言う指南役も居る。
もし参号機の本質について説明されずに、ただこの目だけを持たされていたならば、きっと悶々と悩んで心の均衡を欠いていたことだろう。
(ジュンには、誰も居ないって事か)
はぁっと溜め息。
こんな状態で引き下がれば、それはジュンのプライドを刺激する事になってしまう、それは容易に想像出来る未来像だ。
勝ち誇るような態度に見えてしまう以上、より大きな憎悪を抱かせてしまうことは想像に難くない、では、どうすればいいのか?
ホリィはその答えを導き出せるほど大人ではなかった。
感情を言葉に訳せるほどの精神年齢には、未だ達してはいなかった。
もどかしさだけが募っていく。
「でもね」
唐突な呼び掛けに「きゃん」っと悲鳴を上げてしまう。
「あの子の答えは自分で見付けなきゃいけない物だから、悩むだけ無駄だと思うよ?」
シンジであった。
どうしてここに?、と思ったのだが、すぐに気がつく。
「わたしを探しに来たの?」
へぇっと驚く。
「良く分かるね?」
「それは……」
言いごもる、が、ちゃんと答える。
「なんとなく……、その、嬉しそうにしてるから」
言ってて自分が恥ずかしくなったのか、ホリィはちょっと顔を赤くした。
気恥ずかしいのだ、ジュンに感じた物とはまったくの逆だ。
喜んでくれてる、嬉しがってくれてる、これが分かる、見えるということは人の生の感情に触れているのと同じことだ。
好意を持ってくれている、抱いてくれている、それが分かる相手に嫌悪など向けられるはずが無いし、出来る事など照れる事ぐらいだろう。
「で、あの、わたしに」
「うん、用事があって来たんだ」
ちょっと困った顔をして言うシンジだ。
「今日は、どうするのかなって思って」
「え?」
シンジの視線はジュンが消えた通路を見ている。
「……今日も、僕の部屋に来る?」
どうしよう、と言うのが正直な気持ちであった。
しかしこうもあからさまに『視える』好意を前にして無下にするのもためらわれる。
いや、それ以前に。
(嫌じゃない……)
ついシンジに咥えられてしまった左の胸の先端をポリポリと掻いてしまう。
無意識の内に。
「そうね……、みんなも『意識』してるみたいだから、出来たら」
「良かった」
シンジはほっと胸を撫で下ろした。
「ついでにお願いしたい事があったんだ」
「お願い?」
「うん」
「わたしに?」
「うん、一人じゃ出来ない事だからさ」
「わたしで良いなら……」
「協力してよね」
シンジはホリィがわざと消した言葉を繋げた。
−協力−
相手が対等であって始めて成り立つ言葉である。
そしてお世辞でも嘘でも無い事は、シンジの笑顔を『視れば』分かる。
(ちょっとだけ、嬉しいかも……)
ホリィは少しだけ浮かれた気持ちで……
後で多大に、後悔した。
ここに赤く染まった紙がある。
数枚並べられているのだが、どれも同じ赤に見えて、その鮮やかさは微妙に違う。
気にも止めなければ全く気にはならないだろう、だが一度その違いを認識してしまえば、些細な違いが気になって、ついつい注視してしまうようになるものだ。
今、ホリィの目は似たような段階を経て、素晴らし過ぎるほどに人の感情の色合いを視、見分けられるようになってしまっていた。
(期待、と、喜び、興奮……、でも厭らしさは無くて、えっと)
むしろ妙な期待に欲情しているのは自分だろうと思えてしまった。
そして、はたと気がつくのだ。
(シンには、どんな風に見えてるの?)
ひゃーっと、急に羞恥心が沸き起こった、肌がより以上に桜色に変わっていく。
目の前にはシンジ、裸だ、細いとは思っていたが、やはりその体は貧弱と言う程では無くても、見劣りするような物だった。
(あ、ブリーフ派なんだ……)
妙な事に感心してしまう。
そんな自分も似たような恰好をしていた。
下着のみ、ブラを抱くようにして胸を隠しているのだが、まあ無意味だろう。
ベッドの端にこんな恰好で座らされているのには訳がある。
「ホリィの胸に吸い付いてたのって、『気』を分けて貰おうとしたんだと思うんだ」
そうシンジは説明した。
「房中術って知ってる?、赤ん坊が右よりも左のお乳を欲しがるのはね、それが心臓に近いからなんだよね」
「心臓?」
「そう、それだけ新鮮な『力』が貰えるって事、レイと話してるの聞いてて思ったんだ、自覚は無いんだけど、相当疲れが溜まってるんだってね」
ああ、と納得する。
「だから、わたしに……」
「うん……、ごめん」
申しわけ無さそうにするシンジが新鮮だった。
「そんなことするつもりは無かったんだけどさ……、ほら、恐がらせちゃうだろうし」
この言葉に、あれ?、っとホリィは小首を傾げた。
「そんなに恐がってるつもりは無いけど……、今は」
「うん……、レイもそう言ってたけど、僕には視えないから」
「え……」
「視えないんだ、僕にはね、人の『気』なんてものはさ」
「どうして……」
理屈が分からない。
シンジほどの『達人』がどうして、それは自然な疑問だろう。
「説明できるほど分かってないんだよね……、僕は呼吸を乱さないようにする事で体の活力を高めてるんだそうだよ、そこから得られる結果は気を操ってるのと同じ物だけど、気を操る方法を専門に学んだ人のように人の本質を見たり、感じたりすることは出来ないんだ」
出発点が違うために、終点もまた違うのだ。
やはり真に理解し、手にするためには、長く辛い修行を積み重ねていくしかないのだろう。
「だから……、夢見が悪いとね、息が乱れて一度に疲れに襲われるんだよ、その分負担が過剰に掛かるから死にそうにもなる、それで」
慌てるように求めたのだろうと、シンジはホリィに言い訳をした。
そして、今。
「ん……」
肩に掛かる手、彼女は唇を受け入れた。
全てが視えると言うのは厄介な事だ。
人は都合や理屈、偏見と言ったフィルターを掛ける事によって、見たい姿だけを視界に収めて記憶し、認識する。
ところが今のホリィは、それが許されない状況に置かれていた。
真実を意識的に否定できるほど、スレてはいないからだ。
だからこう考えてしまう。
(何を求めているの?、そんなに……)
鼻先を入れ替え、何度もくり返し唇をはみ合う、キスと言うよりも貪り合いだった。
次第にぎこちなさが取れると喉元、鎖骨、そして胸へと刺激が下がっていく、その時にはもう下着を取り払われて、ホリィはベッドに寝かされていた。
その行為は以前、青い髪の少女がもう一人の『自分』に対して行ったのと、何ら変わりのない事だ。
レイが傷ついた自分に対して快楽を用いて気を昂ぶらせ、体を活性化させたように、シンジは今ホリィに対してそれを行い、一時的に『存在』を『一段階』引き上げようとしていた。
「ホーリィ」
んっ、っと胸先を噛まれた痛みに薄目を開く。
「刺激に溺れないで、快楽を求めないで、僕を受け入れて慰めて……、果てるということは散ずると言う事だよ、昇華するんだ、……分かるね?」
些か抽象的な言葉であったが、ホリィはこくんと涙目のままで頷いた。
上気した頬、潤んだ瞳、荒い息。
このまま欲望に身を任せれば、心地好く達する事が出来るだろう、しかし、それではただのセックスに墜ちる。
そう、目を閉じてはいけない、開いていなければならない、どれ程流されかけても、今はまだ感じることは出来ず、『視る』ことでしか相手を理解出来ないのだから。
抱き合う二人、横向きに、下になった左の胸を、持ち上げる様にシンジは手を差し込んだ。
事前の説明通り、その先端を咥えて吸いつく、時に噛み、転がす、それは昨日とはまるで違う姿勢であった。
−あっ−
と同時に、下半身、下に違った『熱』を感じた。
いつしか下げられていた下着、絡み合う足、シンジのものの先端が、自分の裂け目にあてがわれていた、自然な弾みで押し当てられた物を軽く咥え込んでしまった。
セックスというには稚戯にも等しい状態、しかし、それで十分だった。
−あっ、あ!、うっ……−
込み上げて来る物がある、それは自分ではなく、シンジのものだと感じられた、だがどうして人の体の昂ぶりを、自分のものとして感じ取れてしまうのだろうか?
またそれが肉体的に性的な欲求が噴出されようとしているのではなく、もっと純粋な物が凝縮され、爆発しようとしているのだと感じられた。
『来て』
興奮し、そう欲情しようとする自分を激しく律する。
快楽を求める獣に落ちてはいけないと、切なげなシンジの目にきゅんとなる。
その瞬間に生まれたのは、愛情だった。
例え錯覚だとしても、慕情、情愛、女性が本能的に抱く物、母性本能。
それが確かに芽生えて、心を支配していった。
−ああ……−
その時を境に快感は消え失せる、ただ慈しみたいとの思いに支配される。
そして彼はそれを喜んでくれていると、確かな親愛をそこに見いだす。
感謝し、喜び、愛してくれている、愛されている。
切ない想いが、まだ足りないとばかりに、伝え足りないと、言葉以上に、心を伝えるために必死になる。
自分の中で昂ぶっている物を彼に与える。
温もりで彼を包む。
−気持ち良い……−
ホリィも年頃である以上、手淫と達成感は知っていた。
だがそう言った瞬間的な絶頂感ではなくて、溶け合うように蕩けていく、まどろんでいく感覚に、ホリィはこれ以上と無い充実感を感じていた。
男と女は違う生き物である、ホリィはそれを間違いだと感じた。
(だってこんなに、わたし達は一つになってる……)
股間から流し込まれた物が自分の中で熱を増して、また彼の元へと戻っていく。
吸われているのではなく、自然な水の流れの様に、お互いの間で『昇華』されて、循環んする。
違う生き物なのではない。
別れて生きているだけなのだ。
その真理がシンジを自分の半身であると『錯覚』させる。
興奮に基づく快楽と悦楽が、一時的に己の形質を見失わせる。
溶け合う心が自分を崩して、互いを互いに『自分』であると思わせる。
『性別』は『聖別』とも書く、陰/陽、正/邪、男/女、光/闇、対極にある物は混ざり合いながらも常に二つであろうとする、これが一となった時、それは『絶対』を意味するからだ。
(揺らぎがあるから『これ』を感じられる、幸せを、幸福を感受出来る)
その素晴らしさは愛されると同時に愛する事の出来る喜びでもある。
−歓喜−
互いの中を通って加速し、エネルギーを無限大にまで高めた物が、遂に中央でもって爆発した。
−ああ!−
余りの力に『自分』が破裂し、形が失われる。
だが恐くは無い、『ここ』は『還る』べき『場所』でもあるのだから。
(でも……)
一抹の寂しさを感じる。
その寂しさの形が自分を作り上げていく、いや、取り戻させる。
代わりに感じられるのは温もりだ。
−誰かが傍に居てくれる−
実感に勝るものはない。
だからホリィは、ゆっくりと『そこ』から『下』へと降りていく。
自分の形を、そして幸せを夢想し、形作り、希望しながら。
−寂しいのは……、嫌だから−
「ん……」
ホリィは眩しい朝の光に、目に苦痛の色合いを見せた。
「起きた?」
(あ……)
閉じられるブラインドカーテン、隙間を作っていたのはシンジであった。
微笑みに、あの幸福の絶頂から、現実の世界に戻されてしまったのだと痛感する。
はぁっと溜め息。
「そんなに良かった?」
ともすれば誤解されそうな一言だが、ホリィは正しく理解していた。
「分からない……」
「そう?」
「だって正直……、何があったのか、何が起こったのか分からないから、でも」
体は酷く充足していた。
力が漲って溢れている、生まれてこのかた、一度も感じたことがないほどに。
ゆっくりと上半身を持ち上げる、そこで初めて、ホリィは気怠さに目眩いを感じた。
「まだ寝ていた方がいいよ」
よろめいた体を受け止めて、シンジは彼女の額に口付けた。
「でも……」
「今ホーリィは、持て余すほどの『生命力』に満たされてる、人は眠っているだけでもそれを消費していくからね、丁度良いところまで使ってやった方がいい」
「ええ……」
自然と口調が、彼と対等のものになっていた。
当然だろう。
自分は彼であり、彼は自分でもある、その一方で、自分の中に彼は居て、彼の中にも自分が居て、そして自分は彼を包み、彼は包んでくれているのだから。
この一体感、開放感は言葉で説明できる物ではない。
(まだ……)
体の芯に興奮が熱く疼いていた。
日は昇ってしまっている、と言うことは少なくとも数時間はあのまどろみに似た幸福の中に居たと言う事になるのだが……
−ふぅ……−
溜め息を吐いてしまうほどに、僅かな間であったとしか思えない。
「あっ、ん……」
寝かされる途中で、ついあられもない声で喘いでしまった。
(やだ、感じ易くなってる……)
羞恥心が蘇り、顔が上気するのが分かる。
後は連鎖的に、普段の自分に戻っていく、高揚も興奮を経て気恥ずかしさに変わっていく。
それが我に返ると言うことなのだが。
「残念?」
シンジの問いかけに動揺してしまう。
「でも仕方ないよ、まだホーリィは入り口に立ったばっかりだからね」
いそいそとホリィに掛けた布団の中に自分も潜る。
「その『域』にまで自分を昇華させて維持出来るようになるには、それこそ長い修行が必要になるよ、仕方ないさ」
ホリィは抱きついて胸に顔を埋めようとするシンジに対して母性愛を感じた。
自然と体が抱き返してしまう、そんな自分に苦笑する。
余りにも当たり前に反応し過ぎて、本当に母親になった気がして。
「シンは、それが出来るのね?」
「ううん、僕も一人じゃ無理だよ、だからこうして、抱いてくれる人を探してた」
「探してた?」
「だって誰も愛してくれないから、ホーリィを選んだのはね、この基地の中で一番お母さんって感じがしたから」
「お母さん、ね……」
「うん、ホーリィなら、きっと良いお母さんになれるよ」
「でも」
「でも?」
「こんな大きな子はいらないなぁ」
「そう?」
「ええ、子供よりも、ボーイフレンドね、これぐらいなら」
昨日までとは全く違った態度を見せる。
相手がマザコンであると言う弱みを握ったからかも知れないが、でも。
(それはちょっと、ね)
重ね合わせているものがあるのはちと辛い。
自分は代役でしかないからだ。
心の均衡とバランス、甘えさせてあげたい自分と、甘えて貰いたい自分、では、甘えたい自分は果たして両立出来るのか?
それは人間関係の中で磨かれていく感性だから……
ホリィは今は焦らずに、気怠い疲れに身を任せて、シンジを抱き込み、今の幸せを逃さぬように試みた。
喉元にくすぐったい息を感じながら。
続く
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。