ビルの谷間は行き止まりと言う事もあってか吹き込む風も無く静かである。
誰も動く者がなくなった空間に、アスカは一人佇んでいた。
ビルの外壁は叩きつけられた物体がぶちまけた赤いものによって彩られている、それが身に付けていたタバコと香水の匂いと混ざって、呼吸するのも気分が悪い。
彼女は転がっていた血まみれの携帯に目を付けた、汚らしそうに摘まみ上げ、唯一知っている番号に掛け始めた。
−ピルル、ピルル、ピルル、ピ−
「あ、シンジ?」
聞こえた声に表情を消したまま、いつもの調子で用件を伝える。
「うん……、あたし、ちょっとやっちゃってさぁ、後頼める?、うん、お願い」
−ピ−
携帯を切ったアスカであるが、そのままじっと、無表情なままに電話機を見つめた。
摘ままれてぶら下げられた携帯電話、その血はねっとりとぬめって垂れていく。
それを見つめていた左目から血色が引いていく、ややあって本来の青さに戻った頃に、アスカは携帯をぽいっと捨てた。
「やだな……、もうやんないって決めたのに」
腕でぐいと頬を拭う、つと目に入ったのは、安らかにのびているケンスケであった。
「しょうがない、好きなだけ写真撮らせてやるかぁ、迷惑かけちゃったし」
適当に転がっている『ボロ雑巾』で手を拭うと、アスカはよいしょっと言った感じで彼の体を背に乗せた。
目から流れ、頬、顎、喉、そしてキャミソールへと染み込んだはずの紅い血は、その時にはもう渇いてしまって、完全に跡形もなく消え去っていた。
NeonGenesisEvangelion act.14
『移ろい過ぎた時を越えて』
「どうだ、義手の調子は」
「ああ」
−ネルフ本部総司令執務室−
冬月はいつもと変わらないゲンドウに悪態を吐いた。
「今更薮医者の真似事をする事になるとは思わんかったよ」
「ありがとうございます」
右手は義手を取り付けて、手袋で護魔化しを掛けていた。
赤木リツコや他の誰かに治療を依頼しなかったのは、原因の追及を恐れたからだ。
その点、冬月コウゾウであれば秘密が漏れることはない。
「弱気だな」
ゲンドウの物言いに消沈を感じ取って冬月は口にした。
「我々には後がないのだぞ」
わかっています、そう答えかけて口篭り、ゲンドウはいつもの態度に改めた。
「分かっている……、しかし」
「レイにこだわり過ぎだな」
突き放す。
「元々E計画はユイ君の希望により始まった物だ、その後の補完計画への変更についてはお前の我が侭に過ぎん、ゲヒルンの存在価値はやがて来る使徒に対抗するための研究にこそ有り、ネルフへの転換は補完計画に伴った物だった、その頃からレイを手元に置いて育てた事については、単なるお前の我が侭だ、適度な自己形成は必要であれ、確立するほど手塩に掛けることはなかった筈だ、そうだな?」
沈黙を気まずさと取ってか続ける。
「食事だのなんだのと連れ回していたのもやり過ぎだったな、レイはお前の希望の産物であろうが、十年も生きていれば成長もする、自我も芽生える」
だが冬月の言葉は少々的外れであったと言える。
(ユイ)
ゲンドウの思考はレイに見たユイの影、その点のみに固定されていた。
(ユイなのか、あれは)
その雰囲気と物言いに匂いとでも言うのだろうか?、確かに嗅ぎ取れる物があったのだ。
「で、レイはどうするね」
「……好きにさせる」
「いいのか?、しかし」
「上も今やそれどころではない、今は使徒の殲滅が最優先だ」
「本来のE計画に戻すか、ならそれはそれで、シンジ君達はどうするね、元セカンドチルドレンが非常勤乗務を希望しているが?」
「弐号機に乗せる」
「やれやれ、また出費がかさむな」
どうやらアスカも、それなりの金額を要求しているようだ。
「渚カヲル、彼は正式な所属を受諾したな、これでようやく本部付きのチルドレンは二人だ、……その内の一人は怪しくなって来たがな」
レイの事だろう。
「シンジが居る」
「脅えるだけのお前に彼を制すことが出来るのか?」
やれやれと溜め息を吐いた。
「先程、セカンドを監視していた諜報員から連絡があったよ、市内にて暴行を受けたそうだ」
「保安部員は何をしていた?」
「現状ではネルフとは無関係だからな、まあ、流石シンジ君のガールフレンドだよ」
「どういう意味だ」
冬月は何故か嘆くように口にした。
「……十人の男女を相手に一方的な殺戮を行ったそうだ、惨殺された者達の遺体を見て諜報員の一人は吐いたそうだよ」
「ここに居たのかい?」
公園、大きめの公園だが空間が広く取られているだけで遊具は少ない。
その隅においてアスカはベンチに座っていた、膝の上には気絶したままのケンスケの頭を乗せている。
「あんたか……」
顔も見ないアスカに苦笑しつつ、カヲルは前後逆向きに隣のベンチに腰かけた。
「シンジ君でなくて残念かい?」
「どうして分かったのよ」
「携帯電話だよ」
「……発信機?」
「まさか、極普通の携帯だよ、でも契約会社のサービスに利用者の居場所を知らせる機能があってね、それを利用しただけさ」
「その会社ってのは?」
「何やら怪しい社名だよ、その上出資者の名前を探ると碇ゲンドウに辿り着く」
「あ、そ」
それだけでもネルフに繋がるのだろうと邪推出来る。
「それでシンジは?」
「死体を片付けるための準備で大忙しだよ、数が多いからね」
「準備?」
「諜報員のことさ、君の凶行、かなりの人に見られたようだよ」
アスカはぴくりと目元の筋肉をつり上げた。
「いるんなら……、助けてくれたっていいのに」
「監視が仕事だからね」
「だから嫌いなのよ!、人がどんな気持ちでっ」
「それが分からない人達だから、シンジ君も怒ったんじゃないのかな?」
「人類の存亡とか、言っといてそういうことやって……」
「遺体をどう片付けるのか、ただ片付けるだけなら彼らを遠ざけるだけで済むよ、でもシンジ君は許さない、大事にしてくれない、守ってくれない、優しくない人達はね」
何を感じ入ったのか、アスカは目を閉じて胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
あるいは思い出しているのかもしれない、薄目を開く、半眼の奥で左の目が赤くなっている。
「そう言えば……、あの時だって、あいつら、あたしを遠巻きに見て笑ってた」
赤い瞳孔に写っているのは崩壊した街だった。
廃屋のバスタブと錆びた水、青い空、血に似た鉄の味。
「……また痣が浮いてるよ」
カヲルの言葉に動揺してアスカは身を強ばらせた。
「あ」
−ドスン−
動いた拍子にケンスケを落としてしまった。
「いっ、てぇ……、あ」
ケンスケは頭を押さえながら顔を上げて、思い出したのだろう、青ざめた。
「そ、惣流さん!」
言いかけて口篭る。
無事……、なはずがない、自分のせいで何があったのか聞くのが恐かった。
もし陵辱を受けたのなら、気を失う前と同じ恰好をしているからと言って、その衣服の下まで無事と言う保証は無い。
何をされたのか?、胸を触られたのか?、肌の上を唇が這ったのかもしれない、だとすればその程度で済むはずが無い。
「ご、ごめん!」
ケンスケは即座に土下座した。
「お、俺……、俺」
下手な言葉は吐けなかった、何を言っても傷つけてしまう気がしたから。
自分の一言をきっかけに彼女は何かを思い出すだろう、何を?
今平静にしているのはどうしてだろう?、心をおかしくして均衡を保っているのかもしれないとゾッとする。
だが彼女の反応は、至極あっさりとした物だった。
「なぁにやってんのよ」
こんっと足で頭を小突かれた。
「まあ、そう呆れなくてもいいんじゃないのかい?」
知っている声にばっと顔を上げる。
「渚!?」
「やあ」
カヲルは肩越しに笑みを見せた。
「ど、どうして……」
「こいつが助けてくれたのよ」
「え……」
「でもまあ、間に合わなかったらどうなっていたか分からないからねぇ、その点では彼の謝罪は当然じゃないのかい?」
「はん!、謝って済む問題じゃないでしょうが」
「じゃあ何を求めているんだい?」
「情けないって思ったんなら、もっとしゃきっとしなさいって事よ!」
「え?」
カヲルはくすくすと笑いつつ通訳した。
「女の子のエスコートとガードは男の役目と言う事さ」
「あ……」
恥ずかしくなったのか本当に情けなくなったのかケンスケは項垂れる。
確かに心の何処かでは嫌がりながらも喜んでいた、初めてのデートを、女の子と二人っきりと言う状況を。
(俺はっ)
不釣り合いと言う言葉が渦巻く、それは容姿などに対する劣等感では無く、もっと純粋なものだった。
いざと言う時には何も出来ないくせに、その場の心地好さだけを求めていたと言う、最低最悪な自身の行動。
それそのものが情けない。
「アスカ!、カヲル君!」
ケンスケはぎくりとし、カヲルは自然で、はにかんだ笑顔を浮かべて彼を迎えた。
「やあ」
「ここに居たの?、って何やってるの?、相田君」
「あ……」
慌ててばっと立ち上がる。
「じゃ、じゃあ俺、帰るから!」
アスカに向かってもう一度頭を下げる、知られる事への恐怖心だったのだろうか?、断罪されると脅えたのだろうか?
「今日はっ、その、ごめん!、じゃあ!」
逃げるように走っていく。
それを笑顔で見送るシンジだ。
「ケンスケ、か」
「なによ?」
「いや」
苦笑。
「レイも気に入ってるみたいだし、モテるんだなって思って」
「はっ、冗談……」
アスカは先程までの人当たりの良さをかなぐり捨てて、本心であろう嫌悪感を滲ませた。
「あんな奴、最低ぇ」
「そう?」
「そうよ!、あいつのせいで、余計な事思い出しちゃったじゃない!」
振り返りざまにベンチを蹴り上げた。
「っつぅ……」
「無茶しちゃ駄目だよ」
アスカはだまって俯いた。
俯いたまま垂らした腕に力を込めて、強く拳を震わせた。
ケンスケの想像は当たっていた、種類は違えど当たっていた。
「忘れたいのに……」
あの殺戮の衝動を。
自分を傷つける全てのものに対する破壊による拒絶の感情。
「忘れたいのにぃ……」
怒っているのか泣いているのか。
多分その両方で、アスカは小刻みに震え出す。
「アスカ……」
そんな二人を見つめるカヲルだ。
「本当に、君達は良く似ているね」
二人は似たように動いてカヲルを見やった。
「カヲル君?」
「何よ?」
「シンジ君は感情の起伏を無くす事で心の平穏を手に入れた、その分、抑圧されてはいるけれど」
「そっかな?」
「分からないだろうね……、アスカ、君もそうなりたいんだろう?」
何故だろう?、近親感を感じさせる瞳をしていた。
「寂しかったんだろう?、シンジ君もよく恐がったものさ、本当に甘えていいのか、どうかってね?」
優しく二人を見比べる。
「アスカ、君もシンジ君のようになりたいんだろう?、飄然として、人に躍らされず、自分の意志で選択して歩きたいんだろう?、人目を気にせず生きているようで、その実他人の目を、声を恐れている、お互いにその事は良く分かっているんだろう?」
はぁっとシンジは溜め息を吐き、アスカの肩を軽く押した。
「シンジ?」
「行こう、アスカ」
「行くって、何処に?」
「デートだよ、デート」
「はぁ?」
訝しげなアスカに答える。
「気が立って落ち着かなくなってるんだろ?、だから自然体でいられなくなってる、息抜きして来いってさ」
「デート、ねぇ……」
余り気乗りしない調子で言う。
やはり先程邪魔されたばかりだからだろうか?
「それに知りたいんだろう?、今の僕がどうやって出来上がったのか、参考に出来るかどうかは分からないけどね」
その後半の部分の方がアスカの食指に触れたのだろう。
「分かったわ」
アスカは渋々を装いつつも了承した。
「……」
「……」
「……」
−碇家リビング−
「なんだか緊迫しているねぇ」
一足早く帰って来たカヲルは、リビングの様子に苦笑した。
「ん〜〜〜、さっきまで日米決戦だったんだけどねぇ」
にちゃにちゃとかわはぎを食べながらのレイ。
「面白かったよぉ?、日本語と英語でやり合ってんのにちゃんと会話になってんだもん」
けたけたと笑ってから、ビールらしきデザインの缶に手を伸ばした。
ハイネケンのノンアルコールビールである。
「んでそこに帰って来たお姉ちゃんが参戦しちゃった、と」
「で、掛け率はどうなんだい?」
「1:2:3:4……、くらいかな?」
「四つ?」
「そ、マナが四倍、シンちゃんにマッサージしてもらった事があるだけだから大穴ね、三倍はお姉ちゃん、胸掴まれて裸見られた事があるけどそう言う対象かどうかってのは別問題だから、二倍はホリィちゃん、A・BとCの真似事まで行っちゃってるから」
「でも『向こう』でのことを計算に入れるなら、マナちゃんの倍率は下がらないかい?」
「ううん、『向こう』でのマナちゃんが『蘇る』ことはないから」
「そうか」
ふむとその意見にカヲルは納得した様子を見せた。
「で、最後は誰なんだい?」
「アスカちゃん」
おや?、とカヲル。
「なんだ、レイの事かと思ったよ」
「あたしが入っちゃったらもう勝負になんないもん」
「そう、で、どうしてアスカちゃんが本命なんだい?」
「多分今日辺りエッチして来るから」
「……僕の行動も計算済みか」
レイは答えず、複雑な表情をしているカヲルに、やたら厭らしい目をして笑って返した。
「くっ!」
スカートをジーンズに履き替えたアスカは、蹴り足を一旦戻して歯を食いしばった。
履物もサンダルからスニーカーに変更している。
「この!」
短く息を吹いてハイキック、狙われたシンジであったが、彼はあっさりとこれを右腕一本で軽く受け流した。
「きゃっ!」
−ドスン!−
流されてしまった蹴り足に軸足を引っぱられて転倒する。
「いったぁい!」
それが股裂きに似た状態を生み出してしまったのだろう、アスカは股間に痛みを感じて訴えた。
「もう!、流さないでちゃんと受け止めなさいよ!」
「ごめん」
「笑ってんじゃないわよ!」
だがシンジは堪え切れないようだ。
「ごめん」
「ふん!」
あぐらをかいて股の筋肉を揉み始める。
二人が居るのは箱根峠の街を一望出来る高台公園だった、夕日もそろそろ落ちてしまおうかと言う時間帯だ。
ここに来たのは色々と周った後の、締めのような雰囲気からだった。
ただそこでキスよりも、ちょっと付き合って、となるのがアスカらしいが。
「あんた、変わったわね」
「そう?」
「うん、変わった……」
アスカは片膝を立てると、羨望の眼差しでシンジを見つめた。
「やっぱり環境が変わると人も変わるのね……、誰かが居てくれるだけで」
「羨ましい?」
「支えは欲しいわ……、まだ一人じゃ」
手を借りて立ち上がる。
「ん、ありがと」
「どういたしまして……、アスカ?」
アスカは貸してもらった手を握ったままで口にした。
「あんた……」
「え?」
「この手で変な事とかしてんのよね?」
「そうだけどね」
握手状態のままにぎにぎと揉むアスカに苦笑する。
「気になる?」
「ん……、逆なのよ、どうしてあたし、あんなに気にしてたんだろ?」
引っ張り、持ち上げて頬擦りをする。
「やっぱりなんともない」
「そうなの?」
「多分……、あいつの言う通りなのよね」
「あいつって……、カヲル君?」
「ええ、人の目にどう映るか、人の耳にどう聞こえるかばっかり意識してたから、あんたの目にはそんな風に映ってるんだってのが我慢できなかったのかもね、……正面切って見てくんないくせに」
「ごめん……」
その声音は『昔』のものだった、だがその方が安心出来るのだろう。
「ほらっ!、何落ち込んでんのよ、馬鹿シンジ!」
「え?」
「気晴らしだって連れ回しといて、暗い雰囲気作ってるんじゃないっての」
微笑を見せる。
「まだ結論は言ってないでしょうが」
「結論?」
「そうよ!、……今平気なのは、あんたがあたしをちゃんと見て物を話してるからだってね」
「そっかな……」
「それがどうしてなのかってのは……、多分、欲求の差なんでしょうけどね」
「欲求?」
「だって今のあんたはそう言うのが少ないじゃない、ちゃんと発散してるからでしょうけど」
ジト目にシンジは首をすくめた。
「それよりさ!、これからどうしようか?」
「護魔化してんじゃないっての」
クスッと笑う。
「あんたが最後まで決めなさいよ、それでいいから」
「え?、いいの?」
「良いって……、何が?」
「いや、僕が決めていいなら、もう時間も時間だしご飯食べてお酒でも飲んでホテルとか」
「あんたねぇ」
呆れ返る。
「自分が中学生だっての、忘れてんじゃないの?」
「ま、そうなんだけどね」
苦笑。
「でもここからなら街に戻るのも温泉でも入りに行って美味しい物食べてゆっくりしてくるのも変わらないだろうなって思って」
「あ、そういうことね」
パンッと手を打つ。
「もう向こうに居る間、醤油が懐かしくってさぁ、刺し身食べたかったのよね」
「じゃあ決まりだね」
「うん!」
はしゃぎシンジの腕に組み付く。
「……あんたもうちょっと背があったらねぇ」
「ほっといてよ、もう」
なんとなく腕を組む姿が様にならない二人であった。
−ネルフ本部調整用ケージ−
『参号機のアポトーシス作業は二十時をもって……』
マヤのものらしいアナウンスが作業員達を指揮している。
「エヴァの謎、か」
リツコは憂鬱そうにしていた。
ダイバースーツのまま、LCLに満たされたケージの隅、本来ならタラップである足場に腰かけている、その横には酸素ボンベが転がされていた。
「渚君はシンジ君の魂の力だと言っていたけど……」
ミサトとの会話を思い出していた。
「零号機、弐号機、参号機よりも初号機の遺伝形質は使徒のものに近い構造をしている……、99.89%の一致、0.11%、か、まるで神の哲学ね、11だなんて」
科学者の考える事ではないと苦笑する。
「回収した一体目、二体目の使徒のサンプルから、あれだけ形状に差があるにも関わらずその差は人の個体差ほどでしかないことは分かっている、……エヴァもその身内と考えればそれは間違い無いにしてもよ、逆にそう考えた場合、他の三機が不自然過ぎるわ」
眉間に皺を寄せるリツコだ。
「近いというよりも欠損なのね、それを人間の遺伝子でもって補ったような……、でもなら何故?、零号機と初号機を比較しても後機に見られるクローン化技術は格段に向上しているのに、どうしてまた弐号機、参号機と零号機並みの『質』に後退しているの?」
唇の縁に垂れ落ちて来たLCLを無意識の内に舐め取った。
苛ついているのかもしれない、ミサトと違ってエヴァと言う全ての中心にある存在の面倒を見る立場にある以上、司令達に近い立場の情報を得ることができる、だが全てではない。
科学者としての心理が働いているのかもしれない、ミサト以上に具体的に不透明な所が分かるだけに、そのホンの少しだけ足りない部分を、どうしても埋めたくもなってしまうのだ。
幾ら補った所で、それが真実であるかどうかの確証は得られない、裏付けが欲しいのだろう。
「だから初号機であれば、不完全ながらも一時的なエネルギーの搾り出しが可能なんだわ、事実初号機を受け止めた零号機は、それでも電力供給を必要としていたもの」
また一つの疑問が浮上する。
「レイは……、初号機のS2機関を使用出来なかった、だから渚君の説明に結び付くの?、その力を引き出したのはあくまでシンジ君だと」
かぶりを振る。
「それだけではないわね、参号機は内部電源の終了と共に停止してしまったもの、参号機の発露はあくまで初号機が特別と言うことへの裏付けにすぎない、……何が特別なの?、何が」
ピンと来る。
「零ナンバーの機体、その後に作られた初号機、どうして初号機だったの?、零号機では無く、初号機の起動実験だったの?、起動実験もせずにただ組み上げただけで終わらせてしまったの?、零号機はなんの為に……、違う、順番が違う?、試験的に零号機での組み上げを行い、その果てに初号機を……、始めから初号機を造る事だけが目的だった?、後に封印、零号機を改修再開発をし、これをレイに与えた、碇ユイ、彼女の取り込まれた初号機を保全するためにそうしたの?、研究用の実験材料として使い捨てには出来なくなったから、一度破棄したはずの零号機を再び持ち出した」
そうとでも思わなければつじつまが合わない。
「でもそれなら零号機のあの力は何?、あの翼は」
六枚の。
「ミサトの言う通りね、誰かが謎にしているんだわ、多くを」
「かぁーーーっ、こぉの一杯のために生きてるってのはほんとよねぇ!」
湯上がり、浴衣、髪は頭の上に纏めている。
その姿でアスカは腰に手を当てて、牛乳パックの中身を飲み干した。
「ミルク臭くなるよ?」
口を腕で拭うアスカに忠告する。
「どうせ乳臭いわよ」
「そう言うこと言ってるんじゃないって」
どうしてだろうか?、和室だ、その中央テーブルの座椅子に座っているシンジは、妙に貫禄があって歳を食っているように見える。
こちらも一足先に上がったのか浴衣に着替えていた。
「ほら、早く食べようよ」
「そうね」
跳ねるように動いてシンジの正面の席に座る。
山菜鍋や天ぷらが主なのだが、アスカはちょっとだけ不満を訴えた。
「お造りと刺し身が少ない……」
「んっ、山ん中だからね、仕方ないよ」
「頂きますくらい言いなさいよ……、で?」
「でって?」
「仕方ないって何がよ?」
「ああ、海辺ってんじゃないからって、特色出してるんじゃないかってこと」
「ちっ、余計な事するわねぇ」
「じゃあ僕の刺し身上げるからそっちの……」
「いや」
箸を箸でブロックする。
「これはこれで食べるの!」
「そう?」
「さっさと食べて、外行くわよ、外!」
「他のとこにも浸かりに行くの?」
「あんたばかぁ?、んなわけないじゃん、寿司屋よ寿司屋!、足りない分食べてやるんだから」
「……」
「何よ?」
「いや、美味しいなって思っただけ」
「ほんとよねぇ」
鯉刺しを一切れ頬張って頬に手を当てうっとりとする。
実に幸せそうなのだが。
(これだけあってまだ足りないのか)
アスカが戻って来るのを待っている間、残るだろうなと思っていたのは、明らかに大人二人分を想定した品量だったからなのだが。
その他にもドイツでビールの味をしめたからだろう、確かにお酒が欲しいよな、とか思ってしまっていた。
「そろそろ……」
そわそわと冷戦に茶々を入れようとしたレイを、カヲルは素早く呼び止めた。
「駄目だよ、レイ」
「?」
不満そうにするレイに、カヲルは新聞を読みながら告げた。
「この間、騙してエントリープラグに入れて怒られたこと、もう忘れたのかい?」
「う……」
「それに、今教えると後の楽しみが無くなってしまうんじゃないのかい?」
「うえ?」
「レイちゃんとホリィさんはともかく、きっとマナは意地になってもシンジ君達が居る場所を探し出すだろうね、それじゃあそれで終わってしまうよ、面白くない、むしろ朝、帰って来たシンジ君が血走った目をして夜明かしした三人に詰め寄られている、その構図の方が余程楽しめると思うけどねぇ」
……やはりレイのパートナーだけのことはある。
カヲルもあっさりと趣旨替えして、この状況を楽しむことにしたらしい。
その頃二人は、夜道をてくてくと歩いていた。
既に外の店を周って来たのだろう、アスカのお腹は膨らんで見える、彼女は浴衣のままでうろついているのだが、シンジは学生服に着替えていた。
温泉街では目立つことこの上ないのだが、学校から帰宅せずにここまで来てしまっているのだから仕方が無い、とは言え。
「だったら浴衣でいいじゃない」
そんな風に言うアスカに、シンジはかすかに苦笑した。
「落ち着かないからね、浴衣は」
「どうして?」
「腕が自由に動かないから」
「ふぅん」
アスカはそんなもんかねぇ、と試してやろうとして……、やめた。
「まあ、動きづらいのは認めるわ、……何よ?」
「アスカの動きづらい、は意味が違うんじゃないかと思って」
「わっ、悪かったわね!」
ぷっと怒ってそっぽを向く、シンジが差しているのが食い過ぎのことだと思ったのだろう、実際そうなのだが。
「アスカってそんなに食べた方だっけ?」
「うん、『こっち』じゃ結構食べてる……、ううん、抑えるのやめたのよ、太っても良いし」
「良いの?」
「みっともないって言うほど太らなきゃね、それに多分……、だけど、『消費量』が違う気がするのよ」
シンジはうんと頷いた。
「それはそうだよ、『あっち』じゃ自分のことで精一杯で、周りに『気』なんて遣わなかったからね」
「そういうもんなの?」
「ほら?」
シンジは左の手の甲を、触れるか触れないかと言った程度で、アスカの頬に近付けた。
「どう?、産毛が静電気でくすぐったい……、そんな感じがしない?」
「する」
「神経を尖らせてね、それを感じる範囲を遠くまで引き伸ばすんだ、そうやって、ああ、この人は今機嫌がいいな、悪いなってのを感じる、人の気配を探るって言うのも同じ方法で出来るよ、でも常に緊張してる訳だからね、お腹だって空いて来るよ」
「ふぅん……」
関心、と言うよりもアスカは酷く訝しがった。
「詳しいわね」
「カヲル君の受け売りだよ、僕はそんなに詳しくない」
「またあいつ?」
「そうだよ、……僕にとって、レイとカヲル君、二人は親みたいな物なんだ」
「あんなのがねぇ……」
そう言えば、と思い出す。
「あいつ……、あたし達が似てるって言ってたっけ」
「うん」
「どうして?、あたし、あいつのことなんて知らないのに、どうしてあたしのことは知ってるの?」
「ああ、それならね……」
言いづらそうにする。
「カヲル君はアスカよりも僕を選んだんだよ」
「え……」
「あんまり詳しく話した事無かったよね?、僕……、母さんが死んだ後、捨てられるみたいに人に預けられたんだ」
「大体は知ってる」
「うん、その時にね、父さんは母さんを実験材料に使って殺したって噂が立ったんだ、でも今考えてみると変なんだよね」
「変、って?」
「だってそうじゃないか、母さんが死んだのはエヴァとの接触実験だったんだよ?、ジオフロントでの」
「あ……」
「分かる?、どこからそんな話しが漏れたんだろう?、南極のことは情報規制が行われたのに、ジオフロントでのことは筒抜けだった、有りえないとは思わない?、誰かが父さんを追い込んだんだ」
ギリと歯を噛み締める。
「だから僕は戦おうとした、泣きながら訴えようとした、でも誰も聞いてくれなかったんだ」
「シンジ……」
「喧嘩ばかりしてた、そうしたら今度は直接じゃなくて、遠巻きに色々言われたよ」
「辛かったの?」
「分からない、父さんが馬鹿にされるのが嫌なのか、自分が傷つきたくなかったのか、真実を知らないくせに勝手な事を言う奴等が許せなかったのか、何も分からなかった、そんな風に煮詰まってた時にね、カヲル君達が来たんだよ」
「あいつらがねぇ」
「カヲル君は言ってた、僕とアスカとの違いは、アスカよりも恵まれている所にあるって、でもその分だけ情けなくて甘えてる所があるから、どうすればいいのか、それを考える能力がない、本当ならカヲル君はアスカの所に行くはずだったんだ」
「あたしの所に?」
「うん、でも僕の方が『不安定』になると『危ない』からって、さ」
アスカは自分のことを想い出した。
「あんたも、なの?」
探るような言葉に目で肯定する。
「アスカのように『空間を束縛』するような力は無いよ、第一、その時には自分でも何やってるんだか分からなくなってるんだから」
「あたしだってそうよ」
「分かってる、他のこともね」
「他のこと?」
「カヲル君が居なかったから、アスカは『あっち』と同じようなステップを踏んでる、だからかな?、アスカが求めてる物が分かる、それを僕が奪っちゃった事もね」
「同情してるってわけ?」
「そう言っちゃうとアスカは嫌がるだろう?、誰かに傍に居てもらいたいんだ、寄り添ってて欲しいんだ、分かり合うとか、理解してもらえてるとかじゃなくて、寂しい時はそれを隠して笑いたかったりするし、悲しい時には慰めなんて要らないから、一人になりたいってこともある、カヲル君はね、それが察することが出来る人なんだよ、僕にはまだ無理だけどね」
「じゃあ、どうしてここに居るわけ?」
「そうしなくちゃいけないと思ったから……、って言うのは嘘だよね、それは『あっちの僕』と同じで、嫌われたくないからって逃げてるだけだ、だからってどうしたらいいのか分からない、力不足でどうにも出来ないのかもしれない、それでもアスカに教わりたいからこうしてる」
「あたしに?」
「そ、アスカは自分で自分をケアする方法を知ってるからね、それを見せてもらってるんだよ」
「あたしだって……、そんなに」
先程は触れなかった手を、今度はちゃんと当てた。
「シンジ?」
頬から少し、首筋へと擦るように撫でる。
「アスカはもっと我が侭で良いと思うよ?」
「なによ、それは……」
「『今度』の僕はそれに付き合っていられるぐらいには強くなったつもりだよ、アスカを絶対に裏切らないくらいに、アスカの欲しい物を与えられるくらいに、アスカの求めてる物を譲れるくらいにはね」
「自分を捨てても?」
「……渡せないのはカヲル君とレイくらいのものだよ、あの二人が居るから、僕は僕で居られる」
「その代償ってわけ?、カヲルを独り占めした」
「アスカにはカヲル君の凄さは分からないだろうけどね、……嫉妬もあるかな?」
「嫉妬?」
「うん」
心地好さそうにするアスカに目を細める。
「『これまで』と同じだよ、カヲル君が居たらアスカはやっぱり好きになってたさ、カヲル君をね?、加持さんを好きだって言ってたのと同じように」
違う、とは言えない、ただアスカは手首を掴んで、撫でるのをやめさせた。
「そう言えばね……、加持さんが面白いこと言ってたんだけど」
「ん?」
「あんた、加持さんに習ったんだって?、女の子の扱い方」
「ああ」
苦笑をする。
「習ったって言っても……、あれは」
「なに?」
「小学生の時の話しだからね、どっちかって言うと、ナンパのダシにされただけなんだけど」
「それでホーリィってことになる訳ね?」
「正解、かな、ホーリィには悪いけど、多分僕とホーリィじゃ一緒に居られて嬉しいって事への意味が違うと思う」
「それ絶対違わないわ」
「だろうね、好きなんだと思う、愛し合えると思う、けどやっぱり僕は父さんの子なんだな」
「どういう意味?」
「父さんと同じって事だよ、なぞってる、父さんは母さんとなら愛し合って行けると思ったんだろうね、でも父さんは母さんに母性を求めてた、母さんは父さんに、家族としての父親の立場と存在である事を望んでた、感覚の違いなんだろうね、男と女の、自分から生まれた血の繋がり全部を愛おしいって思えるのが女の人なのかもしれない、けど父さんは……、僕もだけどね、求めてるのは自分の居心地の好さだけで、家族としての空間じゃないんだよ」
どうかな?、と訊ねる。
「アスカはどう思う?」
「分からないわ、……わたしだって家族なんて知らないもん」
「そうだろうね、だからアスカなんだと思う、ホーリィには理解出来ないことだから、……大人になって、結婚して、子供が出来て、でも僕は相変わらずホーリィだけを求めるんだろうね、子供は僕を苦手に思って、ホーリィは子供を大事に思ってくれない僕に、きっと強く不満を感じる」
「それで?」
「僕はまた誰かを探す、嫌われてもね、嫌われなくても居心地が悪かったら意味が無いから」
「……本当に似てるわね、司令に、あんたのお父さんに」
「どうしようもないと思ってるよ、父さんの子供だって意識に固執してたから気付かなかったけど、同じ物を『他』に求めるようになったら、急に父さんのことが理解出来たんだ、だから今じゃそんなに嫌ってない」
「苦手なのに?」
「自分みたいに見えるからだよ」
「それでもやめられないんだ?」
「そうだね……、子供なんだな、まだ、だから大人になりたいんだと思う」
「あたしに構う事で?」
「アスカだってそうなんじゃないの?、このままじゃいけないって思ってる、けど何がいけないのか分からない、自分としての限界なんだよな、それって」
「そうは思いたくないわ」
「けどそれは僕が一番良く分かってる」
「どうして?」
「僕は頑張ってたんだ、でもアスカにはまだやれるように見えてた、やりようがあるだろうにってもどかしく思ってた、違う?」
「……違わないわ」
「けどね、それはアスカの限界点がもっと高かったからだよ、自分を基準にしてのことさ、それまでの生き方や育てられ方で変わって来る能力だよ、……今の僕はもっと高くて余裕を持っているんだけどね、相変わらずその余裕をどう昇華すればいいのか分からないんだ、そこが僕の限界だから、この限界を破るために、壊してくれる何かのきっかけを捜してる」
「それが、あたし?」
「うん……、そうかもしれないし、違うかもしれない、だからこれは僕の直感に過ぎない、けど外れてるとは思ってない、僕はアスカが好きだからね」
「は?」
「好きなんだと思うとか、そんな曖昧な感じじゃなくて、僕はアスカが好きなんだ、そう自覚してる、カヲル君やレイの事は好きだけど、それは頼ってる、甘えてる、依存してるだけで、アスカとレイとどっちかを選べって言われたら僕はレイを選ぶしかないんだ、見放されたくないから」
ああ、なるほどとアスカは理解した。
「それがあんたの限界なんだ」
親の保護があるから好き勝手が出来る、だがそれを失ってしまっては失敗した時の恐怖心から立ち竦む事しか出来なくなる。
だから歩く方法だけでも、足を前に出す術だけでも覚えたいと言う。
「……きっとね、人を好きになる事で乗り越えられる物がある筈なんだ、……巣立つとか、親離れって言うのかな?、ホーリィのこともそうだけど、この頃レイが色々動いてるのってそれもあるんだと思う、このままじゃ僕はいつまで経っても飛び立つ事が出来ないから、何かを学ばせたいんだろうね」
言葉を途切れさせたシンジに対して、アスカは言った。
「それこそ馬鹿よ……」
「アスカ?」
「それって結局、これだけ気を遣ってやってんのにまだ独り立ち出来ないのかって、呆れられたくないから動こうとしてるだけなんじゃないの?」
「……そうかもしれない」
「だからあんたは馬鹿なのよ」
今度はアスカが、シンジの頬を撫でる番だった。
「行動する前に言い訳するのはね、結局恐いからなのよ、失敗するのがね」
はっとする。
「そう……、そうなんだ」
「そうよ、失敗するのを恐れてるから、許してもらおうと思ってる、けどね、あたしはどうだって良いのよ、そんなこと」
「そんなこと?」
「だってあたしはあんたと同じだからね……、自分が気持ち好ければ、居心地が好かったらそれで良いのよ」
「アスカ……」
「ほら!、部屋に戻るわよ!」
そうはしゃいで腕に組み付く。
「体冷えちゃったじゃない、もう一回温泉浸かんなきゃ」
「混浴で?」
「はぁ?、なぁんでスケベな連中が張り込んでる様な場所に自分から飛び込まなきゃなんないのよ、あんただって男湯の方に入ってたじゃない」
「そりゃね、混浴の方にみんな入ってるから、空いてるんだもん」
「その方がゆっくり出来るのよねぇ……、そうだ!」
「なに?」
「家族風呂があったじゃない!、予約制の」
「あったっけ?」
「あったのよ!、あれならゆっくり出来るんじゃない?」
言いつつ、アスカはぽつりとこぼした。
「でもあんた、一つだけ勘違いしてる」
「え……」
「あたしもあるのよ……、あんたを裏切れない理由がね」
続く
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。