綾波レイが碇シンジを捜して放浪し、渚カヲルが学園生活を満喫している頃、彼女、ホーリア・クリスティンは近所へ買い出しに出かけていた。
 ……と言ってもレイ=イエルのパシリであるが。
 欧米人特有の肩幅の大きさが包容力を感じさせる、残念なのはこれまでの生活によって滲んでしまった雑さだろうか?
 白いタンクトップシャツにははっきりとブラの形が浮いていた、向こうから持って来たものらしい青い作業ズボンには妙にオイルが染みている。
 スニーカーだけが真新しかった、それもそのはずで、あったものを適当に拝借して履いているのだ、街中を歩く……、には恥ずかしい恰好だと感じても、買い出しならこの程度で十分だろうと彼女は判じていた。
 実の所、彼女の感性は米国支部での荒んだ生活によって破壊されてしまっていた、このような恰好で通路を歩き、買い出しをするのが普通であったからだ。
 つくづく世間一般の感覚からかけ離れてしまって居たのだな、と、ホリィはぱんぱんに膨らんだビニール袋をふたつ左腕に下げ歩きながら、右手で雑誌を開いて読みふけっていた、ファッション誌である。
 シンジがいない状態での外出には不安があったが、正直拍子抜けしてしまっていた、だからだろう、そんな風に道を歩きながら本を読めたのは。
 お菓子を買って来てくれ、と頼まれた、コンビニの場所はマンションから五分とかからない場所だったし、道も曲らずに済んだので迷わなかった。
 お菓子については袋の絵図が基本的に向こうと同じだったので判別出来た、『イラッシャイマセ』、『アリガトウゴザイマシタ』くらいは知っていた、『エン』もだ、ただ『イチ、ニィ、サン』がわからないので不安を感じていたのだが、キャッシャーに表示される数字と、カード支払いのおかげで恥をかかずに済んだのだった。
 レジに篭を置いてカードを渡せば全て終わった、なぁんだと気が抜けてしまうのも仕方の無い事だろう、一言も交わさずに済んだのだから。
 ちなみにカードはシンジから提供されたものである、向こうで使っていたカードもあったが、シンジやレイの好意に甘えることにしたのだ、他人行儀過ぎるのも礼儀に反することがある、と。
 それにお菓子のほとんどを食べるのはレイであるのだし、自分の貯金を使うのももったいなかった、雑誌については一冊分くらいお駄賃としてもらっても良いだろうと、まあそういうわけだ。
 だが彼女は知らなかった、常識的な範囲で使う分には好きにして良いよ、と渡されたそのカードには、実はとある組織が臨時予算と称して某国からうん万人の餓死者と引き換えにむしり取った資金とほぼ同額のお金が振り込まれていると言う事を。


NeonGenesisEvangelion act.17
『不確定要素』


 旧東京封鎖地区内日本重化学工業特別実験施設、その地下にある汚水処理施設は地下湖と言ってしまっていい巨大さを持ったプールであった、底は深く、オゾンの泡が吹いている。
 現在、水の流入は無いに等しかった、排出についても制限がかけられているのか止まっている。
 その水の底……
 排出口には格子があり、シャッターがあり、フィルターもあった、それらが赤熱し、泡を吹いてとろけていった、穴が開く。
 ゆっくりと泳ぎ出て来たのはドリルマシンであった、潜航艇でもある、その先端はレーザーによって錐が形作られていた、回転が止まる。
 ──ザバァ!
 船を沈めたまま浮かび上がった彼らは、そのまま泳いで岸に向かった。
 両手で体を陸へと上げる。
「はぁ!」
 ヘルメットを脱いでひっくり返った青年に、いかめしい男からの叱咤が飛んだ。
「休んでる暇は無いぞ」
「へいへい、けど大丈夫なのかよ、ここ……」
「バカね、Aが手を回してるに決まってるじゃない、でなきゃ排出口に穴を開けた時点であたしたち見つかってるわ」
「ま、その通りだな」
 いかめしい面構えの男の髪は銀色に枯れていた、右目が縦に切られて潰れている、皺だらけで巌のような顔だった。
「だがAの力を持ってしても目標のデータは得られていない、我々の仕事はAがハッキングのために必要とする状況を作り出すことだ」
「わかってますよぉ」
 へらへらと、ヘルメットを被ったままの男が手を振った。
「要するに、適当に暴れてりゃいいんでしょ」
「ま、そうだがな」
 でも……、と女性がヘルメットを脱ぎ、金髪を振り広げながら訊ねた。
「そこまでするならイレイザーシステムですか?、現物を手に入れても」
 男は渋い声で却下した。
「それは出来ない」
「俺達なら大丈夫ですって、なぁ?」
「駄目だ、今回のミッションでは欲を出すな」
 臆病過ぎる、との不満に彼は告げる。
「死にたくなければ止めはしないが……、『彼』は戦意と敵意を持たぬ者には寛容だからな」
「彼?」
 顔をしかめる。
「お前は……、ラビッツを知っているか?」
「ラビッツ?」
 ああ、と声が上げられた。
「ホワイトテイルとシルバーフォックスなら知ってます」
 ざわついた。
「まさかっ、シルバーフォックスが!?」
「いや……」
 重々しくかぶりを振った。
「その、『上』だよ」
 ごくりと喉が鳴らされる。
「ブラック、デビ……」
「バカ!」
 先の金髪の美女が慌てて男の口を手で塞いだ、しかし遅かったようだ、全員の背筋に怖気が走った、肌も泡立つ。
「あ、う……」
 彼女はまだ水でぬめっている唇の気持ち悪さにも堪えて、それでも彼の口を塞ぎ続けた。
『何か』の気配が去っていく……、重くなった空気から圧力が抜けた。
「……大丈夫」
「みたいだな」
 ふうと息、しかし口を塞がれた彼には理由がわからなかったようだ、恐ろしさは……、感じても。
「なんなんですか、今の……」
 キッと睨み付ける。
「良いか、厳命しておく、この先『その名』は口にするな!」
「どうしてですか?、そんな……」
「名前くらいと言う認識が甘いんだよ!」
「そうよ、一度でも『彼』と敵対すればわかるわ……、その名を呼べば彼の注意を引く事になる」
 無知を責め、目で睨む。
「いいか、『彼』に銃を向け、引金を引いてなお生き残った男は一人しか居ない、その男の名前を知っているか?」
 こくこくと頷く、余程の伝説なのだろう。
「テイルズ……」
「そうだ」
 彼らの脳裏に無精髭でだらしのない長髪の、よれよれのシャツを着込んだ男の姿が思い浮かんだ。
「奴を伝説にのし上げた元凶の影がちらついているんだよ、データを盗むぐらいのことは大目に見てくれるだろうさ、しかしな、やり過ぎるとどのような『判決』がくだるかわからん、常識の枠に囚われていては全滅する事になる」
「もう、見つかってしまったのでは……」
 体長格の男は冷めた目で告げた。
「だとしてもここには九人居る」
 その判断は冷徹だった。
「一人十分稼げば一時間半だ、Aの作業が終了するには三十分もあればいい」
「そういうこと……、ですか」
「そうだ」
 腰に納めていた銃を抜く、火薬式では問題があるからだろう、圧搾空気を用いたニードルガンだった。
「誰から倒れるかは……、運次第だな」


 ざわざわとそれぞれに感想を口にしながら制服組が去っていく、続いて企業家が。
 しかしそれでもシンジは何故かきょろきょろとして動かなかった。
「……なにやってんのよ?」
 怪訝そうにアスカ。
「カメラでもあるわけ?」
「違う……、けど」
 首筋を掻く。
「呼ばれた気がして」
 あん?、と。
「そりゃレイとかマナとかじゃないのぉ?」
 うっと呻いてしまう。
「そ、そっかな?」
「そうそう、まぁた無断外泊だしねぇ」
 けけけと笑う。
「こぉりゃ帰ったらまた大変だわ」
「……なんの話しよ?」
「ミサトには内緒〜」
 むっとした。
「なぁによぉ、嫌な感じねぇ」
「好奇心だけで詮索する奴って最低だと思わない?」
 ぐっとなる。
「……あなたの負けね」
「うっさいわねぇ」
「ところで……」
 リツコはシンジに声をかけた。
「無断外泊ということは、昨日からここに?」
「まあ、そうですけどね……」
 ますますリツコの目に鋭さが増した。
「ということは、あなたはこの施設に立ち入る権限を持っているのね?」
 シンジは何かを探すのをやめた。
「……何を聞きたいんですか?」
「……そうね」
 互いに不敵な目を作り合う。
「イレイザーシステム?、……戦自が随分と興味を持っていたようだけど」
 うすらと笑って。
「戦自は何年か前に陸上戦艦の開発で失敗してますからね」
「戦自の陽電子砲のプロトタイプとイレイザーシステムの組み合わせをどう思う?」
「買い被り過ぎですよ」
「そう?、でもさっきのデータを見る限りでは……」
「その逆ですよ」
「逆?」
「陽電子砲です、イレイザーシステムを使ってその程度の兵器でどうするんですか」
「それはつまり」
 目を鋭く光らせる。
「あなたはイレイザーシステムの全容を知っているのね?」
 シンジの顔に歪みが生まれた、失敗したな、と。
「……そうですね、知ってます」
「興味深い話しね」
「想像はご勝手に……」
「できれば詳しく聞きたいところなんだけど……、そうね、わたしの部屋ではどう?」
 やめときなさいよぉ、とミサト。
「改造されちゃうわよぉ?」
「リツコさんに?」
「そうよぉん、リツコの出したコーヒーには手を付けちゃ駄目よ?、絶対」
「……あなたのカレーよりはマシよ」
「どういう意味よ!」
 どっちもどっちだ、とはアスカの意見だ。
「あれ?」
「どうした……、停電?」
 一瞬視界が暗くなったかと思ったが気のせいでは無かった。
 電圧が落ちたのか、不安定に照度の落ちた電灯の明かりがついに消えた。
「なんだろう?」
 続いて足元を揺らしたやけに響く震動は……
 地下で起こった爆発によるものだった。


 どこかの配管、仕掛けられた爆発物のタイマーが進行していく、3、2、1、発火、指向性の爆発は配管を破壊し中を通っていた可燃性の気体に引火する。
 衝撃は地響きを伴って施設全体を揺るがした。


「どうした!」
「爆発事故ですっ、空調施設の有毒ガスが……」
 指示が飛び交う中、妙な行動をしている人物が居た、バーコード禿げの男、時田の腰巾着に見えた彼である。
 現在を考えれば彼は時田と共にJAのコントロール施設、またはJAの格納庫に居て良いはずだった、なのに今は事務施設のある舎の地下二階、メインコンピュータールームのカードスロットにIDカードを通していた、ロックが外れる。
 人目を憚り侵入し、施錠した、襟を立ててかじかむ手を息で温める。
 この施設全体の端末を統括しているのは、無数の基盤が並列に繋げられているこのマザーコンピューターだった、八角形の柱にその面へと基盤が差し込まれている。
 ガラスの向こうにそれがある、冷えているのは冷気がガラス越しに通過しているためだった。
 操作板の前に座り、軽く撫でるようにパネルに触れる、端末が立ち上がり、手元の表示パネルにログインネームとパスワードが要求された。
 時田の名前で入力し、パスを入れる、次いでコマンド入力、操作板右側の板が持ち上がる、それは蓋だった、そこにディスクを挿入する。
 コピースタート、交換用のディスクを神経質に積み上げる。
 彼は時計を気にした、コピー終了まであと二十分、陽動隊の撤退までには終了出来るが、見つかるかどうかについては別問題だろう、これを持って逃亡出来なければ意味が無いのだ。
『その時』のために、両のポケットから部品を取り出し、何かを組み立てた、『それ』に後ろポケットから取り出したカートリッジを差し込む、侵入者達よりも小型化された短針銃だった。
 ……彼こそが『A』と呼称されているスパイであった。


「何か大変な事になってるみたいなんだけど……」
 呑気な言葉に、アスカはそうねと頷いた、揃ってどうしたものかと振り返る。
「……でもエンジンテストのためにあれほど巨大なテスト機を作る必要がどこにあるというの?、あまりにも不経済だわ」
「でも巨大なエネルギーは時として『意思』を発生させます、あるいは『意思』は巨大なエネルギーを内包するものです、これはA=Bなんですよ」
「非科学的だわ」
「そうでしょうか?、例えばグリセリンですよ、どうやっても凍らなかったものが、とある人が冷凍に成功したと同時に世界中で容易に行えるようになりました、飛行機もそうです、一度成功してしまえば、その形状から多少かけ離れていても飛び立った、しかしその形状はフライト成功以前に失敗していたものと同じ形だった、そういうこともあります、科学的という言葉は真理の一面を数式として表現しているに過ぎません」
「世界は多角形だと言いたいの?」
「僕が知っているのは一次元、二次元、三次元と呼ぶように、世界の次元の数だけ側面はあるということだけです、……イレイザーシステムは蒸気機関とは違うんですよ、エネルギーとして発生させている物は熱だけではありません、ならそれが『意識』や『魂』でないとどうして言えますか?」
「だから器を作ったと?」
「……プロトタイプとは言え、そのメインフレーム、脊髄は移植しますから、まあ完全に無駄と言うわけではありませんよ、マッチングのチェックも兼ねていますからね」
「……エヴァに搭載出来ない理由が大体解って来たわ」
 シンジはにやりと笑うにとどめた、口にしないのは賢明だと言いたげに。
 エヴァには魂が込められている、さらにエヴァ自身にも魂がある、この上別の『存在』を介在させればそれは『暴走』を引き起こすだけだろう。
 ついでに言えば、エヴァに自律した思考を持たせるのは得策ではないのだ、使徒と紙一重の存在であるのだから。
「その技術……、ぜひともネルフに欲しいものだけど……」
「国連を通じて手段を取るなり、ネルフの権限を利用するなりするしかないでしょうね、なにしろ『特許権』を押さえられていますから」
「なるほどね……」
 タバコを取り出し、火を点け一服、紫煙をくゆらせる。
「ところでこの警報、いつ止まるの?」
「さあ?」
「さあじゃないでしょうが」
 呆れた声でミサトとアスカ。
「わたしたちも早く退避しましょう、ここは危険だわ」
「そうですね、行きましょうか」
 四人は一足早く逃げた集団の後を追い、小走りに通路へ駆け出した。


 黒曜石の瞳を持つ彼の名前はハロルドと言った。
 金色の髪に肌は白、百七十代の身長は白人にしては低いだろうか?
 体つきは痩せていると言うよりもしなやかなものを感じさせる。
 違法な手段で侵入した不審者の一人であった、現在着ているものはただのスーツだ、茶系の。
(これだから日系企業ってのは)
 鼻でバカにしながら右往左往する職員の中に混ざり込んでいた、これだけの施設になると私服の者、スーツの者、作業着姿の者に、白衣の者と、様々な『グループ』がそれぞれにコミュニティを形成しようと分化するものだ、普通、一千人以上が働いていようと、それぞれのグループは多くても数十人で区切られ、自分達の仕事場に入り込んで来る『異邦人』を『異物』として非常に敏感に嗅ぎ分け、警戒する。
 しかし日本人は共通して『スーツ姿』のものを『仕事関系者』として許容する癖があった、彼が施設の地理に不慣れな態度を見せていても誰も気にせず、むしろ「こっちだ!」と避難先を教えてくれる程である。
 大規模爆発の危険を考えて、施設外への退避も行われている、彼が焦っていないのは、施設に致命的な損害を与えないように、注意して爆発物が仕掛けられているのを予め知っていたからだ。
 誘導に従って外に出ようとロビーを抜ける、そのまま人に混ざって居ればチェック無しに逃げられるはずだった。
 ──彼女が居なければ。
 どんっとぶつかられてハロルドはよろめいた。
「あ、ごめんなさい」
 見下ろした所に居たのは栗色の髪の少女だった、白衣を着ているがどう見てもローティーンにしか見えなかった。
 いや、大丈夫だ、反射的にそう言い掛けてハッとする。
 ヘソの辺りに何かを押し付けられたのが判って抵抗を試みるが遅かった。
「ぁ…………!」
 声にならない悲鳴を上げて崩れ落ちる、必死で『それ』の尻尾を掴むが無駄だった。
 鉄の蛇とも言えるものが服を破ってヘソから体内へと潜り込んでいく、その激痛は想像を絶し、直接体の中を掻き回される苦痛に喘いでハロルドの目はぐるりと回った。
 どさりと倒れる。
「きゃあああああ!」
 少々嬉しげに悲鳴を上げる。
「大変だ!」
「手を貸せ!」
 少女の悲鳴に申し合わせたかのように数人が駆け付けた、いや、実は手筈通りだったのだろう。
 もう大丈夫だ、などと白々しく少女を宥める男の目も、少女の瞳も笑っていた。


 彼の名前は白龍と言う、パイロン、またはホワイトデビルとして名を馳せていた。
 彼は以前から龍=デビルとなるのは何故なのだろうと疑問に思っていた、彼の母国では龍は神聖な獣であり、神であるからだ。
 その容姿は十代の若者だった、痩身で、背は高い、髪の色は黒、肌は黄色だが顔つきはかなりの彫りの深さを持っていた。
 彼のプロテクターには盾が装備されていた、透明の強化プラスチックで作られた盾だ、左腕にマウントされている、大きさは手先から肘まで、幅は腕三本分と言った程度だった。
 そして右手には刀を持っていた、刃は小刀サイズで軽く湾曲しており、背には裁断用ののこぎり歯が付いていた。
 彼は足元に転がっている死体の中に混ざっていた自分のヘルメットを蹴り上げた。
「フッ!」
 短い気合いと共に蹴り跳ばす、通路を塞いで警棒を構えていた警備員に直撃、怯んだ所に間合いを詰めて、『のこぎり歯』で斬り付けた。
「ぎゃあああああ!」
 わざと悲鳴を上げさせ、他の者を萎縮させる、そうして恐怖心を刺激して獲物の行動を封じ、彼は殺戮作業を再開した。
 改めて頚動脈を切り裂く、死を迎えた男を迂回して次の男へ、脇腹から心臓へと突き立てる、するりと抜いて回転し、背後の男の鳩尾へと刺し込んだ。
 流れるように三人、四人と死へと導く、通路は血によって彩られていく、相変わらず銃器の携帯が許されていない国だ、彼らのような『特殊工作員』に一企業の警備員が対処出来るはずも無かった、いや、ないはずだった。
 ──ガキン!
「ぬっ!?」
 最後の一人にナイフを弾かれ戸惑った、刃の半ば以上に切り込みを入れられていた、原因を掴むよりも早く顎を蹴り上げられてパイロンは脳を揺さぶられた。
 ──ザッ!
 それを成した警備員は、垂直に蹴り上げた足を下ろすと三半規管の機能を取り戻される前に『銃』を向けた、ニードルガンだった、一本の針が撃ち出される、キチン質の針で錐状になっていた、その中には麻酔薬が納められている。
 余程の圧力で打ち出されたのだろう、銃弾でさえも受け止めるはずのラバースーツに穴を開けて、その針はパイロンに深く深く突き刺さった。


「やってるやってる」
 遠い地で、そんな『処理』の様子を統括している人物が居た。
 短く刈った頭、小柄な体つき。
 ケイタである。
 場所は第三新東京市、碇シンジ宅の一室である、あるいは電算室とも言う。
 ガンガンに効かされたエアコンを無視するように、十二畳もある部屋の半分を埋めている機械が異常な熱を発していた、それを操るケイタを背後から見て、ホリィは何事なのだろうと小首を傾げた。
『なにしてるの?』
 英語で訊ねてしまい、失敗したかと口篭りかけたが……
『碇君の頼まれ事をね、ちょっと』
 驚き、はしゃぐ。
『英語、出来るの?』
『マナとは違いますよ、……まあ碇君ほど他の国の言葉って知らないけど』
 ふうんとホリィ、話せるだけでも嬉しいのだろう、ケイタの肩に手を置いて身を寄せ、覗き込んだ。
『どこの3Dマップ?』
『……碇君の発注してる製品の、開発工場のマップですよ、今ちょっと企業スパイが侵入してて』
 マウスを弄り、ウインドウを呼び出し、少し大きくする、かなりのデータが視認出来ない勢いで流れている。
『このデータを盗んでるんですよ』
『盗ませてるの?』
『ダミーデータです、限りなく本物に近い、でも本物には辿り着けないデータです』
 これを解析して、偽物だと気が付いた時には何年経っているかと冗談を言う。
 悪辣な罠だった。
『……手が込んでるのね』
『この程度はしませんとね』
『シンがいないのはこのためなの?』
『半分はそうですね』
『半分?』
『後は趣味ですよ、一生懸命な人をからかうのって、楽しいからって』
 そう……、と体を離す、肩を前に落ちていた髪が、僅かにケイタの頬をくすぐった。
 それを感じ、溜め息を吐く。
『どうしたの?』
 ケイタは肩越しに見上げて、改めてホリィの胸の大きさに嘆息した。
『……いつになったら碇君に追いつけるかと思ったんですよ』
『よくわからないわ』
 困惑し、胸を抱くように腕を組む、ゆさっと揺れた。
『シンはシンでしょう?、君とは違うと思うけど』
『それはわかってますよ、彼になりたいってわけじゃなくて』
 無駄話をしながらも操作は続ける。
『マナやホリィさん、綾波さん、惣流さん……、他にもかな?、碇君に傾くのは理解るんですよ、碇君は何かを乗り越えてる物があるって……、僕も早くそうなりたいなって』
 ああ、と納得する。
『女の子に興味があるってこと?』
 苦笑する。
『いけませんか?』
『そうじゃなくて……、そういう興味が希薄に感じるから』
 だからますます首を傾げてしまうのだ、『色』が『視える』ホリィにはそれが判る、でなければ先のように意識せず体を寄せることなど出来ない、嫌悪感が先立ってしまうから。
 以前、アメリカで仲間に感じたいやらしい波動、それがケイタからはあまり感じられない、だから……
『わたしには興味がない……、って言い方は変?、マナさんだけが好きなんだとばかり思っていたけど……』
 そうですね、と手を止める。
『……マナは好きです、けど異性って意味じゃ本気じゃないし、ムサシほどは』
『そう?』
『……変な風に聞こえますけど、惚れてるって意味じゃ僕はマナよりも碇君に惚れてます、彼に近付く事で結果的に付属した魅力が女の子を惹き付けてくれるならそれがいいなって思ってます、まあ、碇君の傍に居る限りみんな持って行かれちゃいますけどね』
 しかしホリィは首を捻った、それはどうかと……
『彼……、あなたほど甘くないから、怖いわ、恐ろしさが先に立つし、いつ殺されるか判らないもの、あなたを拒絶したとしてもあなたはそれでもまだ情を持って接してくれそうだもの、違う?』
『それは未練がましいって事ですか?』
『誰でも付き合っていた人に別れ話を持ち出されたら、ね、その程度の話だけど、シンはその場でわたしを見限るわ、精神的に切って捨てる、ついでに気に触る発言があればきっとわたしを殺す、間違いなくね、そう言う意味では普通の人はあなたを選ぶと思うけど……』
『でもみんなは碇君を選んでるでしょう?』
『そう、ね……』
『贅沢なのかもしれませんけどね、今それなりに持ってるものを使えばそれなりの人気は持てるだろうし、女の子にもモテるかもしれません、けど本当に素晴らしい人って言うのはやっぱり凄い人を嗅ぎ分けると思うんです、僕は出来たら……、そう言う人になりたいなぁ……』
 最後は独り言のように会話を打ちきり、忙しなくキーを叩き出した、次のステージに移るために工作員に指示を出し始めたのだ。
 ホリィはもう少し話したいと思ったが、邪魔してはなんだと部屋を出ようとした、一度だけ振り返って真剣そのもののケイタを見つめる。
(頑張ってる子っていうのは、奇麗な『色』をしてるのね……)
 そこにあるのは邂逅だった、もし、この『目』を『あの頃』……、皆で笑い合い、励まし合い、頑張っていたあの頃に手に入れていたのなら。
『ジュン』からもきっと、凄く奇麗な色が視えたのでは無かろうかと。
 そんなことを考えて、彼女は自分も動き始めなければならないなぁと左の胸先をぽりぽりと掻いた。


 銀色に枯れた髪を持つ彼の名前はゴドルフィンと言った、今回の作戦の指揮監督者である。
 片目が潰れているために、どうしても一般人と言うには無理がある彼は、フル装備のままでコンバットナイフとニードルガンを手にしていた。
 正面通路、T字型にぶつかる道に駆けていく人の流れを見て、彼は引き返す事を考えた、数人の仲間とは別れたが、そうそう分岐点があるわけでもなく、まだ二人ほど自分に従っている、それぞれに別れる方が先だと判断したのだ。
 逃げている人の流れにはパニックに似たものが感じられた、その混乱に巻き込まれることは得策ではない、今回の仕事は施設の破壊でも人殺しでも無い、そして手持ちの武器は余りに貧弱で数も少ない。
 様々な情報から引き返そうとした、だが。
「!?」
 T字路はまだ数十メートルは先だった、道幅は三メートル、そこを急ぎ横切る人間の顔など一瞬で、ひとつひとつ見分けられるはずが無い……、はずだった。
 なのに目を引かれてしまったのは、不幸としか言い様が無かっただろう。
 流れの中に子供が二人混ざっていた、背を向けようとしていたのに振り返ってしまった、少年も気が付いたのか目を向けたのがわかった、意識を惹かれる、見覚えがあった。
『彼』は存外に甘いところがあって、顔は良く知られていた、それでも平然と人前を歩くのは実力の裏付けが在るからなのだが……
 その、『彼』がそこにいた、十四、五歳の少年、黒髪の。
 そこに至り、不用意に、ぶしつけに『意識』を投げかけてしまった自らの失策に気が付いた、『彼』が通り過ぎて視界から消えてくれた事が彼に立ち直るチャンスをくれた。
「逃げるぞ!」
「え!?」
「なんだよ!?」
「いいから来い!」
 金髪の美女、ミエルと、あの不用意に『彼』の名を口にしようとした物知らずのマウスが困惑しながらも従った、が、遅かった。
「どうしたのよ?」
「……僕を知ってる奴が居た」
「あん?」
 ミサトとリツコが人波に流されていく中を、シンジとアスカは器用に脇道に逸れていた。
「あんたを知ってる奴って……」
 サードチルドレンだ、それくらいは居るだろうとアスカは首を傾げたのだが、シンジの表情に息を呑んだ。
 無表情と言っていい、なのに口元にはうっすらと笑みを張り付けていた。
 アスカは加持から聞かされたシンジの人物評価を思い出した。
『これでもシンジ君とやりあって無事生き残ったって事じゃ有名なんだぜ?』
 アスカは『舌なめずり』という言葉を思い出した。
「敵なの?」
「直接の敵じゃないけど『気になる』」
 肩をすくめる。
「……ま、勝手にしなさいよ、あたしは逃げるから」
「うん、わかったよ」
 生返事、その直後にはもう、シンジの意識からアスカの存在は消えていた。


「っと!」
 寸でのところでふるわれたナイフをムサシは避けた。
 謎の警備員としてパイロンを退けたムサシは、そのまま爆発物の解体に移行していた、そして運悪く設置中の敵と遭遇したわけである。
 浅黒い肌をしているからというわけでもないが、ムサシはシンジよりも精悍に見えた。
 彼が手にしているのは白色に発光している小剣だった、柄の部分にはナックルが付いている、俗に剣鍔刀(けんがくとう)と呼ばれるナイフだ。
 そして刃は低く唸りを発していた、鳴動するナイフ、高周波ブレード、その切れ味は余程のナイフでない限り斬り飛ばされて当然である。
 ムサシは正直、敵の持つ技量に感嘆していた。
 女性であった、自分と同じくらいに小柄だが、顔はヘルメットのためにわからない、アンダースーツの胸の膨らみで判断が付いた程度である。
 女性は身長で年齢は判断出来ないと気を引き締め直す、彼は周囲にマナやレイと言った生きた『証明』を知っていたから油断しなかった、女性が性別故に男に引けを取っていたのは昔の話だ。
 前世紀の時点で格闘技術は極限とも言えるほどに洗練された、中華系武闘のツボを的確に責める刺殺技などは特にだ、関節、あるいは生理的な反射行動に至るまで研究し尽くされている。
 確かに数千年の時を経て進化して来た人類の形態、形状は力の一点に置いて女性には不利な物であったが、肉は疾さを殺す、エネルギーの消費量も増大させる、そして新世紀、これらの利点を生かし、不利を克服するために『科学』がサポートを受け持っていた。
 今、ムサシが五分に渡りあえているのは、自分がまだ子供であったからだと感じていた、まだ体が未発達な今だからこそ、彼女の持久力、耐久力、速度に匹敵できるのだと痛感していた。
「ふっ!」
 突くと見せ掛けて手首を返し、薙ぎ払う、高周波が容易に切り裂いてくれる武器なのだから力はいらない、これもまたムサシの様な子供、そして女性が大の大人と渡り合える理由の一つである、だが。
「っ!」
 こふっとマスクの下で息の音がした、ありふれた極太の刃の、まだ切り込みの入っていない部位で受け止め逸らす、真っ向からぶつかっていれば勝つのはムサシのナイフなのだが。
 ナイフの技術で負け、武器で勝っている、その焦りは確実にムサシの中に蓄積されていく。
 そして彼女はその隙を突いた。
 突き出された切っ先に避ける術がないことを悟り、ムサシはそれに対して目を閉じた、覚悟を決めたと言わんばかりに、その瞬間、『敵』の『殺意』に迷いが生じた、そして。
「くっ、う!」
 倒れたのは敵だった、右の腿を押さえて横倒しに転がっていく、ムサシの左の手は親指が何かを弾いた形で静止していた、よろめくように二、三歩後退し、踏ん張り、ふうと息を抜く。
 −指弾−
 それも撃ち出したのは先のニードルガンの弾と同じ、キチン質の膜で作られた珠だった、中に入っているのは筋肉弛緩剤と麻酔、それに少量の麻薬と、媚薬。
 痛みに腿を揉んだのが悪かった、キチン質の珠は蛋白質に吸収されて、中の液体を体液に混ぜた、あっという間に脳髄を犯され、彼女は意識を混濁させた、辛くはない、むしろ恍惚と自分を見失って喘ぎを発した。
「だまし討ちってのは嫌いなんだけどな……」
 気を失ってなお、体を、特に腰をヒクヒクと痙攣させ、悶えている様に渋面になる。
 下半身が痺れていれば人間は十分な動きを成しえない、それは理解るが、こういうやり方は女性に対して失礼だろうと思うのだ、絶頂を持続させる事で精神を嬲り、気力を根こそぎ奪うなど。
「またマナに嫌われるなぁ」
 彼は一人ごちると赤いシールを取り出して、封を剥がし、彼女のヘルメットに張り付けた、これで微弱な信号波が出て、回収班がやってくる手筈になっていた。


 現在、この施設の中で混乱の収拾に務めているのはムサシだけではない、当然のごとく仲間が居た、逃げ惑う職員を誘導しつつ、その一方でムサシが『処理』したような『不審者』を回収していく。
 その現場を仕切っているのは実はマナであった、大人を顎で使っている、しかし彼女はあまりにも小柄過ぎた、目を引いた、建物を出た所で待ち受けていた退避用の臨時バスに人々が殺到する、その脇にいる彼女を目にし、戦時武官の一人が驚愕に叫んだ。
「霧島!?」
 目を丸くして驚いた、それも当然だろう、戦自にとって彼女は最も生きていてはならない存在なのだから。
 孤児の徴兵と登用、人権を無視した蹂躪と迫害、暴行紛いの訓練を課し……
 彼女はその犯罪全ての生き証人である、揚げ句の。
 ──爆破。
『あれ』さえ完成していればとの思いがあった、そうであればこのような一企業に出し抜かれる事も無かっただろうにと。
 ギリと歯を噛み潰してバスに乗らず、詰め寄った。
「霧島!」
 マナはびくりと脅えた。
「あ……」
 青ざめる、蒼白になる、体が小刻みに震え出す。
 どれだけ明るくなろうと、精神的に立ち直ろうと、それでも心に刻まれた傷は癒えようが無い、あくまでかさぶたが保護してくれているだけだ。
 そしてその男は……、怒りに顔を赤くして膨らませている男は、マナにかさぶたの下の痒みを思い出させるに十分だった、剥がされる、知った顔だったからだ、殴られ、蹴られ……
 深層心理に刻まれていたものが魂を萎縮させた。
「い、や……」
 視界を奪われた、抱きすくめられたのだと判った、次いで争う音と昏倒する男の呻き声。
「あ……」
 見上げ、抱いてくれたのが自分が指揮していた部隊の男性だと判った、マナからすればお父さんと呼んでいい歳の男だった。
 マナは唇を噛み締めて堪え、先の男を捜した、気を失っている彼を他の数人が運んでいく所だった、手早く、目立たぬように、しかも縛り上げてだ。
「大丈夫だ」
 マナを庇った男は、落ち着いた声でマナに語った。
「いいか?、俺達は『彼』の指示で君の『守り』を請け負っている、君が不安を抱くということは俺達の不甲斐なさの象徴になる」
 何が言いたいのだろうと、顔を見上げる。
「それ以上に俺たち自衛隊隊員は戦自の振る舞いを許すつもりはない、が、それではただの意趣返しになる、君の存在は俺達の大義名分そのものだ、なるべくなら助けは求めてくれ、……頼む」
 いいな、と命令するのではなく、真摯に目礼する。
 その態度にマナは涙ぐみながらも、今はと震える体を深呼吸で無理矢理押えつけ、現在の状況を、と発憤した。


 多少のトラブルはあったものの、それも『事故』の範疇として処理されていく。
 従来の自衛隊と、その後にエリートのみで構成された戦略自衛隊との間には大きな摩擦が存在していた、銃を持ちながら使用には大きな制限を持つ自衛隊は、対使徒戦を想定した戦自ほどには自由に行動出来ないのだ。
 その上で、災害支援のみに重きを置いているとして自衛隊は誹られ、予算の大半を削られていた、当然のごとくそれは戦自へと流入している。
 しかし自衛隊は戦略自衛隊ほどには『汚い』組織では無いのだ、その点において評価はされるべきだった、諜報戦を堂々と行う戦自のイメージはことさらに悪い、揚げ句マナのような存在を知るにつけ、自衛隊が戦自に協力することは皆無となった。
 付け足すのならば、自衛隊は国連の臨時戦力として協力を要請され、出向している、これは軍事協力ではなく災害救助活動の一環であった。
 治安維持活動のためには銃を使わなければならない場面もある、それを乗り切ろうとする彼らの苦悩は計り知れないものがあった、他にどのように思われようが、それは彼らの矜持であり、誇りでもあったのだ、人を殺さない事が。
 それを日本政府は、防衛力の欠落を理由に戦略自衛隊を立ち上げた、最初から人殺しを前提とした部隊をである。
 これに対する反発がいかばかりのものであったか、想像に難くない。
 陸、海、空の自衛隊内部に、有志による特別チームが存在しているのは『おとぎ』のような存在を見れば判ることであり、そしてマナを守ろうとする彼ら常識的な人間もそのような内から名乗りを上げた者が手を組んだ存在であった。
 施設内部は一応の爆発は収まったものの、連鎖的に配管を通じて爆発したために、地下のほとんどは炎に包まれていた。
 そこに大量の水が放水された。
 膨大な排出待ちだった水がスプリンクラーに使用される、プールの底ではその水の流れにマシンが揺れている。
 放水の必要がない区画も、地下からの熱に対処するため雨を降らせていた、蒸気が発生して逃げ遅れていた者の喉を酷く焼いた。
 黒い髪の……、少女だった。
 一連の事件に巻き込まれ、翻弄されて、彼女は降って来た雨に顔を上げた。
 左胸のIDプレートが一瞬揺れる。
 −山岸マユミ−
 その名前も濡れて歪んで見えなくなった。



続く



[BACK][TOP][NEXT]


新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。