『おとうさん?』
 ──あの時、あの人が来てくれなかったら、どうなっていただろうかとわたしは思う。
 夕方。
 もう電気を点けていい頃合いの時刻。
 帰って来た彼女を待っていたものは母だった肉塊と凶器を手に立つ父だった。
 −AD2007/02/03−
 山岸マユミと言う名の少女はまだ五歳だった。


NeonGenesisEvangelion act.18
『迷走台風』


 心地好いとは言えない雨に、彼女は非常に難儀していた。
 ……女の子だった。
 何故こんな場所に居るのだろうか?、その泣き出しそうな顔はシンジ、アスカ、マナ、ムサシ達と比べて、ここにあって好い物では無かった。
「……やっぱりおじさんになんて着いて来るんじゃなかった」
 長い黒髪を雨に濡らして重く垂れ下げていた、愛敬のない、不細工と言って良い大きな縁無し眼鏡は息によって白く曇り、髪と共に彼女の顔を隠してしまっていた、ただ、口元左にある一つのほくろが印象的だった。
 どうしよう、と彼女は壁に手を突いて歩いていた、疲れているのだろう、あっと悲鳴を上げて転び掛ける、ずれる眼鏡、幼い顔が露になった。
 ローティーンのふくよかな肌艶をした頬を雫がつたう、しかし顔つきに対して紺色のスーツの下はやけに肉感的だった、日本人的な乳房は垂れ気味に感じられたが、身長に対してはやや大きい。
 足は短足とまでは言えないが、外国人に比べれば下腹の位置が低かった、身長は百五十半ばだろう。
 口に入ろうとするスプリンクラーの水をぎゅっと唇をつぐんで拒絶する、口元のほくろが変に扇情的な色香を付け加える、年齢に反して髪を掻き上げる仕草などに色気があり過ぎたが、女性とするには全体的なバランスが幼かった。
 蒸し暑さに上着を脱ごうとして躊躇する、シャツがすっかり濡れて透けてしまっていた。
 素朴に過ぎるブラジャーがはっきりと見えてしまっている、年頃というのは微妙な物で、もう少し大人になれば自慢にもなる胸も、この歳ではどうしても恥ずかしい。
 それでも立ち上る『蒸気』に彼女は我慢できずスーツの上を脱いだ、捨てずに脇に抱えるのは性格故だろう、捨てることは出来なかった。
 蒸気……、この通路には蒸気が立ちこめていた、爆発現場である地下に近いのだろう、彼女はすっかり迷ってしまっていた。


 ──はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ!
 ザァザァと足元を豪流が流れていく、地下施設は全くの暗闇に近い状況だった、非常灯の赤い光がぽつぽつと見えるだけで、ヘルメットの暗視機能が無ければ彼らは足を踏み外していただろう。
 この広大な施設の最下層には動力炉が存在していた、そのほとんどは発電機だが、現在は地上部でのスプリンクラーの水などが流れ込んで水没してしまっている。
 幅二百メートル、全長は果てしなく遠い、この区画の天井は床から二十メートルはあるだろう。
 彼らが走っているのはその空に掛けられた点検用の通路だった、左右には腰高でパイプによる手すりが作られている、足元は網で、かなりの足音が立つ。
 しかしそれも巨大な機械を押し流す勢いで流れる豪流の音には負けてしまう、紛れて気にもならなかった。
 機械は水没しても正常に動くよう設計されていたのだろう、パネルなどは光を灯して流れる水面を淡く川底から照らしていた。
 逃げる者は三人、先頭に立っているのはゴドルフィンだった。
 冗談ではない、と彼は思う、振り返る事が出来なかった。
『居る』のだ、そこに、確かに、間違いなく。
 暗視カメラに映らない、赤外線以外の機能に切り替えても反応は無い、それでも全身の産毛が毛羽立って教えてくれる。
「うっ、うわあああああ!」
 なまじプロであったことが災いした、気のせい、そう言い切る事が出来ずに最後尾の彼がキレた。
「ばっ!」
 馬鹿、そう静止しようとして出来なかった、もう一人の仲間と共に振り返って、あり得ざる光景を眼にしてしまう。
 向けられた短針銃から七本の針が撃ち出された、外周に六、中央に一、ニードルガンは一度にそれだけの針を撃ち出せるよう設計されていた。
 暗闇に銀光が煌めいた、キィン!、甲高い音を立ててそれらは散った。
 闇から滲み出て来たのはシンジであった、銀線を右手で振っている、左手はポケットの中だった。
 可能なのだろうか?、この闇の中で針の腹を叩き、軌道を逸らし、それで間に合わぬ物は切り落とす。
 ニードルガンとは言え、その速度は通常の銃とほぼ変わらない、その速さで七本も撃ち込まれ、一本一本を視認し、的確に処理したのだ。
 出来るものなのだろうか?、シンジが繰る糸は一本なのだ、それで一度に七本同時に処理できるのだろうか?
 一体どれだけの速度でシンジの糸は振るわれたのか?
 考えるだにゾッとする、その技量の凄まじさに。
 だが恐怖に取り憑かれながらも、彼はあくまでプロとして行動した、してしまった。
 腰のベルトに取り付けていたテレビリモコンサイズの物体のスイッチを押して、それを川面に投げ入れた。
 ──ボン!
 気泡が弾けて蒸気が上がる、それを掻き分けてくる『何か』を判別して彼は跳び下がって間合いを外した。
「はっ、は!、何が『伝説』っ、ブラックデビルだって!?、たかが糸使いじゃねぇか!」
 音速を越えない限り空気は揺らぐ、蒸気がその『瞬間』を見極めさせる。
「マウス!」
 彼女の声は逃げろと告げていた、場所が悪過ぎる、どのような糸かはわからないがこの道は直進なのだ、そして出口はまだ見えない。
 こちらには飛び道具があり、相手にはない、その事が彼女に非常に強い懸念を抱かせた、そんな不利がわからないはずが無いのに『彼』は意にも介していない。
 何故?
 しかしもはや、マウスと言うらしい彼には、それを考えるだけの余裕が失われてしまっていた。
『死ね!、死ねっ、死にやがれ!』
 日本語でも英語でも無い、どこかの国の言葉で喚き、引金を引いた、しかし。
 ──キキキン!
 銃は焦れば焦るほど射撃のタイミングが単調になる武器だ、引金を引くストロークは遅くすることは出来ても構造上、加速には上限があるのだから。
 蒸気の雲が散る、もう一発爆発物を投下しようとして彼は奇妙な音を聞いた。
 シンジは両手で糸を振っていた、一本ずつ右腕を上、左腕を下に平行に、横へ、反復して。
 ──ビュンビュンビュンビュンビュンビユンビユンビユンビユンビッ、ビビビビビビ!
 ピン!、その音はなんだったのだろうか?、はっきりと言えるのはかすかに残像を見せていた糸が、その煌めきさえ見せなくなったこと、異様な風に頬の皮を押された事だった。
(ソニックブーム!?)
 音速を越えた衝撃波だった、頬が、瞼が、体が裂ける、裂傷がパックリと開く、縦に、横に、十字に、肉が削げる、こそげる、骨が見える、寸断される。
「あ、あ、あ、あ、あ!」
 唇が縦に切れた、口の両端から顎元まで亀裂が入った、舌が跳んだ、目が割れた。
「マウス!」
 叫んだ彼女を抱いてゴドルフィンは伏せた、『彼』が慈悲深くもこの橋桁の手すりより下に安全地帯を残してくれているとわかったからだ、『彼』には『縦』に糸を振る事も出来たはずだから、ゴドルフィンはそこに交渉の余地を見つけた。
 ドシャ……、『下半身』が崩れ、手すりによりかかった、ヘソから上は奇麗に無くなっていた、きっと川に流されたのだろう、惜しむらくはそれを餌とする魚が居ない事だろうか?、つまりは無駄死にだった。
「ま、待て!」
 ゴドルフィンは連れの頭を伏せさせたままでヘルメットを脱いだ。
「我々は君の敵ではない!」
 足を止める。
「敵じゃない?」
「そうだ!」
 両手を前に出し開いたままゆっくりと起き上がる、それは衝突する意志が無いと言う、一種の白旗だった。
「我々はイレイザーシステムの情報を入手するために侵入した工作員だ!」
「隊長!?」
「黙ってろっ、ミエル!」
 彼女、ミエルは更に何か言い募ろうとしたが出来なかった。
 ゴドルフィンの蒼白過ぎる顔に、状況の不味さを肌で感じたからだった。
「我々の目的はデータだけだ!、君との戦闘ではない!」
 ふうむとシンジ。
 今ひとつ年齢が逆転している光景だった。
「……でも」
 ごくりと生唾を呑み込み、シンジの言葉に耳を傾ける。
「なんだ」
「イレイザーシステムは僕の設計品で、ここで開発されてる機体は僕の委託品なんですよね」
 血の気が引く。
「そうかもしれないが!」
 シンジは面白そうに目を細めて笑った。
「あなたは僕を良く知ってるみたいですね」
 あ?、と間抜けた返事をしてしまった。
「……噂ほどにはな」
「そして僕がここに居る事も、そして仲間を捨てゴマにすることも計算の上だった……」
 隊長、と呻いたのはミエルだった。
「作戦のためだ」
 項垂れるミエル、確かに侵入時に宣言されていたものの、こういう場で口にされてはまた別の感情が沸き上がってしまう。
 見捨てる事が前提の関係、崩れ去る信頼。
 けれど。
「なのにどうして彼女を見捨てて捨て駒にしないんですか?、幾ら僕でもあなたが逃げるくらいの時間はかかりますよ?」
 なにをどうするから?、とは口にしない、しなかった、が……
「それはできない」
 事務的にゴドルフィンは答えた。
「君が女性を特に大事に考える事もまた知っている、今彼女を見捨てれば君は間違いなく俺を先に殺す、違うか?」
 シンジはくつくつと笑った。
「なるほど……、良く知ってるみたいだ」
 そして……
「あなたのような人が何故『教団』に与しているのか、僕にはわかりませんよ」
 知られている?、と絶句した。
「……仕事だ、主義主張には縛られていない」
「なら次は僕に雇われる事ですね」
 キョトンとした。
「君に?」
 シンジは背を向けた。
「第三新東京市で会いましょう」
 闇に溶けるように姿を消す、それでも暫くゴドルフィンとミエルの二人はじっとしていた。
 恐怖に固まってしまった二人は、ゴォゴォと耳をつんざく水の音を聞きながら、それからさらに十五分の間、身動きすることなく身構え続けた。
 シンジの存在に脅えたままで。


 ──夕日の色だったのか、血の色だったのか、わたしには区別が付けられなかった。
 見上げたそこに居たのは顔を失った人だった、父だった人だった、逆手に包丁を握っていた。
 ──オトウサント、イコウ?
 お母さんは?、そう訊ねると逆上した様子で包丁を振り上げられた、恐ろしくて身動き出来なかった、眼も閉じられずに凝視してしまった。
 そして。
 ──トッ!
 酷く軽い音がして、彼女にはその原因がわからなかった。
 恐る恐る見下ろすと、包丁が奇麗に刺さっていた、ぶるぶると震えながら見上げると、父は満足そうに笑っていた、狂気の笑みだった、狂喜していた。
 仰向けに倒れる、父が手を伸ばして来る、包丁を抜いて二度三度刺そうと言うのだろう、しかし。
 ──キャアアアアア!
 上げられた悲鳴は近所の婦人のものだった、たまたま回覧板を届けに来た事、狂気の現場が玄関すぐの廊下だった事が幸いした。
 蒼白になり、自分のした事を自覚したのか、憑き物が落ちた顔で罪にわなないた。
 途切れそうな意識の中で、お父さん、と涙した、どうして、と。
 すると聞こえたのだ。
 声が。
『それはね』
 と。


「好きってなんだろ?」
 −AD2013、ニューヨーク、国連本部、そのカフェテラス−
 彼女、山岸マユミはここ数日をずっと同じ席で過ごしていた、養父の仕事の都合で転々とする事が多く、日本のように『義務教育制度』がない地にいることが多かったため、基本的に勉学は通信教育で受けていた。
(それでいい)
 そう思っていた、なによりも他人と関わらなくていいのは楽だったから。
 暇になるとノートパソコンで適当なページにアクセスし、そこからデジタルブックを入手していた、今時世界中の図書館はどこも電子化が進んでいて、そこから好きな本を探すのも良い時間潰しになっていた。
 そんなマユミのライフスタイルには、静かな場所こそが良く似合う。
 なのにマユミはこうした人の多い場所を酷く好んだ、それは……
「あ……」
 似てる、と思う人を見つけるのが好きだったのだ、あの日、実父の狂気に死を享受した。
 その父は現在服役中、出て来たとしても彼女の周囲二百メートル以内には立ち入りを禁止される事になる。
 しかしマユミの興味は父には無かった、自分は確かに死んだはずなのにこうして生きている、傷もなく……、誰かに助けられたのは覚えているのだ、なのにその顔が思い出せない。
 だが感覚的な物はあった、だからこうして眺めていた、目の端に引っ掛かる人を見付けては、今読んでいるお話の主人公と照らし合わせて夢を見ていた。
 見知らぬ人と、自分との切ない恋の物語を思い描いて。
 ……内向的で、口数の少ない、大人しい子。
 そんなイメージとは裏腹に、彼女はとても想いが深く、熱情的だった。
 お昼時、少し混んで来た。
 窓際の一番奥だが、それでも時折相席を頼まれてしまう、そう言う時は緊張してしまうから、マユミは一旦切り上げて逃げ出していた。
 一人で淡い妄想に浸る事が好きだったから。
 ──けれど。
「ここ、いいかな?」
 そう訊ねられた時、昨日までと同様に、「はい、……もう出ますから」、そう答えかけて驚いた。
 見上げたところにあった微笑みに、眼鏡の奥で目を丸くしてしまった。
 その時着ていた服は白のブラウスにありふれたスカートだった、なのに腕や、首筋と言ったほんの少しの肌の露出が気になってしまった。
 ──見られている。
 そう意識してしまって、萎縮してしまって……
「何読んでるの?」
 俯いて、小さな液晶画面に顔を隠そうと伏せている彼女に彼はそう問いかけた。
「え、あの……」
「……いいよね、ここ」
 唐突に。
「政府の人なんかも来るからって値段高めだけど、その分干渉されないしね、何か読むには丁度いいもん」
 は、はい、と蚊の鳴くような声で答えてしまい、後悔する。
 こんなことじゃいけない、なんとなくの予感、期待、そして絶望。
 やっと逢えたのに、間違い無い、そんな確信があるのに、これでは嫌われてしまう、と、けれど。
「ねぇ?」
 優しい声だった。
「恋愛小説って、読む?」
 また聞き取れないような声で答えてしまう。
 それでも彼の耳には届いたようで……
「そう……、好きなんだ、そっか」
 必死の思いで彼女は訊ねた。
「嫌い……、なんですか?」
「ううん、でも苦手だから」
「……そう、ですか」
「僕には好きってことが良く分からないからね」
「え……」
「ねぇ?、好きってなんだろ?」
 真顔で訊ねられて困惑した。
「……小さい頃はさ、男の子とか女の子なんて関係無くて、一緒に砂場で遊べるみんなが好きだって言えたのに、でも大きくなると好きって恥ずかしい言葉になるんだ、好きなのに素直に言えない、もっと大きくなると」
 彼女の心臓を鷲づかみにする。
「……好きだから、誰にも渡したくないって、壊すんだよね」
 マユミは蒼白になって息を呑んだ。
「自分だけのものにするために壊しちゃうんだ、潰して、永遠にしてしまう、……でも馬鹿だよね、そうやって自分だけのものにしたつもりでも、他の、みんなの胸の中にも残っているんだから、永遠にみんなのものにしてしまうだけの行為で、自分で自分だけのものには出来なくしてしまって、自業自得……、違うかな?、なんだろ?、どうして思い詰めると人っていうのは……」
 ああ、ごめんと彼は言った。
「好きって言う言葉の意味がわからない人間が言うことじゃないよね」
「いえ……」
「多分……、永遠なんてないんだと思う、永遠に自分だけのものだと『思い込む』ためには立ち止まっているしか無いんだよ、自分一人になって、孤独に浸って、そうして自分の時を止めるんだ、流れから取り残されて……、でもね?、人間には完全に時を止めることなんて出来ないんだよ、せいぜいが流れを遅くすることくらいさ」
 マユミはようやく顔を上げた。
「わたしも……、そうなんでしょうか?」
「さあ?、でも時の川に乗らなければ人は動けない、みんなは船に乗っていってしまう、君を誘ってくれる人も居るだろうけど、君はずっと岸辺に居たいんだろう?、けれど川はいつも穏やかとは限らない、船を呑み込む事も、岸に氾濫する事もある、世界は君の夢や願いを無視して押し流すだろう、溺れた時、君はどうするのかな?」
 マユミは母が殺された時のことを思い浮かべた。
 あの時……、正に残酷な運命によって押し流された時、その手を取ってすくい上げてくれたのは。
「あ……」
 目を見開いて、凝視する。
 涙が滲むほど丸くして、前に居る人の顔を。
「今日はたまたま、偶然だけどね」
 そう言って少年はトレイを持って立ち上がった。
「君が手を伸ばせば僕はいつでも掴んであげる、それを忘れないで」
 マユミには黙って見送る事しか出来なかった、結局名前を聞くことも出来なかった、けれど。
 ──だめなの……、駄目なの、もう。
 堰を切った想いは止まらない、彼女は人に紛れて見えなくなった彼を追いかけようとして、テーブルに残されていた紙片に気が付いた。
 −碇シンジ−
 そこにはそう、記されていた。


 そう、山岸マユミ、彼女は以前にアスカが上げ連ねたシンジの『女』の一人であった。
 彼女が来日したのは強くそう願ったからだった、夕食、養父を呼びに書斎に入り、偶然見てしまった一つのファイル。
 ネルフ、機密、そんな言葉が並んでいた、内容についてはわからなかった、しかし。
 添付された写真と、『IKARI・SHINJI』の名前、それで十分だった。
 日本へ行くと言う、今回は数日だが近い内に住む事になるだろうと告げられた、もう我慢できなかった、一緒に行く、先に住む場所を作っておく、学校にも行く、通信教育ではなく、彼が通っているだろうことも資料から読み取ってしまっていたから。
 彼女は自ら漕ぎ出した、ただ……
 時悪く、今の流れは濁流だった。


 彼の名前はロイと言った、ゴドルフィンと共に潜入した一人である。
 黒髪に、黒い肌、現在は救急班のふりをして駆けずり回っていた、逃げ遅れた者がいないか確認するふりをして、何かを廊下の隅に転がしていた。
 ボールペンのようにも見えるがそれにしては太い、実は通信のための中継器だった。
 彼らの使う通信機は波長が特殊なために盗聴はされなくとも受信距離が短い、証拠を残す事にはなるが、この手の『製品』は半年と経たずに新製品に取って変わられる、惜しむだけ無駄だろう。
 人目が無い事を確認しては、廊下の隅に落としていく、そんな彼の前、スプリンクラーの雨の向こうに人影が見えた。
 マユミである。
 彼は迷った、助けるか、どうかを。
「大丈夫か?」
 だが結局は女性であると言う事を重視した、女性に……、見えたのだろう。
 紺色のスーツはこの施設の正規職員の制服に見えた、濡れてふやけ、ついでに血色の失われた唇と肌、それに見る影もなくなった髪形が、年齢を非常にわかりにくくしてしまっていたから。
 マユミは顔を上げると、ほっとした様子で表情を和らげた、助かった、と、しかし。
「おい!」
 叫び声にびくりと身をすくめる、そんな彼女の向こうから走って来るのは何処かの政務次官だった、おそらくは日本だろうが。
 彼が呼び止めたのは現状がどうなっているのか、マユミと同じように迷っていたからに過ぎない、だがそれにしては苛立ちから高圧的に叫び過ぎた。
 反射的にロイは銃を抜いていた、短針銃を向ける、逡巡した、この距離では当たらないだろう、雨による抵抗が強過ぎる、銃弾と違って影響されやすい、その上一度に発射された針はばらけてしまう、間には『彼女』が居る。
 銃を抜いてしまったこと自体が間違いだったと気付いたのは、相手が慌てて懐に手を入れたからだった。
 銃声が鳴った。
「下手くそが!」
 右手の短針銃を諦めて左手でナイフを抜く、投擲、倒れていく少女の頭上を煌めいて、その切っ先は敵に一瞬の隙を作らせた。
「くぅ!」
 男は大袈裟に身を屈めて避けた、冷静に考えれば十数メートルの距離だ、ナイフなどまともに届くはずが無い、だが気が付いた時には遅かった。
 ──!
 ロイは伏したマユミを身を投げ出すようにして飛び越えていた、両手でグリップを握り、引金を引く。
 ──プシュ!
 数本の針が役人の左の首をえぐった、噴き出す鮮血。
 致命傷を求めて今度は胸を狙って撃つ、のけぞって倒れた。
「くそ!」
 彼が毒づいたのはマユミに対してだった、助けると決めた者を助けられなかった、いや、殺してしまった。
 それはプロとしての彼の矜持を酷く傷つけた、明らかなミスだった、プロにあるまじき判断の誤りだった。
 自分の持っている武器の特性を忘れ、そこに現れた人物を見定める事も出来なかった。
「くそっ、くそっ、くそ!」
 マユミの肩に手を掛けてひっくり返す、カツン、川のように水の流れる床の上に何かが跳ねた。
 ──銃弾だった。
 違和感を感じたが、まれに何かに当たって無事だったということはある、首筋に指を当てて息を確かめる、生きていた。
 どうするか?
 迷いはなかった。
 ロイは彼女を抱き上げると、左右に首を巡らして、通常の避難経路を辿り始めた。
 ……後に残された弾丸が水に流されていく、その先端は潰れておらず尖ったままで、まるで優しく受け止められたかの様に奇麗であった。


わたしがいる……、本が好き。
本の中には下品な男の人もいないし……
勝手にあちら側からこちら側にやってくる無神経な人もいないから。
家の中が好き。
期待した以上のことも起きないけど……
それより悪いことも起きないから、自分で思った通りのことができるから。
わたしを誉めてくれる人もいないけど……
わたしを笑う人もいないから。
面倒くさいから、喋るのは嫌い。
どんなに言葉を重ねても、本当のわたしのことを理解してくれる人はいないから。
でも、喋らないから勝手にわたしがこうだと思い込む。
おとなしい子だと勘違いする。
嫌い。
そんな人は大嫌い。
自分の勝手なイメージを人に押し付ける。
そんな人ばかりだから。
碇君。
彼みたいな男の子は今までいなかったけど。
だけど、期待はしない。
何度も裏切られたから。
今まで裏切られたから。
みんなわたしを裏切る。
裏切らないのは、好きな本だけ。
でも、わたし、泣いてるの?
どうして?
どうして……

『知っていますか?、似た者同士は友人になれても恋人同士にはなれないって』
 儚く彼にはにかむ『わたし』
『わたし……、碇君と似てない方がよかった』


 泣きそうになりながら伝えた想い、精一杯の告白。
(あなたは……、気付いてくれませんでしたね)
 でも心地好い失恋の破裂感は……
 裏切られた気持ちじゃなくて。
『うわぁあああああ!』
 駆ける紫色の鬼から聞こえた必死の声が。
『わたし』だけを想ってくれていたから、と。
「あ……」
 浮上する、意識。
「……涙、泣いてるの?、わたし」
 彼女は『自分』を取り戻す。


「あ……」
「気が付いたか?」
 優しく前髪を払われて、誰?、と眩しさに目を細めた。
 スプリンクラーはようやく止まっていた、マユミが寝かされているのは机の上だった、どこかの資料室だ、床にはどけられた物が散乱している、本だの、コップだのと。
 マユミの体には彼の上着が掛けられていた、白いアンダーシャツは水に張り付いていて、マユミは透けて見える男性の乳首に赤面した。
「あっ、っつ……」
「無理するな」
 マユミはそれでも、彼の上着で胸を隠しながら起き上がった、右手で胸元を押さえ、左手で体を支え。
 記憶にあった、彼が銃らしきものを抜いた光景が。
 ロイは壁際に腕を組んでもたれかかっていた、何かを思案しているのか眉間に皺が寄っている。
「……運が」
「え……」
「今日、ここに来たことの不運を」
「不運?」
「そうだ……」
 彼は大きく頷いた。
「この騒ぎを起こしたのは俺達だ」
 マユミは首を傾げた、本来であれば脅えなければならないのだろうが、怖くは無かったからだ。
「爆発は計算されている、パニックさえ起こらなければ問題は無いはずだった」
 しかしと彼は心中で苦虫を噛みつぶした。
 この程度の『仕事』で死者を出すのはプロのやる事ではないと信じている、だからこそこのような少女が巻き込まれている現状に義憤する。
 今回の仕事の『参加者』には敢えて『殺人』を混乱の手段として選ぶ者もいる、だが他の者には他の者のやり方がある、完全否定できない自分、同じように見られたくないと、隠そうとしてしまっている自分。
 そのどれもが彼の心を掻き乱していた。
「作戦終了まで三十分だ」
「?」
「その後に君を解放する」
「何故……、ですか?」
「……それが俺の、何と言ったかな、そう、矜持だよ」
 恰好付けて慣れない日本語の知識を披露した訳だが、実はこれは逆効果だった。
 少々難しかったために、マユミにはその意味がわからなかったのだ。
 マユミは顎を引き、さらに上着を引き寄せた、どうするべきか、思案する。
 ……不意に先程の『夢』が蘇った。
(嫌……、嫌なの、もう)
 何もしないで待つだけなのは。
 何もしないでじっとしているだけなのは。
 それは誘惑だった、彼女は自分さえ動き出せば、彼は迎えてくれると『知って』いる、なのにその誘惑に抗うことができるだろうか?
 答えは……、決まっていた。
 かと言って自分にはどうにもできない問題がある、単純な力だ。
 人に頼るのは簡単だ、『君が手を伸ばせば僕はいつでも掴んであげる』、その言葉を頂いた時から、安易に彼を求めるのは止めたのだ。
 一夜だけの夢を望んだシンデレラですら、自分から勇気ある一歩を踏んだのだから。
 最初から夢見ているだけでは駄目なのだと今ではわかるから。
 夢を希望に変えるためには、実現するために現実的なアクションを起こさねばならない。
「あの……」
 だから、マユミは口にした。
「お名前……、教えて下さい」

 ……その頃、外の世界では。

 −第三新東京市、ネルフ本部−
「確認出来ました!、記録時間はコンマ00032秒、場所は旧東京っ、封鎖地区!、日本重化学工業開発工場、パターン青!、間違いなく使徒です!!」
 −同市、新時計坂町、メゾン一刻、402号室−
「え?、十二区画でATフィールドって、なんでこんな反応が?、……ええ!?」
 −旧東京封鎖地区内日本重化学工業特別実験施設JA格納庫−
「そうだ!、他は良いっ、イレイザーシステムのデータだけシールして……、JAの探知機に反応があった?、ATフィールド!?、間違い無いのか!?」
 −そして地下−
「山岸さん?」
 ……事は無事だった、では済まされず。
 世界は彼女を中心として、実に忙しなく回り始めていた。



続く



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。