──酷い時代だった。
 一枚のチョコを、僅かな食料をめぐって親子でも殺し合う。
 そんな甘い話は、物語の中だけの作り事であった。
 人を殺したとて手に入る物は、ナイフに、銃、それに弾丸。
 食えない物ばかりであった。
 森の中、出会えば必ず殺し合いになった、だから罠を仕掛け、そいつが食べ物を持っている事を祈っていた。
 腹が減れば木の皮を齧り、喉が乾けば泥水をすする。
 密林と言える森ではあったが、獣の気配が途絶えて久しかった、狩るだけ狩られたこの森は、もう死んでしまっていると言って良かった。
 そんな状態であったから、虫は貴重な蛋白源だった、食える物は何でも口にした、虫の巣を見付けたならば、横取りされないよう必死になった。
 幼虫を噛みつぶした時のぶちゅりと言う感触、とろけるような甘い汁、想像するだけで唾液が溢れる。
 ──その森がベトナムと呼ばれていた事を彼女は知らなかった。
 生まれすら覚えていない、気が付けばここに放り出されていた、ここでさ迷っていた、そう認識している。
 記憶は失ってしまっていた、あまりの環境からか、あるいはショックによるものか、それとも怪我によるものか……
 もはやそれを知る術は無い。
 十代半ば、髪は伸ばし放題で痛んでいた。
 金色の髪が現地人で無い事を示していた、服は白シャツに綿のパンツ、サイズは小さく、ぼろぼろだった。
 おかしなもので、そんな状態でも、彼女は人の言葉を失ってはいなかった、判断力もだ。
 今日も人がやって来た、食い物を求めているのか、それとも殺し合いのために来たのかわからなかった。
 時折この森には集団で人がやって来る、それが軍隊だと言うことは判る、一度助けを乞うたが、姿を見せた途端銃で撃たれた。
 理由などは知らない、それでも映画で見たような理由が思い浮かんで、それ以来接触は避けることに決めていた。
 しかし、今回ばかりは無理のようだった、どんどん近付いて来る、木の陰にしゃがみ込んだが、この森の木は細い、その上真っ直ぐにこちらに向かって来る、見つかるのは時間の問題だろう。
 今日で三日も食べていなかった、偶然見付けた死体、その肉か、脳味噌でもすすろうかと、人としての最後の一線で迷っていたのが仇となった、気を取られている内に、こんなにも接近を許してしまったのだ。
 今更逃げられない、彼女は死体から取ったばかりのナイフを握り締めた。
 これで刺す、殺す、そうすれば『新鮮な肉』が手に入る。
 空腹が彼女に倫理観を越えさせた、本能のままに、彼女は真横を通り過ぎようとした一人の男の脇腹に、鈍く光る短刀を突き刺した。
 ずぶずぶと嫌な感触がした。
 しかしそれ以上に、がっちりと手首を握られた。
「あ……」
 震えながら、脅え、見上げた所に、異常なほど恐ろしい、いかつい顔があった、髪は銀色で、右目は縦に何かで切られて失われていた。
「あ、う!」
 握り潰さんとする握力に負けて手を開く、そのまま引きずるように放り出され、地を転がされてしまった。
 男は何事も無かったかの様にナイフを抜いて、遠くに捨てた。
「隊長!」
「なにかあったんですか?」
「ああ……」
 男は言った。
「なんでもない」
 冷たい目で見下ろされ、彼女は小動物のように身を小さく、丸くした。
 がたがたと震えて。
 自分は『狩られた』のだ、ならばまずは血抜きでもされるだろうと……
 それが彼女……、ミエルと、傭兵、ゴドルフィンとの、出会いであった。


NeonGenesisEvangelion act.29
『正史《2》』


「おじ様、お昼出来ましたけど、どうします?」
 明るい声で彼女は口にした、ミエルだ、ゆったりとした衣装にエプロンを着けている。
 煉瓦が剥き出しの部屋なのだが暖かみはあった、掛け物のためかもしれない。
 ベッドから起き上がったばかりのゴドルフィンは、左の脇腹を掻きながら、わかったと頷いた。
 下着を着けているだけで、裸と言って良い、その脇にある小さな傷を見て、ミエルは少しだけ佇んだ。
 あれから十何年も経つ、深く突き刺したつもりだったが、彼の筋肉の前にはさほど食い込みはしなかった、自分が弱っていたからかも知れない、血は出たが内臓を傷つけるほどでは無かったのだ。
 最初は彼の捕虜とされた、その内奴隷に格上げされ、今では相棒として扱ってもらっている。
 なぜ娘や、恋人の段階を踏まなかったのか?、挟まなかったのか、情を通わす事が最も人として懐かせ易いのは事実だ、今のミエルにとってそれは一つの不満であった、が、答えは先日の、日本での作戦で得てしまっていた。
 彼は作戦のためには見捨てると口にした、必要以上の情はこだわりを生む、だからこその疎遠。
 寂しいと思ってしまう、自分はこんなにも好きなのに、と、こっそりと隠れて吐息をついた。
 二十八の女性が五十近い男に惚れるのはおかしいだろうか?、出会った頃は十四と三十半ばだった、そうおかしいとは思えない、彼女の記憶では十六にもなれば一人前の女性として嫁ぐのが常識であったし、その相手もしっかりと働けるようになっている三十代の男が対象として当然であったからだ。
 現在は叔父と良い嫁ぎ先を捜している娘と言う『設定』で、ここ、スウェーデンの街に『潜伏』していた。
 希望とは少し違うが、それでも限りなく近い関係に、彼女は多少の幸福感で満たされていた。
 さて……
 二人が猿芝居をしてまで、こんな地に滞在しているのには訳がある。
 食卓に移る、粗雑な作りのテーブルに、パンの入った篭と、芋とベーコンを煮込んだクリームシチューを盛った皿が置かれていた。
 二人は向かい合って椅子に腰掛けると、パンを千切り、シチューに漬けながら話し始めた。
「おじ様、今日は?」
「ん?、ああ、鉱山の方に回ってみるよ、あっちじゃ年中人手を欲しがってるらしいからな」
「恐いわ……、事故が多い場所なんでしょう?」
「仕方がないさ、この街も他と同じで失業アレルギーにかかっているからな、余所者に与えてくれる仕事なんて限られているんだよ、まあ、鉱山の仕事は危険も多いが、賃金も良い、お前が嫁に行くまでの繋ぎにはなるさ」
 ミエルは強ばりかけた手の動きを、なんとか自然な範囲の動作に収めた。
 難民が常に動き回る大陸では、このような北方の地であっても、大きな街に人は逃げ込む、だが、持ち合わせのない彼らは、道端に寝食の場を求めるしか無い。
 裏の路地には凍死体が転がり、表通りであっても行き倒れが出る。
 二人のように流れて来ながら、当たり前のようにアパートを借りている人間は非常に目立った、嫁入りのための僅かな持参金を当てた、と近所には説明しているが、その効果のほどは知れたものではない。
 実際、大家に水場の修理を頼んだところ、きっちりと盗聴器を仕掛けられてしまった程である。
 先の会話は、それを見越してのものだった、これから山の方に出かけて調べ物をして来る、今は危険では在りませんか?、これ以上のんびりと構えていては、いらぬ詮索を受けるばかりだ、危険も大きいが、警戒されてからでは元も子も無い、大丈夫、お前が脱出するまでは粘るつもりだ。
 先に行け、と言う、どこへと言えば第三新東京市へだ、これは予め、ここに来る前に決めていたことだった。
『黒い悪魔』に誘いを受けた二人であったが、もちろん、はいそうですかと受け入れることは出来なかった。
 なにより、余りにも事情から切り離されていると感じたからだ。
『彼』と『教団』の間になんらかの確執があるのは間違い無い、そのために作戦が発動され、自分達は利用された、捨て駒にされた。
 だからと言って、そのことについての恨みは無かった、犠牲が必要であったから、傭兵などを雇ったのであろう、が、死ねとは命じられていない、例え何かの陰謀に利用されたとて、むざむざと死にはしない、生還出来る自信があった、生き残れる技量があった、その心積りがあった上で契約したのだ。
 だが『彼』は違う、彼の前に立って生き残れた事が奇跡に近かった、そんな彼の元を次の契約先と選ぶのは危険過ぎた、生き残れる自信など全く無い。
 言葉通りに受け取ってのこのこと出向くべきか、それともこのまま潜伏して裏から離れた表の世界で平穏を求めるべきか。
 その選択のためにも今は情報が必要で、だから二人は、正確にはゴドルフィンは、教団に潜入するつもりでここ、スウェーデンのとある街までやって来ていた。


「霧島さん」
 アミューズメントパーク、というよりもただのゲームセンターなのだが、一階から三階までを大型のゲーム機が、その上の階をテーブル型の筐体と多少のリラックススペースが占めていた。
 その窓際の席で、紙コップに口を当てていたマナは、ケンスケの呼び掛けに顔だけを向け、大いに慌てた、カメラを構えていたからだ。
っ!」
 マナは手を伸ばしてレンズを塞いだ。
「え?、あ、霧島さん……」
「あ、ご、ごめんなさい!」
 酷くうろたえて……
「お願い!、カメラはやめて……」
 酷い嫌悪に戸惑った。
「どうして……」
「ごめんなさい……、あたし、前に、カメラで酷い目に合わされた事があるから」
 写真なんてものは使い捨てカメラが普及してからと言うもの、この時代になっても日常的に使用されている、撮る、撮られるがいくらのものかと思うのだが、ケンスケは少しばかり後悔した。
 写真が嫌いな人間は居る、減る物じゃないし良いじゃないかと思っていた。
 ここだけの話、ケンスケは隠し撮り写真の販売を行っていた、隠し撮りと言っても日常の姿を捉えた程度のもので、犯罪的な写真ではない。
 風景を撮るようななんでもないものだ、今もそのつもりだった、なんとなく収めておきたい横顔だった、しかし……
 撮りたいと思う気持ちがあるように、撮られたくないと願う心にも『理由』があるのだ、ただなんとなく嫌っている訳ではないのである。
「……なんでもない、証明写真みたいなものだったんだけど、それで色々な人に着け回されて、ね」
 強ばったマナの顔にケンスケは何も言えなくなった、何故一言断らなかったのかと悔やまれる、確かに瞬間的なシーンは問答無用で不意打ちのようにやってくる、訪れる、今までは慌ててそれを収めて来た。
 被写体を無視しなかったか?、その意思を尊重しなかったか?、事情を考慮した事があったか?、芸術のためにはそんなもの、と口にするのは簡単だし、それ以上に、ちゃんと考えていると言い訳するのは容易いことだ。
 好意を寄せている相手を傷つけてしまった、そのことがようやく意識に改革を引き起こす、現実に知ることは痛みを伴う、ケンスケはごめんと再び謝ると、黙ってカメラを鞄にしまった。
 ──実際の話。
 ケンスケの盗撮写真は彼が考えている以上に重大な問題を引き起こしていた。
 奇麗、可愛いと噂される女の子のいかがわしい写真……、体育で、三角座りをしている少女の、股の間に体操着からはみだしている白い物。
 そんな写真がどれほど飛ぶように売れているか、それが裏で噂を立てるか、……少女を傷つけるのか。
 考えたことがなかった。
 そんなものはあくまで噂だ、勝手に立てる方が悪い、気にする必要なんて無い、それらは全て、ケンスケの勝手過ぎる言い逃れだった。
 自分の写真を知らない男が持っている、そしてそれでいかがわしい妄想を膨らませ、それを事実として言い広げていく。
 またそう言った噂は良い暇潰しになってしまうのだ、中には男子から、『カーテンを開けっ放しでオナニーをしていた』などと言いふらされ、女子からは『気にすることない』と全く無実を信じてない、上辺だけの様子で慰められて、人間不信に陥り、誰とも付き合いを無くした人物とて居た。
 少しばかり暗くなり、気まずくなった雰囲気の二人を目に留めた子達が居た。
「ねぇ、あれって」
「やだっ、相田じゃん」
「げっ、マジ?、女連れ?」
 背の高さの違い、髪の長さの違いはあっても、共通して目鼻立ちのしっかりとした少女達だった、まず間違いなく、十人に九人は可愛いと認めるだろう。
 ただ男達の欲を刺激するほどの魅力は無かった、その点、アスカとは違って愛らしさで留まっている。
「ナニあいつ、生意気って〜かナマイキ!」
「でもあの子見たことないよね?、誰かな」
「どうせその変で見つけたんじゃないのォ?」
「それって趣味悪過ぎ!、なんで相田なんかに捕まんのよ?」
「そんなの知らないって」
「親戚とかってオチなんじゃないの?、それか、ほら、自分のヘンタイ隠してやっと捕まえたとか」
「あ、それってあり得る」
「じゃあ打ち解けた所で改めて撮影会とか?」
「サイッテー」
「どうせあたしらのガードが堅くなったんで、外の子で間に合わせようってんでしょ」
「あ〜あ、これでまた相田の被害者が一人か」
「誰か注意して上げた方が良いんじゃないのぉ?」
「あたしは嫌だからね?、相田にバレたらナニされるかわかんないじゃん、トイレにもカメラとか仕掛けてるらしいしさ」
「マジ!?」
「C組の子がトイレでCCDカメラ見付けたって噂だよ?」
「うわっ、そこまで?」
「あんな奴かかわんない方が良いって、ムシムシ」
「そう言やアイツ、綾波妹と仲良いよねぇ」
「だから相田から離れろっての」
 離れて行く一団。
 相田ケンスケの大まかな評価と言う物は、かように酷薄なものだった。
 彼の名誉のために補足しておくが、全ては事実無根である、ただ。
 その噂を肯定するだけの要素を、彼が持っているのは事実であった。
 ──相田ケンスケは父親と二人暮らしである。
 マンションはかなり壁が汚れていた、第三新東京市の初期時代に建てられたマンションで、工事のための大型トラックの排気ガスに、かなり汚されてしまったのだろう。
 その頃の名残なのか、このマンションの住人はベランダに洗濯物を干そうとしない、室内に干すのが癖になってしまっているからだ。
 外の空気は今では十分澄んでいるし、風に乗って黒煙がやってくることももうないのだが。
 その室内に、ごそごそと調べて回っている人影があった、子供だ、丸刈りの頭、ケイタである。
 その顔には異質なゴーグルが掛けられていた、壁などを透視する機能があるのだが、ケイタは一望した結果にげんなりとしていた。
「何考えてるんだよ、この家ってさぁ……」
 至る所に隠し場所があった、棚の裏、冷蔵庫の下、パソコンのケースの中、さらには警報機もある、特に重要なのは対盗聴器用のシステムだった、ワイヤータイプのアンテナを家中の壁紙の裏に貼り通して、もし誰かが盗聴器を仕掛けた場合、あるいは持ち込んだ場合、即座にその瞬間から検知した反応を報告するようになっていた。
 通常の盗聴器の探査機器を、常時稼動させているようなものである、少しばかり電気方面に明るい素人が作り上げたような、チャチな監視システムではあるのだが、これを仕掛けた人物は、在る意味では異常な精神の持ち主ではないのかと、ケイタの心胆を寒からしめた。
 それでも出直すわけにはいかないのだ。
 今、マナが一日をかけてあの少年を連れ回し、時間を稼いでくれている。
 カヲルはシンジとレイに知られない内に事を片付けてしまおうと言っていたが、ケイタにして見ればシンジよりもマナについてが重要だった。
 これはシンジへの背信行為に近い、シンジは許すだろうが、その分、冷めるだろう、冷めた目で見るだろう、マナを。
 同時にマナに人を騙すような仕事を押し付けたと知れば、ムサシはきっと黙っていない、確実に怒る。
 重要なのは、マナを傷つけないこと、落ち込ませないこと、嫌な気分にさせないこと。
 自分のつまらないミスから発生してしまった問題だと言うのに、マナに、ムサシにも与える影響は計り知れず大きい、下手をすれば信濃達と言った自衛隊組にまで迷惑を掛ける事になる。
 もはや詰め腹を切るだけでは済まされないのだ、一蓮托生、マナはそう言ってくれたが、ケイタは自身の責任を彼女にまで負わせるわけにはいかないと、時限爆弾の設置に取り掛かった。


 ──スウェーデン、ストックホルム。
 ここから鉄鉱山に向かって運行されている列車は、基本的に乗車賃は無料であった、その代わりサービスなどは期待出来ない、その上、停車する事も無い。
 駅もまた存在しなかった、長年培われて来た経験によって、人々は勝手に乗り場を定めていた、列車はそこを通過する時、最大限に速度を落とす。
 乗る者は取っ手を掴み、あるいは引き上げてもらって乗り込むのだ、降りる時には逆に跳び下りることになる。
 ゴドルフィンはごつい体を粗末な黒いコートで包んでいた、寒い、少ない客室は満杯になっていた、残っているのは運搬用の、屋根もない貨車だけだったのだ、ごとんごとんと跳ねるように揺れる、乗り合わせている人数からしても、脱線しないのが不思議なほどだ。
 膝を立てて座り、皆で寄り添い、温め合う、ゴドルフィンは老女に頼まれて少年と少女の兄妹をコートの内に抱き締めていた、体の小さな自分では満足に温めてやれないと言うのだ。
 こういった時は助け合いである、彼は快く引き受けた、あるいは快く引き受けたように見せ掛けた。
 日本のような国では目立ってしまう彼の風貌も、極に近い土地では溶け込んでいた、ポールシフトは極に近いほど震動を大きく引き起こす、この地を襲った大地震は、五体満足な者を珍しくしていた。
 ミエルの様な『容姿美しい女性』は珍しい、けれども結婚していないと言う事実、このような地にまでその相手を求めに来た事情。
 それらを総合し、察すると、病気なのだろうと言う結論しか出てこない、彼女が強姦などの暴力に会わずに済んでいるのは、そんな想像を成り立たせてしまう社会の現状に理由があった、もっとも……、彼女が大人しく『手込め』にされる女であるかどうかは別なのだが。
 その点は、全く外見に反していると、言い切ってしまって良いだろう。
 彼女はゴドルフィンとは逆に、海を目指して汽車に乗ろうとしていた、人の行き交う構内で振り返り、不安げな表情をして見せる。
 ゆったりとふくらんだスカート、厚手のセーター、肩に掛けているのは砂色のコート、頭にはハンカチを被るようにしている。
 胸元に右の拳を当てて、体を捻り、何処かへと想いを馳せている様は、如何にも訳を窺わせる、匂わせる。
 だがこの駅では毎日何割かが確実に訳ありなのだ、気にする者よりも不安にかられて、同じように心細くする者が生まれるだけである。
 心細さは伝播して、心の内に押し隠している不安を強く煽り立てる。
 そうなってしまうことを本能的に感じ取ってか、見てしまわぬ様にそそくさと逃げ出す婦人が居た、女性が居た、それは無意識の内の逃避だろう。
 ややあって、彼女は汽車に乗るために歩き出した、ただこの感傷は迂闊であった。
 家を出る時には、港の、魚場の方で働き口を捜して来ると家を出たのだから、なら、一体何にそんな不安を抱いたというのか?
 彼女が数秒に渡って見せた仕草は、確実に、彼女を見張る目達に警戒心を抱かせた。


 日本が夕方でストックホルムが昼前だった頃、ニューヨークは明け方だった。
 洋上基地としても機能している国連本部は、闇に溶けてその姿を認識させなかった、海と完全に一体化してしまっている。
 警告灯があるとは言っても、ここへの着陸はそれなりに技術の要する事である。
 西暦二千十五年。
 この年になっても、世界最速の称号はSRシリーズが独占していた。
 平たい本体、その左右後方気味に取り付けられている翼、全てが音速突破後の空気抵抗を切り裂くために計算された形状である。
 この最新型、SR−201は基本構造においてセカンドインパクト以前のSR−71となんら変わるところはないものであった、主機関のコンパクト化と燃料効率の見直し、後は装甲の建材がより強化されただけである。
 今到着したばかりのその機体を、夜だと言うのに律義に風を受けて待ち受けていた男が居た、山岸ゲンタである、洋上の風だ、彼の顔はしっかりと強ばり、ひきつっていた。
 回頭しながら待機場所へと移動したブラックバード、そのキャノピーが開かれると、のっそりと搭乗員が降りて来た。
 いや、降りようとして……、転がり落ちた、どすんと。
 副操縦席から落ちた人物が着込んでいる物は宇宙服に見えた、山岸にはそれが耐Gスーツである事がすぐに判った。
 頭から落ちてのたうち回っていた、どうやら首をやったらしい、『彼女』はやおらヘルメットを取り……、取ろうとしてロックが外れず、また癇癪を起こして暴れに暴れた。
 やっとの思いで取ったかと思えば、力一杯地面に叩きつけたりもした。
「あったくもう!、なんなのよこの扱いは!」
 ──ミサトである。
 山岸はどうしたものかと口元を微妙に引き付かせながらも、彼女に挨拶するために歩み寄った。
「……一応、君が着ているものは、試験品とは言えドルで億はする代物でね、そう雑に扱わないで貰えるかな?」
「……あなたは?」
「山岸ゲンタだ、主に監査を担当している」
「失礼しました!、葛城一尉、ただいまネルフ日本支部より到着しました!」
 いきなり立ち上がり、見事な敬礼をして見せる。
 ゲンタは内心で苦笑した、まともな軍人でも無いのに、下手な軍属の者よりも敬礼が上手く見えたからだ。
 口にしては皮肉になってしまうと、言い護魔化す。
「すまなかったな、耐Gスーツを着せてまで急ぐことは無かったのだが、何分にも状況が微妙でね」
「微妙、ですか?」
「ああ……」
 案内する、と促す。
 着替えられる場所へと。
「所詮はネルフを『ダシ』にした政治屋の茶番だよ、本来使徒迎撃機関であるネルフの問題は、それを運用している国連こそが取るべきものだ、君のような一士官を呼び出し、責任追及をするいわれは無い、違うかね?」
「はぁ……」
「だが同時に、ネルフに秘密が有り過ぎるのも事実だ、我々は余りにもネルフを知らない、これでは弁解も擁護も出来ない、……君に対する質問すら纏められない状況にある」
「では急を要したのは」
「一つは質問の内容を纏めるためだ」
「後は?」
「……ネルフの実態調査に、協力してもらおうと思ってね」
 ミサトは僅かに強ばった。


 かちゃりと音を立てて置かれたカップの中には、それなりに濃いコーヒーが注がれていた。
 シュガースティックとクリームが用意されている、ミサトはそれを見て、ブレンドじゃないのかと落胆した。
 既製品だとわかったからだ。
 ゲンタの正式な階級は判らない、ミサトは階級章無しで平然と人に命令を下す彼を訝しんでいた、誰にも名前を知られており、さらにはこうして専用の執務室も持っている。
 事務室ではない。
 ただの役人ではない、余りにも怪しいのだが、ミサトも事前に手渡された資料から、彼が今度来る監査官であることだけは知っていた、知っていて先はとぼけて見せたのだ。
 テーブルを挟んで腰かけ合うゲンタとミサト、まず口火を切ったのはミサトであった。
「お聞きしてよろしいですか?、……なぜ制服では無く、スーツを着ろと?」
 ミサトが訊ねたのは自分の恰好についてだった。
 公務で来ているのだ、ネルフの制服に着替えるのが当然だろう、しかしゲンタに注意され、用意されていた女性用のスーツに着替えをさせられてしまっていた。
「ネルフの制服は目立ち過ぎる、それだけの理由だよ」
「はぁ……」
「君達に対する感情は微妙なんだよ、刺激するような真似は極力避けてもらいたい……、査問前に詰問されたくはないだろう?」
 彼はテーブルの上に置いていた資料を押し出した。
「これは?」
「この一月半の間にUN、及び各国軍隊、そしてネルフが消費した兵器の名称とその数、そして人的被害と使用された資金を表にしたものだ」
 ミサトはさっと押し返した。
「それはわたしも目を通しています」
「結構、君はこれについてどう思うかね」
 目尻をひきつらせるミサトである。
「浪費が過ぎる、と?、しかし」
「君は……」
 ゲンタははっきりと蔑んだ。
「いつもそうなのか?」
「は?」
「卑屈な女だな」
「……
「自信が無いからそうやって人の言葉を卑屈に捉える、誰も彼もが自分を皮肉って馬鹿にしていると思い込む、兵器の運用については国連が正式に認めた権限であり、その予算もまた同義である、これを批難するならば、承認した者達こそを責めるべきだろう、違うか?」
「……」
「わたしが聞いて言るのは対使徒戦略の専門家としての意見だよ、使徒と言う未知の生命体に対し、我々が取るべきと判断したのは殲滅戦だ、しかし現在の人類は中世の戦のような戦略、戦術のない総力戦を理解しえない、現代の戦争は基本的に制圧戦だからな、ミサイルの一つも何千万ドルとかかるとなれば、無制限に撃ち込む訳にもいかん、効果的に使用し、極力国力に負担をいぬよう注意せねばならん、だがその論理を使徒戦に持ち込み、サードインパクトを許したとなればこれは本末転倒だ」
 ミサトは捨てるように投げられた写真に目を丸くした。
 喘ぐ。
「あ……」
 そこに写っているのは光の巨人だった、胸に玉のある、エヴァの様な肩にパーツの存在する。
 バックは闇だった、雪が舞っている、南極、歩き出したばかりの『第一使徒』
 ミサトはそれを直接見た事があった、……最後の、父の笑顔の向こうに。
「この一ヶ月半で消費された全兵装、兵器の数は現存する戦力の一割に相当している、わかるか?、全世界の兵器の一割だ、あと数度使徒が襲来すれば底をつく、これを回避するために各国は全金融システムの停止を検討している、軍事化だよ、その上でエヴァの建造を引き受けようと言う」
「エヴァの!?」
「このまま現有戦力を浪費したところで使徒に対する効果は認められんとなればだ、さらに追加予算を徴収されるよりも、当事者となることを選んで当然だろう?、自国にもいつ使徒が襲来するか判らないとなれば、保有している兵器など当てにはならん、それはこれまでの戦歴が明らかにしてしまっているからな」
 ミサトはふと、奇妙な点に気が付いた。
「しかし……、しかし使徒の情報は厳しく制限されているはずです、何故使徒に対し、現在存在している兵器が役に立たないと……」
 そんな話が納得出来るのか?
「……情報は何処からでも流れるものだよ、その写真のようにな」
 ミサトは奥歯を噛み締めた。
 先日の太平洋での戦闘時に、日本は戦自を自国内の『怪獣監視』に向けていた。
 どうせ役に立たない、無駄と口にしたのを思い出す、考えて見れば使徒との戦闘結果、その際に観測、分析された情報を全く公開していないのだ。
『向こう』はまだその戦力が通じると思っている、それが当たり前だろう、エヴァでなければ倒せない、自分達はその理由を彼らに説明していない、理解しろと言う方が無理なのだ。
 無駄な努力と嘲るのは簡単だが、彼らも必死なのだと考えればどうだろうか?
 自分達の守る国に訳の分からないものがやって来ているというのに、邪魔だからと蔑まれては?
「君達はまず自分を知るべきだな、君達ネルフは鼻つまみものなんだよ、人の国で権力を傘に好き勝手をやっている無法者だ、いや、だった、だな、その君達に媚びてまでエヴァを手に入れるべきかどうか、今各国の政府は揺れている、君への審問にはその意味も含まれる、失われた太平洋艦隊などは所詮使い捨ての老朽艦の寄せ集めの集団だよ、誰も本気でその消耗を嘆いてはいない、だが新造艦を納入すべきか、エヴァを手に入れるべきか、そこの点が悩む所だ、使徒を君達に任せておくか、こちらの手で管理するか、場合によってはネルフからの全ての権限の剥奪もあり得るということを念頭に置いておいてもらおうか」
 さて、と仕切り直す。
「君はその資料をどう読む?」
 彼は嫌味ったらしく、その質問をくり返した。


 セカンドインパクトとその後の軍事需要のおかげで、鉄鋼の株は値上がりし、どこも鉱山は潤っていた。
 巨大な工作機械で掘削し、人が手を入れ、掘り出された鉄を精製場へとトラックで搬送して行く。
 山間をくり貫くように窪地を作り、採掘作業は行われていた、ゴドルフィンは山の上に上ると、それらの光景を見下ろし、鼻を鳴らした。
 ここから出荷された鉄の実に三割が消えている、その向かう先が『教団』であることは掴んでいる。
 ──そして。
 この鉱山が教団のなんらかの施設のカモフラージュである事もだ、採掘された物がリスト化される前に横領されているのだから、発覚しないのも当然である。
 鳥が驚いたように飛び立って行く。
 一見すれば誰も気にもしないような事柄ではあったが、ゴドルフィンは鳥の飛び立つ時刻が毎日決まっている事をつきとめていた、案の定、雑木林をぬって進んで、巨大な換気口を発見する。
 一変三メートル近い口が、林の中の崖に開かれていた、鉄格子がはめられている、勢いよく吹き出していた風は、暫くすると奇麗に止んだ。
 鳥はここからの排気に驚いて逃げていくのだろう。
 彼は懐からペンライトを取り出した、それは出力は弱いが、この程度の格子であれば十分切断出来るレーザー発振機であった。
 切断作業に従事する。
「手伝おう」
 聞こえた言葉に慌て振り返る、身は低くしたまま、手のペンライトを油断無く構えて。
 出力が弱いとは言え、人を殺すには十分な性能がある、ただ、そのためには接近する必要があるのだが。
 ゴドルフィンはその気配を読み違えることなく確認した。
「パイロン、か」
 枝葉を踏みながらも足音一つ立てずにやって来るのは彼だった、痩せていた顔に、以前よりも鋭い眼光が際立っている。
「まだ、教団に?」
「いや、俺は……」
 言葉を切る、同時にゴドルフィンも気が付いた、人がやって来る、大勢だ、その足幅から警戒しているのが良く分かる。
 枝葉を払っている音は、銃口を振って立てている、そう判断してゴドルフィンはパイロンへと目をやった。
「手を貸してもらおう」
「ああ」
 すらりと背に負っていた青竜刀を抜き払い、ゴドルフィンの隣へと立つ、一閃、格子はばらばらと落ちた。
 先にゴドルフィンが入る、換気口の奥は急な坂になっていた、迷うことなく滑り下りる。
 ゴドルフィンは落ちながら手袋をはめた、猫の鉤爪が取り付けられている手袋だった、それを壁に当て、引っ掻いた。
 ──ギャリギャリギャリギャリギャリ!
 音を立てて食い込み、速度を落とす、十メートルほど落ちた所で、ようやく横に曲る底へと辿り着いた、パイロンはと言えば……
「……」
 先程切り落としたパイプを持って格子をくぐった、そのパイプを元どおりにはめる、ぴったりと、吸い付くように、パイプは切れ目を消して元の一本の格子となった。
 それからようやくゴドルフィンを追って滑り下りた、彼を真似、壁にとうを立てて速度を落とす。
「なんだ?」
 ゴドルフィンはパイロンの視線に居心地の悪さを感じた。
「その歳で……、よくもやると思っただけだ」
「俺にして見れば、その若さで良くそこまで鍛えたなと褒めてやりたいがな」
「ふん……」
 小馬鹿にされたと思ったのだろう、パイロンは不機嫌そうに顔を背けた。
(この歳で、か……)
 ゴドルフィンはそんなパイロンの態度に、確かにと自分を省みた。
 確かにもう、このような無茶に堪えられるほどの体力は無い、すぐに疲れるし、回復も遅い、後方で指揮を取るならともかく、だ。
 ……自分一人であれば、とっくに引退していて良いはずだった、それが出来なかったのはミエルのことがあったからである。
 その気持ちに気が付かないほどどんでも無い、だが幸せは確実に危機意識を鈍らせる、引退した者が過去の遺恨から狙われ、命を落としてしまうのはよくあることだ、ほとんどが自分は引退したのだと、『勝手』に無関係を宣言して、油断をしていてのことである。
 終わるはずが無いのだ、周囲にしてみれば、何を勝手なと思うだろう。
 ……彼女が死んだ時のことを思えば、自身を喪失しないためにも、距離を置く必要があった、冷たくあしらわなければならなかった、でなければ娘か、恋人にでもしていたはずだった、ペットから、奴隷、付き人、パートナー、その段階に娘と恋人を混ぜていても、いや、そう手順を踏んだ方が、圧倒的に楽だったかもしれない、少なくとも未婚の女性として扱わねばならない心労だけは、確実に減っていただろう。
 引退すれば、まず間違いなく彼女も後を追って来るに違いない、その時自分は、彼女をどう位置付けるのだろうか?
 その問題もあって、先延ばしにして来ていた、結論付ける事が出来なくて。
 ふとゴドルフィンは先日の作戦で組んだ、もう一組のカップルのことを思い出した、こちらは親と子、向こうは兄と妹、位置付けられる立場は違えど、同じ血の繋がっていない者同士の組み合わせだった。
 あの兄は自分とは違い、手元に置く事に固執しているようだった、何かトラウマがあるのかもしれない、守るという目的のために、対象と言う手段を縛り付けている、そんな気がする、感じがあった。
 自分はどうだっただろうかと自戒する。
 ここで自分が死んだとしても、ミエルは隠れ家で待ち続けてくれるだろう、俺のことを想って、……そんな身勝手な絵面が思い浮かんでしまって、酷く勝手だなと思い直した。
(レイクと……、確か、フェリスと言ったか、あの二人は……)
 妹はその内、兄の拘束に反発するようになるだろう、反抗期だ、兄はそれを良しとしないで傷つけるだろう。
 だがそれはそれで良いと思える、でなければあの二人は、いつまで経っても依存し合うだけだから、独り立ちできない小鳥のままになるから。
 裏切りや反抗と言ったぶつかり合いが、自立のための第一歩になる、思えば俺は、ミエルを甘やかしはしなかったが、きつく叱った事も無かったな、ゴドルフィンは過去を振り返り、苦笑した。
 ──まだ死ぬつもりは無いんだがな。
 どうしてこんなにもミエルのことを考えてしまうのか?
 ゴドルフィンは、離れて作戦行動をしたことがない、──驚くべき事に、この十何年も、だ、その事実に思い当たって、かぶりを振った。
「行こう」


 ストックホルムの港は大きく分けて漁港と造船所に二分割されていた。
 まるで九十年代初期の頃を思わせる、重い空、黒い煙を吐く煙突、オイル交じりの酷い海。
 セカンドインパクトによって引き起こされた海面上昇も、この地には余り縁が無かった、地球には自転による遠心力が働いているのだ、星は真球ではなく楕円形になっている。
 赤道に近いほど海面の上昇率は高かったが、このように緯度の高い地方ではさほどの被害を受けてはいなかった。
 その分、極点の氷が厚みを増したなどの観測結果が出てはいるのだが。
 ミエルは漁港と造船所のどちらにも向かう振りをして、バスターミナルを少しうろうろとした。
 最終的な合流地点は第三新東京市と言う事になっている、そこでこれまでに仕入れた情報を引き換えに、例え『彼』と連絡が取れずとも、最悪ネルフに保護を受ける、そんな段取りになっていた。
 情報とはすなわち、先日、弐号機輸送船団を強襲した謎の艦隊の正体についてであった、教団の所有する『北方艦隊』の『一部』である、セカンドインパクトで行方知れずとなった艦がそのほとんどであるが、中には鉱山からの横流しを受けて造船された新造戦艦などもあった。
 その基地の場所も合わせて、彼女が握っている情報はかなりのものだ。
(少し離れてるけど軍関係の港があったはず……、下手な船に乗るよりも安全かも)
 どの道密航する事になるのだ、そう思い切って歩き出そうとした、と……
「動くな」
 背後、ぴったりと張り付かれてギョッとした、なんとか動揺を押し隠して、身を強ばらせたまま確認する。
「誰……」
「誰とはひでぇなぁ!、後ろ向けよ、冗談だよ」
 すっと背中に押し付けられていた物が引く、恐る恐る振り返り、彼女は驚き、目を丸くした。
「ハロルド!?」
 よぉ!、っと片手を上げて。
「元気してたか?」
「あなたこそ……、よく無事で」
「まあな、色々とあったけど」
 困ったように後頭部を掻く。
 その目は右に左にと忙しない。
「どうしたの?」
「……気が付いてないのか?」
「え?」
「この監視網だよ、冗談じゃないぞ?、見える範囲の七割はこっちに意識を向けてやがる」
「うそ……」
 急に人のざわめきが空々しく感じられた、右手にバスが流れ、左手の駅構内からは人が溢れ出して来る。
 正面、背後にもだ、左右と、それはそれは沢山の人で溢れている、一口に七割と言っても数百人に上るだろう。
 ざわざわと人の声は耳障りなほどだ、だがハロルドの言葉を信じれば、そのほとんどは演技だと言う事になる。
「ま、だから俺も、こう言った手を使うのに全然迷わなくて済むんだけどな?」
 手に持ったタバコの箱、にやりと笑み、本来タバコが刺さっている筈の口には何故かボタン。
「だめ!」
 ──驚愕。
 まさか、DOM!、本当にやった、一ヶ所二ヶ所ではない、吹き荒れる爆炎、構内で発生した炎は圧力によって建物を膨らむように弾けさせた、割れる窓ガラス、破片、砕け散る、壁が倒れる、柱が折れる、バスが垂直に吹き飛んだ、車が横倒しになった、スリップした車が突っ込んだ、倒壊した建物の屋根が落ちた、圧し潰される人、誘爆、突き上げるような震動と左右から吹き付けて来る爆風に翻弄されてミエルはよろめいた。
 腕を引いてしっかりと立たされる、真っ直ぐに噴き上がったマンホールの蓋が、ガン!、ガラガラガラと、倒れ掛けたその場所に音を立てて転がった、キキィと列車がブレーキを掛ける音が聞こえた、続いて轟音も、脱線し、横転したのだろう。
 同じタイミングで四方八方で爆発が起こり、余りのことに耳が死んでしまい、何も聞こえなくなってしまっていた、ミエルはそれでも飄々としているハロルドに戦慄した、この一瞬に無関係な者を含めて千以上の人間が死んだはずだ、なのに火に焙られるように照らされている彼は笑っていた、笑っているのだ、愉悦に浸って。
 あちこちに転がっている物体、人、その火が上げる煙が黒いのは、衣服が燃えているからだろう、肉の焦げる匂いよりも、『石油製品』の異臭の方が鼻に付いた。
 阿鼻叫喚の地獄絵図と言う言葉が、如何に陳腐な物であるのか、いやぁああ、きゃああ、ひやああああと、意味不明な声を上げて人々が逃げ惑う、背中を、髪を燃やしながら、火を背負いながらだ、本当に彼らはミエルを監視していたのだろうか?
 全身炎に包まれて、目の前で転がった、ぶすぶすと音を立てて焦げていく、その向こうを頭半分、腕一本無くしながらも、あうあうと意味不明に喘ぎながら歩いている男が居た、自分が死んでいると認識出来ないのだろう、ママー、ママー、そんな泣き声が聞こえた、見れば塩化ビニール製の人形を抱いた女の子が、訳も判らないままにさ迷っていた、人形は熱に溶けてぐったりとし、腕に癒着してしまっていた、髪が燃え、皮膚がとろけて剥がれる女がいた、目は熱にやられて白く濁ってしまっていた、感覚がおかしくなったのか、逃げ場を探して火の中に踏み込んでいく老婆が居た。
 業火が彩る赤と金の世界に色彩感覚が犯される、これは現実ではない、そう思いたい自分が居た、だが彼が許しはしなかった。
「ほれ!、なにボケボケッとしてるんだよ!」
「!?」
「行くぞ、逃げるんだろ?、それとも捕まりたいのか?、良いけどな、隊長にはもう会えなくなるぜ?」
 ミエルはぎゅっと目を閉じて、無理矢理少女から目を背けた、そうでもしなければ意識をとても逸らせることが出来なかったから。
 これは許されるべきことなのだろうか?
 彼女と彼では、倫理観において決定的な程の差があった。
 ミエルは傭兵であり、ハロルドはテロリストであったのである。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。