──擬似会議場。
「碇君、ネルフより提出されたレポートは読ませてもらったよ」
「なかなかショッキングな内容だったな」
 今日もいつものように、老人達と碇ゲンドウが重大な懸案事項について討議していた。
「便宜上、『赤木レポート』と呼ばせてもらうが、実にセンセーショナルな内容だ」
 分厚い冊子を放り出す。
「『巨人』の存在の肯定とそのエネルギー源についてを解いた、『葛城レポート』、これはあれを越える代物だよ」
 厚い、三センチはあるだろうか?
 それでも『全データ』のタイトルとその内容の概略が記載されているだけの『目次』に過ぎないのだ。
 ちなみに作成主は『赤木リツコ』となっている。
「使徒とそれに酷似した謎の生命体の関連性、否の付けようの無い論文だな、これは」
 ──その内容はこういう物だった。
 使徒、その後に謎の出現体、これをリツコは便宜上『異相体』としているが、異相体は使徒の別の可能性であるというのだ。
 使徒は間違いなくその前後において何らかの『情報』の継続を行っている、そうして戦略的に有利な地形、ポイント、そして戦術的に優位な攻撃能力を持って襲いかかって来ている。
 これに対して奇妙なのは異相体である、もし、使徒と異相体との間にそのような情報の『交換』が行われているのであれば、『既に失敗した戦略、戦術』を再度用いるような出現の仕方をするのはおかしいと言うのである。
 では一体なんの為に出現し、敗北しているのか?
 リツコはその形状が、現時点において第三使徒と第三異相体の時以上に外れ始めている事から、異相体は使徒同様に、そして使徒とは違った何かを模索しているものと判断した、そしてその結論とは……
 ──ATフィールドの存在を前提としない戦闘生態への進化。
 巨大なエネルギー体はそれ自体が空間を歪ませる、その歪みの『断層』をATフィールドだとするならば、これに質量兵器が弾かれてしまうのは当然だ。
 リツコはATフィールドを、こう定義付けていた。
 ATフィールドは一種の重力歪みである、巨大な質量体が存在するためにそこへエネルギーが集中してしまうため、空間がひずんでしまうのである、いわばピラミッドの圧電効果と似たような物だ。
 莫大なエネルギーが蓄積集中されている物と考えられる。
 使徒と呼ばれる巨大なエネルギーの塊が存在しようとするために、空間が歪められ、収束させられてしまっている、この内側と外側では当然エネルギーの密集率に差が生じることになる。
 ATフィールドによる位相差防御効果とは、あくまでその余剰効果に過ぎない、物質はこの高密度の『フィールド』に突入する事によって、圧力に耐えることが出来ず崩壊、あるいは圧壊することになってしまうのだ。
 突破は可能なのだ、その圧力を貫けるだけの勢いがあれば。
 先日の、碇シンジが起こした現象もこれによって説明されていた。
 ──光よ。
 便宜上『フォトンフォール』と名付けられたこの攻撃は、その『物質崩壊』に伴うだけのものであると、赤木博士は結論付けていた。
 重力崩壊が起こり、ブラックホールへと変質する寸前、その空間は光すらも吸収して視認させる。
 原理はともかく、『対象と範囲を確定』させてそれを成せるシンジと初号機の『性能』は筆舌に尽くし難い。
 ありがたい事に、現在、使徒にはそれほどの『能力』は見られない、それどころか、その巨体を維持し、運用させるだけで精一杯の様に思われる。
 巨大さの割りに、肉体を構成している素材は余りに脆弱過ぎるものである、何しろ死亡と同時に自重によって潰れていってしまうのだから。
 これを説明するためにも、リツコはATフィールドによる効果を上げていた、周囲に密集している高圧縮された空間の構成物質そのものが使徒の巨体を支えているのだ。
 水の中に入れば体が軽くなるのと同じ理屈である。
 となれば、確認されてはいないが異相体にもATフィールドが存在していると考えられる、その巨体を支えるために。
 ──なのに、位相空間を展開して防御をしない、これは何故か?
「ATフィールドは中和、あるいは破られる物と前提しての進化だというのか……」
「あるいはATフィールドなどと言うものを必要としない、より強固な存在へと昇華するための模索であるのか」
「いずれATフィールド無しに、エヴァを上回ると言うのかね?」
「あり得るな……、今は通常兵器によって対処出来ているようだが」
「後には、使徒以上の驚異となろう」
 ううむと唸りが上げられる、それはそうだろう、ATフィールドが無ければ酷く脆いだけの存在であるが、ならばいつしか、ATフィールド無しでも十分なほどに強靭な肉体へと進化するのではないか?、素人でも出来る想像だった。
「しかしこれは何の冗談かね?」
 一人が示したのは、リツコがスーパーコンピューター、MAGIによってあらゆる可能性を組み込んだ異相体の最終予想到達図だった。
 空を舞い、地を歩き、水を泳ぐ、そのために必要な機関、機首としての長い首、天空を舞うための翼、巨体を支えるための大足、水中で身をくねらせるために必要な長大な尻尾。
 その姿は、正に、西洋の悪魔として恐れられる『ドラゴン』、原始の恐怖、そのものであった。


NeonGenesisEvangelion act.32
『変調:pro・logue −外典 序章 第一節−』


「アスカ!、早く起きてよっ」
「ん〜〜〜、あとごふぅん」
「だったらちゃんと食器片しといてよね!」
 夜中に何をやっているのか?、ソファーでこてんと寝ている事が多いアスカである。
 シンジは彼女の手を引っ張るのを諦めると、狐色の香ばしいパンがふやけていく様にちえっと文句を言った。
「カヲル君!」
「ああ、準備出来たよ」
「行ってきます!」
「行って来るよ」
 がちゃがちゃ、ばたんと鳴った後で、ようやくしぃんと静まり返った。
「……ったく!」
 がばっと起き上がり、半ばあぐらをかくようなポーズを取る、背中を丸めたまま、ばさばさの髪をぐしゃぐしゃと弄った。
 少し大きめのタンクトップシャツにランニングパンツ、下はともかく、上は下着を付けていないようで、重力に負けて垂れていた。
「ほんっとに、やっとマユミが来るからって浮かれちゃってさ」
「……嫉妬してるの?」
 訊ねたのは、似たような格好で牛乳パックに口をつけながら歩いて来たホリィであった、その顔は珍しい物を見たと言わんばかりだ。
「アスカでも嫉妬するのね……」
 ギロッと睨む。
「変?、おかしい?」
「そんなことはないけど……」
 ブスっくれて頬杖を突き、そっぽを向いてしまうアスカの背中に戸惑ってしまう。
 あぐらをかいた膝の上に肘を突いているのだから、やたらと雑な仕草に見えた、不機嫌さそのままに、人の目を気にしていないと感じられる。
「そんなに気になる子なの?、マユミ……、ヤマギシ?」
 まあね、とアスカ。
「ストレートなのよ、マユミって、あたしやあんた、レイにマナ?、みんなそうだけど……、どこか求めてる物があって、それをシンジに頼ってるんだけど、それって重なってないでしょ?、依存したいんだけど重なっちゃうと奪い合いになるじゃない」
「それがアスカと重なってるの?」
「重なってるわけじゃないわ、……悔しいだけ」
「え?」
「……シンジって、ごちゃごちゃとしたのが嫌いなとこ、あるでしょう?、マユミはストレートなのよ、一途、っていうのとは違うと思うけど、それに近いかな?、だから」
 ああ、と手を打つ。
「不安なのね?」
 アスカの不機嫌は頂点に達した。


「まったくもぉ!、起きないなら自分で朝ご飯作ればいいのにっ」
 校門まで一息で走って来て、ようやく二人は息を吐いた。
 憤慨しているシンジの後ろでは、かなり息を切らしたカヲルが、さらに苦笑によって喘いでいた。
「仕方がないさ、アスカちゃんにとってシンジ君は特別だからね」
「だからって、関係ないじゃないか」
 やれやれとカヲル。
「訴えているんだよ、かまってくれってね?、猫と同じさ」
「そんなものかな?」
 シンジは気が付くとリビングでぽてんと横になっているアスカの後ろ姿を思い出した。
 ただくてっと横になっているだけなのに、撫でてくれと誘っている様な雰囲気を感じる後ろ姿を。
「アスカってさ……」
「ん?」
「可愛いよね」
 ぽつりとこぼしたシンジの言葉に、カヲルは過呼吸を起こすほど引き笑いをした。
 ──教室。
「おう、シンジ、渚」
「おはよ」
「おはよう、今日も元気だねぇ?」
 当然や!、と胸を叩くトウジである。
「で、あっちは今日も暗いのかい?」
 カヲルがそちらを見ないようにして訊ねたのは、自席で体を小さくしているケンスケのことだった、時折、ばっと顔を上げて天井、教室の角隅、窓の外を見ては、また警戒して小さくなり、周囲の様子を窺っている。
「なんなの?、あれ、この間からずっとやってるけどさ……」
 やや引いているシンジにトウジが伝えた。
「なんやブラックメンに狙われとるらしいわ」
「ブラックメン?」
「そや、なんでも某国の特殊諜報員で……、あいつ、いつもカメラもっとるやろ?、家に溜め込んでた写真とかディスク、根こそぎ盗まれたらしいんや」
 シンジは怪訝そうな顔をした。
「泥棒……、かな?」
「そやろ、たぶん……、そんでやな、神経質になっとるんや」
「ふうん……」
 話している二人は気付かなかった。
 その背後で、カヲルが一人爆笑する寸前で堪えていた事に。
「……けど、特殊諜報員か」
「なんや?」
「うん、もしかすると、僕達の情報が欲しくて狙ったのかもね」
「なんやそれ?」
「ほら、一応エヴァのパイロットとかやってるしね、それで何か映ってるかもしれないってさ……」
それだぁ!
「なっ、なに!?」
「そうだ!、それだよ!、エヴァのパイロットって言えば今一番注目されてる存在じゃないか!、そんな奴を撮ってたらそりゃ狙われて当然だったんだ!」
 いきり立つケンスケである。
「くそっ、甘かった、もっと注意してセキュリティを上げておけば良かった」
「セキュリティって……」
「はっ!、ちょっと待てよ?、そんな奴と同級生だって事は、マズいじゃないか!」
 ケンスケは忙しく蒼白になった。
「もっと詳しい事を知ってるかもしれないって、直接狙って来るんじゃ?、はっ!、そうかっ、まさかあの子!」
「あの子?」
「ああ、霧島マナって言うんだけどさ」
 へぇ、っとシンジ。
 その瞬間、笑い顔が氷のように固められた物になった。
「っと、こうしてちゃ駄目だ!、俺は暫く姿を消すからな!」
「消すって、どこへや?」
「馬鹿!、こんなところで喋っちゃったら盗聴されるだろう!?、じゃっ、俺はエヴァのパイロットの秘密を握る者として潜伏するからな!」
 鞄を抱えてばたばたと教室を走り出ていった。
「……なんやあいつ、キャラ変わっとらんか?」
 呆気に取られたトウジに訊ねられて、シンジも困った。
「そんなこと言われたってさ、そんなに仲良くないし、僕わかんないよ」
「さよか」
「うん……、ところで」
 逃げようとしていたカヲルはぎくりとした。
「どこに行くのさ?」
 珍しく恐怖心を煽られたカヲルであった、が。
『神』は彼を見放さなかった。
「はいはい、席について下さいねぇ」
 知らない人が入って来てそんなことを言うものだから、皆ぎこちなく、それでいて戸惑いながら従った。
 教壇に立ったのは金髪の女性だった、西洋人だと一目で分かる顔立ちをしていたが、目の色は黒よりの青だった。
「ミエル・クリスバレイよ、今日からあなた達の担任になる事になりました、よろしくね?」
 微笑みにみな赤くなる、男子も、女子もだ、それくらいに『柔らか』で魅力的な女性だった。
 首筋が完全に隠れる程度に長い髪、今は髪留めでとめられている。
 着ている物はノースリーブのサマーセーターにゆったりとしたスカートの組み合わせだった。
 彼女は一同を見渡し……、シンジを見付け、一瞬だけ緊張した。
 ……もっとも、それを見抜く事が出来たのは、当のシンジとカヲルだけであったのだが。
「ええと、それともう一人、新しい『お友達』が居るの、さ、入って来て?」
 そう紹介されて戸口からしずしずと入って来たのは黒髪の長い眼鏡の子。
 マユミであった。


 ──ネルフ本部。
「驚いた、としか言えないわね」
 技術部の長はそうのたまった。
 現在、エヴァンゲリオンに対するシンクロテスト中である、被験者はファースト、及びセカンドチルドレン、そして……
 ──ホリィである。
 アスカの予備のスーツを着て実験に臨んだ彼女は、その結果、零号機、初号機、弐号機、そして3号機と、全てのエヴァとシンクロして見せたのだ、数値的にはかなり低い物ではあったのだが。
「けど、システム上あり得ません、こんなことは……」
 困惑しているマヤを強く叱咤する。
「でも現実に結果として出ていることなのよ、それを認めて、解析する事が仕事でしょう?」
 マヤはリツコの正論に、しぶしぶながら納得した、確かにこれが仕事だからだ。
 エヴァンゲリオンのシンクロシステムには、MAGIの基礎となっている人格移植OSが使用されている、MAGIには生体部品として培養された人工脳が搭載されているのだが、エヴァは人造人間であるが故に、元々頭脳を持ち合わせている。
 これのA10神経と呼ばれている神経とシンクロする事で立ち上げるのが、基本的なエヴァの起動法である、しかし、ここで問題が出る。
 A10神経は俗に親子、恋人同士の関係に関って来る神経である、愛情はこの神経の作用による物だ。
 しかし健やかに成長した場合、この神経は『親離れ』に伴って鈍化していく。
 繰り返すが、エヴァンゲリオンはそれぞれに独立した『人体』である、その神経もまたそれぞれに違っている、なればこそ、独占欲があれば、拒否感もあるし、好みがあるのだ。
 どちらかが愛を与え、そして欲することが前提となっているシンクロシステムである、都合上エヴァは与える側になるよう設定されていた。
 そして、チルドレンである。
 本来チルドレンと呼ばれる『適任者』の家族構成は、片親が望ましいとされていた、それも母親を失っている者ほどに良い、これは精神障害が求める心をより強くするため、A10神経が繊細で、鋭敏なままに残ってしまっているからである。
 だからこそ、シンクロし易い特性を持つのだ。
 だがホリィの家庭環境には、そのように『適性』を保持し続けられる様な、『剣呑な問題』は存在していなかった、実に円満な家庭環境である、なのにこうもシンクロしてしまう、それも全てのエヴァに『好かれて』だ。
 知らない人間に愛情を持てるだろうか?、知らない人間を大事に思えるだろうか?、そんな成人君子がいるのだろうか?、……これはエヴァにも言えることである、システムは『専属パイロット』に合わせたものに特化されている、このシステムによって『エヴァ』と言う『人間』は『マインドコントロール』を受けて『専属パイロット』を我が子ほどに愛おしく『錯覚』するのだ、嗜好を持って。
 ……それなのに、ホリィはシステムの書き換えなくシンクロして見せた、これはどういう事なのか?
「特別な才能なのかもしれないわね」
 リツコはそう評した、時折子供の中にはいるものだ、どこに行っても、誰に会っても、いい子ねと頭を撫でて誉めてもらえる、笑顔の可愛い愛らしい子が。
 微笑ましく見守ってもらえる、愛敬のある子が。
(そういうタイプとも違うようだけど……)
 興味深い、とは思うのだが、生憎と彼女に求められているものはエヴァのパイロットとしての素質ではなく、統率者としてのカリスマである、このテストは彼女にエヴァについての認識をより深めてもらうのが目的であって、決してそれ以上のものではないのだ。
『葛城ミサト』とは違った意味での管理者として成熟してもらわなくてはならない。
 チルドレンは全てホリィの管轄下に入る事になっているのだから。
 ──作戦部からは、独立して。


 ──お疲れ様。
 その一言で試験は終わった、ホリィはロッカールームに引き上げた所で、ベンチに腰かけ、緊張から体を震わせていた。
 やる前は良かった、思い切りだけだったから、しかし終わってみれば空元気に過ぎなかったと感じてしまう。
 殻を被る必要が無くなった途端に露呈してしまう弱さ、故に震えてしまうのだ、普段の強さを継続するためには緊張を持続すれば良い、しかし立ち直る為にはそれなりの時間が必要なものである。
 アスカはシャワールームから出て来ると、そんなホリィを見付けて顔をしかめた。
「あんたまだシャワー浴びてないの?」
 生気のないはにかみにますます顔を歪める。
「早くしないと、匂い、取れなくなるわよ?」
 ホリィは弱々しくかぶりを振った、疲れた笑みを張り付けたままで、またうなだれる。
「アスカは……、強いわね」
「そう?」
「ええ……」
 体をのけぞらせ、白い顎を見せる。
 ホリィは天井の蛍光燈に目を細めた。
「忘れられないの……、あの、『高揚感』が……」
 それはアスカと共に弐号機に乗った時の感じだった。
「あの力を自分の力だと錯覚してしまいそうで……、駄目かもしれない」
 アスカには何か思う所があるのだろう、顔を歪めた。
「まあ、そうね……、シンクロとか同化してるって意味じゃ、自分がエヴァに『なる』と同じくらい、エヴァを自分としちゃうわけだから」
 かつてシンジが語った事が思い起こされた、自分とエヴァの区別が付けられなくなる、慢心、増長、自分の『程度』を見誤ってしまう。
 そんな人間は嫌味なだけだ、そう律するだけの心をホリィは持ちえていた、これは単に反面教師が周囲に溢れていたためである。
『色』で人を『視る』ホリィは、ああはなりたくないと思ってしまう事が多かった、だからこそ、そうなってしまいそうな自分を抑えるために震えているのだ。
 銃を持ったからと言って、自分が強くなれたわけではない。
「気持ちは……、分かるけどね」
 アスカはそんなホリィの顔に、体を拭いていたタオルをばさっと掛けた。
「まあ、それがホーリィのなりたい自分だって言うなら止めないわ、けど、シンジが望んでるホーリィじゃないってことだけは言っとく」
「……どういうこと?」
「つまりね、誰にだって成りたい自分って理想像があるって話よ、アタシにだってあるし、当然シンジにだってね?、けどそれとは別に他人に対して、『こうなって欲しい』とか、『こうであって欲しい』なぁんて勝手な希望を押し付けたりする部分ってあるでしょう?、シンジはともかく、アタシはホーリィに、そんな自分を勘違いしてるようなつまらない人になって欲しくないな」
 ホリィは顔からタオルを取りながらアスカの『色』を目に止めてしまった、『自嘲』、だった。
(アスカも……)
 それを経て、今のアスカが居る、そう感じた、いや、視抜いてしまった。
 タオルを持ったままで立ち上がる。
「……レイは?」
「まだ体洗ってるわ、あの子、血の匂いが嫌いなのよね」
 なら、とホリィはシャワーを浴びることにした、同じベッドで寝ている間柄だ。
 マナーとして、相手の嫌な匂いをさせていてはいけないだろうと、そんな『普通』のことを考えてしまっての行動だった。


 使徒襲来以来の度重なる恐怖心から、逃亡する者は跡を絶たない。
 それは何も政治経済と言った重鎮に限らず、日常の世界にも存在していた。
 ここ、第三新東京市立第一中学校も例外ではない。
「いやぁ、まいりましたよ、皆さん疎開されるものですから、人手不足で」
 何も生徒ばかりが疎開するとは限らない。
 教職員の中にも急な退職希望者は増加していた、一身上の都合と言うような曖昧な理由でならともかく、このような事情であると止める事も出来はしない。
 ミエルは愛想の良い笑みを禿頭の教頭に返した、ヨーロピアンとして標準的な背丈を持つ彼女にしてみればやや釣り合いの取れない相手だ、彼の目線は自分と同じ程度の位置にある。
 そのせいか、嫌らしい目つきが気にかかった、あまり好きにはなれそうにないと、自然と間に距離を取ってしまっていた。
 二人で廊下を歩いている、授業中だ、静かなものである。
 空き時間を利用して、案内してくれると言うので乗ったのだが、失敗だったかとミエルは早くも後悔していた。
「……特別クラスと聞いていたので、かなり緊張したのですけど」
 ややぞんざいに、そしておかしな日本語を『わざと』使う。
「まあ、特別と言いましても、ネルフから幾つか大目に見るようにと頼まれているだけですから、普段は大人しい子達ですよ」
 そうですか、と答えたが、この教頭は直接彼らに接したことはないだろうと判断を付けた、こういう人物は、管理職に徹していつでも『知らなかった』と逃げが打てるように、接触の機会を避けるものだ。
 ……ミエルがこのような職に着いたのには訳がある。
 その大半は新しく与えられた戸籍と経歴を演じるためなのだが、レイ=イエルに諭されたと言う事もあったのだ。
 ──教団から狙われている。
 ならばネルフの監視下にある施設ほど安全な場所はないだろうと説得されたのだ。
「ここだけの話だけどね」
 丘に上がって、港の桟橋近くにある喫茶店でレイは語った。
「エヴァンゲリオンの適格者は一纏めにして集められてるの、保護って名目でね」
「……適格者?」
「パイロットのこと、エヴァの操縦にはある種の潜在的な特性が必要なの、……必要とされてるだけだけどね」
 皮肉を匂わせる。
「まあ、それはともかく、それだけ監視も保安も万全って訳よ」
 目の前に差し出された書類は住居の位置を記した地図と、その間取り、そしてこれまで自分がどう生きて来たかの、偽の経歴を纏めたものだった。
「経歴に付いての細かい内容は自分で埋めてねん、こっちで決めちゃっても良いんだけど、『本当の自分』からかけ離れ過ぎちゃってると大変でしょう?、ボロも出易いし」
 そうは言うが、幼い頃にセカンドインパクトのため孤児となり、養父に引き取られ、『山野でのボランティア』に勤しみ、様々な国で活動し、教員資格を取って、現在に至っているとあった。
 その『様々な国』のことごとくが、『仕事』のために訪れた場所だった、中には誰も知れないような地名もあったと言うのに、その書類には漏らさず記載されている、村の名前まで加えられていた。
 目前で山盛りミートスパを二つのフォークを使い器用に大量に巻き取っている少女が、如何なる情報源を持って自分に相対しているのか?
 そのバックだけでも相当な組織であろうと窺い知れる、実際にはそんなものは無いのだが、彼女の想像こそ当たり前の物なのだ。
 自分は過去の経歴も含めて全て洗われてしまっている、そう考えると逆らうことは出来なかった、第一、無理をしてまで逆らう必要は無いのだから……、『あの人』が合流してくれるその時までは。
「クリスバレイさんは、ご結婚はまだ?」
 思索にふけっていたミエルは、反射的にいいえと答えた。
「籍を入れてはいませんが、一応は……」
「そうですか」
 がっくりとうなだれる。
「あの……、何か?」
「ああ、いいえ、わたし人にお見合いを奨めるのが趣味なんですよ、こんな時代ですからねぇ、家庭を持つのは良い事でしょう?」
 そうだろうか?、と思う以前に、見合いと言うシステム自体に馴染みが無い。
「見合い、ですか」
 だからミエルは戸惑った。


「ふうん?、この間から何かこそこそしてると思ったら……」
 カヲルは背後から来る殺気に戦々恐々としていた。
 少なくとも……、表面上、シンジは普通に座っているはずだ、なのにまるで耳元で囁くかの様に声が聞こえて来る、しかも吐息付きで。
(ああ、シンジ君、僕を責めないでおくれよ)
 そのくすぐるような感じに白い肌を赤くしてゾクゾクと身悶えしているカヲルと言う少年は何なのだろうか?
 これが休み時間であったなら、もっと直接的にやり取りをして、ねちねちと苛められる事もなく解放してもらえただろうが……
 ──運悪く、山岸マユミが転校して来たわけである。
 休み時間は彼女との談笑に割り当てられることとなってしまった、だから代わりに、カヲルは授業中に糾弾されているわけである。
「カヲル君は僕を殺人狂だとかそんな風に思ってたんだ、そうなんだ」
 違うよシンジ君、それは誤解と言うものさ、などと心で思ったところで通じるはずが無い。
 カヲルにはただ堪える事しか出来なかった、ついでに気付いて止めてくれる様な者も居ない、いや、一応気付いている者達は居た。
(渚君、よっぽど『近い』のね)
 もじもじとしている様は『我慢』しているようにしか見えない。
(あの感じ、『小さい方』かな?)
 ……情けない話ではあるが、しかしこれもカヲルであれば『可愛い』ということになるのだから不公平なものだ。
「あの……、渚君、大丈夫?」
 隣の子に話しかけられて、カヲルは涙目で微笑を向けた。
「ありがとう、心配してくれるんだね?」
「あ、うん」
 少女は赤くなって俯いてしまった。
「その、もうすぐ時間だから、頑張ってね?」
 きゃっと教科書で顔を隠してしまう、カヲルはそんな彼女に、ああ……、と切なげな悲鳴を漏らした。
 背後で立ち上っているおどろおどろしい雰囲気が増した気がした、カヲルは本気で泣きそうになった。
(人間、本気で泣きそうな時には笑ってしまうものなんだねぇ)
 何やら悟ったカヲルであった。
 ──ようやく授業が終わって。
 ぐったりとしたカヲルが机に突っ伏している。
 シンジは机に対して横向きに座っていた、その前にはマユミが立っている。
「あの……、良いんですか?」
 おろおろとするマユミに、シンジはふんっと拗ねて見せた。
「良いんだよ、放っておけば」
「酷いね、シンジ君は……」
「たまには反省すれば良いんだ」
 子供っぽい様子にマユミはくすりとこぼした。
 その微笑には華がある、口元に小さな拳を当て、首をほんの少しだけ傾げて笑う。
 それだけなのに、当たりの柔かい雰囲気が放たれるのだ。
 そんなマユミに、話しかけたい者は男女共に居たようだったが、カヲルとシンジがやけに親しげにするので近寄れないでいた。
 ──転校していく者が多い街だが、逆に転入して来る者が居ないでも無い。
 特需と言う奴だ、この街では慢性的に働き手が不足している、都市の再建だけでも莫大な労力を欲しているのだ。
 その為、使徒の恐ろしさを知りもしない者達が流れ込んで来る、あるいはそんなものよりも、日々の糧に飢えた者達が寄って来る。
 これにくっつく形で転入して来る子供達も多かった、シンジ達の2−Aも相当入れ代わってしまっている、元から居たものと、転校して来た者、気が合う者、巧く輪に入れない者、関心のない者と、グループも複雑に形成されてしまっていた。
 欠席の多いシンジとカヲルである、その二人とそれなりに親しいのはトウジとヒカリくらいなものだろう、故に話しかけづらいのだ、さして親しくも無いのにマユミ目当てで割り込むにはどうにも。
「けど山岸さん、もっと早く来ると思ってたんだけど、結構掛かったんだね?」
 はい、とマユミ。
「この間のことで、お父さんが忙しくなっちゃって……、それにこちらにちょうど良い引っ越し先が見つからなくて」
「そうなんだ、そうだね、お父さんの仕事を考えたら、下手な所には住めないか……」
 マユミは少々ぎこちない表情を見せた、シンジが父の仕事を知っている。
 そのことについて、微妙な違和感を感じてしまうのだ。
(やっぱり、わたしの知ってるシンジ君じゃないんだ)
 ──それは寂しさだったのかもしれなかった。


 ──ゴゥ。
 マユミはその時、憂鬱に窓から雲を眺めていた。
 空の上、旅客機の中だ。
 養父に着いて一時帰国したものの、結局あのような事件に巻き込まれてしまったせいで、とんぼ返りとなってしまった。
 本当なら第三新東京市に寄るはずだった、観光をし、運良くばシンジにも会おうと思っていた。
(微妙ですよね……)
 ほぅっと吐息をついてしまう。
 あのような騒ぎを目の当たりにした養父が、国連へ引き上げねばならないのは当然だった、普通に入国していたのならともかく、これに着いて来ていたマユミは、一緒に国連へと戻るしかなかったのである。
 正規の入国では無かったために。
 彼女の溜め息の原因は……、久しぶりに見たシンジであった。
「わたしの知っているシンジ君と、わたしの知っている碇君……」
 どすんと隣に音がして、マユミは隣席りんせきに目を向け、驚いた。
「綾波っ、さん?」
 そこにはへろぅっと機内サービスのピーナッツを大量にパクッて来たレイが居た。
「始めまして、かな?、綾波レイ=イエル、レイちゃんの妹だよぉん」
「妹……、さん?」
「記憶に無い?、でしょうね、『あっち』じゃあたしは居なかったから」
 その内容にマユミは身を硬くした。
「あの……」
「あんまり気にしないでぇん、気にしてると禿げちゃうぞっと」
 ナッツの袋を次々と破って、ざらざらと口の中に流し込んでいく。
 リスのようにほっぺを膨らませると、レイはばりぼりと噛んでもぎゅもぎゅとすり潰した。
 マユミはその音に顔をしかめる。
「ん〜、きょうふははふほへひ」
「あの……、ちゃんと食べてからで」
 もぐもぐもぐと、ふぐふぐ飲み下す。
「……飲み物持って来とけば良かった」
「はぁ……」
「ま、良いや、とっととお話ししちゃおう」
 レイはそう言うと、どこからともなく水筒を取り出し、蓋にオレンジ色の液体を注いで口を付けた。
 ぐちゅぐちゅとうがいをし、口の中に残っていたナッツの破片をごっくんと行く。
 うわぁっと顔をしかめられたが、それを気にするようなレイではない。
「さってと」
 にやぁんっとレイ。
「今悩んでる?、悩んでたでしょ?」
「あの……」
「だぁいじょうぉぶ、わぁかってるから、まぁかせて!」
 右手の指を二本立て、むむむむむっとマユミの眼前に真っ直ぐ伸ばす、左手も指を二本立てて、これは自分の眉間に当てた。
「あなたは悩んでいますね……、それは自分の中にある『二つの記憶』がキーワード!」
「!?」
「ついでに言っちゃうとぉ、『自分によく似た』シンちゃんと『カッコ良過ぎぃ』なシンちゃんとのギャップ!」
「そ、そうです!、でもどうして……」
「ん〜〜〜?、だあってさっきあんにゅいでもなむ〜に呟いてたしぃ」
「……」
 マユミ、純粋に驚嘆してしまった事を後悔する。
「そうですか」
「あ、怒った?、ねぇ、怒った?」
「別に……」
「怒んないでよぉ、そのかし、良いこと教えてあげるから!」
「?」
 一々素直に興味を示すマユミの性格は、レイの様な者にとっては揶揄からかい易いのだろう、だからこそ切りがない。
 レイは多大な努力を払って、さらに揶揄いたくなるのを抑えた、そのために必要だった時間はきっかり一分、何をやってるんだろうと思われるほど奇天烈なポーズをして葛藤して見せた後だった。
「はぁ、はぁ、はぁ、じゃあ話して上げよっかな?、聞きたいでしょう?、シンちゃんのこと、そしてどうして、また別の時間を生きる事になっているのか?、聞きたいでしょう?、教えてあげる、……『二人の少年の物語』」


 ──わーん、わーん、わーん。
 遠くで泣いているのは誰だろうか?
 耳の奥で鳴る声に、少年は「ああ」と朦朧とする意識の中で気がついた。
(これ、僕だ……)
 数年前のこと、遠ざかって行く父の背中に酷く泣いた日。
 耳に残っているのは最後の言葉。
 ──シンジ、逃げてはいかんぞ。
 目蓋を開く、潤んでしまってぼんやりとしか天井が見えない、ここは何処だろうと考えて、ようやく思い出す。
 棒だらけのお墓、久しぶりの父との再会。
 おじさんとおばさん、そう呼んではいても、親戚なのか、違うのか?、それさえも分からない人達は苦手だと告げても駄目だったあの日。
 そうか……、それだけしか答えてくれなかった父に絶望し、俯き、唇を噛み……
 悔しくて、逃げ出した。
 だからなのだろうか?
「シンジ君」
「シンちゃん」
(おじさん、おばさん……)
「ほら見てごらん……」
「シンちゃんも自分の部屋が欲しいだろうと思ってね、作ってあげたのよ、お勉強部屋」
 ──お庭にね。
 ……最後の一言に本音が見えた気がして。
(ありがとう、おじさん……、おばさん)
 心とは逆に、作り笑顔を浮かべてしまった。
 笑顔を形作るしかなかった、だって……
(父さんが、話してくれたんだ……)
 そうでなければ、その二人の作り笑いの裏に見え隠れする侮蔑の正体の説明が付かない。
(父さん……)
 無理をして起き上がる、目眩い、吐き気、うっと手で口を押さえる。
 咄嗟に目に入ったごみ箱を引き寄せる、うえ、吐く、だばだばと黄色い液体がすえた匂いを放って大量に溜まった。
「……学校、行かなくちゃ」
 青ざめた顔で布団から起き出す、庭に作られた粗末な勉強部屋は、ただでさえ壁が薄くて冷えると言うのに。
 ──ここ暫くの天気は、雨だった。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。