──それは些細なすれ違いから始まった。
『四時、児童公園に……』
 そんな言葉が書かれた紙片が机に乗っていた。
 2010、この時シンジは九歳だった。
 誰だろう?、そう思って見回すと声を掛けられた。
「ちゃんと行きなさいよね」
 からかわれるのかな、そう思って、「誰か居るの?」と訊ねた。
「いいから!」
 それで押し切られてしまった。
 そこから最悪が始まった。


NeonGenesisEvangelion act.33
『変調:pro・logue −外典 序章 第二節−』


 その日、ずぶ濡れで帰宅したシンジは酷く叱られた。
 ──学校で傘くらい借りられるでしょう!?
 だから、風邪を引いたのだと、説教された。
 布団に寝かされ、うなされながらだった、医者が来ていた気がする、シンジはぼんやりと覚えていた。
 ──1週間後。
 おどおどと教室に入るシンジ、それを目に止めて、室内の空気は一変した。
「ねぇねぇ、ほら、碇だよ……」
「うわ、学校来たよ、あいつ」
「告白されてさ、貧血起こしてゲロったんだって?、マジ?」
「ヒビキかあいそー」
 居場所が無い、そう感じても居るしかない。
 学校に行け、と言われれば逆らうことは許されていないから。
 シンジは自分の席に向かって……、そこに別の人間が座っているのに気がついた。
「あの……」
「ああ、席替えしてさ、お前の席、あそこだから」
 シンジは教室一番後ろの、一番窓際の席を見やった。
 クラスの人数は四十三人、教室の机は六列に並べられ、一列が七人で構成されている。
 つまりシンジの席はただ一人の、余りものの席だった。


 ──2015、第三新東京市第一中学校、屋上。
「そっか、聞いたんだ……」
「はい」
 碇シンジと山岸マユミは、並んで昇降口の上に腰かけていた。
 足を投げ出しているシンジは両手を後ろについて、体を支え、マユミはスカートを折り込んで女の子座りをしていた。
 二人が眺めているのは穏やかな景色であった、街の中心には巨大なクレーンが立っている、壊れたビルの解体を行っていた。
「どこまで?」
「あまり詳しくは……」
「そっか」
「はい、レイさんは……、『前』のわたしに潜り込んだ因子と、今度の使徒の因子が時空を越えて共鳴し合って、その影響とか余波みたいな物がわたしにまで及んだんじゃないかと言ってました、それが『今』のわたしの頭の中にある『前』の記憶の正体なんだろうって、……碇君も同じようなもので、だからわたしの知るシンジ君じゃないって教わりました」
 シンジは微苦笑を浮かべた。
「そうだね……」
「そうなんですか?」
「うん、『以前』使徒は山岸さんの中で、山岸マユミって女の子の魂の形を、形質を取り込んだんだよ、使徒はあらゆる時間、次元、空間を超越して『絶対一』で存在出来る『現象』なんだ、なのにその内の一つは山岸さんの形質を取り込んで変調してしまったんだよね、一方、この世界の山岸さんは一応それとは同調しない程度にずれていたんだけど、僕との接触で偶然チューニングが合ってしまった、と」
 はぁ……、とマユミは曖昧な顔をした。
 今ひとつよく分からなかったためである。


 ──2010、東京都武蔵野市中町。
 相変わらずの雨の降る中を、シンジはまた傘をささずに歩いていた。
 下校中だ、ランドセルの紐に手を掛けて、少年は何も思わないでいようと務めていた。
 空き地。
 いつもなら通り過ぎるそこは、ごみが不法に捨てられて山になっていた。
 粗大ごみの上には、横たえられている自転車があった。
 どうして目を引かれたのか?
 シンジ少年は渦巻く葛藤に心を揺らした、拾って怒られはしないか、誰かに見咎められはしないか?
 けれども結局は手を伸ばした。
(……)
 だって、僕みたいだから、錆付き、スポークは欠け、サドルのカバーも破れていた。
 朽ちていくだけの存在だから、だからそう思えたのかも知れない。
 けれど、それが更なる不幸を呼び込むことになる。
「君、その自転車、君のかい?」
 警察官、だった、雨合羽あまがっぱを着た。
「いえ、違いますけど……、でも捨ててあったから」
「本当に?」
「本当です!、嘘じゃありません!」
「けど、勝手に持って来たんだね?」
「……はい」
 ふん、と鼻息を吹いたのは、呆れたのではなく、困った子だなぁと思っただけなのだろうが……
「まあ、とにかく一緒に来なさい」
「はい」
 あんまりその子が大人しく従うものだから、拍子抜けしたのかその警官は背を向けた。
 着いて来るだろう、と思ったのだろう、しかし。
 ──ガシャン!
 自転車が倒れた音に驚いて振り返ると、少年の姿は消えていた。
 逃げられた?、と慌てて周囲を見回すが、見つからない、それもその筈だった。
 ──眼下に慌て、周囲を見回すお巡りさんが見える。
 家々も、道も、雨に濡れて灰色にくすんでいた。
 生暖かかった雨も風が交じれば痛いほどに冷たくなる。
 シンジは自分がどうなってしまっているのか分からずに目をぱちくりとさせた。
「きゃはははは!」
 急に聞こえた笑い声にぎょっとして、シンジは自分を抱えている少女へと顔を上げた。
 小脇に抱えて『跳んで』いるのは、青い髪に赤い目を持った女の子だった、その目が横目に、ちらりと向いてにぃっと笑う。
「う……、わぁあああああ!」
 ……放物線を描く飛翔は、その頂点に近いほど無重力に近くなる、当然、それを過ぎたら落下と共に速度は急になる訳で。
 どっしぃん!、っとなった瞬間、シンジはべっしゃあ!、っと放り出された。
「むっ、ぐぐぐぐぐ、ぷはぁ!」
 河原の傍、泥をクッションにしての着地となった。
 顔から突っ込んだ少女は、ぽんっと引き抜くとぺたんとお尻を落としたまま、またけらけらと笑い出した。
「たはははは、失敗失敗ぃ!」
 シンジは唖然と、放り出されたために出来た擦り傷のことも忘れて魅入ってしまっていた。
 なんと心から笑うのだろうか?
 泥だらけなのもまた楽しそうだった、……自分も同じ格好なのに気付かず、そう思った。
「あの……」
「ん?、ああ、あのねぇ!」
 わざわざ泥の上を四つんばいで這いずり迫る。
「なっにを馬鹿正直に謝ってるのかなぁ?、んん〜?、こっちは自転車なんだから、全速で逃げりゃ良いの!、わかる?」
「え?、で、でも……」
「シンちゃんがどこの誰かなんてわっかるわけ無いんだから!、逃げちゃや良いのよ!、それにっ、ああいうのは現行犯以外で逮捕出来ないんだからね!」
 え?、とシンジ。
「あの……、僕のことを?」
「そっりゃもう、当然!」
「え?」
 少女……、レイはシンジの手を両手で包むと、にたぁと非常にいやらしく笑い、言った。
「シンちゃん、うちの子になんない?」
「え……」
 きゅっと握り包まれた手の温もりと、あるいは血走り切った充血した目と……
 一体どちらに抗えなかったのか?、それは今となっては実に些細な問題であった。


「行方不明!?、シンちゃんがっ」
 それはあってはならない事だったのだろう。
「ああ」
「どうして!、あなたっ、どうして!」
「知るか!、大体っ、お前が習い事だのなんだのと家を空けているからだろう!、家のことをちゃんとしないから……」
「あなただって!、休みの日にゴルフだ何だって」
「あの子の養育費に手を付け遊んでる奴の言うことか!」
「まぁっ、まぁ!」
 そんな醜い言い争いに、冷めた目をしている少年が居た。
 この家の一人息子で、名前をマサシと言った。
 シンジのひとつ上である。
「馬鹿親!」
 そう小さく吐き捨てて、自分の部屋へと引き上げていった。
 窓の外には庭にある勉強部屋が見える、離れだ、屋根の上には枯れ葉が積もり、雨に打たれてただの汚れとなっていた。
 目に付く、癇に触る、見たくないと思っていた、同じ部屋など嫌だと思って親に言って追い出した。
 特別嫌いな訳ではない、どこか苛付くのだ、生理的に受け付けない、それが相手に対する印象だった。
 実際そうで、『アイツ』は何をするにしても良いのかどうか聞いて来る、お風呂に入ってもいいですか、本を借りてもいいですか、テレビを見ても……
 それぐらい勝手にすれば良いだろうと思う、好きにすれば良い、誰も怒りはしないのに、一人脅えて……
 それではまるで、こちらが意地悪なようではないか。
 それでムカついていたのかもしれない、しかし親のあのような態度を見れば、何もかもが苛立たしくなって来る。
 ──本当にそうであったようだから。
 俺は違うと叫んでも、同じとして見るだろう、だからムカつく、それにしても何処へ行ってしまったのだろうかと想像する、想像して……、やめてしまった。
 親と同じで、『アイツ』の行くあてになど思い当たる所は無かったからだ。
 発覚したのは、警察からの連絡でであった。
『碇ゲンドウ』、彼のことは有名だった。
 妻を実験によって殺した、そんなショッキングな内容で、新聞にも載ってしまったのだから。
 その紙面が地方の三流ゴシップ紙であったことは慰めにはならなかった、とかくこういった話題は、おもしろければそれで良いのだ。
 その碇ゲンドウが息子を預けた、これを公安がチェックしないはずが無かった、その動きから警察も追う形で注意していた。
 その内の一方である警察から連絡が入ったのだ、『碇シンジ君が自転車を盗んで逃げました』、と。
 レイの言葉とは違って、警察はシンジのことを知っていたのだ、最初は自宅へと連絡が入ったのだが、生憎と留守であった、そこで家長の仕事場へと連絡が回され……
 急ぎ帰宅した彼の後に、のほほんと妻が帰って来て、癇癪を起こした夫を発端に、先の喧嘩へと発展してしまった訳である。
 とにかく先方様に謝らせなければならない、この時、彼らの頭の中では、『どこかの家か駅』から自転車を盗んだと言うイメージが出来上がってしまっていた、同時に、やはり『あの男』の息子なのかとも。
「預かったのが間違いだったんですよ!」
「今更っ!」
 そんな風にこちらの家が荒れている頃……
 別の場所では、別の人間が落ち込んでいた。
「碇くん……」
 ──背の高い女の子だった。
 髪が金色なのはセカンドインパクトの混乱を逃れて、比較的治安の良い日本に流れて来た一家の娘だからだろう。
 シンジの同級生で、ヒビキ・オーガストと言った。
 シンジに手紙を出した張本人である、しかし彼女はシンジを嫌ってはいなかった。
 電話がかかって来た、誰からかと思えばシンジのおじさんからだった。
 ──帰って来ないと言う。
 そちらに行ってませんか?、心当たりは?、……手当たり次第に掛けているらしい、焦りが窺える切羽詰まった話し方だった。
 しょぼくれているのは、皆が口にしている誹謗中傷が真実ではないからだ。
 話している間に、『そういうこと』になってしまうことがある、この場合がそうだった。
 根暗なシンジは何かと付き合い辛いと敬遠されていた、それが可哀想で庇っただけだった、ほんの少し……
 でも……
 そんな前置きを付けた、一言、二言。
 何を言ったか自分でも覚えていない、口から突いて出た同情。
 その言葉尻をつかまえて。
「あ〜?、もしかしてヒビキぃ、碇のこと好きなんじゃ?」
 違う、と言っても信じてもらえず、焦れば焦るほど誤解されてしまった。
 恥ずかしかった、好き、小学生にとってはそうからかわれるだけで冷静にはなれないものだ。
 もうっ、とふくれた時には、勝手に告白の段取りまで決められていた、そっとヒビキは暗く自分の席で小さくなって教科書を読んでいるシンジへと視線を向けた。
 その姿に、自分の知っている子が重なってしまう。
 ──ジュン。
 彼女もまた、父親の所業によって被害をこうむってしまった子だった。
 何もしていないのに、悪魔の分身だとばかりに『制裁』を加えられた子、子供だからと、虐待されていた女の子。
 ヒビキはクラスメートだったその子の父親が何をしたのか、正確には知らなかった、ただたくさんの人を殺したらしい、それだけは耳に入って来ていた。
 しかし……、彼女よりも、その周囲の人間の方が恐かった、正義や神の名の元に、自分と同じ歳の子が合っていた暴力の数々……
 それをする人達の狂気に満ちた……、いや。
 喜びに浮かんだ、愉悦の表情。
 それは寒気を覚えるに十分なものだったのだ。
 まだ相手が幼いからか、レイプするよりも殴る蹴るが選ばれていた、物が投げ付けられるなど日常茶飯事だった、よく四肢を括り付けての『八つ裂き』にされなかったと思えるほどだった。
 あの子は、いつ、心を安らげていたのかと思う。
 家を一歩出れば周りは敵だらけで、いつ何が飛んで来るか分からず、足音が聞こえればびくりと脅え、近づいて来ないか警戒し、やって来たなら叩かれるのか、殴られるのかと身をすくめ、隠れようとし、学校では陰口を叩かれ、家に帰れば窓ガラスの割れる音と、放火にびくつかなければならなかった。
 想像を絶することだった。
 それがこちらで言う小学校一年生の時のことだったのだ、あの光景が今でもトラウマとなって自分の奥底に残ってしまっている。
 人は……、理由さえあれば幾らでも恐ろしい存在へと化けるのだと。
 シンジはそのトラウマに抵触してくる存在だった、見たくない光景を再び生んでいる要因であった。
 だから、気になる、小学校四年生ともなれば少しは物の善悪が付けられるし、優しさにも芽生え始める。
 そういうだけの事であろうが、周りはあまりにも子供だった。
 単純にからかいのネタとして、そうやって盛り上げてしまったのである。
 ──公園。
 周囲を水色に近いグリーンの鉄柵によって囲まれた公園だった、その柵は内側からは茂みによって見えなくされている。
 公園の外、鉄柵の向こうには友達が隠れているはずだった、そのことが彼女の気持ちを暗くさせてしまっていた、シンジに悪いと思ったからだ。
 好きではない、それは仕方ないにしても、こんな悪趣味なことはないだろう、明らかに面白そうだからと、そのためだけのタネにされてしまっている。
 逆らえずにここまで来てしまった、周りの勢いに押し負けてしまった、これでもしシンジが「うん」と言ったなら?
 ──最悪だった。
「あの、ね?、碇くん……」
 ヒビキは隠れ潜んでいる連中には聞こえないように、小声で訊ねた。
 雨が降っている、傘を叩く音が騒音となって、そんな注意を手伝ってくれた。
「いつも……、教室で本を読んでるでしょ?、教科書」
 目の前に立った背の低い子は、この人は何を言うのだろうと不安そうな顔をしていた、していると思った。
 なのに、その卒倒寸前の顔色には気付けなかったのだ、雨が降っていたから?、それとも互いに傘をさしていて距離があったから?
 それは分からない。
「……アメリカに居た時、同じような事をしてる子が居たの、周りに話し掛けられたりしないようにって、話し掛け辛い雰囲気を作ろうとして、もしかして、碇くんも、碇くん?」
 急にがくがくと震え出し、うっと手で口を塞ぐ、しかし無駄だった。
 手と口元の隙間からごぶりと何かが溢れてばしゃりと落ちる、碇くん!、っと焦ろうとして、機会を奪われてしまった。
「ちょっと碇!」
「なによっ、それ!」
 あっと思った時には遅かった。
 行こう!、っと腕を引かれてしまっていた、ああ、と思った、膝を震わせているのが見えたのに、ふらふらと気分も悪そうにしているのが分かったのに。
 周りの剣幕に負けてしまったのだ。
 そんな押しに弱い自分の性格が嫌になる。
 翌日から……、あの子は暫く休んでしまった、ようやく出て来たかと思えば、酷い有り様で、空気で……
 そしてまた、いなくなってしまったらしい。
(わたしのせい?)
 そんな気がしてしまう、いや、そうとしか思えなかった。
 自分があんなことを言ったからだと。
 ヒビキは二年前、お母さんの財布からお金を盗んだ時のことを思い出した。
「ヒビキ!」
 盗んだのは千円だった、それくらい、っと言った気持ちであった。
 酷く叱られた、気持ちが悪くなって、あの時のシンジのようにふらふらとしてしまって……
 ──吐いてしまった。
 どうして良いか分からなくなるとああなってしまう、それを知っていたから、どうしても……
 しかし、そんな彼女の杞憂は全くの見当違いに終わってしまう。
 何故なら翌日姿を見せたシンジによって、それは否定されてしまったからだ。


「おっ、碇だぜ?」
 翌日、教室に顔を見せたシンジに、昨日とはまた違った形での揶揄が飛んだ。
「なんだよお前、家出したんじゃなかったのかよ?」
 はははと笑いが起こる、その時、変化に気付いたのはヒビキだけだった。
「うるさいな、ほっといてよ!」
「おっ、なっまいきぃ」
「なんだよ、やるのかよ」
 冗談でシンジの胸倉を掴む、小柄なシンジはいつもそうされると脅えた目をして顔を背けるのが常だった。
 しかし、今日は違った、違っていた。
「やめてよ!」
 ドン!、っと突き飛ばしたのだ。
 顔はいつもと同じ、恐がりなままだったが。
「なにすんだよ!」
 よろめいた少年がやり返そうとした、それでシンジは……
「やめてって言ってるだろう!?」
 その手を弾いて、拳を固めた。
 しかし握力が無いのか、お世辞にも握り固めているとは言えないものだった。
 後はもう、無茶苦茶だった。
 気がつけば、机はぐちゃぐちゃになって……、倒れ、どけられ、空いたスペースにシンジは転がされていた、何人もに蹴られていた、青あざ、内出血、酷い有り様で。
「いてぇ!」
 それでも泣きながら、一人の少年の足に噛付き、離せと三人掛かりで蹴られ、後一人に羽交い締めにされながらも……
「……」
 その一人の足にしがみつき、小さな歯を立てていた。
 ──ブチッ!


 ──遠く、スイスの地にて。
「雨……、か」
 ザァザァと降る中を、一人の少年が空を見上げていた。
 一本の木の下で。
 雨を避けるには枝葉が少なく、彼はしっとりと濡れていた。
 白い髪、赤い瞳、白シャツに黒ズボン、学生服。
「雨は嫌だな……、あの時のことを思い出すから」
 彼は……、シンジは口にして、少しの邂逅に己を浸した。


 前歯二本を犠牲にして、シンジは脛の肉を食い千切ってやった。
 溢れ出す血にみな青ざめて、いたいよぉと泣き叫ぶ友達に何も出来なく、立ち尽くしてしまった。
 転げ回る少年、押さえている足、血を弾いて見えるのは骨ではないだろうか?
 その脇には意識を失った状態でシンジが転がっていた。
「一体何があったんですか!」
 詰め寄ったのは怪我をさせられた少年の母であったが、校長はぎろりと睨み返しただけだった。
「それはこちらが言いたいですよ」
「うちの子の足っ、酷いんですよ!?」
「そちらのお子さんが扇動して怪我をさせた子ね、指と足、それにあばら骨も折れてるそうですよ、運よく肺には刺さっていないそうですが、脾臓破裂の危険性もあるとかで、今は集中治療室に入っています、運よく頭の骨に異常はありませんが、目と脳には後遺症が残るかもしれないとの事でしてね、大変なんですよ」
 うぐっと彼女は、それでも言い返した。
「そ、それがどうしたんですか!、碇シンジですか?、その子があの子を突き飛ばしたりしたから、皆で止めようとしたんでしょうが!」
「順番を入れ違えないで頂きたいですな、先に手を出したのはそちらのお子さんですよ」
 ばさりと校長は、分厚いレポート用紙を机の上に放り出した。
「ここ何年かに及ぶ碇シンジ君に対するイジメの実態調査報告書ですよ、いやいや驚きましたな、そちらのお子さんの名前が何度も出て来る」
 校長は机の上に両腕を置き、手を組んで、身を乗り出した。
「無論、裁判を起こされるのでしたらこのレポートはそちらにも提供しますが?」
 憤慨して出て行く婦人だ、校長はふうと息を抜き、椅子に背中を預けて力を抜いた、多少ずり落ち気味に。
「これで良いのかね?」
「十分ですよ」
 窓の外から声がした。
 校長室は一階にある、壁の向こうはわずかに校舎との隙間を空けて花壇となっていた、その向こうは運動場だ。
 校長の真後ろ……、壁に背を預けて、にやついた笑みを張り付けているのは、渚カヲル、彼であった。
 ──市民病院、集中治療室。
「これまた随分と派手にやられたもんねぇ」
 ぼりぼりとチップスを齧りながらレイ、無菌室だというのにばらばらと袋に突っ込んだ手を引き抜く度に欠けらをこぼしている。
 顔中腫れ上がり鬱血しているシンジ、それでも目蓋を何とか開いた。
 ……開いてるかどうか、はっきりとしなかったが。
「……」
「ああん?、聞こえなぁい」
 唇がすぼめられたようになっているのは、頬が腫れてしまっているからだ。
 少女の意地悪にじわりと目に涙が滲む、途端にレイの表情が変化した。
 穏やかで、安らげるものに……
「そこで泣きついちゃったら同じでしょう?、強い男の子はぁ、こういう時はぐっっっっっと堪えて、悔しいって気持ちでいっぱいになるもんよ?、わかる?」
 かすかな頷きだったが、レイは非常に満足そうに頷き返した。
「その気持ちをまた一杯溜め込んだら、思いっきり爆発させてやんなさぁい?、簡単に爆発させてガス抜きするようになるのも良いし、限界まで溜め込んでどっかで消化してやるってのも良いわ、けどね?、その限界値を越えちゃって潰れちゃったらだぁめ」
 ちょんっと人差し指でシンジの鼻先をつついてやった。
「取り敢えず、今は自分の気持ちに素直になるように、悔しかったらやり返す、泣きたくなったら泣く、かまって欲しかったら抱きつく、ね?」
 レイはそう告げると、そっとシンジの額に口付けた。
「ママのキスよ」
「……」
「なぁに真っ赤になってんの、あっ、そうだ!」
 にんっと猫口。
「大きくなったら、もっと好い事しましょうね?」
 シンジはそれがどんなことなのか想像もつかなくて……
 恥ずかし過ぎて、動転した。


 ──それからのシンジの荒れようは凄まじかった。
 あくまで『客観的』に見てのものであったが。
「……」
 ヒビキは学年が上がって五年生になっていた、この小学校では一、三、五年生の時に新しいクラスへの再編成が行われる、つまり五年に上がってもシンジと同じクラスになってしまったと言うことは、今年だけでなく、来年までも一緒のクラスなのだと言う事だ。
 鬱に入ってしまうのも当然だろう、今のシンジになる最大のきっかけは、自分であろうと思えていたから。
『狂犬』、そう呼ばれても仕方が無いのかもしれない、それでもヒビキの目には、今日も一人で教科書を読んでいるシンジが悪いのではないと見えてしまっていた。
(脅えてる)
 その印象は今も変わらない、だからこそ、生意気、鬱陶しいと中途半端なちょっかいを懸ける人間が後を立たないのだ。
 そして今年……、クラス替えが行われたために、シンジを直接知らない人間が増えてしまった。
 ──結果。
 ガタン!、机が派手に鳴る、びくりと首をすくめたヒビキが慌てて見たものは、シャツの襟元を掴み上げられたシンジの姿だった、だめ!、そう思っても遅かった。
 ブスッ!、そんな音がして、半瞬ばかり遅れて自分の身に何をされたのか分かったのだろう、奇妙な悲鳴を上げて少年が喚いた。
 彼の腕に……、ボールペンが刺さっていた。
 シンジはと言えば、荒く肩を上下させていた、その顔は泣きそうなものだった、どうして、と思う、あんなに恐がりなのに、恐がりだから、誰にも相手にされないように振る舞っているのにと、ヒビキは切なさに胸を痛めた。
 野良犬と同じなのだ、苛められ過ぎた野良犬は、人を警戒するばかりでもう懐く事は決して無くなる。
 狂犬を作り出すのは人だ、なのに、どうして?、と。
 今日も先生が駆け込んで来て、シンジは『連行』されて行ってしまった。
「どういう教育をしてるんですか!」
「ごっ、ごめんなさい!、ほら、シンちゃんも謝って」
 そういうおばさんがシンジは嫌いだった。
 この場を静めるために取り敢えず謝ってしまえというのが見え見えだったから。
「僕は悪くない」
「シンちゃん!」
 シンジはふいっと背を向けると、離れの方に行ってしまった。
 背中でまだ、怒る声とぺこぺこと謝る言葉が聞こえる。
「よぉ」
 シンジは勉強部屋へと渡る庭の途中で呼び止められた、母屋の窓を開いて、マサシが下品な座り方をしていた。
「これ、プリントだってよ、ヒビキって子が持って来たぜ」
「ヒビキ?」
 シンジはつまらなさそうに受け取りながらも小首を傾げた。
「金髪の」
「ああ……」
 マサシは玄関からの喧騒に顔をしかめ、それからシンジを睨んだ。
「なぁ、お前さぁ、人ん家に居候するなら、居候らしくしろよな」
「どうして?」
「どうしてって……、そりゃ、迷惑だからだよ」
「迷惑?」
 きょとんとした後で、シンジはくっくっくっと腹を抱えて笑った。
「なんだよ、なに笑ってんだよ」
 気味悪く訊ねるマサシに、顔を上げる。
「だって……、だったら、追い出せばいいじゃないか」
「なに?」
「鬱陶しいからあんなの作って追い出したんでしょ?」
 そう言って、目だけで『立派』な勉強部屋を指し示す。
「それに、おじさんのゴルフ会員権とか、おばさんの習い事の月謝とか、全部僕の養育費から払ってるんでしょ?、僕知ってるんだ、おじさん達にいくら払われてるのか」
「……いくらだよ」
「月百万ちょっと」
 マサシはぎょっとした、まさかそんなに大金だとは思わなかったのだ。
「マジかよ……」
「で、さ……、僕の小遣いは月いくら?、食べてる物ってなに?、着てる服はどれくらい擦り切れるまで我慢しなくちゃいけないの?、僕は喧嘩しても、慰謝料は父さんが振り込んでくれてる範囲を越えないようにしているよ?」
「……お前」
 空恐ろしくなったのか、わずかに身を引くような仕草をした。
「お前、それって……」
 にぃっと、シンジは昏く笑った。
「釣り合いは取れてる、でも甘い汁が無いなら邪魔?、そうだね……、なら僕は出て行った方が良いのかもしれないな」
 シンジは、じゃあ、と告げると勉強部屋へと引き上げてしまった、その言い草に呆気に取られていたマサシであったが、結局、彼がシンジを見たのはこれが最後となってしまう、ようやく追い返したおばさんが、一言注意しようと泣きそうになりながら勉強部屋へと駆け込んで行ったのだが……
「マサシ!、シンちゃんは」
「え?」
 確かに入っていったはずのシンジの姿は、何故かそこから消えていた。


 ──ゴウ!
 地球を眼下に見下ろせるほどの高々度を飛ぶ機体があった、国連所属のSSTOである。
 その中には山岸監査官が一人客室でくつろいでいた、その目は険しく、一つの資料を読んでいる。
「これが……、サードチルドレンに関するプロフィール、か」
 それはミサトより手渡された資料であった、ネルフがかき集めた、シンジに関する報告書の全てである。
 もちろん、ミサトがそれを託したのは、彼に全幅の信頼を置いてのことだった、『公式発表』と違って、ネルフの実情はかなり危うい物なのだから……
「ふむ、まあ、これを読めばその気持ちも分かるか……」
 一人ごちて、ぺらりとめくる。
 それでもネルフは、何とか安定して運営されているのだ、かなり際どくはあってもだ。
 ここで下手に国連からの横槍が入ってバランスが崩れたならば?、実よりも政治的思惑の強い修正が行われたらなら均衡が崩されてしまい、最悪使徒迎撃などおぼつかなくなってしまう可能性が出る。
 ミサトは山岸ゲンタが、少なくとも堅物ではないと読んだらしい。
「碇シンジか……」
 彼は娘の恩人に対して送った手紙のことを思い出した、今頃は仲良くやっているかもしれない、……これ程の危険人物と、だ。
「しかし、な」
 ふうむと悩む。
 義理とは言え、自分のような定住先を持たない男を慕ってくれている娘である、一方ひとかたならず可愛く思っている、申し訳なさも手伝ってはいるのだが……
 一応、唯一の近親者と言うことで一時引き取ったのだが、やはり自分の仕事のことを考えると、ちゃんとした人に預けるべきだろうと悩んでいた。
 それを知った時、彼女は言ったものだ。
「いつも誰かが傍に居てくれる事が、寂しくないって事じゃありませんから」
 その物言いを聞いた時、なんと大人びているんだろうと思ってしまった、だから可哀想になり、今に至ってしまっている。
 強く言えなくて。
 そんな彼女は、非常に強く『害意』を嗅ぎ分けることに長けていた、実父に殺され掛けた経験があるからだろうか?、酷い脅えを見せるのだ。
「マユミは……、そんな風には言っていなかったがな?」
 さて、どういうことなのか?、と想像するが、膨らまない。
 彼の想像は、袋小路へと入り込んでしまっていった。


 ──シンジに瞬間移動のような能力は無い。
 別段シンジが姿を消したのは、消えようと思ってのことでは無かった。
「っと」
 草原につんのめるようにして足を下ろす。
 シンジはざぁっと吹き付けて来た風に目をぎゅっと閉じた、飛ばされそうなくらいに強い風だった。
 草の波が去って行く、音が遠く去っていく。
 シンジが目蓋を開くと、そこは一面緑の世界であった、草原、遠くにあるのは森だろうか?、山だろうか?
 きょときょととして隣を見上げると、にぃっと笑うレイが居た。
「どう?、シンちゃん、ここ」
「うん……、凄いや」
 シンジはテレビででも見たことがない世界に圧倒されてしまっていた。
 これこそが、自然の美、なのだろう。
「やぁっと完成したんでねぇ、早速迎えに行ってあげたのよん!」
 どう!?、っと右手を振って紹介した。
「あれが新しいシンちゃんのお家よ!、嬉しいでしょ?」
 立派な……、洋館だった。
 ぽつんと丘の上に立っている、傍にはとても大きな樹があった。
 しかしシンジの表情は、喜ぶどころか翳を差した物に変化していた。
「ど、どしたの?」
 流石に慌てるレイである。
「だって……」
 泣きそうな顔を上げる。
 先程のレイのフレーズは、過去の辛い記憶を呼び起こさせてしまう物だったから。
『シンちゃんも自分の部屋が欲しいだろうと思ってね、作ってあげたのよ、お勉強部屋』
「ああ……」
 レイは俯いてしまったシンジに苦笑した、苦笑して、その頭をぐしゃぐしゃと掻きむしってやった。
「だいじょぶだいじょぶ!、ここはぁ、シンちゃんの家であると同時にあたしの家でもあるんだからね!」
「え?」
「お家も一緒、お部屋も一緒!、ベッドだって一緒なんだから!」
 さぁっと洋館の一室に風が吹き込み、真っ白な薄生地のカーテンが揺れる。
 ──それは後にマナの寝所となる部屋だった。
「レイおねーちゃん……」
 シンジはぎゅっと抱き付いた。
「あんハート、もうシンちゃんったら昼間っから大胆なんだからぁ!」
 もぎゅうっと聞こえ……
「お、おね〜ちゃん苦しい……」
「嫌っ、レイって呼んで!」
「それより早く行こうよ、入っても良いんでしょ?」
「……付き合い悪いんだから、ホントに」
 レイは解放すると、説明を付け加えた。
「約束通り、今日からずっと一緒だかんね!、もうあっちに戻る必要なんてないから!」
「え!?、今日から?」
 駆け出してしまっていたシンジであったが、その声に驚いてストップを掛けた。
「なに?、何か持って来る物でもあったの?」
 シンジは視線をさ迷わせた、おどおどと。
「忘れ物……、ってわけじゃないけど、あ、でも忘れ物かもしれない」
「ん〜〜〜?、はっきりできない」
「うん、あのね?」
 シンジは一通りレイに語り……
 レイはそういう事なら、と、本日二度目の『ゲート』を開いた。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。