大樹の元で、少年は穏やかにまどろんでいた。
 その体はすっかり雨に濡れてしまっている、それでも少年の笑みが崩されることは無かった。
 ──彼にとって、この世の全ては慈しむべき『事象』であるから。
「シンジ様」
 しかしそれを突き崩す者が居る。
「……エリュウか」
「はい」
 彼、白髪のシンジは薄く瞼を開いてエリュウを確認した、不機嫌を隠そうともしないで。
「雨が……、お好きなのですね」
 しかし彼は気にした様子もなく、シンジを倣って景色を見渡した。
「いや……、嫌いだよ、雨は」
 はい?、と怪訝そうにするエリュウに対して、シンジは吐き捨てるように口にした。
「雨の日は……、カヲル君に裏切られた日のことを思い出すからね」
 恨みがましい言葉、しかし反して込められていたものは、きっと喪失からくる寂しさだった。


NeonGenesisEvangelion act.34
『変調:pro・logue −外典 序章 第三節−』


 ──古城に彼の姿は良く映える。
 それはあたかも、吸血鬼が根城としているが如く、であった。
 夜だ、月夜の晩に、その赤過ぎる唇を舌で湿らせる様は、余りにも絵になり過ぎる。
 渚カヲル。
 バルコニーで、彼は一人縁に腰を掛けるようにして立っていた。
 下ばきを履いただけの、格好で。
「……君の言う通りになっていくね」
 カヲルの言葉は、部屋の中の主へと送られたものだった。
「君の……、『この世』の君には悪意が酷く渦巻いていたよ、贄、そんな言葉を知る思いさ」
 ねぇ?、と。
「シンジ君……」
 彼は……、大きなベッドに伏せっていた彼は、まだぼんやりとしている瞳をカヲルへと向けた。
 裸だ、かろうじて腰の辺りをシーツが被さり隠してくれているのだが、『情事』の後の煽情さが匂い立っていた。
 浮いた汗、粗い呼吸、空ろな瞳に、紅潮した頬。
 白い髪も酷く暴れてしまっている。
 カヲルは微笑を浮かべた後に、また月へと視線を投じた。
「人はあれ程までに酷くなれるものなのか……」
 その言葉からは、絶望と悲しみが窺えた。
「けれど……、どうやら僕だけではないようだよ、あの子を可哀想と思うのは」
 途端に、シンジの瞳が急速に光を取り戻していった。
「綾波……」
「そう、僕はその人を知らないけれど、きっとそうなんだろうね……」
 シンジは頼んだ。
「お願いだから、もう行かないで……」
「……」
「悪意を止めるんだ……、そうすれば、『僕』が辛い目に合う事はなくなる、カヲルのしていることは、その場凌ぎでしかないよ」
 それをカヲルは否定する。
「違うん……、じゃないのかい?」
「カヲル?」
「本当は、嫌なんだろう?、僕が君以外の子にかまうのが……、それが例え、『この世』の自分であったとしても」
 そう、そうかもしれない、と聞き慣れた呟きが漏らされた。
「僕は……、君が好きなんだ、カヲル……」
 その時カヲルが月を背景に浮かべた微笑は、透き通り過ぎて、シンジにその真意を読ませなかった。


「ヒビキぃ、電話よぉ、『綾波』さんからぁ」
 綾波?、とは思ったが、一応ヒビキは自分の部屋を出て受話器を受け取った。
「はい」
『あ、ごめん、碇ですけど』
 その瞬間、ヒビキは完全に硬直してしまった。
 それを感じ取ったのか、シンジの声も堅くなる。
『ごめん……、ちょっと話しをしたくて、いいかな?』
「え?、あ、うん、でも……、なに?」
『……出来れば、直接会って話したいんだ』
 酷く迷う、迷ったが……
 こうして電話をして来るぐらいだ、それに……
 ぎゅっと下唇を噛み締める。
「うん、わかった……、何処に居るの?」
 シンジが指定した場所、それは……
 いつかの、あの公園だった。


 ──恐ろしくないかと問われればその通りだろう。
 恋人達がたむろするには小さ過ぎる公園だ、夜ともなれば無人になる。
 浮浪者、不良、居たとしてもろくな人間であるはずが無い。
 夜の七時だ、こんな時間だと家を出るだけでも一苦労であった、見つかれば何を言われるか分からない。
 ヒビキは不安げに歩きながら、柵の向こう、茂みごしに人が居るのを確認した。
「碇くんっ」
 少しまだ遠かったが、公園の入り口をくぐると同時に声を掛けた。
「ヒビキさん」
 滑り台をすべり下りた場所に腰かけていたシンジは、お尻をはたきながら立ち上がった。
「ごめん、こんな時間に……」
「ううん、大丈夫……」
 ──それで、話しって?
 その一言をヒビキは飲み込んでしまった、緊張から。
「あの、さ……」
 シンジは驚かせてしまうような勢いで頭を下げた。
「ごめん!」
「え!?」
「いや、ずっと謝りたかったんだ……」
 頭を上げる、しかしそれでも真っ直ぐヒビキを見ようとはしなかった。
 背けられた顔に困惑する。
「謝るって……」
「ほら……、去年、酷いことしちゃったから」
「あれは……、あれは」
 ヒビキは言うのが恐くて、避けようとしてしまった。
 だから、シンジが無理に進めた。
「知ってた」
「え……」
「僕をからかうためだったって」
 ぽりぽりと頬を掻く。
「からかうって……、言うのも違うかな?、大きな声で話してたから、聞こえてたんだ」
「だったら……」
 今度はヒビキが顔を背ける番だった。
「わたしこそ、あんなこと……」
「僕、あの時さ」
 シンジは言葉を被せて遮った。
「風邪を引いてたんだよね」
「風邪?」
「そう……、熱も三十九度くらいあってさ、学校に居る時からもう吐きそうだったんだ……、それで、あの時、我慢できなくなって、だから」
「でも、わたしがあんなこと言ったから……」
「関係ないよ」
「でも……」
「関係ない、僕がいけないんだ……、ヒビキさんがあの時のことで悩んでるの、知ってた、分かってたのに、今まであれはヒビキさんのせいじゃないって、言えなかったんだ、ごめん……」
「碇くん……」
 ──じゃり。
 砂を踏む音にはっとして、ヒビキは歩み寄り掛けた足を止めた。
 辺りを見回し、さらに脅える。
「碇ぃ……」
 恨めしげな声は、いつかシンジが怪我をさせた相手だった。
 ヒビキが入って来た入り口を塞いでいる、もう一方の柵の切れ間にも何人かの人影が見えた。
「碇ぃ!」
 脅えてしまった、身をすくめてしまった、それ程の狂気だった。
 ──過去を呼び起こさせるものだった。
 そのことが彼女の体を救い、その代わり、心に新しい悔恨を刻ませた。
 ──バキャッ!
 聞こえたのは金属バットの音だった。
 シンジがここで誰かを待っているのを見付け、仲間を集めての襲撃だった。
 金属バットの一撃は、シンジの右のこめかみを直撃していた。
「碇くん!」
 倒れるシンジ、頭からの音は何かが割れた音だった。
 その手応えでも、少年の興奮は収まらなかったのか……
「わぁああああ!」
 振り上げられるバット、これが当たれば今度こそ割れてしまうだろう一撃、しかし。
 ──バシュ!
 気がつけば……、その少年の両腕はバットを握ったままで『飛んで』いた。
「ひっ、は!?」
 ザシュザシュとヒビキが見る前で少年達の体が刻まれ、解体されていく、首が、手が、指が、足が、見えない何かに寸断され、細切れにされて宙を舞った。
 誰一人何が起こっているのか理解しない内に、自分の目で、自分の体の部品が切り飛ばされ、幾つにも分かれていくのを確認させられてしまった。
「人は痛がりだからこそ、他人の痛みに恐怖する」
 はっとする。
「人は痛がりだからこそ、人を傷つける事を酷く恐れる」
『彼』は彼女の傍に居た。
「そうは思わないかい?」
 白い髪と、赤い瞳……
 あまりにもあけすけな笑顔に、状況も忘れてヒビキは赤くなってしまった。
 ──渚カヲル。
 彼はヒビキに微笑んでから憂いた表情をしてシンジを見やった。
『白のシンジ』が自分に好意を持ってくれているのは理解るが、それとこれとは違う次元の問題だった。
 彼には違う世界での経験がある、そこでは自分と彼の間に、何かしらの好感があったらしい、だから、忍びないと言って解放してくれた。
 ならば、と思うのだ、どうして『自分』にその愛情が向けられないのかと、自己憐憫に蒙昧してしまっているその姿は、余り気持ちの良いものでは無かった。
 ヒビキはその視線がシンジへと向けられた時、ようやく呪縛から解放されて、慌て叫ぼうとした。
「いかりっ、……くん?」
 シンジは……、ぐったりとしたまま、青い髪のお姉さんに抱き起こされていた、そっと……
 苦しいのか、死にたくないと訴えているのか、唇を震わせていた、レイは……、そんなシンジに、いつもとは違った温かな視線を注いでいた。
「苦しいの?」
「……」
「大丈夫……、ずっと一緒だって、約束したでしょう?」
「……」
「良い子ね……、優しい子、あの子が傷ついているから、どうしても謝らずには居られなかった……、これを罰と思ってる?」
「……」
「男の子ね……、男の子になったわね」
 ──ママのキス。
「好きよ、シンジ……、愛しているわ」
 カヲルがそっと『手刀』を上げる、その目標は……
 ──レイだ。
 しかし振り下ろそうとはしなかった。
「……綾波、レイ」
「……」
「良いのかい?」
「……」
「その子を見捨てれば避ける事も出来るだろう?、君が死ねばその子は本当に死ぬ事になる、それでも?」
「かまわないわ……」
 そのしっかりとした口調は、いつものおちゃらけたものではなく、年齢にもそぐわない女性のものだった。
 慈しみ、愛おしく、シンジの額から髪を撫で付けた、その膝に彼の頭を下ろして。
「現在、過去、未来……、わたしは永劫に共に居てあげると約束したもの」
「君は……」
 困惑したカヲルであったが。
「そうか、そういうことか……」
 手刀を下ろす、ゆっくりと。
「……」
 シンジが呻いたようだった。
 だから、レイが語り出す。
「さあ、シンジ……、再生の時よ」
 嬉しげに。
「終わりと始まりは同じところにある……、あなたは今からまた、『始まる』の」
 びくびくと断末魔の痙攣を始める、思わず駆け寄り掛けたヒビキであったが、実際にはぴくりとも動けなかった。
 周囲に散乱している肉塊と、血を吸い込んで黒ずんだ土を踏むのが恐かったからだ。
「さあ、シンジ?」
 眼球をむき出しにしてしまうほどシンジは目を見開いた。
「あっ、あ、あ!」
 喉を逸らして悲鳴を上げる、何かが彼の身に起こっている、それは確かなのに、何が起こっているのか分からない。
 ぼんやりとしたものであったが、シンジの体が微妙な光を発し始めていた。
 ──ダメだ!
 その時だ。
 びりびりと空間を震わせるほどの思念が辺り一帯に叩きつけられた。
 ヒビキは耳を塞いで愕然とした、シンジ……、そう、シンジにそっくりな、けれどそれよりは何歳か年上な感じの少年が、空から舞い降りて来たからだ。
 その顔は、髪は白く、瞳は赤く、そして純白の翼を背に広げていた。
「ダメだ!、どうしてそんなことをするんだよっ、『母さん』!」
 少年は思い詰めた声で訴えた。
「やめてよっ、カヲル、どうして止めようとしないんだよ!」
 しかしカヲルは動かない。
「母さん!、カヲル!」
 焦るシンジに、レイは……、ゆっくりと顔を上げた、そして降り立った少年に蔑みを向けた。
「『自分』が死んでも良いと言うの?」
「だからって、これ以上『僕』を増やさないでよ!、そんなの……、そんなの酷いじゃないか!」
 訳が分からない、理解できない。
「この苦しみを、悲しみを、どうして与えようとするんだよ!」
 それでも傍聴人として選ばれてしまった以上、ヒビキは耳を傾けるしか無かった。
「幾らわたしに言っても無駄よ」
「母さん!」
「だってわたしは……」
 愛おしそうに……
「わたしは、この子のママで、あなたのお母さんじゃないもの」
 その言い切る口調に、白いシンジは電撃を受けたように身を震わせた。
「そんな……、そんなことって!?」
 驚愕に目を見張る。
「母さん……、だけじゃない?、リリス、アダム、綾波?、僕!?、無限に重なった世界の無数の『位相体』が『総体』となって『凝固』している?、君は一体……」
 ようやく、彼女が自分の知る『誰か』ではないことに気がついたようだ。
「そう……、世界は作り直されたわ、あなたの力でね?」
「僕はこんな世界を望んでいなかった!」
「同じことよ、アスカちゃんの望む通り、世界は作り直された、そしてあなたが世界を一つの『器』として封じ込めてしまったために、世界はその中で無限に増殖することとなってしまった」
 それを『渚カヲル』が引き継いだ。
「そう、だね……、苦しみを無限に味合わせるために君は呪詛を掛けた、それがこの歪んだ世界を生み出してしまった」
「カヲル?」
「偶然の中に発生する必然を知れと言う事さ」
 不敵に笑う。
 今まで、決して見せる事の無かった皮肉な笑みを。
「君はこの世界を封じて喜んだ、永遠に贖罪を味わうようにね?、『あの世界』の罪人に咎を求めた、ところがもう一人の君はその閉塞した世界で新たな創造を行った」
「カヲル、なにを……」
 シンジの顔には、はっきりとした驚愕が浮かび上がっていた。
 認めたくないだけで、気がついてしまっているのだろう。
「もう一人の君は、『碇シンジ』がこの物語の中核となるように世界を再構成したんだよ、自身を楔としたんだ、柱としてね?、カードの角をピンで止めれば、いくら動かしても同じ所をぐるぐると回るだけになる、君はそれを望んだんだろうけど、もう一人は勢いも追加した」
「カードは一周する度に擦り切れ、汚れる、一度として同じ『残像』は残さない、そうした無限の『因子』の差を含んで世界は幾多と創造された、けれどそれらは所詮、幻影なのよ」
「『彼』はそうして無数の幻を作った、そしてその中から『彼女』の望みが最も反映されている『架空の世界』を選択し、彼女を漂着させたんだ」
「でもいつかその速度は失われてしまうわ」
「世界は微妙な差を含んでパラレルワールドを形成しながらも、やはり一枚でしかないという事か」
「そう、この世界こそが始まりにして終わりになるべき世界、だからシンジ?、目覚めなさい……、全ての世界のあなたの苦しみと悲しみを受け入れて、世界を来世へと導くために」
「やめろぉっ!」
 白いシンジが怒りに大きく翼を広げた。
「この世界はこの世界だ!、始まりはともかく、生まれてしまったんだ!、この世界の人達に罪は無いし、全ての『僕』が持つ恨みつらみをぶつけるのは間違ってる!、そんな弄ぶようなことを!」
「でもあなたは憎んでいたでしょう?」
「この世界の人達にじゃない!」
「けれどこの世界の人達も、同じ過ちを犯そうとしているじゃない、だって、『やり直し』を望んだのでしょう?、あの子は……、なら、この世界はあの世界と同じ道を歩みために、同じように狂っているのよ」
「その苦しみを、悲しみを……」
 カヲルは微笑を彼に与えた。
「一番判っているのは、君なんじゃないのかい?」
「カヲ……、ル?」
 ようやく彼は、カヲルの異常に気がついたようだ。
「まさか……、カヲル、くん?、なの」
 目を細くする。
「そうだよ、シンジ君」
「まさか!、どうしてカヲル君が、カヲル君の意識が、どうして!」
「僕は使徒だからねぇ、肉体さえあれば記憶など何処の世界の『意識』からでも持ち込めるさ」
「カヲル君、どうして、どうしてなんだよ!、どうして僕を裏切るんだよ!」
「それは僕が使徒だからだよ」
 重圧が掛かる。
「第十七使徒、タブリス……、君は知っているはずだよ、僕の『尊厳』は自由!、僕を束縛しようとする者は許さない」
 それこそが、あの夜、シンジへと向けた微笑の正体であった。
「カヲル、くん……」
「そう」
 まるで別れた恋人へでも向けるような目を作った。
「君とは相容れぬ存在だったからこそ、僕は『自由』に君と愛し合いたかった……、けれど今は違う、君は僕を独占し、己の物とするために、『プラント』を破壊し、奪い……、束縛しようとした、愛でね?、けれど僕は自由が好きなんだよ、君の心は重いだけさ」
 余りの言い草にか、シンジは言葉を失ってしまったようだった。
「分かるだろう?、君の想いは茨の鎖となって僕を縛り付けようとする、窮屈なんだよ、僕は僕の思うがままに生きていきたいのさ」
「そんな……」
「ビッグバン、新しいこの宇宙を作るために、君は自分を爆発させたね?、君と言う純粋意志が、どうして……」
「あんな気持ちの悪い『僕』と共に居られるもんか!」
 叫ぶ。
「この世界はどうなんだよ!、自己満足のためにやり直したいからって作り上げたこの世界!、全てが架空のでっち上げだ!、本当の僕達の世界は……」
 泣きそうになる。
 アスカの勝手な願いを叶えるためだけに用意されたステージ、そのエゴが反映されたこの世界の沢山の悲しみ。
 人の命を我が侭のために生み出した自分達の所業!、罪悪。
「それでも、それでも生まれてしまった命には、心がある!、彼らを自由にしてやるためには!、僕は死ぬしか無いんだよっ、そうでなければ、この戒めは、世界を一つに繋ぎ止めている楔は、決して消えてはくれないから!」
 全ての世界を一本柱として貫いている支柱たる存在であるからこそ。
 その意識は完全に繋がってしまうのだ。
 しかし他の人物は回転するカードの残像に過ぎない、『碇シンジ』のように全世界において別個でありながら、同一体として記憶や経験を共有することは叶わない。
 ──彼との関係が薄いほど、回転半径の遠い場所にあるが故に。
 シンジは叫ぶ。
「この『世界』を壊すんだ!、そして全てを解放する!、既に世界は自力で存続出来るだけの力を得ている!、宇宙に広げるんだ!、無数に、無限に!、そうでなければ作られた命は弄ばれるだけで!」
「愛してるわ、シンジ」
「綾波ぃいいいいい!」
 激昂する『シンジ』、噴き出した爆発的な力は閃光そのものであり、そして全てを飲み込んで……


「……」
 マユミは、シンジから聞かされた話の内容に呆然としてしまっていた。
「正直、あまりはっきりと覚えてる訳じゃないんだよね、けど『あの僕』もまた僕だから、気持ち分かるんだ……」
 柵に腕を乗せ、下敷きにし、顎を引っ掛ける。
「世界の成り立ちとか、なんとか……、要するにさ、神様には時間も空間も関係ないってことなんだよね、出現した瞬間に全てに『在る』んだよ、僕を中核として世界は発生したけれど、幾つかの世界では当然『恨み言』を持った僕も生まれてる訳で、その結果次第でははみ出した僕も居るって事……、あの僕は誰よりも自分の世界の人達を憎んでいる、だからアスカが憎くてしょうがないんだ、こんな……、『僕』が無限に苦しんで、サードインパクトを迎えなくちゃならないような世界を望んだ、アスカって子が、本当に憎くて堪らないんだよ」
「碇君……」
「この世界のアスカが、『あの世界』のアスカなのは偶然でもなんでも無いんだ、始まりのアスカだからこそ、僕や、彼や、……山岸さんのように、みんなが集って来ようとしている」
「はい……」
「この世界を閉じ込めて、自分の嫌いな人達を苦しめようとした僕が居たんだ……」
「閉じ込めた?、って」
「輪廻転生って言うだろう?、同じ時間の輪の中をぐるぐると回って、同じ苦しみを味わうようにね……、それはあくまで、『僕』に関ったことのある人達だけのはずだった、けど……」
「この世界は、みんなを閉じ込めてしまっているんですか?」
「そうなる、のかな?、『僕』はそこまで無差別に人を憎んだ訳じゃなかった、けれどアスカの頼みを成就させるためには他に方法が無かったんだよ、……『僕』が憎んでいるのは、その苦しみの輪の中に『僕』までも閉じ込めさせたアスカと、僕自身なんだ」
「碇君……」
 複雑な話だが、それは憎しみを持った『あるシンジ』と、アスカと共に岸に横たわっていた『シンジ』の、それぞれの干渉についてであった。
 一人が世界の閉鎖を願った、もう一人が世界の輪転による再生を行った。
 その相互作用によって、今の世界が誕生している。
「この苦しみから逃れるためには、二つしか方法が無いんだよ……、一つはサードインパクトを防ぐこと」
「サードインパクトを、ですか?」
「そう……、そうすれば、『輪転』は行われず、世界は新たな軌道へと乗るだろうから」
「もう一つは?」
「……」
 シンジは答えず、うっすらと笑った。
「教室、戻ろうか」
 柵から体を起こし、マユミに笑みを向け、軽い調子で誘った。
「そろそろ授業始まっちゃうから」
 そのあからさまな護魔化しに、マユミはかなり困惑した。


 ──わぁああああ!
 あの時。
 重傷を負って動けないはずの、『もう一人』の自分が立ち上がって、力を強く弾き返した、返されてしまった。
 ATフィールド、心の壁、絶対領域。
 僕の殺意は及ばなかったと、白のシンジは自戒する、自分で自分をあざ笑う。
 あれは、衝動的な恐怖に伴う発露であって、ただ暴発させただけの力であったから。
 ──居室の、暖炉前。
 腰にタオルを巻いただけの姿で絨毯の上に腰を落とし、別のタオルで髪を拭いていた、火の熱気に当てて。
 弾き返された力に曝されて以来、未だに力が復調しない、翼を生み出せない事が良い証拠だった。
(僕、か……)
 あれもまた自分なのだが、自分とはまた違っているとも感じられる。
「……違うのは、僕か」
 一瞬手を止めてしまったが、またがしがしと拭き始めた。
 他の世界の自分など感じられない、それは自分が『柱』とは無縁に存在している『碇シンジ』だからだろう。
 力を弾き返した自分は、ゆらりと立ち上がり、そしてあの呪文を呟いていた。
『逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ……』
 俯き、顔を前髪で隠していていた、しかし眼光が恐ろしいほどに鋭く鈍く、光っていると感じられた。
『何よりも、自分から』
 その言葉は、自分の胸を貫いて行った、父の背中、逃げてはいけないと言い残した父、あれは自分のようになるなとの願いでは無かったのだろうか?
 面倒だから勝手に生きろと口にしたのではなく、こんな男の背中を追いかけるなとの、父親としての忠告だったのではないだろうか?
 少なくとも、こちらのシンジはそう感じていたのだろう、だから。
『うわぁああああ!』
 何かがあって、何かが起こった、それは自分にも理解らない現象だった。
 無数に重なる世界は合わせ鏡による多重派生そのものだ、しかし鏡面には傷もあれば窪みもあるし、くすみもしている、100%の反射率ではない、だから『遠く』に行くほどあやふやになって差異が増える。
 ──パラレル効果。
 しかし二枚の鏡の中央、中心点に在る物が『光』であったならどうであろうか?
 それも、全てを塗り潰す閃光であったなら?
 差は……
(……)
 ……翼をもぎ取られたこと、力の大半を削がれてしまったこと。
 幾つかの結果だけが、この体に残されている。
 それを考えると、自分は万能ではないのだと知らしめられる。
「ふう……」
 拭き終わり、休憩を入れる。
「エリュウ?」
「はい、シンジ様」
 銀盆にグラスとワインを乗せたエリュウが戻って来た、チーズも添えている。
「この間のテロ事件、間違いなく、向こうの仕業なんだね?」
「はい……」
「そっか」
 シンジはそれだけを確認すると、膝を抱え込んで右手親指の爪を齧り始めた。
 命をあのように使い捨てにするその仕業こそ、この世界を、生命を物として考えているからこそ出来るのではないかと感じられて……、だから、少年はどうしても認められなかった。
 幻影の多重世界達は、遠心力によって生じるエネルギーを与えられ、既に『現実』として『実在』出来るだけの『存在感』を得てしまっている。
 それは取りも直さず、命として『在る』、と言うことだ、どのような理由が在るにしろ、勝手にして良いものではないだろう。
 ──例え、それを創造した神であっても。
「碇シンジを倒す、楔を破壊して、世界を解き放つ、解放するんだ……、でないと諦めないだろうな、きっと」
 ──アイツは。
 シンジは心の中で呟いて、ぎゅっと唇を噛み締めた。
 あるいは、復讐すべき世界をこの手に取り戻すために。


 ──本部。
 すっかりぐったりとした様子で、ホリィは与えられた部屋の中、何も置いていない机へと突っ伏していた。
 与えられたばかりでまだ何も持ち込んでいない、設えられていたターミナルの端末機くらいはあったが、自分が知っている物はせいぜいがパソコンだ。
 ネルフ内部で特化された似非えせコンピューターなど恐くて触れられた物では無かった。
 そんな彼女にも一応部下が与えられている、青葉シゲル、ネルフ本部中央作戦司令付きオペレーターである。
 シュッと扉が開かれる。
「ホリィちゃん、頼まれてた使徒関係の資料なんだけど……、どうしたんだい?」
 わかってて訊ねたのだろう、シゲルは苦笑して、机の上にファイルを置いた。
「あ、すみません……、疲れちゃって」
 だろうね、とだけ同情をして、その先は立場から呑み込んだ。
 適材適所とは言っても、ホリィは十四歳である。
 その上、アスカのように高学歴と言う訳でもない、そんな子に事務仕事をやらせる方が無茶なのだ、どうかしているのだ、けれども立場上、それを口にすることはならないのである。
 第一、彼女自身が正式な辞令として承諾しているのだから、ここは頑張ってもらうしかない。
 苦労はするだろうが、それを軽減させるために自分がサポートを命じられているのだから、中央作戦司令部でも、情報と通信を統括している自分が役目を申し付けられているのは、そういう理由わけだと理解している。
「えっと、そのレポートは何処でも読めるようにプリントした物だけど、持ち帰らないで、この施設内だけで読んでもらえるかな?、それから決して放置しないように、ファイリングして、この部屋に保管して、分かったね?」
「はい」
 ホリィはファイルをめくるために背もたれに背筋を伸ばした、が、その座り心地の好さにも顔をしかめる。
 事務机の中でも、各部のトップと同じ高級机が支給されていた、ただ当然のごとくサイズが大人向けのために、ホリィでは机のへりが鳩尾、または胸元に来てしまうのだ。
 椅子の高さ調整はもちろん最大にしているのだが、しかしそれもまた足を床にしっかりとつけられないことになってしまっていて、疲れる要因になっている。
「それで、決まったんですか?、シュウガクリョコウ、でしたか?」
「ああ、うん、一応チルドレンには待機命令が出る予定だけど」
『日本語』が上手いなぁと思う。
「それは『正規登録』されているチルドレンのことですか?」
「……そうなる、ね」
「そうですか……」
「どうかしたのかい?」
 ホリィは曖昧な表情をして言葉に纏めた。
「……そうなると、本部に確実に残るのはファーストとフィフスだけなのかと思ったんです」
「サードは不確定、か……」
「いえ、行っちゃうと思います、頼めば残ってくれるかもしれませんが……」
「なんだい?」
「初号機は改装中で暫く使えませんから、構わないんじゃないかって」
「ああ、そうか……、そうだったね」
 うんうんと頷く。
 現時点で初号機が最高の兵器であることは間違い無い、しかしこれは零号機にも言える事だが、プロトタイプとテストタイプであるこの二機には汎用性が無いに等しいのだ。
 正確には、正式採用機用に開発されたオプションパーツとの互換性、だ。
 素体そのものはともかくとして、装甲は完全にオーダーメイドの二機である、これは『共通規格』が決定される前に作製されたものなのだから、仕方が無いと言えば仕方が無いのだが。
 元々エヴァは複数のオプションパーツを装備する事で始めて全空域での運用が可能とされるものである、故に多数の開発プランが上がっているのだが、その全ては『正式採用機』を基準としたデザインとされていた、当然だろう、何故にテストタイプやプロトタイプなどのオーダーメイド機を相手にした専用のものを設計する無駄手間が必要だろうか?
 弐号機以降量産される予定であるエヴァの装甲は全て同じものとなっている、これはオプションパーツを使いまわせるようにするためだ、実に『経済的』な選択であろう。
 当然、その規格はオプションパーツにまでも及んでしまっている。
 このため、初号機と零号機にはかなりの制約が存在していた、共通規格が決定される前にデザインされたために真実汎用ではないのだ、開発済みでありながら、使えない武装兵器もかなりの数に及んでしまっている。
 元々各支部では『もったいないから使ってるんだろう』と言う意見の多い二機でもある、だから、の改修であった、最も性能の高い機体を遊ばせておく事も無いだろうと、オプショナルを可能とするために、装甲を新しくしようと言うのだ。
「それでも、やはりオーダーメイドになるというのはどう言うことなんでしょうか?、零号機の装甲は弐号機の予備を流用するだけなんでしょう?」
「零号機はともかく、初号機は異常な発動が目についたからね、不安なんだよ、今度の装甲の変更も表向きは『そういうこと』になってるけどね」
「違うん……、ですか?」
「ああ」
 神妙に頷いた。
「……今度の『服』は、拘束具なのさ」


 ──学校。
「あ、シンジ君、大変だよ!」
 戻って来たシンジに、カヲルは慌てて報告した。
「どうしたのさ?」
「決まったんだよ、修学旅行の行き先が」
「へぇ?、どこなの?」
 それが、と実に重々しい口調で耳打ちした。
「沖縄だよ」
「え?」
「沖縄なんだよ」
「え?」
「沖縄なのさ」
「ええ?」
「飛行機で行くんだよ……」
 それから二三言口にしたのだが、ふとカヲルは返事が無い事を訝った。
「シンジ君?」
「なんや?、どないしたんや?」
「いや、それが……」
 ひらひらとシンジの目前で手を振って見せる。
「……気絶してるよ」
「はぁ!?、マジかいな」
「うん……」
「……飛行機嫌いっちゅうの、ホンマやったんやなぁ」
 どないするねん?、っと言った感じで、トウジはカヲルを見たのであった。


 ──東京、武蔵野。
「ヒビキぃ」
 町中、奇麗な金色の髪をした少女が振り返る。
「マサシ先輩」
 やや痩せ型、紺のセーラー服。
『あの』、ヒビキである。
 彼女は両手で鞄を下げ、マサシが駆け寄って来るのを待ち、一緒になって歩き出した。
「もうすぐだったよな?、修学旅行」
「はい」
「今年は何処に行くって?」
「『沖縄』です」
 これを偶然と言うのだろうか?
「沖縄かぁ」
 しかし彼らが知るはずも無い。
 悔しそうに……
「去年はスキー研修で護魔化されたのになぁ」
 くすりと笑って。
「それだって良いじゃないですか、人工スキー場なんて、普通行けないし」
 地軸の変動の関係によって、年中夏となってしまった日本である。
 さらには国際情勢の不安定さもあってか、海外に気軽にスキーに出かけるなどもってのほかとなっていた。
 熱気だらけの国内、人工スキー場は維持のために莫大な経費を必要としている、そのため非常に料金もお高いのだ。
 スキーと口にすれば、普通それはローラー付きのスキー板で草原を駆け下りることを指していることになるくらいである。
「……まだ忘れられないのか?、シンジのことが」
 彼女は体を強ばらせた。
 それを横目に見ても、彼は続ける。
「そりゃ、ショックだったのは分かるけどさ……」
 ヒビキは顔を伏せてしまった、元々背が高かったヒビキは、中学二年生になってますます伸びて、百七十近くになっていた。
 髪も背の半ばほどにまで伸ばしているのだが、やはりマサシよりも背が高いとなると、その顔は髪程度では隠しようがない。
「……」
 マサシは言葉を失ってしまった、いや、懸ける言葉を見つけられなかった。
 公園、爆発事件、惨殺された名残。
 目撃情報から、直前にシンジが一人で佇んでいたのが報告されてしまっていた、イジメに対する報復としてシンジが仕掛け、同級生を呼び出した。
 それが警察の見立てであった。
(……)
 ヒビキもまた、言葉にする事が出来なかった。
 あの時に見たのがなんであったのか、未だに整理はつけられない。
 黙り込んでしまっている内に、そういうことになってしまった、自分もまた狙われたのだろうと言う事で同情され、追求はなく、親からは非常に心配されてしまった。
 直前にシンジが偽名で電話を掛けていた事もそんな誤解を助長している。
 あれ以来、心の何処かに『それどころじゃない』と言った気持ちがわだかまってしまっていた、だからどんなイベントに対しても、どうしても乗り気にはなれないでいた、心底浮かれる事が出来ないのだ。
 シンジが誤解されているから?、違う、そんなことではないのだ。
 ──翼の生えた少年と、奇怪な会話。
 それが心を縛り付けてしまっていた。
「ま、いつまでも気にしてたってしょうがないって、あいつは……、どこか俺達とは違う『雰囲気』で生きてる奴だったからさ」
 それだけは同意出来る様な気がしてしまったから。
 ヒビキはこくりと頷いた。


 風が轟々と吹きすさぶのは、そこが第三進東京市でも最も高いビルの上だからだ。
 その高さは旧東京に存在していた日本一高い電波塔を越えている。
 時に数十メートルクラスの突風が吹く、なのにその少女はふちに腰かけ、ぶらぶらと生白い足を遊ばせていた。
「にゅ〜、なぁんかごちゃごちゃしてきたぞっと」
 レイである。
「違うっか……、世界が集束していこうとしてるんだ、だからばらついてた『因子』が集結し始めてるのか、渦潮みたいに呑まれて、一ヶ所に集まろうとしている……、問題はっと」
 両膝を立て、頬杖を突けるようにする。
「その圧力に誰が崩壊して、誰が生き残っていくのか……、堪え切れた時にはきっと」
 レイの頭の中では、渦潮の尻尾からぽろぽろとこぼれるように吐き出される『キャラクター達』の姿が見えていた、まだ、その選別はレイの想像によるものであったが。
 にぃっと笑う。
「楽しみたのしみぃいいいいい!?」
 ぐわんっと風にまくれたスカートに力負けして、転がるように飛ばされ落ち消えてしまったレイだった。



続く



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。