さてはっきりと言ってしまえば、リツコの作成したレポートは科学的な側面だけを追えば満点を出されて当然の代物ではあっただろう、しかしだ。
それはあくまで、物理科学の側面から見て、のことである。
理屈とつじつま合わせに終始しているだけの物であると、一番評価しているのは作った本人であるかもしれない。
鬼気迫る勢いでリツコはデータの解析を行っていた、初号機改装の音頭を他人に任せてまでである。
いつものゲンドウであればそれを許すはずは無いのだが、彼をとってしてもどちらがより重大事であるのか、明白過ぎる問題であったのだろう、特に表立って注意することはなかった。
周りはあの論文に対して、凄い、大した物だと評価をくれる。
しかしそのような評価が余計に彼女を苦しめていた。
(調子に乗れない自分……、自己評価してしまう冷めた性格、ほんと、損よね)
ほんのわずかに、たばこを咥えっぱなしの口元に笑みが浮かんだ。
手を抜いてしまった部分、護魔化してしまった部位。
他人には分からないだろうが、自分には分かってしまう、だからこそ許せないのだ、我慢が出来ない。
そんな苦し紛れの代物に踊る周囲も、躍らせてしまっている自分のことも。
何もかもが馬鹿に思えた。
カチャッとENTERキーを押して、ふうと息を吐く、この第二稿は下手をすれば第一稿を全面否定する物になるだろう、そうなった時、自分の名声は地に堕ちるかもしれない。
自分で自分の首を絞めている、なのにどうしてやめられなかった。
──ウィンドウ隅の時計を確認する、日付もだ。
「もうこんなに経つのね」
部屋の角隅にある、コーヒーサーバーへと視線を投じた、いつもならそこには苦笑しながら、マグカップを手にしている友人がいるはずなのだが。
「寂しい?、そうかもね……」
思い詰めようとする心を適度に掻き回してくれていた、あの鬱陶しさが少し恋しい。
「そう言えば、あの子達の修学旅行の件、どうなったか聞き忘れたわね……」
休みが取りたい。
そんな叶わぬ望みから、つい思い出してしまった話であった。
NeonGenesisEvangelion act.35
『変調:pro・logue −外典 第一章 第一節−』
「嫌だ!、ぜぇえええったい嫌だあ!」
ただいまぁっと帰宅したアスカとホリィは、そんなシンジの喚き声に顔を見合わせながら靴を脱いだ。
「ちょっとぉ、なに騒いでんのよ」
「あっ、アスカ!、助けてよ!」
アスカは半分涙目になってるシンジにきょとんとした。
「ちょっと、どうしたの?」
腰に縋り付いて来たシンジの頭を撫でながら、アスカは肩をすくめているカヲルへと訊ねた。
「修学旅行のことで、ちょっとね」
「はぁ?」
「ほら、行き先が沖縄だろう、だからさ」
「余計わかんないんだけど?」
アスカは本気で忘れているようだ。
「……シンジ君は、飛行機恐怖症なのさ」
「ああ……」
そうだっけ、っと言いつついい加減鬱陶しくなったのかシンジをぽいっと横に捨てた。
「だったらやめときゃ良いじゃない」
「それがそうも行かなくてねぇ」
ねぇ、とレイに……、レイ=イエルへと目を向ける。
ふふんとソファーに座るレイは、内股気味にした両膝の上に肘を突き、手で顎の支えを作っていた。
「『たまには』さ、のんびりさせて上げようと思ってねぇ、お休み上げるって言ってるのよん」
「別にこっちでも良いんじゃないの?」
「それじゃあ代わり映えしないでしょ?」
「本人嫌がってるのに?」
「だから面白いんじゃない」
「……」
「良いじゃない、飛行機っつってもそんな何十時間も乗ってなきゃいけないわけじゃないんだから」
「……そんな長い時間乗るなんて冗談じゃないよ!」
シンジは喚いた。
「大体なんで沖縄に行くのに飛行機なんだよ!、電車とフェリーでも行けるのにっ」
その言い草には呆れるレイだ。
「誰がそんな鈍行機関、わざわざ使うの?」
「移動も旅の醍醐味じゃないか!」
「そういうことは学校で先生に言ってねぇん」
ちくしょう、とシンジ。
「大体おかしいんだよ、変じゃないか、どうして修学旅行なんてものがあるんだよ」
アスカが顔をしかめて訊ねる。
「どういう事?」
カヲル。
「簡単な事さ、今やこの街の転居率は日本一だ、学校も同じだよ、多くの入れ代わりがある、当然『積み立て』も無茶苦茶だよ、転校する者には返金しているわけだからね?、かと言って転校して来た者から一度に徴収するなんてこと出来るかい?、……でも修学旅行は強行される」
レイが頷く。
「ってわけで、なぁんかありそうだからねぇ、どうしても誰かに行ってもらわなきゃならないんだけどぉ」
だからって!、とシンジは喚いた。
「それならレイでも!」
「あ、あたしはぱぁす、色々こっち、ばたばたして来てるからぁ」
「カヲル君が……」
「カヲルはフィフスとして正式登録してるからねぇ」
「アスカ……」
「生徒じゃないでしょ」
「綾波」
「ファーストチルドレン」
「僕だって、エヴァのパイロットなんだ!」
あ、でもとホリィ。
「初号機の改装スケジュールがちょうど重な……、ってるから、あう」
シンジは下唇を持ち上げてぐしっとなっていた。
「ホーリィは僕のことが嫌いなの?」
「バカ言ってんじゃないわよ」
ぱしっとアスカに叩かれて膝を抱える。
「僕が一番上手くエヴァを使えるのに」
「のの字書いてんじゃないっての、もう鬱陶しいんだから」
後頭部を蹴って……
「実際のとこ、どうなの?、シンジでないといけないワケ?」
「まあ、ね……、ほら、シンちゃんがスカウトした子が居てさ、うろちょろされても困るんでシンちゃんの学校に放り込んだのよね、教師ってことにして」
「はぁん?、勝手な事されちゃ困るから、見張らせようっての?」
「まあ、それもある……、けどシンちゃんとあたしじゃ『恐さ』の質が違うかんねぇ、あたしなら逆らうなんてこと考えられないようにボッコボコにしておくけどさ、シンちゃんだとどうしても、ね」
「舐められるってわけ?」
「それに、向こうだってシンちゃんに呼び掛けられたのに、あたしにあれこれ言われたんじゃ、反発したくもなるだろうしね」
ふうん、と、アスカは適当に濁した。
「だからって、これじゃ役に立たないんじゃない?」
まだ膝を抱えてぶつぶつと言っている、ホリィが背を撫でて必死に慰めているのだが……
にひひっとレイ。
「それも計算の内よ〜ん、こんなシンちゃんを見ればちゃ〜んすって思うのが普通だしょ?」
目を細める。
「……悪趣味、本気なの?」
「あたしは本気よぉん?」
うっふんと。
飛行機の中であればシンジは隙を見せる、そこで彼女がどう動くのか見ようと言うのだ。
「……本格的に『始まる』前に、懸念は解消しておかないとね」
そう言って、レイは身をくねらせてウィンクをした。
長い廊下を歩く二人が居る。
ゲンドウと冬月である。
「委員会も相当焦っているようだな?」
冬月は軽口でこの男の腹を探った。
「良いのか碇、シナリオが瓦解してしまっているのは何も老人達ばかりではないぞ、我々もだ」
「……」
「もはや修正で対処出来る範疇を越えている……、これ以上の補正は破綻を招くだけだ」
ふっとゲンドウは鼻で笑った。
「構わんさ」
「碇!?」
ぎょっとした冬月は、ゲンドウの口元に笑みを見付けて正気を疑った。
「本気で言っているのか……」
「ああ」
くいと色眼鏡を押し上げる。
「補完計画などはアダムを再生させるための口実に過ぎん」
「……確かにそれはそうだが」
「アダムは既にこちらにある、何も問題は無い」
冬月は嘆息した、確かにそれはそうではあるのだ。
人類補完計画、それがどのような内容であるかはともかく、問題は初号機と初号機に取り込まれた妻、そして彼女と同じ世界に取り込まれる事を望んでいるこの男へと集約されるものなのだから。
『生きてさえいれば何処でも天国になりますわ』
そう告げた碇ユイと言う女性のことを、コウゾウは胸の痛みと共に思い出した。
芦の湖を展望出来る公園で、まだ赤子だったシンジをあやしながら、彼女はそう語ったものだ。
やがて来る使徒、その戦いの結末がどうであろうとも、彼女はこの世に人の生きた証しが残る事を望んでいた。
サードインパクト、あるいは太陽系としての寿命、どうであってもだ。
エヴァと、そこに込められた魂は、永遠の時を渡るだろう。
彼女だけがその権利を得た、やや前を歩く男は、その彼女に縋ろうとしている。
残されるのは、嫌だからと。
そのためのアダムだ、これと幾つかの『要因』を誘導する事によって、やがてこの男は初号機と同一化する予定になっている。
そして『彼女』と再び逢い、永遠に時を渡ろうという、それはまさに狂気とも言える盲愛である。
冬月がそんな男に荷担しているのは、残される側としての『成すべき事』を行うためだった、使徒を全て倒し、補完計画を頓挫させ、ユイが……、彼女が夢見ていた『天国』を存続させる。
彼がこのような男に協力しているのはそのためだった。
実行のためにはどうしても使徒を倒せるエヴァンゲリオンが必要であった、そしてエヴァを建造するためにはゼーレと呼ばれる大組織のバックアップを受け続ける必要性があった。
しかし初号機の接触実験の失敗によってゼーレは尻込みを始めてしまった、そんな老人達を焚き付けるためには、補完計画が必要だった。
餌である。
一石二鳥と言うが、実際には何羽もの鳥を得る事が出来る……、はずであった。
「苦労するのは、俺なんだがな」
ゲンドウの願いは既に実現可能な段階にまで到達している、後は自分の仕事ではあるのだ。
夢想が現実の形を取り始めている今、男の行動はそちらに重きを置くだろう。
コウゾウはそっと溜め息を吐いた。
──総司令執務室。
扉を開いた二人は、流れるように入ろうとし、足を止めた。
「レイ?」
ゲンドウはやや驚いた顔をした、席に向かって立ち、肩越しに振り返るようにしていたのはレイだったからだ。
彼女はこの部屋へのフリーパスを持っている、が、先日の件以来、ゲンドウは彼女を避けていた。
レイもことさら会おうとはしていなかった、その彼女が突然訪れたのだから、驚くのも無理のないことだろう。
「どうした?、何故ここに居る」
ゲンドウは動揺を押し隠しながらも席に着いた、少し離れた予備の椅子にコウゾウも腰を落ち着ける。
「座ったらどうかね?」
一応声を掛けたのだが、冬月はそのレイの冷たい目に萎縮させられてしまった、いや、冷たいのではない。
感情が全く込められていなかったために、恐ろしくなってしまったのだ。
存在すら認知されていないのではないかと。
レイはゲンドウへと視線を戻した。
「……何故」
言い難そうに。
「わたしを……」
そのまま俯き、言葉を無くしてしまう。
視線をさ迷わせているのか、落ち着かない雰囲気だった。
ふっと、ゲンドウはおかしくなったのか、笑った。
「不安か?」
「!?」
「何故お前を放置しているのか……」
ゲンドウはいつものポーズを形作った。
手を組み合わせて顔を隠す、あれだ。
「……先に言っておく、お前はわたしにとって道具に過ぎん」
「……」
「地下の巨人……、『リリス』、そのコピーである初号機、わたしがユイの元へ行くためには、その二つと同一位相体であるレイ、お前が必要だった」
もっとも、と……
「もはやお前では役に立たん、ならばかまい付けるだけ無駄だ、勝手にしていれば良い」
「けど」
レイは言い縋る。
「わたしは……、司令がわたしに『あの人』の影を追っていると思っていました、だから気持ちが悪いと」
「拒絶したか?」
レイは頷き、ゲンドウは苦笑する。
「かまわん、いつものことだ、慣れている」
「……」
「人形であったからこそ、お前を可愛いと感じられた、そこにユイの面影を見て安らいでいたのも事実だ、が、わたしはお前と言う娘を相手にしていたつもりだったよ」
「司令……」
「かゆいな」
冬月は聞かされながら、どこかくすぐったそうに体を揺すっていた。
「冬月……」
唇を尖らせる、珍しい態度に冬月は口元を手で被った。
吹き出してしまいそうになったからだ。
「すまん……」
レイへとまた目を戻す。
「……お前は、わたしにとって、神だった」
「神?」
「そうだ、……やがてユイの、妻の元へと導いてくれる神そのものだった、この身にアダムを宿し、お前と一つになる事でユイの元へと旅立つ、お前こそが救いの神であった、が、今のお前はわたしにとって恐怖そのものだよ」
「恐怖?」
レイは顎を引くようにした。
「恐いのね、わたしが……、他人だから?」
「そうだ、今やお前は明確な『意思』を持つ一個の生命体だ、人格を持っている……、それはわたしが最も恐れるものだよ」
レイはこくりと頷いた。
「でも……、まだ諦めてはいないのね」
「ああ」
ゲンドウは『対等』の相手として話をし始めていた。
気圧されずに、圧し返すほどの威圧をもって。
「……わたしはそのためだけにここに居る、使えるものは使う、シンジも、お前もな」
レイはその意思の強さに、圧倒されたか表情を引き締めた。
「……わかったわ」
「ああ……、今は良い、所詮全ての使徒を倒せなければ、事は何も起こせないのだから」
「ええ」
レイは背を向けた、スカートを翻して。
「行くのか」
「碇君が待っているから」
「そうか」
ゲンドウは姿勢を解くと、椅子を横に向けて背を預けた。
「一つ、教えて」
レイは扉を開ける寸前でゲンドウに訊ねた。
背を向けたままで。
「何故、わたしを所有物として扱わないの?」
口元に皮肉が浮かべられる。
「生まれは……、問題にはなるまい、人は生まれを選ぶ事は出来ない、人の腹から生まれる事もあれば、お前の様に作られることもある、問題は生まれ落ちたものを『どう扱うか』ではなく、『どう接するか』だ、違うか?」
レイの肩がわずかに震える。
「そう……」
「彼女はそれをわたしに教えてくれた、……わたしはそれが嬉しかったのだよ、『ユイ』」
「……」
小さな呟きだった、聞こえないほどの。
レイはそれを口にして、出ていってしまった、ゲンドウの口元には自嘲が浮かんでいる、レイの言葉が聞こえたのかもしれない。
「……お前がそんなことを考えていたとはな」
「……」
コウゾウは苦笑すると、これ以上は苛めるだけ嫌味になるなと話題を変えた。
「そろそろ国連からの監査官殿が到着する時刻だな、対応は決めたのか?」
ゲンドウの返事は、ああ、といつものように、そっけなかった。
「お願い……、わたしにお休みの時間を」
空ろな表情でそんなことをえへらと呟き、施設内の廊下を徘徊しているのはマヤであった。
胸にファイルを抱えてよたよたとしている、その顔は正に寝不足、時折ふらふらと壁に引っ張られてはガン!、っと側頭部を打ち付けて、その反動でまたよろよろと逆側の壁にげいんっとぶち当てたりしてしまっている。
もはや痛覚は失われてしまっているのだろう、えへえへとイッちゃっている。
──科学絶対主義とは、一種の病気であるのだろうか?
程度の差こそあれ、誰でも非科学的なと失笑して、根拠がないと一笑に伏したことがあるだろう、例えば備長炭である。
二十世紀半ばほどまでは、水やお釜に炭を入れるなど汚らしい、と思われていたものだが、その効果が科学的に立証された途端に趣旨替えする者が激増した。
赤木リツコと言う女性は極端にこの傾向が強い人間だった、ロジックで計れないことは認めないのだ。
だがかと言って見て見ぬふりをする訳でも無い、結論が出せるまでひたすら分析に没頭し、納得出来るまでやめようとしない、まあ、それも一つの病気であろうが。
しかしその性格が現在の地位にまで彼女を押し上げて来たのも確かであった、ただ、その煽りを食らっているマヤとしては、もはや週一桁の睡眠時間しか取れぬ現実は辛過ぎたのだが。
「あ、王子さまぁ、何処へいらっしゃるんですかぁ?、そちらには川が……、ああ、手招きしてる、うふふふふ、そう、そうなんですね?、これは天の川、ああ、わたしは織り姫、彦星さまぁ」
おいでぇ、おいでぇと確かに向こう岸で誰かが手を振っているのだが、マヤはそれが三途の川と若い頃のおじいさんだとは分からなかったようだ。
大体、マヤはリツコが何を調べているのか全く知らなかった、見せて貰ってもいなかった、しかし隠している訳でも無さそうなので、時々ちらりと覗き見ていたのだが、使徒と異相体について、ということ以上は掴めてはいなかった。
それはそれで重要なのだろう、と思うと、補佐役として邪魔は出来ない。
そのため彼女の雑務を引き受けて、よし頑張ろうと張り切ったのだが……
──甘かった。
「ううううう」
とうとう笑ったままで泣き出した、E計画担当主任と言うリツコの肩書きは伊達ではないのだ、というよりも、統括責任者という役職にあるのに、彼女は管理職に落ち着いていなかった。
そのため、全ての実務に彼女の手と口が挟み込まれている状態に陥っていた、逆に言えば、彼女無しではどんな計画も立ち行かないのだ。
使徒、異相体の研究、武器の開発に零号機と初号機の改装、弐号機と3号機の整備、他にもだ。
技術部としての取り仕切りまで入って来る。
もし、命じられていたならば、無理ですぅと泣きついて何とかしてもらう事も出来たのだが、自分から『よくやったわね、マヤ』『センパイ』などと『ごほうびよ』『ああ……』なんて甘い夢を見ていらないことを始めてしまった手前、自分からは投げ出せなかった。
「うう……、せんぱぁい、あたしより怪獣の方が良いんですかぁ?」
──後にこのさめざめとした独り言が独り歩きを始めて、とんでもない噂へと発展してしまうのだが……
今はまだ、ゾンビ娘はうふうふと泣きながら愉悦に浸って放浪し、日向マコトを脅えさせ、壁に張り付かせただけに留まっていた。
「マ、マヤちゃん……」
──閑話休題。
どこにあるのか今ひとつはっきりとしない島に、一隻の『ぽんぽん船』が近づいていた。
普段、この島に近づく船はない、非常に『座礁率』が高いからだ、座礁などするはずのない深さがある海域だというのに。
特に銃火器などを持った『怪しい団体』ほど遭難率は高くなる、そして運良く波に飲まれず揉まれるだけで済んだ者は、残らず海面下に巨大な生物の影を見るのである。
しかしそのぽんぽん船は恐れることなく島を目指していた、一応無人島とされている島なのだが、不思議な事に港があった。
湾は左右を岸壁に挟まれた入り江の奥に作られていた、空は樹木の枝葉に覆われている、これでは衛星からでも確認は出来ないだろう。
「マナぁ〜」
マナは桟橋で必死に手を振っている少年に苦笑した、ぽんぽん船の縁にはタイヤが吊るされているのだが、これが塩水で腐ったような匂いを放って非常に臭い。
それでも出迎えてくれるのだから、舳先に立ってやるのが礼儀だろうと……、我慢しようとしたのだが。
「あ〜あ」
船頭として操舵輪を握っていたケイタは、歓迎ののぼりを広げたムサシに呆れ返った。
彼を手伝うやけに可愛い女の子が、敵意を剥き出しにしていたからである。
フェリスであった。
「ったくもぉ、ちょおっと目ぇ離すとすぅぐ『あれ』なんだから」
マナはボストンバッグを部屋の隅に放り投げた、そのままバスンと大きなベッドに身を投げ出す。
この間フェリスが迷いこんだ、元シンジの、そして今はマナの部屋である。
さぁっと風が吹き込んで、穏やかにマナの頬を撫でていった。
ぼんやりとカーテンの揺れる窓を見る、そのままバルコニーへと出られる作りになっており、そこからの景色はまことに穏やかなもので、心が和む。
青い空、緑なす稜線、そして白い雲。
マナは顔を背けるようにして布団へと押し隠した。
「やだな……」
声をくぐもらせて、一人ごちる。
「ここに戻って来ると、あの頃のことを思い出すから……」
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」
──2014、厚木基地。
フェンスに囲まれた殺風景な敷地を、カーキ色の服を着せられた少年少女達が、汗だくになりながら縦列を組んでランニングしていた。
滴る汗が服をぐっしょりと濡らしている、意識が朦朧としてしまっているのか、顎が上がり、舌が出ていた。
「あと十周!」
教官らしき男が怒鳴る、腕を組み、威圧的に立っていた、その顔は帽子の鍔によって影が出来て確認出来ない。
ゴォと爆音を上げて戦闘機が離陸していく、熱せられた風はからからに乾いていて埃交じりに苦しめる。
それでも子供達は懸命に、『命令』に従って走り続けた。
──ジャア!
シャワーからの水が人心地を付けてくれる、マナは顔をシャワーへと上げ、その筋張った喉に飛沫を当てた。
部屋の大きさは十メートル四方あるかどうか、それがこのシャワールームだった、等間隔にパイプが屹立しており、その上部から三方向に水を撒く作りになっている。
浴びているのはマナだけではない、同じような歳の子供達が男女関係なく、一時の開放感を味わっていた。
少年がへたりこんで座っている、少女が剃刀で頭を丸めている、やっていることは様々だった。
マナはふと、その中に恥ずかしがってか内股になり、おどおどとしている少年を見付けた。
「ケイタ」
声を掛ける。
「時間なくなっちゃうよ?」
ケイタはマナの裸に赤くなって俯いてしまった。
そんなケイタをマナは憧憬の瞳で見る。
「垢だけでも落としておいたら?」
「ほっといてやれって」
へたり込んでいた少年が口を開いた、背中に雨を当てるようにしたままで。
「ケイタは俺達とは違って、ちゃんとしたところから来たんだからさ」
「……運が無いよな、ケイタは」
周囲の雰囲気は非常に同情的だった。
マナは複雑な顔をする。
「みんな……」
「俺達はさ」
絶望。
「諦め付いてるけど、ケイタはここに来てまだそんなに経ってないし、無理ないよ」
「そうそう」
マナと同じ歳の少女だ。
「その内、気にしてる余裕、なくなるって、どうせ……」
「そうね……」
マナは同意して、じゃあ、とケイタから離れた。
一応、二日に一度は風呂に入れるが、かけ湯から湯船、上がって洗髪、洗顔、そして体を洗って、もう一度湯船へ、そういったことが事細かに秒刻みで順番まで決められてしまっている。
その上、湯は何百人と大人が入った後なので、垢などが浮き、汚らしいことおびただしい。
むしろこうして、訓練の後に浴びられる水だけのシャワーの方が心地好いくらいだった。
その時間をこれ以上無駄にしたくは無かった、マナは自分の割り当てのシャワーへと戻ると、再び浴びながら、喉、胸もと腹と、手で垢のぬるつきを落としていった。
──彼らがシャワールームを出ると、ちょうど廊下を無駄話をしながらやってくる集団と出くわした。
似たような年齢の子供達なのだが、マナ達一団は脅えるように目を伏せて隅へと寄った。
その横をふふんと蔑みながら彼らは通り過ぎていく。
「……あ、ムサシ君」
バカ、マナはそう思ったが、敢えて口には出さなかった。
「なんだよムサシぃ、友達か?」
「ああ」
ムサシ・リー・ストラスバーグは、なれなれしく肩を組もうとする『仲間』の腕を逆に払った。
「悪いか?」
「いんやぁ?」
へらへらと。
「リー家のおぼっちゃんはさっすが俺達庶民とは違うと思ってよぉ、なぁ?」
「そうそう」
同調する者、多数だ。
「やっぱ人の上に立つ奴ってのは違うねぇ、人の心を掴むのが上手いよなぁ」
「何が言いたい?」
「おおコワ、なんでもねぇよ」
「ただそうやって、懐かせて、どうするのかねって思っただけだよ、なぁ?」
皆の目はケイタと、その比較的近くに居る少女へと向けられる、マナではない、いや、誰でも良かったのだろう。
ムサシをからかいたかっただけなのだから。
ムサシはその意図を正確に把握した。
「ケイタを使って、オンナ呼び出してるって言うのかよ?」
「べっつにぃ?」
「誰もそんなこと言ってないって、なぁ?」
「ムサシ様はぁ?、そりゃもうよりどりみどりだもんなぁ!?」
最後が驚きになったのは、ムサシの拳が鼻先をかすめたからだった。
「あぶねぇ!、なにすんだよ!」
「うるせぇ!」
「うわ!」
後はもう無茶苦茶である。
「行こう!」
幾人かがぼけぼけっとしているケイタの腕を引っ張る、マナも一緒になって逃げ出した。
彼らと違って、自分達の処罰には少しも加減が無いからである。
──戦略自衛隊厚木駐屯基地。
マナはここがそういう名前の場所だということは知っていたが、自分がどうしてここにいるのか?、そんな根本的な事は考えないようになっていた。
特殊軍用兵器専属操縦士育成計画、そういうものがあった、複雑な機械はスイッチの配置を覚えるだけでも大変である、こういうことは子供の方がよほど得意だ。
小さな頃から慣れさせる、ある意味ではエリート教育であったが、別の面を取ればただの研究用の実験体であった。
「反応速度が鈍いな」
「しかしこれ以上は」
「やはりコンソールが複雑過ぎるのでは?」
「コクピットレイアウトの見直しを優先しますか?」
「しかしレイアウトの変更は制御機構の作り直しにも繋がる、これ以上の遅れは」
そんな風に科学者然とした白衣の男達がデータの検証をしていた。
このコントロールルームの一面には巨大なガラスの窓があった、その向こうには、三つの機械が並んでる、車のゲームの筐体を密閉したようなもので、がくがくと非常に荒く揺れていた、半分床に埋め込むようにされており、左右の油圧パイプで振動する作りになっているのだ。
──陸上巡洋艦建造計画。
それがこの基地の一角では行われていた、ここはシミュレーションルームである。
巨大な機械はコンピューターの制御無しには起動出来ない、ここではその開発、改造、デバッグなどが行われていた。
BOX1、2、3とあり、その三番目の中を映すウィンドウには、無骨なヘルメットを被ったマナの姿が映されていた。
三点式のベルトでシートに体を固定しているのだが、食い込むのか、振動のたびにくぅと悲鳴を上げている。
複雑なスイッチボックスの数々、主動作を行う両手のグリップは右が縦、左が横になっているのだが、彼女の小さな手ではしっかりと握り込めないらしく、グリップのボタンの操作を良く間違えている。
正面モニターには『人型生物』のCGが映し出されていた、景色はどこかの山間だ、こちらも『仮想敵』も大きさが大きさなので、身を隠すことなく撃ち合っていた。
人工知能の開発とは、つまるところ情報の蓄積作業でもある。
主動操作を繰り返す事で、反復回数の多い操作をピックアップし、自動化する。
最初は歩く事さえままならなかった、ようやく自由に動き回れるようになったが、それでもまだ火器管制がほとんど手動の域を出てくれていない。
それでこのような振動の激しいシミュレーションをやれと言うのだから無茶だった。
「きゃあ!」
ついに食らった直撃に、マナは上下左右に揺さぶられた、がくんと最後の振動に負けて、頭を垂れて、気を失う。
「三番、沈黙」
ふうむと男。
「心拍数にはまだ余裕があるようだが?」
「血圧にもありますね」
「戦闘薬を使ってみるか?」
「戦闘薬ですか?、しかしまだ実験段階のはずでは」
「許可は貰ってあるよ、それに効果を確かめろとも言われているからな」
「はい」
なんの良心の呵責もなく、一つのスイッチが軽く押される。
気絶していたマナの体がピクンと跳ねた、大量に装着されている電極と、それを止めるシール。
それとは別に首元を固めるシートと接続されている何かの機械、チューブ、ケーブル。
その半透明のチューブの中を、じゅるじゅると液体が流れていった。
「だぁああああ、まぁなぁ……」
しくしくと泣く姿がなさけない。
あうあうと仰向いたままだばだばと涙を流すものだから、さらに鬱陶しさは倍増している。
「あのねぇ、いい加減に泣き止んでよ」
「うう゛」
「大体、女の子と一緒に出迎えたりしたら、なに言われたって仕方ないじゃない」
「けど他に暇な奴が居なかったんだよぉ」
ケイタは冷たく横目で見た。
「暇、ねぇ……」
ここは屋敷の一階にある食堂である、大きなテーブルが一つあるだけで殺風景だった。
「まあ、良かったじゃない、彼女出来てさ」
「んだとぉ!?」
「マナにもすっぱりきっぱり嫌われたみたいだし?」
「お前!、まさかまだマナを狙ってるんじゃ」
「まだってなんだよ、まだって」
すました顔で、『ミロ』をすする。
「一応ずっと狙ってるんだけど?」
「くぅ!、そういう奴だよな、お前って」
ブスッくれて頬杖を突き、そっぽを向く。
「大体なんでお前だと風呂覗いて良くて俺だとダメなんだよ」
「覗いたんじゃなくて、気がつかなかっただけだよ」
「嘘つけ!、戦自に居た頃だって俺のマナと、マナと……、うがぁああああ!」
面白い奴、とケイタはフェリスについてに話題を変えた。
「で、ほんとのとこはどうなの?」
「うう、マナのあんなとことかあんなとことかあんな……、いや待て!、成長著しい昨今、今のマナはお前の知ってるマナじゃない!」
はぁっと溜め息を吐くケイタである。
「マナのサイズ計って服調達してるの、誰だと思ってるんだよ」
うがーっと、ムサシはまたも爆発した。
マナ達の部屋に飛び込んだムサシは、そのまま彼女の憔悴した姿に言葉を失ってしまった。
三段ベッドが壁の両側にある、六人部屋、ただし中央の通路は一人分の幅しかない。
まさに無理矢理詰め込んだような部屋だった。
その右側、一番下の段にマナは寝かされていた、眼球が剥き出しになっているのではと思えるほど隈が酷く、頬も痩けてしまっていた。
血管が浮き、酷い、時折手足がぴくぴくと痙攣している。
「なん、っだよ、これ、どうなってるんだよ」
ケイタが動いた、ちょっと、と誘って部屋の外に出る。
「ケイタ……、マナは」
ケイタは小さく、かぶりを振った。
「冗談、だろ?」
「……」
泣きそうになりながら告げる。
「無茶苦茶だよ、あの人達、やってることが」
ケイタはムサシへと事情を話した。
余りにも過酷なスケジュール、適性の良さから集中してしまったシミュレーション。
そのためにマナの内臓にはかなりの負担が強いられていた、彼女の体は不規則に襲い来る衝撃に堪えられるほど強くは無かったのだ。
鍛えられていない、とは言わない、年齢を考えれば十分鍛え上がっている、それでも追い付かないほど、酷使されてしまったのだ。
「それで意識を失ったら、何か……、薬を使ったらしいんだ」
「薬?」
ケイタは小さく頷いた。
「何かはわからないけど……、無茶苦茶だった」
ケイタは身震いをした、コクピットから引きずり出されるマナ、大人数人で取り押さえに掛かっているのに、それを跳ねのけ、爪に肉が溜まるほど相手を引っ掻き、自分の肩が外れるのも構わずに振り払おうとした、正気を失い、人の言葉を失い、がぁと吠えてただ暴れていた。
ケイタはその姿を見せられてしまったのだ。
「それで、取り押さえるために結局麻酔を使って……、それも普通の三倍も」
「そんな」
「あの薬が抜けてるかどうかも分からないんだ」
「マナが目を覚ましたぞ!」
言われて二人は大慌てで戻った。
「マナ!」
マナは涙で滲んだままの目をぼんやりとさ迷わせていた。
「マナ?」
反応が無い……、いや、遅れてあった。
「ムサシ?」
「うん、俺だよ、ムサシ」
えへらと笑った。
「また潜り込んで来たのぉ?、だめよぉ、早く帰らないと……」
「マナ?」
ぽんと肩に手を置かれ、ムサシは肩越しに振り向いた、ケイタが小さく首を振っていた。
ぐっと唇を噛む。
「わかった、帰るから……、おやすみ」
「うん……、おやすみぃ……」
まもなく、すうと大きめの呼吸が規則的に聞こえ始めた。
みんなで揃って外に出る。
「ちくしょう!」
ムサシは怒りに任せて拳を外向けに壁に叩きつけようとした。
それをケイタが受け止める。
「……マナが起きるよ」
バシッとケイタの手を跳ね除ける。
「なんだよ、どうなってるんだよっ、ここ!」
「……つまり、こういう場所だって事だよ」
ムサシはケイタの何か悟り切った様な顔に、無性に腹が立って何も言うことができなかった。
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。