皆がそれぞれに屋敷でくつろいでいる頃、フェリスは一人、いつものように散策へと出かけていた。
 ここは不思議な島だった、それなりに大きいというのに危険な生物が居ないのだ。
 例えば蟻、例えば蜘蛛。
 毒を持つ物は数多い、どのような土地にも害虫の一匹くらいはいるものなのだが、しかしここには危険な生物はいなかった。
 空を見上げる、月は無い。
 不思議と曇ったり、雨が降ったりした記憶はなかった、そういう日もあったはずなのに、こんな星空の晩ばかりが鮮明に思い出せてしまうのだ。
 それはきっと……
「あたし、なにしてるんだろう……」
 フェリスは過去を振り返った。


NeonGenesisEvangelion act.38
『変調:pro・logue −外典 第二章 第一節−』


 ──1999年、七月。
 とあるヨーロッパの農村の外れで、まるで馬が子を産むように、女が一人、納屋に隠れて子を産み落とした。
「ああ……」
 この時はまだ、彼女は元気な我が子に涙できた。
 その余裕があった。
 元気に泣く子を抱きしめて、頬擦りし、そして神に感謝した。
 しかし僅か一年の後には、自分は悪魔にかどわかされたのだと知った。
 事実はどうあれ、彼女は信じ、そして……
 ──ぐっ、ぐぐ、ぐ……
 我が子の色違いの瞳を憎みながら、首を絞める手に力を込めた。
 ……彼女の数奇な運命は、この直後に飛来した一発の砲弾から始まった。


「いやぁーーーー!、離してーーーー!」
 夜の静けさに女の悲鳴は良く通る。
 マナの絶叫は館中を余すところなく響き渡った。
 滞在しているほとんどの人間が部屋を飛び出す。
「どうした!?」
「下だ!」
 どたばたと走り下りる、そして……。
「マナ!、どうした……、って」
 きょとんとするムサシである。
「なにやってんだよ、ケイタ」
「あ!、ムサシっ、マナを止めてよ!、お腹を壊すって言ってるのにやめてくれないんだよ!」
「お腹って……」
 背後から必死になって羽交い締めにしているケイタに戸惑う、ムサシはようやくと言った感じで、暴れるマナの足元に転がる幾つもの牛乳パックに気がついた。
「ほんと、何やってるんだよ」
「離してー!、胸、おっきくするんだからー!」
 がくんとこうべを垂れる。
「なんだそれ?」
「いやぁ、シンちゃんがおっぱい小僧だって重大情報教えてあげたら、ちょっとね」
「っていつの間にこっち来たんだよ、綾波」
 にたついているレイの言葉に溜め息を吐く。
「マナ」
「なによぉ」
「そんなの気にする必要ないって」
 ぽんとマナの肩を叩いて。
「特に俺は気にしないぞ、やっぱり胸ってのは適度な大きさが……」
 どげしん!、っとマナは唯一自由な足で蹴飛ばした。
「ムサシの意見なんて聞いてない!」
「マナぁ〜〜〜……」
「シンジに捨てられたらムサシのせいだかんねぇ!」
「そんなぁ〜」
 たぱたぱと涙を流すムサシである。
「うう〜〜〜、シンちゃん好みの胸におっきくするんだからっ、離してよー!」
 そんな騒ぎに呆れ返ったのは年長組の大人達であった。
「なあ、シンちゃんって、『奴』のことだよな?、シンジっつってるし」
「ああ」
「どういう奴なんだ?、『奴』って」
「……さあな」
「……おっぱい小僧?」
「言うな」
 あ〜あと背を向けるハロルドと、くだらんと同じく部屋に引き上げるパイロンである。
 しかし、ゴドルフィンが気がついた。
「レイク、フェリスはどうした?」
「え?、あ」
 これに食い付いたのはレイである。
「いないの?」
「……らしい、君は?」
 初めて見る顔に酷く戸惑う。
 どこかで警戒信号がチカチカと点滅した気がしたからだ。
 そしてそれは、正解だった。
 にぃっと笑って、見上げるレイ。
「綾波レイ=イエル、ゴドちゃんには『ホワイトテイル』の方が通りが良いかな?」
 ゴドルフィンはその名前に驚き掛けたが……
「了解した」
 なんと、精神力で抑えて見せた。


 ──レイクとフェリスの出会いを語るには、まずレイクが何故このような世界に足を踏み入れたのか、それを語る必要があるだろう。
「フェイ、こっちだよ、フェイ……」
「待って、待ってよ、お兄ちゃん!」
 森の中だった、野生の木の実が生っている場所を見付けて、妹と共に踏み行って……
 光が……
「抜けたよ、ここだよ!」
 振り返り。
「フェイ?、……フェイ、フェイ!」
 どれだけ呼んでも、返事は聞こえず。
「フェイ!、何処行ったんだよ、フェイ!」
 走り戻ろうとして、目の前に男が立ちはだかった、ガンと衝撃、額を鈍器で殴られたことによるものだった。
 倒れるしかなく。
「ちっ、こっちはでかいな」
「そっちのガキだけで良い、行くぞ」
「こんなガキ、何しようってんだかな」
「関係ねぇよ、ドールにしようがバラして売るんだろうが、俺たちゃ『問屋』さ、頼まれれば調達して卸してやるだけだよ」
「まあ、金になればなんでも良いがね」
 ──フェイ。
 朦朧とする意識の中で、肩にかつがれ、運ばれていく妹を見た。
 まるで人形の様に、だらりと腕を垂らしていた、金色の髪が赤く染まっていた気もした。
 それから五年。
 2011、ガン!、っと転がっていたバケツを蹴り飛ばしたのは、一人の迷彩服を着た男であった。
 銃で武装している、どこかの国の兵士だろうか?
 森の中に枯れ木で組まれた小屋が点々としていた、ここは村であったのだろうが、それにしても酷かった。
 木材は太さも長さもばらばらで、無理矢理蔦で縛って草を屋根にばら撒いている、それで雨露を凌いでいたのだろうが、床が無い。
 地べたもまた、腐り掛けた葉が積もったままだ、その上にボロ布が散乱していた、これで眠っていたのだろう。
 住民の姿は……、ない、消えていた。
 一人として見当たらなかった。
「ちっ、逃げられたな」
 一人が舌打ちし、唾を吐いた。
「拐われた子供は見つかったのか?」
「いいえ、子供の靴はありましたが、姿は……」
「そうか」
 隊長らしき男は、はっとしたように銃を構えた。
 ──ウウー、ウー……
 犬らしき唸り声が聞こえて来る、それも多数だ。
「隊長……」
「なんだ……」
 それは返答ではなく、状況確認への焦りであった。
 こんな森の奥に野犬が生息しているはずが無い。
 だが現実に聞こえて来るのだ、犬ではない、だが聞こえる声は確かに犬のものだ。
「レイク……、レイクはどうした?」
 はっとする。
「あのっ、馬鹿!、また一人で突っ走って」
「来ます!」
「うわっ、ぎゃあ!、あああああ!」
 ガフッ、ガフッと獣そのままの息を荒げて兵隊達に襲いかかり、喰い付き、噛み殺していったのは、人ほどもある巨大な何かの猛獣であった。


 フェリスの異常さは外見だけに留まらなかった。
 死の恐怖がそうさせたのか、彼女は首を絞める母の姿をその脳裏に焼き付けた。
 その時からのことだ、彼女はあらゆる『景色』を記憶し、忘れる事が出来ないようになってしまった。
 時には超常能力というよりも、精神病として分類されてしまう能力である、見た物をそのまま記憶に転写する、それがどれ程事細かであってもだ、微細な点まで記録する。
 そういった能力を持つ子は昔から居た、彼女もまたそう言った子に『なってしまった』子であった。
 そんなフェリスである。
 テリトリーとして確立した散歩道で迷うはずが無い。
「不思議に思っていたんだがな」
 レイクとゴドルフィンは、連れ立ってフェリスの散歩コースを、彼女を探して歩いていた。
「お前とフェリスは、どういう関係なんだ?」
 レイには放っておけと言われたのだが……、何か知っているような雰囲気に、自分が知らない、そのことが気に食わなかったのだろう、レイクは憤って聞かなかった。
『しょうがないなぁ、ゴドちゃん、よろしく』
 そう言ったレイにゴドルフィンは渋い顔をしたものだ。
「よろしく、とは?」
「保護者代わりってこと、ちゃんと着いてってやってよ」
「何故俺が」
「ん〜〜〜?、そういう役回りを上げることにしたから」
 これは聞かれないように、レイは背伸びしてゴドルフィンの耳を引っ張った。
「あたしだと力付くで言うこと聞かせるのが精一杯だかんね、それじゃあ安心出来ないっしょ?」
「……だから、か」
「そゆこと」
 ゴドルフィンはレイの赤い瞳に、それ以上の理由があることをしっかりと見抜いていた。
 何をさせようとしているのか?、二点ほどあると読み取った、一つは単純に彼らの管理であろう。
 これは確かに自分でなくても良かろうが、彼女が自らとなると、多大な問題が生まれてしまう。
 確かに彼女ならば恐怖による統率も可能だろうが、しかし、それまでだ、恐怖は疲れを生んでしまう、そして蓄積されたストレスは不満、あるいは逃避活動へと揺れ動いて、いずれは反逆行動を生んでしまう。
 だから、自分なのだ、『緩衝材』として間に置く事で、『自分が与えてしまうプレッシャー』を直接には彼らに感じさせぬようにする。
 それがもう一つの理由であろう。
(確かにその方が『長く』使えるか)
 しかし、彼女には自分に彼らを統率出来るだけのカリスマがあるのか、分からないだろうと思い至った。
(しかし、そのために?、……まさかな)
 いくらなんでも、この現状を作り出すためにフェリスを監禁してはいないだろう、ゴドルフィンはそう思い込もうとした。
「フェリスか……、不思議な子だな」
 返事が来ないので、勝手に喋ることにした。
「さほど鍛えているわけでは無いだろうに、動きは良い」
 ぼそりと、呟きが漏らされた。
「あいつは……、スペシャルなんだよ」
「そうか」
「ああ」
 ゴドルフィンは隻眼を細めた、独り言を聞き逃せないのは、勝手なことを言うなとの憤りがあるからだ、つまり、そこに触れられたくない何かがあるという事である。
「話したくないほど、『つまらん話』か?」
 一拍ほど間が空いた。
「ああ……、本当につまらない話だよ」
 そうしてレイクは、とつとつと彼女との出会い話を語り始めた。


 ──2011、モロジェチノ、ここはなにもない土地だった。
 封鎖地区や放置区域と言った場所があるのは、なにも日本に限った事ではない。
 封地し、取り合えずの『自然回復』を待つ国もある、ここ、旧ソ連邦に属していた西の区域もそうであった。
 去年から、この土地では他国の協力によってとある実験が行われていた、それは『テラフォーミング』のために開発された技術を検証すると言うものであった。
 異常な程に育ちの早い樹木が、もう鬱蒼とした原生林を形成しつつある、やがてはこの『空き地』を食い尽くして、外の自然界にも進行を始めるだろう。
 しかしそうなれば地球の生態系が壊れてしまう事になる、一応、その前にはNN爆弾で焼却することになっていたが、実際には種は風に乗って飛ぶ物である。
 本当の『被害』など、知れた物ではないだろう。
 いつ処分されるのかはわからないが、それでもこの森は豊かであった。
 強靭な草木は北の過酷な環境にも耐え、葉を付け実を生らせていた。
 人が、動物が、森に生活圏を求めたのは仕方の無い流れなのかもしれない。
 このように、この森は新世紀に入ってから出来た人工の森であった。
 なのに、この森には一つの御伽話が存在していた。
 そこには異界への扉があって、人を獣の世界へと誘うというものである。
 どこにでもある伝説、伝承の類だが、この土地の成り立ちなど誰でもが知っている事だ、数年前に生まれた森であるのだから。
 だから、信じる者は少なかった、どうせ噂話が広がってしまっただけであろうと。
 ──レイクもその一人であった。
 銃を握り、迷彩服を着込んでいた、上からは防弾チョッキを羽織っている。
「隊長?、……ちっ、はぐれたか」
 右耳につけている通信機に舌打ちする。
 ──チャイルドプレイヤー。
 そんなふざけた名前を名乗っている、子供専門の密売組織があった、誘拐し、様々なバイヤーに卸す仕事をしている者達の集団だ。
 このような時勢である、捨てられる子、あるいは家を飛び出す子と、商品には困ることがない。
 しかしそれでも、買い手の注文によっては誘拐もしなければならなかった、『毛並みの良い健康な子』はそうそうその辺りでは拾えないからだ。
 子供達の末路は哀れなものだった、人体実験用の検体、臓器売買用のパーツ、愛玩用の奴隷、どれにしてもろくなことにはならない。
 レイクが拐われた妹を追って辿り着いたのがこの組織であった、もう五年だ、無事ではあるまいが、それでも殺されてしまったと言う証しも無いのだ。
 もしかすると、まだ生きているのかもしれない。
 売った商品の履歴や卸し先をチャイルドプレイヤーがリスト化しているのを知った時、もう彼には自分を抑える事が出来なかった。
 生きているのなら、取り返す、死んでいるのなら、殺した奴を八つ裂きにする。
 その本拠地を求めて、この森に来た、しかしこの森にあったのはただの『保管所』だった、一時的な。
「戻るか……」
 ようやくそう諦めた時……
 彼は自分が迷ってしまっている事に気がついた。


 ──世の中は不公平だと思う。
 容姿が普通じゃないだけで苛められた、何も悪い事をしていないのに悪いとされた。
 だから、ちゃんと生きていく事なんてできなかった、誰も守ってくれないから、苛められるのが嫌で、抗うしか無かった、言葉には、言葉で、暴力には、暴力で。
 なのに、みんなこういうのだ。
『やっぱり』、と。
「……」
 フェリスは別に、トラブルに見舞われて館に帰れない訳では無かった、ただ一人で居たかっただけである。
 丘を下り、森を抜けると海に出る。
 ここは入り江になっていた、絶壁だが、下からは上がって来れないこともない。
 フェリスは静かに服を脱いだ、思い切ってシャツを脱ぎ捨てると、小振りな胸が顕になった。
 ズボンを脱ぎ落とし、素足の上に履いていたスニーカーをその場に残す。
 ──そして、跳んだ。
 五メートルほどの高さだが、それでも夜の闇が波を黒くし、恐怖心を掻き立てる、ドボン!、フェリスはその中へと両手を揃えて潜っていった。


 ──レイクがそのような部隊に居たのには訳がある。
『教団』の援助を受けての支援活動、ホリィが入隊したようなジュニアキャンプに入って、彼は様々な国へと『出張』した。
 その甲斐あって、時にはこのような作戦行動にも随伴出来るようになっていた、半素人ではあるが、シールズに代表される特殊部隊に着いて来れる能力は異質だ。
 いつしか誰もが、彼の同行を認めるほどになっていた。
 そんなレイクであっても、時にはこのようなミスをする。
「くそっ、方角も分からないな」
 空を見上げる、どんよりとしていた。
「星ぐらい出てくれよ」
 月とは言わないから、そんなニュアンスで愚痴を言う。
「太陽を待てるかな?」
 もう暗い、しかし森の夜はさらに更ける、それこそ一寸先も見えないくらいに閉ざされるものだ。
 なまじ雪山と違って動き回れるだけに、恐怖に駆られて取り乱してしまった時が酷く怖い、より深く森の奥へと迷いこんでしまう可能性があるからだ。
「魔物、か……」
 レイクは森の入り口近くにあった村で聞いた噂話を思い出した。
 ──獣の世界。
「……テラフォーミングのための土壌開発用の苔が、動物に異常を与えてるんじゃないかって話があったが」
 持っていたライフルを構えた、木々の合間へと。
「出て来いよ!」
 喚き、数秒待つ、暫くしてがさりと草むらが音を立てた。
「女!?」
 いや。
 ──『雌』だ。
 ガッ!、っと後頭部を殴られた、自覚することも出来ずに暗闇の中に落ちてしまう。
 女に見えたのは『獣人』だった、金の髪が針鼠のように長く、跳ねている、それでいて口元がやや張り出し、耳が長い、猫のように踵を上げて、爪先で立つ……
 黄金色おうごんしょくの体毛に覆われた、獣人けものびと
 それがレイクの網膜に焼きついたものの正体であった。


 フェリスはこの感覚が好きだった。
 上下がなく、全てから解放されていながらも、何かに包まれている様な感覚が。
 泡が肌をくすぐって上っていく、唇からぽこりと小さく空気が漏れ逃げる。
 ──このまま眠れたら良いのに。
 死にたい、とは思わない。
 それは望みとは違うから。
 グォン、と、そんな彼女の存在を感じ取り、貝のように閉ざされていた蓋がゆっくりと開かれた。
 何かがぐるりと動き、フェリスを映す。
 それはフェリスよりも遥かに巨大な、黒い瞳、眼球であった。


 ゴドルフィンは話し進むに連れて胡散臭そうに顔を歪めてしまっていた。
 それはそうだろう、獣人?、そんなものを信じられるはずが無い、だがレイクの目に文句は言えなかった。
 話させたのはそっちだ、そう責めていたからだ。
 だから黙って聞くしか無かった。
「次に目が覚めた時、俺は正気を疑った」
 ──レイクの話はさらに続く。
「……」
 呻きに似た声を発してしまった、飛び起き掛けたまま硬直する。
 顔を覗き込んでいたのは、最後に見たあの『雌』だった。
 女性と言える年齢であろうが幼さも窺える、瞳の形はくりっとしたものだった、つぶらに黒い真円が、安堵に似た物を浮かべていた。
 建物は粗末なものだった、だが基準が違うだけかもしれない、木で造られた小屋は板が腐っているのか脆そうだ。
 ベッドは藁を敷き詰めたものだった、床には木の椀とコップがあった、ねちゃねちゃと何やらこねた物が食べ物として乗っていた、コップの中身は隅に転がっている果実の果汁だろう。
 頭を支えるように持ち上げられた、後頭部に『肉球』の感触、酷く柔らかで、同時に手の大きさに驚かされた。
 この『雌』の『体長』は百六十センチ前後だろう、しかし踵を立てて立つのだから、実際には百七十近くで立ち振舞うはずだ。
 胸は大きなものだった、四つある、体毛の奥に乳首が見えるが、まだ小さいし色も薄い、子を産んだことはないらしい。
 唇にコップを当てられる、レイクは迷ったが流し込まれた物を無理に呑み込んだ、正に生果汁だった、酷くい。
「気がついたようだな」
 扉のない入り口をくぐり、入って来たのはさらにふた回りも大きな獣であった、やたらとガタイが良く、がっちりとしている、雄であった、熊……、よりは猫に近く思えるが、どの道獣の口から人の言葉が漏らされたのだ。
 レイクは驚倒するしか無かった。
 ──ここは村であった。
 レイクは外に連れ出されて目眩いを感じざるを得なかった、十数戸の小屋がある、それよりは少しばかり多い数の獣人達が、遠巻きに脅えた表情で自分を見るのだ。
「なんだよ、ここは……」
「『異界』だ」
「異界?」
「そうだ」
 前を歩く『雄』はぶっきらぼうに言い放つ。
「ヒトあらざるモノの住む世界だ」
 げんなりとさせられて、レイクはどうしたものかと悩むのをやめそうになってしまった。
 ふと、背後に着いて来る『雌』を見付けた、介護してくれていたらしい『雌』だった。
「なぁ……」
「なんだ」
「あの子に名前はあるのか?」
『雄』はしばし悩んでから口にした。
「ない」
「……わかった」
 そうか、ではなくわかったとしたのは、口に出来ない事情があるのだなとの了解であった。
 レイクが連行されたのは村の中央広場であった。
 そこには一匹の老いた獣が杖を持ち腰かけていた、一抱えもあるような岩にだ。
 白髪……、いや、白い体毛で、毛の長い犬を思わせる獣であった。
「『外』の御方……」
「……俺のこと、だよな」
「お願いがありましてな、このようにお連れしたこと、非礼を許されよ……」
 非礼ねぇ、と心で毒づく。
 油断なく周囲に気を配る、獣の能力は分からないが、単純な肉弾戦では勝てそうもなかった、数も圧倒的だ。
 だから取り敢えずは諦めたフリをすることで従順を示した。
「連れて来た、ってことは用があるんだよな?」
「うむ……」
「それが終わったら、この……、異界?、ここから帰してくれるのか?」
 むろんだ、とあっさりと頷かれた。
「願いさえ、聞き入れてくだされば……」
「願い?」
 頷き一つ。
「血を……」
「血!?」
「そうだ、血をこの地へと残して行かれたい」
「血をって……」
 意味を租借して、レイクは周囲を見回し、青ざめた。
「それって……、子供を作ってけってことか!?」
「そうだ」
「そうだって……」
 絶句するレイクに『おさ』は告げた。
「その者を見よ……」
 レイクを案内して来た雄を指す。
「血が濃過ぎる故に、雄としての物を持たぬ……」
 レイクはどこかで読んだペットの話を思い出した。
 家の中で複数の犬や猫を飼うと、近親での交配が行われる、その結果遺伝子障害が起こって奇形児ばかりが生まれることになってしまうのだ。
 生殖器、特に精巣が未発達になることは珍しくない、これは胎児の段階での性別の決定が未分化のままになるからなのだが。
 また猿の話も思い出した、猿の群れからは一定の周期で何故かはぐれようとする猿が出る、また同時に群れははぐれ猿を追い返すことなく迎え入れることがある。
 そうして、外から別の血を混ぜるのである。
「種付けしてけってことか……」
「多くとは望まん、せめて……」
 老獣が震える腕で杖を持ち上げ、指した先には……
「そのものに」
 ──レイクを介抱してくれた、雌が居た。


「冗談のような話だな」
 ついに耐え切れず、ゴドルフィンは口にした。
 二人、立ち止まってそれぞれ木にもたれ、向かい合っていた。
「本当に異界……、異世界、だったのか?」
 レイクは両手をポケットに突っ込むと、空を仰いで溜め息を吐いた。
「俺も疑ったよ……、そこは隠れ里で、あいつらの『領域』で、人が踏み込む場所じゃないって意味じゃ、確かに異界だ、そういう意味なんじゃないかってな」
「解釈の違いか?、表現の……」
「口には出来なかったが、種付けってのもおかしいと思った、フェイのことで臓器の密売なんかについて調べてたから、詳しくなってて……、遺伝子の方面にも詳しくなってて、あれだけ形状が違うのに交配が可能なのは明らかにおかしいって……、でも話してる感じじゃ、これまでにもやってたみたいだったからな」
「それで、『交尾』したのか?」
 ふっと、意味不明にレイクは笑った。
「保証は無かったけどな……、そこから帰してもらえる可能性がある以上はって、俺は覚悟を決めたんだけど」
「なんだ?」
「……なんでか、嫌がられたのさ、その時はなんでか分からなかったけどな」
 レイクはその時の様子から話を続けた。


 村から少し外れた場所には石室があった。
 一メートルほど地に沈む形で作られていた、中に入ると床は土が踏み固められているだけだった、一応、藁は敷いてあるのだが……、冷んやりとしていて風邪を引きそうだ。
 天井を成している石、壁もだが、ただ単に石を組んでいって泥で固めてあるだけだった、がっちりとしているのだが、どこか不安だ。
 入り口一つ、窓は無い、中の広さは四・五メートル四方と息苦しい物だった。
 戸が閉められる、木造の。
 隙間があって、光が漏れ込んで来るのだが、それでも十分に密室の雰囲気を盛り上げてくれた、天井を見れば、石の隙間にも光が見えた。
 雌を見る。
 レイクは気のせいではないだろうと思った、広場で指名されてから、介護してくれていた時の優しさが消えたのだ。
 酷く青ざめているように感じられる、しかしこれには自信が無かった、何しろ相手の顔は毛によって覆われている上に、表情筋が薄いのか無いのか、今ひとつ感情が読み取り辛いのだ。
 避けられている、そんな気がする、それでも彼女と交尾し、交配しなければ『用なし』として処分されてしまうかもしれない。
 彼らにとっては、『外』の人間であれば誰でも良いはずなのだから。
 レイクは彼女に歩み寄ると、その肩に触れた。
 びくりと思った以上に強い反応、身を強ばらせ、毛を逆立たせているのが感じられた。
 脅えているのだと知る、恐れているのだ、それくらいは分かる。
「名前は……、あるのか?」
 それを聞いて、後悔した。
「……ふぇい」
 萎えるどころの話では無かった。


 ゴドルフィンも顔をしかめていた。
「悪趣味な話だな」
「ああ、俺もそう思ったよ」
 後ろポケットをまさぐり、煙草を出す。
「ん?」
 差し出すが……
「自分のがある」
 そう言って、遠慮した。
 レイクは自分だけ咥えて火を点ける、そしてくゆらせ、間を空けた。
「ふぅ……、仕方なく、藁の上に座ってさ、話しをしたよ、暫くして、寄り添ってた……、何しろ寒くてさ、地面は冷たいし、藁くらいじゃどうしようもなかった」
「時間は良かったのか?」
「そのまま一晩篭ってろってことなんだろうって、勝手に判断させてもらったよ、……村のことを聞いた、やっぱりあの森の中だったよ、人が近づいてくると襲っては、一人だけ拐って来ているってな、そいつは親になるわけだから、殺さず解放するんだそうだ」
「どうして?」
「獣だけど、知性があるからな、生まれた子が群れの仲間を親の敵だと知ったらどうなる?、とても許せないだろう?」
「そんなものか……」
「ああ、奴らにしてみればその子が大きくなって新しい血筋の子を増やしてくれるのを期待してる訳だからな、協力を断られるようでは意味が無くなる、だから親である奴を手に掛けたりはしないのさ」
「しかしそれだけの小屋を作っていれば、衛星から撮影されないか?、個体数もそれだけ多ければ、熱がかなりのものになるはずだ」
「……その答えを知った時、俺は本当に狂いそうになったよ」
「……」
 ゴドルフィンは、先を話せと目で促した。


「聖域?」
 寄り添い、肩にもたれかかっている獣は、こくりと可愛らしく頷いた。
 丸い瞳で見上げて語る。
「ここは森の中心では、ないです……、わたしたちは、それ、守るためにここに」
 言葉遣いがおかしいと感じたが、むしろこの方が安心出来た。
 流暢に喋るおさの方こそむしろ怖い。
「聖域、か」
「はい、誰も近寄てはいけない、です」
 底冷えしてぶるりと震えると、彼女は自分の長い毛を貸してくれた。
 首に巻けと。
「温かい、な……」
 嬉しそうに目が笑った気がした、無垢、という言葉が思い浮かぶ、それくらいに汚れのない瞳だった。
 ──そんな彼女を騙すのは気が引けたが。
 夜になり、彼女が寝入ったのを確認すると、レイクはそっと石室を抜け出した。
 息抜きに見せ掛けて気配を探る、どうやら本当に気を使っているらしい、あるいは獣同士であっても『情事』を覗くのはマナー違反だとの意識でもあるのか?
 無神経な者は居ない様だ、これ幸いとレイクは注意しながら駆け出した。
 もちろん向かったのは『聖域』であった。
 ──余りのギャップに、唖然としてしまったとレイクは語った。
 そこにあったのはペンション風の建物だった、中に入ればホールがあり、食堂があり、トイレまであった、水洗だ、水は裏手の小川から引いているようだった。
 調べれば書斎風の部屋があり、そこのテーブルにはパソコンが一台置かれていた。
 壁際のラックには大量の資料とデータディスクが並べられていた、テーブルや床に散らかっているのは、散乱というには大人しい。
 整理するのが面倒で放置している、と言った感じであった。
 モニターを見る、電源は『待機状態』になっていた、地下にでも発電機が置かれているのだろう。
 レイクは化かされているのではないかと疑いながらも、台上の紙を一枚手に取った、プリントアウトした物らしい。
「イラク軍のマーク?」
 特に興味がある訳では無かったのだが……、それに目を通して、ふぇいに名前を聞いた時以上に後悔した。
「……んだよ、これは」
 放り出し、別の資料を手にする、次へ、次へ。
 面倒くさくなってファイルを開く、幾つもの数字、結果、人体への影響、細胞の変質具合、安定化、そして。
 世代間の比較検証。
「これが……、こんなものが真実だと!?」
「……そうだ」
 聞こえた声にビクリとしてしまったが、レイクは即座に警戒モードへと心を切り替え、油断なくゆっくりと振り返った。
「……お前か」
 あの黒い獣だった。
 酷く剣呑な目つきをして睨んでいる。
「……ここは、なんだ」
 それでも怯むことなく、レイクは唸るようにして叫んだ。
「答えろよ!」
 余りの怒気に、びりびりと震える。
「ここは聖域だ」
 レイクはついに爆発した。
「違う!、ここは……、実験場だ!」
 ファイルブックを床へ叩きつけ、踏みにじった。
「実験用の農場だ!」
 蹴り飛ばす、どんっと壁にぶつかって下に落ちた。
 その拍子に偶然開かれたページには、右側を人、左側を獣とした図が描かれていた。
 ──人体実験。
 遺伝子を組み替える事による影響を確かめた物だった、最初はヒトゲノムの『法則』にのっとったものであったが、生命力とは予想を上回る物である、かなり大胆な組み替えを行っても安定していくと記載されていた。
 それが『彼ら』に大胆さを与えたのだろう、彼らは他の生物の構造を模倣した遺伝子を用い、人を『改竄』して行く方向で研究を進めた、そして、やがてそれは『獣化』を誘発する薬品へと落ち着いていく、体細胞に吸収されると、その細胞を故意に変質してしまう薬へと、だ。
 これが放射線や放射能と違っているのは、結果がある程度確定、いや、確立されている点にある。
 ──原始生物への回帰。
 しかし単純に猿に戻る訳ではない、Aという原子核が無限の可能性を集束してBに行き着いたとしても、Aに帰れるとは限らない。
 光を虫眼鏡によって集束したとしよう、この光を鏡で反射した時、必ずしも真っ直ぐ帰るとは限らないのだ、拡散もすれば、ずれもする、そういうことだ。
 だからこそ、『彼ら』はどんな獣と比較しても曖昧な形状を持っている。
「だからっ、人間の子供なのか!、人間との!」
「勘違いするな」
 獣は言う。
「確かに、人間の血が混ざれば何世代かのちには人らしくなるかも知れん、だが俺達は純粋にこのまま死にたくないだけだ」
「……だから、って」
「獣は、獣として生きていく、俺達は自分達でそのために必要な『習性』を作り上げた、それがお前達、『ヒト族』の誘拐だ」
「……」
「お前には分からんだろう、獣の本能に支配される瞬間が……、周期的に来る『発情期』によって、意志に反して子を作ってしまうことのへの罪悪感が」
「罪悪?」
「『外の血』を入れなければ、子や、孫の代ではどうなる?、『交尾』を止められんのに、奇形児は増える、この恐ろしさが分かるか、分かっているのに、やめられん!」
 怒気のためか、息を荒くしていた、しかしそれが収まっていく。
 静かに、感情を凝縮していく。
 獣は獣にはあり得ない冷たい目をしてレイクを射抜いた。
「お前は……、もう、駄目だ」
「……」
 獣の瞳に物騒な光がちらついて、レイクは反射的に身構えた。
「殺す、か?」
「食えないものは殺さない」
 だが、と。
「『同じ』になってもらう」
 その言い草と、獣が器用に手にちらつかせた針無し注射器に焦った、その中身に気がついたからだ。
 ──遺伝情報体更新用ウイルス、『ゾアンクラック』
 しかし。
「ダメェ!」
「ふぇい!?」
 間に割って入ったのは、ふぇいだった、全身を総毛立たせて、ふぅと威嚇を放って跳びかかっていった。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。