無自覚故の罪ということもある。
 優しくされたがりはみんなそうだ、どうして優しくしてくれないのか?、そんな自分勝手な理屈ばかりを押し付ける、理想もだ。
 一歩間違えれば自分を中心に世界が回っている、そんな思想と大差は無い考えを抱いている。
 そこまで酷くは無くとも、フェリスはその一歩手前に居る少女であった、しかしそれを悪いことだと言えるだろうか?
 惹かれる、というのはその誰かだから好きになる、ということだけを指すのではないだろう。
 フェリスは確かにムサシに惹かれていた、自分の理想、夢想のキャストとして選抜していた。
 それは『恋』の始まりである。
 そうして夢を見るのだ、漠然と考えていた幸せな未来が、そのヒーロー足る人を見付けた事によって、一気に現実味を帯び始める。
 そして彼女は錯覚する。
 自分には、彼しか居ないのだと。
 自分には、彼こそが必要なのだと。
 求め始める。
 しかし一方では、これまでの経験が心で警鐘を鳴らすのだ、そんな都合の良い話があるものか、と。
 ──レイは獣道をとんとんとんっと歩いていた、両手を後ろに組んで、弾むように。
 森の奥へ奥へと入っていく、その先には巨大な一つ岩がそびえていた、まるで卵である。
 高さは三メートルほどだろうか?、地中にもかなり埋まっているだろう、岩の背は山肌にもたれ掛かるようにしてめり込んでいた。
「偶然ってあるもんねぇ?」
 レイはふふんと笑って顔を上げた。
「ねぇ?、どうする?」
 岩の上に、一匹の獣。
 それは二メートル近い、黄金の毛皮を持った狼であった。


NeonGenesisEvangelion act.40
『変調:pro・logue −外典 第二章 第三節−』


 ──2012、中国、湖北省宜昌県三斗坪こほくしょうぎしょうけんさんとへい、山間部。
 中国大陸にはセカンドインパクトの激震にすら堪えた山が多く、その景観はあの悪夢以前と同じく、絶景を今だに保っていた。
 しかし反して、かつて世界最大のものとなるはずであったダム、三峡ダムは、実に無残な姿を晒していた。
 ──ガコン……
 激流の震動に耐えかねて、ダムとなる予定であったコンクリート片が落下、遥かな下の川面に消える、ぼちゃん。
 十年以上も経った今でも、ゆっくりと崩壊は続いていた、そんなダムの名残の上を飛ぶように跳ねる少年が居た。
 ──シンジである。
「この!」
 振り向き、糸を繰る、襲いかかれとヘビのように伸ばした糸であったが、追っ手の技量の前には役に立たなかった。
 斬!、追っているのは白い貫頭衣を来た教徒風の男であった、貫頭衣の裾を回す様にして糸を断ち切り、迫る。
「くっ!」
 シンジは空中で追い付かれてしまった、咄嗟に糸で盾を編む。
 十本の指から放たれた糸が、直径二メートルほどの盾を形成した、そこに男は突っ込み……
 ──ゴッ!
 突風を発した、空圧はシンジの編み物を逆手にとって、無数の刃へと切り別れる。
「!?」
 沢山の見えない刃に全身をずたずたにされるシンジ、彼はそのまま長江の川の流れの中へと落ちていった。
 ──ドポン。
 男はダムの残骸の上に着地し、川を見下ろし、舌打ちした。
「……逃げられたか」
 男はちゃんとシンジが急所を避けたことを見て取っていた。


 この年、シンジはレイと共に『ピクニック』に出かけていた。
 諸所の事情により、世界とその流れを直に見、肌で感じるためだった。
 ──研修旅行。
『ずっと島の上だったかんねぇ、そろそろ外が懐かしいと思ってねん!、暫く猿のように遊びまくるかんね!』
 それは良いのだが、『暫く』と言っておきながらもう半年だ。
 その上、その間に複数の刺客に襲われてもいた、レイの過去の遺恨もあれば、『教団』の『使徒』もまた多い。
 退けている内に、『賞金』まで掛けられてしまっていた。
(レイ、何処行ったんだよ……、レイ)
 うなされるシンジ、その顔がぺろりと舐められた。
「?」
 熱っぽいままに瞼を開く、シンジは理解の範疇を越える存在に仰天した。
「わっ、わあ!?」
 慌てて飛び離れる、壁際に張り付いてようやくシンジは添い寝してくれていたらしい生き物の正体を知った。
 ──狼、だった、それも金毛の。
 百五十センチもないシンジにとっては、その巨大さは言葉に出来ない恐さがあった、二メートルを優に超えているのだ。
 ただ……、狼にしては多少毛が長かった、頭部から背にかけて、まるで髪のようにふさりとしているのだ。
「気がついたか?」
 人の声に顔を横向ける。
「あ……、あの」
 シンジは戸惑いながらも立ち上がった、まだ狼を警戒したままで。
 ふぉっふぉっふぉっと笑われる。
「そのように脅えるものではないぞ?、川を流れておったお主を拾い上げてくれたのはそ奴なのじゃぞ?」
「え……」
「命の恩人に取る態度かの?、それが」
 シンジは老人の眼光に気圧された、が、それも一瞬のことだ。
 ぶるぶると頭を振って、態度を改め、まだ寝そべっている狼へと振り返った。
 そっと近寄る、ここはこの狼の部屋らしい、清潔な藁が敷かれている。
 シンジはその上に膝を突き、そっと狼の頬へ手を伸ばした。
「ごめんね?、恐がっちゃって」
「……」
「助けてくれて、ありがとう」
 すり……、と、狼は目を細めて手に頬を擦り返した。
「ありがとう」
 シンジはもう一度礼を言ってから手を放した、上から無造作に伸ばして頭を撫でなかったのには訳がある。
 動物は頭を押さえられるのを本能的に嫌うものだからだ、習性として視界を塞がれるのを恐れるのである。
 だから、そっと頬や顎に触れてやるのが正しい。
「あの、ここは……」
「森の中じゃよ」
「?」
「森の奥へと踏み込んだものは、別の世界に迷いこむのが常じゃろう?」
 はぁ……、とちょっとジト目になる。
「僕、川を流されて来たんですよね?」
「ほっほっほ、気にするな」
「しますよ」
 はぁっと一息吐いて。
「まあ、良いですけどね」
 そんな態度に、老人はほぉ?、っと感心した。
「もう少し狼狽えるかと思うておったが……」
「こういうのには免疫がありますから」
「さようか、ならばもうちょい、趣向を凝らすべきじゃったかな?」
 これは獣への問いかけだった。
「儂は老師と呼ばれておる」
「老師?、先生なんですか?」
「まあそのようなもんじゃ」
 ふぉっふぉと笑う。
「……この子は?」
「フェイと言う、優しい子じゃて」
「そうなんですか」
 シンジは会釈程度に頭を下げた。
「僕はシンジ、碇シンジです」
「シンジか……」
「はい」
「しかし元気な奴じゃ」
「はい?」
「そ奴に咥えられて担ぎ込まれて来た時には、全身血だらけじゃったんだがのぉ……」
 怪しい輝きを目に宿す。
「おっと……」
 ウルルルル、と獣が低く唸って牽制した。
 どうやら苛めるなと言っているらしい。
「恐い恐い、儂は退散するとしよう、もう暫く休め」
「はぁ……」
「そ奴に感謝せいよ?、何せ全身くまなく、丁寧に舐めて傷の手当てをしとったからのぉ」
 ガウッ!、っと吠える、シンジはその時の獣の横顔が、何故だか照れて赤くなっているように感じられた。


 ──ここは同じ中国でも、山水画に出て来るようなもっと『古い世界』に感じられる場所だった。
 切り立った山が霧のようにたれ込める雲によって霞みがかっていた。
 ここはそんな山の一つの麓にある小屋だった、石を積み上げた小屋で、部屋は三つほどあった。
 シンジはフェイを伴って歩き出た、フェイ……、その狼は確かにレイクの妹のフェイだった。
 流れ流れて、ここに辿り着いていたのである。
「良い所なんだ、ここは……」
 彼女はシンジの歩調に合わせてゆっくりと歩いた、時折シンジの顔を盗み見て。
 何か言いたそうにしているのだが……
 今のシンジは借り受けた衣裳に身を包んでいた、ゆったりとした袖の中国衣裳だ、色は白。
 袖を垂らしていると指先がようやく出るだけである、それが気に入らないのか、シンジは袖をまくっていた。
「余り荒らしたくないんだけど」
 ひゅっと飛んで来たものをシンジは手で掴み取った。
「……桃?」
「良く熟れておる」
 老師だった。
 石で作ったらしいナイフで皮を剥きながらやって来る。
「……痛い」
「不用意に受け取るからじゃよ」
 シンジは桃の髭に顔をしかめながら反論しようとした、しかし、封じられてしまう。
「殺気を消す者など幾らでもるぞ?、お主のあの様子じゃとまともな相手ではなかろう?」
 シンジは糸を髪の毛の長さ程に出してナイフのように持ち、それで桃を剥き、カットした。
「……すっぱいですね」
「今のお主のようじゃろ?」
「……」
「今ここを出れば間違いなく狩られるじゃろうな、かと言ってここに居続ける訳にもいかん」
「……」
「で、守ってくれるママでも待つか?」
 シンジはぐっと唇を噛んだ、しかし、言い返さなかった。
 言い返せないのではない、けれどレイを頼る以上に良い案が思い浮かばなかったのだ。
 そんな様子に老師は好感を抱いたらしい。
「悔しさを感じるだけの矜持は残しておるようじゃのぉ」
 シンジは反論した、情けなく。
「そんなの……、ないよ」
「ほ?」
「僕はそんなの、持ってない」
「ほほ?」
「けれど……、欲しいとは思ってる」
 強い意思の込められている瞳と言うものは、酷く人を惹き付けるものがある。
 老人は息を呑んだ、少年が『沈んでいく』ように感じられたからだ。
 ゆっくりと瘴気が渦巻き、昏く、暗い世界へと歪んでいく、放っておいてはいけない、それは恐怖だった。
(この事を言うておられたのか?)
 老師はこの少年が拾われた時に現れた、幻の人との会話を思い起こしていた。
 ──頼みましたよ?
『天界』の人は、そう告げたのだ。
 世界が彼を中心に、闇へと『昇華』されていくような錯覚を受けた、全てのものが凝縮されればそれは光とはならない、黒い塊になるだけだ、闇である。
 しかし……、『臨界』を突破して核爆発を起こしたなら?
 それは新たな光となろう。
(無限の可能性じゃな……)
 どのようにもなるし、どのようにも変わる。
 だがだからこそ、酷く危うい。
「お主……、強くなってみんか?」
 表面上はうろたえることなく、老師はそう持ち掛けた。


 ──2015、メゾン一刻、シンジの自室。
 自室と言っても不特定多数で夜を過ごしている部屋である、そのためちょっとしたリビング並みの広さのある部屋を使用していた。
 流石に特大のベッドなど持ち込みようがないのか、ウォーターベッドが代用されていた、普段はこのベッドにレイ、マナ、ホリィ、そしてシンジの四人が眠っている、アスカともう一人のレイは適当な部屋に転がっている事が多い、カヲルは優雅に一人部屋だ。
 ウォーターベッドに場所を占領されてか、居心地悪そうに衣裳ケースが山積みにされていた、半透明のプラスチックケースで、普通は押し入れにしまい込まれている様な代物だった。
 開け方は前に引くタイプである、ケースの上にはオイルの染みが取れなくなっている作業服が放り出されていた、ホリィとシンジのものだろう。
 それからホリィのロングコートなどが掛けられている台があり、そこに制服なども掛けられていた。
 基本的に、大体は足元に転がっている、シャツ、パンツ、靴下もだ。
 それらに混じって、ゲーム機、本、これは豪華本もあれば漫画もある、それに工具と機械、捻子の入ったケース、ケーブルなども広げられていた。
 何かを作っていたのか、半田ごても置かれている。
「そこまで無理することはないんだよ?」
 ベッドの上にはシンジが仰向けになっていた、その隣に腰かけ、バスタオルを体に巻いているホリィが、濡れた髪を拭いている。
「無理しているつもりはないけど?」
 シンジは濡れて縮れているホリィの髪に魅入っていた、濡れたからかやや赤みが見えるのだが、電灯の明かりによってより強いゴールドにも見えるのだ。
「安全のこともあるんだ、どれだけ鍛えたってホーリィは僕達にはなれない、父さんがホーリィを利用しないとも限らないからね」
「洗脳とか?」
「そこまではしないよ」
 くつくつと笑う姿に怪訝そうにする。
「信じてるの?、親子だから」
「そこまで甘くは無いよ」
 髪を拭いていたからか、締め付けがゆるんでタオルはバストのトップに引っ掛かる感じになっていた、背などはまるっきり見えてしまっている。
 それを手で押さえて立ち上がり、エアコンの風を体に浴びる。
「レイ、カヲル、シン……、それぞれに印象が違うのね」
「そうかな?」
「ええ……、レイは取るに足りない相手、カヲルは策謀の障害、シンは注意すべき存在……、どうしてこんなに食い違うの?」
 言いながらタオルをはだけ、隅に積まれている汚れものの上へと放り投げた。
 パンツに足を通し、シャツを被るように着て袖を引っ張る、タンクトップ故に脇から胸が良く見える。
 時々寝ぼけてか、シンジが胸に吸い付こうとするので、ホリィはこの格好を寝着に選んでいた、めくり易いようにだ。
 洗濯物の下に隠れていたのは小型の冷蔵庫だった、汚れ物をどけ、戸を開き、スポーツドリンクの缶を取り出す。
「まあ、印象が違うのは仕方が無い事だと思うよ?」
 冷蔵庫に腰かけてそれを飲むホリィ、腿を擦り合わせる様な足の組み方にシンジは目を背けた。
 邪な感情を堪えるように。
「……あれでもさ、世界を相手に悪巧みしてる人だからね、カヲル君が気にするのは当然だよ」
「レイは?」
「だって、父さんの計画を掻き回すくらい、レイには簡単な事だもの」
「じゃあシンにはどうなの?」
「僕?、そうだなぁ……、目的のためには何でも利用する人、かな?、無責任な」
「無責任?」
「そう……、例えばさ、父さんには父さんの目的がある、そのためにはエヴァが必要なんだ、だから自由に出来る立場に居なきゃならないと考えた、周りもいずれ使徒が来るのは分かっていた、だからエヴァはどうしても必要になると考えていた、そのためには牽引出来る人間が必要だった、こちらは『統率力』を、向こうには『道具』を、そんな感じで互いに必要としているものを提供し合えると、そこを上手く利用してそそのかしたんだろうね」
「それは悪い事なの?」
 ホリィが首を傾げたのは、それほどおかしな話ではないと感じたからだった。
 普通の『社員』でも自分の目的のために必要な器材が揃えられている会社を見付けて就職し、キャリアを積もうとするものだから。
「問題はね、誠意なんだよ」
「誠意?」
「そう、普通は利用させてもらってるなら、多少は『還元』するでしょう?、でも父さんはそんなこと考えてない、それどころか、自分の願いが叶うとなったら、後は勝手にやっておけと捨てて行ってしまう、そのつもりなんだよ」
「そう……」
「だから僕に対して酷く中途半端な態度を取ってる、道具として扱おうとせず、息子として接しようともしてない、その中間を僕に望んでるんだろうね」
「……」
「だから無責任なんだよ、自分本位で、勝手なくせに、強要するだけの腹積もりは無い」
「恐いから、ということはないの?」
「あの人は僕程度を恐がったりはしないよ、驚きはしてもね?、その程度には凄い人なんだ」
 ホリィはそれが誇らしいと思っているように聞こえて、そんな父親を『はめ』ようとしているシンジの心境こそ不可解だった。


 ──2012、シンジはようやく、自分がどこに居るのかを知った。
「凄いや、桃源郷は本当にあったんだ」
 しかし老師が水を差した。
「生憎とただの桃の林じゃ」
 ちょっと恨めしそうに振り返るシンジである。
「良いじゃないですか、ちょっと浸ってみるくらい……」
 くぅんとフェイが慰める。
 それはともかく。
「じゃが半分は正解じゃ、ここは桃源郷ではないがそれに近い」
「はい?」
「位相空間と言う言葉を知っておるかな?、次元と言い換えても良い、……時間は常に一定ではない、では時間とは何が定める物なのか、お主はそれを知っておるかな?」
 桃の園は落ちた果実が発酵しているのか、酷く甘い香りが漂っていた。
「時間というものは原子の周囲を電子が幾度周回したかで決まるのじゃ、周回する電子の半径が大きいほど一周するには『時間』が懸かる、それだけゆっくりと『時』は刻まれると言う事になるのじゃな」
 電子、か……、とシンジ。
「振り子と同じですか?」
「そうなるな、一度行って、戻って来る、その度に『衰え』は『カウント』される、ではせいぜい長く生きるためにはどうすればよい?」
 シンジは『常識』を無視した『発想』のみで答えた。
「なるべく周回に時間が懸かるようにしてやれば良い」
「そうじゃな、具体的には『重力』を緩和してやれば良い、これはまあ、『物質界』における『面』のみを口にした答えとなってしまうがのぉ」
 ふぉっふぉっふぉっと老師は笑った。
「一つの世界は多様な法則によって成り立っておる、人の世の『科学』もそこらを解明出来る域に達すれば、根底から全てが誤りであったとされるじゃろうな」
「そうなんですか?」
「『化学式』がそうじゃろう?、完璧と思われた計算式も、新たな要素が発見された時に照らし合わせて見れば、明らかな矛盾が浮かび上がって来る、まあ、それでも人はかように発達した文明を作り上げたのじゃから、世界は実に寛容だと言う事だな」
 シンジは『寛容』の意味を、それを吸収してくれる『ゆとり』があるのだと置き換えた、多少の矛盾は見過ごしてくれるものであるのだと。
「でも、重力って、どうして……」
「ふむ?、わからんかの……」
 老師は足で地面に図を描いた、山と海の線をだ。
「空の上では重力が軽い、地上を標準とすれば、深海では引力が強く働いて重くなる、つまり電子は自由に動けなくなると言う事じゃな」
 はっとする。
「重力が懸かれば、電子は原子から離れられない、自由に動けないから……、逆に重力を軽くしてやれば自由に動けるから、原子から離れて動ける、つまり」
 周回距離は長くなる。
「宇宙空間で発生した生物は巨大化すると言う、重力や引力の『枷』から解き放たれているために、分子そのものがとても大きく、活発に活動出来るのじゃろうな」
 シンジは顔を上げた。
「じゃあ、ここは?」
「うむ、『圧力』を懸ける事で時間の流れを早くしておる、まだ外ではお主が倒れてから小一時間も経ってはおらんだろうな」
「もう丸一日は過ごしてるのに……」
「もっとじゃ、お主は三日間寝ておった」
「……そうですか」
 しかしなぁ、と老師。
「環境と言う意味では劣悪じゃ、普通の人間であれば法則に縛られておるから、『標準時間』のみを過ごす事になる、つまり……」
「周りはあっという間に時間が過ぎていくのに、自分だけは外と同じテンポで時間が経っていくってことになるわけですか?」
「主観を変えるとそうなるな、儂らから見ればその者は鈍亀のごとく遅く生きる生物となる」
 だから、と。
「お主が平然としておるのには驚いておるよ、やはり相当な『玉』じゃな」
「あったりまえでしょお!?、誰の子供だと思ってんのよぉ!」
 シンジ、老師、フェイは、響いた声に驚いてきょろきょろとした。
「レイ!?」
「まったくもぉ、どこ行ったかと思えばさぁ」
 シンジは立ち並ぶ桃の木の陰にレイを見付けたのだが……、げんなりとした。
「なにやってるのさ?」
「ん?、桃のお酒作り」
 大きなおけに桃を敷いて、素足で懸命に踏んでいる。
「……努力しておるところ悪いと思うんじゃが」
 呆れた調子で。
「それは葡萄でやるこっちゃぞ」
「えーーー!?」
 レイは喚いた。
「そんなぁ、二日も踏んだのにぃ」
 フェイが横を向いている、後頭部に汗を垂らして。
 そこには果汁を詰めたらしい樽が、実に沢山積まれていた。


 小屋の中、目前に大量に並べられた飲茶やむちゃに、レイは手を叩いて喜んだ。
 用意したのはどこからともなく現れた女性達であった、御伽話にでも出て来るような格好をしていたが、人の気配と言うものが全くなかった。
 そしてまた現れた時と同様に、何処へとも無く姿を消す。
 やはり人間では無かったらしい。
「で、お主、神か?」
 突然訊ねる老師である、レイはだらしなくあぐらをかいたまま、大判の肉まんを頬張って口にした。
「ふぐ?」
「答えてから食べるが良いぞ?」
「ふっ、ぐ!、っと、まあそれは神の定義にもよるかなぁって感じで」
「定義とな?」
「うん、人からすれば『お兄さん』も神様なんじゃない?」
 顎を引き、にっと笑うレイに老師は引きつった。
「……むぅ、この『十年』、見破られたことはなかったんじゃが」
「時間は問題じゃないっしょ、あたしは綾波レイ、生物学的には雌、それ以外に答えようはないわね、特に年齢なんてものはお天道様が何回過ぎたか、それだけでしょう?」
 ふむ、と老師は顎を撫でた。
「……『他の惑星』、『宇宙』、同じ『次元』に置いても時間とは曖昧なものじゃからな」
「そゆこと、神様かどうかってことについてはそうであるとも言えるし違うとも言える、原始祖先を指して神様と呼ぶか、それとも創造主を指し示すのか、あるいは超常の存在のことを言うか、……人には神と悪魔ですら明確に定義出来る『基準』が無い、だからあたしを『何』とするかは個人の自由」
(何者なのじゃ?、結局)
 老師はそう訊ねたい気持ちを抑え込んだ。
 それは好奇心であって重要な問題ではないからだ。
「しかし……、来ておったのなら、さっさと顔を見せてやれば良かったろうに」
「でもねぇ」
 レイは外を見やる仕草を見せた、実際には戸が邪魔で見えないのだが。
「『お嬢ちゃん』から取り上げちゃうってのもねぇ」
 目を細くする老師である。
「『視える』、か……」
「う〜ん、あたしの趣味じゃないんだけどねぇ」
 がりがりと頭を掻き、ちらりと目を上向ける。
「連れて行くか?」
「本人とシンちゃん次第ね」
 肩を竦めた。
「あの子、ここに紛れ込んで来たの?、自力で」
「うむ、飛ばされて来おったわ、ちょいと前にあった『爆発』が空間を壊したのじゃろうな、その隙間を縫ってやって来おった」
「……階梯を上っちゃってるのか」
「うむ、いびつなやり方ではあろうが、上ってしまったのじゃな、人の一つ上に立っておるよ、儂らにまでは届かんが、小僧よりは高かろう」
 ふむふむと頷く。
「問題は、あの子がシンちゃんの『保護者』となってくれるか、『使い魔』として従ってくれるか、それよねぇ……」
 レイは悩んでいた表情をふっと改めた。
「……敵か?」
「シンちゃんを追ってた奴ね、ふうん……、あいつここまで『来れる』んだぁ」
 レイはいやらしく笑うと、今度はぶたまんをぱくっと咥えた。


 シンジはフェイを連れて散策していた。
 山から少し離れると川がある、自分はここに流れ着いたのだろうかと、そんな下らない事を考える。
 川幅は五十メートルほどだろうか?、その両端は岩場で一度落ちると登るのが大変そうだ。
 流れは穏やかなものであった、ここは『人界』からは外れていると言うが、ならば何故自分はここに流れ着く事が出来たのか?
 のっそりと獣が隣を歩く、小馬よりも大きいのだが、最初から別に恐さを感じていたわけではない。
 ただ驚いてしまっただけだ、それも慣れれば気にもならない。
「……」
 不意に立ち止まったシンジに遅れて、フェイもその場に立ち止まった。
 何かと問うように振り向き、シンジを見上げる。
「しつこいんだ……」
 シンジの顔つきが、変わっていた。
「出来たら……、老師に教わってからにしたかったんだけどな」
 腕を下ろす、手の内側にすっと釣り糸が巻かれている『芯』が滑り落ちた、シンジは糸を伸ばすと鉤状にした人差し指の上に置いて親指で押さえた。
 ──ザバァ!
 水が跳ね上がり、またあの白い服の男が現れた、どういう構造の服なのか、首を中心に裾が回って、含んだ水気を跳ね飛ばしている。
「グル!」
「僕がやる!」
 水を切って糸を伸ばす、男の寸前でシンジは腕を引き切り上げた、ブン!、見事躱される、しかしシンジはやったと叫んだ。
「かかった!」
 糸を回転させる、渦状に巻いて回転半径を広げる、男に避ける術は無い、しかし。
 ──ザン!
 今度も衣服によって切り裂かれてしまった。
「どうして!」
 間合いを詰められた、男は川面に足を付いて跳んだ、水面を蹴ったのだ。
 やられる、シンジは体を強ばらせた、しかし視界を金毛によって奪われ、恐怖を放つ主を見失った事で、なんとか硬直から抜け出せた。
「フェイ!」
 フェイを避けて男が背後に着地する、フェイは男と同じく水面に足を付いて跳ね、戻って来た。
 ペッと服の裾を吐き捨てる。
 ──膝をついていた男であったが、立ち上がるなり服を脱ぎ捨てた、その下に着ていたものは麻の布服と皮製とおぼしき胸当てであった。
 極太のナイフを構える。
「頼るか?、それもよかろう」
 言い返そうとするシンジを遮りフェイは跳んだ、男は背伸びをし、上段から斬り下ろした、フェイの鼻面にナイフの切っ先が……
「この!」
 しかしそれはシンジが防いだ、男は咄嗟に糸への防衛に切り替えた、糸を寸断する、フェイが着地する、再び襲いかかる、これは背後からになった、シンジが正面から糸で薙ぐ。
「ふん!」
 男は糸を『気合い』で弾き、振り向き、フェイに斬り付けた。
「フェイ!」
 血がばらまかれる、ざっくりと腹を裂かれてしまっていた、降り立つと同時に内臓が重力に負けてこぼれそうになる。
「やめて!、下がるんだ、フェイ!」
 しかしフェイは守ろうとする。
「逃げるんだ!」
 ──シンジは歯を食いしばった。
 恐い、訳もなく恐い、敵が恐い?、フェイが死ぬのが恐い?、いや……
 頭の中が白くなる。
 思い出す、あの公園であった出来事を。
『謝る必要なんて無いんだ、悪いのは僕なのにどうして気にするんだよ?、僕のために気をつかわないで、お願いだから僕を放っておいて、でないと』
 僕は、みんなを気にしなくちゃいけないから。
 僕は、自分勝手に生きてけないから。
 きゅうと心臓が収縮する感覚、それは……
『圧力を懸ける事で時間の流れを早くして……』
 様々な想像を瞬時に繰り返す、友達の死、それを嘆く自分、守れなかった後悔が自分と言う存在に制限を付ける。
 いやだ、いやだ、いやだ、そんなの嫌だ、そんな風になりたくない、心が喚く、死にたくない、でも、人が死ぬなんてもっと嫌だ、それも。
 ──僕のためだなんて!
 爆発的な感情がメイルシュトロームを描いて沈んでいく、心のブラックホールは貪欲に、底無しに感情を呑み込んで、全てを『崩壊』させていく。
 ──シンジの中で、何かが壊れる。
 それは、『タガ』だ。
 心の、『枠』だ。
 フェイは『後ろ足』で立ち上がると、ごきごきと骨を鳴らして体格を変え始めた。
 肩幅が広くなり、足がしっかりと太くなる。
「それだけの形状変化を加えられながら、さらに形態を変化させるか」
 どうやらフェイの秘密を見抜いているらしい。
「無理に無理を重ねる、命を縮めてまで悪鬼を守るか、それも良かろう!」
 フェイの形態は俗に言う狼男そのものになっていた、逆三角形を描く筋肉隆々の体躯、揺れる尻尾、剥き出しになった牙、だが雌であることがやや線を細くしていた。
 犬的だった手の指がやや物を掴めるように伸びていた、その手で拳を握り振りかぶる、傷口は腹筋で締めて塞いでしまっていた。
 ──ゴキン!
 男のナイフを打ち砕いた、しかし肩口に手刀を入れられて膝を突かされる、鎖骨が砕けて右肩が下がる。
 激痛に喘いでフェイはのけぞってしまった、その顎に男の爪先が蹴り上がる。
 ──ゴッ!
 舌を噛み、血を散らしながら倒れるフェイ、男は追い打ちを掛けようと拳を振り上げた、しかし……
「……ちゃだめだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃ、ダメだ」
 ──ザワリ!
『使徒』である男、金毛のフェイ。
 両者互いに、全身を総毛立たせて硬直した、それほどに圧倒的な『もの』が二人に悪寒を走らせていた。
 重圧感?、恐怖?、『それ』を分類する事すら出来ない、ただ、動いてはならないと、それだけは確信出来た。
 地を這うような瘴気が爆発的に溢れ出し、辺り一帯を呑み込んだ。
 体が腐り落ちていく感覚は十分な恐怖を吹き出させた。
「!」
 ただの錯覚、そうと分かっていながらも堪え切れなくなったのか、男は跳んだ、シンジへと向かって。
 ──けれど。
 キン!、と金色の光が煌めいた、その四肢、胴は分割されて、宙を泳いで川面へと落ちた、ぼちゃん、そしてそのまま沈んでいった。
「もういいよ」
 ふわりと抱きしめられて、シンジは体を強ばらせた。
「もう良いんだよ?、シンジ君、君の力は強過ぎるからね、この穏やかな『空間』を壊す気かい?」
 カヲルであった。
 フェイへと顔を向け、にこりと微笑む。
「迷惑を掛けてしまったね」
 かくんと腕の中のシンジが落ちる。
「おっと……、大丈夫、気を失っただけだよ、僕の目には君の方が大変に見えるけどね?」
 そう言って、顔を横向けた。
「レイ、悪趣味に過ぎないかい?」
 木の陰からレイと、老師が連れだって現れた。
「僕のシンジ君に何かあったらどうしてくれるつもりだったんだい?」
「誰があんたのよ、それはあたしの」
 ふいとそっぽを向く。
 老師はその間に、カヲルを警戒しながらもフェイへと歩み寄った。
「すまなんだのぉ」
 くぅんと鼻を鳴らすフェイである、老師は彼女の腹の毛を、撫でするようにして分けて見た。
「傷はもう塞がりかけておるようだの」
「その分エネルギー使っちゃってるでしょ」
 レイが投げたものを老師はパシッと掴み取った。
「なんじゃ?」
「正露丸、……うそ、ヒットポイントの回復剤、食前二錠ね、ご飯はしっかりと食べるように」
 さてと、と。
「ご希望通り見せてあげたけど、どう?、シンちゃんは」
「危険だの……」
 酷く真面目な顔をして言う。
「その力、暴走した時、止められるものではないぞ?」
「でしょ?、だからこの必然があったとは思わない?」
「必然?」
 ふふん?、とレイ。
「わかんないかなぁ、こんなことがある度に自己暗示形式の呪文唱えてバーサーカーモード入ってたんじゃ、周りも本人も傍迷惑じゃない?、そっこっで!、適当なお師匠様に適当に対処出来るようにしっかりと仕込んで貰えってね?、『運命』さんがそう導いたのよん」
 苦笑する。
「もちろん分かっておるわ、そ奴がフェイに拾われた日、儂の元には天界のお方々がお下りになられたのだからのぉ」
 ──頼みましたよ?
「この世で最も高貴な御方の願いとあっては無下にも出来ん」
「スケベ」
「はて?、なんのことかのぉ」
 ふぉっふぉっふぉっと。
「まあ、良かろう、事の重大さは儂にも分かった、そ奴は儂が預かろう」
「なぁに言ってるかな?」
「む?」
 引き渡さないつもりかと老師は訝ったが、それは早合点と言うものだった。
「あたしも残るに決まってんじゃない」
「それはきっと、飲茶が目当てなんだろうねぇ」
 カヲルの言葉にギクギクとなる。
 どうやら当たっているらしかった。


 ──2015。
 岩の上にはフェイが、岩の下にはレイが、それぞれに座り込んでいた。
「老師がフェイちゃんを預かってくれって言った時にはどうしたのかと思ったけど、お米の国でアルバイトするためだったんだねぇ、って、さて、どうするぅ?」
 岩を背に、頭をかこんと後ろに倒してフェイを見上げた。
 金狼の顎に対して口を開く。
「小さい島だし、フェイちゃん目立つかんねー?、でもまあ、そういつまでも逃げていらんないし、どうするぅ?」
 訊ねる。
「シンちゃんのとこ、行く?」
 ゆっくりと下向くフェイ。
 その丸い瞳でレイを見る。
 じっと見つめ合った後で、互いに口元を緩ませた、にぃっと。
「この頃退屈だったでしょ?、やっぱ一人で遊んでても退屈だもんねぇ」
 ただ、と。
「あっちは思いっきり散歩出来る様な山が少ないんだよね、あ、でも!」
「?」
「良い所があった、『ジオフロント』!」
 ……その『正体』を知りながら、まるで『犬』扱いである。
 しかしフェイもそれで満足しているらしい。
 少なくとも、不満はまるで感じられなかった。
「なんとか今月中に算段付けるわ、だからもうちょっと逃げ回っててねぇん」
 立ち上がり、お尻をぱんぱんとはたいて歩き出す。
 そんなレイを見送ってから、フェイもまた背を向けて姿を消した。
 後には岩が残るだけである。
 ──そして。
 ウォオーーーン……
 はしゃぐような遠吠えが、森の奥で木霊こだました。



続く



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。