──ネルフ本部。
その総司令執務室では、深夜だというのに剣呑な折衝が行われていた。
「ではネルフ本部は、国連の査察を拒否すると?」
司令の脇に立つ冬月が答えた。
「無条件査察は受け入れられる物ではないと言っているつもりなのだがね」
「理由をお聞きしても構いませんか?」
うむ、と頷く。
「失礼だが……、査察団の面々についてこちらでも確認させて頂いたのだがね、幾人か不正な方法で私腹を肥やしている者が居るようだ」
それは痛い所を突く発言だったのだろう。
山岸ゲンタは肯定してみせた。
「なるほど、こちらのメンバーに不安があるとなれば、当然ですな」
「その通りだ」
ゲンドウが口を開いた。
「全ての施設への無条件立ち入りは許可出来ない」
「少なくとも不透明な資金の流れが解明されるまでは、不特定組織との接触の事実を否定出来ないのではないのかね?」
「スパイが紛れ込んでいると?」
「その可能性だ」
「ハッキングのみならず物理的な破壊工作が行われないとも限らんからね、こればかりは慎重に対応させて頂きたい」
意外とあっさりとゲンタは引き下がった。
「わかりました、……メンバーの選定に当たっては国連本部でも幾つかの『問題』がありました、これは否定できません、そちらでの確認を待ちましょう」
「良いのかね?」
「納得出来る形での選択を……、では」
ああ、と身を翻し掛けて、付け加える。
「できればチルドレンと面談を行いたいのですが?」
これについては意表を突かれたのだろう。
「チルドレンとかね」
「はい、チルドレンについては人権侵害の嫌いや未成年保護の観点から見ても、問題が大きいとする人間が多いもので、直に話を聞きたいのですよ」
何しろ、と。
「UNは色々な面において、とてもナーバスになっているものですから」
冬月は渋い顔をした。
「……しかし彼らは中学生なのでね、就学後、明日の夕刻からでかまわんかね?、統括管理官であれば朝には出勤してくるが」
「ではまず、管理官殿とお話しさせて頂きます、では」
今度こそ去る。
残された二人の内、ゲンドウはそれでも態度を崩さなかった。
その分、大袈裟にコウゾウが息を抜く。
「……彼はやり難いタイプだな」
「ああ……」
あの調子では国連本部でもさぞかし煙たがられているだろうと思う、上役の批判さえ公然と……、ぼかしてはいても、恐れることなく認めたのだから。
「さて……、彼のことは統括管理官殿に任せて、わたしは休ませてもらうよ、幾ら『不夜城』とは言え、人の身では付き合い切れんからな」
それはその通りで、ネルフ本部には昼も夜も無い、使徒はいつ来るか分からないのだ、そのため常にスタッフは稼働している。
第一、森林公園にでも出ればともかく、本部施設内では二十四時間照明は点いているのだ。
昼夜の感覚など失われて当然である。
「歳かな……、ああ、赤木君も休ませろよ?、彼女はお前の言うことでないと聞かんからな」
「……」
ゲンドウは……、そのことに関しては言葉を濁した。
NeonGenesisEvangelion act.41
『変調:pro・logue −外典 第三章 第一節−』
──翌日。
「レイが居ない」
ぽつりとこぼしたシンジの言葉に反応したのは、カヲル……、ではなく、トウジであった。
「なんや、またサボリかいな」
「むぅ〜〜〜」
「なんや?、どないしてん?」
「レイってさ」
ぶちぶちと。
「なぁんかやってるんだよね……、で、問題起こして、後任せたって逃げるんだよ」
「……逃げるんか」
「逃げるんだよ……、それで追いかけて来た人が僕に絡むんだよね」
まるで……、トウジは考えた。
「ケンスケみたいやのぉ……」
余り付き合いのないシンジであったが、なんとなく想像できて、「だから気が合うのか、あの二人」、と呟いた。
さてその横で。
「……」
ぼんやりと頬杖を突いているのはヒカリであった。
その目は窓際、光を浴びて、静かに本を読みふけるレイと……
そのレイに顔を寄せて、何やら話しかけている渚カヲルへと向けられていた。
頬が触れ合うほどに近く、耳に愛でも囁いていたような雰囲気であった、微笑をこぼしているカヲルと、無視しているレイ、しかしお互いの雰囲気はどこか和やかで、柔らかく……
朝の日差しに溶け込んで。
ふと、そんな視線に気がついたのか、カヲルは顔を上げてはにかんだ。
席を立ち、彼は一直線に歩み寄る。
「どうしたんだい?」
カヲルはヒカリへと近寄ると、そう話しかけた。
──現実感。
急に『こちら側』へ寄った気がした、この世のものではない清廉さ、淡さが払拭され、それなりに質量のある、肉の塊に落ち着いたような。
「洞木さん?」
「え!?、あっ、ご、ごめんなさい!」
「いいけどね」
ふっと笑って、前髪を払い……
「『ヒカリ』が心配するような事は無いさ、生憎と僕達はネルフの都合で修学旅行に行けないのでね、残念だねって話し合っていたんだよ」
「え〜〜〜っ!?、渚くん、沖縄行かないのぉ!?」
「……ミツコ」
ヒカリは耳を塞いで顔をしかめた。
相当うるさかったようである。
ミツコは栗毛の女の子だった、天パなので逆に伸ばし、ウェーブに見せ掛けている姑息な子だ。
「まあ、世界の平和を守る正義の使者としてはね、遊んでいる間に世界が亡んでしまいましたじゃ、少しも格好が付かないだろう?」
「そうなのぉ?」
「ざんねぇん」
わらわらと女の子が集まって来る。
「沖縄ってぇ、安保条約の強化でほとんどが米軍の基地になっちゃってるんでしょう?」
「そうそう、後はリゾート化が推進されてて、それが犯罪の『オンショウ』になってるって」
「カヲルくんに守ってもらおうと思ってたのにぃ」
はっはっはっとカヲル。
「僕はそれ程強くは無いさ、せいぜい『ヒカリちゃん』を守るくらいが精一杯だよ」
「ヒカリずっる〜い」
「はは……、は……」
肩に回された腕に、もはや引きつるしかないヒカリである。
カヲルは先にレイにしていたように、彼女の耳に口を寄せつつ、囁いた。
「大丈夫だよ、君がいなくても他に『うつつ』を抜かしたりはしないさ」
「うつつってなにぃ?」
「浮気するって意味さ、ミツコちゃん」
「カヲルくんって、ヒカリと付き合ってるの?」
「え!?」
「はっはっは、残念だけど、まだなのさ」
けどね、と。
「僕は脈があると思っているよ」
「ヒカリぃ」
「な、なに?」
「ぜいたくぅ」
うんうんと頷く一同。
「あのねぇ……」
「おや?、さっき綾波さんに話しかけている僕を見ていたのは、嫉妬してくれていたからじゃなかったのかい?」
「へ!?」
「寂しそうにしているものだから、きっとそうだと思ったんだけど、違うのかい?」
「え!?、え、ええと……」
あまりにも悲しげにするものだから、はっきり違うと口に出来ない。
それに、そんな風に言われてしまえば、本心はともかくどうしても赤面してしまうものだろう。
そこにミツコが。
「なんだかそれって……、少女漫画、地で行ってない?」
うんうんと、さらに頷く一同であった。
本人達がどうであれ、端から見ればいつも言い寄って来る彼が他の子と親しくするのでつい拗ねてしまった女の子、に見えてしまう。
ついでに言えば、カヲルとレイは間違いなく『平均以上』の点数が付く容姿である、そこに平凡でそばかすが気になっているヒカリがからめばどうなるか?
劣等感のある女の子が不釣り合いな美少年に物怖じしながらも、本当は憧れてしまっている王道パターンが完成するのだ。
しかもその彼には親しい美少女が一人いる。
劣等感のスパイスが掛けられた。
……実に楽しい、噂話のネタである。
「ふんふんふんふん♪」
「なぁにやってんだか」
一階の廊下を歩き、渡り廊下へと出たカヲルを呼び止めたのは、レイだった。
壁にもたれて腕を組んでいる。
「おや、レイ、戻って来てたのかい?、それなら教室に来れば良いのに」
「もう二、三まわってからね、こっちは忙しいんだから」
くすりと笑って……
「根回しかい?、それとも下準備か、大変だねぇ」
「本当に何かあったら大変だかんね、何日も離れるってのも久しぶりだし」
「着いていけばいいんじゃないのかい?」
「それだと色々と間に合わなくなるのよ」
「ふうん?」
カヲルは硬質な空気を纏って、レイを睨むようにした。
旅行中、何が起こっても大丈夫なように、色々な策を講じている。
そのために忙しく飛び回っている、それは分かるのだが……
「何を企んでるんだい?」
「何をって……、そんな人聞きの悪い事を」
ほほほほほっとレイ。
「あたしゃーあんたとはちがーでございますですよ」
「それは悪かったね、で?」
「……前の学校とここは違うって事よ」
おどけた調子から、急に真剣モードに切り替わった。
「小学校は別にね……、あんなとこ切り捨てたって良かったけど、『ここ』は『碇シンジ』にとっちゃ失っちゃなんない場所なのよ」
カヲルは深く感銘した。
「……そういう、ことか」
「そうそう、あんたが小学校でやってたみたいに、コネがあるわけでもないからねぇ」
カヲルは口元に皺を寄せて苦笑した。
「コネ、ねぇ……」
以前の学校の校長は、『教団』がらみの『信者』であった。
故に彼はカヲルの願いを無下に断ることは出来なかった、ただ、日本人であったからか、他国の信者のように盲信してへつらいはしなかったようだが。
「教団の教えを逆手に取っただけなんだけどねぇ」
「そんなこたどうでも良いのよ」
ぱたぱたと手を振った。
「この学校を守ってるのがネルフだって事、それが問題なのよ」
「どういうことだい?」
「中途半端って事」
「?」
良く分からなかった。
「あのね?、半プロ連中が目を光らせてたって、プロはちゃあんと仕事をこなすもんでしょうが、けどね、防衛する側としちゃ、素人が邪魔でちゃんとしたお仕事が出来なくなるのよ」
攻撃側はネルフも他の組織も同じであろう、が、守り手としては二種、三種の組織が入った場合、連携などの点で問題が起きやすい、そしてそれは隙となって、外敵を優位にしてしまう。
元々ネルフの守備隊など役に立つものではないのだ、だからと言ってそれを強化しようとすれば、先の懸念が浮上してしまう。
ネルフはきっと、半端者根性を出し、外敵だけでなく同じ守備側の存在にまで警戒心を向けるだろう。
せっかく付けた『プロ』はネルフに足を引っ張られ、邪魔をされ……
なるほどね、とカヲル。
「攻めるは易し、守るは難しと言うことか」
「そう、……シンちゃん達にはああ説明したけど、ミエルちゃんを入れたのにはそういうこともあるのよ、あの子ならちゃんとやってくれそうだから」
くすりとカヲル。
「ちゃんと、ねぇ……」
「もっちろん、他にも潜り込ませとくけどね、少なくともあたしもカヲルも居ない場所で、『ニゲチャダメダ』をやられちゃホントに困るでしょ?」
カヲルは苦い顔をした。
シンジのそれが、本当にこの世を滅ぼしかねない物であると、聞かされた日のことを今更思い出したからである。
──2012、中国。
「はっ!、はっ!、はっはっ!」
不思議な呼吸法を用いて、少林寺拳法紛いの正拳突きを行っているシンジが居る、河原でだ。
その傍の岩には老師が腰かけ、さらに横にはフェイが座り込んで、尻尾をばさり、ばさりと振っていた。
どうやらシンジの呼吸に合わせているようだ。
それを眼下に見下ろす位置、山の岩場の上にレイはいた。
のんびりごろんと横になって。
「分からないね……」
その傍、一段高い場所には、カヲルが膝に頬杖を突いて腰かけていた。
陽気もうららかな午後である。
しかしカヲルの顔はとても渋い。
「……君は、なんのためにこんな手間を取るんだい?」
明らかに不満気でもある。
「いや……、そもそも君が目指しているもの、それ自体が不可解でならないんだが」
レイはいつの間にか足を組んで、ふいふいと振っていた、頭には腕を枕に敷いて。
「目指してるとこなんて決まってるじゃない」
「未来かい?」
「そうそう」
「そのためにシンジ君を強くする、というのが分からないのさ」
ふん?、と促されて先を続ける。
「君ならね……、僕や、シンジ君を無しにしても、サードインパクトは防げるんじゃないのかい?」
レイはゆっくりと……、口元にいやらしい笑みを張り付けた。
それは明らかな肯定だろう、実際、神出鬼没のレイには入り込めない場所などない、その気になれば不穏分子の一掃など容易なのである。
なのに、それをしようとはしない、それは?
「砂時計って、知ってる?」
「砂時計?」
「そう」
さらさらと、手で落ちていくゼスチャーをする。
「砂時計ってのは、表現に過ぎないけどね?、上からさらさらさらさら砂が落ちるでしょ?、それは『糧』に例えられるわけ」
「糧?、食べ物のことかい?」
「もっと大きく、生きる糧、よ、その中には食物も含まれるけどね」
よっとっと起き上がる。
「さらさらと砂は落ちて、下に小山を作っていくわ、そうして『命』は成長していく、大きくなっていく」
「……」
「でもこれが上手く出来ててねぇ、どんなに沢山砂を入れても、下の『器』には限界があるの、さらさらさらさら溜まっても、いつかは一杯に詰まっちゃう」
カヲルはそこで、はっとした。
──もう一人のイカリシンジ。
彼と決別した日のことを。
あの時、『幼いシンジ』は爆発した、そう、『バクハツ』だ。
かつて全てが終息してしまった世界があった。
──サードインパクトによって。
そこにあった『エネルギー』は全て『碇シンジ』と言う存在へと集約されてしまっていた、つまり、碇シンジと言う『枠』の中に納められた。
「……シンジ君は」
ごくりと生唾を飲み下す。
「自分を壊す事で、世界を創世し直したのか」
にやりと笑って。
「そう、自分の中に力はあっても、それをどう解放したもんだかわかんなかったのね、世界となる材料を解放するために、自分から壊れて見せたのよ」
「……そうして、沢山の世界が生まれた」
「へりこぷた〜の羽とおんなじ、回ってしまえば残像で沢山あるように見えるけど『本質』じゃ一本だけ、まあ、実体として存在出来るくらいのエネルギーは与えられているけどね」
「そしてその基軸……、中心の軸にはシンジ君の『意思』が『在り』、上手く世界を回している……」
「けどね、それじゃだめなんよ、つまりそれは碇シンジって可能性については『拘束』されてるってことだから、縛り付けられたままだってことだから」
だから壊した、『あの時』に。
全てのしがらみから、束縛から解放するために。
「けれどそれは危険な事なんじゃないのかい?」
カヲルは思う。
「自分というものを失うなんて」
「そうよ?」
あっさりとレイ。
「かろうじて『アスカちゃん』の願いを反映させようとした自分が残ってたっていうのに、それさえも放棄するよう促したわけだかんね、究極『自分』ってもんを、形を無くしちゃったって事なんだから」
だからか、と納得する。
「もう一度シンジ君に初めから『碇シンジ』を作らせる、そのためには手順や手間こそが必要で、だからこの『プロセス』は省けない、省くわけにはいかないのか」
「そゆこと」
ついでに、と。
「その上で、シンちゃんにはもっと『カッコ好く』なってもらわないとねぇ〜、でないと」
「なんだい?」
「ぶらっくほぉる」
にんっと。
「この間もあったっしょ?、ニゲチャだめだ、よ、シンちゃんが自分に向かって落ち込んで行くとね、それに引きずられて世界はシンジへと沈んでいくの、そりゃそうよね、シンジはこの世界そのものなんだから」
「だから、そうさせてはいけないと?」
「そうよ、運が好かったら沈み切った所で臨界を迎えてびっくばん!、また新しい世界へと『ひっくり返る』、それだけで済むかもしれないけどね、運が悪かったら」
圧力によって爆発を起こし、純粋なエネルギーとなることなく手前で留まってしまい、ただ崩壊しただけに終わってしまって……
「……無に還るのか」
「そゆこと」
蹴りの練習に入っているシンジを見下ろす。
「だ・か・ら・!、できるだけ『カッコ好く』なってもらわないと困ってわけ、わかる?」
だって、と。
「あたしが望んでるのは、続きの世界じゃないもんね、『この先』、『あたしが知らない先』、世界がいつか行き着く果ての世界だから」
カヲルはやや目を細くした。
「……自ら時計の針を進めようというのかい?、その手で」
「そ」
「そのためのシンジ君か……」
「そゆことよん、食物連鎖の構造と同じ、人間ってのは多数の生き物の吸い上げて成り立ってるわけだけど、その頂点では『滅』、死でしょ?、でももし、それを乗り越える事が出来たなら?」
「人はようやく、階梯を登れた事になる」
「そう、ピラミッド構造ってのはようするに三角形なわけでしょ?、もしこれを乗り越える事が出来なたなら、つまり上には逆三角形が来るわけよ、物理生命体である人間が臨界を越えればどうなるのか?、あたしはそれがみたいわけ」
「見たいだけなのかい?」
「もちろん、お友達になってもらうのよ」
だって、と告げる。
「あたし一人じゃつまんないもん、この世界、あたしはね、みんなで遊びたいのよ、あたしなんてそこらに居る奴の一人に過ぎないってくらいに、とんでもない奴らで埋めつくしてやりたいわけよ」
カヲルはようやく破顔した。
「それは……、楽しそうだね?」
「でしょ!?、だからこの世界の『枠』を壊してやりたいのよ!、はめられている枷を取っ払って!、固定観念と常識を!、全てを破壊してやりたいってわけ!」
やおら立ち上がって両手を広げ、くるりと回る。
その顔はシンジにも見せたことがないような強い期待感に満ち溢れて、眩しいくらいに輝いていた。
意表を突かれたのだろう、ゲンタは呆気に取られた顔をして、この歳若い少女をどう見たものだか弱っていた。
「君が……、チルドレンの統括管理官かい?」
はい、とにこやかに、礼儀好く。
「ホーリア・クリスティンです」
「山岸ゲンタだ……、いや、山岸です」
握手を交わす、が、山岸の顔は一層複雑化しただけだった。
ゲンタの歳になると、娘のような少女と手を繋ぐなど、流石に照れてしまうものらしい。
これが妙齢の女性であったなら、白魚のような、とか、細く長い指、となるのだろうが、ホリィほどに若いとどうしても指が短い。
それが幼さに見えてしまう、感じられてしまうのだ。
ついでに言えば、ゲンタは青春時代をセカンドインパクト前に過ごしていた、その頃の日本は酷く女性に気をつかっていた、手による一時接触など以ての外だった。
ゲンタはそんな世代の人間であった、免疫が無い、と言えばそうなる、アメリカでそのような習慣に慣れる機会はあったのだが、それはあくまで同年代が相手の場合だ。
手の汚れ、汗、脂、どれもが不快感を与えてしまったのではないかと気になった、それくらいに歳若い子の手はさらさらとしているものなのだ。
(そう言えば、マユミの手はどうだったかな……)
ふと、台所にてエプロンを着け、皿を拭いている養女のことを思い返した。
「どうか?」
「あ、いや……」
訝しんだが、ホリィは追求しなかった。
「構いません、わたしはこの通りの年齢です、子供扱いしてもらえた方が助かります」
「その方が良いと?」
「はい……、互いに気をつかい合う状態は神経をささくれ立たせ、疲れるだけですから」
「……そうだな」
すぅ、と息を吸って、改める。
「では、座ってもいいかな?」
「はい、コーヒーは」
「頂こう」
日本的だなぁ、とゲンタが思ったのは、部屋の大きさに対してであった。
日本の公的機関は役職に応じて部屋の大きさを厳密に決めているという。
馬鹿だな、と思う、そのようなことまで決めておかないと、顕示欲から頭の悪いことをする人間が出るからだろう、そのための戒めでしかないというのに、大きい部屋を与えられる事をステータスとして喜びとする人間は減らない。
ゲンタはまだ整理が付けられていないデスクに目を向けながらも、本来彼女の補佐役の席となるであろう予備机の椅子を動かした。
適当に悩んで、結局彼女の机の傍に移動する。
「どうぞ」
「すまない」
受け皿を左手に、右手はカップの耳に付ける。
彼女も座るのを待ってから、ゲンタは穏やかに問いかけた。
「君は……、いつから管理官に?」
「まだ一ヶ月にもなりません」
同じく、コーヒーに手をつける。
「では戦闘経験は……」
「戦闘には参加しました、弐号機に同乗して……」
「貴重な体験だな」
謙遜を入れる。
「ですが現場指揮官としては未経験です」
「ふむ、周りが君の指示に従ってくれるかどうかは難しいな」
「そうでしょうが……」
ホリィは苦笑を織り交ぜて嘆息した。
「周囲がわたしに望んでいるのは、戦闘指揮官としての能力ではありません、あくまでエヴァ、チルドレンの統括です」
「パイロットの?」
「問題児ですから」
微笑に、そういうことかと納得をする。
「扱いづらいということか」
「……苦手意識だと思います、みな素直じゃありませんから」
「だから間に緩衝材を入れるか?」
「わたしの言うことなら聞いてくれる、というわけでもありません、特にここで働くようになってから、頓に気がついた事があります」
「それは?」
「ネルフの人間は、人を使うのが下手だと言うことです」
じっとゲンタの目に焦点を合わせ、覗き込む。
「わたしは……、子供です、なら馬鹿にするなり、甘やかすなり、命令するなりすればいいのに、変に対等に扱おうとします、その一方で、下位の者に対しては命令を記した文章を送り付けるだけで、納得出来る理由を説明しようとはしません」
はて?、と訝しむ。
「組織とはそういうものだろう?」
「そうでしょうけど、ここ、本部の人間は『甘い』んです」
ゲンタは眉間に皺を寄せた。
本部人員の構成が、ほぼゲヒルンからの持ち上がりだと言う事を思い出したのだ。
「……本職の軍人ではないと言う事か?」
「はい、ですから下の者は自分で自分のしている事を省みます、どうして、なんの必要があるのかと、なのに通達は電子文章一通のみ、これでは半端な真似をする者が増えるだけです」
ホリィはそれに関する証言を持ちえていた。
『街うろついててさぁ……、諜報部の連中にねぇ』
そう語ったアスカのことを思い出す。
『こっちのことをずっと監視してたくせに、自分達の体面とか都合とか……、他の部への当て付けとか、そんなんでね、見捨てようとしやがったのよ、あの連中』
確かに、職務に忠実であり、それを実行した結果ならそれもやむを得ないだろうが。
その理由が他の部署へのヒガミや嫌がらせでは余りにも情けないのでは無かろうか?
ただ、抗弁しておくなら、アスカが語ったのは『以前』の話であり、『現在』ではない、……現在でも似たような状況は一度あったが。
「何のために、今なんの仕事をしているのか?、それが分からなければ人は『ダレ』ます、飽きて仕事を投げ出し、自分の都合を優先し出します、ここはそういう普通の人が多過ぎます」
「ふむ……」
それは空気からも感じる事ではあった、軍の形態を取っているにしては、非常に雰囲気が軽いのだ。
規則や規律が徹底されないために、シビリアンコントロールが甘いのだろう。
「まあ……、そういう人達には、そういう人達への命令の仕方があると思うのですが……、そしてチルドレン達は、極めて『普通』に近い性格をしているんです、だから上層部の通達書一枚のやり方では納得出来なくて反発してしまうんです」
「それを繋ぐために?」
「わたしは役目を任されました」
ゲンタはようやく納得した。
確かにそれなら、仲間意識の芽生え易い同年代でありながら、それなりに人当たりの好い、理解力のある子が妥当であろう。
「まあ、この役職に就く替わりに、ひとつ妥協してもらいましたが」
「妥協?」
「はい……、わたしは、官位を頂かない、と、今は顧問と言う形で雇われています」
「それはいつでもやめられるようにか?」
「でなければわたしは役職の枷にはめられて、命令を順守しなくてはならなくなりますから」
やりづらい。
ゲンタはそう感じてしまった。
年齢だけではない、どこか嘘が吐けないのだ。
先程からミサトに対した時のように、何かしら仕掛けてみようとしているのだが、そのたびに彼女の青い瞳が深さを増すようで、それを牽制と感じてしまう。
──が、それは深読みし過ぎているだけであった。
ホリィは大人と付き合う上で、上手く騙されて見せるために『オーラ』を視ていた、人の気を。
幾ら交渉巧者のゲンタと言えども、嘘のオーラを発することは出来なかった、その色の変化を視て、来るかな?、とホリィは緊張する。
その緊張から、ますます注視してしまう、ゲンタが感じたのはその変化だったのだ。
これはホリィに対してこそ迂闊と言えることだった、巧妙に隠さなくてはならない事であったから。
だからゲンタが気にするような事では無かったのだが……
「真っ直ぐだな、君は……」
そうはぐらかし、コーヒーに口を付け、間を作る。
気を取り直して、ゲンタは話の内容を変えた。
「チルドレンに関しては、色々と不穏な噂を耳にしているよ」
単刀直入に切り出す。
「君はその彼らの手綱を取れるのか?」
さあ?、とホリィは正直に返した。
「ただ、わたしは信頼されています、パイロットの側から……、これもまた半端者の集団である事が関係して来ますが、『わたし達』は『階級』を信用しません、信用するのは『人格』です、それがわからない相手には従えません、増してや、命を預けるなど以ての外です」
なるほど、と。
「……自分は信用されるに値している、その自信はあるわけだ」
「はい、実際、愛されていますから」
にっこりと微笑む、少しばかり首を傾げて。
その華のある仕草に、言葉を失い、魅入ってしまう。
「……そうか」
かろうじて、取り繕う事が出来たゲンタであったが……
ホリィが内心で舌を出して、言っちゃった、と悪戯の成功に喜んでいた事までは分からなかった。
──通路。
食堂兼カフェへ向かう途中の道を、ゲンタとホリィは連れ立って歩いていた。
あの部屋では落ち着いていられなくなったからである。
「正式な調査を開始する前に、ざっと話を聞いてみるだけのつもりだったんだが」
ゲンタの溜め息に同情をする。
「予想以上でしたか?」
「ああ、問題だらけだな」
やや上向き、頬骨から顎鬚までを撫でさすった。
「まあ、非公開組織である以上、下手に人員を手放す訳にもいかない、だから研究員のほとんどには居残りを強制した、同時に不穏分子が紛れ込むのを防ぐために、外からの人員補充を極力避けた、それは分かるんだが……」
それはよほど致命的な問題なのだろう。
「弊害がひど過ぎる、リスクを避けるつもりで、上げているな」
嘆息する。
「将は何より、前線に立たなければならない、そうでなければ兵士は自棄を起こすだけだからな、どうせ自分達は使い捨てであると……、だがこの『軍隊』にはエヴァ以外の戦力が無い、それでは子供達が上を見下すのも仕方の無いことだろう」
「……シンは、そんなこと考えないと思いますが」
「シン?」
「シンジです、碇シンジ」
「サード、元、サードか……」
付け加える。
「ブラックデビル、そうか、そうかもしれんな」
はて?、と今度はホリィが首を傾げることになった。
「ブラック……、なんです?」
「知らないのか?」
「はい」
よほど意外だったのだろう、ゲンタは酷く戸惑った。
「サードの二つ名だよ、そう呼ばれてる……」
ああ、とホリィは納得した。
「そうですか、そうですね……、そういう呼び方があっても不思議じゃないんだ」
「確認しておくが、彼の『裏』を知っているのか?」
「まあ……、一応は知っているつもりですが」
「それなら良いんだが……」
「?」
「わたしが聞き及んだものと、マユミ……、娘に教えてもらった像とは、かなり隔たれている感じがあって……」
言葉を切ったのは、ホリィの『感じ』が変わったからだった、酷く冷たく……
「そのことを、お話しになられたんですか?」
ごくりと、生唾を呑み込む、緊張から。
「そのこと?」
「シンが……、人など幾らでも殺せる人だと」
「い、いや……、マユミには話してない」
にこやかに。
「そうですか、それなら別に良いんです」
歩き出す、その時ようやく、ゲンタは立ち止まってしまっていた事を知った。
慌てて追いかける。
「君は……、恐くないのか?、彼のことが」
「どうしてですか?」
「いつ殺されるか分からない、そうは思わないのか?」
もちろん、とホリィは微笑した。
「『いつも』簡単に見限られてしまうだろうなって、そう思ってますよ?、それが?」
「その上で、命令を下せるというのか?、彼を使う立場に立って」
そうですね、と考える。
「実際にどこまで従ってくれるかは、分かりません」
「そうか……」
「けれどこれだけは言えます」
きっぱりと。
「シンは理不尽なことはしません」
「理不尽なこと?」
「はい」
そうですね、と例を出す。
「監査官は……、お子さん、マユミさん?、を大事に想われていますか?」
何が言いたいのか分からなかったので、ああと曖昧にゲンタは返した。
「なら訊ねますけど……、そのマユミさんがもし、チルドレンとして選ばれたなら、どうお感じになられますか?」
「それは……」
「付け加えますが、彼女に人殺しをさせなければならない状況になるかもしれません、あるいは彼女を殺さなくてはならなくなるかもしれません、それでもそんな運命に関らせたいと思いますか?」
「……」
くすりと意地悪に苦笑した。
「そういうものでしょう?、誰でも親しい、身近な者は大切に思えます、理不尽でも、知らない他人が犠牲になってくれることを望みます、この考えは人として酷く当たり前だと考えます、シンもそうです、自分の権利を侵害し、幸せに影を落とそうとする者は許さない、それだけです」
「諜報部の者を手にかけたことも?」
「報告書をお読みになられているのなら分かるはずです、アスカ……、セカンドを見殺しにしようとした人達は、自己の保身を優先しました、職務の放棄は規則に違反することだからと、処罰される事になってしまうと、そんな『身勝手』な理由で彼らは自己弁護をして見捨てようとした、だから許せなかった、それだけなんですよ」
言い募る。
「やり過ぎだとは思わないのか?」
「もしアスカが、『並み』であったなら……、強姦だけでは済まされませんでした、無事だったから良いじゃないか、そんな理屈は結果論に過ぎません」
ふむ、と納得。
「小さな幸せを守る、か……」
「シンの行動原理なんてそんなものです、……案外、司令もそうかもしれませんが」
「?」
怪訝そうな顔をするゲンタだが、ホリィはそれ以上を告げなかった。
シンジと共に総司令執務室を訪れ、この役職の話を聞いた時に、シンジとどこか『色』が似ていると感じたのだ。
もっと、ずっと、色が濃く。
(あの人もまた、傍に居る者だけを頼りにしてるのかもしれない、他人を恐がって、突き放して……)
恐ろしく、本質を見抜くホリィである。
だから近しい者を大事にするために、後の者を使い捨てにしているのではないのか、と。
いみじくも、ゲンドウがレイに対してこぼしていた。
──問題は生まれ落ちたものをどう扱うかではなく、どう接するかだ。
逆を言えば、自分を人として扱わない者など、人として対してやる必要など無い、とも取れる、実際どうなのかは分からないが、自分をろくなものとして見ない奴らなど、人として認めてやるつもりがないのかもしれない。
(シンが……、あの人を父として認めているのは)
自分を人として応対してくるから。
そうかもしれない。
「……司令、か」
ゲンタの声に、考え込んでしまっていたと我に返る。
「あの司令と、サード……、似ているのか?」
「表面的には……、似ていないかもしれません、けれど内面はどうか……」
そうか、と濁す、単純に容姿のことではないのはもちろんだ、だがだからこそややこしい。
「直接会って話してみるまで、先入観は捨てた方がよさそうだな」
「そうですね、そうしてもらえると助かります、ああ、そうだ」
「ん?」
ホリィはぱんっと手を打ち合わせた。
「今度、ホームパーティーを開きたいと思っていたんです、身近な者で、その時ぜひいらしてください」
ゲンタは激しく動揺した。
「わ、わたしがか?」
「はい、ぜひ、マユミさんもご一緒に」
行きたくない、とは言えずに、ごにょごにょと答える。
「そ、そう、させてもらうよ」
「はい」
にこにこと。
その笑顔に、ゲンタはおや?、と首を傾げた。
緊張から作り笑いになった……、とは思えない、だが、これまでに見た笑みとは違う感じがする、堅かった。
(なんだ?)
しかしゲンタには分かるはずも無いことであった。
まさかそれが、噂の『マユミ』見たさから思い付いたことであって……
それを気付かれないようにするために、護魔化したのだと、そんなことであったなどとは。
──その頃。
いつもならホリィの周辺をちょろちょろとしているアスカは、何故だか街の外れに居た。
「ふぅ」
ジョギング用のスウェット姿だ、背負っていた鞄からタオルを出し、顔を拭う。
「ん?」
ここまで来ると周りは田園に近くなる、たまには長距離を走ってみようと朝早くに出た甲斐があった、それくらいに空気は『緑』を含んでいて青臭く、すうっとする。
そんな景色を台無しにする奴が、重い荷物を背負ってのっしのっしと無人駅から歩き出て来た。
「相田?」
──相田ケンスケ。
それは逃避行中であるはずの、行く先の知れない彼であった。
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。