──2017、『真なる世界』
 空は青く澄み渡り、海は白くうねっていた。
 神の死骸が流す血は滾々こんこんと尽きることなく染み出している、それでもこの広大な海を染め切るにはあまりに足りない。
 潮の満ち引きによって撹拌かくはんされ、流れによって薄まり、時には外洋へと流れていって、奇麗な浜辺を与えてくれる。
 今日はそんな、とても清々しい陽気な日だった、風も心地好く髪を梳き、泳がせてくれる。
「ん?」
 青いキャミソール姿で、アスカは軽く振り返った。
 その右腕と左目には、痛々しく包帯が巻かれたままになっている。
 後ろにはシンジが従っていた、半袖のシャツに、ショートパンツ姿、素足に砂が心地好い。
 砂浜だ、時折乗り手を失った車が頓挫、あるいは船が座礁しているが、空しさよりは冒険心を刺激してくれる光景だった。
 アスカの顔にはただ穏やかさだけが溢れていた、憂いも悲しみも後悔も、微塵たりとも残されておらず、ただ『今』だけを感受していた。
 対して、シンジの顔には微笑みも喜びも嬉しさも何も無かった。
 ただ『今』を受け流しているだけだった。
 シンジが何か言った、そう思ったので振り返ったのだが、シンジこそ不思議そうにしたので苦笑し、アスカは再び前を向いた。
 傷ついた右手を使って髪を撫で付ける。
 その背後、沖には白いエヴァらしきものが、両腕を広げて突き立っていた、顔が無い、潰れていた。
「本当に……、虫一匹いないのね」
 あれから一年が経ち、彼女はとても大人びた。
 髪も腰よりも長く伸びている。
 すらりとしていた手足は、胸とお尻の膨らみによってさらに長く見えるようだった。
 まるで『変わらない』シンジとは対照的だ。
 並んで立ち、シンジはぼんやりとした目で地平を眺めた。
「……僕達だけか」
「アダムとイヴ?」
「まさか……、僕はともかく、アスカはイヴになってくれないでしょ?」
 ぷっとふくれる。
「なによそれぇ?、どういう意味?」
「さあ?」
 苦笑して言う。
「ねぇ?、もし僕達だけで……、後に人を残せるなら」
「?」
「……言葉って、どうなるのかな?」
 アスカはその突飛な発想に、「は?」っと目を点にした。
「なにそれ?、どういう意味?」
「だからさ……」
 苦笑だとしても、人らしい感情は久しぶりのものである。
「だって世界に僕達しか居ないのなら、ドイツ語と……、英語と、日本語?、三つだけでしょ?、残せるのって」
 ああ、とアスカは納得した。
「アンタばかぁ?、その選択肢で残せるのって、日本語だけじゃない」
「どうして?」
「あたしはともかく、アンタには話せないでしょ?」
 どうかな?、とシンジは言った。
「この頃……、僕が僕でなくなってく気がするんだ、アスカにもわかってるんじゃない?」
 肩を寄せ合い、素肌の二の腕を触れさせた。
「そうね」
 寄り添い、認める。
 過去の遺恨、その元凶であったものが無い今となっては、喧嘩をしても空しいだけだ。
 その開き直りが仲良くさせる。
「……シンジにしては、結構気が利くようになったんじゃない?」
 冗談を言う彼女に微笑する。
「知りもしない事が頭の中に浮かんで来るんだ……、ついでにね、『あの時』きっとああしなかったからまずかったんだなってことも……、分かるんだ、でもおかしいよね?、その『あの時』が『どの時』を指すのかわからないんだ、経験した事も無い記憶が思い出せるんだよ、知らない人の顔も浮かんで来るんだ」
「そ」
 アスカは軽く預けていた体重を一旦手に戻すと、腕を組むようにして手を握ってやった。
 シンジの肩に頭を預ける。
「大丈夫よ……」
「……」
「あたしが引っ張ってる、シンジはここに居るシンジ、そうでしょう?」
 独白する。
「時々思うの、馬の合う相手っているでしょう?、あたし達はそうじゃなかった、けど『反り』は合ってた、相手に合わせる事が難しくなっていって……、家の木って言うのは気温の変化で反り返るけど、でも限界を越えないで季節を越えて元に戻るわ、……あたし達はその限界を越えて倒れてしまった……、もし……、もしもよ?、もしもう少しだけのんびりと『あの季節』を過ごさせてもらえてたなら」
「僕達はずれる事も無く、もう少しだけ仲良くやれた?」
 アスカは小さく頷いた。
「だから今はこうするのよ……、苦しかった分だけ、今は穏やかにするべきだから」
 シンジは空を見上げて悲観的な感想を述べた。
「でもその理屈だと……、またあの痛いだけの時間に戻される事になるよね?」
「それでもまたこうして『歩み寄れる』って信じてる」
 ぎゅっと握った。
「人って言うのはね?、きっと喧嘩してお互いを削り合って馬が合って行くものなのよ、そうでしょう?、アタシ達は気が合わないわけじゃないわ、足りない物は多かったけどね?」
 シンジは首を傾げてアスカを見た。
「足りない物って、なに?」
「色々よ」
 余っている手で髪を梳く。
「例えばあんたに足りない物をアタシは加持さんやヒカリに求めてた、あんたはあんたで、レイやミサトに欲しがってたんじゃない?」
「……うん」
「でもそれが崩れたから」
「僕達は……、ああなって行くしか無かった?」
 そうよ、と頷く。
「結局……、子供だったのね、人に甘えなきゃ何も補えなかった、自分で『補完』することができなかった」
「補完、か……」
 シンジは天を振り仰いだ。
「そうだね……、僕は人と傷つけ合ってでも、自分を癒す物は自分で選んで触れたいって、そう思ったから」
「あたしには……、正直まだ分かんないわ」
 真実、アスカは自身で望んでここに居る訳では無かった。
 エントリープラグ。
 かつて南極を漂流した葛城ミサトが、そのプロトタイプのおかげでアンチATフィールドから逃れえたように、擬似的なガフの部屋となるこの『容器』によって、彼女は『解放』を受けてあの世界に溶け合わさることなく、この星へと回帰していた。
 目も、腕も、傷など本当は無いのだ、シンジがエヴァに取り込まれた時、自身のイメージによってプラグスーツを作り出していたように、アスカもまた自分のイメージによって傷を再現してしまっているだけなのだから。
『心因性』の『外傷』なのである。
「分かる日が……、来るのかな」
 寂しげな声音に、シンジの『気持ち』が重ねられた。
「それまでの間……、きっとまた我が侭を言ったり、逆上したりするんだろうね、アスカは」
「なによそれ」
 くすりと笑って。
「あんたが馬鹿なこと言って怒らさなきゃ良いんでしょうが」
「僕はそういうのが嬉しいんだよ」
 さ、行こう?、と今度はシンジが手を引いて歩き出した。
「アスカがアスカっぽい方が安心出来るんだ、変かな?」
 アスカそれに従って、さくっと砂を踏みしめる。
 ──何処へ向かっている訳でも無い。
 砂浜には延々と、彼らの歩いて来た軌跡が遠方にまで残されていた。


NeonGenesisEvangelion act.45 『変調:pro・logue −外典 第三章 第五節−』


 アスカは佇むようにして考えにふけり込んでしまっていた。
 ──あの記憶ももう今は遠い昔だ。
 大人になるに連れて性欲を覚えなかった訳ではないし、シンジを意識しないでも無かった、それでも最後まで何もせずに終わってしまったのは、それだけ子供だったからだと今では思う。
 ──恥ずかしかった。
 口にするのが。
 言い出すのが。
 だから認められず、無意識の内に圧殺してしまっていた。
 その感情を。
 その苛立ちから当たった事もあった、時間を無為に過ごしたこともあった、手を繋ぎ、腕を組み、寄り添って眠り、ふてくされ、叩いて、別の場所で寝た事もあった。
 暖を取る以上のことをせぬままに、いつかのように上手く感情を表現出来ず、苛立って、喧嘩して、仲直りして、そんなことを繰り返して……
「あたし……、行くわ」
 互いの関係に飽き飽きしていた。
 二人きりだからと言って、二人で居なければならないことは無いのだ。
 この広い世界で離れ離れになったなら、また逢う確率なんてエヴァの起動確率よりも低いであろう。
 しかしそれでも不思議と未練は感じなかった。
 逢おうと思えば呼べば良い。
 いつでも飛んで来るだろう。
 シンジがそれ程までの力を手に入れているのは知っていた。
 だから特に大したこととは思わなかった。
 気分転換程度の発想だったと言えば、そうになる。
 だのに……
『ねぇ……、アスカの首を締めた時のこと、覚えてる?』
 その後の、キス。
 あの時のキスだけが特別だった。
 ──愛し合う。
 気遣い合う、慰め合う、相手を思う。
 キスとはそういう、言葉に出来ない万感を伝えるために、思い込めてするものなのだと気がついたのは、『こちら』の世界に『再誕』してからのことだったのだが……
「さっきのシンジ……、が、あたしの『好き』なシンジなら……」
 アスカは自分が何か、大きな勘違いをしてしまっていたのではないかと考えた。
 二つの円環を用意し、その二つを平行に並べた無数の糸で繋いだとしよう。
 円環は過去と、未来だ。
 縦に並んだ糸は平行世界を表現しているのだが、もし円環を右と左、反対方向へと捻りを入れたならばどうなるだろうか?
 糸は奇妙に捻じれながらも、模様を描いて寄り集まるように交差する。
 中心点がシンジが起こしてくれた『フォースインパクト』であるのなら、その上下に広がる模様こそが『筋道』だ、そこに至るまでの、そしてそこから流れていく。
 過去も未来も出来事が複雑に交差している、そしてどの道を通ってもあの日へと辿り着く仕組みとなっている。
 自分はその中から自分が生きた世界と酷く似ている流れの中に放り込まれている、そうなるように誘導してくれているのはシンジのはずなのだ、ならば……
 ──ゾッとした。
 自分が自分の知っているシンジだと思って『膜』を破らせた碇シンジは、実は同じ顔をした同じ名前の全くの赤の他人なのかもしれないのだ。
 そして『あの』シンジは、未だあの世界において神様をやっているのかもしれない、そして自分達を眺めて時を過ごしているのかも知れないのだ。
 ──寒気がする。
 そうなのだ、道が増えたのならば神様となる可能性を持ったシンジもその分だけ増えた事になる、ならば一体どれだけの種類のシンジが生まれ居出てしまったのだろうか?
 考えれば考えるほどに頭が痛くなって来る。
 この世界のことを割り切るにしても苦労したのだ、元々自分が住んでいた世界と酷似している以上、先の出来事に関してはある程度予想が付けられる。
 母を救う事も出来ただろう、父との関係を手助けしてやる事も出来ただろう。
 だが、母の腹を借りて生まれ出たとはいえ、やはり自分の本当の意味での母ではないのだ、他人、その感覚がアスカにはあった。
 幼児でありながら十五、六、いや、もっと高い精神年齢と学力を持ちえてしまっていることに気付かれたなら、父と母は一体自分をどう扱うだろうか?
 そのリスクを負ってまで積極的に関ろうとは思えなかった。
 そういう自分は冷たいのかもしれない、それでもだ。
「あたしにとって……、今じゃシンジやレイの方が心地好いのよね……」
 かつて母や、父や、加持や、ミサトや、その他の誰もがそうだった。
 気になるのならば、解明すれば良い、その結果、相手の心を傷つける事もあるだろうに、考えない、真剣には想わず、後ろめたさで言いごまかす。
 ──それが無いのだ。
 シンジ達は気になっても、まあ良いけどね、と流してくれる、そんな余裕を持って接してくれている。
 だから居心地が良過ぎるのだ。
「ま、良いわ」
 アスカは気持ちを切り替えた。
 あたかも彼らがしてくれるように。
「そうよね……、今は今、迎えに来た時、あいつは言ってたもんね」
『だって、僕を見てくれないんだもん、やっぱりかまってくれないんだなって思ったら、憎くってさ』
「疑ってたらきりないし」
 それに、と。
「今のシンジ、気に入ってるしね」
 アスカは、さぁてと、と、のびをして……
 ──無意識の内だった。
 半歩……、本当に半歩だけ、アスカは歩き下がっていた。


 ──ドン!
 アスカが立っていたポイントを、飛びかかって来た何かの拳が正確に掘り抜いた。
 土煙が上る、跳ねた土に目をやられそうになって、アスカは反射的に片目をつむった。
「なに?」
 ──ましら
 そんな言葉が脳裏を過ったが、イメージとしては『エヴァ3号機』を思い出してしまっていた。
「鬼!?」
 はっとする、もう一匹居た、脇から狙って来る。
「くっ!」
 しゃがんで剛腕を避けると先の鬼の腕が下から跳ね上がって来た。
 それを後ろに転んで一回転し、回避して見せる。
「この!」
 銃撃、パパパパパン!、獣であればあるほどこの臭気には堪えられないはず……、なのだが二匹の鬼は腕で防ぎ気にした様子もなく身を屈めた。
 ──来る!
 殺気、そう、殺気だ、加持さんが?、そんな考えも過ったが無視をした。
 これが加持の仕向けたものなら、先程までの連中はどうなってしまう?
 無線での加持の言葉に明らかに動揺し、ある意味戸惑いの中で本気を出し切れずに沈黙していってくれた。
 護衛と監視の対象であるチルドレンに発砲せよと言う命令、この相反する指示に対して、彼らは優先順位を付けられなかった。
 それがあったから、アスカは自分が勝てたのだと分かっていた、女の方は挑発が効き過ぎただけで、殺意とは違う、怒気をぶつけられただけだった。
 ──だが、『こいつ』は違う、本気で殺しに掛かって来ている。
「このっ!」
 だから敵だ、アスカは意識を切り替えた、片目が紅に染まり、腕にまっすぐな痣が浮かび上がる。
 ──ソンザイを、ユルサナイ。
 振り回した腕が鬼の生きようを否定した、アスカの為に作られた世界でアスカの許可なく存在することは不可能なのだ、鬼は原子崩壊を起こして塵と化す、そして。
「そこ!」
 アスカの赤い目が『己の世界』をねじ曲げ汚している存在を明確に捉えた、ガン!、発砲、しかし弾丸は金色の光によって弾かれた。
「ATフィールド!?」
 違う。
 喝ッ!、と聞こえた。
『気合い』だ。
 信じ難い事に。
「嘘でしょう!?」
 そこに居たのは袈裟掛けの坊主であった、傘を被っているために顔は見えないが男のようだ。
 彼は懐に手を入れると、紙束を抜き出してそれをばら撒いた。
 ──宙で紙は捩れ、捻じれて、小さな鬼へと変貌した。
(なんだっけなんだっけなんだっけ!?)
 アスカは銃を構えて焦った。
「『シキ』!」
 跳ねている最中でも小鬼達は互いを蹴り合って軌道を変えた、ばら撒いた弾が全て避けられる。
「くっ!」
 アブナイ、肉薄して来る敵に対して意識が発動を促した、だがそれさえも間に合わない。
 絶体絶命。
 ──ヒュ!
 アスカの顔の両側を抜いて、『クナイ』が飛んだ、正確にまず最初の小鬼の眉間を貫く、遅れて放たれた十数のクナイもまた、同じく小鬼を迎撃した。
 ギキィ!、奇妙な悲鳴を上げて小鬼は『フダ』へと戻り……、あろうことかクナイが刺さったままで、ハンカチか何かが揺れて落ちるようにゆっくりと地面の上に落ち燃え消えた、重力を言うものを完全に無視していた。
 ──炎の色は、青だった。


 ──真っ暗な室内。
 リビングにあるテーブルに、女の子が一人で突っ伏していた。
 ──レイである。
 まるでこたつで温もっているような格好だ。
 うにうにと時折思い出したように動いている。
 くう、っと鳴った。
「お腹……、空いた」
 がちゃっと聞こえた音に耳が動いた。
 それはぴくりとだ。
「ただいまぁって……、まだ誰も帰って来てない、あれ?」
 帰って来たのはシンジのようだ。
「なんだ、綾波、居たの?」
 あまりにも酷い言い草だった。
 電気を点ける。
「真っ暗だからまだホーリィ、帰ってないんだって思ったのに」
 ちえっとのシンジに、レイはぷうと頬を膨らませた。
 もちろん、拗ねたからである。
「どうしたの?」
「なんでもない」
 ぷいっとそっぽを向いて、また頬を台に落とした。
「冗談だってば……、怒らないでよ」
「知らない」
「もう……」
 シンジは苦笑しながらもにやけると言う器用な表情をした。
「すぐご飯にするからさ、けど……」
 気になる間を取る。
「誰も帰ってないなら、綾波も帰ってないと思ったんだけどな」
 僅かにこわばりを見せるレイの背中。
「もう……、一人で居ても大丈夫なの?」
 レイはぎくりとなって体を起こした。
「気付いていたの?」
「そりゃね」
 堅い声にくすくすと笑う。
「だってさ……、僕達が寝てる間って、綾波、ずっと起きてたでしょ?、その分、学校とか誰かが起きてる所で眠ってたからさ……、ずっと眠そうにしてるんだもん、眠ればいいのに、そうできない理由が何かあるんだろうなって、ずっと考えてたから」
 そう、とこぼすレイに、シンジは訊ねた。
「で、何があったの?」
 レイは迷うような挙動を見せたが、結局は先日の会話の内容をそのままに話した。
 ──レイはゲンドウと決別したあの時から、さあいつ来るのかとばかりに警戒し続けていたのだ。
 彼女も多少はATフィールドを扱える、しかしそれはカヲルのような物理的障壁としてでは無くて、他人に干渉できる程度のものでしかなかった。
 ATフィールドとは殻の別称である、生命が自ら形作っている姿そのもののことだ、レイはこの存在場を淡くする事で、形状そのものを崩壊させしまう能力を扱えた。
 ガフの部屋と呼ばれる人の持つ存在場、『器』を解放する事で、生き物を崩壊へと導くのである。
 ゲンドウの右手を潰したのもこの力であった、が、それは身を護る術とは成りえないのだ。
 ゲンドウが強攻策に出て来た時、彼女には身を護る術などなにも無かった、だからシンジとベッドを共にしていたのだ、そこが一番安心出来る場所だから。
 それはシンジを頼っているのではなく、もう一人のレイやカヲル、そして機械的な物までを含めた、シンジを守るための『結界』の恩恵にあやかろうとしての行動であった。
 シンジに対しては何者も危害を加えられぬように、厳重過ぎる防衛網が敷かれている。
 つまりシンジの傍に居ることは、その膨大な防御網の中心に近いと言うことなのだ、これほど安全な場所はない。
 だがそこから一歩たりとも外に出てしまえば、常に緊張の連続となる。
 最近の大人しさ、あるいは眠そうにしている姿の原因は全てそこにあった、気が抜けなくて、精神的にまいっていたのだ。
 だがゲンドウとの『確執』が『共闘』の形に落ち着いた現在、レイには気張る理由が無くなっていた。
「父さんが、そんなことをね……」
 シンジは嬉しげに口元をほころばせた。
「ええ」
 先日、シンジは山岸マユミに語っている。
 ──『前』と、『今』は似ているだけの違う世界である、と。
 それはそうだろう、『碇シンジ』はアスカが好きな世界を望めるように、無数の世界を創造し、派生させた。
 しかし現在を作れば、そこに至る道、すなわち『過去』が無数に創造されてしまう、フォースインパクトが起きる、それだけが確定された事象ならば、そこに至るまでの過程など、無数に『計算式』が立てられる。
 そして過去はまた無限の『可能性』を現出させる、『未来』である。
 そうして枝分かれした未来は、またもその未来へと行き着ける過去からの筋道を……
 こうして無数に在る世界は、現在も過去も未来も同時に生まれた。
 この世界は『あの世界』に似た筋道を辿っているだけの世界でしかない、いくら似ているとはいえ、碇ゲンドウも『あそこ』に居た男と同じ人物というわけではないのだ。
『あの男』ならば、あのように素直に認め、前進する事などできなかったはずなのだ、なにせ少しでも振り返り、省みてしまえば恐怖心から立ちすくんでしまうことになると、自らを恐怖で縛って、盲進し続けたのが、『あの男』だったはずなのだから。
 ──色眼鏡を掛けて見てはいけないのだ。
 そんな当たり前の理屈に気がついた時、レイはゲンドウを見直していた。
 ──敵として。
 それと同時に、『自分』の知る男とは別人であると言う認識が、レイの中に申し訳なさを生んでいた。
 ここまで毛嫌いすることは無かったかもしれないと、少なくとも『前』の分まで付け足して痛めつけることはなかったはずなのだから。
 ……かと言って、『こちら』の自分に科せられた生き方を鑑みるに、情状酌量を与える余地もまたないのだが。
「父さんは、さ……」
「?」
「きっと……、そんなに心の狭い人じゃないんだよね」
 レイは唐突に何を言うのかと小首を傾げた。
「簡単なことだよ……、綾波は、人間じゃない」
 腕を組んで、シンジは柱にもたれかかった。
「でも僕が人を殺す所を見ても人間じゃないってみんな言うんだよね」
「それは……」
「根底では、同じことだよ」
 肩をすくめる、冗談っぽく。
「人は生まれで存在を差別する生き物なんだよね……、例えば殺人犯に強姦された女の子から産まれた子供はどう見られる?、未成年の親を持った子供は?、正解は同じだよ、『白い目』で見られるんだ」
 前を向いたのは、目を見て話すのが辛いからかも知れない。
「程度の差でしかないんだけどね……、同じヒト目、ヒト科、ヒト属の中でもそんな風に敬遠するでしょ?、あるいは認めようと努力する」
 レイは胸に痛みを覚えた。
「人は本心で毛嫌いしていながらも理性で取り繕える生き物なんだよね……、生理的な嫌悪感を封じ込めて、差別しないようにって努力出来る生き物なんだ、けどそれって相手が『同等』、『同格』でないって認識しているからこそ、そうしようと思うことだよね?、つまり偽善ってことさ、悪いことじゃないよ?、本音を良しとしてイジメを広げるよりはよっぽどいいよ……」
 シンジは自分の言葉が錯綜しているなと感じて仕切り直した。
「何が言いたいかって言うとさ……、そんな人の中にも、まれに『それがどうした?』って言える人が居るんだってことが言いたいんだよ、それはね、きっと同じ傷を負わされている人間なんだ、あるいはもっと酷い立場を背負わされている存在かな?」
「そう……」
「うん……、人間って言うのは不思議だよね?、それまでは拗ねていられたのに、目の前に自分よりももっと酷い立場の人が現れると、恥ずかしくなって何も言えなくなってしまうんだ」
「……それは、碇君のこと?」
「僕はまた別だけどね」
 苦笑する。
「一般論だよ、人はもっと辛い人間を前にして、それでも情けなく弱音を吐けるほど恥知らずな生き物じゃないんだ、そこまで堕ちるのは難しいんだね」
「……」
「……程度の差っていうのはそういうことなんだよ、綾波はヒト科としては外れていても、ヒト属としては規格外れなだけで枠内に居る、それは僕も同じだろう?」
「かもしれない」
「なのに……、僕達は人間じゃない?」
「それは……」
「定義なんて無意味なんだよ、普通の人達は……、僕達を人としては認められない、それは生まれで差別するのと同じなんだよ、僕はあの父さんの子供だって事で差別された、レイ、カヲル君、綾波、みんな生まれ方や持っている『性能』が違うって事で差別される、でも『人間』なんだよ」
 シンジの目が強い光を放ち始める。
「この世界に広く『分布』してる『ヒト科』の生き物は僕達を魔物のように感じるだろうね、けど間違いなく僕達は人間なんだ、この差別意識は人間が作り上げて来た理性や道徳心が崩されない限り無くなりはしない……、例えばホーリィのように、価値観や観念が根底からくつがえされない限りはね」
 そこにある事を許容してやろうとする考えが、既に差別であるのだから。
「……だから、壊すの?」
「壊そうとしてるのはみんなだよ」
 肩をすくめる。
「その中にあってさ……、父さんと綾波は間にあった互いに対する認識がずれてたってことなんじゃないのかな?、綾波は父さんに支配されているように感じてたみたいだけど、父さんにはそのつもりはなかったんだよ、人間は自分以上の存在を前にした時、どう振る舞うかなんて決まってる、恐怖心を抱かずにすむよう支配下に置くか、破壊するか……、けど父さんはそのどちらでもなく受け入れてみせた、許容する度量をみせた、……でもそれは不思議でも何でも無いんだよね、さっきも言ったけど、傷ついた人間は『人外』とされるものに対してとても寛容になれるんだ、……父さんも随分と苦労したらしいや」
 そう言って笑った。
「程度の差っていうのは残るけど、綾波の根底にある恐怖心に似た諦めの感情って言うのを、きっと父さんも持ってるんだよ……、だから『自分がされて嫌だったこと』を綾波にやってしまうような『恥知らず』にはなりたくなかったんじゃないのかな?、それじゃあ自分が毛嫌いしていた人間の仲間入りをする事になっちゃうから」
 レイは何も答えなかった。
「そんな父さんにとっては……、綾波が自分でどう振る舞うかを決めたからって、何も言うことは無いんだろうね、『そうか』で済ませる以外に言葉なんて見つからないのさ、きっとね」


「へ?」
 アスカは自分が囲まれている事に気がついた、八人で陣を作り上げてくれていた。
「な、なんなのよ、あんたたち……」
 全員が黒装束だった、それも……、忍者風の。
 先に動いたのは坊主であった、それに合わせて先頭の男が背の大太刀に手を掛ける。
 カチリ、やいばが鞘から抜き出されていく、そのは『紫』に揺らめいているのが見て取れた、異常な妖気を発している、アスカは産毛が総毛立つのを感じた。
 ガァ!、坊主の放った札は二メートルはある大猿へと化けた、木々をなぎ倒し、転がるように下りて来る。
 ザン!、一瞬の交差だった、すれ違った時には太刀は大上段から振り抜かれていた、猿は右の頚動脈から心臓へと至る筋に沿って血を噴き出していた。
 倒れ込んでいく、ズズゥンと大きな震動が起こるかと思えば、猿はまたも紙に戻って青白く燃え、消失した。
 呆然とするアスカを置いて、周囲を囲っていた七人が動いた、一斉に坊主へと跳びかかっていく、背の剣を抜いて。
 刃を斬り付ける、坊主は千切れた、それもまた『札』だったのだ。
 バン!、無数の札へと破裂する、札はさらに鬼へと化けた、拳大の鬼だった、数は百を越えるだろう。
「ふっ!」
 男が不思議な剣を横にして手を添え、突き出すと、鬼達はびくりと反応して遁走に掛かった、それを追って謎の一団も闇へと消える。
「え?」
 そして後には、呆然としたアスカだけがとり残された。


 ──ザッ!
 薮を掻き分けて男達は走る、それは模擬戦場の混乱の最中さなかで完璧に潜み切っていたにしては、非常にお粗末な移動であった。
 それだけ相手を追うのに必死なのだろう。
 雰囲気からそれを察することは出来ない、あくまで目的の遂行のみを重視して、淡々と行動に出ている、そんな空気を発散している。
 彼らの前には何もない、敵もいない、だが気配はあった、先に符を用い、式を使った時に発散されていた邪気である、と。
 ──ガオン!
 銃声に男達は気勢を削がれた、そのために邪気の主を見失ってしまった、気配を断たれてしまったのだ。
 こうなるともう見付けられない、一同は一斉に銃の主へとクナイを放った。
 カカカカカッ!、木に刺さる音がした、シュボッ、ややあってそんな音がした。
 明かりが灯された、ぼんやりとオレンジ色の火が一本の煙草を浮かび上がらせる。
「……加持、リョウジ」
 木にもたれかかったままで、ふうと紫煙を吐いたのは加持であった。
 男は後の七人に、頷き一つで指示を下した。
 散るように消える。
「何故ここに居る?」
「おいおい、それはこっちの台詞だろう?」
 残った大太刀の男の質問に、加持は苛付くほどにやにやとした口調で答えた。
「今はまだ行動の時じゃない、それが口癖だったんじゃないのか?、加賀」
 男は般若の面に手をかけると、もったいぶったように半分だけずらした。
 皺が多いが、若いようだ。
「ならばその時が来た、それだけのことだ」
 吐き捨てるように言う。
「理解っているのか?、今チルドレンを他に渡す訳には行かん」
「分かっているさ」
「ならどうして見過ごした、あの子は死ぬところだったぞ」
 決して昂ぶりを感じさせない声音だった。
 それでも酷い剣幕をしているのだと感じで分かる。
 加持ははぐらかすように煙を吹いた、空へと向かって、仰向いて。
「ふぅ……、あのくらいで参るようなお姫様じゃないさ」
 ふんっと加賀と言う男はあざ笑った。
「エヴァを動かすためにこそチルドレンの存在理由はある……、子供に何を期待している?」
 今度は加持が笑う番だった。
「期待しているのはそっちだろう?、内閣調査室長、加賀コウジさん?」
 揶揄する言葉に目を細める。
 ──内閣調査室、それは内務省調査部に職を奪われた、超が付くほどの閑職であった。
 内閣調査室は他国で言うスパイのような組織では無い、主に内閣の重要政策に関する情報の収集、分析、その他の調査を行う、言ってしまえばただの便利屋に近い性質のものであった。
 淡い定義によって都合の良い自由度を持たされてはいたが、それは規制を無くす事で非合法な仕事を負わせるための物ではなくて、便利屋のごとく後始末をさせるためのものであった。
 そして、だからこそセカンドインパクト以降の世界では全く通用せずに、消えていこうとしている組織となってしまっていた。
 国家間の関係に亀裂が入り、紛争が当たり前となった世界では外交などなんの意味も持たなくなってしまっている、そうなれば情報を如何にして手に入れるかがポイントとなる。
 この流れからも、非合法な活動も許容される、内務省調査部のような組織が無くてはならないものとして想像された。
 諜報活動を行わない健全さなどは、混乱した世界の中ではただの幻想でしかない、甘過ぎる正論は相手に聞く余裕があって初めて通じるのである、死に物狂いになっている餓死寸前の国家に対して、話し合いましょうと口にしたところで聞いてもらえるはずが無い。
 銃弾と砲弾で応答されるだけである。
 外交以外の手段による他国の情勢を報告する組織が必要になってしまったのは必然だろう。
 こうしてほとんど審議される事も無く、内務省調査部は国府の再建に伴う省庁再編のどさくさに紛れて新設され、内閣調査室はその煽りを食らって組織解体へと追い込まれようとしていた。
「組織の延命を計ろうとするのは勝手だが、それにしたって」
 加持は男の格好を見て苦笑した。
「忍者、か……」
 対して、加賀は憤慨する。
「お前の様な男を飼っている組織など信用できん」
「そうか?」
「スパイを手段とする者はその薄汚いやり口を有効な手段として肯定する、しかし汚いものは汚い、さらには互いにスパイを送り合う事で情報を交換し、『冷戦』を作り上げるなど腐ってる、内務省の所属でありながらネルフに入っているお前の様な存在など!」
「そうかもな」
 加持は己の有り様を肯定した。
「だけどそれを言うなら、自分のやってることを考えろよ」
 ぴんっと短くなった煙草を弾き捨てる。
「言い訳を聞こうか?」
 さらに余り友好的ではない態度に出た、男は反発する。
「……理解っているはずだ、チルドレンの重要度は今だ正確に認識されていないと言う事を」
「……」
「使徒は第二のセカンドインパクトを起こす存在であり、それを倒すためにエヴァが用意された、そしてエヴァでなければ使徒は倒せず、そのエヴァはチルドレンでなくては動かない……、そんな宣伝があるか?、それこそチルドレンに興味を持ってくれと言っているようなものだ」
「だから手を出しあぐねていたか?」
「渡すわけにはいかないと言っているんだ!」
 わざと間違えた加持の言葉に乗ってしまう。
「建前なのか真実なのか!、強大化するネルフはどの国家、組織にとっても驚異だろうっ、チルドレンに替えが利くのならともかく、そうでないのなら失わせるわけにはいかない!」
「だから、か」
 二本目に火を点けて苦笑する。
「もし本当にエヴァでなくては使徒は倒せず、その上チルドレンの選考基準が思っている以上に難しい物であったなら、チルドレンは軽々しく失ってはならないものだってことになる」
「そうだ、そのリスクを考えれば、『今』は誰にも手を出させるべきではない、世界が本当に滅んでしまっては元も子もない」
 では、と……
「その見極めが付いたなら、『奪う』気か?」
 冷えた声に加賀はたじろいだ。
「なにを……」
「下手に交換に出したり、捨てたり、本当の価値を知らない人間は何をするか分からない、恐い、だからネルフに囲わせておく?、しかしなぁ加賀……、だからこそ使徒とエヴァ、チルドレンの情報は、外に流すべきじゃないのか?、どうだ?」
 不信感というよりも、反発を交えて口にした。
「……誰がその内容を信じる」
「とりあえずは、加賀さん、あんただよ」
「なに?」
 当惑する加賀に、加持は強く畳み掛けた。
「違うか?、お前の言葉ならみな信じるさ、そうすればあの子達の安全は謀れる、違うか?」
「俺が協力するいわれはない!」
「本当にそうか?」
 にやにやとして。
「さっきのあれ……、おかしいとは思わなかったのか?」
 加賀は剣に手をかけた。
「……見ていたのか?」
「おいおい……、怒るところが違うだろう?」
 一々相手の神経に触る物言いをする。
「坊主の格好をして陰陽師の真似事をする……、おかしいとは思わなかったのか?」
「……なんだと?」
「坊主が札を使って鬼を召喚するか?、正体が札使いなら、何故あんなちぐはぐな変装をした?」
「まさか」
 加賀は震えた、恥辱にだ。
「冗談で変装のアドバイスをしたんだがな……」
 ぷーーーーっと吹き出した加持にキレる。
「お前!、チルドレンを何だと思って!」
「表立って情報を渡す事が出来ないからこそ、ネルフは俺みたいなのを懐に入れてくれているのさ、バレてるんだよ、とっくにな?」
 ここにも汚れた制度がまた一つである。
「俺だけじゃない、同じように『余所』も探りを入れてきている、あいつもその内の一人さ、殺気を放っているからと言って本気で殺そうとしているかどうかは別なんだぞ?、それくらいは見極められないと、いつまでたってもそのままだぞ?、加賀」
 加賀はぐっと歯を食いしばった、実にその通りであったからだ。
 先の者は模擬戦程度では力が測れぬと、もう一つ踏み込んだ接触を試みて来ただけだったのだろう、ならば姿を晒してしまった自分は、単なる馬鹿者と言う事になる。
「……」
 結局、言い返すことなく加賀は背を向け、姿を消した。
 やれやれと肩をすくめた加持が偶然目に留めたのは、やや先の薮に絡まって白目を剥いている、誰からも忘れ去られてしまった相田ケンスケと言う名の少年であった。



続く



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。