(あれは……、なんだったんだ?)
 川の泥に沈んでいく機体を見ながら、命からがら逃げ出したカンヂは繰り返し自問していた。
(見間違いか?、いや……、違う、絶対に)
 川岸に辿り着くと、すでにレイが上がっていた。
 気を失っているシンジの顔を頭で隠している、息を吹き込んでいるのだろう。
 ──チュン!
 水面に何かが跳ねた、とっさに伏せる。
 現地語の喚きが聞こえた。
「ちっ、もう来た?」
 レイの言葉にカンヂは喚く。
「ゲリラか!?」
「撃ち落としてくれた連中でしょうね、まったく」
 うざったく濡れた髪を掻き上げ、レイはシンジの肩をかつぎ上げた。
「ほら、会長さんも」
 伸ばされた手にカンヂは戸惑う。
「残る?、それとも一緒に行く?」
 その時のレイの表情をカンヂは忘れない。
 それは紛れも無く、悪魔が浮かべるものだったから。


NeonGenesisEvangelion act.49
『変調:pro・logue −外典 第四章 第四節−』


「静かに!」
 男は銃を向けたが、そんなもので子供達が静かになるはずが無い。
 ざわざわしながら、互いにどうなってるのかな?、と黙ろうとしない。
「め、MIBが追って来たっ、ぐは!」
「す、すんまへぇん、こいつイッてしもたみたいで」
 えへへと笑って、トウジは拳で気絶させたケンスケを座らせた。
 こういう所はやはり第三新東京市の住民なのかもしれない、緊張の極限のボーダーラインが、一般の基準からは遠いのだ。
 達観していると言ってもいい。
「どうなるんだろ?」
 ヒカリはねぇ?、っとシンジに振り掛けて、だめだと思った。
「落ちる落ちる落ちる落ちる落ちる」
 呪文のように繰り返している、膠着状態だ、崩すと危ない事になりかねない。
 そこではたと気がついた。
「行きは綾波さんが居たけど、帰りはどうやって乗せるの?」
 たらぁりと汗を流してしまう。
 この状況で帰りのことを心配しているのだからヒカリもアレだ。
 シンジ越しに窓の外を見ると下に島が見えた、沖縄の群島だ。
「あそこか……」
 ゴドルフィンは銃を突きつけられながら呟いた。
(米軍の基地に下りて、そのままチルドレンだけを乗せかえるつもりか)
 ちらりと目を横向けると、暴漢もまた基地を確認していた、一瞬の隙、ゴドルフィンの体は反射的に動いていた。
 銃を持っている手を右手で掴み、親指付け根のツボを押す、同時に手首を決めて回転させると、人一人が簡単に計器へと吹っ飛んだ、頭からめり込む。
 ──ガシャン!
「あ……」
 ゴドルフィンは自分で何をしてしまったのか?、一瞬把握出来なかったようだった。
「すまん、ついやってしまった」
 隙を見付けると自衛のために体が勝手に動いてしまう。
 しかしそれ以上に。
「通信機が壊れたか……、他にも壊れていないといいが」
 余りに緊張を抜きにしていた。


「これで全部だ」
 ハロルドはそうフェリスに説明した。
「ナオコさんの探知機にもひっかからないんだから、多分な」
「多分って?」
「ナオコさんの話だと、どうしても機器関係の電磁波の影響で探知出来ない隙間があるって話なんだな」
「頼りないのね」
「スイッチ持ってる奴を押えるのが先ってことさ、さ、後はそっちの仕事だ」
「そっちは?」
「逃げ支度」
「……」
 ぐっとつまったフェリスであった。


「ええいもう!、なぁにやってんのよぉ!」
 レイの目前では左の肩に角を突き刺されたガメラが甲羅から倒れていく所だった。
 そのまま土砂混じりに山肌を滑り落ちていく。
「むぅ、使徒モドキはともかく、やっぱ本物の使徒を相手させるには力足んなかったかな?」
 今更ながらに学習したようだ。
「なんだかんだ言ったってATフィールドの防御力は絶大だし、けどここまで形状進化するとはこっちも思って……、え?」
 ギャオオオオオンっとガメラが悲鳴を上げてのけぞった。
 突如使徒は幾つもあるムカデ状の脚の数本を鞭の様にしならせて使ったのだ、シュルリと伸びたそれは先端の尖った爪をガメラの甲羅と肉の繋ぎ目に突き立てた。
「ずっけー!」
 のけぞったガメラはそのまま倒れ込んで仰向けになり、斜面を滑り落ちていった。


 ──カンヂは確かに知っていた。
 チルドレンの実力と、驚異性を。
 しかしそれはシンジ達とは全く別の、しかし彼らに近い存在を介してのことであった。
「ようこそお越し下さいました」
 そう慇懃に礼をする『白』としか表現出来ない男に対し、カンヂは無視にも近い態度で窓の外を眺めていた。
 レンガ造りの古い家屋だが、それが昔の貴族の物なのは間違い無い、港の近くの屋敷である。
 ワインレッドのカーペット、木造の棚、机に置かれた金の彫刻品の数々。
 趣味は決して悪くは無いが、それでもカンヂは窓の外の光景に唾棄していた。
 ──北方艦隊である。
「わたしを呼んだのは、まさかあれの資金調達のためではないでしょうね」
 白の男は微笑で返した。
「あれはしゅの趣味のような物でありますから」
 どうぞ、とアールグレイのティーを置く。
 程よい湯気が香りを伴って誘っていた。
「それで、わたしに用というのは?」
「セカンドインパクト以降、我が『教団』は多くの人の手を借りて奉仕活動を行って参りました、しかし経済が復興されるに連れてその手は我々の元を離れ、独立を始めております」
「結構な事じゃないか」
「その通りです、ですが困るのは我々と未だ復興の目処さえ立たない諸国なのです」
 ご覧ください、とノートパソコンを開いて見せた。
「これは?」
「教団からの物資の輸送目録と、その受取先です」
「こんなに!?」
 諸国というにはあまりに多い、しかしカンヂはある共通点に気がついた。
「そうか、ネルフの……」
「はい、ネルフがらみの徴収と接収によって、貧困に喘いでいる国は多いのです、特に最近の使徒戦が始まってからはそれが加速しています」
「確かに……」
 壊れた第三新東京市だけでなく、国連が消費した弾薬などの資金もまたついでとばかりにかき集められている。
 もし教団からの『物資』と『医薬品』の提供が無ければ、十万単位の餓死者を生んでいる所だろう。
「しかし輸送を担当していた者達が自立を始めると、無料奉仕を続けることは不可能となります」
「輸送料が必要になる、ということか」
「はい……、そのためにご協力を願いたいのです」
「わたしに、なにを?」
 それは、と彼、エリュウは単刀直入に告げた。
「ポイントです」
「ポイント?」
「はい、奉仕活動……、いえ、ボランティア活動の支援の一環として、ボランティア活動者には最低限の生活が維持出来るだけのポイントを提供しては頂けませんでしょうか?」
「わたしのメリットは?」
「今後を入れての、経済活動の全面支持を」
「支持、か……」
 カンヂは唸ると窓の外を見た。
 北方艦隊に囲まれるようにして白い魚が浮いている、使徒ではない、先日レイ達の逃走時に邪魔をしに出て来た異相体だ、死んでいるのか動きが無い。
 そしてそのさらに向こうの沖合いには……、全身を炭化させた巨像がうなだれるようにして立ち尽くしていた。
 死んでいる、人のような形状をした何十メートルもある巨人。
 ──使徒。
 それは紛れも無く、第七使徒と呼ばれるはずであった使徒だった。


(あんなものが衝突し合う戦争で、絶対的な勝利をもたらすのがチルドレンか)
 骸が二つあっただけだ、しかも一方は遠目に見えるだけだった、しかし恐かったのはその沖合いで風と波にさらされている巨人であった、原形を想像出来ない死体の方が恐かったのだ。
 肌が粟立ち、寒気を感じた、本能的な恐怖とでも言うのだろうか?
 それは『あの時』、シンジの翼に対して感じた物と同じであったのだ。
 ──身のすくむような、畏怖。
「今更だが……、あの時君に話したことを覚えているか?」
 カンヂの言葉に、黒帽子の男はもちろんですよと慇懃に答えた。
「あの日のことは一つたりとも忘れておりません、何しろ拷問で失調してしまいそうになる意識を繋ぎ止めるために、繰り返し繰り返し、何度も何度も思い出していましたからね」
 結構、とカンヂは変質的な声音を唾棄した。
「ならば覚えているはずだ、僕はサラリーマンを嫌ってる、人の仕事に群がって適当に手を抜いて働いて、給料だけ貰って帰っていく、そのくせ働いている、頑張っていますとパフォーマンスして一人前を気取っている精神の惰弱さ、みっともなさ、君はいつまで組織とやらの手足となって動くつもりだ?」
「それは組織が無くなるまでですよ、会長様」
 礼をする。
「我が『チャイルドプレイ』は高品質な子供を常に必要としておりますので」
「異常者が」
「あなたにそれが言えるのですか?、自己保身のためならわたしを生贄にしたあなたに」
「言える」
 カンヂははっきりと言い切り、マユミははらはらとしながら見守った。


 ──ドシャン!
 ガメラを押し倒した使徒は、腹這いの体勢になって角のような突起物を正面に向けた。
 坂……、このサイズになると山の崖などただの坂だ、その勢いを足して突進し、使徒はガメラを突き刺そうとした。
 仰向けになって立ち上がれないガメラはもがいた末に、両手足を引っ込めた、シュボ!、青白い噴煙と炎を四肢の穴から噴き出して飛ぼうとする。
「まず!」
 レイは焦った、使徒が角から『怪光線』を放射したからだ、その直撃がガメラの飛翔を遅らせた。
 ──ギシャアアアアア!
 背の甲羅から腹の中心を通って向こう側へと角が突き抜けた、先程までより長くなっている、このために『成長』させたのだろう。
「死なせる訳には!」
 何をしようというのか?、レイは遥かな眼下に居る使徒に対して手刀を振り上げた、が。
「え!?」
 ガメラはそれでも懸命にジェット噴射を試みた、胸に突き出している使徒の角を掴んで、引きずるように跳び上がった。
「何する気?、まさか!」
 そのまさかだった、二、三百メートルも飛び上がると、そのまま山肌に激突、さらに斜面を削りつつ坂を登り……
 火口から、溶岩の中へと飛び込んだ。


「これではA−17も何も無いな」
「ああ」
「エヴァの準備を急がせろ!」
 そこへこの日、何度目かの緊急連絡が入れられる。
「自衛隊哨戒機より入電!、太平洋より第三新東京市へ向かう海棲生物を探知!」
「なんだと!?」
「これは……、パターン照会!、異相体です!」
 ザバァと水を滴らせて立ち上がる巨人は……
『第七使徒』、イスラフェル。
「……やれやれ、どうなっているんだか」
 ──3号機コクピット。
「まさか浅間山の使徒が彼ではないだろうし、なら彼は別の場所に出現して殲滅されたって事なのかな?」
 正解である。
 カヲルはMAGIから直接情報を貰って検討していた。
「能力は未知数、僕一人には辛いか……、向こうの使徒は場合によってはレイがなんとでもするだろうし、ここは」
『渚!』
 外部のマイクが拾った声に意識を向ける。
「やあ、惣流さん、プールはもう良いのかい?」
『アタシも出るから、アンタも来なさい!』
「わかったよ」
 ふうむとカヲルはお腹の上に手を合わせてリラックスした。
「アスカちゃんの『勘』が当たってしまったか……、まあ楽できるから良いけどね」
 そんな不埒な事を呟く。
 一歩遅れて、リツコからの命令が届いた。
『渚君』
「はい」
『あなたには紀伊半島方面より進攻して来る使徒の対処に当たってもらいます、これは異相体がATフィールドを展開出来ない事を考慮してのものです』
「ATフィールドを張れない僕でもなんとかなると?」
『その通りよ、それに弐号機のサポートを付けます』
「ATフィールドが僕を守ってくれる……、確かにATフィールドの有無は大きいようですからね」
 カヲルは指で画面の隅に映している使徒とガメラの死闘を差した。
『そういうことよ、先に対処出来る方を叩いて、それから難しい方に当たる、そういうこと』
「堅実ですね」
 ところで、とカヲルは訊ねた。
「ホリィさんはどうしました?」
『後ろに居るわ』
「どうして彼女が指揮を取らないんです?」
 あら?、と驚いた。
『知らなかったの?、彼女には管理者としての権限は与えられていても、戦闘指揮権は与えられていないのよ』
 もちろん知っていますけどね、とカヲルは毒づく、ホリィには要としての纏め役は担わせても、戦闘で好き勝手をさせないために命令権は与えなかったのだ。
(そんなやり方がいつまで続くか)
 カヲルはふっと左の人差し指と中指で眉を撫で、ニヒルに笑って楽しんだ。


「敵の総勢は七名、一人はコクピット、一人はファーストクラス、後は各座席の間にあるパーティションに陣取ってる」
 フェリスが耳に掛けた通信機に告げると、即座にコクピットから返答が来た。
『こちらはすでに片付けた』
「えっ、もう!?」
『ああ、もうすぐ着陸する、隙が出来るはずだ、そこを狙ってくれ』
「了解!、あ、でもミエルには?」
『言わなくて良い、やれるようならやるし、やれないようなら猫を被ったままで居るだろう』
 ふうんと面白くなさそうにフェリスは通信を切った、通信機からは目に棒が曲がって伸びている、ネルフ諜報部、第三課が使っていた物と同じものだ。
「兄さんやムサシも、同じくらい信用してくれたらいいのに……、ミエルが羨まし」
 このところフェリスはレイクのことを兄さんと他人行儀に呼ぶようになっていた、壁を作ろうとしているのだろう。
 もちろんその理由はムサシなのだが。
 機内アナウンスが掛かった。
『これより当機は着陸体勢に入ります、お客様は座席にてシートベルトを』
 ぷっとフェリスは吹き出した。
 それは下手な物真似でのゴドルフィンによる機長アナウンスであったから。


 ──ガメラと使徒との争いは佳境へと突入していた。
 真っ赤に染まる世界の中で、ガメラは使徒を突き飛ばした、泳ぎに適した形状をしていない使徒には、もがく以外のことは出来ない。
 それでも怪光線を発しようとする、飛ばずに爆発、角が折れる。
 マグマと言う名のどろどろに溶けた物質に負けたのだ、水の中では爆発力が増すのと同じである、閃光は突き抜けようとしたが、圧力に圧し返されて発信者へとエネルギーを返した。
 ──使徒が声にならない悲鳴を上げる。
 高温、高圧に堪えられる事とそこで生息出来ることは違う、生まれてから成獣へと進化したこの化け物には、長く溶岩の中で活動出来る機能が無い。
 なんとか泳いで地上に逃れようとする、即座に体液が沸騰することは無くても、冷やす事ができなくてはいずれ焼け死ぬ事になる。
 ──しかし、それをガメラが逃すはずは無い。
 ガメラは右腕をひれの形に変形させると、まるで先のレイのように振り上げる仕草をした、そこに周囲の熱が集まっていく。
 ぎょっとしたのか使徒は振り返った、多少は上に泳いで昇っていたが、ガメラの姿はマグマ越しにも下方に見えた。
 熱を奪われたマグマが固化して黒ずみ、沈んでいく、ガメラの下には雪のように岩塊が降っていった。
 ゴウ!、突如ガメラは身をくねらせた、一瞬で使徒を追い抜き、泳ぎ上がる。
 絶望の様子で使徒が天を仰いだ、ガメラが振り上げた『手刀』を振るう。
 キィン!、金色の壁が二つに割れた、その先にあった使徒の仮面も二つに割れた。
 真っ二つに裂けた使徒だった物が、ぐずぐずと溶けながら沈んでいく、ガメラは満足げに目を細めると、両手足の鰭を使って器用に外へと泳ぎ昇った。


 ──伊豆半島。
「良い?、速攻で決めるから」
 こちらでは黒と赤のエヴァンゲリオンが身構えていた。
「敵の能力は調べないのかい?」
「気にはなるけどね……」
(異相体が出たって事は、使徒はどこかで倒されていた?)
 そんな心当たりはないのだが、だとすると自分達以外に使徒を倒せる勢力がある事になる。
(でも今は!)
 アスカは気合いを入れ直した。


(三、二、一)
『着陸します』
 そのアナウンスと共に車輪が接地した震動が来た、無法者共も含めてバランスが崩れる。
 その瞬間を狙ってフェリスは飛び出した、機体の裏側を回って機首側に回り込んでいたのだ、機体の進行方向と逆に走るフェリスの速度は、相対的に数十キロを得る。
 彼らには一瞬で詰め寄って来たようにしか見えなかっただろう、四つ足で走っているのかと思わせるほど低い体勢で駆けるフェリス、小柄な体躯は大型の猫を思わせた。
 無理をして見張るために立っていたハイジャック犯の二人は、座席の間を真っ直ぐに走って来る『何か』に対処が遅れてしまった、震動に砕けたバランスを銃が撃てるまでに立て直すのはそれ程までに難しい。
「てやっ!」
 ──勝負は一瞬でついた、フェリスは両手を床に突いてブレーキを掛けると、そのまま浴びせ蹴りで一人目の銃を持つ手首を打った。
 折れた手にうずくまろうとする、その向こうに居る男には反動のままに起き上がって跳びかかり、頭突きを食らわせた上で胸骨を打った、折れた骨が内臓に食い込む手応えを感じる、さらに打った手を引く流れのままに、背後の手首を押さえている男に肘打ちを入れる。
 見ていた乗客には、スチュワーデスの制服を着た少女がバランスを崩して倒れるように、飛び込み前転を行っただけにしか見えなかっただろう。
 フェリスはそのまま次へと走った。
 小刻みにブレーキがかかる、ゴドルフィンの援護だ。
 異変に気付いた男達が銃を構える、しかしブレーキに狙いを定められない、その手首に手裏剣が刺さった、誰の援護かフェリスは考えなかった、今はその時ではないからだ。
 袖口に隠していたダーツを投擲とうてきする、狙い違わず命中、仕込まれていた神経毒が一瞬で男二人を昏倒させる。
 敵は七名、上に二人、この階には後一人、しかし最後尾まで来てフェリスは居ないと焦り、立ち止まってしまった。
 ──座席から立ち上がった男が跳びかかって来る。
 空いていた席に偶然男は座っていたのだ、減速しているとはいえ何百キロの速度が出ている、その中を逆方向に走ったのだ、敵の格好が特異でも、動体視力が追い付かなかったのだろう、見落としてしまったとしても不思議ではなかった。
(ダメ!)
 諦め掛けたがフェリスは堪えた、体の力を瞬時に抜く。
 敵を掴まえたと思っていた男は油断していた、力の抜けた体を取り逃してしまう、男の腕から抜け出したフェリスは隠していたダーツを男の腿に突き立てた。
 バン!、悲鳴を上げてのけぞった男から離れて、トイレの扉に背を預けて荒く息を吐く、震えが来た、恐ろしさに、殺され掛けた事に。
 ムサシと戦った頃の自棄気味の気分は今は無い、楽しく生きていけるかもしれない、その感情がフェリスに恐怖心と言う渇望の裏返しを与えていた。
「小細工を!」
 異変を感じ取った黒帽子の男は、袖口から掌へと何かのスイッチを滑り落とした。
 ──ボタンを押そうとする。
 ガシャン!、だが僅かに力を入れただけで壊れてしまった、何かで寸断されたように、バラバラに。
 ──ヒュン!
「つまらないもの『で』斬ってしまった」
 そう言ったのはパイロンだった、元は暗殺の家系に生まれた男である、得意では無くともとう以外の武器も使える。
 階下から上がって来た場所で糸を繰っていた、シンジと同じ斬糸の技だ。
「ですが!」
 黒帽子の男は背もたれに手を突き、パイロンに向かい合ったまま帽子を脱いだ。
 ──もう一つのスイッチがそこにあった。
 ドン!、爆発。
「きゃあああああ!」
 悲鳴が上がる、フェリスが毒づく。
「ハロルド!、残ってるじゃない!」
「くっ!」
 ゴドルフィンが焦る。
「コントロールがっ、ブレーキが効かない!」
 米軍基地のフェンスがすぐ目前に来ている、ガガン!、突き破ってしまった、ひっかかったようにつんのめって機体は前輪を失った。
 ──顎が叩きつけられた状態で、旅客機はそれでも爆走する。
(ダメっ、死ぬ!)
「きゃあああああ!」
 ヒカリが体を折り、座席の間に畳み込んで叫びを上げる。
 悲鳴はそればかりではない、どこからも上がっている。
(なんとか!)
 その時、ミエルは動こうとした、何かしなければ、どうにかしなければと思ったのだ。
 だが機内は傾斜してしまっている上に、段々と荷重のかかる方向が変化してきている、横に向いているのだろう、危険だった。
 下手をすれば翼が引っ掛かり、横転という事態も有り得るからだ。
(誰か!、助けて!)
 ミエルは祈った、誰かに祈った。
 ──その目前を黒い影が横切っていった。
(え?)
 目を疑った、まるで平然と学生服の少年が走っていったのだ。
 この衝撃と荷重が入り乱れる機内の通路を。
(地上に下りればこっちのものさ!)
 そして走っていたのはシンジであった。
 がたがたと震動が暴れ回る中、ヒカリがシートに伏せる上を、シンジは乗り越えて駆け出したのだ。
「!?」
 ミエルは目を丸くした、あれほどまでに泣き喚いていた少年とは雰囲気がまったく変わっていたからだ。
 なんと自信に溢れた背中だろうか?
 シンジは駆けながらポケットに入れていた糸が巻いてあるプラスチックリールを取り出した、走りながら前に繰り出す、フェリスがしゃがみこむようにして体を固定していたが目もくれなかった。
 キュンっと壁が寸断された、シンジの体当たりに吹雪となって四散する。
 その調子でシンジは貨物室まで通路を貫通させた、そこは爆発によってかなり空間が歪んでいた、一部には穴も開いている。
 震動とGの中、這いながらも必死に追って来たフェリスの目前で、シンジは円を描くように糸を振るった、ゴガァ!、尻尾が取れた、シンジに切り落とされたのだ、突然開いた空間、外の景色は未だ恐ろしい勢いで流れていく、遠くに建物が見えた、周囲には緑の芝生。
(なにを!?)
 フェリスが驚く前でシンジは機首方向に右手を振った。
 糸は一瞬で壁も、天井も貫通してのけた。
「なに!?」
 唐突に蜘蛛の巣が走ったガラスに、パイロットシートのゴドルフィンは身構えた、真横に糸が針金のように伸びていると気がついたのはその時だった。
「どこから!?」
 ──ブン!
 左手の糸をシンジは飛行機の外へと放った、糸は一瞬にして編み上がり、ブレーキ用のパラシュートを形成する。
 ──シンジは糸を繰って飛ぶことができる。
 単純に糸を回しているだけに見えるのだが、実はそうではないのだ。
 飛行機の羽は揚力を生むために山なりになっている、前から流れて来た空気が上下に裂かれて後方に流れるのだが、上側に裂かれた空気は当然下側のものに比べて移動の距離を長く取らされる事になる。
 それが気圧差が発生させる、それが飛行機に揚力を与える。
 シンジの糸も実は同じようなことを行っていた、つまりあれだけの速度で回しながらも、シンジはそのような揚力を得るための繊細な操り方をやってのけていたのである。
 ──だからこそ、このような芸当もやりのける。
 同時に機首を越えた糸が先端から無数に裂けて開いた、何処までも伸びて蜘蛛の巣となり、ジェット機全体を包み込む。
「くっ、う!」
 シンジはジェットを掴み、パラシュートでブレーキを掛けたのだ。
 ──生身の体で。
「な、あ……」
 愕然とするフェリスの前で、シンジはジェットのGとパラシュートの空気抵抗との力比べに挑戦を始めた、首に筋が浮き上がるほど力を込めて踏ん張った、揚げ句には腕を曲げて力比べに勝利した。
 フェリスはいやいやをするように身を小さくして首を振った、現実感を喪失してしまったからである。
 慣性の法則に則って進もうとする飛行機と、それを止めようとするパラシュート、双方が引き裂こうとする力はトン単位に達しているだろう、それを目前の少年は小柄な体で繋ぎ止めている、誰がそんなものを認められるだろうか?
(信じない、こんなの、絶対誰も信じてくれない!)
 やがて飛行機は失速を始め、それに合わせてシンジの糸もたるみ始めた。
「……くっ」
 シンジは適当な所で糸を離した、さすがにきつかったのか手に食い込んでいた、血が滴っている。
 旅客機は暴走の果てにようやく停まった、一般住宅の方で野次馬が叫んでいる、とっくに基地の敷地は越えていた、消防車や救急車、パトカーなどもその内やって来るだろう。
「はぁ……」
 シンジは痛みに堪えるように、糸の食い込みによって硬直してしまった指をゆっくりと折った。
「……ま、こんなところかな」
 のんきな事を言って髪を掻き上げようとして……
 シンジは手の血が付いてしまうと、その行為を途中でやめた。


「でいやああああ!」
 ソニックグレイヴを振り上げて、アスカは『以前』と同じように斬りかかった。
 一刀両断、しかし油断することなくザバザバと腿まである海水の中を歩いて下がった。
 ──割れた使徒がそれぞれに再生する。
「なによこれ!」
 しかし切り裂かれなかった股間より下はくっついたままだった。
「プラナリア……、そういうことみたいだね」
「切り分けたら別れた分だけ増えるって事?」
「そうなるね」
「この再生速度だとNN爆弾は逆効果でしょうね」
「一撃で全てを消滅させるしか無いね」
「そんなの、シンジならともかく」
「方法はあるんだよ?」
 カヲルは悪戯を企み、笑いを堪えて実行に移した。
「なに!?」
 急にぐうんと弐号機の体が重くなった、のしかかるものに踏ん張って堪えると、突如として機体を中心に炎が渦を巻いて発生し、海水を蹴散らした、海底と、泥に沈んでいたかつての街の残骸が姿を現す。
「これって!?」
 アスカは弐号機が見せた異常な発動に驚愕した。
「……弐号機は本質的に僕と同じだからね、完全な覚醒は無理でも、力の解放くらいはうながせるさ」
 持て余し気味になる力の波動に、アスカは焦るようにして絶叫した。
「アンタはそのまま維持してなさいよ!」
 言われるまでも無く、とカヲルは瞑目したまま唇を動かした。
「でりゃああああ!」
 何かを掴む仕草をして叩きつける、火炎がそこに集約されて、使徒モドキである異相体を打擲ちょうちゃくした。
 ──かつてカヲルは弐号機のことをケルプという名で言い表した。
 ケルプとは炎の剣を持ってエデンの東門で生命の樹へと続く道を守護し、アダムが再び舞い戻らぬよう、見張っていた天使のことを指している。
「かつてアダムを封じるために、地軸を揺るがすほどの一撃を与えたケルプの炎の剣だよ、たとえ減衰して威力が万分の一に減っていたとしても、君には到底抗えない」
 決して消えようとしない炎の中で、異相体がもがき苦しんでいる。
「しかし、それにしても……」
 カヲルはアスカと同じことを考える。
(イスラフェルは、どこに?)


「うっ、う……」
 斜めになった機内、ショートする機器、棚から降り落ちた備品。
 窓からの明かりだけが頼りで、それでも黒帽子を被っていた男はふらつきながらも逃げようとした。
「何故だ……、何故みんな燃えない!」
 このままでは証拠が残り過ぎる。
 彼が貨物室に仕掛けたのは小型の爆薬だった、空の上であったなら、さらに他の爆薬と連動していたのなら、十分機体を破壊出来たはずだった。
 しかし実際には他のものは処理されてしまっていた、それが彼を不幸にした。
「くっ」
 パイロンは頭を振って立ち上がろうとした、手短な座席に手を突いて。
 半分不時着に近かったおかげで随分と振り回されてしまった、脳震頭が治まってくれない。
 追いかけるか悩んだ、ここには保護対象である黒髪の少女と、それを庇って伏せたまま気を失っている『監視対象』がいる。
 他の敵は無力化したはずだが、それでも乗客の中に『草』がいないとは限らない。
 だからパイロンは、ここまでか、と諦めた。
 ──だが。
「げふっ!」
 ようやく下への階段に辿り着いた男であったが、真っ白な足に顎を蹴り飛ばされて転がった。
 手すりを使って逆立ち気味に蹴り上げた、青い髪の少女が姿を見せる、薄暗くなってしまった機内の中でも、一瞬見えたスカートの下の白い布地は鮮烈だった。
「……綾波、レイ?」
 彼女は無表情に、冷たい眼差しをパイロンへと向けた。


「だから言ったんだ、飛行機なんてろくな事にならないんだって」
 シンジは上機嫌でそう口にしながら、う〜んと大きく背筋を伸ばした。
 自衛隊の大型輸送ヘリから、無事救出された乗客達がぞろぞろと下りる。
 何機か特別に災害出動と言う事で回されていた。
『トラブル』により『緊急不時着』した米軍基地から、本来向かうはずだった島の空港へと移った所であった、政治的にはそういうシナリオで決着している。
「ああもう、ええわなんでも」
「早くシャワー浴びたい……」
「うう、悪い、俺が政府の秘密機関なんかに狙われちゃったもんだから」
 最後のケンスケの呟きに皆疲れを増す。
「な、なんだよぉ!」
「なんでも」
「あらへんわい」
 一同はぞろぞろと歩いた。
「はぁい、全員集まって、各クラスの委員長は点呼をとって報告して」
 空港のロビーに入った所で教師がそう指示を出す。
「ああ、洞木さん、僕が行って来てあげるよ」
「そう?、ごめんなさい」
 ヒカリはなんであんなに元気なんだろうと見送って、そして驚くような光景に目を丸くした。
 突然金色の髪をした少女が、ドンッとシンジに体当たりしたのだ。
 わぁっと大柄な少女の突撃に、よろめき驚くシンジが居た。
「碇くん!」
「え?、え?」
「よかったっ、無事で!」
 体格は変わっても顔形はあの頃のままだった、記憶の中の面影とすぐに合致する。
「ヒビキさん!?」
 ヒビキ・オーガストは涙目で頷くと、今度は正しくシンジを強く抱きしめた、胸に。
「わっ、ちょっと!、ヒビキさん!」
 あ〜っと、指を咥えて嬉しそうにする連中多数、赤くなる女子大勢。
 その脇も脇にて、綾波レイが、さっそくお土産屋へと消えて行った。



続く



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。