セカンドインパクト世代の大半は海を毛嫌いしていた、その理由は津波にある、天から覆い被さるように押し寄せて来る波が一体どれほどの命を奪って行ったか?
 その後の長きに渡り、浜には遺体が打ち上げられることとなった。
 毎日毎日、何体、何十体もの遺体を運び、片付けた、それでも追い付かず、不用意に波打ち際を歩けば、砂に埋もれた死体を踏む事になってしまった。
 そのぐにゅりと皮膚が骨から禿げる感触は、想像を絶する生理的嫌悪感を引き起こす。
 未だそんな記憶が抜け落ちないのだ、離れない。
 だから大半の人々は内陸部へと移動していた、交易に有利な海岸線よりも、このような森の中に生活の場を求めている、その理由もまた似たような部分に根差していた。
 ──小屋の外、シンジは見張っているつもりなのか、誰も入れないように扉に背を預けて座っていた。
「シンジぃ?」
 小屋の中からの声である。
「入って来いってぇ、背中拭いたげるからぁ」
 真っ赤になって反論する。
「いいよ!、後で自分で拭くから」
 ここは森の中なのだ、風呂と言うわけにはいかない、水浴びをして済ませるのが普通であったのだが、怪物騒ぎのために川には入れなくなってしまっていた、病原菌による汚染を恐れたのだ。
 そこで井戸より水を汲み、体を乾拭きすることで凌いでいた。
 シンジはぶつくさと口にした。
「幾つだと思ってるんだよ、まったく」
 そしてレイはレイでつまらないなぁと唇を尖らせていた、上半身裸になって、タオルでごしごしと垢を落としている。
「まぁだ十歳でしょうが」
 下を見る。
「こんなんで興奮するって、変態?」
 レイはそう独り言を呟いた、そこには年齢のわりに小振りな胸が存在している。
 突起物は未発達で埋もれた状態にあり、色素も薄く桃色というほどにも彩られてはいない、異性を意識させるには不十分な膨らみ、客観的に見ても性欲の対象というより、微笑ましく見られてしまう類のものだ。
「こんなのに興奮するかなぁ?、それとも第二次性徴でも来た?」
 軽口を叩きながらも、レイの瞳は決してふざけてはいなかった、酷く鋭いものを宿している。
 彼女は碇ユイと綾波レイだけではなく、碇シンジの『パーソナル』までも混同して生まれいでた存在である。
 碇シンジは度重なる戦闘の最中、幾度かエヴァンゲリオン初号機との精神的な接触と融合を繰り返して来た。
 その最たるものはシンクロ率400%を越えての融合現象であった、初号機の中から現世へと復帰する過程において、シンジは再構成を受けている。
 サルベージ、それは一種の自我意識の再構築を促す行為であった、分解していく魂を外的な刺激によって無理矢理凝固させる行いである。
 自分は碇シンジであると言う意識を強制的に認識させる、そのために取られた方策は彼が過剰に反応を示すイメージを送り込んで刺激するというものであった。
 ──問題はそこにあったのだ。
 大雑把な思考と意識は再び碇シンジとなったのだが、多くの細かな物が捨て忘れられることになってしまった。
 この結果、碇シンジは自己への認識に不安を覚えるようになってしまった、何かが足りないと喪失感に悩まされた。
 それはそれとして。
 回収されなかった碇シンジを構成していた要素達は、一体どこへ消えたのか?
 それらは消えたりはしなかった、初号機が取り込んだまま、最後の時まで保持し続けていたのである。
 レイを構成している素材の何パーセントかは、そこからもたらされたものだった、碇シンジが忘れていった心の欠けら、レイはそれを含んでいる。
 だからこそ、レイはシンジの心の動静を、共鳴という形で知ることができた。
 繋がっているのだ。
 だからこそ分かる。
(精通はまだ来てないのにね)
 昨日までのシンジの悩みは、基本的に自分が誰なのかに根差していた。
 この世界で生まれ育った碇シンジであると同時に、同じくらい別の世界の碇シンジでもあるのだ、その紛らわしさが昨日の事件によって、一気に解消されてしまったのだろう。
 レイはそう分析していた。
 それは世界へと目を向け始めていることから来ているのだろうが、余り歓迎できることではなかった。
 世界は悲しみに満ちあふれていて、それら目の当たりにしたシンジは、ひとまず自分が誰なのかと言う問題を棚上げしたのだ。
 悲しみに翻弄されている人達と知り合ってしまった。
 これでもう、どこに逃げても不安に苛まれる事になるだろう、今あの子達はどうしているのだろうかと、今はどうなっているのだろうかと、興味を抱かずにはいられないだろう。
 それは逃げ道は塞がれたにも等しい問題である、そこで出した結論が、前向きに対処するというものであった。
 如何にして嫌な事を回避するか?、この点で二人『以上』のシンジは意見の一致をみたのだ、そうして行動原理が定まった事で、『全て』のシンジが共闘の形を成立させた。
(そのためには今のシンジじゃ弱過ぎるから……、欠けてる部分を他のシンジの蓄積物に補わせたか)
『本当』のシンジはまだ小学生だが、それではこれからに堪えられない。
 そこで彼は今の辛さに堪えるために、自分ではない十四歳、あるいは十四歳以上のシンジ達の経験と感情と記憶と言った『精神』を自分の記憶の延長上に並べ、擬似的な経験を得る事で架空の成長を果たしたのだ。
 本来これから経験するはずだった成長の過程を省略していた。
 小学生のシンジに、それ以降からサードインパクト後までを生きたシンジの精神が加算されている、元々似たような幼少期を過ごして来た連中のその後の記憶である、似たような精神状態からの変革となるのだ、その分だけ拒絶は少なかったのだろう。
 今は安定して見えた。
(でもそれは今だけよ)
 レイの目が暗く光る、彼女はひとつの懸念を抱いていた。
 どんなに歳老いた精神を獲得したとしても、現実のシンジは十歳の子供なのだ。
 仮初めに作られた心が本物の強さを持つはずが無い。
(問題はメッキがいつはがれるかよね)
 レイはシンジぃ?、と呼び掛けた。


NeonGenesisEvangelion act.56
『変調:pro・logue −外典 終章 第一節−』


「まったくもう、最悪だったよ」
 自由行動の制限時間一杯である夕刻五時。
 シンジはその頃になってようやくホテルへと戻って来ていた。
「そう、良かったわね」
「へ?、何が?」
 偶然ロビーで顔をあわせたレイのそっけない応対に、シンジは困惑しマユミは間であうあうと呻いた。
(碇君、もう少しなんとか……)
 はふぅと嘆息するマユミである、知らない子とデートして来たなんて話を聞かされて、面白いはずがあるまいに。
 だがそんなマユミの憶測は少しはずれていた、レイの不満は彼女にこそ原因があるのだから。
(わたしはお守で、碇君は……)
 ムカムカとしている。
 一人で楽しそうで良かったわね、と。
 シンジはその背から立ち上るオーラにおおぅと脅えた。
「じゃ、じゃあ、僕ぅ、着替えようと思うから」
「あ、あ、はい」
 マユミはそれではと、おどおどとしながら挨拶した。
 手を振りつつシンジは思う。
(山岸さん、あんまり性格変わってないのかな?)
 それからエレベーターを使い、貸し切りとされているフロアへと上がった、そこは一中の生徒で溢れ返っていた、皆廊下に出てどこへ行ったなどと話題に華を咲かせている。
「あ!」
「え?」
「碇君!」
「え?、ええ!?」
「いいから!」
 真っ直ぐ部屋に戻ろうとしていたシンジだったのだが、それでもまだ遅いと待ち構えていたヒカリによって急かされた。
 慌てるヒカリに連れ込まれる、あっという間に部屋の中へと。
 手前にバスルームが有り、奥にベッドが二つ並んでいる。
 そんな出かける時と同じままの部屋なのに、そこにあってはならない存在を見付けてシンジは硬直してしまった。
 ──部屋の中に、ヒビキが待ち受けていたからである。
 ベッドの上にちょこなんと座っていた、居心地が悪そうなのは仕方の無い事だろう。
 シンジは唖然とした後で、まるで自分の目を疑うように凝視した。
「え?、ちょっと待ってよ」
 混乱に頭が働かない、髪に手櫛を入れて掻き上げ、シンジはなんとか考えを纏めようと試みた。
「どうしてヒビキさんがここに居るのさ?」
 ともあれば迷惑だと告げているようにも取れる台詞であったが、シンジの様子を見ればそうでないのは明白だった。
「みんなに、助けてもらって……」
「それでここまで?」
 コクンと頷くヒビキの思い切りの良さに対して、シンジは軽い眩暈を覚えた。
「まずいよ……、先生に見つかったらどうするのさ?」
 このホテルには一般の宿泊客も泊まっているから、ヒビキのような人間が居てもおかしくはない。
 だが一中の生徒が泊まるこのフロアは貸し切られているのだ、なのにヒビキはここに居る。
 彼女の容姿は目立ち過ぎるものである、誰かに見られていないはずが無い、そしてヒビキは他校の生徒なのだ、それも同じく修学旅行に訪れている。
 当然外出時間は決められているはずだし、夕食の時に居なければ大問題となるだろう。
「まったくぅ」
 シンジは幾つも浮かんでは絡まろうとする問題点に、考える事を放棄した。
 ほらっと手を差し伸べる。
「え?」
「送ってく」
 強引に手を掴んで立ち上がらせる。
「ええと」
 ヒビキは眉を寄せた、色々と言葉が思い浮かんでつまったのだ。
 それを見かねて口にする。
「話なら途中で聞くから」
 一方的に口にして、シンジはヒカリにも言葉を掛けた。
「ごめんね、僕はまだ帰って来てないって事にしといてよ」
「でも、すぐ点呼があるけど……」
「ネルフの用事だって言っといて」
「ネルフの?」
「うん、ネルフの訓練生が呼びに来て、一緒に行っちゃって」
 大丈夫だろうかという顔をするヒカリに、シンジは心配しないでよと言葉をかけた。
「嘘だって思われたって良いんだからさ……、それならそれで遊んでるんだろうって、帰って来るのを待ってもらえるでしょ?、そんなに遅くなるつもりは無いしね」
 ヒカリは頷くことにした、シンジの懸念がなんとなくだが伝わってきたからだ。
 沖縄も治安が良いとは言い難い、やはりなんと言っても中国が近いのだ、夜陰に紛れてスパイが密入国しているという噂も良く聞こえて来る。
 手を打たずに姿が見えなくなったとなれば、警察への通報などと大事になりかねない。
「……わかった」
 ヒカリは渋々納得した。
 本当ならば自分が居る場所で話し合いをしてもらいたい、そう思っていた。
 心配しているのだ、彼女は聞いてしまったから。
 昔のシンジの境遇を。


 ──碇シンジの境遇は最低最悪と言って良いものだった。
 それは家出をして当然で、一言も置かずに逃亡するにも十分な理由に感じられた、子供が血が流れるほどの大怪我を負わさなければ身を護れないと悟る環境。
 それがどんなに酷い空間なのか、想像も出来ない。
 トウジは憤っただけだったが、ケンスケは悔しげに何かを噛み締めていた、それはシンジが自分が乗り越えられずに居る何かを乗り越えているのだと、感覚的に悟ってしまったからかも知れない。
 とにかくトウジ、ケンスケ、ヒカリの三人は、今のシンジのことを出来るだけ詳しく知らせようとした。
 教えてあげようとして……、困ってしまったのだ。
「……」
 ヒカリはベッドの端に腰掛けると、ふうっと溜め息を吐いてしまった、何も映していないテレビに、幾分やつれた自分が映り込んでいた、シンジは明るい、確かに明るいが、彼の趣味などと言ったごく個人的なことになると、誰も、何も知らなかった。
 それに思い至った時、彼らはシンジがそれほど心を開いてくれていないのではないかと勘繰った。
 そこに渚カヲルが居たのなら、『シンジ君の趣味は、大きな声じゃ言えないようなことなんだよ』と、冗談交じりに明かしてくれたかもしれなかったが……
 ──シンジはヒビキの手を引きながらホテルを出た。
「あの、碇君」
「なに?」
「手……、痛い」
「あ……、ごめん」
 シンジは慌てて手を放した、ヒビキの手は酷く赤くなっていた。
 それも仕方の無い事かもしれない、シンジは絶技とも言える技を持つ、糸だ、それはあらゆる物を断ち、あらゆることを成す、しかし最も特筆すべきことは、シンジの身体能力にこそある。
 空を飛ぶためには糸を回転させる必要がある、浮くためには一体どれだけの回転速度が必要なのだろうか?
 間違いなく人が回していては間に合わない速度だろう、しかしシンジはそれを可能としている。
 人の筋力と骨格では不可能な事を成しえる肉体をシンジは持ちえているのだ、無意識とはいえ、その力で握ればヒビキのような繊細な少女の体は悲鳴を上げて当然である。
「痛かった?、ごめん……」
 手を摩る彼女に対して、シンジはしゅんとした態度を見せた。
 ヒビキは首を傾げてしまった、確かに痛かったが、そこまで落ち込まれるようなことでもない、大丈夫だからと念を押すように訴える。
 ──シンジがそんな風に落ち込んでしまったのにも訳はあった。
 それはあの村での、最後の事件に由来していた。


 ──2011。
「会長ー!」
 サスもクッションも死に切っているトラックに便乗して、一人の男がやって来た。
 このような森の中だというのにスーツ姿だ。
「タクヤか!」
 荷台から跳び下りた男に対して、カンヂは歓喜の声を発した、喜色満面に駆け寄り抱き合う。
「良く来てくれた!」
「会長こそ、よくぞご無事で」
 タクヤは泣き顔を見せたつもりだったのだろうが、物騒な笑みにしか見えなかった。
 体格が良く、スーツははり裂けんばかりに膨らんでいる、一見してプロレスラーのようである、そんな男なのだが、タクヤはカンヂの養子の一人で、会社内では重役の位置に着いていた。
「飛行機が落ちて行方不明だって話が飛び込んで来た時には慌てましたよ!」
「次の会長を誰にするかでか?」
「それならマナミ辺りが妥当でしょう、まあ、確かに役員会はもめましたけどね」
 にやりと笑って口にする。
「秒単位で損失が膨らむ事を考えれば、すぐさま代役を立てるのは必要でしょうが、それでも誰も会長の安否を確かめようとしなかったんですから」
「マナミの荒れる様が思い浮かぶよ」
「ええ、会長からの連絡が届いて一荒れありましたよ、背信行為だと言って何人かを首切りと降格にね……、でもどうしてまだこんな村に?」
 タクヤは非常に不思議そうにした、確かにその通りで、会社への連絡はこの村からでは無理なのだ、街から電報を送ってもらわねばならない。
 それなら街まで運んでもらって、電話を掛けた方が早かろうに、未だこの村に留まっている。
「何か酷い事にでもなってるのかと思いましたよ、怪我をして動けないとか」
 カンヂは苦笑して、くしゃりとタクヤの髪を弄ってやった、想像して青くなっていたのが目に見えるようだったからだ。
 タクヤはもう二十六に達している、しかしその外見に反して気弱で、体格も生まれつき良く見えるだけで、鍛えているわけではないので実際の力とは釣り合っていない。
 数居る養子の中でも長男格に当たるのだが、それだけで随分と無理をさせているなとカンヂは恥じた、治すつもりは皆無だが。
「ちょっと商談をね」
「商談?、こんなところでですか?」
 呆れた、とは二重の意味を持っていた、一つは言葉の通りで、もう一つは墜落事故にあったというのに、全く堪えていない事にである。
「将来への投資はいつやっておいても損は無いさ」
「そういうものでしょうか?」
「そういうものさ、お前も俺が死んだかどうかくらいでおたつくんじゃない、そんなことだからマナミの尻に敷かれるんだぞ?」
 いいですよとタクヤは拗ねた。
「あいつの尻の下は居心地が好いんですから、知らないでしょう?」
 二人は騒がしくなって来たので場所を変えることにした。
「それより出来るだけ早く帰らないと問題になりますよ?、マナミの奴、なんであたしがってブツブツ言ってましたからね」
「……心配していたか?」
「そりゃあもう!、あいつは気がついていませんけどね」
 それは二人の間にある共通の認識だった。
 不安な状態に曝された時、人間が取る行動は大抵二つに分類される。
 慌てふためき喚こうとするか、あるいは心を鬼にしてやるべき事を成そうとするか、どちらかで、マナミは後者のようだった。
「不安なんでしょうね、ぶちぶち言って護魔化してましたよ、これでひょっこり帰って無事だったなんて言った日には」
 ぶるりと震える。
「……もう暫く逃げるかなぁ?」
「心配させて楽しいですか?、せめてかすり傷一つ負ってないって電報に付け足しといてくれてれば」
 嘆息する。
「知ってるでしょう?、あいつの夢は社長夫人か会長夫人になって左うちわで旦那のケツ蹴っ飛ばすことなんですよ、自分が働くなんて以ての外なんですよ」
「だけどマナミくらいだからなぁ、僕以外に今の会社を切り回せるのは」
「それで……、商談って言ってましたけど?」
 タクヤは急に声を潜め、辺りにも目を走らせた。
「それって……、神様と何か関係が?」
「神様?」
 知らないんですかと意外そうに口にする。
「途中にあった村で聞いたんですけどね、森の神様がお怒りになって、ゲリラの村を潰して回ったとか、怒りに任せて暴れ回った神様は、力尽きて死んでしまったって、僕はそれを調べるために森に入るっていうレンジャーに頼んで、便乗させてもらって来たんですよ」
 そんな風に言われているのかとカンヂはやや考え込んだ。
 地元民にしてみれば確かに想像の枠の外に居る存在だろう、それにゲリラの村を襲って姿を消したのも確かな事だ。
 この村は近過ぎる事もあってか、そんな呑気な感想を抱かず、怖い物として捉えているが。
「獣じゃ絶対に出せないような声を出して咆哮したとか、どうなんです?」
「……無関係とは、言えないな」
 やっぱりとタクヤは目を輝かせた、気弱なようでも、一人でこのような地にカンヂを迎えに来る精神の持ち主だ、好奇心は強いらしい。
「それで、なんなんですか?、それ」
 カンヂは真実を告げるべきか悩んだが、それを表に出すことはしなかった。
「わからん」
 カンヂは自分の性格に呆れつつそう口にした、よくもまあ、こうすんなりと嘘が吐けるなと。
「そうですか」
 がっかりするタクヤに対し、カンヂは自分の考えを述べた。
「わからない……、が、幾つかその正体に辿り着くための手がかりは手に入れているんだ、だから」
「そうですか」
 タクヤは頷き、確認した。
「その怪物は実在したんですね?」
「……身長は十メートルを越えてたんじゃないかな?、人型で」
「そんなものが突然現れたわけだ」
「村人が持って返って来た怪物だったものらしい肉の塊がある」
「手に入りますか?」
「もう貰ってあるよ」
「手回しの良い……」
「ドライアイスがあったのは運が良かったよ」
「こんな所に?」
「街からの物資の中にあったんだよ、ナマモノを保冷して持ち込むのに貰って来たみたいでね、分けてもらったんだ」
「ははぁ……」
「向こうに戻ったらラボに回して欲しいんだ、大学やどこかの研究機関に情報を漏らさないよう徹底してくれ」
 タクヤは目を丸くした。
「そこまでするようなものなんですか?」
「分からないから言ってるのさ……」
 遠い目をして口にする。
 タクヤは怪訝そうにそんなカンヂの横顔を眺めたが、ふと目に入ったものに気を奪われた。
「あの子?」
 とことこと横切り歩いていく。
 タクヤは数秒間ぽかんとし、次に大袈裟なくらいに仰天し、盛大に引きつった声を張り上げた。
「あ、まさか!?」
「どうした?」
 あれ、あれっと指を差して口にする。
「ホワイトテイル!」
 はてとと首を傾げるカンヂであった、彼には分からなかったのだろう、だがカンヂの周辺警護などを取り仕切る事もあるタクヤには、その危険人物に対する知識があった。
 どうしてこんなところにとガクガクと膝を震わせて、パニックに陥り脂汗を滴らせた。
 数年前のワルシャワでのビル倒壊事件を始めとして、クウェートでの生化学工場爆破事件などなど、彼女が確認された事件は数え上げると切りがない。
 その目立つ容姿から教団関係者かとも噂されているのだが、教団は否定するものであるとして公式発表を行っている、何一つその背景は分からない、一つ言えることは彼女が殺戮者であり、大量殺人犯であると言う事実だけであった。
 タクヤは喘ぐようにぱくぱくと口を開いた、しかし声には出来なかった。
 言葉にして彼女の注意を引いてしまうのを、本能的に嫌ったのだ。
 ──しかし。
「あ、会長さん」
 どもっと気軽に手を上げる。
「お迎え来たんだ?」
「ああ」
「もう出てくの?」
「いや……、祭りぐらいは見させてもらおうと思ってるよ、シンジ君が出るんだろう?」
「それなんだけどねぇ……」
 う〜んっと両腕を組んで悩む、ふとレイはぽかんとしているタクヤに気がついた。
「ちょっとおっさん」
「おっさ……」
「なぁに人の顔見て引きつってんの、感じ悪ぅ〜」
 それなんだがと、カンヂは余計な事を口にした。
「君のことを見て、ホワイトテイルと言って、後はこの有り様なんだよ」
「ふうん?」
 舌なめずりをするレイに、タクヤは何てことを言ってくれるんだと盛大に引きつった。
「なんなんだ?」
「……後で聞いてみたら?」
 レイはタクヤから視線を外した。
 弱いもの虐めは好みではないらしい。
「それより、シンジ知らない?」
「さあ?、一緒に居たんじゃ?」
「それがちょっと目を離した隙に居なくなっちゃってさぁ、どぉこで遊んでんだか」
 ぶちぶちと呟く。
「今はちょっと危ないからさぁ、目を離したくないのよねぇ」
「危ない、か……」
 レイは更に言葉をこぼそうとしたが、それはカンヂの目に呑み込んだ。
 不用意に口にするなと言うのだ。
 レイは納得すると、じゃあと告げた。
「……あたしちょっと捜してみるから」
「ああ、また」
 意味ありげに視線を交わす、それに気付かず、タクヤは彼女の背が十分に遠ざかるのを待って、大きく胸を撫で下ろした。
「はぁ!」
 そんな息の仕方に苦笑してしまう。
「なにをそんなに緊張してるんだ?」
「しますよ!、会長はあいつがどんなに危険な奴か知らないから!」
 それから実に三十分に渡って、タクヤは大変に危険性を指摘した。
 ──それが村人の耳に入ってしまうのを気にもしないで。


「気がついた?」
 目を覚ましたファンに対し、ファウは比較的穏やかな声で呼び掛けた。
 ファウにしてみれば無事を祝って抱きつきたいところだったのだが、頭痛でも残っていてはと自重したのだ。
 ファンはぼうっとしているのか、焦点の合わぬ目をさ迷わせた。
「ここは……」
「お家よ」
 ファウの声に正気を取り戻す。
「俺……」
「ファン?」
 ファンはぎこちなく腕を持ち上げると、顔の上に乗せて隠そうとした。
 ──涙を。
「……」
 ファウには懸ける言葉を見付ける事ができなかった、ファンの気持ちを正確に把握することが出来なかったからだ。
 一体何に対して泣いているのか?、何がそんなに悲しいのか?
 変わり果てた親のことを思い出したのか?、それとも何も出来ずにこうしているだけの不甲斐なさにか?
 それだけでもファウが胸に痛みを覚えるには十分な理由になった、ずっと一緒に暮らして来た、姉弟だから誰よりもよく理解していると思っていた。
 だからこそ一緒になるには抵抗があったのだ、余りにも知り過ぎた仲だから、飽きていて、これからもこんな飽きの来ている関係を続けていかなくてはならないのかと落胆して。
 ──けれどそれは気のせいだったと突きつけられた。
 痛みの正体はそこにあった、いま男の子として泣いているファンの気持ちを、ファウは理解することができなかった。
 分からない、幾つか想像できても、それが正解か判断がつけられないから、慰める言葉を見付けられない。
 今迄のように気軽に呼び掛ける事が出来なかった。
 悲しい?
 悔しい?
 そのどれとも違った痛みだった、強いて言えば辛いのだ。
 子供を生むのだと、もう大人なのだと口にされて来たから、自分はもう大人なのだと思っていた、思い込んでいた、だがそんなものは勘違いでしかなかったのだ、現実にはファウは子供だった。
 ひと一人慰める事さえ出来ない子供に過ぎなかった。
 目の前に居るのは良く知った弟ではない。
 赤の他人に過ぎなかった。
 その自覚がファウをさいなむ。
 何も無い日常、当たり前の習慣、それに則って生きられるのは実に幸せな事だろう、不慮の事態に翻弄されることもなく、助力を受けて生きられるのだから。
 法の庇護下にある限り、無情に踏みにじられる事は無い。
 しかし同時に、当たり前の毎日は当たり前以上の問題を決して突きつけては来ないのだ、また、刺激も与えてくれはしないものだ。
 当然そこから学ぶ解法も、先人が編み出している物を踏襲するだけで済んでしまう、それは人生とは楽に生きられるものなのだという錯覚を引き起こさせる。
 それは考える必要も無く生きられるという事だ、そこには成長も発展も無い、今までは単調なくり返しの中に浸かっていたから、このまま死ぬまで、なんとかなっていくと思っていた。
 それでやっていけるのだと悟ったつもりになっていた。
 ──それは甘い考えに過ぎなかった。
 困っても誰かに聞けば何とかなる、だから軽い調子を保っていられた、だが今の問題は誰に訊ねても決して解決してはくれないだろう。
 うろたえるしかない自分に唇を噛み、逃げ掛ける。
 そっと目を伏せ掛ける、しかし寸前で彼女は思いとどまる事が出来た。
 脳裏に彼女のことが思い浮かんだからである、自信満々に胸を張って歩く青い髪の女の子のことが。
(あの子)
 綾波レイ。
 自分と同じように弟を養っている、なのにどこか雰囲気が違う、自分とは違う。
 それが何なのかと考えて、ファウは彼女の不敵な笑みへと辿り着いた。
 ──人は人と結びつかなければ生きていけない。
 人は孤独に脅える生き物だから、だがそれと等しいくらいに、人は人を疎ましく思って生きている。
 結局勝手なのだ、その勝手に付き合っていける図太さが無ければ、人は神経質になって潰れてしまう。
 あの女の子は弟に対してその図太さを要求している、決して手を差し伸べようとはしない、何故なのだろうか?
(話してみよう……)
 何か得られるかもしれない、何か分かるかもしれない。
 そんな風にファウは思った。
 何よりも、ファンを立ち直らせる言葉を見付けたくて。


 ファウがそっと小屋を後にし、レイが村をさ迷っているころ、シンジは村人によって取り囲まれていた。
 シンジを囲んでいる者達は皆酷く殺気立っていた、手にはなたやナイフ、くわと言った武器を持っている。
 二人だがライフルまで用意して構えていた、子供一人をどうこうするには余りにも物々し過ぎる態度である。
「だから、どうして僕なんですか」
 シンジの押し殺したような声に対して、しらばっくれるなと罵声が飛んだ。
「分かってるんだぞ!」
「お前の姉、人殺しだってなぁ!」
「とんでもねぇ、バケモンだって言うじゃねぇか!」
 槍で脅す。
 ──誰かがごくりと喉を鳴らした。
 彼らはカンヂとタクヤの話を盗み聞いた者達であった。
「おかしいと思ったんだ……」
 今更に言う、それも悔しげに。
「いつもバケモンは、月の出てる夜には来ないのに」
「お前達が手引きしたんだろう!」
 そうだそうだと合唱が起こった。
「先生……、いやツェペリの野郎も怪しいぜ!、突然居なくなって……」
「怪物を倒す力があるとか誉めちぎって、俺達に何をさせるつもりだったんだか!」
 一言で言って、それは疑心暗鬼の類であった、一つの疑惑が見事に連鎖崩壊を導く良い事例だった。
 レイへの疑惑がシンジへと繋がり、そのシンジを祭り上げようとしたツェペリにまで疑いが広がっている。
 出て行け。
 そう叫びが上がればまだ良かったのかもしれない、だが決して少なく無い犠牲が彼らにも出ていた、それが次のような言葉を吐かせてしまった。
「とっちめてやる!」
(だったらレイに言えばいいじゃないか)
 シンジは苦々しく後ろ足を引いた、彼らの性根など分かり切っている。
 レイは得体が知れない、怖い、だからまだ与し易いこちらへ来たのだろうと。
 どうして、そんな感情が巻き起こる、そんなに僕は虐めやすそうに見えるのだろうかと。
「でぇやあああ!」
 男の一人が棒を振りかぶって襲いかかった。
 へっぴり腰とはこういうものをいうのだろう、シンジに避けられて転がる。
「やりやがったな!?」
 銃口が向けられる。
(なんで!?)
 シンジはガンという銃声を聞き、次いで意識が弾けるのを感じてしまった。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。