『今』、こうしてシンジの横顔を眺めている少女が居る。
『過去』、畏怖の念を込めて戸惑っていた者達が居た。
 彼らにとって碇シンジは得体の知れない存在だった、だが彼らは恐れるよりも受け入れて、積極的に関る事を選ぼうとする。
 ──何故だろう?
 それはシンジだけが超常の存在では無かったからだろう、彼のあるところ、一般的な常識から逸脱した事件が多発し、陰に隠れていたものが顕在化する。
 それはつまり、アウターゾーンは常にそこにあるのだという事だった、こちら側と、向こう側、その双方に立っているのが彼、シンジなのだと直感する。
 恐れるべきはシンジではないのだ。
 シンジを通して見える世界にこそ、恐れるべきものは横たわっている。
 半ば本能的に気がつくのだろう、だからシンジを責めようとはしない、ただ知る事を望む、そこで一体なにが起こっているのかを。
 興味と好奇心を持つ者達。
 彼らはシンジに引き寄せられる。


NeonGenesisEvangelion act.57
『変調:pro・logue −外典 終章 第二節−』


「銃声?」
 レイは怪訝そうにした後で、胸に痛みを覚えて膝を突いた。
「これって……、まさか!」
 慌てて駆け出し、村の奥まった場所にある広場へと向かった、途中で引き止めようとする、あるいは邪魔しようとする男達が居たのだが、レイはそれと気付かずに排除して行った。
 突き飛ばし、あるいは蹴倒し、飛び越えた。
 やがて幾重にも壁を作っている人垣が見えて来た、レイはその向こうに何かを感じて、一気に跳んだ。
 頭上を越え、いきなり降って来た少女に対して皆は動揺した、それはそうだろう、何故撃った、殺したと仲間を責めたて、責められている男もまたおろおろと顔面を蒼白にし、吐きそうなくらいの心境へと陥っていたのだ。
 相手がどんな人間であったとしても、子供であるというだけで、罪悪感にかられるらしい。
 レイは突いた膝をゆっくりと上げた、刺さるように食い込んでいた小石が落ちる、視線は一点を凝視していた。
 土の上に横たわる。
 少年を。
 レイは唇を噛み締めた。
 音がするほど手を握り込んだ。
 俯いて髪で顔を隠し、そして呻くように口にした。
「誰?」
 その声に彼らは脅えた様子を見せた、囲みを崩して後ずさる。
 たかが十を越えたかどうかの少女を相手にして、尋常ではない脅えを見せる、それ程までに昂ぶったレイの背から立ち上るものが恐ろしかったのだ。
「誰が」
 一人一人の顔には恐怖心が滲み出ていた。
「ううう、うご」
 動くなとでも言いたかったのだろうか?
 その男は反射的に手に持つ銃をレイに構えた、引き金に掛けた指を震わせて。
「あんたかぁ!」
 だがそれは逆効果であった、レイは飛び掛かると拳を振るった、ひっ、そんな短い悲鳴を残して男は絶命した。
 顔面を殴られ、後頭部から脳漿と頭蓋骨の破片を巻き散らしてだ。
 ひゃあっと誰もが腰を抜かした、人殺しと一人が喚いた、それに唱和する形で波紋は広がる。
 あっという間の伝染劇だった。
 レイは激情に駆られて獣のような雄叫びを上げ、次々と首を蹴り飛ばし、拳で腹を打ち抜いて回った。
(シンジは必ず生き返らせる……、でもその前にあんた達を!)
 ──ゴウゥ!
 そんなレイの背後で強大な光の本流が立ち上った。
 たたらを踏まされるレイ、それは渦を巻くように回転していた。
「まさか!?」
 レイは焦り振り返った。
 光の元で、シンジがゆっくりと起き上がろうとしていた、いや、光はシンジの背中から噴き出していた、一対の光が絡まり合って立ち上っていた、それが紐解かれて左右に別れる。
 さながら光の翼であった。
「今までと……、違う?」
 後ずさる、レイがそんな風に脅えるのは初めてのことだった。
「あたし……、震えてるの?、こんなのあたし知らない、あたしより強い?、そんなはず……」
 レイが驚くのも無理はなかった、碇シンジ、碇ユイ、エヴァ初号機、綾波レイ、アダムとリリス、その全ての融合体である自分は、サードインパクトの根幹となった碇シンジの異相体、あるいは同位体と言えるのだ、裏と表、そこに差は無い。
 なのに自分が届かないほどに圧倒的な存在感を放つ『モノ』、それはレイの理解を越えていた。
「シンジ!」
 シンジはのけぞるように体を起こしたが、レイの声には答えなかった。
 ただ物憂げに、その目に皆の顔を写しただけだった。
 ──シンジは悲しく嘆きを抱えさせられていた。
 自分を助けてくれた人達、優しくしてくれた人達、その顔に先程の狂気を宿した表情が重なって見える。
 ──うなだれる。
 嫌いじゃなかったのに。
 その感傷は僅かな間にも霧散した。
 みんな嫌いだ。
 苦く顔を伏せていたのは実に短い間であった、次に顔を上げた時には、もう、憂いなどは全て払拭されていた。
 記憶に蘇る幾多の想い、いつもそうだった、この世には二種類の人間が居る、自分を認めてくれる人間と、いらないと喚く人間とが居た。
 抑揚の無い声で口にする。
「……消えちゃえ」
 前者には甘え、後者とは決別して来たのだから、今更悩むことは無いだろう。
 いらないというのなら、自分にとってもいらない、いるもんか。
 必要としてくれない奴らに、必要だって思って欲しいなんて思うもんか、だから居なくなればいい、その方がすっきりとするから。
 徐々に感情が昂ぶっていく。
「シンジ……」
 それでは駄目だとレイは訴えた。
「それじゃあ、ただの我が侭じゃない!」
 レイは仰天した。
 シンジが向かって来たからだ。
「この!」
 身構えるレイに呼応して人々は逃げようとした、だがシンジの背後に居た者達には、その機会さえも与えられなかった。
 ──光の翼に見舞われて、塩の柱と化して死んだ。
 シンジの動きに合わせて光は勢いを増す、ある者は腕に、足に、その光を浴びた、その部位だけが塩となって崩れ去る、さらには噴出の勢いに曝されて吹っ飛ばされて転がった、中には首の骨を折って絶命した者まで出ていた。
 全身で浴びた者などは塩の柱となり、さらに光の勢いに粉砕されて壊れ散った。
 翼ではなく、まるで噴き出すものが翼に見える、それだけだった。
 ドン!、ぶつかり合い、二人は互いを弾き合った。
 対峙する。
 ──何かが顕現した。
 誰もがそう確信をした、あるいはそれは触れてはならぬものであり、あるいは求めてやまぬものだった。
 ──神。
 その場に居た誰もがその存在を思い浮かべて直感した。
 この少年が、それそのものであると、疑いも無く。
「シンジ!」
 全員の硬直を解いたのはレイだった、仰天する、彼女もまた姿を変えようとしていたからだ。
 シャツの背が盛り上がり弾けた、盛り上がった肉が捻り上がって平たく形状を整えた、生えたのは一対の白い翼であった、羽根の一枚も無い、粘土をこねたような無造作な造詣のものになった。
 ──出来損ないの神。
「シンジぃ!」
 レイは拳を振るおうとして飛びかかっていった、シンジもだ、二人は腕をぶつけるようにして踏ん張り合った。
 地面が割れる。
 衝撃波が辺り一片を薙ぎ倒す。
 唾が飛び交う。
「邪魔をしないで……」
「人の命を何だと思ってんの!」
「人間じゃない、人形だ、だから消すんだ」
「『シンジ』、本気なの?」
 力負けすまいとして、シンジは光の噴出をより一層強くした、いがみ合った形での力比べは徐々に体を入れ替えさせる。
 シンジの位置がずれて行く、レイとシンジ、二人の足は地から離れた、二人は渦を巻くように回転を始めた、放射状に放たれた光は人も木も全てを塩の塊に変えていく。
 村人達はようやくそれを浴びてはならないのだと気がつき、ひゃあと悲鳴を上げて逃げ惑った。
 ──だが遅過ぎた。
 背中から噴射を浴びて、彼らは吹き飛ばされながら転がり死んだ、シンジとレイは回転状態から抜け出し離れた、地に足を着いて勢いを殺し合う、少年と少女、光の翼に肉の翼、形状は大きく違うのに動きだけは対照的にそっくりだった。
 レイはシンジの目を見て舌打ちをした、認めない、目がその意思を語っていた。
 自分という存在を認めないものを認めない、肯定してくれないのなら肯定しない、存在する価値を認めてやらない。
 だからこいつらは石と同じだ。
 邪魔だから、危ないから、排除してやる。
 ──駆除してやる。
 シンジの目はそう語っていた。
 苦々しいのは、やはり自分とシンジは基本的に同じなのだと言う事だった、技や攻撃の組み立ては全く同じだ、なのに力の大きさだけが違う。
「シンジ!」
 レイは右腕を大きく振るった、その腕がゴムのように伸びてシンジへと向かう、揚げ句手のひらは大きく化けて、シンジの体を鷲づかみにした。
「くぅ!」
 だがシンジもシンジで負けてはいなかった、力み背の光を変異させる、捻じれ回転し、光は竜巻となってレイの手を千切り飛ばした。
「シンジの癖にぃ!」
 言葉とは裏腹に楽しげにする、喧嘩の動機がずれ始めているようだ、レイの手は元の大きさに戻るに連れて、元通りの形状に再生された、傷も消える。
 ここまでくれば他の村人達も無関心ではいられなかった、騒動を聞きつけて寄って来るが、二人の争いに巻き込まれて死者が出る、悲鳴が上がる、幾つもの小屋が屋根から壁、土台へと、建材をはがし飛ばされて倒れていった。
 人々は背を向けて村から逃げ出そうとした、だが駆け出そうとしても上手く足が動かなかった。
 もつれさせて転倒する。
 二人の発する気迫に当てられて、精神が失調を起こしていたのだ。
「いい加減にしなさい!」
 だがレイにはそんなことにまで注意している余裕は無かった。
「弱い者イジメなんてらしくないでしょうが!」
「先にやったのは向こうだ!、レイが教えたんじゃないか!、やられたらやり返せって!」
 ──だから邪魔をしないで。
 シンジは背中に腕を回すと、光の束をもぎ取った。
 一つ振ると、それは光の剣となる、シンジは高く高く振りかぶって跳んだ。
 ──スン!
 そんな高い音を鳴らして剣はレイへと振り下ろされた、しかしレイが持つ無敵の盾はそれを十分に受け切った。
「ATフィールドなんて!」
「中和される!?」
 さすがにATフィールド無しの状態でこれを食らえば死んでしまう、レイはそう判断して次策に出ようとした。
 ──しかしその決意は無駄となった。
 一旦剣を引いて、再び横薙ぎに払うシンジ、飛びすさったレイにこれで終わりだと彼は剣を突き出した。
 確定されていた形から解放されて、光は奔流となり、レイへと襲いかかったのだが。
 ──ギャン!
 突き飛ばされて地に転がったレイは、顔を上げて驚いた。
「ファン!?」
 レイを突き飛ばしたのは彼だった、彼女の代わりに光を受けて右腕を塩に変えていた。
 その程度ですんだのは奇蹟ではなく実力ゆえのことであった、彼は咄嗟に巻かれていた包帯を外して回転させ、渦巻を作り出し波紋を流して盾としたのだ、盾は一瞬持ち堪えて、少なからず光の力を削いでいた。
 だかこそ右腕一本で済んだのだ、よろめいたおかげでザザァと右腕だった物が地面に落ちて広がった。
「ファン?」
 シンジは呆然と呟いた。
 ファン!、そんな叫びが聞こえた気がした、倒れようとするファンにファウが抱きつく、泣いている、酷く狼狽えて、喚いている、心配している。
 遅れてカンヂ達もやって来た、どうなっているのかと驚いている。
 ──急速に耳が遠くなっていく……
 ファウの顔がこちらへと向く、嫌だ、そんな目で見ないで、シンジは訴えたが言葉には出来なかった。
 どうしてファンが、そうだファンが勝手に飛び込んで来たんだ、だから僕は悪くない。
 悪くないのに!
 見れば周囲にも、同じように自分とレイの喧嘩の巻き添えになった者達が呻き、あるいは恐怖と畏怖、そして憎悪の念を込めた目を作っている者達が居た、誰がやった?、これを誰が?
(僕は……、僕は、僕は!)
 ──メッキが剥がれる。
 最も剣呑なシンジが、どうでも良いじゃないかと口にした。
 どうせこの世は作り事、気を遣う必要など無いのだと。
 だが次席のシンジが口にした、それでもこれはやり過ぎであると。
 何もしていない人達に、腹いせで八つ当たりをするのは同じだと。
(同じ?)
 何と?
 誰と?
 その時に思い浮かんで来たのは、小学校時代、自分を苛めたクラスメートの……
「うわぁああああああああああ!」
 その顔が全て自分に見えて……
 自分が彼らと同じになったのだと知ってしまって……
 シンジは顔を掻きむしり、白目を剥いて倒れ伏した。


 ──もしカンヂが居なければ、シンジを休ませることなど望めはしなかっただろう。
 レイ達に対して恐怖心を募らせている村人達も、カンヂ達には甘かった。
 その理由は二つほどある、一つはレイ達に関する情報源が、カンヂ達であったことだ。
 カンヂ達も驚いていたことから、仲間ではないのだろうと村の者は判断をした、放置する事に決めたのだ。
 もう一つはカンヂの職のことにあった、大手の会長、それは彼らにとって、将来有効に働くものになる、その命の恩人として胸を張ることができるからだ。
 多少は見返りも期待出来ようと、下心から手を出さずに居た。
 それらの下心に対して、カンヂはならばと立場を利用した、真実はどこにあるか分からない、だがこの村はもうだめだ、余所へ移った方がいい。
 そう唆して、彼らを騙した。
 実際その通りで、シンジとレイのぶつかり合いは、村家屋の土台の柱にまで影響を及ぼしていた。
 このままではいつ倒壊するか分からない。
 死んでしまった人達のこともあった、数が多過ぎるのだ。
 これでは村を維持してはいけない。
 再建も無理だ。
「なんてことだ……」
 そう村長は落ち込んだ。
「それじゃあ、僕があの子達を見張っておいてあげるから、その間に」
 危険だという言葉は却下した。
「彼女達にとっても僕は必要な人間らしいから、人質にはされても殺されはしないよ」
 だが君達は違うだろう?、暗にそう匂わせて、カンヂは下心に溢れた下卑た村長を追い払った。
 そして今、彼はシンジが寝かされている小屋の中で片膝を立て、座っていた。
 ──小屋の中では、一同皆、重苦しい雰囲気に囚われていた。
 シンジ、レイ、カンヂ、タクヤ、それにファンとファウ、ただしシンジは気を失っているので、数に入れるのは間違っているだろう。
 ファウはファンの右隣に座っていた、無くなった右腕の付け根をさするファンを不安に思い、その左手に手を触れさせていた。
「……痛いの?」
 いや、そうファンはかぶりを振った。
「痛くは無いよ、不思議だけど……、全然」
「そう……」
 ファウは憤りを感じて叫ぼうとした。
 しかし……、ベッドの脇、下に座り、シンジの手を握っているレイを見て、何も言えなくなってしまった。
 余りにも慈愛に満ちた表情をしていたからだ。
「……」
 ファウは感傷から気持ちを噛み潰そうとした、しかしそんな想いは無粋な騒ぎに無駄となる。
 レイは外から聞こえた騒がしげな物音に苦笑を浮かべた。
「どこに逃げるつもりなんだか……」
 その口調は自虐とも嘲りとも取れるものだった。
 外の騒動は逃げ支度を整えているものだった。
 一同の中で最も不安げにしているのはタクヤであった、会長にどうしてと疑問の目をして投げかけている、ここに留まらず、誰かに連れて逃げて貰いましょうよと訴えていた。
 その一方で、事態をより正確に把握しているのはカンヂであった、逃げようとしても誰も車には乗せてくれないだろう、そう判断していた。
 少しでも家財道具を持ち出そうと躍起になっている、そんな時に頼み込めば、一体どれだけの謝礼をむしり取られる事になるだろうか?
 第一村長やその他の者は、確かに仲間などではないと納得してくれたが、全員であるかどうかは確証が持てない。
 一応、タクヤの気持ちも分からないではないのだがと考えてはいた、墜落する旅客機の中でのこと、先の事件、それらに触れていなければここまで平静で居られたかどうか、カンヂは自分でもとそう自己分析していた。
 ──この二人は、決して自分には牙を向かない。
 先のような巻き添え的なことはまたあるかも知れないが、少なくとも目の敵にされるようなことは無いはずだ。
 カンヂはとにかく落ちつけと口にした、が、無駄だった。
 タクヤの主張を聞いていると、どうやら彼は自分を村人と同じ、弱き一般市民に当てはめているようだった、自分は巻き込まれてしまっただけの被害者だ、そう信じ込んでいる。
 情けないとカンヂは派手に溜め息を吐いた、あまりにも見苦しい姿を見せるからだ。
「あなた達は逃げなくて良いの?」
 レイが訊ねたのはファンとファウの姉弟にであった。
 ファウは何とも言い難い顔をしている、ファンは顎を引いてレイを睨み付けた。
「こんなことされて、何も聞かずに行けるはずないじゃないか」
「それもそうね」
 レイは肩をすくめると、一人一人の顔を眺めていった、それぞれと目を合わせて行く、逸らしたのはタクヤただ一人であった。
「タクヤ」
 それを諌めたのはカンヂであった。
「お前は外に出て、誰か近づいてこないか見張ってろ」
「で、でも会長……」
「いいから」
 タクヤは渋々を装って立ち上がった、皮肉を込めてレイが呟く。
「コシヌケ
 何か言い返そうとしたのだろうか、タクヤは顔を左半面だけを引きつらせた、しかしレイが浮かべた嘲笑を前に意気消沈し、結局そのまま退室する。
 その背の丸め方には憐れを誘うものがあった。
「……あまり虐めないでやってくれ」
「ガキ相手に、なぁにビビってんだか」
「ただの子供じゃないだろう?」
「ただの子供よ」
 レイはぬけぬけと言い放った。
「その証拠に、おじさんは怖がってないじゃない」
「……怖いさ」
「じゃあ脅えて、かな?」
「それは……」
「おじさんには怖さを押し込めることが出来る理性がある、それはどういうことかと訊ねたら、人間ってのはワケの分からない物に対しては恐怖心を抱くってことなのよね、理解できないから恐れを抱いて避けようとする、追い払おうとする……、これは動物が持ってる警戒心そのものだから仕方ないんだけどさ、でも人間はそれを乗り越えられる性癖がある、好奇心、人だけがその感情で抑え付けることができる」
 さてととレイは居住まいを正した、何から話そうかと頬に手を当てて迷いを見せた。
「全部を話すと長くなっちゃうし、かと言って全部を話したからって信じてもらえるもんでもないし?」
 何から話して欲しい?、そう訊ねる瞳に、カンヂはずっとこらえていた疑問の答えを、今になって求めることにした。
「……君達は、人間なのか?」
 そんなストレートな質問にはあっさりと答えを返す。
「人間ですよぉ?」
 不思議と三人はどこがと言う言葉を呑み込んだ。
 人ではない、人であるはずが無いのに否定できない。
 レイは三人に対して微笑み掛けた。
「だってそうでしょう?、何を持って人とするかなんて人権擁護団体みたいな禅問答したって意味なんてないじゃない、あたしはあたしを人間だと思ってるけど、そもそも同じ単語だからって同じ意味じゃないかもしれないし」
「それは屁理屈だ……」
「そりゃあね……、じゃあ人間じゃなくなったものか、あるいは人間がそうなったもの、そう定義付けといて」
「どっちなんだ……」
「自分が人間だなんて証明問題の解を日常的に求めてる奴なんて気が狂ってるだけだと思うけど?、それに……」
 レイはシンジへと目を向けた。
「そういう意味じゃ、この世に本当の意味で存在してる『人間』の数なんてたかが知れてるしね」
「どういうことだ?」
「おじさんも、そこの二人も、シンジが作った人形だからねぇ」
 何気なく漏らされた真実、それは冗談とも受け止められるこぼされ方がされたというのに、何故だか否定の声を上げられなかった。


 ──人類補完計画って知ってる?
 レイはいきなりそう切り出した。
「かつて神様になろうとした人間達が居たの、そして神様は作り出された……、そしてその神様は必要があって新しい世界を創造した、それがこの世界」
「……本気でそう言ってるのか?」
「まあ聞きなさいって」
 レイはとつとつと語り始めた。
「シンジはね、神様の『異相体』なの、世界を創るためには基準が必要だった、だから神様はそれを自分にしたの、この世界の『ルール』に引きずられて歪んでしまった神様の姿、それがこの子の正体なの」
「神の姿の一つだと言う事か?」
「まあ……、似たようなものかな?、だからその気になったら神様と同じ力が使えるし、神様の記憶も知識も引き出せる」
「だから……、か、しかしそれを信じろと言われても」
「でも否定もできないでしょ?、それは碇シンジって存在が持ってる神格とでも言うべきものを否定する行為に繋がってしまうから、神を否定することはお父さんとお母さんを否定するくらい抵抗感のあることだから出来ないわ、だってそれは何故地球があって人間が居て自分が生まれて生きているのか、その根底にある答えを全否定する事に繋がってしまうから」
「……」
「って言っても、人間シンジは普通に人から生まれたし、普通に生きて来たのよね、それがある日突然神様の記憶に冒されちゃったって訳よ、正しくは無数にある世界に配置された全ての碇シンジの記憶と意識にね、そのために人間シンジは自分の自我もまた無限に作成されたコピーの内の一つのパターンに過ぎないと錯覚した、それからよ、シンジは自分と言うものがどこにあるのかを探し続けて、そして答えを見付けたの」
 レイの視線に、ファウはびくりと竦み上がった、あの時の……、雰囲気の変わってしまったシンジの様子が思い出されてしまったからだ。
「……自分は位相のずれた神様に過ぎない、だからこの記憶も、経験も、何もかもが作り事だからそう真剣になる事も無い、そんな風に誤解したのね」
 シンジの髪を撫で付ける。
「神か……」
 カンヂは呻いた。
「だとしたら尚更わからなくなる、どうして僕やこの子たちに関って来る必要性がある?、神だというのなら言葉を交わさずとも好きなように……」
「操ればいい?」
 レイはゆっくりとかぶりを振った。
「神だからよ」
 だから不便なのだとレイは説いた。
「神様はね、必要な時だけを作ろうとしたの、それは二千十五年から二千十六年に掛けての一年間、それも日本のある都市の出来事だけをね」
「どこのことだ、それは?」
「第三新東京市」
「あの街か!」
「そう……、だけどその出来事が起きるにはそれまでの流れが必要になる、Vの字を思い浮かべて欲しいんだけどさ、先端にあるのが神様が作ろうとした世界なわけよ、終息していく世界、だけど過去に向かっては連鎖反応的に爆発的な『要因』が誕生して広がっている、会長さんや教団、あの屍生人、全部がそこに至るまでの過程を構成する要因して発生したものだってわけ」
「じゃあ……」
 唸るようにファン。
「じゃあ、母さんがああなったのは、こいつのせいだって言うのか?」
「シンジのせいだっていうのならそうかもしれないけどさ、シンジがこの世界を作ろうって思わなかったら君も生まれてないんだよ?、シンジが作ろうとしたのはあくまで数年後の世界だけなんだからね、ああなっちゃった原因はやっぱり過去の人に求めるべきなんじゃない?」
「誰だよ!?」
「さあ?、多分中華経済圏の元締めじゃないかって思うんだけど」
 カンヂだけが自分を見る目に気がついた、それと同時に彼女がなんのために接触して来たのか、今更ながらに把握した。
(そういう事か)
 何を成すにしても、いずれは中華経済圏からの横槍が入る事になるだろう、それに対抗するためには大きな経済協力者が必要になる。
 だが今はまだ通貨統合機構は正式に発足される前段階にあるのだ、だからこそ今はコナ掛けだけで期待していない、具体的な話しをしようとしないのだと知れた。
 統合機構が倒れてしまったのなら、そのまま用済みと言う事だ。
「はっきりとしてるのは、神様シンジが作ろうとした世界は酷く限定された部分だけしか設定されていないって事、後は自由なのよね、そのせいで大量の歪みが発生している」
「歪み?」
「そう……、終息するはずなのに風呂敷が閉じ切れなくなって来てるのよね、矛盾してるけどゴールとして設定された状況を成り立たせるために派生した要因、要素達が、今度は増え過ぎて破綻をもたらそうとしている」
「君達はそれを止めようというのか……」
 勝手に納得しようとするカンヂに対して、レイはぶわっかとたしなめた。
「逆よ」
「逆だって?」
「そう、あたしとしては盛大に破綻して欲しいわけ」
「どうして!」
「わかんない?」
 目に危険な光を宿し、レイは笑った。
「だってそうしないと世界は終わっちゃうんだよ?」
 あ……、そんな呆然とした声をカンヂは漏らした。
 確かにそうなのだ、終息ということはそこに終わりがあるということなのだから。
「もっと掻き回してやれば、構成要素達はぶつかり暴れ回って、また新しいものを生んだり分裂したりするはずだから、あたしが狙ってるのはそれ、歴史はVの字に収束し終息するんじゃなくて、収束した後にX字型に広がっていってくれなくちゃ困るのよ」
 カンヂはふと引っ掛かりを覚えて確認をした。
「それは君の考えか?」
「うん」
「じゃあその子はどうなんだ?、シンジ君は……」
「シンジは別にどっちだって良いと思ってるのよ」
「だけどこの世界を創ったのはその子の……、本体?、なんだろう?、だったら」
「願いはそこで果たされるのに、どうして後のことなんて考える必要あるの?」
 その乱暴な論法にカンヂは絶句してしまった。
 確かにこの世界で生きる者達にとっては唯一無二の尊い世界だが、創った者にしてみれば幾らでも創れる、替えの利く想像の内の一つに過ぎないだろう、だが、だからといって容認は出来ない。
「そんな……」
 言葉を失うカンヂ、そんな彼の様子にはらはらとしているのはファウだった、彼女には話しが難し過ぎて分からなかったらしい。
「シンジ君は……」
 ファウは迷いはしたが、レイの目を見つめてきちんと訊ねた。
「シンジ君は……、変わってしまったみたいに感じたけど、それはどうしてなの?」
「そりゃまあ」
 頬をポリポリと掻く。
「神様の視点から見れば、都合上作るしかなかった存在……、物の一つでしかないもの、みんな」
「物に見えるって事?、あたし達が……」
「そうね」
「そんな!」
「でもそうでなきゃ堪えられないじゃない?、夢とか希望があって世界を作ったのに、その世界は勝手に歪んで酷い歴史を綴ってる、それ全部に責任取ってったら、本来自分が楽しみにしていた時が来たって、純粋に楽しむなんてことが出来ないじゃない、この世界はね、シンジにとっては想像上の世界なのよね、空想上の産物なのよ、頭の中でこんな風にって遊んでる、その物語の内の一つでしかないの、ねぇ?、ファウはファンと結婚して、こんな風になっていくんだろうなって想像したこと無い?、周りの人達を想像したことは?、それかこの村を出て外の世界で楽しく暮らすなんてことは思ったことない?、そうやって想像するのってやっちゃいけない事?、そんなの人の勝手じゃない?」
 でも……、ファウはそう言いかけて口を噤んだ、ファウにも分かったからだ、想像するのは確かに勝手だ、それぐらいの自由は誰しもが持っている。
 でなければ夢を思い描かずに生きるしかないのだ。
「神様だって人間って言うか、人間がたまたま神様って呼ばれてるだけって言うか、その辺のことはともかくさ、人間とそんなに変わんない神様が居て、自分が楽しく生きられる夢を思い描いてる、だからそこに登場している君達もまた神様と同じように考えるし感じるし生きるような存在だ、とは思えない?」
 レイは相手をカンヂへと切り替えた。
「階梯ってコトバ知ってる?、段階って意味だけどさ、上に居る者が夢想した世界が下の世界で、その世界で行われた夢想がまた下の世界を作ってる、それぞれの夢の世界は夢の主の観念や知識を基盤として成り立ってるから、作りが単純で情けないのよ」
「何が言いたいんだ?」
「『その人』が知らない知識はその世界には出て来ないって事、昔あったでしょ?、ほら、ニトログリセリン、固化できないと思われてたけど、一ヶ所で成功した途端に世界中で固まり出したって……」
 カンヂははっとして声を荒げた。
「そういうことか!」
「そう」
 にやりと笑う。
「創造主がその知識を得たから、世界中でその現象は起こるものとして設定し直された、これってその証明になると思わない?」
「だとして、階梯はなんのために引き合いに出したものなんだ?」
「逆パターンもあるって事よ、夢の世界の住人も物語が進むと個性が出て来て『自分なり』の発想もするようになる、そうなるとキャラが勝手に動き出す」
「ふむ……」
「そうすれば新しい発想や解釈、そして発明なんてものも生み出す連中が出て来る、そういった連中の存在に『夢の主』はどうなると思う?、影響を受けるのよ、そしてその存在を無視出来なくなっていく、何故って?、それは無視して都合よく動かそうとすれば、『物語』自体を破綻へと導く事になってしまうから、だから自然な『成り行き』に任せるしかなくなっていく」
 階梯って言うのは、と指を振る。
「この世界の住人とその『あるじ』との間にある落差なわけよ、いずれは主が夢の住人から物を学ぶ、そうなれば本当に上に立っているのはどっちって事になるの」
「同じ階梯に立ち、並んだと言う事になるのか……」
「そう、そのうち夢のぬしはあなた達を纏めて『キボウ』として自分の子供やその孫と言った物に写し込む、そうしてあなた達は『現実』へと産み落とされることになる、その時キミ達は本当に本当の意味で夢の主と同格の存在として成り立つ事になる、現実と言う名の上位の世界にね?、今はまだ夢の産物だけど」
 カンヂは先程から『君達』と自分を含めようとしない物言いに引っ掛かりを覚えていたが、それとは無関係な事を訊ねることにした。
「だとして、さっき言っていたね?、掻き回すことはどう繋がるんだ?」
「だからぁ、状況が難しくなればなるほど、頭を使わなきゃいけなくなるでしょ?、そうすれば細部にわたって『設定』を立てなくちゃならなくなる、どんどんどんどん考証もしっかりさせていかなきゃならなくなる、したらばみんなも間に合わせの薄っぺらな物ではダメになって、もっとちゃんとした作りになっていくとは思わない?」
「そしてそんなことを神様であるシンジ君が考えているから、君が語っているのかい?」
「さあ?、それはどうだか……」
 レイは護魔化した。
「だってあたしも今は一人の登場人物だからね」
「今は、ね……」
「それはともかくとして、あたしは困ってる訳よ、自分は神様なんだってことを知っちゃったシンジは、ボウジャクブジンに振る舞う権利があるんだって勘違いしちゃったから」
「……それは」
 困るねと同意した。
「でしょ?、その行為はせっかくここまで安定して広がった世界を壊しかねない物だモン、一体どうすれば良いんだか……」


 だがそう悩みつつも、『当時』のレイが彼らに語ろうとしなかった内容には、実に重大な問題が隠されていた。
 ──人類補完計画。
 一人の人間が自らの子に夢を託そうとするのなら、その時には良い夢も悪い夢も含めて頭の中のものを纏めて整理し、それを指針に子に体現する事を願おうとするだろう。
 そう、夢の世界に登場する、架空の人物達を統合して、教育するための理想像を形作る。
 これは人類補完計画が含んでいるものと、意味合いにおいては同じであった、統合された意識体、『精神』=『魂』は、確かに新たな子として産み落とされる事になるのだろう、高い階梯に生きる者達と同じ『子』としてだ。
 それは幸せな事なのかもしれない、あるいは強制される類のことではないのかもしれない。
 その判断は誰にもつけられない物なのだ。
(今ここにあたし達は生きている……、か)
 この碇シンジが見ている夢の世界において、綾波レイ=イエルだけが同格と呼べる存在であった、他人の夢に干渉する夢魔そのものだ、彼女はその夢を掻き回して、夢の枠を壊し、逸脱させて、現実へと引っ張り上げようとしている。
 この世界を、この世界のままに。
(だから僕は手伝いはしない……、それはレイの夢だから)
「碇君?」
 ヒビキの問いかける声に、シンジはごめんと謝った。
「ちょっと考え事をね」
「ふうん……」
 夜の道だ、海沿いではない、左右を小さな丘に挟まれている。
 二人は車が来ないのをいいことに、その中央を並んで歩いていた。
「ごめんね……」
 唐突にヒビキは詫びを入れた、後ろに手を組み、胸を張って、気まずいのか空を見上げて。
「少し……、喋っちゃった、昔のこと……」
「昔のこと?」
「うん」
「それって……、いつ頃のこと?」
 ヒビキはシンジが虐めにあっていた頃のことだと口にした。
「良い友達ね、みんな」
「そっかな?」
「うん……、関西弁の人、凄く怒ってた」
 微笑みを浮かべてからかうように口にする。
「イジメなんてするような奴が居たら、パチキしてくれるって」
「そっか」
「パチキってなんなのかな?」
「殴るって意味だよ」
 そうなのと驚くヒビキにシンジは告げる。
「鈴原君は悪いことは悪いって、許せない人なんだよ」
「そうなんだ」
 丸くした目を元に戻し、はにかんで笑った。
「好い人が多くて、今は幸せなんだなって、ちょっとほっとしちゃった」
「悪くは無いけどね」
「あの頃は、何も出来なかったから……」
「何もって」
 シンジは少々呆れていた。
「本当に引きずってるんだね、ヒビキさん……」
「うん……」
「僕はもう良いと思ってるんだけどな」
 難しいなと口にする。
「僕は……、ヒビキさんのこと、嫌いじゃないんだ」
「ありがと……」
「嫌いたくないとも思ってる、きっとあの頃もそうだったと思うよ?、さすがにもう忘れちゃったけどさ」
 忘れた、との一言に、ヒビキは胸に痛みを覚えた。
「そう……」
「うん、好きじゃないけど嫌われたくも無いから迷うことってあるよね?」
「そう……、ね」
 告白を強要された時。
 自分もそうだったと思い出す。
「ほんとにね」
「だからさ、空港でヒビキさんが飛び付いて来た時、話くらいはしておいた方が良いかなって思ったんだ、嫌いじゃないよって、それは言っておかなくちゃって思ったから……、邪魔が入って台無しになっちゃったけどね」
 二人で会おうとすると、いつも邪魔が入るよね、そう言って笑う、だがヒビキはそんな笑顔にこそ辛さを覚えた。
「あたしは……、ちょっとだけ後悔してる、だってね?、碇君にとって今はあの時の続きで、あたし達にとってはあの時が今なんだなぁって」
 困惑する。
「……ごめん、良く分からないんだけど?」
「なんて言えばいいのかなぁ?、碇君はあの事があってから、色々な場所に行ったって言ってたよね?」
「うん」
「碇君にとっては、ただ別の場所に行こうと思って行っただけだったのかもしれないけど……」
 シンジは彼女が何を言いたいのか、僅かながらに理解した。
「ヒビキさんにしてみれば、消えてしまったように見えたんだね」
「うん」
「だからどうしたんだろうって?」
「そう、何かあったのかもしれないし、家出したのかもしれないし……、行方不明っていうのは、そこに住んでる人から見た場合のことで、出ていった人はいなくなってるつもりなんてないものだもんね」
「……悪いことしたね」
 シンジはそう謝罪した。
「その通りだな、僕には行方不明になってるなんて意識は無かったよ、ただあそこを捨てただけのつもりだった」
「行方が分からなくなっちゃったって心配してたのは、あたしの勝手だから……」
「それでもだよ……」
 はぁっと息を吐く。
 割り切った側のシンジにとっては、あの街での想い出などに未練は無い。
 人の死と同じだ、死んだ人間は何も思わない、だが生きている者はあの人の無念がと、あるいは幸せだったと、勝手にその心情を推し量る。
 死んだ人間の無念さなんてものは、生きている側の人間が勝手に作り上げた感傷に過ぎない、置き捨てたものになど興味は無かった、だがヒビキにはシンジはここに絶望して消えてしまったのだと感じられたのだ、絶望は期待していたからこそ起こる物で、そしてその期待に自分は気付きながらも何も出来なかった。
 それは主観の違いだった、ヒビキは絶望して消えたと思い込み、シンジはただより良い場所へと引っ越しただけのつもりだったのだから。
「迷惑をかけちゃったな」
 苦笑して、シンジはヒビキの前に回り込み、彼女を立ち止まらせて頭を下げた。
「ごめんなさい」
 それは気持ちの良いくらいに、さっぱりとした物言いであった。


「……消えた」
 ──少し遡り、幼子シンジが気を失うのと前後して、そう一人ごちた少年が居た。
 もう一人の少年、イカリシンジである。
 彼は神殿のような場所に居た、石作りの奇妙な祭壇を前にしている、着ている物は白い薄絹の貫頭衣だった。
 その背後に控えているのはエリュウだ、数年後の二千十五年と全く姿が変わっていない、イカリシンジと同じである。
「目覚めましたか?」
「まだだろうね」
 二人は祭壇に背を向けて歩き出した。
「不測の事態ってやつじゃないかな?、母さんもよくやる」
「碇シンジ、もう一人のあなたをご処分なされた方が早いでしょうに」
 シンジは剣呑な声音で釘をさした。
「エリュウ?」
「はい」
「そういう事は言うな、あの子も間違いなく僕なんだ」
「はい、ですが憎くは無いのですか?」
「お前の思い描く神とやらは、人並みに妬心を抱いて殺し奪うのか?」
 お許しをと頭を下げた。
「軽率な事でした」
「……カヲル君が行ってしまったことは寂しいよ、けれどそれはあの子のせいじゃない、いずれカヲル君には戻って来てもらうよ、そのためには」
「碇ユイへの干渉を強めますか?」
「そうだね、母さんの思い通りにさせ過ぎると、後々厄介になって来るから……」
 その辺りは任せると言い、彼は先に神殿を出た。
 オリエントな雰囲気をかもし出す神殿が丘の上に建てられていた、正面には崖があり、海原が広がっている。
 彼はそれらを睥睨し、重苦しい雲の張る空からの強風を受けて顔をしかめた。
「……復讐は果たすさ、罪も償わせる、自己欺瞞だってことは分かってるけど、それでも迷惑を掛けてしまってる無関係の人達に対する贖罪は行っておきたい、そのためには世の中をより良く導く存在が必要なんだ」
 彼が頭に思い浮かべているのはゼーレと言う存在についての情報であった、ゼーレ、彼はそれを秘密結社のような存在だと思い込んでいた。
 だが調べれば調べるほどに、それは過ちであったと気付かされていった、ゼーレとは団体や組織のことではなく、その名が示す通り、特定のあり方を持つ魂の持ち主達のことを指し示す言葉に過ぎなかったのだ。
 その発祥は中世にまで遡る、当時としては日常的だった謀略、情報戦略の基本、風説流布。
 純朴で、また情報の確認手段を持たなかった人々は、そのような噂に常に躍らされていた、地位のあるものは己の地盤を固めるために、そして他者の根幹を揺るがすために有りもしない噂を放った、これを広げていったのは唯の噂好きの酒飲みであったり、主婦であったり、特に悪気を持たない人々であった。
 彼らは自分が広げている噂にどのような意味と価値があるのか知らなかっただろう、だが時としてそのような与太話の類が国の存亡に関るような大問題すらも引き起こしたのだ。
 何々婦人とどこかのお貴族様が不倫を、そんな根拠の無い噂話は今も昔も変わらない、そして流言蜚語りゅうげんひごに躍らされた人物が嫉妬に狂って破滅へと向かうのもまた変わらないのだ。
 ゼーレとはすなわち、そのようなたわいない井戸端会議に勤しむ、無邪気で無責任な者達のことを差していた、彼らは時として現在への不満を訴えて立ち上がり、王朝を倒し、新たな世界を築く事もある、あるいは政治経済の頂点に立つ事もある。
 そして現在。
 自らをゼーレと呼称する確信犯が存在していた、実に一握りの存在なのだが、彼らは常に噂を撒くだけである、そして結果がもたらされるのを待つ、人々を奔走させてだ。
 回収の時が来るまでは乗り出さず、ただ見ているだけの者達である。
 実行力を持たない存在、今彼らを処分したならばどうなるか?
「……」
 彼は無駄な手間が増えるだけだと感じていた、何故なら嘘と噂に躍らされて、もう多くの人々がそれぞれの想い故に走り出してしまっているからだ。
 噂の元締めは待っているのだろう、その一つ一つの結果が総合的に絡まって、己の求めた希望が現実に結像するその瞬間を。
 もしもその要である存在を排除したならば、それぞれが独走を始める事になる、コントロール出来なかった事例として、セカンドインパクトが存在していた。
 あのような事態を二度と引き起こさないようにするためには、誰かが手綱を引き締めていなければならないのだ。
 そしてそんな暇も影響力も、今はまだ持ちえていない。
(癪だけど……、母さんの真似をするしか無いんだよね)
 固い顔をして、内心では吐息をついていた、台頭できない今はまだ、共棲して利用するしかないのだ、いずれは引き継ぐ形で役割を奪うにしても。
『過去』、最大にして最高にゼーレ的な策謀の罠が効力を発揮したのは、やはり戦略自衛隊によるネルフ本部侵攻作戦であっただろう。
 ネルフがサードインパクトを目論んでいる、それを示唆するデータを国連内部に広げる事で、ついには日本政府を動かし、実践した。
 例えどんなに強固な組織を作り上げたとしても、ゼーレ的な人間の流入は避けられない、そして一人の人間がばら撒くたわいないジョークは、より多くの人によって脚色され、いずれ真実味を帯びて定着していく。
 最初の人間は冗談のつもりであっても、一周して来た頃には穴が埋められ、最初に口にした当人が、本当にそうだったんだと驚かされることになる。
 往々にして真実とは、そのようにして生まれてしまうものなのだ。
 世界においてこのような人心の誘導に長けている、ゼーレをゼーレ足りえるよう導いている老人達から力を削ぐためには、まずその噂を受け入れさせない体質を備えた体勢作りが必要であった。
 イカリシンジ、彼はそれを宗教に求めていた、マインドコントロール紛いの心理誘導によって精神防壁を構築させて、コマンドを育成する。
 対してレイはと言えば、タクヤを排斥しカンヂのみを巻き込もうとしたように、人が生来持っている心根の強さに期待していた。
 真実を容易く看破する、人が本来持っている気概とでも言える真っ直ぐさにだ。
 ──そして両者は互いに、ゼーレ的策略を受け付けない人員による、組織の作成に従事していく。
 それはまた後のこととなるのだが……
 目を覚ました時、シンジの傍にはレイだけが居た。
 シンジは体を起こしてうなだれた、顔には苦渋を滲ませていた。
「……」
 何も言わないシンジに苦笑し、レイは体を伸ばしてその髪に手を差し込んでやった、くしゃりと撫でる。
「ファンから伝言」
 びくりと竦む。
「父さんも母さんも殺された……、悲しいし悔しい、この気持ちが作り物だなんてこと言わせない」
「……」
「ファウからも伝言、あたし達は大貫さんの養子になります、元通りのシンジ君に、また会える?、後の方はあたしが聞かれたことだけどねぇ」
「……」
「そんでもって会長さん、利き腕を無くしたファンとファウでは、とても生きてはいけないだろうから僕が預かる、ファウは君の花嫁候補でファンはライバルだ、迎えに来てくれるよう祈ってる、もし他に好きな女の子が出来たというのならそれでも良いけど、せめてファウが納得するよう、その相手には会わせてくれ、……あの人も冗談きついわ」
 体を揺すってレイは笑った。
「で、どうするの?」
 レイにはもう分かっていた。
 そこに居るのが、本当に本物の、自分が愛したシンジであると。
「ごめん……」
 シンジは顔を上げた、まだ泣き顔に近いのだが、笑っていた。
「ごめん」
「上等」
 レイはその頭を抱き込み、シンジにもたれかかって一緒にベッドの上に転がった。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。