森の中を歩き進む。
 ふと振り返り、シンジは無人となった村への感傷を解き放った。
「レイ?」
「ん〜?」
 シンジは少し早歩きになって追い付くと、唐突なことをお願いした。
「楽園の僕の部屋……」
「ん?」
「片付けて欲しいんだ」
 意味が分からず、ほえ?、っとなる。
「掃除ならナオコさんが……」
「違うんだ」
 唇を噛み締める。
「……あそこには住んじゃいけない、そんな気がする」
「……」
 レイは探るように問いかけた。
「どうして?」
「気付いたんだ……」
 とつとつとこぼす。
「あそこは……、楽園は、あの世界と同じだって気がついたから」
「あの世界?」
「あのみんなが一緒になった世界と同じだと思うから……」
 ──サードインパクトの後に見た、穏やかな。
 それは面白いとレイ。
「妙なこと言うのね?」
「だって痛みのない、誰にも傷つけられる事のない、みんなに分かってもらえる場所、同じじゃないか」
「だから?」
「僕はもう帰れない、あそこを帰る場所にしちゃいけないと思うんだ、逃げ込む場所があったら、きっと同じことをしてしまうから、『僕』と」
 言葉のニュアンスは、誰か違う人間のことを指していた。
 それはきっと……
「僕は『僕』じゃないけど、でも『僕』と同じことをしちゃいけないと思う、逃げちゃだめだ、だからあの家はいらない」
「そう……」
「うん、苦しみも悲しみもなく、ただ暮らしていられる様なそんなぬるま湯みたいな世界、それってきっと、父さん達が望んだ世界とそんなに変わらないと思うから、だから……」
 苦々しく口にする、それはあの場所で『自分』が出した答えとは違うから、傷つけ合うことになってでも、触れ合うことを望んで『還った』はずだったのに。
「じゃあ、どうするの?」
「わからない……」
 心底、泣くに等しい声を発した。
「わからないんだ……」
 震えていた。
 そんなシンジに対して、しょうがないなぁと苦笑する、愛おしいとレイは満面に謳っていた。
 シンジの脅えも分からないではない、希望を求め、夢を掴むためには冒険に出るしかないのだ、それは先の見えない世界に飛び込むと言う事である。
 そこには危険が付きまとう、絶望する事もあるだろうが、それでもだ。
 ──それこそがレイの望んでいた融合の形であった。
(自分を『あっち』のシンジだと思うんじゃなくて)
 こちらのシンジがあちらのシンジの経験を糧にして、成長する、だからこの苦悩の形は好ましい。
 これまで後ろ向きだった少年が、やっと前を向いてくれたから。
「だから僕は」
 シンジは顔を上げて、涙を拭いた。
「だから僕は僕を見付けたいと思うんだ、『前』も『今まで』も僕がいなかったから、僕は死んでるのと同じだったから、今度は生きているんだって言いたい」
 そして叫びたい。
「僕は、僕の証しを立ててみたい」
 ──誰よりも碇シンジらしく。
 誰に何を言われても揺るがないほどに。
「そう」
 ま、それも面白そうだとレイは思った、多少意気込み過ぎだとは思いつつもだ。
「じゃあ、学んでみれば?、一つ一つね」
「うん」
 碇シンジがどういう人間であったのか。
 何がしたい奴だったのか。
 何をしたいと考えたのか?
 そしてどうなりたいと思っていたのか。
 この世界に生まれた自分と、別の世界で神様をしている碇シンジとの間に差は無い、生まれも育ちも似たような物で、自分にないこれからのことは、向こうのシンジから受け入れている。
 だが一つだけ違う事がある。
 それはあちらのシンジは、時と呼べない澱みの中に居るだけでたゆたっているのに対し、自分は更に成長し、『これから』先へと変じることが出来ると言う点だ。
(僕は碇シンジだ、それと同じくらい、もっと碇シンジになってみせる)
 あたかもレイが語ったように、理想の自分を思い描いて夢とする、そしてこれから様々な事を学び、夢を育み、そして体現して見せるのだ。
 そうして自分を高くする、格を上げる、自分の階梯を引き上げる。
 そして向こうのシンジの意識と記憶に呑まれ掛けたように、逆に向こうのシンジを呑み込んでみせると……
 シンジは強く心に誓い、そして全ては2015へと流れつき。
 新たな歴史を綴り始めた。


NeonGenesisEvangelion act.58
『変調:pro・logue −外典 終章 第三節−』


白龍パイロンだと?」
 顔をしかめたのはロンホゥと名乗った男に非常に良く似た男性であった。
 金糸をあしらった赤い中国服に身を包んで、豪奢な椅子に腰掛けている。
 ──彼こそが本物のリー・ロンホゥである。
 威厳、迫力、あらゆるものの桁が『一つ』ほど違っていた。
 人の上に立つには十分な威圧感を持ってはいるが、人並み以上というわけでもない、碇ゲンドウにも及びもつかない。
 その理由は彼が頭首であると言う権勢に頼っている、ただそれだけの男だというところにあるのだろう、それでも権力を羨む者達にとっては、彼は権力とイコールで結びつく象徴である。
 配下が跪いているのは、リー家の権力に対してであり、彼にではない、だが彼にとっては同じことなのだろう、リー家とはすなわち自分自身を指し示すのだから。
「あのパイロンがまだ生きていたのか」
 唸る、影武者よりも事態への認識については、彼の方が正しい感覚を持っているらしい。
「如何致しますか?」
「如何だと?」
 ふんとロンホゥは鼻で笑った。
「最強と謳われた白龍筋刀術士の中でも最上の暗殺士であるパイロンを相手に手を出すというか?」
 男はさほどの感慨も受けずにを答えを返した。
「確かにパイロンは我々の手に負える者ではないでしょう、ですが今は飼犬に成り下がっております」
「……説明しろ」
「こちらを」
 袖口から写真を取り出す。
 それはホテルに入ろうとしているレイとマユミの写真だった。
「それが?」
「黒髪の少女、名を山岸マユミと申します」
「ふむ」
「この娘、大貫カンヂと繋がりが」
「なるほど」
 顎を撫でる、パイロンの飼い主はカンヂであり、そのカンヂとこの娘に繋がりがあるのなら、間接的な弱みである可能性は高い。
「だがな、影の護衛共はパイロンではない者共の手に掛かったと聞いたが」
「それならばそれで……、この娘の価値を計る事になりましょう」
 護衛が居るのなら高い重要度を持っている事になると言っているのだ。
 しかしとロンホゥはそれでも渋った、それは彼女が第三新東京市第一中学校二年A組の生徒だからだ。
(手を出すわけにはいかんのだが……)
 それをどう言い含めるかが問題になる。
 連絡役を務める事でのし上がって来た男である、人心動きについては誰よりも良く熟知している。
 エヴァンゲリオンは精神状態に左右される代物だ、そのパイロットは常に限りなく安全な場所に置いておかなければならない、もしクラスメートになんらかの問題が発生すれば?、パイロットが脅えて竦み上がってしまわないとも限らないのだ。
 ──だからこそ、ドイツ支部はセカンドに対して、過剰とも言える『褒め殺し』を行っていたのだから。
 調子に乗れば乗るほど性能が上がる兵器である、その搭乗者の精神を失調させるような事件を起こしてはならないのだ。
(小娘一人……、その考えがどれほどの言い訳になるというのか)
 パイロットには脅えや緊張は与えてはならない、その精神に傷を負わせるなど以ての外だ、そう考える反面、本当に手出しは出来ないのかと考えをめぐらせてもいた。
 ──現在、彼はゼーレ七位の地位に居た。
 ゼーレ、その謎の組織に対する彼の恐怖心には計り知れないものがあった、得体が知れないのだ、ゼーレと言う存在は。
 上位の者達がどこかの財閥や政府筋の人間であることは言動から知れる、しかし正体を掴む迄には至っていない。
 リー家の情報網、諜報網を総動員しても掴めないのである。
 そんな気味の悪い者達が、この世界を取り仕切っている、そう考えると下手な身動きも出来なくなる。
 しかし実際の所、そんな考えは杞憂に過ぎないものであった。
 ゼーレとは人心を惑わし、拐かす、耳に囁く者、お化けの様な存在であったはずだった。
 それになぞらえて、自らをゼーレと名乗り出した者達が居た、冗談のつもり……、であったのだろう、それがいつしか秘密結社の様相を呈し、人心を掌握し、噂を流布する術を洗練させることで、実力を持つに至ってしまった。
 ただそれだけの存在であるというのに、ロンホゥはありもしない正体に脅えてしまっていた。
 ──まさに術中にはまり込んでしまっている。
 本当の意味での力を計れば、政治的にも、経済的にも、ゼーレの上位者は彼の足元にも及ばないだろう、なにしろ華僑を束ねる頂点にあるのだ、もしかすると上役は彼の下に居る者かも知れない。
 だがゼーレと言うに躍らされ、彼はそんなことがありえるなどとは、想像もしていなかった。
 生まれる以前から存在し、ずっと世界を牛耳って来た影の支配者集団。
 そう信じ込んでいた。
「……」
 いつもと違って即断せずに黙り込んでしまった主の様子に、男は動揺から焦りを浮かべた。
 これまで彼は何一つ過ちを犯したことは無かった、主の考えを読み、命じられる前に実行に移す事で、実績を積んできた。
 重宝がられるように努め、成功して来た。
 ただ彼は自分の主が、ゼーレと言う秘密集団に属している事を知らなかった、それ故にネルフとの関りも知らず、チルドレンとその候補生達にも考えを馳せることは出来なかった。
 ──矢は放たれてしまっていたのだ。
 彼の独断による、専行で。


「なんだろう?」
 晩ご飯食べられなかったし、ホテルのレストランででも、そう考えて戻ったシンジであったのだが、予想外の騒ぎに顔に驚きを表した。
「あ、碇君、戻って来たのね?」
 白々しく声を掛けて近くに寄ったのはミエルである。
「先生……、何かあったんですか?」
 こちらもまた白々しく訊ねた。
 ミエルは頷くと、小さな声で不審者が潜り込んだと伝えた、ヒカリからシンジが出かけた事を聞き、彼女はこの件に関係しているのではないかと勘繰っていた。
 そのためにシンジのことは学校主任に報告せず、胸の内に収めていたのだが。
「不審者ですか……」
 シンジは目だけで訊ねた、他にはなにがと。
「山岸さんの部屋に入り込もうとしたらしいのよ、幸い、綾波さんが一緒だったんで助かったんだけど……」
 そこにあるのは困惑だった。
 彼女、綾波レイがそれなりに訓練を受けていることは分かるのだが、それでも捉えた男の素性はまともではない。
「……綾波じゃなくて、山岸さんを?」
「そうなの、何か知ってる?」
「いえ……」
 首を傾げる様子に、これは本当のことだなと彼女は判断した、それと同時に胃が重くなるのを感じていた。
 不審者はアジアンマフィアにカモフラージュしていたが、筋肉と目のふてぶてしさは隠しようが無かった。
「その人は?」
「『警察』に引き渡したわ」
 もちろんハロルド達のことである。
 この手のことはムサシかパイロンが詳しいだろう、そうハロルドには聞かされている、それでも落ちつかないのは化け物は目の前の少年だけだと思っていたのが、実はもう一匹居たからだ。
「碇君」
 呼び掛けられて、シンジは首を向けた。
「綾波」
 向けた首をさらに傾ける。
 やけにすっきりとして見えたからだ。
「何があったの?」
「別に」
「別にって……」
「問題無いわ」
 ああ、そう……、シンジはそう深くは追求しないことにした。
 上機嫌に見えたからだ、それを崩すことは無いだろうと。
 実際、レイは軽い興奮状態に陥っていた。
(すっきりした……)
 突然の乱入、闖入者に驚くマユミ、それとはうらはらにレイの行動は素早かった。
 放たれたのが銃弾だったのかどうかは分からない、あるいは針のようなものだったかもしれない、それはレイの右耳をかすめていった、髪が散る、しかしそれらが床に落ちるよりも早くに、レイの蹴りはスーツの男の腹を捉えていた。
 ドン!、扉にぶつかった反動で男はレイへと近づいてしまった、レイはその顎先を蹴り上げた。
 ガン!、浮く顎に引きずられる形で男の体は持ち上がった、その腹にレイの拳と回し蹴りと横蹴りが流れるように決まる、軸足である左足は一歩も動いていない、見事だった。
 マユミはベッドの上で身を竦めることしかできなかった、その目前を殴られ、蹴られた男が倒れる事を許されず、よろめき追い詰められていく。
 ガシャン!、災害対策用に特別に設えられているはずの強化ガラスが割れた、割ったのはレイだが割らされたのは男だった。
 男の体が窓の外に消えた、悲鳴が続く、発したのはマユミだが、彼女が上げたのはレイが追いかけるように窓から飛び下りたからだった。
 レイは完全に白目を向いている男を真っ直ぐに落下しながら見止めた、地上までは数秒も必要としていない、が、死ぬ心配はしていない、そこにあるのは池だからだ。
 ホテルの作りは完全に頭の中に入れてある、池の深さもだ、腿ほどもない深さだが、底は泥が沈殿していて、クッションとして役に立つ。
 どっぱぁん!、二つの水柱が順に上がった。
 噴き上がった水が小雨となって降る、その中を男はもがいた、自分の状態が分からずにパニックに陥ってしまっているらしい、溺れていた。
 レイは立ち上がると、その腕を掴んで放り投げた、背負い投げだ、見事池の外に叩き出す。
 したたかに背を打ち付けたからだろうか、男は正気を取り戻した、激痛に堪えて立ち上がろうとする。
 レイはゆっくりと威圧しながら池から上がった、ひとつ頭を振って水気を払う。
 無言、故に男は対処に困った様子を見せた、逃げるなと叫ばれたなら逃げれば良い、向かって来るようなら排除すれば良い、だがどのような意図をもってこのような真似をするのかが分からない。
 レイは予備動作無しに男に迫った、抜き手を振るう、男はつられて受け止めようとした。
 ──右手首から先が飛んで落ちた。
 男はまたもパニックに陥った、斬り落とされたのでももげたのでも無い、取れたのだ。
 自分の手が。
 腕の先は奇麗に丸くなっていた、傷はなく、まるで最初からそのような形であったような、そんな感じに整形されてしまっていた。
「ひっ」
 男は悲鳴を上げて後ずさった、驚愕や恐怖以上に、その顔には畏怖の念を張り付けていた。
 レイはただ手を伸ばした、彼の左肩を掴む、やはり腕が取り外された、中身の無くなった袖が揺れる。
 男は手先の無くなった右腕を奪われた左腕へと伸ばした、言葉にならない喘ぎを発して。
 ──ボグ!
 レイは正気を失った男の側頭部に、その腕を叩きつけた、首に引きずられて流れるように男は倒れた。
 腕を放り出す、どこかに落ちていた手が滑るように動いて男の元へと戻って来た。
 気を失っている男の腕先に吸着し、元通りになる、左腕もだ、勝手に動いて吸着し、元通りに収まった。
 人が持っている自分を自分とする形態形成場が、『分離』させられた事に対して違和感を発し、元の形状に戻ろうと復元作用を引き起こしたのだろう。
 そんなはずはないと強く否定し、現実を認めなかった事が男を救ったとも言えた、だがレイはそれについては興味を示さず許した、別の集団が現れたからだ。
 男と同じく、ビジネススーツを着込んだ男達が取り囲むように現れた、どの顔も痩せこけている、あまり裕福な国の出身ではないと知れた、目がぎらついている。
 レイの口元に微笑が張り付く。
 それはどこか、もう一人のレイに似た印象を抱かせた。
 ──そして五分後。
 折り重なって倒れている男達、そして最後となる男とレイが交錯した。
 彼女……、ミエルはなるべく早い段階からここに居た、それはゴドルフィンと逢い引きをしていたからなのだが、そのためにレイの全てを目撃することとなってしまっていた。
 がさりと隣りで音がして竦み上がる、立ち上がったゴドルフィンに酷く焦ったが、彼の方は意に介していなかった。
 レイに話しかけ、後の処理はこちらですると平然と伝える、もしこの連中の仲間だと思われたらどうするのか?、そんな恐れを抱かない上司、いや、父親が理解できなかった。


 警察に扮装した一団が去ったのは十数分前だというから、意外とすれ違いに近かったのだろう。
 シンジはマユミを訊ねて、彼女がまだ青ざめている事に軽く憤りを感じた。
「大丈夫?」
「は、はい……」
 マユミが驚いているのは、突然男に襲われ掛けたからだ、ここはマユミと彼女と組んでいる女の子の部屋であって、レイの部屋ではない、ならば狙われたのは自分だと言う事になる。
 寄っていって下さい、そう誘ったのは自分だった、もし誘っていなかったならば?、レイが誘いを受けてくれていなかったなら?
 血の気が引いて、寒気を覚える。
「山岸さん」
 シンジはマユミの前に跪く形でしゃがみ込んだ。
 彼女の膝の上の手に手を重ねて顔を覗き込む。
「心当たり、ある?」
 マユミはかぶりを振って否定した。
「ありません……」
「そう」
「でも……、こういうこと、初めてじゃないから」
「そうなの?」
「はい……」
 マユミは父親の仕事がらみで、誘拐については幾度か経験があると告白した。
「運良く、いつも助かっているんですが」
「運良くね……」
「はい、でも慣れなくて」
 シンジは慣れなくていいんだよと告げた。
「そんなの……、慣れる方がおかしいんだから」
「そうですね」
 気丈にも微笑む、シンジはそんな彼女の態度に痛みを覚えた。
(いつも大丈夫とは限らない、次はどうなるか分からない)
 ここに来て難題が増えたと嘆息する。


 ──ネルフ本部。
「この短期間に襲撃が二度か」
「その内の一方はリー家の者が逸ったらしい」
 ゲンドウの言葉にほうっと口にしたのはコウゾウだった。
「情報が早いな」
「ああ……、頭首直々に詫び状が届いた」
「手紙?」
「これだよ」
 ゲンドウが見せた写真にぎょっとする。
「……吐きそうになるな」
 ああと頷く、それは届いたメールの添付画像をプリントアウトした物なのだが、そこには首だけとなった男の姿が晒されていた。
 リー・ロンホゥの元、独断で誘拐劇を行おうとしたあの男の首だった。
「これがリー家のやり方か」
「ああ、これで事が済むと思っているのだからな」
 ゲンドウの物言いに、コウゾウは顔をしかめた。
「何を言ってる?」
「分からんか?」
 蔑みを浮かべる、それはリー家に対する物であってコウゾウにではない。
「重宝していた部下の首と引き換えに許せと言っている、自分達には価値があるのだとな」
「……そういうことか」
「ああ」
 本人にとって例えどれだけ価値があろうと、他人には無価値な場合がある。
 プレミアというものは個人的価値観に基づく物だ、この場合収めよというのであれば、双方にとって価値のある物を差し出すべきである、が、リー家が差し出したのは首謀者であり参謀であると言う男の首一つだった。
 リー家にとっては重要な人物であったのだろうが、その価値はネルフにとって無関係な物だ。
 得にもならない。
 ゴミ同然である。
「で、どうする?、狙われたのが監査官の愛娘だということになると厄介だぞ」
「対策は既に組んである、問題は無い」
「本当だろうな?」
 疑惑の目を向ける、それも当然で、これ程早く対応が出来るはずが無いからだ。
 もし本当であったのだとすれば、それは以前から準備を進めて来た物を、ちょうど良いとばかりに持ち出した、そうとしか考えられない。
 しかし、そんなことが可能だろうか?、腹心である自分の目をかいくぐって、そのような真似が。
「……安心しろ」
 そんな彼の疑念を読み取ったのか、ゲンドウは説明した。
「エヴァンゲリオン部隊統括管理官の申請を許可しておいただけだ」
「統括管理官と言えば、支部から引き取ったあの子か」
「そうだ」
「申請だと?」
「ああ」
 無表情に口にした。
「エヴァンゲリオン部隊警備部特設のための予算申請だ」
「……聞いていないぞ」
「いま口にしたからな」
「……他には何がある」
 全ての憤りを押さえ込んでそう訊ねられる点が、副司令たる所以ゆえんだろう。
「兵器開発のための部の創設願いも出されている、これは保留しているがな」
「当たり前だ、エヴァをそう好き勝手にされては困るぞ」
 冬月がそう口にするのも当然のことだった。
 エヴァンゲリオンは確かに兵器であるが、同時に研究のための素材でもある。
 人類補完計画、この計画のために組み込んである装置の類も多いのだ、下手に許可を与えればこれらを探り出されてしまう可能性が高い。
 しかし。
「恐れることは無い」
「なに?」
「MAGIのプロテクトを破られている以上、今更のことだ、問題にはならん」
「だがなぁ碇」
「聞け、シンジ達は既に全てを知っている、知っていながら妨害工作には出ていない」
「……」
「つまりは俺達を利用するために、今は手を出すつもりは無いと言う事だ、ならばこちらも利用させてもらうさ」
「なら、どうして認めなかった?」
「赤木主任がうるさいからな」
 はぁっとコウゾウは深く溜め息を吐いた。
「ならば葛城君はどうするんだ、今はまだホーリア君の権限を制限する事で護魔化してはいるが」
「彼女には退いてもらうと言ったはずだ」
「だからどうやって?、そう簡単に行くのか?、彼女は……」
 ゲヒルンからネルフへと転身してすぐのことである。
 内部向けに使徒についての情報公開を行った、その時に総司令となったゲンドウのもとに押し掛けて来たのが彼女である。
 南極ではお世話になりました、そう切り出したミサトをコウゾウはどういうつもりかと眺めたものだった。
 ゲンドウとミサト、その両者に面識があるのは想像が付いた、彼女は葛城調査隊に同行していたし、ゲンドウは南極からの最後の便で引き上げた人間だから、接触の機会はあったはずなのだ。
 ミサトが切り出したのは、作戦部への転属願いであった、別段その長にしろというのではない。
 それでもより深く関れる地位を欲していたのは事実である。
 だからこそ作戦部付けとなった後、頭角を現したのだから。
 来るか来ないかも分からない物に対して、真剣に職務にはげむ者は少なかった、競争相手が居なかった事が、彼女に昇進をもたらしていた。
「彼女がここへ押し掛けて来た日のことが忘れられんよ、わたしは唯一、間近に肉眼で使徒を目撃した人間です、その恐ろしさも何もかもに直接触れた人間です、それを根拠に作戦部へ押せと言った彼女をな」
「ああ……」
「その彼女が直接の使徒迎撃兵器であるエヴァを手放すと思うか?」
「作戦部の仕事はエヴァの運用だけではない、山岸監査官からの突き上げもある」
「突き上げ?」
「組織の改善を要求してきている、これほど巨大で、人員の数も膨大であるにも関らず、その組織形態は驚くほどシンプルであるとな、そのために発生している弊害まで知らせて来た、このまま報告するのは気の毒過ぎるとまで添えてあった」
「ほう?」
「技術部だけでもエヴァに地上施設にジオフロントの開発と役割が多過ぎるとな、確かに多少の分割は必要だ」
「だからエヴァの兵器開発については分散するというのか?」
「戦う本人達が欲しいと思う武器を作るというのだ、別に問題はあるまい」
「……俺は無いとは思えんが、では赤木博士を説得した後に発足させるのだな?」
「エヴァに関するものについては、一つの部署として切り離す」
「そこまで許すのか?」
「補完計画の研究は素体があれば出来る、問題は無い」
 コウゾウは渋々ながらも首肯した、素体は初号機用の予備パーツとして作成したものが存在している、本来であればこれは度重なる戦闘に対する消耗品として扱う所だったのだが、存外に優秀であったチルドレンのおかげで、手付かずのままとなっている。
「戦闘はシンジ達にやらせる」
「その分だけ研究に勤しむか……」
「本部中央作戦司令部付きということで命令権は確保してある」
 だからなにも問題は無いとゲンドウは言い切る。
「葛城君には今後も政治屋の相手をしてもらうさ」
「それがお前の切り方か?」
「ああ……」
「ふむ」
 コウゾウは独り言のように口にした。
「彼女は……、なまじ才覚があったことが災いした面があるからな、もう一つ二つ下の役職に収まっていれば問題は無かっただろうが」
「……」
「ここから先は彼女にはきついか、責任も負い切れなくなるだろうし」
 まあ良しとする。
 放逐するというのであれば喚かれようが、それも仕事であるとの命令であれば、渋々であろうと従うだろうと。
「では後は赤木君の問題か」
「ああ……」
 何か重苦しい声音だったが、コウゾウはそれに気付かなかった。
 それはどこか、気の重さを滲ませているものであったのだが。


 本部ドグマ最下層、赤い地底湖。
 その中より屹立している幾本もの塩の柱、その上に二つの人影が窺えた。
 一人は少女で、腰かけている、一人は少年で、やや背後に立っていた、手はポケットの中に入れている。
「シンジ君から電話があったよ、山岸さんのことで相談したい事があるってね」
 渚カヲルとレイ=イエルだ。
「なんて言ってた?」
「何とかしてあげたいんだけど、どうすれば良いかなってさ」
「そう……」
 そっけない対応にカヲルは苦笑する。
「シンジ君……、気付いているんじゃないのかい?」
「……」
「山岸さんは本来の『歴史』では途中退場してしまった子だよ、無理にこの場に留めることは出来ない……、歴史はなんとしても辻褄を合わせようとするからね、それが悲しい結末となって顕れるよりは、むしろ彼女を遠ざけてしまった方が良いのかも知れないけれど」
 レイは口元に厭らしいものを張り付けた。
「でもそれじゃあ負けを認めたようなもんでしょうが」
 負けかとカヲルは呟いた、誰に対する勝負であるのか?、語るまでもなく、それは世界に対してだ。
 もしもマユミを守り切れたなら、それは少しだけ流れを変えられた証明になる、彼女の存在は破綻の兆しそのものなのだ。
「こっちに戻って来たら、専属で誰か付けようと思ってるんだけど……」
 意味ありげにカヲルを見る。
「どう?」
「僕かい?、そうだねぇ」
 面白げに顎を撫でる。
「悪いけど、僕には洞木さんっていう人が居るからね」
「なぁにを……、相手にされてないくせに」
「だからこそ楽しいのさ」
「ヘンタイ」
「何を言うんだい?、それが恋愛の醍醐味だろう?、それに、山岸さんは純だからねぇ、騙しやすくてつまらないよ」
 今度は詐欺師とレイは言った。


 そして誰もが寝静まった頃。
 シンジは一人、ホテルの厨房に忍び込んでいた。
「全くさぁ……」
 猫背になって腹を抱えている、随分と空いているらしい。
 それもそのはずで、昼からこちら随分と歩き通したが何も口にしていないのだ。
「これ以上なにかあったら暴れるよ、ホント」
 そしてソーセージを咀嚼する、しかしシンジもこの時はまだ、同日に二度も不審者の侵入を許したとして、ホテル側に過剰反応を引き起こさせてしまうなどとは、全く予想だにしていなかった。



続く



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。