──北太平洋。
 洋上を進む艦隊のひとつにヘリが降り立とうとしていた。
「どうにか合流できたな」
「ああ」
「異相体の騒ぎでヘリでの合流を余儀なくされた時には不安だったが……だがいいのか碇」
「なにがだ」
「本部に戻ることもできたのだぞ?」
 ふんと彼は鼻を鳴らした。
「かまわん……異相体との戦闘はサードインパクトをかけたものではない」
「多少は楽観視できるといってもな」
 まあまあと取りなしたのは、『ゲームボーイフューチャー』でカーアクションゲームを楽しんでいたレイだった。
「『パパ』は異相体くらいの問題が発生してくれるのを期待してたんだから、心配したって仕方ないっていってるの」
「期待だと?」
「そうでしょう? なんの問題も起こらないまま、葛城さんに勤め上げられたって困るんじゃないの?」
 着陸態勢に入りますとの言葉にゲームをお尻の後ろに片づける。
 スカートなのだから……片づける場所などないのだが。
「このお船なら適当な報告くらい受けられるでしょうし、それに期待しましょうよ。ね? オ・ジ・サ・マ」




「でさぁ……あの女、あたし、本当はネルフの訓練生なんですぅとか言っちゃってさ。だから写真なんて困るってごまかしたんですぅとか、もう必死よ必死」
 下降中のエレベーターの中、アスカは呆れた調子でぱたぱたと手を振った。
「あの時って、本当は本部の中に居なくちゃいけなかったんだけど、でも普通のことに憧れてて、てへっ☆ ごめんなさい、だってさ? もうなにも言えなかったってのよ」
 ゲート前で偶然顔を合わせて以来この調子である。
「それでごまかせたの?」
「補強のためにデートにお出かけ! 骨抜きにしとけば深く考えやしないだろうってね。あばたもえくぼ……目に鱗ってやつぅ?」
 それは違うよと思ったが、シンジは言わなかった。
「ふぅん……ケンスケってもてもてだねぇ」
「は? なんでそうなるのよ?」
「レイともデートしたことあるし、アスカもしてたじゃないか」
「あれもいれるの?」
「マナともだし……」
「どれもろくな目にあってないと思うんだけど」
「女運ないんだな」
 ほほぉと剣呑に目を細めた。
「それはどういうことかなぁ?」
「……あう」
「遠回しにあたしたちがろくな女じゃないって言ってる?」
「い、いやっ、そうじゃないよ! そうじゃ!」
「この!」
 ヘッドロックをかけて振り回す。
「いたいって!」
 シンジは抵抗するつもりでアスカの腰に腕を回そうとして……。
「きゃん!」
 アスカの胸をわしづかんでしまった。


「……来たわね、ってどうしたの?」
 やれやれと肩をすくめているカヲルの背後で、シンジとアスカが必死になって喚いていた。
「だからあれはぁ!」
「エレベーターの中でなんてねぇ……せめて場所だけは考えて欲しいねぇ」
「そうじゃないんだってば!」
「そうよ! 監視カメラだってあるんだから、それを見ればそういうことしてたんじゃないって!」
 ちなみにその程度の理由で閲覧できるものではない。
「なんなの?」
「なんでもありませんよ」
「まあいいわ。状況を説明します。レクリエーションは終わってからにしてちょうだいね」
 はぁいと二人は非常に素直な態度を示した。
「ん! よろしい。……先ほど異相体発見との報告が入りました。これに対して国連軍による本格的な攻撃が行われましたが」
「また負けたの?」
 いいえとミサトは否定した。
「相手にしてもらえなかったのよ」
 目で促す。シゲルがタイミング良くメインモニターに攻撃の一部始終を分割表示した。
 ミサイル、NN爆弾、砲撃……さまざまなものが映し出されていたが、そのどれもがなんの痛痒(つうよう)も与えられずに終わってしまっていた。
「……あれってどういう生き物なの?」
「赤木博士は単細胞生物だとみているわ」
「どうしたの?」
「……ちょっとね、リツコのやつヒステリー入っちゃって」
「はぁ?」
「ほら……この間の異相体で、圧電効果とか、地震なんかと同じで高い圧力がかかったものが崩壊する時に放つ電気とかなんとか、そういうエネルギー? ってのが力の源なんじゃないかとかって報告書まとめてたのに、今回の異相体って単細胞生物じゃない」
「ああ……」
「なんとしても解明してやるって……ね。まったく」
 と、彼女はマヤへと恨みがましい目を向けた。
 アスカはなんだろうかといぶかしがったが、どうせまたよけいなことでも口走ったのだろうと考えて、自分で納得しておいた。
「それで?」
「リツコは今、研究室よ」
「じゃなくて、UNの方よ」
「ああ……現在太平洋に存在しているいかなる兵器も通用しないとのことで攻撃は中断されました。一応ネルフに出動要請は出ていますが、指揮権の委譲は行われていません」
「どうして?」
「いくらエヴァでも、基本的な装備は通常兵器と同じものでしかないからよ。利点はATフィールドだけだから」
「使徒を倒せる唯一の兵器だってのは、敵のバリアを唯一無力化できる兵器だからって理由だけだもんね」
「それも本来の理由とは違うんだけどねぇ……」
「え?」
「ネルフはあくまで使徒と同じくATフィールドを展開できる兵器としてエヴァを作ったの。つまり対抗できる兵器だったってだけで、中和とか浸食とか、ましてや破壊できるだなんてことは、まったく考慮していなかった……想像もできなかったしね」
「予想外に有効な兵器だったってことか」
 ちょっと待ってよとアスカは気づいた。
「それってなに? 無敵の盾を持ってる怪物の前に、同じ盾を持ってるエヴァをぶつけて、それでにらみ合いをさせるってのが本来の計画だったの?」
「そうよ」
「……なんの話?」
「あんたバカぁ!? あのねぇ。盾を持ってる二人がいるでしょ? で、お互いの武器はその盾を貫けない。そんな状態で決着なんてつくと思う?」
「あ……」
「お互いの武器は全部盾に弾かれることになる……となれば、あとはスモウと同じよ。力押しをしあって押し倒した方が勝ち」
「ひどいや」
「それだけじゃないわ。倒したとしても活動を停止させるためには? 破壊しようにもやっぱり盾があるわけだから、押さえつけ続けるしかない」
「なんたるあばうと……信じられないね」
「まったく……」
 アスカはその続きの言葉を飲み込んだ。
 この世界では、シンジも自分もすでに戦い方を知っていた。しかし『以前』ではどうだったのだろうか?
(確か……初号機が暴走したあげくに使徒のATフィールドを中和浸食したのよね)
 その偶然によって、そういうこともできるのだと知らされたのだ。
 考えてみればその時まで起動すらしていなかったエヴァンゲリオンである。ATフィールドの効果そのものが理論上のものであったのだから、武器もまた仮想域のものが作成されていただけにとどまっていた。
 とりあえずはナイフ。それだけである。よく勝てたものだとアスカは思った。
「で? 今回は出動したからって手の出しようがないんでしょ? どうするの?」
「その辺はUNが考えるそうよ。いつまでもネルフばかりに任せてはおけないってね」
「だから指揮権の委譲はなしに?」
「そう……ネルフにはエヴァを貸して欲しいってことで要請が来たわ」
 だから、誰を貸し出すか決められたのだ。
「現地にはアスカとレイに行ってもらいます」
「おやおや……」
「なに? 渚君」
「いえ……別に」
「……? 思わせぶりね、なんなの」
「あとでわかることですよ。それで、綾波さんは?」
「もうケージで待機しているわ」
「早いですね」
 動かせるのか、そうかと、彼はぶつくさと呟いた。
「それで、僕たちは?」
「あなたたちには本部で待機してもらいます」
「それじゃあホーリィと一緒にいます。いいよね?」
 ゴドルフィンと共に黙って立っていたホリィは、ゴドルフィンとミサトを見比べてから、こくんと頷いた。
「それじゃあ僕は少しばかり」
「所在ははっきりとしておいてね」
「……美肌のお手入れの時間です」
 浴場へ行くそうです。シンジがそう意訳した。




「よぉ」
「加持さん」
「これから出るのかい?」
「はい、加持さんは?」
「俺か? 俺はシンジ君を捜してるんだがな」
 シンジなら……と、アスカはホリィにくっついていると伝えた。


「原子核と電子が全ての原子の元だというなら、どんな不可能現象もそこまで遡ることで説明できる……ですか」
「君の力もそのようなものだろうと推測することでわたしは納得しています」
「はぁ……どうでもいいけどいつまでその口調続けるんですか?」
「雇い主には最大限の敬意を払うことにしています」
「それが僕のような子供でも?」
「雇われた経緯はともかくとしても、給与をいただいている以上は態度を改めませんと」
「そんなものなんですか?」
「そうです。形からという考えは間違っているかもしれませんが、それでも軽薄な態度では信用が得られません。そしてわたしの態度を見て部下はあなたへの信頼の度合いを決めるでしょう。上に立つ者としては、あるじに対する規範というものをおろそかにするわけにはまいりません」
(なんだかかたっ苦しい執事さんみたいだ)
 あるいは融通の利かないお目付役か。それにしては強面(こわもて)過ぎるが
「でも……」
 なにやら考え込んでいたホリィが口を開いた。
「原子核と電子で説明するのなら、今度の異相体については説明がつかないのではないですか?」
「構造的なものを作り上げているのだ……と限定すればどうだ? 核となっている部分が高いエネルギーを持っているのなら可能なはずだ」
「まるで砂鉄をまとっているみたいに?」
「そういうことだ」
「巨大な電極という具合に想像すればいいわけですね」
「人間だって同じことだろう。細胞と細胞が結びついて人という形を作り上げている。しかしどこが核ということはない。それぞれが結びついて、電流を通しているわけだからな」
 その言葉を補足したのは、彼らを迎え入れたリツコだった。
「そういうこと……」
 彼女はなにかのヒントを得たようだった。
「なんですか?」
「……わたしは前回の異相体から、使徒や異相体がその重量を利用した圧電効果によるエネルギーの発生を行っていると仮定したわ」
「それが?」
「今回の異相体にはS機関を構成するための決定的な要素が欠けているのよ」
「……要素?」
「スーパーソレノイド機関っていうのはね、コイル状の組織細胞に電流が流れることによって電気的エネルギーが生み出されることになる機関のことをいうのよ」
「コイル状の?」
「そう……例えば染色体のような二重螺旋の」
 ゴドルフィンが口を挟んだ。
「螺旋状の構造物に電気が流れることによって、電流は勢いを増して増幅を受ける?」
「そう……それによって電磁波などが発生します。これは事実、使徒を中心とした磁場や重力値の反応として検知することができるから」
「そうか。石が圧力によって壊れた時に電気を発生させるような……そんなことでなくてもいいんだ。細胞同士だって擦れ合うことで静電気を発生させるんだから」
「ええ。もし使徒を構成する物質の単位がわたしたちと同じであったら? 等倍に大きくしたものでないなら? 細胞から発せられる電気的エネルギーが、連なる細胞全てを駆けめぐって増幅されているのなら? 今回の異相体はその考えを肯定してくれるかもしれない」
「はぁ?」
「あれだけの生物の核だもの、決して小さいはずがないわ。その染色体の大きさは? 長さは? 漂っているというのがポイントね。異相体の正体は核のみなのかもしれないわ。あとのものは不随意筋肉のようなもの。胚かもしれないわね。核からにじみ出した形にならない、思い通りにならない細胞……ガン細胞のようなものだとすれば? それが攻撃を受けた時に、とりあえず栄養だと誤解して口にしているだけなのかも」
「ならばこちらからの攻撃は一時控えて、反応を見るべきかもしれませんな」
「すみません、早急にこの考えをまとめたいと思いますので……」
「では我々は退散しましょう。発令所へはわたしから伝えておきます」
「お願いします」
 追い出された三人は、さらに居場所をなくしてしまった。
 加持がやって来たのはその時だった。
「よぉ」
「加持さん」
「赤木博士の講義かい?」
「はい。加持さんは?」
「俺はシンジ君を捜してたんだよ」
「僕を?」
 まあとにかく歩こうじゃないかと、加持は三人を促した。




「これを見てくれ」
 やおら加持が取り出したのは、どこにでもある住民票の写しだった。
「加持さん……」
 シンジは呆れた目をして加持を見上げた。
「僕にナンパしてこいっていうんですか?」
「違う違う……全部俺の好みからは外れてるよ」
 では好みの女性のものについてはどこへやったのか?
 シンジはあえて訊ねなかった。
「で、これがなんです?」
「ああ……彼女たちはみんな無職の女性でね」
「へぇ……」
 シンジは改めて書類を見つめた。
 それもとある項目を。
「……おかしいですよ。だってこの人たち、この街でも一等地にあるマンションに住んでるじゃないですか」
「あ……このビル知ってます。この間オープンした」
「どうして知ってるの?」
「レイに無理矢理……」
 あ、そうっとシンジはそれで納得した。
「僕とはデートしてくれないくせに」
「え? だってそれは仕事が忙しくて」
「ふんだ」
「シンこそアスカとばっかり」
 くっくっくっと加持が笑う。
「なんだな……まるで結婚寸前のマリッジブルーに陥っている婚約者同士みたいだな」
「…………」
「なんです?」
「いや……彼がホーリアに、いつ親に挨拶してくれるんだと迫られているところを想像してしまってな」
 ぶはぁっと加持は吹き出した。
「そりゃいい!」
「まあデートの相談は次の機会にしてくれ。それよりこの資料になんの意味があるんだ?」
 加持は腹筋がつっているような状態で答えた。
「くっ……つまりですね。働いていないのに、普通じゃ住めないところに住んでいるわけで、その答えは一つです。想像以上に金を持っているパトロンが付いている」
「ほぉ?」
「想像以上ってのは、この街が特殊な事情から住人管理を徹底して受けている街だからってことですよ。居住条件が厳しすぎる。もちろん一般市民に対しては面と向かって断ることはできませんから、都合好くいま物件がないんです……となりますがね」
「となればその筋に対して口添えできる連中が付いているということになるわけか」
「街の管理はMAGIが行っているとはいえ、表向きには市議会が存在して、市長がいるわけですからね。そちらからどうとでも」
「この程度のことなら……か」
「問題は、その彼女たちが、このごろどうも男を連れ込んでいるようでしてね。時には複数」
「……なるほどそういうことか」
「火種は足下だけじゃなくて、頭の上でもくすぶっていたってことですよ」
「事は想像以上にやっかいだな」
「でしょう?」
 シンジ君……と加持は重い調子で口にした。
「もうちょっと考えてやるべきだったな」
「はい?」
「説明は……まだでしたな」
 ゴドルフィンは嘆息しつつ、シンジが来るまでの間にまとめた想像を披露した。
「どのような経緯があったかは知りませんが、後のことを考えるべきでしたな」
「……悪いけど」
 ホリィは久々にゾッとした。
「僕を捕まえようっていうんなら、僕は全力で抵抗するよ」
「ですが相手はあなたの実力などわからない」
「けどあなたはわかった」
「……だから生きていられる。ふむ……しかしそれは事前に情報があったからです。普通の人間は裏社会の噂などは知りません。そして今のわたしはあなたの短絡さを責めなければならない立場にある」
「冗談をやっている場合じゃないでしょう。シンジ君、どうするつもりだ?」
「皆殺し……」
「おい」
「……はさすがにまずいんですよね?」
「当たり前だ」
 説教をする加持に、ゴドルフィンはほうっと関心した様子を見せた。
「大人ってのは自分で取れる責任の範囲を自覚している人間のことをいうんだ。取れるようになることは立派になるってことで関係がない。大人でも子供でも立派な奴はいるからな……俺は前にそう言ったな?」
「……はい」
「そして君はあの時にそのことを理解したんじゃなかったのか?」
「……そうです」
「ならどうする?」
 取れないとは言わせないと加持は責めた。
「……内部の人たちは反逆してるってつもりはないんですよね? 僕に対して恨みを持ってるってだけで」
「そのために盲目的になってるんだな。あるいは扇動されているのかもしれないが、君を(おとしい)れるためならなんだってやるつもりになっている」
「ならその外の人たちを呼び込もうとしているかもしれない」
「しれない……じゃないな。かくまってる連中と外の連中とのパイプ役を(にな)ってるはずだ」
 シンジはこくんと頷いた。
「じゃあ……僕は上を探ります」
「ああ、任せた」
 いいのか? ゴドルフィンはシンジの姿が見えなくなってからそう口にした。
「彼に任せて……」
 しかし加持はにやりと笑った。
「忘れてやしませんかね? 彼が何者であるのかを」
「それは重々承知しているが……」
「いやいや……彼が本気になれば俺たちがたばになったところでかないやしませんよ。もちろん、渚君やレイちゃんを含めてもね」
「……そこまでなのか?」
 加持は肩をすくめる代わりに煙草をくわえた。
「シンジ君は不思議な子でね……やる気がないのか興味がないのか、その気になればレイちゃんやマナちゃんたち……俺やあなたやここにいるホリィちゃんすら必要とすることなくなんでもできるのに……やろうとしない。なぜだか知ってますか?」
「知るわけがない……彼のことなど、俺が知っているのはごくわずかなことだ」
「たとえばあなたが指揮するはずだった部隊が、たった一人の子供のために全滅してしまった事件とか」
「知っているのか?」
「こういうことに関してはプロでしてね」
「そうか……」
「あなたは旧東京で初めて彼に会ったにもかかわらず慎重だった。何故です? ミエル……彼女にもよく吹き込んでいた。どうしてです? 知っていたからだ。そして調べていたからだ……」
 ──でも。
「あなたは彼の本質を知らない」
「……だから?」
「お教えしましょう? この俺が命を懸けてやり合った時の話をね」
 加持は君も聞きたいだろうと、緊張に硬直してしまっているホリィへと笑いかけた。
 久方ぶりにシンジの気にあてられてしまったホーリア・クリスティンは、アメリカでのシンジの記憶を呼び覚ましてしまっていた。




「加持師」
 その時、加持リョウジはとある山院に働いていた。
「これは導師ソウシ」
 ソウシと呼ばれた禿頭の男は、苦笑して手を振った。
「やめてくれないか、その呼び方は」
「しかし規則は規則ですからね」
 仕方ありませんよと肩をすくめる。
 この寺は山の中腹に築かれていた。正しくは山の北側半分を崩し、掘り抜く形で作られていた。
 足下からは左右を崖に挟まれた階段を登ってくることになっている。そこからいくつかの門をくぐり、寺に入ることになっている。
 崩された山側には、いくつもの窓らしき穴が開いていた。それにところどころみみず腫れのようなえぐり込みが走っていた。
 加持たちが歩いているのはそのみみず腫れ──通路の一つであった。
 片側には扉が並び、反対側には手すりと柱を境にして、山並みと空が望めるようになっていた。絶景である。
 二人共に、白い僧服に身を包んでいた。あまり似合ってはいなかった。
「……導師だのなんだのと、なにをこだわっているのやら」
 そんな具合に愚痴ったソウシを加持は笑った。
「教団本部の意向ですからね……宗教弾圧を行っているわけではない。また宗教を広めようとしているわけでもない。あくまでその枠を超えた人と人とのつながりを重視しているだけだ……と」
「宗教に神……しかしそれ以前に人はいがみ合いを忘れ、互いを認め合わなければならない。まったく……しらじらしい教義だ」
「しかししらじらしいのは我々も同じでしょう」
 そうだなとソウシは請け負った。にやりと笑う。
「それで……どこまで調べた?」
「深部についてはまだ……けど村の連中を集めてなにかを掘り返してるのは間違いない」
「たとえば太古の秘密兵器か」
 それはどうだかと苦笑いをする。
「発掘兵器か……確かにネルフのエヴァもそれに類似するものではあるんだが……」
「ならそれが一つと言うことはないだろう? 確か使徒も似たような位置づけにあると俺は聞いたが?」
「……それもネルフの公称なんだから、俺は信用には値しないと思うね」
「それはそうだが……」
 ううむと二人はうなりあった。
「結局、地下に潜らないことにはなにもつかめないということか」
「だとすると農民に化けて坑夫として潜り込んだ方が楽だったかもな」
「いや……それはそれで俺たちはお互いの存在に気づくことがなかったろうから」
「苦労は同じか……」
「他の組織の人間が村の方にいないかと思ったんだが……これがなかなかな」
「いることはいるのか?」
「『草』がな」
「草!? そりゃまた古いな……」
「お前の国の言い方に合わせたんだよ。ただ草だけに不用意には接触できない。へたに話しかけるとそのままドロンといきかねない」
「そしてこっちには追っ手がかかると……」
「そういうことだ」
 草──それは地元に根を張り、何代も続いて諜報活動を行う組織員のことである。
 彼らは完全に土地に根付いて、何十年、下手をすると何十代も続いて働き続けるだけに始末に負えない。
 組織への忠誠心が、信仰とも呼べるほどに強固なものになっているからである。
「しかし……その連中も、この僧院を乗っ取った教団には、好感を抱いていないはずだよな?」
「……そのあたりのことを感じたかったら、村に下りてみれば簡単だ」
「なるほど……」
「……おい、リョウジ?」
 加持はにやりと笑ってみせた。
「いや……寺の僧侶としては、民草に説教の一つもしておくべきだろうからな」
「おいおい……」
「それに……気になることもあるんだよ」
「気になること?」
「ああ」
 加持は手すりに両手を置くと、下にある村の様子を一望した。
「俺の……」
 言いかけた加持であったが、彼はそこで口を閉じた。
 騒がしい声が聞こえてきたからだ。
「おじちゃーん!」
 加持は苦笑して駆けてくる少女に両手を広げた。
「走ると危ないぞ?」
 膝をかがめて迎え入れる。
 少女は加持の首にかじりつくようにして抱きついた。
 頬をすりあわせてから身を離す。
 にぱっと笑って少女は言った。
「こんにちわ!」
「はいこんにちは」
 加持は少女をおろすと立ち上がり、その頭をぽんと撫でてやった。
 浅黒い肌は地元の人間であることを示す。やや痩せている体には大きめのシャツを袖をまくって身につけていた。
 ズボンは半ズボンで、すり切れている。
「へへー」
 少女は首をぐりぐりとやられて、にちゃっとした笑顔をみせた。
「チャナ!」
 慌てて少女──チャナを追いかけて、よく似た顔立ちの女性が小走りにやってきた。
 チャナと同じ肌をしている。加持よりは頭半分低いだけの、背の高い女性だった。
 加持と同じ僧服を着ていて、頭には青い石の装飾具を付けている。
 焦っているためか、腰よりも長い髪が揺れに揺れていておかしかった。
「ラーナさん、はしたないですよ?」
 加持の失笑を含んだ言葉に、ラーナは赤くなって萎縮した。
「す、すみません……加持師」
「あなたがそんなことでは、チャナも態度を改めることはないでしょうな」
「もう……ソウシ様まで、そんな」
 ぷっと頬をふくらませる。
 彼女は体は大きくても、まだ十代の後半であった。
「……怒られてんの」
「誰のせいだと思ってるの? もう!」
「チャナは……今日はどうしたんだ?」
「お手伝い!」
 えらいでしょうと、褒めて褒めてと頭を差し出す。
「『お肉』を取りに来たの!」
「お肉?」
「配給のことでしょう……さきほどヘリポートに輸送ヘリが来ていましたからな」
「ヘリか……」
 加持は頭の上、天井を見上げた。
「言っちゃあなんですが……教団は少々無神経に過ぎるようだ。逆側を整地させて、ヘリポートと倉庫を作らせるなんて」
「でもしかたのないことだったんです……。お寺でもみな悩みはしました。でも寺の歴史を守ることよりも、飢饉をどうにかすべきだと結論を出したんです」
「教団の受け入れですね?」
「はい」
「そのための協力は惜しまない……」
「はい」
「だけど俺には調子に乗りすぎているように思えるのですよ。俺はこの通りいつ還俗したとしてもおかしくないような男です。それは人の機微にさとくあるように心がけているからです。でないと雰囲気に飲まれてしまいますからね」
「雰囲気に?」
「そう……たとえば仕方ないんだとか、そうするしかないんだって風潮に飲み込まれてしまうと、人というものはとたんに堕落し始めます。同情とか金とかに負けて、しちゃならないこと、やっちゃならないことを徐々に行うようになる。それを避けるためには、自分を律し続けなければならない」
「尊敬します……」
「やめてくださいよ。俺はあなたほど修行をしている男じゃない」
 加持は両手を合わせて頭を下げたラーナの肩に……触れないように手を置いた。
「しょせんは不満を言ってるだけの男ですよ。こんなことを言っていても、教団の配給物を口にしているんだから、説得力ってものがない」
「ですが……」
「ま、なにごともやりすぎは好くないってだけですよ。でないと余計な反感を買うことになる」
 その言葉は、なにか彼女にどきりとさせるものがあったようだった。
「加持師……」
 顔色が悪くなっている。加持はそんな彼女の目を深くみつめて軽く頷いた。
「俺は、できるかぎり平穏であればいいと思っています」
「はい……」
「ですから……」
「あっ、シンジ!」
 難しい話に退屈していたのか、チャナは廊下の端からこちらの様子を窺っていた少年に手を振った。
「あ……」
 しかし少年にふいと無視されてがっかりとする。
「ちえっ、なんだろ? シンジ……」
「やれやれ……俺は嫌われてるみたいですね」
 そうじゃないんですよとラーナは口元に拳を当てて上品に笑った。
「あの子、チャナが好きなんですよ。でもチャナってば、いつも加持師のことばかりだから」
「……あたしシンジ嫌い! あいついっつもおじちゃんの悪口言うから」
「そうなのかい?」
「チャナ!」
「だってほんとのことだもん!」
 怒りにまかせて口走る。
「おじちゃんのこと、お坊さんには見えないとか、そんなことばっかりいうんだもん!」
 べぇーっだっと舌を出して逃げてしまった。
「チャナ……」
 もうしわけありませんと、ラーナはチャナの代わりに謝った。
「あの子……本当はシンジのことが好きなんです」
「わかりますよ……だからこそ許せないってこともある」
 だが……と言ったのはソウシだった。
「何故あの子はそんなにも加持師のことを嫌うのか?」
 加持は黙っていろと肩越しに睨みつけた。決してラーナには見られないように注意しながら、きつい目をして。
「ラーナさん」
「はい」
「シンジはあなたのご実家で寝泊まりしているとお聞きしましたが……」
「はい……でもこのごろは小屋の方で」
「小屋?」
「あの子、歳よりも器用で、村はずれの小屋を建て直しているんです。小屋はもともと旅の方を泊めるために建ててあったものだったんですけど、今では教団の方が建ててくださったプレハブ小屋もありますし……」
「直す必要がない?」
「いいえ。屋根と床を直せば使い道はいくらでもありますから」
 働き者なんですよと彼女は褒めた。
「ただ……あの子、とてもすさんだ村から流れてきたようで、いくらまだ子供なんだからと言い諭しても、チャナたちと遊ぼうとはしないんです。働かないと、働いていないと、いつ捨てられるかわからない……そんな感じで」
 ……セカンドインパクトからまだ十年と少しである。その上ネルフなどというわけのわからない組織に資金を吸い上げられているのだから、政府にはこのような村を救うだけの余力はなかった。
 だから二十一世紀になったというのに、乳母捨て山が復活していたし、子供は売られ、捨てられることも珍しくなかった。
 必要とされていなければならない。そんな強迫観念はあって当たり前で、むしろ彼女の考え方こそが甘いものではあったのだ。
 それでも彼女のような健全な思想が絶えることがなかったのは、それが理想であったからなのかもしれない。そしてその理想を唯一体現させてくれる組織こそが教団であった。
 彼女が教団に恭順しているのは、その理想を許してくれているからにすぎないのだが、それはそれでとても大きな理由ではある。
 そして加持は、そうして教団は彼女のように純真な人間を取り込んでいる……と考えていた。
「一度話してみることにしますよ」
「加持師……」
「わたしの方から歩み寄らなければ、あの子も心を開いてはくれないでしょう……そういうことです」
 感激の目をして加持を見上げるラーナの姿に、ソウシはよくやると吐き捨てた。
 シンジのことはあくまで偽装だと感じたからだ。
 本当の狙いは二人きりの時に話していた、村の様子の確認だろう。加持が得ている地位のことを考えると、顔はわれてしまっているのだから、お忍びでというわけにはいかないのが現状だ。
 だからシンジのことはいい口実になると考えたのだろう。
(ついでに好感度アップか? 下心丸出しだぞ?)
 決して触れようとしない……そんな紳士的な態度をする奴ではないのだ。女と見ればなれなれしく肩を組もうとするような男なのだから、加持リョウジは。
 だから、ソウシは、これ以上付き合っていると笑ってしまいそうだと、二人きりにしてやることにした。
 この後二人がどう盛り上がろうと、自分の知ったことではないと、暗に黙認してやったようなものでもあった。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。