かぽーん!
広々とした大浴場。
聞こえてきた女湯の音に、カヲルはくすりと笑って頭の上にタオルを置いた。
「こんな時間に入浴だなんて……ぜいたくだねぇ」
ふんふんと縁に両腕を引っかけて気楽にくつろぐ。
「しかしまぁ……人というものは奇異な考え方をするものだねぇ。己が欲を満たすためには手段を選ばず、しかしその手段が成功することは希望的な予測の範疇の計算でしかない。それでは失敗して当然だよ。君もそうは思わないかい?」
……返事はない。
「そうか……まあ、すべてが円滑に進むと期待している彼らには悪いけれど、裏切ってあげるのも親切だからね。まったく……そんな考えに毒されている彼女のアシストをするのも楽ではないよ」
ぬるいねぇ……そんな風に愚痴を言って、カヲルは湯船に体を沈めた。
●
──夕方になると、僧院の入り口からは、坑夫の列が村に向かって伸びることになっていた。
村までは林を抜けて行くことになる。村の中心では毎日女子供が炊き出しをおこない、まかなっていた。
加持はその脇を通り抜けた。目のあったものにだけ両手を合わせて頭を下げる。
(平和なもんだ)
おそらくなにも考えてないのだろうと思っていた。
自分たちがなにをさせられているのか、疑問にも思っていないに違いない。
(坑夫だって?)
まずそこに不審さがあった。
教団であるのなら掘削機くらいは用意できるはずなのだ。なのに人夫を使ってツルハシとシャベルで地を掘らせている。
確かに学術調査だと考えれば、掘削機で掘るわけにはいかないだろう。しかし掘っているのはセカンドインパクトによって崩れてしまった地下坑道なのだ。
奥にはなにやら禁忌ともいえるものが封じられているらしい。やっていることはそこまでの道を掘ることであって採掘ではない。
ならばなんのために、皿やツボを工芸品だとして認識するだけの知識もない人々を狩り出して働かせているというのか? まさか機械を調達できない理由でもあるのか? 加持はその点が解せないでいた。
なにしろ地の底での大仕事には、エアクリーナーや送風機などが必須なのは常識なのだ。多くの人間が潜れば二酸化炭素が溜まることになる。これによって死者が出る危険性もある。なのに準備されずに今に来ている。
人命尊重を謳っている教団にしては、やることがおかしすぎた。
(もしシンジが小屋を建てるほどの知識を持っているのなら、そういう知識も持っているのかもしれないな)
だとすれば自分は教団の仲間だと思われてしまっているのかもしれないと、そう考えた。
皆に嫌われている理由もまた、教団についてなにか口走ってしまったのかもしれないと。
とにかくと……彼はシンジのことをさっさとすませて本命に移ろうと考えた。そのために僧服の下には黒いアンダースーツを身につけている。腰の裏にはホルスターも付けていた。銃とナイフが刺さっている。
闇の中で動き回るための衣装だった。
「あれか……」
彼は散在する家屋を抜けて、少し離れた場所にぽつんと立っている小屋を見つけた。みすぼらしくて、雑木に半ば囲まれていた。
漆喰を塗り固めた村の家屋とは違って、ここだけが板を打ち付けたものになっていた。その庭先と言えるかもしれない場所に、たき火の光が見て取れた。
目を細める。
「人の気配が……」
がさりと脇の草むらで音が鳴り、彼は慌ててとびすさった。
「驚かさないでくれよ」
加持はほっと胸をなで下ろした。
「そんなところでなにをしていたんだい? シンジ君」
「これ……」
シンジは手に持った蛇を掲げて見せた。
「獲ってたんです」
「ああ……誰かがかまれると大変だから?」
「いえ。今日の晩ご飯です」
「…………」
加持は平然と口にするシンジにわずかに退いた。
「君は蛇を食べるのか……」
「食べたくはないですけど、他に食べるものがありませんから」
「変なことをいうんだな? 教団の配給物があるだろう? まさか君には回ってないとか?」
「そんなことは……ラーナさんが許してくれませんよ。食べろってしかられてます」
「だろうな……じゃあなんで?」
「今日はチャナと喧嘩したから」
「ああ……」
「それに教団の肉は食べない方がいいみたいだから」
「食べない方が好い?」
「はい。あれは自然な肉じゃないから」
ワイルドなんだな。それが加持の感想だった。
どうやら彼は自然な食品が好みであって、教団の配給肉のような加工食品はお気に召さないのだと判断をする。
「でもなぁ……ちゃんとしたものを食べないと大きくはなれないぞ?」
「……だから食べないんですよ」
加持は眉間にしわを寄せた。
「妙な言い回しをするんだな」
「そうですか?」
「君はこう……なにかとても大人びた言い方をするな」
「しっかりしてないといけませんから」
「それはそうだろうが」
これは強敵だとあごに手をやる。
「どうりでラーナさんも気にするわけだ。そんな風に生きるしかないんだと思ってるようじゃ、心配したくもなるな」
「そうでしょうね」
「わかってるんだな?」
「そりゃわかりますけど」
「君はいくつだ?」
「さあ? 十歳はこえてると思いますけど」
「わからない?」
「生まれた年なんてわかりませんよ。珍しくもないでしょう?」
「それもそうか……」
「あなたこそ、お坊さんとは思えないしゃべり方をするんですね」
「ああ……俺はこの国の人間じゃないからな。言葉遣いは変だろうさ」
「そういうものですか……」
「そういうものだよ」
肩をすくめる。
「君は? どこから流れてきたんだ?」
「東からです」
「東か……生まれた歳がわからないってことは、もう十四・五だってこともあるわけだ」
「そうですね」
「人を好きになったことは?」
「ありますよ」
「初恋もすませていると……」
「……なんです? それ」
「気にするな。精神年齢を計ってるだけだよ」
「精神年齢って」
「こんな世の中だからな、妙に老成した子供だって生まれるさ」
ならとシンジは問いかけた。
「どうするんですか?」
「さてなぁ……ラーナさんはどうやら年相応の子供に矯正したがってるみたいだが」
「それは安心できるからでしょう? 自分の常識に合わない人間は『おかしい』から、なんとかしなきゃって」
「まあ……俺はそんなラーナさんの気持ちもわかるし、君の気持ちもわかるつもりだ」
「気持ち?」
「ああ」
二人は小屋のたき火の前まで来て、向かい合うように腰掛けた。
「水しかありませんけど」
「もらうよ──型にはめられたくない。俺は俺だって気持ちは俺にだってあるさ。坊主だからって坊主らしくする必要はないだろう?」
そう言って彼は尻尾髪をなでつけた。
「俺は坊主だ。坊主って格好をしていなくても坊主だ。ならそれでいいじゃないか……ってな」
加持はふと、かがり火の向こうの少年の口元が歪んだのに気が付いた。
それは奇妙な笑みだった。
「なんだい?」
「いえ……本当に坊主なのかなって思っただけです」
「おいおい……どういう意味だい?」
「そのままの意味ですよ……」
「君は……」
加持は半分腰を浮かせた。
「まさか……そうなのか? このところ夜になると僧院に誰かが忍び込んできていたが、君か?」
「いえ? それは僕じゃありませんよ」
「ってことは君は誰なのか知っているのか」
「だからって、教えるわけにはいきませんよ」
トンと加持は首筋に衝撃を感じて前のめりになった。
やられた。そう考えられたのは一瞬のことで、あとは暗闇に落ちる独特の感覚に、意識を囚われただけだった。
●
「加持師が消えた?」
報告に来た男の話に、ソウシはそうかと頷いた。
「宗主様にはわたしからお話ししておきましょう。あなたは村のかたに加持師を見かけなかったかとお話を訊いてきてください」
「村のものにですか?」
「加持師は昨日、ラーナ様のご実家でやっかいになっているシンジという少年と話してみるといってお出かけになられました。ならば村のかたが誰か見ているかもしれませんから」
「わかりました」
会釈して退室していく修行僧を見送って、ソウシはあいつはと毒づいた。
机のうえに両肘を置いて手を組み合わせ、その合間に顔をうずめる。
(まさか逃げ出したか? あるいは先走ったか……いや、やつはこんな仕事に入れ込むようなやつじゃない)
やはりヘマをしたかと想像する。
(俺のことを漏らすようなやつじゃない……いや)
漏らすかと彼は立ち上がった。
(できあがっている流れに乗っているだけでは利用されていくだけだ。外れるためには混乱を引き起こして渦を作るのが定石だからな。巻き込まれる前に逃げるとしよう)
しかし、そんな彼の判断は間違っていた。
「う……」
加持は頬に落ちる水滴に正気を取り戻した。
(どこだ?)
薄く目を開いてみる。
なにか湿気た、やたらと気持ちの悪いものの上に転がされていると知った。手探りで調べてみると、それは腐りかけの雑草だった。
「やつらが探してるのって、やたらと剣呑なウイルスだって話は本当なのかよ?」
(なんだ?)
「大昔のウイルスだよ。今の人間には毒そのものだ。その上感染も強力で人類が死滅しかねない」
ヒュウと口笛が鳴った。頭の上からだった。
「そいつをいただいちまうってわけか」
「ものはそのウイルスを保菌してる化石ってわけだな」
そういうことだと声がした。
「連中が村の人間を使ってるのはだからなのさ。ウイルスが眠ってるって断層に出るまで危なくていけねぇ。断層が出たら後は科学班の出番ってわけだ」
「村の人間は使い捨ての道具ってことか」
「あこぎだねぇ」
「どうでもいいさ。僧院はそのウイルスを監視するために建てられたものだって話だ。セカンドインパクトでその話を伝える人間がいなくなったんだな……それでああも好きにさせてる」
「えらいさんは土の下か」
「ゾッとするねぇ……セカンドインパクトで崩れた区画には、まだ何十人って埋まってるんだろう?」
身震いをした。実際いまの状態は、セカンドインパクト後に必死に掘り返して作り直した結果なのだ。
「で、具体的にはどうするんだ?」
「教団は怖いが駐在員は素人だ。昨日の搬入で次の配給物の輸送日は一週間は先だろう。だからこの村を制圧して、強制労働といこうじゃないか」
「……負けず劣らずあくどい話だ」
笑い合う。
(ここは……床の下か)
加持はゴンゴンとブーツが床を叩く音に、ごろんと仰向けになってみた。
床板の隙間からぼんやりと人の顔がいくつか見えた。
「決行は一時間後だ」
ジャキッと音がした。銃の音だ。
「村の連中はどうなんだ?」
「ちゃんとナシつけてあるよ。強制労働から解放してくれる十字軍だと思ってやがる」
「ほんとうのことじゃないか」
あざけるような笑い声が上げられた。
「村と寺を取り戻してくださいませってか?」
「坊主の方にも協力者は募ってあるよ。せいぜいお上品にやってくれよ? 俺たちゃヒーローなんだ。格好の好い騎兵隊を気取ってやろうぜ? そんでもって勝利にわいた瞬間が」
低くいやらしい笑い方だった。
その時のことを考えると、どんな狼狽を見せてくれるのか? 愕然と裏切りに泣く姿を想像すると、股間がいきり立ってくる。
彼らはそんな下卑た連中だった。
「ゴドーのおっさんにばれるとマズい。本体がこの村に来るまでの短い間だが、パーティーをするには十分だ」
「死人に口なしってな」
「楽しんだ後の口封じは、きっちりとやんなきゃなんねぇんだ。逃げようとする奴は殺せよ?」
(こりゃまずいな……)
加持は存在を気取られまいと息を殺した。
(しかし……俺をここに放り込んだのは誰なんだ?)
手足は縛られてはいないし、銃もナイフもそのままだった。
「チャナ」
チャナは窓を閉めなさいという母の言葉に、こんなに良い夜なのにと頬をふくらませた。
「風も気持ちいいよ?」
「もう寝なさい……今日は」
「今日は?」
「……なんでもないわ」
「変なの」
椅子の上からぴょんと飛び降り、自分の部屋へと引き上げる。
(なんだか変……みんな変)
木箱を踏んでハンモックの上にはい上がる。
(なにぴりぴりしてるんだろう?)
その答えは見つけられない。
不穏な空気は、実に静かに広がっていた。
たいまつを掲げた者たちが、各々が武器を手に坂道を登っていく。
林を抜けて僧院の門へと向かう。門では小坊主が扉を開いて待っていた。
示し合わせていたようで、なんの取り交わしもなく素通りになる。
その中に加持が見た男たちの顔があった。
「まずいな……」
加持である。
彼は少し離れた木陰に潜んでいた。
茂みの中をそっと移動する。
追いかけてきたはいいものの、自分一人が動いたところでとめられるものではない。しかしとめたいとは考えていた。
(甘すぎる!)
彼はいざというときのために作っていた道へと向かった。
崖の下の木のうろからかぎ付きのロープを取り出す。もう一つはボウガンだった。
矢とかぎ付きのロープをセットして構える。バシュンと小気味のいい音を立てて、矢はロープを崖の上にある通路の端へと送り届けた。
二・三度引っかかり具合を確かめてから登坂にかかる。
加持は小柄でもなければ力があるようにも見えなかったが、実に器用にするすると登っていった。
ひらりと通路に上がり込む。
「加持か!?」
加持は顔を上げて驚いた。
「ソウシ!? ……なにやってるんだ、そんな格好で」
「お前こそ、なにをやってるんだ?」
「それが……」
ソウシは僧服を捨てて、加持が僧服の下に着込んでいるものと同じようなスーツを身にしていた。
──そんなソウシに、加持は手短に事情を語った。
「……じゃあ、そのシンジって子が?」
「ああ……状況を考えると、あの子が連中を引き込んだとしか思えないな」
村の外れにある小屋に寝泊まりをすることで、人の気配をごまかしていたのかもしれない。シンジはそのためにラーナの実家に住み着くような真似をしなかったのだろうと推察した。
「あるいは村の人間に頼まれて彼らをかくまっていたかだ」
「……俺はそちらの方が確率は高いと読むな。でなければお前をかくまった理由がわからない」
「だが」
加持は当て身を喰らわされた部分をさすった。
「俺に気配も感じさせずに当て身を喰らわせた奴がいるんだよ。そいつがたぶん、このごろここに忍び込んでいたやつだ」
「……お前が気にしていたやつか?」
「ああ」
頷く。その時だった、わぁっと鬨の声が上がったのは。
「まずい!」
「……これは一気に動くな」
「ああ……『所長』が黙っちゃいないぞ」
ここは僧院であり、教団本部から送り込まれているのは僧侶だが、その中には実働部隊の兵士もいるのだ。
表向きは治安維持の目的でとなっているのだが、彼らはとても剣呑な武装兵器を所持していた。体術と共に、そこらのゲリラくずれや村民が集っての一揆ごときを問題にするような者たちではないのだ。
容易に屍を積み上げてみせるだろう。
「お前はどうするんだ?」
「逃げ出したいな……だがそうもいかない。わかるだろ?」
「どうせラーナのことだろう?」
「あたりだ……そこでだ。頼みたいことがあるんだけどな」
わかってるよとソウシは言った。
「地下のことだろ?」
「ああ。任せた」
「わかってもお前に話はしないぜ?」
「いいさ。どうせそっちの組織からこっちのスパイが盗むだろうし」
「お互い下働きは辛いな……時々むなしくなるぜ」
貸しておく──ソウシはそう言って加持の肩を拳で突いた。
「だからあまりかき回すなよ?」
「実力がないと姑息に生きるしかないんだよ」
「問題を大きくするなと言ってるんだよ」
僧服を脱ぐ加持の脇を通り過ぎて、彼はじゃあなと地階に向かう階段へと消えていった。
「うわあああああ!」
男がくわを振り上げて踊りかかっていく。
そのくわを警棒で払いのけ、懐に入って拳で腹を打ち据える。
胸当て、肘当て、膝当て、それに強化プラスチック製の篭手。
三人の警備員が、僧院内奥への道を閉ざしていた。
「どけこのやろう!」
「所長を出せ!」
「俺たちはもうたくさんなんだよ!」
「ろくな道具も渡さねぇで穴掘らせやがって! もう三人も倒れてんだぞ!」
「邪魔するな!」
口々に叫んで威嚇するが、通じない。
通路にはびっしりと農民がひしめいていた。他の通路にも回っているので二十人ほどでしかないのだが、それでも三人が横に並べば身動きが取れなくなる通路である。
心理的な威圧感は相当なものだ……が、警備員たちを動じさせるには至ってはいなかった。
「やめてください!」
そこへ割り込んできたのはラーナだった。
警備員の脇をすり抜けて、両者の間に両手を広げた。
「いけません、暴力は!」
「どけっ、ラーナ! 邪魔だ!」
「お前は教団の味方をするつもりか!?」
「村の出身だからといって容赦はしないぞ!」
ああ……。ラーナは悲痛な声を発して卒倒しそうになってしまった。村人の放つ怒気にあてられたのだ。彼女のような繊細な女性には耐え難いことだった。
崩れかける。そんな彼女の意識をつなぎ止めたのは、いつの間にやら現れていたシンジであった。
「シンジ!?」
ラーナは手を引いて倒れそうになった自分を引き戻した少年に驚いた。
「あなたまで!」
「どけっ、シンジ!」
「子供の出る幕じゃない!」
するとシンジはなにかとても哀しげな顔をして皆に叫んだ。
「みんな酷いよ! こんなことはしないって言ったじゃないか!」
「うるさい!」
「子供が余計な口出しをするな!」
「だいたい教団のやり方がおかしいと言い出したのはお前だろう!?」
加持の想像は少し当たっていた。
「でも!」
泣きそうになって訴える。
「ラーナさんは関係ないじゃないか! 他にも関係のない人を……あんな」
「シンジ?」
ラーナはそれとわかるほどに青ざめた。
「まさか……あなたたち。みなさまを!? なんてことを!」
たしかに教団の人間が幅を利かせてはいる……だが多くの僧侶はもともとこの僧院にいた修行僧なのだ。
「ラーナ! お前には関係のないことだ、どけ!」
「どきません! こんなことは間違ってます!」
「間違っているのはお前の方だ! どかないなら!」
「きゃあ!」
……それでも理性はあったのかもしれない。男はくわの柄を向けて小突くだけにとどめようとした。
だが……それでもシンジには許容できないことだったのかもしれない。女性の腹を突くなど見過ごせなかったのかもしれない。次の瞬間、誰の目にも現実とは思えないことが起こっていた。
──ドン!
シンジが男の懐に飛び込んでいた。
そして右手を突き上げていた。
突き上げられた男の体が宙に浮いていた。天井近くまで持ち上がり、背後の男の頭の上に落下した。
「うわぁ!」
抱き留めるような形で横転する。それに巻き込まれて数人が倒れた。
「…………」
誰もが唖然として少年を見た。それはラーナも、警備の者たちも同じであった。
「わたしを呼んでいるのは誰だ?」
そこへやってきたのは、毒々しい紅を引いた女だった。僧服をわざと着崩して、豊満な胸を半ばこぼれさせていた。
大柄な女性で、金色の髪がライオンのたてがみのように広がっていた。
「所長!」
期せずして現れた大将の姿に、彼らは正気を取り戻した。
そして代わりに、今度は所長が正気を失った。
「ん?」
彼女はシンジの顔を見た。
そして小首を傾げ、次には驚きに目を丸くした。
おしろいよりも白く顔色が抜けていく。
「シンジ……シンジイカリ!?」
彼女は叫んだ。
「まさか! お前がいるということは、エリュウ様もここに!?」
慌てて周囲に視線を巡らせる。
「お、落ち着きください!」
「よくごらんください!」
「ええい! なんでわたしに知らせなかった!」
彼女は目にもとまらぬ速さで鞭をふるった。付き従ってきた教団の信者二人が打ち据えられて崩れ落ちた。
ぐえっと奇妙な声を発して一人があごを押さえてうずくまった。だらだらと手のひらの間から血が漏れる。
もう一人は割れた額を押さえながら懇願した。
「そのものの髪は黒です! 瞳も黒いっ。歳もかの方の人よりも若いではありませんか」
その言葉に彼女は多少の落ち着きを取り戻した。
「そういえば……」
「そら似なのです。どうか!」
ふんと彼女は自分を笑った。
「わたしとしたことが……まあいい」
彼女は一同を見渡した。
「わたしに逆らう不届き者ってのは……あんたたちだね?」
俺たちは──誰かがそう口にしようとしたが、できなかった。
彼女から噴き出した気配というものが、それを許さなかったからである。
「死ぬんだね」
彼女は無慈悲な言葉をかけた。
「それが慈悲っていうものさ」
そして彼女の慈悲にすがらなかった者たちは、それ以上に無惨な屍をさらしたのであった。
●
加持は話が長くなるからなと、二人をラウンジへと誘っていた。
戦闘配置中に不届きな話ではあったが、加持はシンジ担当の課の課長であったし、ホリィもゴドルフィンもいまだに名ばかりの職にあったので、呼び出しを受けるようなこともなく、彼の話にのめり込むことができていた。
「シンジイカリ?」
ホリィは眉間にしわを寄せて首を傾げた。
「それはシンのことですか?」
「いいや……別人……らしいんだが、まったくの無関係というわけでもないらしい」
「聞いたことがある」
ゴドルフィンが口を挟んだ。
「教団最高幹部であり、最高導師であるエリュウ師が心酔しているという少年のことだな? アルビノで歳も食わないらしい。本当かどうかは知らないが」
「俺もですよ」
加持はでもと続けた。
「レイちゃんやシンジ君のような子供と付き合ってると、それもありかなって気がしてきますよ」
「そうだな……歳を食わないくらいでは驚いてはいられないか」
「実際レイちゃんは歳をとっていませんからね」
「え!?」
ホリィは驚きに目を丸くした。
「そうなんですか?」
「ああ。シンジ君はちゃんと歳をとってるよ。だけどレイちゃんは何年も前から今の姿のままだ」
「だからこそ生き伝説として名高い。神秘性が強くて、不死であるのかもしれないと噂が立つ……そしてそれを信じない者は」
そんなことがあるものかと馬鹿にした人間が、一体どのような末路をたどったのか?
彼は語りはしなかったが、ホリィにはなんとなくわかる気がした。
「そうですか……」
「まあ……今はシンジ君の話をしよう。シンジ君とシンジイカリとのつながりはわからない。だがそういう子がいるというのは本当らしいんだ。エリュウって人は常にその子にかしずいて、一歩引いた態度を取っているらしい。陰の実力者ってとこだな」
「……シンみたいですね」
「シンジ君よりはでしゃばりらしいが。とにかく所長──ヴェリリュンヌは彼が来たのかと驚いたんだよ。シンジイカリの傍には常にエリュウ司教が従っている。彼女のやっていたことはいわば教団の思想に反した行為だったからな」
「でもヴェリリュンヌ? はどうしてそんなことをしていたんですか?」
それがだなぁと、加持はおどけるように手を広げてみせた。
「俺も勘違いしていたんだよ……ウイルスだなんだってのは村の人間を扇動した連中の勘違いだったんだ」
ここからがこの話の面白いところなのさと、加持は茶目っ気を交えて片目をつむった。
●
「まったくねぇ……」
ヴェリリュンヌはしげしげとシンジを眺めた。
所長室は僧院に似合わぬ洋風な調度品で固められていた。堅い机に、椅子、棚。石造りの部屋の中では浮いている。
シンジは応接机で爪を研ぐヴェリリュンヌの視線にさらされながらも、まったく臆することなく立っていた。
「よく似た子がいるもんだよ」
その言葉を隣に立つ男が拾った。
「そんなにも?」
「ああ、そっくりさね。気味が悪いくらいだ」
ヴェリリュンヌはヤスリをしまうと、身を乗り出すようにして机のへりに胸を置いた。
「あんた、大の大人を突き飛ばしたんだって? それも天井まで」
「はい」
「なにか習ってたのかい?」
「別に……」
「別に……か。便利な言葉だねぇ」
面白そうに笑う彼女の機嫌を、隣の男が酷く損ねた。
「ごまかさずにちゃんと答えろ!」
「あんたは黙っておいで!」
げふぅと裏拳で吹っ飛ばす。
「しっ、しかし……」
はいつくばったままで訴える。潰れた鼻を手で押さえていたが血までは隠せていなかった。
「ふん……生まれながらにそういうことができちまう子だっているんだよ。セカンドインパクトの後に生まれたのならなおさらさね。そういう風に生まれつく子がいるってことを、いいかげんわかったらどうなんだい?」
「……し、失礼を」
「黙っておいで。さて? 話によるとあんたは村の連中に頼まれて野盗をかくまっていたってことになるねぇ。相違ないかい?」
「はい」
「申し開きはあるかい?」
「ありません」
「結構! まあ子供としちゃ大人にはさからえんわな。だけどだからといって無罪放免というわけにもいかないねぇ」
彼女は舌なめずりをした。
「あんたにはしばらくこの院内にとどまってもらうよ? いいね。外に出るんじゃないよ。夜はわたしの部屋に来るんだ」
「わかりました」
「出てっていいよ」
「はい」
失礼しますと頭を下げる。
実に殊勝な態度に、ヴェリリュンヌはふんと鼻を鳴らした。
「気にくわないねぇ」
「は?」
「賢しいんだよ。あれはなにか隠してるね」
部屋を出たシンジは、戸を閉めるまでに一拍の間を空けてしまった。
「……ラーナさん」
彼女が待っていたからである。
ドアを閉じ、彼女の前に立つ。
ラーナはなにも言わずに、まずはかがんでシンジを強く抱きしめた。
「大丈夫だった? ごめんなさい。あなたを巻き込んでしまって」
シンジは彼女の髪に頬をするようにしてかぶりを振った。
「嫌なら嫌と言えたんです。言わなかった僕が悪いんです」
「でも脅されたかなにかしたんじゃないの?」
「…………」
「やっぱり」
彼女は体を離し、シンジの顔を涙目に見つめた。
「あなたは……そうやって本当の自分を隠してきたのね」
「そういうわけじゃ……」
「でも悪いのはあなたじゃないわ。みんなよ」
シンジはそれもちがうとかぶりを振った。
「教団はともかく、所長さんのやっていることは無茶なことだから、みんなが反発するのは当たり前のことだと思います」
「でも……」
「もちろんラーナさんのいうこともわかります。それにこの村の事情だって」
「事情?」
はいとシンジは頷いた。
「この村は、もう教団の配給なしじゃ暮らしてはいけませんよね? 狩りだけじゃとてもみんなが飢えずにすむようになんてできない。かといって畑を作ろうにも湿地帯だからどうにもならない」
ラーナは少々驚いていた。
「シンジ……」
なんて頭がいいのだろうかと思う。
チャナとは大違いだと比較までしてしまっていた。
「あなた……」
「ごめんなさい」
「え?」
「僕は……やっぱりラーナさんを見捨てるべきだったのかもしれません」
「どうして?」
「そうすればみんなはきっとラーナさんに対する罪悪感を持ったに違いないから。そうすればみんなはそれを理由に思いとどまってくれてたかもしれない。僕は嫌だったからとめたけど……」
ラーナは立ち上がると、シンジの背を軽く押して歩き始めた。
「それは違うわ。わたしを庇おうとしてくれたのは優しさがあったからよ。それは否定してはいけないものよ?」
「そうでしょうか? 僕にはよくわかりません」
「でも……そうね。本当に、あなたはわたしを見捨てることもできたのよ。そうすればあなたは村に帰ることができたんだから」
ラーナはシンジが漏らしたつぶやきを聞いてしまった。
「どうせ……もう消えるつもりだったんだけどな」
その言葉の意味をラーナが知るのは、少しばかり先になる。
──村。
「ちくしょう! あの小僧、ちくしょう!」
「おちつけよ……」
「おちついていられるか!」
皆はシンジが修繕していた小屋へと押し込められてしまっていた。外には僧兵と教団の警備兵が、監視と称して立っている。
彼らは事なかれを選んだ村の居残り組にも嫌われてしまって、ろくに手当もしてもらえずにいた。
雑に頭に包帯を巻き、あるいは腕をつっている男たちが、酒を手にしてくだをまいている。
その怒りの矛先は、主にシンジへと向かっていた。
「……きっとあいつ、ずっと俺たちのこと見張ってやがったんだ。あいつは教団の手先だったんだよ!」
「ちくしょう……知られてたんだ。でなきゃ待ち伏せなんてされるもんか」
「ゲティオもパオも殺されちまった……これもみんなシンジのせいだ!」
ちくしょう……そんなやりきれない言葉が漏らされる。
加持は適当に診察を切り上げると、そっと小屋から外に出た。
(やりきれないもんだ)
「ん?」
加持は自分を見つめる視線に気が付いた。
「チャナ」
僧兵も追い払うべきかどうか悩んでいる様子だった。チャナはびくんと驚きを見せたが、そのまましゃくりあげはじめ……べそをかいて座り込んでしまった。
「おいおい」
歩み寄る。
「どうした? チャナ」
「お姉ちゃんが……お姉ちゃんが」
「ああ……わかってる」
「お姉ちゃん、きっと酷いことされてる……どうしよう」
「……ああ」
チャナはしゃくりあげながら訊ねた。
「おじちゃん……」
「なんだ?」
「シンジ……」
「ん……」
「シンジ、本当に悪いことしたの? みんなを騙したの?」
加持にはイエスともノーとも言えなかった。まだなにもわからないからだ。
「……大丈夫だよ」
「でも!」
「みんなの話じゃ、シンジはラーナさんをかばったんだそうだ」
「お姉ちゃんを!?」
「ああ」
強く頷く。
「本当のことはまだわからない……だけどお姉ちゃんをかばったってことは、悪い人間じゃないってことだ」
「うん」
「心配しないで、待ってるんだ。俺が様子を見てくるから」
「おじちゃんが?」
「俺はこれでもあそこの坊主だからな……昨日のことにも関わってない。そうそう見とがめられたりはしないさ」
「うん……」
お願いと泣く彼女を家にまで送り届けて、加持は僧院へと戻る途中、道をそれた。
チャナに語ったことなど嘘だったからだ。双方に矛を収めさせるために、坊主が身につけているはずのない武力を行使してしまっていた。
すなわち、銃を。
下手に戻れば誰何されるだけだろう。ごまかすことは難しくはないが、手間を考えると面倒だった。
(裏口を……)
──と。
「よぉ」
林の中を歩いていると、加持の前にソウシが姿を現した。
「生きてたか」
「ご挨拶だな」
「地下には行けたのか?」
「無理だった」
「おい……」
「その代わり、所長室で面白いものをみつけたよ」
「面白いもの?」
「ああ……持ち出しは厳禁だったがな」
連中が掘っているものは、ウイルスなどという生やさしいものではないとソウシは口にした。
「ウイルスじゃ……ない?」
「そうだ。お前の懸念が当たったよ」
彼らは木の根に腰掛けた。
「ウイルスってのはそういう話になったってだけだろうな。話の元は秘伝書だ」
「秘伝書?」
「寺に伝わっていたのはこういう内容のものだった──終末の時に破滅をもたらすもの現る。心あらん者はこの地に眠る鬼神を目覚めさせ共に戦うべし──まあそんなところだ」
「おとぎ話だな」
「ああ……だがここに使徒だったか? サードインパクトの話が割り込むととたんに現実味が増してくる」
なるほどと加持は頷いた。
「しかし信憑性があったとして、なぜそんなものを?」
「これは俺の推測なんだが……派閥争いじゃないか?」
「派閥?」
「ああ……使徒、ってのは例の裏死海文書とかっていうものが語っているものなんだろう? だがキリスト教は死海文書の内容を否定していたはずだ。他も似たようなものだろう。しかしそんなものが怪物のことを神の使いだと謳っているのは面白くない。となるとどうなる? 使徒を保護しようとする流れと、存在自体を否定しようとする連中とのぶつかり合いになるはずだ」
「連中は使徒を処分するために鬼を手に入れたがっている?」
「死海文書を信じてる連中は、秘せられた裏死海文書のことも気にしているだろうな。なら神に弓をひくべきかどうか悩んでいるはずだ。そんな連中には任せておけない……」
「任せている間に鬼神が永久に封じられてしまうことにもなりかねない?」
「だから押さえておきたいというのが本音だろう……これを押さえられればエリュウ司教に圧力をかけることもできるはずだ」
「生臭い話だな……」
「想像だがな、俺はそう外れてないと思ってる」
彼は立ち上がり、膝を払った。
「俺はこの話を国に持って帰る」
「そうか……気を付けろよ?」
「お前はどうする?」
加持は僧院を高く見上げた。
「やることができたからな……」
「ほどほどにしておけよ?」
「できたらな」
加持もまた立ち上がり、ひょうひょうと背中越しに手を振った。
夕べの仕掛けはもう使えない。今度は別の方法で中へと潜り込むつもりであった。
──そして。
ヒュウと強い風が吹く。
崖の上にある僧院。その中でも最も高い尖塔の先端に、片足を乗せて立つ少女が一人、赤い瞳で彼らを見ていた。
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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。