「まったくおちおち食事もしてられないたぁねぇ」
 そのように愚痴りつつ、ヴェリリュンヌはどこからか運び込まれてきた深紅の甲冑を身につけ始めた。
 かなり大型のもので、全てを着けると関節がどこにあるのかもわからなくなる。
「そうそう、それはそこを締めておくれ……えらいよ。よく甲冑の付け方なんて知ってたねぇ」
 だがそれを手伝っているのはシンジだった。
 シンジとてすべてを知っているわけではなかったが、以前に引き出した知識のどこかに、このようなものもあったのだ。
 小屋を直すのに使っていたように、今はそれを使っていた。
「……ここに来るまでの間に、いろいろなことがありましたから」
「だろうね」
 兜をかぶる。
「だけどあんたの犠牲も無駄になったね。わたしも二度目となっちゃあ見逃すことはできないよ」
「わかってます……」
「まあ安心おしよ。これで不穏分子を一掃できれば、これ以上ってのはなくなるよ」
「はい」
「刃向かってこない奴まで鞭はくれないさ。あんたはどうする?」
「ここにいます」
「そうかい?」
「神父様に見つかると問題になるでしょうから」
「そうだね。それがいいか」
 あんたも……と彼女は続けた。
「損な性格をしてるねぇ……本当は自分が前に出てことを治めたいんだろう? 加持を逃がしたみたいにさ」
 革の匂いがきつい篭手の手を、シンジの頭にポンと置く。
「あんたもさ……いつかは考えなきゃいけないよ? きっとそういう時が来る」
「なんのことですか?」
「誰を守るかってことさ……人ってのはいつも大事な人がいるもんだ。けどねぇ、その人を見捨ててでも大事なことをしなきゃならない時もあるんだ。そのことで恨めしく思ってしまったり、思われたりってこともあるんだよ」
 それは彼女と彼女が好きだった人とのことだなとシンジは感じた。
「僕は……」
「あんたもさ……いつかは基準を見つけるだろうさ」
 優しい目をする。
「人が死ぬのは嫌だろうさ……それでも大事な人を守るためには殺さなきゃなんないことだってあるんだよ。たとえそれが過ちであったとしてもやらなきゃなんない。怖い人を演じなきゃなんないことだってあるんだよ。ならなにを基準にどちらを取るか……。正しいことと間違っていること。状況と感情。認めなきゃいけないことと許容できないこと。連中を守るためにわたしにはむかうか? それで教団の怒りを買うか? それとも連中を見殺しにして後の連中を生かすか……難しいねぇ」
 手をどける。
「辛いねぇ……苦しいねぇ。でもその感傷には折り合いを付けなきゃいけないよ。折り合いを付けるために基準を設けなくちゃいけないんだよ」
「どうやって……ですか?」
 彼女は兜の仮面に手をかけた。
「あんたが守りたいのは村全部かい? それとも誰かかい?」
 それが答えさと仮面をおろす。
 鬼の面。それを知った時、シンジはこの鎧が侍の着る鎧のデザインを取り入れたものだとようやく知った。
「行くよ!」
 彼女は戸を開け放って叫んだ。
「皆殺しにしてやるさ!」
 ドアの外にはその命令を待ちわびていた狂犬たちが、武器を手に手に居並んでいた。


「まったく!」
 階段を多くの士が駆け上っていく。
 彼らに背後はなかった。これで負ければ死があるだけだという覚悟のものが目に見えていた。
 加持はその中に混じっていた。頭の中に渡りを付けに来たという小男のことが思い浮かんでいた。
「残党だって?」
 村はずれの雑木林の中で、二人は茂みにしゃがみ込んで話していた。
「ああ……洞にみんなで隠れてる」
「おいおい……正気か? 本気で襲撃する気か? 今度こそ皆殺しにされるぞ」
「わかってんだ……わかってんだけど、引き下がれねぇんだよ」
「どうして!?」
「教団の使徒が来てやがんだ……ハートランドの神父がよ!」
 加持は手のひらで顔を覆い、本当かとうめきを発した。
「最悪だな」
「ああ……あの連中が超能力を持ってるってのは有名な話だろ? 絶対に狩り出されることになる。今更逃げようったって、皆殺しにされるだけだ。だったら」
「おい……待てよ。それを話して怪我してる連中を巻き込もうってのか?」
「だってよ……」
「そりゃハートランド正教の神父のすさまじさは知ってるよ。どこに逃げても必ず狩り出されるってこともな。それでもまだ神父がお前たちのことでやってきたとは限らないだろう?」
 どういうことだよと小男は顔をしかめた。
「いいか? 昨日の今日なんだぞ? いくらなんでも来るのが早すぎる。近くの村や町まで車で何日かかるとおもってるんだ? ヘリなんかも来ていない。なら神父は歩いてきたはずだ」
「なるほど……ってことは」
「ああ。この村からの連絡を受けてきたんじゃない。旅の途中で寄ったんだよ。目的はきっと別にある」
 ここに来て、加持は数週間前にとあるゲリラの村で見た光景のことを思い出していた。
 あの時に見た巨人の変貌……全てを見収めることはできなかったが、あの巨人の姿の中には、『彼女』の姿がなかっただろうか?
 ──ホワイトテイルの。
(ならあの神父は、彼女を狙って来たのかもしれない)
 それは加持の勘だった。
「だから……な。軟禁されてる連中は巻き込まない方がいい。それこそ神父の不興を買って、殺される理由になっちまう」
「あ……ああ。そうだな」
「それに村の連中はみな怖じ気づいちまってるし、怪我をしてる連中はなおさらだ。確実に殺されるとわかっていて話に乗る馬鹿がいるもんか! 殺しはしないって保証してくれてるんだぜ?」
「でも俺たちは違うんだぜ? 警戒されてる。今更投降なんて認めてももらえねぇよ……」
 ならな? 逃げちまえ──それは悪魔の誘惑だった。
「逃げるって……」
「大丈夫、お前一人ならなんとかなるさ」
 加持は彼の肩に手を置いて、強く力を込めてつかんでやった。
「いいか? 他の連中には話が付いたってことにしておいてだな、襲撃させるんだよ。その間にお前は逃げればいい」
「仲間を囮にしろってのかよ!?」
「だがなぁ……俺の見るところお前も囮だぞ? 変だと思わないか? なんでお前みたいなしゃべりの下手なのを使いに出すんだ?」
「あ……」
「つまりな、そういうことなんだよ」
「きたねぇ……」
「ああ。お前が帰ってこないようなら村は危ないってことだ。そういう意味での偵察なんだよ。第一な、この間のはたんに所長に対する不満でやり始めたことだって理解を得られるとしてもだ、今度ことを起こせばそれは教団への反逆になっちまう。それではハートランドの神父だって見過ごしにはしないだろうさ。お前以外の人間はみんな殺されることになる。それならどうだ? 恨まれて、追っ手をかけられるってこともない。全部が闇の中だ」
「あ……あんたはどうなんだよ? あんたって確か坊主だろう?」
「坊主さ!」
 大げさにうそを吐く。
「だが教団に(くみ)してるわけじゃない。俺は納得してないんだよ……もう少しばかり血の気が多かったら、あそこで見張られてる奴らの仲間入りをしてたかもしれないけどな」
「……大変なんだな」
「ああ。だけど村人や半病人が殺されるのも見たくないんだ。これ以上は好きにやりたいやつだけが殺し合えばいい。そう思うだろう?」
 思う思うと彼は頷いた。
「そうだな、そうだよな!」
「そういうことさ」
 だからと加持は背を押してやった。
「あんたはうまく生き延びろよ?」
「坊さんはどうするんだよ?」
「俺は村に残って教団との交渉に務めるさ。せめてみんなが奴隷として扱われないようにしないとな」
「がんばんな!」
「あんたもな」
 にこやかに手を振って加持は見送ってやった。
「さてと……」
 ──そうして忙しくなるなと、彼はこの襲撃に紛れ込んだのだ。
(合流する手合いが遅いとか思ってるんだろうなぁ)
 真実に気づかれては相当にまずい。加持は彼らの先頭に出ると、追われている風を装って、防備を固めている集団へと泣きついた。
「昨日の連中です! 近くの洞に潜んでいました!」
「加持師!? あなたいままでどこに」
「村でみなを落ち着かせていたんです! それより」
「わかっています! あなたは中に」
「おねがいします!」
 やはりなと加持はにやついた。誰も死体の確認に来なかったことから、ヴェリリュンヌもまたシンジの魂胆に気づいていたのだと読んでいたのだ。
 看破していながらも確認の徒をつかわさなかったのであれば、当然に自分のことを話として広めることもしていないだろう。
 見逃してくれたのだ。
 加持はそんな読みを持っていて、これが当たっていた。
 さっさと中に入り込み、神殿の奥へとまっすぐに向かう。
 途中には大きな空間があった。そこは何かしらの祭儀を行うような場所で、天井までの高さだけでも十メートル近かった。
 壁には張り出しのような通路がしつらえられていた。いくつもの層になっている。ここでなにかが行われる時には、そこにも僧が立つのだろう。
 天井は立派な柱によって支えられている。加持が両腕を広げたよりも太い柱だ。等間隔に奥へ奥へと並んでいた。
 ──神殿だった。
 加持はそんな石柱の一本に隠れ潜むと、壁との間で僧服を脱ぎ始めた。黒いアンダースーツ姿となって、今までよりも速く音もなく駆け出した。
 彼が向かっているのは地下だった。地下にあるレリーフだ。
 開かずの間から入った地下坑道のどこかにあるという、謎のレリーフを刻まれた岩盤。
 それこそが今の加持の目的であった。




「おどきよ!」
 石段を登ってくる連中を相手に、銃で撃ち合いを演じていた守備隊と僧兵の混合団は、そんな威圧的な声に対して身を引いてしまった。
「……所長!」
 灯火(とうか)に血の赤が浮かび上がる。
 深紅にまみれた鬼の(つら)が、無慈悲にも反逆者たちを睥睨(へいげい)した。
 ゲリラたちは息を呑んで萎縮した。石段の脇、岩の陰に隠れて銃を構えていた者たちも、身を乗り出すようにして鬼を見た。
 ──白い仮面がにぃっと笑った。
 右腕をぶんと振るう。鮫の歯のような(やいば)をワイヤーによって連ねていた鞭が、ジャキンと音を立てて一本の剣に変化した。
「死にな」
 彼女は段を蹴って躍りかかった。
 重量にして百キロ近い鎧の重さなど意にもかいさず、数十段下へと飛び降りた。
 ズンと着地。足場がその重みにひび割れる。
「あ」と言った時にはもう遅かった。男は彼女の剣に喉を貫かれてしまっていた。
「わぁああああ!」
 神経の切れた男がマシンガンを乱射した。弾丸はぷらんと宙づりになった男の体を派手に踊らせた。
 ヴェリリュンヌは剣を振って盾にした男の体を投げつけると、別の敵を見つけて斬りかかった。
 マシンガンを撃った男が死体と共に転がり落ちていく。悲鳴が上がっていたがゴキンという音と共に消えてしまった。首の骨でも折ったのだろう。
 剣を振り上げたヴェリリュンヌの姿は、月光を背にしているためにとても恐ろしい影となった。
 剣が振り下ろされる。(やいば)が別れて鞭となり、間合いの外にいた男の肩口を打擲(ちょうちゃく)した。
 ──ぎゃああああ!
 ヴェリリュンヌの腕が鞭を引く。歯はノコギリと同様の効果を生んで、その男の左肩口に切れ込みを入れた。
 血肉が舞う。
 たった一人に数十人が萎縮した瞬間だった。マシンガンが乱射される。銃弾が飛ぶ。ヴェリリュンヌの体に無数の火花の華が咲いた。
「撃て!」
 焦った守備側の兵がヴェリリュンヌの援護に回った。
 弾丸の嵐の中で、ヴェリリュンヌは哄笑を上げた。
「あ────っ、はっはっはっ! ぬるいねぇ! ぬるいんだよぉ!」
 彼女のものに似た黒い鎧を羽織った者たちが現れた。
 彼らは軽やかな運びでヴェリリュンヌの先へと駆け下った。武器は両腕に装備されている盾付きの鉄爪(てっそう)だ。
 引き裂く、貫く、時には爪と盾の隙間から銃弾を飛ばす。
 左右は壁だ、逃げ場などない。後続の者はその者たちが見えずに闇雲に銃をうち続け、前の者は逃げようとして流れ弾に当たるか彼女らに()たれるかを選ぶしかなかった。
 もはや戦場は彼女たちの独壇場であった。


「…………!」
 ──ここに耳を塞いで怯えている女性がいた。ラーナである。
 彼女は僧院の中にある自分の部屋に閉じこめられていた。寝台を背にして床の上にしゃがみこみ、ぎゅうと瞼を閉じている。
 怖い……と思っていた。銃声に混じって人の絶叫が聞こえてくるのだ。まるで獣の雄叫びだった。心臓が握りつぶされるようにきゅっと痛くなって息苦しくなる。耐え難い。
 ──チャナは村から僧院を見上げて不安げにしていた。
 胸元に手を組んでいるのはまさに不安の現れだろう。彼女だけではなく村人たちも外に出てきて、山の様子を眺めていた。
 遠目にも火線の光が走って見える。パンパンとひっきりなしに音も聞こえる。
 そしてツェペリとフォークが動き始めていた。


「予想が外れたな!」
「ん?」
「今夜とは思ってなかっただろう?」
「そうだな」
 二人は木立を抜けて僧院の正門に出た。
 伸びるように上がっている石段。それは血にまみれていて酷い惨状となっていた。
 死体が転がり落ちて積み重なっていた。ひしゃげている。銃弾にたたきつぶされている。流れる血が河となって石段を染め、小さな池を作り始めていた。
「遅かったか」
 フォークは中腹に立つ鬼鎧を見上げて口にした。
「あれは……。なんだ? 鬼か?」
 ツェペリが答える。
「ヴェリリュンヌ子爵だ」
「彼女なのか? あれが」
「ああ……ヴェーダ家は代々男爵家とともに前線に立ち、伯爵家の先方を務めていたというからな。本来は彼女の鎧ではないのだろうが」
 なるほどとフォークは納得した。
 本来は跡取りにあたる男児が受け継ぐものであったのだろうと想像をして。
 時代錯誤な話であるとは思わなかった。ヨーロッパには未だにそのような因習もあるのだ。
 軍部においては役職を世襲制で継承していることも珍しくはない。
 二人は死体を避けつつ階段を登った。
「ヴェリリュンヌ子爵!」
「これはツェペリ男爵」
「この有様はいったい」
「なぁに。問題は終わったよ」
 彼女は仮面を上げると、ほてった顔を夜風にさらした。
 そしていつも通りに付き従ってきた男から銀杯を受け取り、一口煽る。
「どうだい? 男爵も」
「けっこう」
 これはこれはと彼女は嘆いた。
「男爵様ともあろうかたが……これは勝利の美酒なんかじゃない。死者への弔いの酒なんだよ? それを断るとは礼儀に欠けるね」
「わたしの戦いではありませんからな」
「そうかい? まあ男爵様には物足りない相手だったろうけどねぇ」
 しかしそう思っていないのは、紅く濡れた唇をぺろりとなめたところからも明らかだった。
 そんなヴェリリュンヌの性癖を、ツェペリには理解することはできなかった。位からいえばツェペリは彼女の下にあたるのだが、お互い国元は別である。風習や死者に対する弔い方もまた違うのだ。
「ま……男爵様においでいただくほどのことではなかったよ。このとおりさ」
「しかし……この死者の数は」
「ツェペリ……」
「なんだ?」
 ツェペリは彼の声に振り返って仰天した。
「これは!?」
 ビクビクと痙攣した死体が、段差に手を突き、むくりと上半身を起きあがらせた。
 頭の半分は吹き飛んでいる。血と脳漿(のうしょう)をしたたらせながら立ち上がる。
 他に、ヴェリリュンヌに腕を半ばちぎられた男もまた立ち上がっていた。けだるく上半身を前に倒し、腕をぶらりと揺らしていた。
 顔が上がる。
屍生人(ゾンビ)化現象!?」
 ツェペリは『あの村』の惨状を思い出した。
「なんということだ……ここでもあれが起こるのか!? フォーク! ヴェリリュンヌ子爵、これはいったい!」
「慌てんじゃないよ!」
 ツェペリは教団の人間に対する不審の意味から問いかけたのだが、彼女はなにも事情を知らないものとして受け止めた。
「ツェペリはなんでわたしみたいなのが部外者でありながらも飼われていると思ってたんだい? それはなにもわたしの家が多くの教団信者を抱えていて、影響力を持っているからってだけじゃないんだよ」
 剣をかまえる。
「教団の肉はねぇ……毒なのさ。死ぬことを許さないほどの生気にあふれた肉なんだよ。だけどそれだけに死んだ時にはこういうことにもなる」
「……それを知っていて配給している教団とは」
「嘆かわしいかい? しかしねぇ……本当に最初は知らなかったのさ。だけどわかったころには遅かった。もはや世界は教団の配給なしには飢えて死にいくだけになっていた。だから教団は肉を改良してごまかすことにしたんだよ。精肉所ってのはそのための加工場なのさ! 全世界に加工場とわたしみたいのが配置されてる。そうさ! わたがし優遇されてるのはね、口封じを行ってくれる同盟者だからなのさ!」
 それにといやみったらしく付け加えた。
「そこの神父も似たようなものじゃないかい? ええ!? 加工場を通さない肉ってのはこういうことも引き起こすんだよ。だから横流しされた肉の在処(ありか)を探っては、毒まで使ってその肉を食べたとおぼしき連中を抹殺している。普通のやり方じゃ殺せないからね!」
 彼女は従者に銀杯を押しつけると、二人を押しのけてよろめきながらも石段を上がってきたゾンビの腰に剣をぶつけた。
「まったく! 教団の教義なんてそんなものさ」
 ゾンビの腰骨が折れてくの字に曲がる。そしてそのまま壁際の巨石にぶつかってパンと弾けた。
「しつこいね!」
 腰から突きだした背骨がくねくねと動き、足も左右ばらなばらにもがいていた。上半身は破裂して内容物を弾けさせたというのに、もげかけた首をひきずりあたりに叩きつけながら這って彼女に迫ろうとした。
 ──踏みつぶす。
 それでも手は足首にかかった。恐ろしい力がこめられて、鎧にへこみを入れるに至った。
「この!」
 振り回して蹴り飛ばす。
 空を飛んで落ちていったが……その間にも一体、二体と同じようにして上がってきた。
「銃を持ってる奴は前に出て潰してやりな!」
 彼女の言葉に衛兵たちが動こうとしたが、その動きをツェペリが制した。
「……わたしにも弔いの酒を」
 ヴェリリュンヌが口にした銀杯を、彼はいつのまにやら手にしていた。
 一口含む。
 そして口をすぼめると、その隙間から吹き出した。
 ──パウパパウ!
 奇妙な音を発してワインが飛んだ。薄く伸ばされたそれは円盤となってゾンビたちの体を裂いた。
「波紋カッター……ふむ。君たちの命に見合うだけの年代物だ」
 ワインがゾンビの血肉に混ざる。混入したワインからは波紋の刺激が広がって、毒同然のものに犯されたゾンビたちは硬直し、痙攣し、崩れ落ちた。
「なんだい!?」
 そのうえじゅくじゅくと湯気を上げて溶け始める。
「妙な技を……」
 ──その時だった。
「じゃっじゃじゃ────ん!」
 大きな声が彼らを打った。


「な!?」
 衛兵たちが守っている最後の扉。その真上にあたる場所の一番高いところに位置している尖塔。
 その先端に、月光を背にした何者かが立っていた。
「誰だい!」
 誰何(すいか)する声に彼女は踊った。
「何者なんだ? と訊かれたら、答えてあげるが世の情け♪」
 とうっと彼女は飛び上がった。足を抱えてくるくると回転する。
 少女はスカートをはいていた。着ているものはブラウスだった。なのにその背に真っ白な翼が開かれた。
 ──服を破くことなく現れて、ばさりと風圧を受けて大きくたわんだ。
「あれは!?」
 ヴェリリュンヌの記憶の中にあったなにかが触発された。
「司教!?」
「やあ!」
 少女──レイは、彼らの頭上まで降下すると、そのまま前回りを披露して、かかと蹴りをお見舞いした。
 ──ゾンビに向かって。
 ドン! 一撃がゾンビの手前で階段を割った。かかとの位置から最下段に向かって亀裂が生じ、左右の端が跳ね上がった。
 敷石がずれて滑り始めた。崩落が起こる。石が坂を落ちていく。
 轟音が谷の合間に反響して耳を殺した。ゾンビ共が雪崩に巻き込まれて姿を消す。レイは振りかえるなりにんっと笑った。
「あたしの名前は綾波レイ!」
 翼はもう消えている。
「世界の破壊を防ぐため! 世界の平和を守るため? 愛と真実の悪を貫くラブリー・チャーミーな敵役」
 ビシッと決める。
「おいしいごはんをいただくために! ホワイトテイル。ただいま参上!」
 ──ホワイトテイルだって!?
 ぎくりとしたのはヴェリリュンヌの後ろで腰を抜かしていた者たちだった。
 ホワイトテイル──それは世界各地で凶悪な事件を起こしながらも、未だ正体の知られていない存在である。その上に教団に対しても不遜な行いを働いていながら、エリュウ師直々に不干渉宣言を発令されている存在であった。
「化け物……」
「ノンノン! 女の子にンなこといわない」
 ちっちっちっと指を振る。
 その仕草自体は可愛らしいのだが、背後には地滑りを起こしたがごとく剥き出しになってしまっている山の斜面と、遥か麓に瓦礫の山となって積み重なってしまっている階段だったものの残骸があった。
 門を押し潰して入り口を塞いでしまっている。隙間からは赤いものがしみ出している。砂埃が谷間を駆け上がって来て、喉と鼻、それに目を痛めつけた。
 ──現実である。
 夢や幻などでは決してなかった。
「なんであんたが出てくるんだい!」
 それよりもとツェペリが焦った。
「君がいるということはシンジも居るのか!?」
「シンジだって!?」
「かくまっていたのはあなたですか」
 ヴェリリュンヌは一瞬しまったという顔をした。
「ちょっと待っておくれよ。わたしが知ってるシンジってのは、ちょっと頭がいいだけの賢しい子供さ。それがまさかあんたたちの探してる小僧だなんて、どうして繋げて思えるんだい?」
 その上。
「それがホワイトテイルの仲間だってんなら、人違いの可能性だって」
 ──その時だった。
「なんだ!?」
 ぐらぐらと地面が揺れ始めた。
 下側の支えを失ってしまった敷石が、揺れに動いてはずれ出す。下側がなくなっているだけに歯止めが利かなかった。頭の上、崖の上からも石と土が落ちてきた。
「地震!? 違う、これは!」
 崖が崩れる!
 一同は僧院の中へと逃げ込んで……そこで駆けてくる加持リョウジと出くわしてしまった。


 レリーフにはりつくようにして探っていた加持は、ようやくここかとコインをはめ込むべき場所を見つけた。
 元々はまっていたものだ。それを戻してみたところでなにかが起こるとは思わなかった。
 だからもう一度はめ込んでみたのだが……それがこのような事態を引き起こすなど、まったくもって軽率だった。
「なんてこった!」
 突如として突き上げるような震動にみまわれた。揺れが天井から砂埃を落とす。
 支えていたやぐらもぐらぐらと揺れて倒れかけた。地震かと思えばそうではなかった。揺れの原因は石版だった。
 コインが発光し、レリーフにその光を走らせる。光によって浮かび上がった絵が、徐々に表に這い出そうとしていた。
 ──くっ!
 加持は逃げた。振り返らずに逃げた。このままでは生き埋めになると思ってのことだった。
 坑道は複雑に入り組んでいる。それでもレールが敷かれていたからなんとか戻れた。
 土を運び出すためのトロッコが、大きくなった震動に暴れて跳ねていた。勝手に走り出しているものもあった。
 カンテラががちゃりと落ちて油をばらまいた。火の手が上がった。
 どこかで崩落が起こったのか、耳にいたい音が聞こえた。
 加持はそれらに追い立てられるようにして、なんとか僧院にまで戻って、先の言葉を毒づいたのである。
 こちらは直接の影響を被っていないのか、かなり状態は安定していた。余裕があった。
 それでも壁に手を突けば感じられる状態だったから、加持は僧院から出ることにした。
(一難去ってまた一難……違うか)
「あんた!」
 加持は大広間を一気に走り抜けようとして、ヴェリリュンヌに見つかってしまったのだった。
「くっ!」
 加持は腰の後ろにあるホルスターから銃を抜いてしまった。それは反射的な行為だった。
 ろくに狙いも定めずに撃つ。狙いは当てることではなかった。
 ガォンと銃声がこだまして、一同はとっさの動きを見せてしまった。
 その隙に身を翻して加持は駆け出す。
「お待ちよ!」
 ヴェリリュンヌはその細い足で、敷石のとっかかりにつま先を引っかけ、五十キロはあろう床石を蹴り飛ばした。
「げぇ!」
 加持は信じられないものを見た。外すことも容易ではない敷石が、宙を舞って追ってくるのだ。
 それも一抱えもありそうな大物が。
(悪運の神様!)
 なぜだかこの時、加持は自分をふった彼女のことを思い出してしまっていた。
「くあ!」
 身を投げ出すようにして転がりかわす。バカンと落ちた敷石が割れ()ぜた。砕けて残骸を方々に散らす。
「よく避けた!」
 ヴェリリュンヌが降ってきた。
 これには先ほど以上に仰天した。
「なんて女だよ!」
「こんな女さ!」
 着地。敷石が割れる。加持は振るわれた剣を転がってかわした。ヴェリリュンヌは振り切った位置から横へと薙いだ。剣が分離して鞭へと変わる。
「だっ!」
 今度は腕を使って逆立ちの要領で転がり起きた。寸前まで胴があった床を鞭の歯が削っていった。
「くぅっ」
 膝から落ちて痛みに呻いてしまう。
「呆れた男だよ!」
「いきなりこれはないだろう!?」
「先に撃ったのはそっちさね!」
 地震は一旦おさまっていた。それでもなんだったのかと寺中の人間が走り回っている。彼らも加持に注目した。
「あんたがなにかやったのかい!」
 ヴェリリュンヌの勘気に合わさり、彼女の手下が素早く動いた。じりじりと展開して加持を取り囲もうとする。
「坊主共はさがっといで!」
 彼女は教団の守備兵を使って遠ざけた。邪魔になると見て取ったからだ。
 僧侶たちは動揺していた。昨日までの修行仲間が、明らかに雰囲気の違った姿で現れたのだから当然だった。
 今の加持はひょうひょうとした街の男で、明らかに世垢にまみれた態度を披露してくれていた。
「さあ答えてもらうよ!? 爆弾でも仕掛けたのかい!?」
「コインを戻したんだよね?」
「ホワイトテイル!」
 レイちゃんだってばとぶつくさという。
 レイは彼女たちを、加持とで挟み込む位置に現れた。加持はヴェリリュンヌと彼女の騎士に囲まれている。
 それは微妙な配置であった。
「コインだって?」
 あんたが盗んでたのかいと歯ぎしりをする。だがそれを加持が正した。
「おっと待った。彼女はコインを取り戻してくれたんだぜ?」
「なんだって?」
「盗んだのはソウシさ」
「あの男もあんたのお仲間かい」
「いいや、商売敵だよ」
「それであんたはそいつの手下かい!」
 ぐるると唸った。
「わたしはホワイトテイルが人間なんかとつるんでるなんて話は聞いたことがないよ!」
「だろうな」
「さっきシンジがそいつの使いっ走りだってのは聞いたけどねぇ」
「ああ……だが勘違いしてるぞ」
「どこがだい! あたしはまんまとしてやられたってわけだよ!」
「そうかぁ?」
 加持は不適にもホルスターに銃を戻し、タバコの袋を取り出して口にくわえた。
 安物のライターで火を点けて一服してみせる。
「ふぅ……所長はコインを取られた。それを取り戻してくれたのがホワイトテイルだ。俺はシンジ君と彼女に義理ができたから使いっ走りを引き受けてコインを戻した。な? どこで俺たちはあんたを陥れたりしてるんだ?」
「ならさっきの地震はなんだい!」
「それは……俺のせいか」
「ほらごらん!」
 ヴェリリュンヌは一息で二歩分前に出た。剣を大上段にかかげて振り下ろす。
「くっ!」
 加持が一歩下がって逃げようとした。
「ふっ!」
 短い息を吐いて剣の拘束を解く。鞭へと変化した刃が加持を追った。
「おわ!」
 ガォン! 加持は銃をホルスターに入れたままで、腰をひねるようにして刃を撃った。
 まるで背面撃ちだったが、器用に当たった。
「この!」
 宙を踊った鞭を引くように振って二撃目を放つ。
「ぎゃあ!」
 これは加持がしゃがんだことで、その背後にいた鎧男の首筋に当たってしまった。
 ──たやすく首が跳ね飛んだ。
「火事です!」
 坊主の一人が駆け込んできた。
「地下の坑道から煙が!」
「ホワイトテイル!」
 フォークが突然銃を撃った。毒針が彼女の眉間を貫き通した。しかしレイは平然としていた。
 にんっと笑う。
「不意打ち? 卑怯なんだから」
「化け物に礼儀はいらない」
「フォーク!」
「ツェペリのおじさんもごきげんよう」
 ひょうひょうと手を挙げて挨拶をするレイである。
「二人ともしつこいねぇ。シンジから追跡無用の指示が出てるでしょうに」
「シンジから?」
「あ、知らないのか」
 それがわかったのは、ヴェリリュンヌだけだった。
「やっぱり深いつながりがあるってわけかい……シンジイカリとシンジは!」
「うん……まあ双子みたいな同一人物みたいな……でもやっぱり別人みたいなもんだから」
「わたしの余裕を陰で笑ってたってわけかい!」
 レイはむっとした様子を見せて針を抜いた。
「あのねぇ……おばさん」
「おば!?」
「シンジが本当にそんな子に見えたの? だったらその目くりぬいてあげる。そんな使えない目なんていらないでしょ?」
 レイは無造作に一歩踏み出すと、次の瞬間にはかすれるように消えてフォークの前を歩いていた。
「うっ、が!」
「フォーク!?」
 フォークの腕にはレイに刺さっていた針が突き立っていた。
「……神父さんは毒が効かないように訓練受けてるでしょ? 死にはしないんだからしばらく唸ってて。ああ、それでも心配ならおじさんが支えてあげててよ。波紋を使えば少しは楽させてあげられるから」
 もっともとレイは付け加えた。
「その毒は体組織を活性化させるものを濃すぎる濃度のままで使ってるものだから、波紋を使うと威力を倍加させちゃうかもしんないけどさ」
 ツェペリはぎょっとして波紋を使うのをやめた。
「さあおばさん」
 レイは手を伸ばした。
「その目ちょうだい」
「やれるかい!」
 鞭を振るう。
 がっと掴んだのはレイの背中から生えた翼だった。何度もねじれて手のように変化していた。
「化け物が!」
 ヴェリリュンヌは右手で鞭を引き戻しながら左腕を突きだした。
 篭手上部の隙間から針が打ち出される。
 鞭はレイの三本目と四本目の手の手のひらをずたずたに引き裂きながら剣へと戻った。
 針はレイの顔右半分を穴だらけにした。
 しかし眼球に刺さっているというのに、レイは瞬きすらもしなかった。
「痛みを感じないのかい!?」
「冗談。こんなもので殺せると思ってるあんたが甘いのよ」
 ふっと呼吸。レイはくるりと回って後ろ蹴りを放った。
「ぐうっ!」
 紅い鎧にへこみが生まれた。
 よろめくように三歩下がって、ヴェリリュンヌは膝をついた。
「いっちー!」
 レイは蹴った足を抱えて飛び跳ねた。
「堅すぎ! なにでできてんのよそれ!」
 ヴェリリュンヌに答えるような余裕はなかった。口からげほっと血の塊を吐く。
(冗談じゃないよ!? ダイヤロイ製の鎧がへこんだだって!?)
 戦慄する。
「あんたエリュウ司教のお仲間かい!」
「似たようなもん」
 にやりと笑う。
「あいつがシンジイカリを連れてるんなら、碇シンジにもあたしがいる。そゆこと」
「どうりでね!」
 足首を狙って剣を振るう。レイは軽く飛び跳ねると、その剣を踏むようにして着地した。
「くっ!」
 ヴェリリュンヌははいつくばったままでレイを見上げた。
 再び揺れが起こって、今度は止まることなく大きくなっていく。それは壁が崩れるほどに、そして柱がたわんで倒れそうになるほどに大きくなった。


「レイ……」
 シンジは小さくかぶりを振った。
 穴蔵のような通路の中で顔を上げる。
 頼っちゃダメだ。そう思う。
 ──なにやってんの?
 一人で居ると、レイが来た。
『なにやってんの?』
『レイ……』
 部屋の隅に座っていると、レイはいつの間にか窓際に立っていた。
 月明かりを避けるような暗がりに、ぼんやりとその姿が浮かび上がっている。
『もうすぐここは崩れるよ? 逃げるなら今の内』
『でも……』
『助けたいなら捜しに行けば? 別に助けちゃいけないって理由もないし』
『そうなんだけどさ』
 煮え切らないねぇとレイは笑った。
『なにを言われるか怖いっての? でもそれは覚悟してたんでしょう? だったらダメ。逃げちゃダメ』
『わかってるよ』
 ギュッと拳を握り込む。
『そんな……逃げたいって思う気持ちを恥ずかしいと思ってごまかすんじゃなくて、その気持ちを認めた上でどうしていくかって、それを決めるために色々なことを経験してみるんだって』
『うんうん』
『決めたんだ』
『うん』
 レイはそれでいいんだよと笑った。
『どうしたいかって気持ちは大切。人のことなんて考えなくていい。考えるのは余裕のあるときだけでいいからね? 余裕がないときは自分のことだけで精一杯で当たり前なんだからね? 大丈夫。余計な部分はあたしが埋めてあげるから。気にしなくっても大丈夫。だから安心して間違いなさい。その経験が糧になるから』
『うん……ごめん』
『ダイジョウブじょぶ! 地下のものさえなくなれば、ヴェリリュンヌさんもいなくなる。そしてやってくるのは調査団。それで村は潤うわ。教団がいてもいなくても物であふれるようになる。問題は国が軍隊を派遣しかねないってことだけど、それだって派手に持ち去ってしまえば彼らの目はこちらに向くはず』
『そんなにうまくいくのかなぁ?』
『いかせるために派手にやるのよ』
 にふふとレイは楽しげに笑い、また暗がりの奥の奥へと沈んでいった。
 ──消えてしまった。
 シンジはしばらくじっとしていたが、するべきことを決めたのか立ち上がった。
 間違ってもいい。間違ったのなら後悔すればいいのだから。そして次にはちゃんとやるために、どうすれば好かったのか考えればいい。
 妄想は想像以上の困難を決して突きつけてはくれない。本を読んでも理解できないような性格や性癖を持った人物は出てこないのだ。
 ラーナやチャナ。加持にソウシにヴェリリュンヌ。ツェペリやフォークのような人間だっているのだ。ゲリラやラーナを殴ろうとした村人のような男たちとている。
 説得することができなかった。ではどうすればよかったのだろうか?
 どうせろくな人間ではないのだ。一つ一つ間違って、一つ一つ考えて、一つ一つのことができるようになっていくしかない。
 ── 一歩一歩マシになる。
 シンジは尻を叩いてくれたことに感謝して、部屋を出ることにした。彼はレイがどうやって消えたのかなど、まったく気にしてはいなかった。
 昼には姿が薄くとも、夜には輝く月のように、シンジは彼女と闇の相性がとても良いことを知っていたのだ。


「あなたたちは早く外に出て!」
 ラーナはかけずり回っていた。
 一旦やんだようだが先の地震は大きいものだった。
 この地方に地震などが起こることはない。一度だけ……セカンドインパクトの時だけは別だったから、ラーナは焦って子供たちに声をかけて回っていた。
 この寺には大人ばかりではなく小坊主もいるのだ。
 また武器を持った者たちに出会ったのならどうしようかと考えたのだが、幸いにもそういうことはないようだった。
 彼女はもう誰もいないかと去ろうとして、寝ぼけ眼をこすりながら出てきた女の子に気が付いた。
 誰だっただろうか? そう考えて小坊主の一人の妹だったと思い出した。
「お兄ちゃんはどうしたの!?」
 女の子は別の村へおつかいに行っていると答えた。
 チャナやシンジが入りこんでいたように、それほど厳格な寺ではないのだ。弟や妹の面倒を見なければならず、仕方なしに自分の部屋に泊めてもいいかと許可を願い出ている子供たちは多い。
 まさか他にもと思って訊ねたところ、今日は自分だけだと答えられてゾッとした。
 もし違う日であったなら? それは考えたくもない状況だった。
 とにかくと思って、少女を抱き上げて走り出す。さして重い子ではないことが幸いだった。ラーナの細腕でも十分に抱えられる背丈だった。
「ああ!」
 それでも突き上げるような震動の不意打ちにはよろめいてしまった。壁に肩をぶつけてしまって酷く痛める。
「ぐっ!」
 それでも子を落とすまいと抱きしめる。しゃがみ込んで揺れがおさまるのを待つのだがなかなか消えない。
(助けて!)
 誰か助けて──彼女は仏の慈悲にすがらず単純に祈った。艶のない少女の髪に顔を(うず)めて大きく震えた。
 ここは崖をくりぬいて作られた寺なのだ。それだけに逃げ場などない。あるとすれば窓から飛び下りることだけだが、そんなことは論外だった。
 ──加持師!
 彼女は死んだと思っている彼の名を叫んだ。心の内で。
 不吉な音がビシリと鳴った。ひときわ大きなひび割れが周囲に走った。壁が剥がれるように折れかかる。巨大な天板が落下する。彼女は通路に埋もれることとは……ならなかった。
「ラーナさん!」
 真っ白な閃光が、彼女の視界を焼き尽くした。


「ヴェリリュンヌ様!」
 必死の言葉にも、彼女は舌打ちをする余裕すらなくしていた。
 落ちてくる天石は岩塊と言える大きさだった。避けることはできやしない。
 潰される。そう覚悟した。しかし彼女は救われた。
ギャーレオーンキングスカッシャー!」
 びっちりと隙間無くはめ込まれていた敷石の隙間から、金色の光が漏れだした。
 地震に緩んで開いてしまっていたのかもしれない。黄金の光はまばゆく彼らを照らし上げた。
 ドォンと音を立てて、土柱が垂直に噴き上がった。落ちてきた岩が金色(こんじき)の柱と共に現れた物体の背に当たって割れ、左右に流れるようにして落ちていった。
「なんだい!?」
 ヴェリリュンヌは敷石に埋もれながら口叫んだ。天板よりは小さいとはいえ、敷石もまた地肌を隠すために厚く切り出された岩である。
 当たれば潰される程度の大きさはあった。ヴェリリュンヌの周囲では絶命する者が多数出ていた。彼女が無事だったのはひとえに鎧のおかげであった。
「うお!」
 こちらは加持である。彼は単純に運だけで切り抜けていた。
 加持は焦った。『それ』が出てきた穴に向かって、土砂が流れ始めたからだ。巻き込まれれば地下坑道に埋められてしまうことになる。
「ライオン……なのか?」
 粒子がゆっくりと登っている。さかのぼる光の滝の中に、奇怪(きっかい)な形状をしたものがたたずんでいた。
 それはライオンだった。とても角張ったフォルムをしているライオンだった。ライオン型のメカだった。五・六メートルはある大きなものだ。
「あれが眠っていたものなのか」
「そう!」
 レイの声が大きく響いた。
「これこそがよーじんごぶぅりきを倒すために用意されていた勇者の乗騎!」
「ようじん……なに?」
「ごぶぅりき。おわかり?」
 レイはライオンの眉間に立っていた。腕組みをして片足を鼻に立ててふんぞり返っていた。
「数千年もの間の長き闘争に決着をつけた勇者ラムネスと三人の巫女が、邪心復活の時を懸念して残した『最初』の遺産!」
「どこまで本気なんだ……」
 どこまでだろう?
「ふざけるな!」
「おおう!?」
 レイは驚いた。
 ヴェリリュンヌが背中に乗っていた、自分よりも大きな石をはねのけて起きあがったからだ。
「あんたほんとに人間!?」
「そんなことはどうだっていい!」
 よくないようなとは言わせない迫力がヴェリリュンヌにはあった。
 兜が脱げる。金色の髪が怒りにふくらみ踊っていた。
「わたしはねぇ! 家を潰さないために必死にやってんだ! こんなおふざけに付き合ってられるかい!」
「っていわれも……」
 ぽりぽりと鼻先を掻く。
「ほんとに眠ってたのってこれだしねぇ」
「だったらそいつをよこしな! それはわたしんだよ!」
「んな無茶な」
「そいつがなきゃわたしは死ぬしかないんだよ!」
「なんでそうなるの」
「家を背負うってのはそういうことなのさ!」
 でもいやんとレイは身をくねらせた。
「こういうおもちゃはぜんぶあたしのだって決まってんの!」
 レイは親指でピンとコインを弾き上げると、パシリと握り込んでトゥッと飛んだ。
 ライオンが口を開いてがぶりとかみつく。レイを飲み下した状態から体を反らせて立ち上がった。
「なんだい!?」
 変形した。
 後ろ足で立ち上がった。頭が胸に収容されて、背中側から兜めいた頭部が姿を現した。
 爪が収納されて、代わりに手が姿を見せる。
「ロボット!?」
 それも人型の。
 しっかりと仁王立ちしたそれは、四メートルほどの背丈を持った巨人であった。
 左肩に長盾をマウントしている。右手には剣。
『シンジ! 行くよ!』
「シンジだって!?」
 騎士が行こうと剣を振る。
 ヴェリリュンヌが姿を捜す。
 シンジは壁にあるはりだしの、下から二段目に立っていた。
「シンジ!」
 ヴェリリュンヌは吼えた。
 加持は目を見張った。
 ツェペリと彼に支えられているフォークはうなりを上げた。
 シンジは翼を見せていた。
 白い光が揺れている。とても大きな翼だった。
 片羽だけでもシンジより大きい。それが壁も、シンジが連れている二人組もすり抜けて、ゆっくりと羽ばたき揺れていた。
「シンジ!」
 ヴェリリュンヌは殺意を込めて名を呼んだ。
「やってくれたね!」
「…………」
「あんたのおかげでご破算だよ!」
「ヴェリリュンヌさん……」
「勝負しな!」
「なんで!?」
「落とし前をつけるんだよ!」
 ヴェリリュンヌは剣をかまえた。
「いいかい? 間抜けはわたしさ。あんたが危ないってことはわかってたのに、子供だと思って油断してた。でもね? このままじゃ終われないんだよ」
「だからってどうして僕と!」
「やったんなら責任持てっていってんだよ!」
 びりびりと空気が震えた。
「手出ししたんなら最後まで責任持ちな! それが最低限の礼儀ってもんさ! こっちは最後の賭だったんだよ! こんな中途半端で投げ出されてたまるかい!」
「だからって!?」
「終わりをわたしに与えなよ! それができないなら手を引きな!」
「でも僕は!」
「ガキの戯言(たわごと)なんて聞きたくないね! こっちは教団相手に博打うってんだ! このままじゃ間抜けのまま死ぬしかないんだよ! わたしを殺しな! できないなら死にな! このままじゃわたしはなにもできず、なにも果たせずに終わるだけなんだよ!」
「死ぬ気の人を殺せませんよ!」
「だったらあんたが死ぬんだね! 来な!」
 そのシンジの苦しげな表情を間近に見て、ラーナはなにかシンジについての印象が間違っていたのではないかと気が付いた。
 口にできるほどのものではなかったが。
「レイ!」
 シンジは叫んで飛び降りた。
 がしゃんと踏み出す音がして、ヴェリリュンヌたちは気を奪われた。
 ガシャンガシャンと走り出す。待てとも言えない。こんな巨大なものは止められない。
 その上にふわりと舞うようにシンジが翼で浮き上がる。
 ──銃声。
 羽根を散らしてシンジが落ちた。
『シンジ!』
 数メートル行ってしまってからレイは巨人の足を止めさせた。
 シンジは重力に引かれるままに地に落ちていた。
 誰がやった? 捜して皆は加持に気づいた。彼は両手に握った銃から硝煙を立ち上らせていた。
「加持師!?」
 ラーナは身を乗り出して叫んだ。
「生きて!?」
 加持はちらりと見ただけで、シンジにポイントを合わせ直した。
「あんたなにするんだい!?」
「所長は黙っててくださいよ」
 加持は恐ろしく低い声で口にした。
「所長のいうとおりですよ。俺を、ラーナを巻き込んで、なんの落とし前もつけずに逃げるつもりか? シンジ」
 シンジは右腕に力を込めて、必死の形相で上半身を起こした。
「加持さん……」
 誰もが二人のやり取りに息を呑まされた。
「お前が俺を憎んでなくても、俺はお前がかなり憎いよ」
 加持は静かに語っていった。
「なぜなら俺は、自己犠牲って奴を信じてないからさ。吐き気がするね。所長に取り入って村を守ろうとして、争いの種になりそうなものは持ち出してしまって、それで村がもとの静かな村に戻ると、君は本気で思ってるのか?」
「だって……僕は」
「ふざけるな!」
 一喝する。
「立派だな。立派だよ! だがその結果所長の一族はどうなる? 教団での立場は? 貴族社会での立場は!? 子供にしては立派だが、責任の取れないようなことをするんじゃない!」
『子供に無茶言わないの』
 加持は巨人を見上げ、臆することなく口にした。
「子供のくせに生意気を言うなよ」
『大人のくせに大人げない』
「親だといったろ? どんな教育をしてるんだ?」
『う……』
「責任を取りきれる人間なんていないさ。でもな、大人ってのは少なからず自分が取れる責任の範囲ってものを知ってるもんなんだよ。それを超えて取れるという奴は見栄をはってるつまらない奴だし、その内側にこもってる奴はやっぱりつまらないままで終わってく奴だ」
 立ち上がったシンジへと言い放つ。
「所長への責任はどうする? 所長が責任を取らなきゃならなくなったのは君のせいなんだぞ!?」
「僕は……」
「そのくせ村は守りたい。村の人間は救いたい? 偽善もたいがいにしろ!」
「だったらどうしろっていうんですか!? ヴェリリュンヌさんを殺せっていうんですか!? そんなことできませんよ!」
「どうして!」
「好きだからに決まってるじゃないですか!」
 シンとなる。フッと笑ったのはヴェリリュンヌだった。
「おどきよ」
「所長……」
「たたき落としてくれてありがとうよ」
「ヴェリリュンヌさん」
 彼女はシンジの前に立つと、切っ先を突きつけた。シンジの右の太股が赤く染まっていることに気が付く。
「痛いかい? でもねぇ……わたしの胸はもっと痛いんだよ」
 シンジには答えられなかった。
「わたしの股ぐら……覚えてるね?」
「ヴェリリュンヌさん」
「惜しいね……あと三年も経てば、わたしがもらってあげたのに」
 彼女は剣を振り上げた。
「『純白』ではない者が翼を持つことは許されないんだよ!」
「ヴェリリュンヌさん!」
 振り下ろされた刃の狂気に、再び現れた翼が突風となり、やめてよと叫んで彼女の体を突き飛ばした。
 それは一瞬のことだった。閃光に飲み込まれたとしか見えなかったが、次の瞬間にはヴェリリュンヌの体は、キングスカッシャーの瞳の高さにまで舞い上がっていた。
「ヴェリリュンヌ様!」
 誰かが叫んだ。彼女の従者だった。
「シンジ!」
「あ……」
 シンジは動けずにいた。
 本能的な拒否感が勝手に働いてやってしまったことだった。
 割れた石畳の間に落ちた彼女の体は、鎧の重さゆえか跳ねることもなくそのままになった。
 ぴくりとも動かない。
「あ……ああ……あ!」
 シンジの瞳から涙があふれる。
「あああああ!」
 背から光が溢れ出して屹立した。
『いけない! シンジ!』
 皆が逃げ出す。
「いくぞ!」
 ツェペリが肩を貸してフォークを連れ出そうとした。彼の脳裏にはあの村でのことがよぎっていた。
「シンジ!」
 加持は銃を向けて乱射した。
「加持さん!」
 あなたが殺したんだ! そんな責任転嫁の言葉を吐く。
「加持さんがみんな悪いんだ!」
 それでも加持は銃を撃ち続けた。マガジンを替えてさらに撃つ。
「人を殺すのが嫌なら、世界の片隅ででも生きていればいいんだ!」
 銃弾はシンジの体数センチ手前で、なにか密度の高いものにぶつかったかのようにうねって止まる。
「君が関わりさえしなければ!」
「僕はただここで暮らしてただけだった!」
「ならなぜ止めなかった!? ヴェリリュンヌを止めることも、彼女が好きなら手伝うこともできたはずだ! なぜなにもしなかった!?」
 ──反吐が出る。
「なにもしなかったくせに、犠牲精神だけ払っていい子になって、自己満足を抱いて喜んでいるつもりだったのか!? だったらもう一つ教えてやる! チャナはどうする!?」
 ──光が消えた。
「シンジは悪者だった。本当は好きだったのに悪者だった。悪者じゃないって信じてたのに裏切られた。そんな気持ちを抱いて生きていくことになるんだぞ!? そんな子がどんなに歪んだ子になるのかわからないのか!?」
 少しは想像しろと加持は責めた。
「自分一人がこれで好いと思っていたって、なにもうまくはいかないんだよ! そういうことがわからないからこんなことにもなるってことを!」
「うわぁああああああああ!」
「ヒステリーなんて!」
「加持師!」
 加持は大声に硬直してしまった。
「ラーナ……」
 ラーナは身を乗り出して泣いていた。
 落ちそうになりながら、かぶりを振ってやめてくださいと懇願した。
「シンジ……」
 加持はシンジへと視線を戻した。
 シンジはうずくまるようにして泣いていた。
 うっく、ひっくとしゃくり上げていた。
 それはひ弱な子供そのものだった。
「加持リョウジ……」
 呻くような苦しげな声に、加持は振り返ってヒュウと唇を吹いてしまった。
「生きてたんですか」
「残念なことにねぇ……」
 ヴェリリュンヌは従者を押しのけ、一人で立つと、紐をほどいて鎧をがしゃがしゃとその場に落とした。
 右足を引きずるように歩き出す。
 そして加持の脇に来たところで口にした。
「ガキへの説教に人を利用すんじゃないよ」
「こりゃまた……お見通しで」
「チャナだったか? ちっ。わたしより可愛いのかい」
「俺はあなたの方が好みですけどね」
「……守備範囲の間違いだろう」
 ヴェリリュンヌはさらに進んで、シンジの前で止まった。
「ヴェリリュンヌ……」
 シンジは最後まで言えなかった。
 ゴッと殴り飛ばされたからだ。うぇ……と痛みを想像した加持が顔をしかめた。
「あんたは!」
 ヴェリリュンヌは脇腹の痛みをこらえてしかりつけた。
「ガキならガキらしくしてな! 大人ぶるんじゃないよ!」
「ヴェリリュンヌさん……」
「はい! だろうが! この!」
 もう一発頭を小突こうとして……彼女は前のめりに倒れ込んだ。
「ヴェリリュンヌさん!」
「馬鹿が……」
「ヴェリリュンヌさん!!」
 彼女はシンジに支えられたままで、その言葉を最後に気を失ってしまった。
 加持は言った──ゴドルフィンとホリィの二人に。
「それから俺たちの腐れ縁が始まったのさ」と。



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新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAX の作品です。
この作品は上記の作を元に創作したお話です。